ややこしいが単純な話について

現代人の最大の失望は、世界が自分たちが直観したように「複雑に見えても結局は単純」ではなかったことだろう、とおもう。

数学ではP=NPなどと呼ぶが、実際のところ、世界は天才たちがPを求めて、必死になって血眼になればなるほど、NPで埋めつくされているのが判って、「美しくない」世界であることが、ほぼ判明してしまっている。

しかも、どうも人間の言語は、多分、発生時の世界が狭小に過ぎたせいで、まったく宇宙を把握することに失敗していて、えーと、どんな例を挙げればいいかな。

そうだ。

折角、日本語で書いているのだから日本の人の例を挙げよう。

志村ー谷山予想、という言葉を聞いたことがある人もいるでしょう。

なんだか日本語が急に変調してしまったが、まあ、いいや。

そう、ワイルズ先生たちが、フェルマーの最終定理を証明にこぎつけるための決定的な救いの手になった理論です。

志村ー谷山予想の内容は、簡単に述べることが出来て、要するに

「すべての楕円曲線はモジュラーである」

と言えばすむが、なんのこっちゃ、になるほうが正常な人間だと思われるので、自然言語で、どの程度説明できるのか判らないが、ぼんやりでも判るように、やってみようとおもわなくもない。

楕円曲線は、曲線とは言い条、楕円や曲線とは、あんまり関係がありません。

方程式のことです。

日本の人は、自分の気に入らないと、とすぐに怒る人がおおいので、ほんなら、なんで、そんな人を惑わすような名前を付けるの!

と怒り出す人がいそうだが、単純に歴史的な理由なんです。

y^2=x^3+ax+b

ちゅうような恰好の、この方程式が、もともとは楕円や惑星軌道の長さを計算するものだったことに由来している。

話を判りやすくするために、まず二次元空間で説明すると、完全に円い平皿を上からみると、

このお皿は、どんなふうに回転させても、同じに見えるはずで、ずんずん回転させても、ちょっとだけ回転させても、相変わらず円いお皿で、

見え方が変わらないので、これを「円は回転に対して高い対称性を持つ」なんて、言い方をします。

普段の会話で、「おい、あの無柄の白い皿、どこいった? 回転変換に対して極度の対称性を持っているやつ」とか、奥さんに尋ねる旦那がいたら狂人だが、探している皿を頭のなかでイメージするときにテーブルクロスに直交するx軸とy軸が脳内プリントされている人くらいなら、いなくもなさそうな気がする。

x軸とy軸で座標が決まる二次元でなくて、それぞれの軸を複素数目盛りにした4次元での対称性がモジュラーです。

そんなん知らんわ、と、いきなり、ここで読むのをやめてしまう人もいるだろうが、もうちょっと読んでみてもいいかな、と思う人が現代では思いのほか多いのはオランダの画家、マウリッツ·エッシャーのせいでしょう。

ほら、こんなやつ。見たことがあるでしょう?

円の外縁に行くに従って繰り返される絵柄が無限に小さくなってゆくような、こういう絵を数式であらわすことが出来て、というと、ちょっと乱暴だが、数式をグラフ化することによって視覚的に同じ性質のグラフィックと了解できる数式を記述することが出来て、

「時計算」の綽名で知られる計算のルールで一定の操作を繰り返すと、まったく異なる意図を持つ数式から、まったく同じ数列を得ることができます。

谷山豊と志村五郎から説明を受けた人は、そ、そんなバカな、とおもったでしょう。

でも、どうやら、ひとつの楕円曲線には、それぞれひとつ、関連づけられるモジュラーがあるらしいと判ってきて、大騒ぎになってしまった。

発見者の片割れ志村五郎は、「ではきみは、いくつかの楕円曲線とモジュラー形式は関連付けられると言うんだね?」と言われたとき、天晴れにも、即座に「いえ、『いくつか』ではなくて、すべての楕円曲線です」と言い切ったそうです。

 

閑話休題

 

ああ、ちかれた。

読んでいて判ったとおもいますが、これは、なんだか空恐ろしくなるような話で、まったく連関があるとも見えないふたつの宇宙が一対一で対応しているという。

しかも、この志村=谷村予想を、後年、(アンドリュー·)ワイルズが証明してしまいます。

ほら、へんでしょう?

よく考えみると、こういうことは、本来人間にとっては「あってはいけないこと」だったはずです。

これに限らず、数学という言語は自然言語よりも、少し言葉が届く範囲が遠くまで広がっているので、自然言語によって培われた直観が、実は根本的に世界の認識に失敗していることを、よく教えてくれます。

どんな例がいいか。

そうだな。

例えばカントールは、無限個の自然数の世界において、自然数の個数と、直感的には、その半数であるはずの偶数の個数が同じであることを証明してしまった。

当然、奇数という要素も、自然数全体と同じ個数です。

なんだ、それ、とおもうが、論理的に手続きを踏んで認識してゆくと、世界はたしかに「自然数全体の個数」=「偶数の個数」で出来ている。

こういうことは、たくさんあります。

だから数学は嫌われる。

あ、いやいや、だから自然言語による世界への認識は、信用できないのだとおもいます。

ふふふ。

なんで、こんな記事を書こうとおもったかというと、なんだかヘンな時間に目が覚めてしまって、

福島の「処理水」放出についての日本語のやりとりを眺めていたら、

「科学が証明したから安全だ」と言い募る大集団がいて、傍目には、はっきりいって「ご都合科学」と呼びたくなるような、胡散臭い足場に立って、威丈高に「ダイジョブだああああ」と叫んでいるひとびとを見ていて、情けなくなってきたからです。

日本語社会は、たしかに、科学が発達した国です。

日本の人の数学や理論科学におけるセンスのよさは疑いようがない。

でもね、「科学的正解」を棍棒のように振りかざして「危ないんじゃないの?」と小さな声で述べている人たちを、大声で嘲笑いながら、ぶったたく行為は、非科学的どころか、野蛮人のやることでしょう。

知性のかけらも感じられない。

もちろん、この傾向は、日本語社会に限ったことではなくて、「先進国」というおもえばヘンテコリンな名前で呼ばれる世界の至る所で見られる現象ではあります。

飛蝗みたいなものなのかも知れない。

あれ、イナゴでなくてバッタだそうだけど。

トランプを大統領に戴いて以来、いまや、気の毒にも世界一のアホな国と呼ばれるアメリカ合衆国でいえば、トランプサポーターがいて、Qアノンがいる。

ニューヨーク検事局が企図した、例のちゃん文化男の逮捕は、なんだかうまくいっていないように見えるが、他の捜査対象に対しても、夥しい数のアンポンタンがいて、手を焼いているようです。

「陰謀論」という、デブPなる日本語を習得してなかなか達者なわし友は日本語でこれを間違って「陰毛論」と呼んでいたが、それはともかく、ディープステートだのなんだのと、みんな見えないおまえが悪いんだ、と結論付ける傾向は、世界に広がって、例えば欧州でも、自他共に「わし賢い」にこだわるドイツなども、社会として、かなり危険な精神状態にあるようです。

どうして、ことここに至ったかというと、「人間の理解の限界を越えて世界が複雑になりすぎたから」以外の理由を考えるのは難しい。

正当な推論や論理の積み重ねを、いくら聞いても判らないので、またまた余計なことを言うと、アインシュタインも初めて量子論と出会ったときに述べた言葉は、つまりは「キモチワルイ」で、そのヘンのバカタレなネトウヨみたいだが、現代の世界を見て説明されても「キモチワルイ」人が、たくさん増えて、ええい、もうめんどくせえから世界は陰謀で満ちていることにしちまえ、という理性が手のひらで両耳をおさえて悲鳴をあげることにしてしまったように見えます。

もっかは理性は土俵際に押しまくられて徳俵に足がかかって顔を真っ赤にして唸っている、巨大力士にのしかかられたチビ力士、くらいのところに追いつめられている。

異なるいい方をすると、大衆社会という枠のなかでは、フランス革命以来、自由社会が追究してきた「理性の時代」は終わったように見えます。

これから、なにが来るのか。

そんなことは、わしは知らん、では酷いが、もうちょっと事態を見ていないと判らない。

悲観も楽観もない場所で、ほんとに人間(わし含む)って、あたしバカよねえ、オバカさんよねえ、

複雑さと出会ったその日から、陰謀論の奴隷になりました、(←以上、昭和演歌)というか、

考えて見ると、こういう状況では20世紀的な理知論なんて、無効になってんじゃないの、と考えています。

じゃあ、どうするのか!

これからね、Company of Heroes IIIの戦場マップを作るところなんです。Labour weekendですから。

(「え? いつも遊んでばっかじゃん」、とか言わないよーに)



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2 replies

  1. 真実は、「人間が作った数学体系では現実の複雑性を記述できない」だろう。

    細胞分裂、DNAからタンパク質生成、臓器機能の発現といった生命の仕組みをはじめ、
    市場参加者の行動が市場を変え、その変化自体が参加者の意思決定に影響する金融市場など、
    複雑な現実の機構を、公理と論理の積み上げでできた数学という言語は記述できない。

    そもそもが「自然数の無限級数は-1/12」などという有様で、
    ライト兄弟の初飛行から数十年で有人月面着陸を果たしても(そもそも着陸したのかという陰謀論はさておき)、
    その数十年後にはまだ大衆が国家に従属しているような後進性をみせる種族にはお似合いの言語だろう。

    高度な確率論を用いずとも単純な Python によるシミュレーションでモンティ・ホール問題が理解できるのと同様、
    世界の理解には数学は必ずしも必要ない、どころか、複雑な世界を単純なモデルに落とし込む(込まざるをえない)数学は害悪でさえある。

    数学による世界への認識は、もはや信用できない。

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