pixivは2023年6月13日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴
pixivは2023年6月13日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴
優しい陽だまりのような光が笑っていた。
鮮やかな花の海の中で微笑んでいるのが一等似合う人だと思った。
正義の国と謳われるフォンテーヌの水中に位置するメロピデ要塞。そこは国の法廷の管轄外にあり、自治によって成り立っている場所である。太陽の光さえ届かない深い水の底、罪を犯した者たちが行き着く地。人によっては地獄にも、天国にもなり得る地だという。
そのメロピデ要塞の管理者であるリオセスリは、若くしてその座に就き公爵という肩書きをも手にした。彼の明敏な頭脳、人の心を掌握し頂点に君臨する才、囚人が束で襲いかかっても敵わない固い拳。それらは並大抵の者ではこのような地を治めることはできないと、苦言を呈してきた者たちを尽く黙らせるには十分な力だった。
そんなリオセスリには、実は婚約者がいる。
と言っても、愛し愛され一緒になることを未来に望み、幸せな想いを抱いて契りを交わしたわけではない。
相手はいないのかね、早く決めた方がいい、私の娘はどうだろうか。顔もよく思い出せないお偉方と話をする時、大抵そういった類の話になる。水の上は本当に難儀だ。気に食わなくても何百、何千と使ってきた拳で早期解決を図ろうと思ってはならない。だからその代わりにひらりと蝶のように躱すか、または言葉で捩じ伏せるしかなかった。
しかし諦めの悪い連中というのはどこにだっているものだ。元々囚人であり、今も暗く冷たい水の底で生きている自分に、よく娘を差し出そうなどと思えるものだと感心すらしてしまう。だがそうやって愚痴を零してもこの状況が変わるわけではない。いい加減嫌気が差し、辟易としていたリオセスリは考えた。ほんの少しだけ自棄になっていたのかもしれない。
うっかり拳が出てしまう前に何か手を打つか。そこで偶然目についたのが──彼女だった。そう、あの時のリオセスリにはたったそれだけの理由だった。
そして長い間、今の今まで放ったらかしにしていた自覚はおおいにある。確か、物静かで綺麗に笑う女性だった。リオセスリの記憶にはたったそれだけしか残っていない。しかしそんな大人しい女性でも我慢の限界がくれば、いつかこの水底まで怒りと共に拳を握り締めやって来るだろう。
リオセスリは自身のその予想に確信すら持っていた。しかし──それはあくまで、「婚約者」としての彼女の話である。
「…お久しぶりです。公爵様」
この地にそぐわない鈴の音のような耳障りの良い声。少しでも力を入れて抱き締めてしまえばバラバラに砕けてしまうのではないかと危惧するくらいに華奢な体で、綺麗にお辞儀をする姿。
リオセスリの婚約者である女は、彼の予想通りメロピデ要塞へと姿を現した。しかしその様子というのは彼が予想していたものとは幾分もかけ離れていたのだ。
怒りを携え拳を握ってなどいない。目尻を吊り上げ、こちらを睨むこともしない。リオセスリを見つめる瞳には、激情どころか熱すらもなかった。波紋すら広がらない水のようにただ静かに、来たるべき時を待っているようだった。そしてその細い手首には──しっかりと嵌められた罪の証。
リオセスリは久しぶりに自身の婚約者のことを──「囚人」と成り果てた女の顔をまじまじと見つめることになったのだ。
公爵様の婚約者が罪を犯してメロピデ要塞へと来たらしい。
そのことは瞬く間に要塞内へと広がった。何をやらかしてここへ来たんだとか、婚約破棄は免れないだろうとか、公爵様はこのことをどう思っているんだとか、暫くはその話題でどこも持ちきりだった。なんなら囚人だけでなく看守もその話をしていたくらいだ。
そして誰もが予想していた。きっと婚約者の女は公爵様に刑期を短くして欲しい、婚約を解消しないで欲しいとみっともなく縋り付くのだろうと。いいところのお嬢様がこんな劣悪な環境に身を置けるわけがない。一分一秒でも早くこんな場所からおさらばしたいと思っていることだろう。
ならばと、婚約者の女がいつ彼の執務室に突撃しに行くか囚人たちは面白がって賭けを始める。今日だ、いいや明日だな、誰か行かないに賭けろよ、馬鹿かよそりゃあ金をドブに捨てるようなもんだぜ!?
大いに盛り上がったその賭けは、結果として一番面白くない形で終わった。だがその結果は要塞内にかつてない衝撃をもたらした。賭けに勝った者は誰一人としていなかった。だから誰もが信じられないと首を横に振り、女の正気さえも疑う。
そう、女がここへとやって来てから三日、そして一週間が経った今でも。公爵の執務室に足を運ぶ素振りはない。こんな場所に居られるわけないと声を上げて駄々を捏ねるどころか、何のトラブルも起こさず、ただ日々の仕事をこなし静かに生活をしている。
その姿はまさに模範囚そのものだったのだ。
◇
「そこのお前。公爵様がお呼びだ」
女がメロピデ要塞に来てから二週間が経とうとしていた頃。いつものように仕事を終え、食堂へと向かう途中で女は看守に呼び止められた。途端にザワつく周囲に溜め息が漏れそうになるのを堪え、「分かりました」と小さく頷く。
今ではだいぶ少なくなったが、ここへ来て間もない頃は人に会う度に何をやらかしてこんな場所にブチ込まれたんだとか、公爵とはどのくらい親しいのかと根掘り葉掘り聞かれて心底うんざりしていた。そして自分の存在が想像していたよりも大したことがないと分かると、あからさまにつまらなさそうな顔をして去って行く。
確かに刺激を求めて話しかけてきた人らには物足りなさしかなかっただろう。最初はほんの少し罪悪感など感じた時もあった。しかし勝手にハードルを上げられ、期待して損したと勝手に失望される回数が両手両足の指の数では足りなくなってくるとどうでも良くなるというものだ。
看守に案内された大きな扉を、下から上へと視線を上げてゆっくりと眺める。とても厳格で重そうな扉だ。自分が押して動くだろうか。
眺めるばかりで入ろうとはしないからか、「公爵様を待たせるな」と隣で苛立つように看守が急かす。女は素直に謝罪をし、扉に手をかけた。こんな扉であればノックしても聞こえないだろう。
見た目通り重たい扉だ。しかしゆっくりとだが動いてくれたので、無事に中に入ることに成功する。すぐに自分を呼んだ彼の姿が現れると思っていたが、見渡す限りは影も形もない。その代わり上へと続く階段を見つけ、これが執務室に繋がっているのかと理解する。
カン、カン、カン。階段を登る度に鉄と靴がぶつかる音が響く。何故だか断頭台へと登っているかのような気持ちになる。会うのはこの要塞へ初めて来た日以来だ。緊張していないと言えば嘘になるだろう。
そして階段を登り切った時、女は椅子に腰掛けている男の姿を見つけた。全てを覆い隠す夜のような漆黒の髪、服の上からでも容易に分かる鍛え上げられた体躯、こちらの罪を見透かすかのようなファウンテンブルーの瞳。
「ようこそ。婚約者殿」
心の内を易々と悟らせない柔らかな表情、落ち着いたテノールの声。このメロピデ要塞を牛耳る最高責任者である男に、女は深々と頭を下げた。
「おっと。そう畏まらないでくれ」
「どういったご用件でしょうか、公爵様」
淡々と告げる女に対し、男──リオセスリは立ち上がり大袈裟に肩を竦める。
「案外せっかちなんだなあんた。立ち話もなんだ、座ってくれ。紅茶はいけるクチかい?」
「はい…まぁ」
「それはよかった。丁度昨日いい茶葉を仕入れたんだ。砂糖とミルクは?」
「…どちらも少し」
「了解」
紅茶を入れるリオセスリの手元を見ながら、女は恐る恐るソファーに腰を下ろした。慣れている、随分と手際がいい。いつも自分で用意して紅茶を飲んでいるのだろうか。そんなことをぼんやりと思っていると、あっという間に目の前に紅茶が差し出される。
そのままじいっと見つめられ、女は居心地が悪そうに少しだけ顔を顰めた。気まずさに細かな装飾が入った美しいカップを手に取り、口元まで運ぶ。うん、とリオセスリが小さく頷く。まさか紅茶の感想を待っているのだろうか。
飲む前からふんわりと香る良い匂いがこの紅茶の価値を教えてくれる。こくりと一口飲み、女はほぅと柔らかな息をついた。
「…美味しいです」
「その言葉が聞けて何よりだ」
満足したのか踵を返し、リオセスリは元々座っていた場所へと腰を下ろした。紅茶を飲んだかと思えば机に頬杖を付き、またもやじいっと女を見つめる。
「あんた、父親を裁判にかけた後、自分のことも裁いてくれと頼んだんだって?」
女は躊躇うことなく頷いた。彼の言うことに何も間違いがなかったからだ。
「多少お咎めはあっても自己申告なんてしなきゃここにブチ込まれることはなかっただろうに」
「そうかもしれないですね」
「…何がしたい? あんたはどんな目的があってこんな水底まで来たんだ」
女はカップの中の紅茶を眺める。綺麗な色の表面はゆらゆらと絶え間なく揺れている。それはまるで二人の間に流れるなんとも奇妙で複雑な空気のようだった。
公爵が自分を呼び出した意味をようやく理解した。何かやらかすつもりではと疑われているらしい。
「目的も何も私は罪を犯しました。父の罪を知っていたのに何もしなかった、止めなかった。黙認も立派な罪でしょう。だからここへ来ました、ただそれだけです」
「なるほどねぇ…」
含みのある返答に女は僅かに目を細める。
「…ヌヴィレット様の審判結果に不服があるのですか?」
「いや? あの人は何時だって公正だ。満に一つだって不満はない」
「ならどうして、」
「俺の婚約者殿はあくまで何も話す気はないんだなと、悲しくなっただけさ」
なんだそれは。それこそ微塵も思っていないくせに。零れ落ちそうになった溜め息を紅茶と共に腹の底にしまい込む。
婚約者であっても、それは名ばかりの肩書きに近い。だからもちろん手放しで信じてくれるような関係は築いていない。そうなるとリオセスリの反応は、この要塞の長として至極真っ当なものだ。
だが女はもう辟易としていた。ただ自分は贖罪をしながら静かに生きて、早くここを出たいだけだ。何も企てたりなんかしていない。自分のことなんて放って置いてくれればいい。
──今までもそうだったみたいに。
「その呼び方、やめていただけませんか」
リオセスリは僅かに眉を上げる。
「何故?」
「何故ってもう婚約は解消されてますよね」
「してないが」
「ですよね。なら…って、は?」
女は固まった。おかしい。今、自分が考えていた答えとは真逆の答えが聞こえた気がするのだが。
「してないと言ったんだ。まだ俺とあんたの関係は続いてる」
「ど、どうして」
「する必要がない。それだけだ」
「あるでしょう!」
思わず女は立ち上がり大きな声を上げた。そんな女の様子を見て、不快そうな表情を浮かべるどころか楽しそうに口角を上げたのはリオセスリだった。
「やっと澄ました顔が崩れたな」
肩を揺らして笑うリオセスリを睨み、苛立ちに拳を握り締める。
「…冗談の度が過ぎてます」
「別に冗談じゃない」
「意味が分かりません。私は罪人です、私を婚約者のままにしておくメリットこそないと思いますが」
「あんたは余程婚約を解消したいように見える」
「ええ。今すぐにでも解消したいです」
女の前のめりになる言葉にあくまでもリオセスリは冷静だった。ゆっくりと立ち上がり、一歩、また一歩と女へと歩み寄る。
「いいだろう。だが──」
──コツ。
眉間に怒りを刻む女の前でその足を止め、ファウンテンブルーの瞳で見下ろす。何を考えているのか全く読めない瞳だ。しかし、自分にとって有益なことを考えているわけではないことを女は重々理解していた。
負けじと目の前の男を睨み上げる。彼の口角は下がるどころか上がった。
「条件がある」
リオセスリのその言葉に、女は更に拳を強く握る。こんな状況下で出される条件など、どう考えても碌でもないことに決まっている。しかし頷く以外の選択肢はない。自分がそうするしかないと、この男は分かっている。女は怒りと共に深く息を吐いた。
「条件とはなんですか」
「なあに簡単なことだ。週に一回、俺とこうしてお茶を飲んでくれればいい」
「…は?」
「丁度、世間話をしながら美味しい紅茶を飲む相手が欲しいと思っていたところでな。一応婚約者としてあんたがここでちゃんと生活できているかも気になる。何も難しいことじゃないだろう?」
なるほど、と女は思った。気遣うような素振りを見せているが、実際はこの要塞内で起きていることを把握しておきたいということだろう。だから囚人である自分にお茶会と称してここで起きていることを喋らせると。
前に噂で聞いたことがある。この男は何も知らないわけではなく、大抵のことは黙認しているだけなのだと。そうやって水の底を掌握し続けているのだと。
「…期間は私がここを出るまでですか」
「ああそうだ。あんたが刑期を終えたら婚約を解消してやる」
「分かりました。公爵様の条件を呑みます」
「賢明な判断だ」
す、と差し出された手。それを少しだけ見た後、女は自身の手をその大きな手に重ねることはせず「では今日はこの辺で」と、碌に感情もこもっていない言葉を投げかけ階段へと歩みを進めた。ぱちぱちと何度か瞬き、行き場を失くした自身の手を見てリオセスリは可笑しそうに肩を揺らす。
「今度会った時はその堅苦しい敬語はなしだ」
「……」
「あと呼び方も。前は名前で呼んでくれただろ?」
楽しそうに目を細めているリオセスリに対し、女は苦虫を噛み潰したかのような表情を浮かべる。随分と昔に一度だけ顔合わせした時のことを言っているのか。あんな昔のこと、どうして覚えているんだか。
はぁ、と心底嫌そうに息をつく。こんなに一癖も二癖もある人だとは思わなかった。
「…分かった」
カツ、カツ、と音を鳴らし階段を降りていく。これからは週に一回この階段を上り下りすることになる。段々と気分が沈んでいくが、自分の刑期が終わるまでの辛抱だと思えばいい。そしてこの水の底から出る時、自分は本当の自由を手に入れられる。そう思うと何だって耐えられる気がした。
この判断が自身をどう変えていくのかなど女には分からない。しかし少なくとも、自由を掴むための一歩なのだと信じてやまなかった。
──だから、この選択をしたことで、何もかもが変わってしまうなど。今まで生きていた自分の人生の色を全て描き変えられてしまうような、そんな未来が訪れることなど。
この時はまだ、想像もつくはずがなかったのだ。
◇
「あら、公爵。随分とご機嫌ね」
自身の執務室の椅子に座り書類を見ていたリオセスリは、いつの間にかぴょこぴょこと階段を上ってやってきたこの要塞の看護師長──シグウィンに視線を向けた。
「そう見えるかい?」
「そうね、そう見えるわ。あの子のことでしょう?」
ぴょんとソファーに座り、足をぶらぶらとさせながらシグウィンがにこりと笑う。僅かな表情の変化でも感情を読み取ってしまう彼女に、あの子とは?というすっとぼけは時間の無駄だろう。リオセスリは肩を竦めて「看護師長には隠し事はできないな」と眉を下げて笑って見せた。
「彼女と週一回、お茶を飲むことにした」
「まあ! それはいいことね!」
「ただ、彼女には随分と嫌われたよ。看護師長の思い描く未来はやってこないだろうな」
「まあ! なんてこと…」
とびきり嬉しそうにしたり、この世の終わりのようにしょげたりと百面相の如く表情がころころ変わる。見ていて飽きない。
「公爵! 諦めちゃダメよアタックしなきゃ!」
「アタックねぇ…」
「このまま婚約を解消するなんて悲しすぎるもの!」
「だがな看護師長。正直俺は婚約を解消してもしなくてもどちらでもいいんだ」
パラパラと書類を捲りながらリオセスリは呟く。好きか嫌いかと問われれば正直どちらでもない。彼女に強い執着があるわけでもない。
「でも公爵」と。こてん、と首を傾げながらシグウィンは口を開く。
「あの子に興味があるのは確かよね?」
──興味。興味。その言葉を胸の内で何度か繰り返し呟いてみる。じいっと自分を見つめる、期待に満ちたその瞳についさっき隠し事はできないとボヤいたのは誰だったか。書類を捲る手を止め、リオセスリは気怠そうに頬杖をついた。
「……まぁ、否定はできない」
久し振りに会ったかと思えば囚人になっていた婚約者。父を裁判にかけ、自身も裁かれることを望んだお嬢様。刑期を短くしてだとか婚約を破棄しないでだとか一切泣き付くことはせず、ただ模範囚のようにここでの生活を受け入れて静かに生きている変わった女。
もし、自分に媚びるようならその時はすっぱりと関係を断ち切るつもりでいた。だが彼女はそのような行動を取るどころか、婚約を解消して欲しいと頼んできたのだ。それにはリオセスリも些か驚いてしまった。
メロピデ要塞という一つの自治体を取り仕切っている公爵の妻。その地位に一体どれだけの価値があるだろうか。それに加えて夫となる男は、地上へと上がればたちまち女性の熱い視線を集めてしまうほどの色男。その地位を、彼を、喉から手が出るほど乞う人も少なくはない。なのに彼女はあっさりとその地位を捨てようとしている。
「気難しい猫を手懐けようと躍起になる感覚ってこういうものなんだろうさ」
だから──興味が沸いた。彼女が本当に望んでいるものは何なのか。どんな女なのか。もっと知りたくなった。
「ふふ、楽しくなりそう。ねっ、公爵」
弾んだ声が冷たい鉄だらけの部屋に響く。ふ、と鼻にかけたような笑みをこぼして、リオセスリはゆっくりと目を細めた。
逃げられれば逃げられるほど追いかけたくなる。追いかけて、追い詰めて、逃げ場をなくして。そうして──。
最後に見せる表情が一体どんなものなのか、知りたいと思う。
◇
約束通り、必ず週に一回公爵の執務室でお茶会が開かれるようになった。最初は警戒し常に尻尾を逆立てている猫のような状態だった女も、回数をこなす内に出された紅茶の茶葉がどこのものか聞くくらいにはリオセスリに心を開いた。
約束を交わしたあの時こそ最悪の印象だったが、お互い普通にしていれば話は合う。紅茶の好みも割と似ているらしい。そもそもこうして一緒にお茶を飲むだけで刑期が終われば婚約も解消される約束だ。それなら無駄にいがみ合い精神をすり減らす必要もない。無難な距離感を保てばいいのだ。
ただ一つ、ちょっとした悩みがあるというなら相変わらず要塞内で自分達の噂が飛び交っていることだ。どうにかならないかと思うが週に一回、男の部屋に女が向かいそれから暫く出てこないとなるとどんな噂をされているのか想像がつく。
ただでさえ娯楽が少ない水の底で下世話な話は格好のネタだろう。実際はお茶を飲んでいるだけだが、それをわざわざ要塞内を走り回って伝えるのも苦労するし何より面倒だ。大変不名誉ではあるがここを出るまでの辛抱と割り切るしかない。こういうのは無視するのが一番だろう。
(…なんというか)
人の心を掴むのが上手い人だなと女は思った。恐怖、恍惚、憧憬、どんな感情を抱くにしろ、一度視界に入ってしまえばたちまち放っておけない存在になる。若くしてこの地の責任者を任されているのも合点がいく。
きっとこの人の婚約者を辞退するのは、世間にとって、一世一代の好機をみすみす逃すことくらい信じられないものなのだろう。その人が誰もが目を背けたくなるような、この国の罪が凝縮された地を納めていたとしてもだ。
だが、それでも関係を断ち切りたかった。もう一度水の上へと戻り、本当の自由を手に入れるために。
「どうした? ボーッとして」
「…ううん、なんでも」
カップの中でゆらゆら揺れる紅茶を眺めながら、女は小さく息をつく。
「そういえばずっと気になっていることがあるんだけど」
「なんだい」
「…どうして貴方は隣に座っているの」
ちらり、とあからさまに嫌そうな視線を寄越す。そんな視線など気にもせず、リオセスリは女の隣でその長ったらしい足を組み優雅に紅茶を啜っている。女の口端がひくりと動いた。
「俺だってたまにはこっちのソファーに座りたくなることだってある」
「はぁ…」
「なんだ、ドキドキして紅茶の味も分からないから困るって?」
「今日はこれでお開きかな。さようなら」
「ああ待て待て。冗談だ悪かったよ」
さっさと立ち上がろうとする女に静止をかけ、リオセスリは持っていたカップをソーサーの上に置いた。
「あんたがここに来てもう二ヶ月は経つ。その間にあんたの父親からの接触はないか?」
「貴方が出してくれた接近禁止命令のおかげで今のところは。…本当に有難いと思ってる。父は私のこと殺したいほど憎んでいるでしょうし」
「違法薬物をあちこちに横流ししてたんだっけか? そしてその証拠をあんたが集めて警察隊に突き出したと」
「そう」
「人一倍警戒心が強かったと聞いている。一人で証拠を集めるのは骨が折れただろう。誰かに協力を仰ごうとは思わなかったのか?」
女は小さく首を横に振る。
「私の周りには信用できる人が誰もいなかったから」
「……」
自分に好意的でも、もしかしたら父の仲間かもしれない。誰かを信じ誰かを信じないという疑心暗鬼の状態で常にいるよりも、最初から誰も信じない方がはるかに楽なことに気づいたのだ。
薄い沈黙の中、女は静かにカップを傾ける。今日の紅茶も自分好みで美味しい。
「この選択に後悔はしてないよ。私の家は没落してもう何もないけれど、この方が新しい気持ちで人生をやり直せるんじゃないかって思うから」
ふふ、と静かに笑んだその表情に、リオセスリは一瞬固まった。
昔、どこかで見たような気がする。優しい陽の光が照らす水の上で浮かべられた、柔らかな微睡みのような微笑みを。その微笑みを浮かべ、穏やかな風の中で静かに、なのにいつまでも耳に残る心地よい鈴の音で紡がれた自分の名前を。
ああ、あれはそうだ。水の底などあまりにも似合わない女だと腹の底から笑った遠い昔の日。彼女と初めて会った時の──
「リオセスリさん?」
不思議そうに問いかけてくる声に、首を小さく横に振る。
全てを投げ打って生まれ変わることを願った女。だから公爵の婚約者という地位さえも捨てるつもりなのだと、ようやく納得がいった。
芯のある女だ。貴族のお嬢様だというのに着飾らない性格。会話のテンポも心地よく、長々と話をしていても苦にならない。紅茶の趣味だって合う。
素直に応援してやりたいと、思う。このまま何事もなく刑期を終えさせて婚約を解消し、さっさと陽の光の下に返してやりたいと思う。
──だが。
「あんたならやり直せるさ」
ぽん、ぽんと小さな頭をリオセスリは優しく撫でた。こんな劣悪な環境にも関わらず柔らかな絹のような美しい髪だ。肩を跳ねさせ危うく紅茶を零しそうになった女に、まさかそこまで過剰な反応をされるとは思わなかったリオセスリは至極楽しそうに笑い声を上げた。
一方、即座にソファーの隅っこまで後退した女は、険しい表情で距離を取った。警戒心が限界突破している猫の爆誕である。さっさと立ち上がり、階段を降りて部屋を出て行かなかっただけまだマシだろう。
「俺なりの激励のつもりだったんだが。全く初心な婚約者殿だ」
「……」
「そう怒るなって。お詫びに今度あんたの好きな店の茶菓子を買ってくる。それで許してくれないか?」
「…ナッツたっぷりのクッキー、ショコラのフィナンシェ、バブルオレンジのシフォンケーキ」
「分かった分かった。全部買ってくる」
大袈裟に両手を上げ、降参のポーズを取る。あれだけ険しかった表情は段々と和らいでいき、「約束ね」と薄い唇が楽しそうに声を弾ませる。
陽の光が突然差し込んだわけでもないのに、リオセスリは眩しさに少しだけ目を細めて微笑んだ。
優しい陽だまりのような光が笑っていた。
鮮やかな花の海の中で微笑んでいるのが一等似合う人だと思った。間違っても暖かさを全て忘れてしまったようなこんな冷たい鉄の中にいるべき人ではなかった。
いつの間にかじんわりと心を溶かされて、曝け出た中心部をやさしく撫でていく。手を伸ばして掴んで、そのまま抱きしめてずっと離さずにいられたのなら。
リオセスリは、自分の中で芽生えつつある気持ちに顔を背けるような無駄な悪足掻きはしない。いずれこのような穏やかで平和な時間が終わってしまうことを、段々惜しいと思っている。
そして。この気難しい猫のような婚約者になら心を預けてもいいと──そう思っている。
◇
女がメロピデ要塞に収監されてから三ヶ月が経った。仕事と食事と睡眠の基本的なルーティンに週一回のお茶会。最近では噂されることも少なくなり、ここでの暮らしにすっかり溶け込んでいる。
ここへ来る前はもっと酷い環境なのだと思い込んでいた。食事も碌に与えられないまま長時間働かされ、看守の目のないところでは弱い者が強い者に虐げられ、毎日殴られた場所を擦りながら固いベッドで丸まって眠る。
しかし実際は全然違った。食事は必ず一回は摂れるし、仕事もサボれる日を作れる。罪人同士の喧嘩は多々あっても、反吐が出るような治安の悪さではない。
なにせここには目も鼻も効く恐ろしい獄犬がいる。どんなに屈強な輩であってもここで暫く過ごしていれば、誰を怒らせない方が利口的な生き方なのか嫌でも分かる。
それが分からない奴から幸せも安寧も、自身のありとあらゆる矜恃を奪われていく。そうしてこの水の底からも見放された時にようやく、自分がいかに愚かだったのかに気づくのだ。
確かに水の上と比べれば、ここは劣悪な環境に違いないだろう。しかしここで生活をしているのは、罪を犯し、暖かな陽の下から追放された罪人たちだ。このくらいの劣悪さがなければ、今頃ここは大量の罪人で溢れ返っていたに違いない。
「…あと、三ヶ月か」
指折り数え、自身に課せられた刑期を思い出す。あっという間に半分が過ぎている。このまま平和に刑期を終えて地上に出られるのかもしれない。そう思うだけで子供のようにドキドキして胸が高鳴ってしまう。
水の上に出たらまずは何をしよう。生クリームたっぷりのショートケーキを食べたい。沢山可愛い服を買って、なけなしの貯金を崩して他国に行ってみたい。
女はこの水の底が一体どういう場所なのか忘れかけていた。自分に不幸が降りかかることなど滅多にないと鷹を括り、気を緩めてしまっていた。なんなら、自分が牢獄送りにした父のことさえも最近は頭から抜け落ちていた。
決して忘れてはいけなかった。罪を犯し国を追放された罪人が詰め込まれる場所、そう、ここは善人よりも悪人の数が圧倒的に多い水中監獄なのだと。
「おい、」
名前を呼ばれて振り返った瞬間、女は強い衝撃と共に勢いよく床に倒れ込んだ。突如襲いかかる強烈な痛み、ちかちかと光が走りうまく定まらない視点、脳が揺れている感覚。顔を殴られたのだ。その力の程度は、女が痛みに動くことも喋ることもできず、ただ蹲っていることで概ね理解できるだろう。
穏やかな平和から一気に現実に引き戻された心地がした。明らかに平和ボケしていた、どう考えても油断していた。
痛む頬を押さえながら女は恐る恐る顔を上げる。そこには恐ろしい形相で自分を見下ろしている一人の男が立っていた。
「…お父、様」
最後に会ったのは裁判の時だ。あの時から随分とやつれ、自分が犯した罪を反省するどころか凶悪さが増しているように思えた。どうやって監視の目を潜り抜けたのかは知らないが、おおかた特別許可券でも看守にたっぷりと握らせたのだろう。そんな貴重なお金を娘をただ殴るために使用する辺り、最低最悪な性格は変わってないのだと呆れさえした。
しっかりと拳を握り締め肩を上下させ、ふーっふーっと荒い呼吸を繰り返している。憤怒を具現化したかのような男に、思い出したくもない過去が脳裏をよぎる。
母が家を出て行ってからずっとそうだった。いつも気に食わないことがあればこうして暴力をふるって、ナイフよりも鋭利な言葉で延々と罵倒されて、自分という存在を徹底的に踏み躙られて。全てを人のせいにする人だった。
「お前の…お前のせいで俺の人生はおしまいだ!」
ほら、今もこうやって。足蹴にされ、冷たい床に体を打ち付ける。
「…なんだその目は。何か言いたいことでもあるのか!?」
心底不快そうに父が喚く。水の上にいた頃には履いたこともないだろう草臥れた靴で娘の肩をぐりぐりと床にねじ込むように押し付ける。
家の中ではただ自分を襲う嵐が過ぎ去るのを体を丸めて震えて待つしかなかった。だけど今はもう何もかもが違う。ここは助けを呼ぶ声も届かない、全てを覆い隠してしまう家ではなくメロピデ要塞で、自分の目の前にいるのは逆らうことのできない父ではなく自分と対等の罪人なのだ。
「…いえ」
震える唇をきゅっと横に引く。この震えはほんの少しの恐怖と武者震い。女は滑稽でどうしようもない男をしっかりと見据え、嘲笑うかのようにほんの少し口角を上げた。
「ただ、いつものように責任転嫁をされるんだなと思って」
娘の反抗的な態度に男の顔は即座に怒りで真っ赤になった。娘如きが父を愚弄するなど!と鼻息を荒くした。「この親不孝の恥知らずが!」一瞬にして正気を失った男は女に馬乗りになる。そして彼女の胸元を力任せに掴み、躊躇することなく拳を振り上げたのだ。
「──恥知らずはどちらの方だか」
しかし、その拳が女に振り下ろされることはなかった。娘のものでも父のものでもない第三者の声が突如割り込んできたからだ。
「は…ど、どうして」
男は怒りで体を震わせるのではなく、今度は恐怖で震わせた。もし、この場に現れたのがその辺にいるような看守であれば無視してそのまま娘を殴っていただろう。
しかしそうしなかった──いや、できなかったのはこの場に現れたのが看守などではなく、あろうことかこの地の管理者である男だったからだ。
「こ、ここ、公爵様!」
あまりにも情けない声でその人の呼び名を叫ぶ。公爵と呼ばれたその男はゆっくりと靴を鳴らし二人に近づいていく。ふと、地に倒れている女と目が合った。頬は赤く腫れ、肩が薄黒く汚れている。何があったのかは聞かなくても分かった。
「ひぃっ!」
女に馬乗りになっていたままの男の胸ぐらを掴み、公爵──リオセスリは軽々と男の体を持ち上げた。大の大人を片手で持ち上げてしまうその握力に恐怖が助長されたのか、あれだけ真っ赤にしていた顔は見るも無惨な青色になっている。誰が見ても滑稽だと、そう思わざるを得ないだろう。
じたばたと宙でみっともなく暴れる男を少しだけ眺め、リオセスリは容赦なく地面に叩き付ける。地中深くでさえ届いてしまうような恐ろしく鈍い音がした。
「うぐっ、!」
「あんたは彼女に近づくなという言いつけを破った。これは当然の報いだと思わないか?」
「た、助けて…もう近づきませんから、助けて!」
「助けを乞いかったのはあんたじゃなく彼女だ」
「こ、こいつが悪いんです! こいつが私に舐めた態度を取るから! だから私は、ヒィッ!」
ドン!と、男の真横で大きな音がした。頬を掠めた鋭い風、真横に見える逞しい腕。自分を見下ろすのは凍てつくような冷たい瞳。
「あんたも態度には気をつけるんだな。次に無駄口を叩いたら今度こそはこの拳があんたの顔面めがけて飛んでいくかもしれない」
「あ、ああ…」
完全に意気消沈した男を一瞥し、「連れて行け」と近くにいた看守に命令する。救えないほどに馬鹿でどうしようもない男だ。家族になる可能性だってあった男。しかし温情など与えてやるつもりはない。
ずるずると引きずられるようにして連れて行かれる男を呆けたように見つめていた女は、ふと目の前に差し出された大きな手に視線を向けた。
「大丈夫か?」
先程自身の父と接していた時とは打って変わって、優しさと温かさが滲み出ている声だ。その落ち着いた声にようやく緊張が解けたのか、忘れていた痛みが身体中に襲いかかる。小さく頷いたものの、起き上がることすら困難だった。
そんな様子の女を見て、リオセスリは差し出していた手で彼女の肩を抱き、ゆっくりと体を起こした。
「まずは手当だ。医務室に行こう」
確かにこれは我慢できそうな痛みではない。立ち上がろうと頑張って足に力を入れた次の瞬間、女の体は宙に浮いていた。なにも力を入れすぎて勢い余って飛んでしまったとか、そんなわけではない。何故かリオセスリに抱きかかえられたのだ。
「ちょ、ちょっと!?」
あまりの衝撃に女の声は見事に裏返った。しかしその恥ずかしさよりも今は抱きかかえられている恥ずかしさの方が圧倒的に勝っている。
「ひ、一人で歩けるから、早く降ろして」
「あんたを歩かせてたら日が暮れる」
「大丈夫だから、怪我そこまで酷くないし」
「そうかいそうかい」
「……」
ダメだ、完全に右から左で聞く耳持たずだ。彼の逞しい胸板を精一杯押し返しても超巨大なマシナリーかと疑うくらいびくともせず、虚しい悪足掻きで終わる。そしてあまりにも堂々と人が多い道を歩いていくものだから、お陰様で周囲の視線は独占状態だ。
はぁ、と両手で顔を覆って女は深い息をつく。
「また変な噂されるでしょうね…」
「噂なんて勝手にさせておけばいい。そもそも俺たちは婚約者同士だ、何の問題もないだろう?」
したり顔で笑うリオセスリに、女は諦めたように眉を下げて目を伏せた。大アリだが?といくら反論したところで降ろしてくれそうにない。
──力強い腕だ。そして上品な香水の香りに仄かに混じった紅茶の香りがそっと鼻を擽る。不快には思わない、むしろどこか落ち着く香りだとも思う。
今回彼が居合わせたのは偶然などではないだろう。守ってくれている。今の自分は婚約者というよりも罪人で、それもここを出れば全くの赤の他人になるというのに。
律儀で、人に心を砕くことのできる優しい人だと思う。でも彼の優しさが心の縁をそっと撫でて擽るから、どういう反応をすればいいのか分からなくなる。
嫌ではない。だが、このままその優しさを受け入れてしまうのは怖い。漠然とした予感が胸をざわつかせる。
もしこのまま受け入れてしまえば。何の躊躇いもなく、踏み込むことを許してしまえば。取り返しがつかないような、自分の何かを滅茶苦茶にしてしまうような何かが起きてしまうのではないか──
「看護師長はいるか」
あっという間に着いた医務室に、お目当ての人物の姿はあった。机に向かっていたシグウィンはリオセスリに抱きかかえられた女を見て最初こそは「まあ!」と破顔したが、女の腫れた顔を目敏く見つけると「どうしたの!?」と血相を変えて駆け寄った。
「とりあえず治療は完了よ。暫くは安静にして頂戴ね」
「ん、ありがとうシグウィンちゃん」
数十分後。ベッドに腰掛ける女の膝をぽんぽんと叩いてシグウィンはにこりと微笑んだ。幸い、脳に異常はなく、踏まれた肩も叩きつけられた背も骨折はしていなかった。ただ暫くは動かすと痛みが出る箇所があるだろうと言われ、それだけで済んでよかったと女は心の中で安堵する。
「終わったか?」
「うん、もういいわよ」
医務室の隅で壁に背を預け瞳を伏せていたリオセスリは、シグウィンの肯定の言葉にゆっくりと女に歩み寄った。送り届けた後にすぐに退室すると思っていたが、忙しくはないのだろうか。
「看護師長。彼女と二人で話がしたいんだが少し席を外してもらえるか?」
「ええ、どうぞ。ちょうど取りに行かなきゃと思ってた薬があるから行ってくるわね。彼女をお願いね公爵」
「ああ、恩に着る」
ぱたぱたとあっという間に部屋からいなくなったシグウィンを視線で見送った後、目の前に立った男をゆっくりと見上げる。どこかもの哀しげな表情だ。何かを、悔やんでいるような。
リオセスリは彼女の向かいのベッドに腰を降ろし、ガーゼが貼ってある痛々しい顔をじいっと見つめ、やがて口を開いた。
「悪かった」
「え?」
突然謝罪をしたリオセスリにわけが分からず女が首を傾げる。心当たりがない。一つだけあるとすればあれだけ制止したにも関わらず横抱きにされてここまで来たことだが、そのこととは考えにくい。物凄く楽しそうだったし。ああ考えると少し腹が立ってきた気がする。
「あんたが怪我を負ってしまった責任は俺にある。接近禁止命令を出したからといって正気じゃない奴は、どんな手を使ってでも接近しようとする。これは防げた事故だ」
「あ…」
両膝に手を置いて頭を下げるリオセスリに、女は胸が締め付けられるのが分かった。
やっぱり律儀な人だ。この人は何も悪くない、悪くないのに。変なところは驚くくらい誠実で、そして苦しくなるくらい優しい人。
「…リオセスリさん」
「なんだ」
「助けてくれて本当にありがとう。貴方が助けてくれなかったらきっと、このくらいの怪我じゃ済まなかったと思う」
「いいや、俺が気をつけていればそもそもあんたは怪我をしなかった」
「父は悪知恵ばかり働くの。だから遅かれ早かれこういうことになっていたと思う。いいの助かったんだから。だからもうこの話は終わり。ね?」
「……分かった」
肯定の言葉を口にしつつも全く納得していない険しい表情を見て、女は苦笑する。
「なあ、一つ教えて欲しい」
「ん、なに」
す、とリオセスリの腕が伸びてくる。その手は女の細い腕に辿り着き、彼女の許可も得ないまま服の袖をたくし上げた。途端に消えた女の笑顔。晒されたのは古い傷が何箇所もついたボロボロの白い腕。
気づいたのはさっき抱き上げてここまで来た時。きっと腕だけじゃない、足、腹、背。彼女の体中の至るところに苦しめられた傷が残っているはず。
「…暴力をふるわれたの、初めてじゃないだろ」
女は何も言わなかった。首を縦に降るなり横に降るなりの意思表示すらもせずただ視線を落とした。しかしこの場合の無言は、肯定という意思表示だと捉えてもいいだろう。リオセスリはあからさまに顔を歪める。
「…どうして、言わなかった」
──どうして、なんて。縮こまった膝の上に置いていた両手をぎゅっと握る。
きっと彼が言いたいのは、この要塞に来てからどうして言ってくれなかったのかではなく、それより前に、どうして婚約者として言ってくれなかったのかということだろう。
今こそよく話をする仲にはなったが、ここに来る前は最初の顔合わせ以来何の交流もしていなかったのだ。そんな中で突然婚約者から「肉親から暴力を受けている」なんて打ち明けられても困惑するしかないだろう。下手をすればそんな相談をしたことが父に伝わり、余計に酷い目に遭っていたかもしれない。だから名ばかりの婚約者に相談をする、という選択肢は最初からなかった。そもそも考えたこともなかったのだ。
「…前にも言ったでしょう。信用できる人なんて、頼れる人なんて誰一人としていなかった」
「…そうしてあんたは一人で耐えてきたのか」
「そう。でも貴方が責任を感じることじゃないよ。誰が周りにいても私は父を裁判にかけるまで一人で戦うつもりだったから」
「……」
ほんの少しだけ眉を下げて笑う女にリオセスリは深く息をつく。
今、彼女に怒りを感じている。だがそれ以上に情けなくてどうしようもない自分に腹が立って仕方がない。
分かっている、彼女が相談しなかった理由くらい。頭ではそれをちゃんと理解しているのに、それでも考えれば考えるほど胸の内がモヤモヤと不快感で溢れる。
どうして自分に言ってくれなかったのか。どうして自分を頼ってくれなかったのか。
彼女に馬乗りになっているあの男を見て、怒りで一瞬我を忘れそうになった。彼女を傷つけるものをこの世から全てなくさなければと拳が震えた。
何度も経験したとしても暴力など、か弱い女性が一生慣れるものではない。耐え難いような恐ろしい思いをしたのだろう。抱き上げてからも暫くは体が震えていたから。ぎゅっと抱き締めてもう大丈夫だと慰めてやりたかった。
日に日に彼女の存在が大きくなっていく。自分の予想を尽く覆していく彼女に惹かれている。簡単には懐かない猫のような気難しさも、自ら裁判にかけられここへと来た誠実さも、この場所に不釣り合いな優しく穏やかな笑顔も、彼女を形取る全てのものが眩しくてどうしようもない。だから触れようと手を伸ばしたくなる。
「俺にあんたを守らせてくれないか」
それは切実な願いだった。え、と驚くような表情を浮かべる女を見つめるその瞳は、ただひたすらにどこまでも真っ直ぐだった。絶対零度の氷のようなのに、その奥には燃え盛る炎が垣間見える。いつものようにふざけて言っているわけではないことを女はようく理解した。
「あんたにとって重荷なのは分かってる。だがせめて、刑期を終えてここを出るまで守らせて欲しい。もっと俺を頼って欲しい」
「…もう、もう十分頼らせてもらってるよ。それに今までだって守ってくれていたでしょう。これ以上は、」
「いや、あんたは今までずっと一人で戦ってきた。今から人に沢山頼って生きてもバチなんて当たりゃしない、そうだろ?」
そっと、左頬を覆うガーゼに触れる。びくりと女の肩が小さく跳ねた。少しでも力を入れれば割れてしまう、薄い氷の膜に触れるかのように優しい手つき。だがその指が孕んでいるのは、分厚い氷さえも一瞬で溶かしてしまいそうな灼熱。
女は狼狽えた。今までこんなにも真剣に、茹だるような熱をぶつけてくれる人なんていただろうか。
「わか、らない」
「なにがだい?」
優しい声色に心の奥がきゅっとする。握り締めていた拳にそっと温かで大きな手が触れた。その手がゆっくりと拳を開いていく様をただ見守ることしかできなかった。まるで閉じた心をそっと開いていくかのように、そうされることをこの人に望んでいるかのように。
「貴方はどうして、こんなに私によくしてくれるの?」
解かれた拳。手のひらと手のひらがぴったりとくっつき合って、お互いの温かさを分かち合う。安心する体温だ。できることなら全てを包み込んで欲しくなるような、そんな欲が出てしまう温かさだ。
だが。女はそっとその温かさを拒む。
「私たち、あと少しで何の関係もなくなるのに」
ぽつりと溢れたその言葉が真実であり、覆せない未来。そう、約束した。今だって名ばかりの肩書きだが、ここを出る時にはそれすらもなくなっている。全くの赤の他人になる。自分がまた罪人にでもならない限り、交わらない人生をこれから一生歩んでいく。
「…そうだな」
リオセスリは今ここで、その真実を嘘にする提案をすることも、未来を覆す行動を起こすこともできた。だがどちらもしなかったのはまだ迷っているからだ。
眩しい陽の光の下が似合う彼女をこんな暗くて冷たい水の底に閉じ込めてしまってもいいのか。自分本意の欲で彼女の一生を台無しにしてしまってもいいのだろうか。
ただ、彼女の幸せを願っている。彼女に襲いかかる脅威は全て取り除いてやりたい。彼女に不用意に近づけば恐ろしいことが起きると知らしめてやりたい。そうして彼女がいつまでも屈託のない優しい笑顔でいられるように、温かなものだけが彼女の周りを取り囲むように。
「今まであんたを助けられなかった俺の贖罪だと思ってくれればいいさ」
拒まれた手をそっと引く。その手のひらには彼女が到底抱えきれないような愛が存在している。いつかこの愛が手に負えなくなったその時は、彼女を傷つけて縛り付けてしまうかもしれない。
そうして彼女の全てを奪って、手に入れて、その時の自分は一体どんな凶悪な顔をして彼女を腕の中に収めているだろうか。その辺にいる罪人よりよっぽど恐ろしく、悍ましく、そして愚かな男に成り下がるだろう。
そうならないように理性という鎖は強固にしておかなければならない。
「ほら、もう休むといい。まだ痛むだろう?」
子供を寝かしつける時のような優しい声色に、女は戸惑いながらも小さく頷いた。リオセスリが立ち上がれば、ベッドに上がった女は不安そうに彼を見上げる。行かないでと懇願する猫のようだ。ふ、と目を細めてリオセスリは微笑む。
「寝付けるまで傍にいてやろうか?」
「い、いや、いい。そういうのじゃなくて…」
枕に頭を預けた女の体にそっと毛布をかけてやる。何とも言えない表情をする女に、心が鮮やかに色づいていくのが分かった。自分はこんなにも単純な男だっただろうか。
「無理しないでね」
「無理?」
「貴方って妙なところは頑固だから私が何を言っても守ってくれるんでしょう? だから自分で言うのもなんだけど…私のことで無理はしないで。貴方はいつものように執務室の椅子で踏ん反り返りながら紅茶を飲んでいるのが一番よ」
「…ほう? つまりあんたの中の俺はいつもそんな感じだと」
「そうだけど?…って、ふふ、あははっ。冗談だよ、そんな怖い顔しないで」
くすくすと笑う女の頭をこれでもかと撫で回す。より一層笑い声が増せば、リオセスリもつられるように笑い声を漏らした。
優しい陽だまりのような光が笑っていた。
鮮やかな花の海の中で微笑んでいるのが一等似合う人だと思った。間違っても暖かさを全て忘れてしまったようなこんな冷たい鉄の中にいるべき人ではなかった。
いつの間にかじんわりと心を溶かされて、曝け出た中心部をやさしく撫でていく。手を伸ばして掴んで、そのまま抱きしめてずっと離さずにいられたのなら。
鼓膜を撫でる心地よい鈴の音のような声が、薄く色づいた桃色の唇が、自分と同じ気持ちを言葉にしてくれるのなら。
その時はきっと、この世界の中で自分が一番の幸せ者なのだと胸を張って言えるのに。
◇
女がここへ収監されて五ヶ月と半月が経った。父に負わされた怪我も今ではすっかりと完治し、いつもと同じルーティンをこなして過ごしている。
あれから何か、明確に関係性が変わったわけではない。しかし週一回のお茶会がたまに二回に増えることがあった。常に隣同士でお茶を嗜むことになっていたし、出されるお茶もお茶菓子もいつの間にか全て自分の好みになっていた。はっきりとした言葉はたったの一度も口にはされなかったが、時折自分を見つめる甘い視線、彼から醸し出される優しくて柔らかい雰囲気。ほとんど恋愛をしたことがない自分でも確信してしまう態度は、度々女を翻弄した。
好意を向けられていると、思う。最初は罪悪感から優しくしてくれているのかとも考えたが、それならキャラメルのように甘ったるい視線を向けられる理由が分からなくなる。
嫌だとは思わない。不快感もない。ただ、どうすればいいのかと困惑してしまう。
とても頼り甲斐のあるやさしい人だ。周囲からはよく恐ろしいと言われているのを耳にするが、あの人はよく笑うし、その笑った顔は思わず頭を撫でたくなるくらい可愛い。撫でたらどんな仕返しが返ってくるのか想像もしたくなくて、行動に移したことはないけれど。
そして責任感が強く、誠実な人。過去にあった父の暴力に責任を感じる必要なんて本当にないのに心を痛めて、そして守らせて欲しいと申し出てくれた。
自分には勿体ないほどの人だと思う。だからこそ傍にいることに充実感を感じ、たいして隠されない好意にときめいて、心を震わせる。この人のことが好きなのだと、感じたこともない柔らかくて温かな感情が教えてくれる。これが恋なのだと、分かった瞬間の戸惑いと高揚はきっと一生忘れられないだろう。
だが、女は迷っていた。この想いを伝えてもいいのだろうか。
きっと互いに同じ想いを抱いている。それなら婚約を解消しなくてもいいのではと思う。
「……」
女はゆっくりと左腕の服の袖を捲り、自身の腕につけられた数々の暴力を眺めた。
切り傷に火傷、未だに刻まれた父の理不尽。雨が降るとたまに痒くなったり痛む傷は、この左腕だけにあるものではない。右腕、両足、腹、背に至っては目を逸らしたくなるような大きな傷が何個もある。
酷く、醜いと思うだろう。自分自身そう思うのだから他の人から見てもそう思うに違いない。そんな傷まで愛して欲しいなど言えるわけがなかった。
もし互いに想いを通じ合わせて今後体を重ねようとなった時に、その傷を見て彼は一体どんな顔をするのだろうか。拒絶、嫌悪、同情。「萎えた」と言われて、平静を保っていられる自信はない。
恋をするまで、受け入れられない想いがこんなにも怖いものとは思わなかった。
彼が、いつまでも元気であって欲しいと思う。大きな事件もなく、ただ穏やかに紅茶を飲む日々が訪れてくれればと願う。
例えそこに自分の姿がなくとも、彼が幸せでいてくれたらと、心の底から思う。
「あのクソ野郎! 舐めたマネしやがって…!」
ふと、聞こえてきた怒号に女は思考の海から引きずり出され、そちらの方へと静かに視線を向けた。そこにいたのは何人かの男たち。確か最近ここに収監されたらしい乱暴な男たちだ。気分が優れないからと八つ当たりのようにその辺にいる人を殴ったり、つい先日は看守とまで乱闘したらしい。
「どうした?」
「リオセスリですよリオセスリ! アイツだって昔はここの囚人だったクセに偉そうな顔して説教垂れやがって…!」
なるほど。見かねたリオセスリにお灸でも据えられたのだろうか。いい気味ではと女は心の中で思う。
「あのスカした顔をブン殴ってやりてえ!」
「公爵だかなんだか知らないがお偉いさんは毎日豪華なアフタヌーンティーをして書類と睨めっこするのに必死なモンだから、自分の拳が豆腐のように柔らかくなっていることに気がつきもしない。張り合いもないだろうさ」
「お頭の言う通りだ!」
「だが、舐められたままじゃ男が廃るよな?」
「お頭の言う通りだ!!」
ぎゃあぎゃあと盛り上がる男たちがあまりにも不快すぎて思わず顔が歪んでいく。というよりそんな不満を大声で話す辺り、オツムの悪さが露呈している。
このこと、わざわざ伝えなくても大丈夫かな。拳が豆腐のようだと言われた男を思い浮かべながら、女は踵を返しその場を後にした。
男たちが、去っていく自分の背をじいっと見ていたことも知らずに。
◇
刑期が残り一週間となった。
残された時間が僅かだというのに、未だにどの選択をするのか決めかねている。
──「これをあんたにやるよ」
先程お茶会で手渡された小さな機械を眺めながら、溜め息をつく。どうやら大きな音が鳴る防犯ブザーらしい。元はと言えばあのヌヴィレットがシグウィンに渡して欲しいとリオセスリに託した物らしいが、シグウィンはいらないときっぱり断ったそうだ。
それはそうだ、ああ見えて彼女はとても強かで、人のちょっとした表情の変化を読み取れるから危機察知能力も長けている。この国の最高審判官も案外心配性なのかなと少し親近感が湧いたことは内緒にしておこう。
そういうわけでひ弱で危機察知能力も人並みな自分にそのブツが回ってきたわけである。彼が守ってくれているのに別にいらないのではと思ったが、どうやらこのあと明日まで水の上にいるらしく念の為に持っておいてくれと念押しされた。そこまでされれば突き返せるわけがない。彼も案外、心配性らしい。
人通りが少ない道を通り、自身の部屋へと向かう。今日はシグウィンの元で一夜を過ごす予定だ。心配性の誰かさんがそうしてくれと言って聞かなかったからである。
そういうわけで必要な物を取りに帰る必要がある。シグウィンには自分の気持ちなどとっくにバレていて、きっと今日も夜通し聞かれるに違いないが、こうして恋の話を友人にすることなどなかったから楽しみにしている自分もいる。
「……?」
ふと、足を止めた。視線の先に見覚えのある男たちがたむろしていたからだ。あの男たちはリオセスリを目の敵にしていた人たちでは。こんな人通りの少ない場所で何をしているのだろうか。もしかして悪いことでも考えているのか。懲りない奴らだ。
すると男たちが女の存在に気づく。その瞬間、皆が皆揃って下卑た笑みを浮かべた。気持ち悪さと恐ろしさに女の背筋が凍る。
「おやおや、アンタはあの公爵様の」
嫌な、予感がする。
話の途中で女は駆け出していた。しかしいつから後ろにいたのか、一人の男が楽しそうに道を塞いでいる。このまま突っ込むのは悪手だ、足を止めざるを得ない。
「酷い女だよなあ、話の途中で逃げ出すなんて」
「…っ、何の用ですか」
「何の用? 分からない?」
ケラケラと笑いながら近づいてくる男たちに、女は自身を鼓舞するようにぎゅっと拳を握る。怖がるような素振りを見せれば、それこそ男たちの思うツボだ。
「公爵様にはどうしたって敵わないから私を狙ったのですか? 本当に滑稽ですね」
「んだとこの女…!」
激昂する男たちを冷たい視線で睨む。どこまでも救えない男たちだ。しかし怒り狂った男たちの中に、ただ一人冷静に女を見つめる男がいた。ゾッとするような粘着質な視線に、喉の奥がひくりと恐怖に締まる。
「流石はあの男の女だ。度胸はある」
「……」
「でもそれはポケットにあるブツのおかげだろう?」
にやり、と悍ましい笑みを浮かべた男に、女は反射的にポケットに手を突っ込んでいた。取り出したのはリオセスリから渡されていた防犯ブザーだ。奪われる前に鳴らさなければと震える手でピンを引こうとしたが、後ろから突っ込んできた男の体当たりに吹き飛ばされ、床に勢いよく体を打ちつけた。だが、痛みにもがくよりも先に手を離してしまったブザーを探す。
すぐにブザーは見つかった。しかし、それは既に男の一人の手の中にあったのだ。
「っ…!」
「なんだこれ。こんなちっちゃな機械でオレたちに虚勢張ってたのか?」
「返して!」
必死に手を伸ばすも、素直に返してくれるわけもない。ポイ、と床に捨てられカシャンと虚しい音が響く。女は悔しさに唇を噛み締めた。
「っ、ちっぽけな仕返しのために人生を棒に振るつもり?」
「ちっぽけぇ? お前には分からねぇだろうさ! 男は舐められたら終わりなんだよ!」
「それにオレたちはもうここから出れねえだろうよ。どんなに刑期が長くなっても構わねぇってこった!」
逃げようとする女の体を乱暴に床に押し付け、男たちが痛快とでも言うかのように笑っている。
「他の男に抱かれた自分の女を見てアイツはどんな顔するんだろうな」
「見ものですって、想像しただけで笑いが止まらねえ!」
どんなに力を入れても敵わない。男と女の力の差を嫌というほど痛感する。
彼は今頃水の上だろう。守ってくれる人は誰もいない、自分でどうにかするしかないのだ。
「暴れるなって」
「っ…!」
足を這いずり回る手に鳥肌が総立ち、気持ち悪さに吐き気が迫り上がる。べたべたと容赦なく触る手は彼とは全く違う。彼は繊細な割れ物を扱うかのように優しく触れてくれた。体温だって、こんなにも不快を催すものではなく安心をくれるものだった。
恋をしているあの人と比べる度に辛さと悔しさと恐ろしさが自分を支配していく。上手く息ができず、視界が歪んでいく。怖い、助けてとみっともなく泣き叫んでしまいたいのに、恐怖が喉に張り付いて上手く言葉が出ない。
「(いやだ)」
悪魔が自分を取り囲んで笑っている。涙が頬を伝い、冷たい床にぽたりと落ちる。
「(いやだ、いやだ)」
彼の弱みになりたくない。重荷になんて尚更なりたくない。
「(考えなきゃ、どうにかしなきゃなのに)」
恐怖で埋め尽くされた思考では碌な打開策など浮かぶはずもないのに。
一人の男が女の腹に手を伸ばす。楽しそうに目を細め、強引に服を捲ったその時だった。
「うわ!? なんだこの傷気持ち悪りぃ!」
薄い腹に刻まれた大きな切り傷に男が狼狽えたその瞬間を女は見逃さなかった。覗き込もうとして力を緩めた男たちを力の限り押しのけ、なんとかその場から抜け出す。
「おいテメェ!」
「うっ…!」
しかし咄嗟に足首を掴まれ、痛みに顔を歪める。
「バカかよ、逃げられるとでも思ってんのか?」
「…逃げられるなんて思ってない」
「あ? なら……」
女は笑っていた。この状況で笑みを浮かべていたのだ。とうとうおかしくなったか?と男たちは眉を顰める。しかし、女の手に握られていたものを見て、血相を変えた。
女は言葉の通り逃げられるなど思っていなかった。だから投げ捨てられたブザーに自分の全てを託したのだ。
「おま、」
ブーーーーーーーーーッ!
男たちの制止も聞かず、女は思い切りブザーのピンを引いた。鳴り響くけたたましい音にその場にいた全員が顔を顰め耳を塞いだ。鼓膜が破れそうなほどの爆音だ。
男の一人が女の腕を踏みつけ、その手からこぼれ落ちたブザーを何度も踏みつけ破壊する。しかし破壊してももう遅い。もう既にその音を聞きつけた人々が集まってきている。看守がやってくるのも時間の問題だろう。
「クソッ!」
「ずらかるぞ、流石にマズい!」
床に倒れたままの女を放置して、慌てて逃げ出していく男たち。
無惨に粉々になってしまったブザーを撫で、震える手を見つめる。
終わった。どうにか助かった。なんとかできたんだ。遠くから走ってくるシグウィンを見て、ようやく女は緊張と恐怖で強張っていた顔を緩め、安堵の息を吐いて目を伏せた。
◇
「あっ起きたのね!」
ぱちぱちと何度か目を瞬き、まだ残っている眠気に目を擦った。聞き慣れた声とぱたぱたと駆け寄ってくる足音の方に視線を向けて、ゆっくりと体を起こす。体のあちこちが痛い。
「もう朝なのよ。キミ、あの後手当てしてから死んだように眠っていたから」
「そうなんだ…」
「公爵もちょっと前まではいたんだけど、先にやらなきゃいけないことを片付けて来るって出ていっちゃった」
「やらなきゃいけないこと?」
「キミを襲った男たちのことよ。あの人たちがどうなるか聞きたい?」
にこにこと笑みを浮かべているが逆にそれが怖い。女は力なく首を横に振った。
「いや…なんとなく想像つくしやめとく…」
「それがいいわ。それより具合はどう? 大丈夫?」
「うん、痛みもだいぶ引いたし大丈夫だよ。ありがとうシグウィンちゃん」
「ならよかった! 起きたことも伝えなきゃだしウチ、公爵探してくるね! 部屋の前にはちゃんと警備の人がいるから安心して!」
「うん、いってらっしゃい」
小さく手を振って、またぱたぱたと走っていく可愛らしい姿を見送る。確かに痛みはだいぶ引いたが、未だに男たちの手が体を這いずり回る感覚が残っていて気分は最悪だ。だがあの時ブザーを鳴らすことができなければ、それ以上に酷い未来が待っていた。もしかすると一生消えないトラウマになっていたかもしれない。
「(…はやく、顔が見たいな)」
今、どうしようもなく彼の顔が見たい。彼の顔を見て、彼の声を聞いて、ちゃんと大丈夫だったんだと安心したい。
「…?」
遠くからカンッカンッと何かの音がすることに気づき、女は入り口の方へと不思議そうにして視線を向けた。地面を蹴る音だろうか。物凄い速さでこちらに向かってきているような、
「わあっ!」
ダンッ!地面を踏み締める大きな音に女は驚いたような表情を浮かべて声を上げた。なんなら体も数センチ浮き上がったような気がする。
だがその表情もすぐに安堵の表情に変わった。入り口のところで肩を上下させて息をし、焦りを滲ませた表情で女を見下ろしていたのはリオセスリだったからだ。
階段を一段一段降りるのも煩わしかったのか、その場から飛び降りてきたリオセスリに女はもう一度声を上げた。なんて人だ、こっちの心臓が飛び出るかと思った。
駆け寄ってきた彼の顔を見上げた。汗が滲んでいる、きっとシグウィンから報告を受けて全速力でここまで来てくれたのだろう。
固く握り締められていた大きな拳に気づき、そっと手を伸ばした。ぴくりと僅かに動く気配があったが、拒絶はされない。やるせない思いを宥めるかのように拳を撫で、いつの日か彼が自分にやってくれた時のように、その拳を解いて手のひらと手のひらを合わせる。
やっぱりこの体温だ。この体温だけが自分を安心させてくれる。そして愛おしいと思わせてくれる。女はその手を自分の頬に寄せた。そして心地よい体温に頬擦りをしてゆっくりと目を細めたのだ。
「わたしは、大丈夫だよ」
陽だまりのような光が笑う。
ギシリ、とベッドのスプリング音が部屋に響いた。その音が耳に入った時には、女は何かに強く抱き締められていた。何か、なんて考えなくても分かる。だってこの部屋にいるのは女とリオセスリ、たった二人だけなのだから。
「…あんたが」
「うん」
「あんたが無事で、本当によかった」
華奢な背を摩り、首筋に顔を埋めている。息苦しさを感じるくらい、強く抱き締められている。それはまるでここにちゃんと存在することを確かめているかのようだった。
女はリオセスリの背中に手を置く。広くて大きな背中だ。自分の腕では到底まわらないくらい強く逞しい背中。じわりと染み込んでいく彼の体温が、未だに残っていた恐怖を全て取り除いてくれる。手を置いたからなのか、また抱き締められる力が強くなった気がして女は苦笑した。
いつまでそうしていただろうか。ようやく体が離れ、肩に手を置かれた時、女はリオセスリの表情を見てその顔に手を伸ばす。
「そんな顔しないで」
リオセスリはファウンテンブルーの瞳に影を落とす。自分がどれだけ酷い顔をしているのか自覚していた。彼女に気を使わせてしまうことになることも理解していた。しかしそれでも、この身の奥底から溢れ出る感情を抑えられない。いつもならある程度コントロールできる感情も、今は全ての機能が壊れてしまったかのように制御不能だった。
「すまない」
ぽつりと、リオセスリの口から懺悔がこぼれ落ちる。
「俺のせいで、俺があんたをこんな目に遭わせた」
あの日、守らせて欲しいと懇願した。彼女の身に降りかかる厄災は全て跳ね除けて、彼女が穏やかな平和の中で過ごせるようにと、その手伝いをする権利が欲しいと乞い願った。
なのに現実はこの有様だ。守るどころか彼女を危険に晒した。自分に近い存在だったが故に狙われて、恐ろしい思いをさせてしまった。
自分が許せない。許せなくて殺してやりたいとまで思う。
「貴方は悪くない」
静まり返った部屋の中で一つの声が響いた。リオセスリはその鈴の音のような声に視線を上げた。
「貴方は何も悪くない」
風に吹かれれば消えてしまいそうなくらい儚い声だった。あっという間に波にさらわれて飲み込まれてしまいそうな、そんな小さな声だった。なのにはっきりとした強い意志がその言葉にはあった。
「悪いのは全部、襲ってきた男たちだよ。貴方にはなんの責任もない」
「あいつらは俺に復讐しようとあんたを狙った。あんただって知ってるだろ」
「それでも! 貴方の…リオセスリさんのせいなんかじゃない」
眉を寄せて、唇を食いしばって、首を横に振る。まるで子供が駄々を捏ねるような物言いに、彼女の肩に置いていた手に力が入る。
この先、もし彼女が自分の傍にいてくれたとして。そして今回のように守れずに彼女を傷つけてしまったとして。その度に彼女はこうして貴方のせいじゃないと許そうとするのか。
そんなこと、絶対に駄目だ。行き場のない激昂にリオセスリは目の奥が燃えるように熱くなるのを感じた。彼女のその慈母のような優しさはいつか、リオセスリの牙を削り拳をも鈍らせるだろう。そうして彼女に向けられた危険を振り払うことができなかった時、それで彼女を失ってしまった時、自分は一体どうすればいいというのか。
考えただけで体の底から凍っていくような心地だった。あれだけ色づいた心から色が奪われていく。それが恐ろしく怖い。彼女を失いたくない、幸せでいて欲しい。ただそれだけだ。たったそれだけの願いなのだ。
「…あんたは本当にやさしい人だ」
もう一度彼女を抱き締めて、その体温と柔らかさを心に刻む。女はほんの少し頬を染めてきょろきょろと忙しく視線を踊らせると、やがて幸福を滲ませた顔で嬉しそうに微笑んだ。
優しい陽だまりのような光が笑っていた。
鮮やかな花の海の中で微笑んでいるのが一等似合う人だと思った。間違っても暖かさを全て忘れてしまったようなこんな冷たい鉄の中にいるべき人ではなかった。
いつの間にかじんわりと心を溶かされて、曝け出た中心部をやさしく撫でていく。手を伸ばして掴んで、そのまま抱きしめてずっと離さずにいたかった。
鼓膜を撫でる心地よい鈴の音のような声が、薄く色づいた桃色の唇が、自分と同じ気持ちを言葉にしてくれたのなら、きっとこの世界で一番の幸せ者だった。
彼女の幸せを願っている。そのためならきっとなんだってやれる。
もう二度と彼女の笑顔を見れなくても、ただ彼女が鮮やかな花の海の中で笑ってさえいてくれればいい。
それで、いい。
◇
とある日の明け方。地上へと向かうリフト前にリオセスリと女はいた。
「おめでとさん。刑期を終えた感想は?」
「うーん食堂のレシピをもっと増やして欲しいかな」
「そうかい。シェフに伝えておこう」
くすくすと笑い合い、どちらからともなく真剣に見つめ合う。「あの」声をかけたのは女の方からだった。
「最初にした約束のことなんだけど…」
「ああ。婚約の解消のことか」
女はこくり、と頷き、自身の腹の前で組んだ手をぎゅっと握った。まだ明確な気持ちを伝えたことはないが、自分の気持ちなど彼にはお見通しだろう。それでも緊張するのは仕方のないことだと思う。昨日まで散々悩んで出した結果を胸に秘め、女は今ここに立っているのだ。最後の最後で尻込みしてもどうしようもないだろう。女は潔く決心した。そう女は度胸、どうとでもなる!
「あの、私。それを取り消したく…」
「安心しな。俺の方で解消しておいた」
「えっ」
女は驚きに目を見開く。抑揚も色もない、まるで事務的に発された言葉だった。
「もう俺たちは婚約者同士じゃない。晴れて赤の他人ってことだ」
声の節々に存在していた甘さはない。ファウンテンブルーの瞳に垣間見えていた温かさすらもない。氷のように冷え切った瞳がただ女を見下ろしていた。それはまるで今まで都合の良い夢を見ていたんだと言われているような心地さえして、女は恐ろしさに体を震わせた。
「どうして」
「どうしても何も、これはあんたから提案された約束だっただろう? 俺はその約束を果たした。それだけだ」
明確に突き放されていることを女は悟った。そしてそれを実感した時、次に溢れ出た感情は悲しみよりも怒りだった。
あれだけ視線に愛おしさを混ぜておいて、あれだけ声色に甘さを携えておいて、あれだけ指先に灼熱を灯しておいて何を今更。あれを夢だなんて思いたくない。あれを、一時の気の迷いだったなんて絶対に言わせたくない。
「貴方が好きです、リオセスリさん」
ぴくり、と指先が僅かに動いたのを女は見逃さなかった。
「そうかい。ありがたく受け取っておく」
「貴方は。…貴方は、私のことをどう思ってる?」
ずい、と顔を近づけてその薄氷の瞳に問いかける。ずっと自分を気にかけてくれて、ずっと自分を見守ってくれていた瞳だ。自分を見つめてくれる時に嬉しそうに、そしてどこか眩しそうに少しだけ細くなるのが好きだった。
彼の顔が歪む。その表情にはどこか見覚えがあった。あれは父に暴力を振るわれてそれを未然に防げなかったことを謝罪した時。そして男たちに襲われたことを自分のせいだと悔やんでいた時。
「…そんなの、決まってるだろ」
心を締め付けるような声だった。何もかもを胸の内に閉じ込めて、そうして必死に蓋をして、目を逸らして終わらせることを選んだ声だった。
はく、と口を動かす。しかし名前を呼ぶ前にとん、と肩を押され女は一歩、二歩と後退した。
二人の間に恐ろしく大きな壁が生まれている。これ以上近づくなと拒絶されている。これ以上踏み込んでくるなと、警告されている。
「彼女を地上へ連れて行ってくれ」
「っ、リオセスリさん!」
「これでさよならだ。もう二度とここへは来るなよ」
近くにいた看守に腕を掴まれ、女はリフトへと引き摺られていく。リオセスリはそれを何も言わずただじっと見ていた。彼女の姿をその目に焼き付けるかのように。
元々、住む世界が違ったのだ。だからそれを正しただけ。ひとときの甘い夢の終わりがやって来ただけ。
リフトに乗せられた女がじたばたともがきながらリオセスリを睨む。ああ、できることなら最後に見る顔は笑顔が良かった。そんな願いなど、諦めた自分には不相応なものだと分かっていても。
「この、意気地なし!」
その言葉を最後にリフトは閉まり、彼女の姿は見えなくなった。
これでいい。彼女の幸せを望むならこれが最適解だ。これで、よかったのだ。
「…ああ、そうさ」
俺は意気地無しでどうしようもない男だ。
ぽつりと溢した肯定は誰に聞かれることもなく、冷たい鉄の中に消えた。
◇
「初めまして公爵様」
雲ひとつさえ見当たらない清々しい青が世界を支配している。
そんな青空の下で出迎えてくれたのは、綺麗なお辞儀をし、お淑やかな微笑みを携えた、いかにもいいとこ育ちのお嬢様だった。
自分とはまるで正反対の人だ。人間の汚さや裏切り、醜さと常に生きてきた自分とは違い、綺麗なものや柔らかいもの、自分を傷つけるものなど一切ない場所で生きてきた温室育ちの女。
彼女の父に押しに押され、勢いで婚約したところはある。当時は本当に参っていたのだ。来る日も来る日も婚約婚約と、夢にまで出た時はどうしようかと思った。だから「大人しい娘です、公爵様を煩わせるようなことは一切しませんよ」とプレゼンをされ、それならいいかもなと軽率に契約書に判を押したのだ。
確かに大人しそうな女性だと思う。しかし彼女に水の底など生きていける度胸と我慢強さがあるのか。なさそうだ、早々にこの話はなしになるかもしれない。
「初めまして、こんにちは。俺のことはそんなに堅苦しく呼ばなくていい。リオセスリと名前で呼んでくれ」
できるだけ怖がらせないように柔らかい笑みを浮かべる。するとぱちぱちと女は大きな瞳を瞬き、そしてふわりとはにかむような笑みを浮かべたのだ。
「はい、リオセスリさん」
──優しい陽だまりのような光だと思った。
自身の心が浄化されていくような、そんな温かい笑みだった。水の底に連れて行くべき人ではないと本能的に思った。
だが、その後リオセスリが婚約を解消することはなかった。かといって逢瀬を重ねたわけではない。ペラペラの紙一枚で繋がっていた、か細く今にもちぎれてしまいそうな関係。確かに女除けとしてそのままにしていた節はある。だが、それだけじゃなかった。
きっと今なら分かる。初めて出会ったあの日、向けられた笑顔に。リオセスリは柄にもなく手を伸ばし、渇望し、そして心のどこかで──どうしようもなく惹かれていたのだ。
◇
「あら、公爵。随分ご機嫌ななめなのね」
自身の執務室の椅子に座りつまらなさそうに書類を見ていたリオセスリは、いつの間にかぴょこぴょこと階段を昇ってやってきたシグウィンに気怠そうな視線を向けた。自分とは違い、楽しそうににこにこと笑っている。
「そう見えるかい?」
「そうね、そう見えるわ。どうしてか当ててみせましょうか?」
「いい。看護師長の言いたいことは大体予想がつく」
はぁ、と息をつきリオセスリは小さく首を振った。
元婚約者の女が水の上へと戻ってから一ヶ月が経っていた。あれからと言うもののシグウィンからはあり得ないだとか男じゃないわだとか、ありとあらゆる罵詈雑言を受けている。しかし全て彼女の言う通りなので何の反論もできない。
メロピデ要塞の責任者である公爵に婚約者がいなくなったことはあっという間にフォンテーヌ中に広がった。おおかた、スチームバード新聞社辺りが水の上へと戻った女へと突撃してしつこく聞き出したのだろう。そのせいでまた面倒なお偉いさんの話が舞い戻ってきてしまったというわけだ。
リオセスリは見ていた書類をポイと机上に捨てて肩を竦める。これでは美味しいはずの紅茶も、淹れ方を誤って薄くなってしまった時のように味気ない。
「ね、公爵。ウチにとびっきりの提案があるの!」
机に小さな腕を乗せて楽しそうに頬杖をつくシグウィンに、リオセスリはあからさまに顔を顰めた。
「看護師長。俺は嫌な予感しかしないが」
「あのね、婚約婚約って言われるのが嫌ならまた相手を作って黙らせちゃえばいいと思わない? ウチのお友達に公爵にお似合いの子がいるの!」
ほらきた。彼女の言うとびっきりの提案に思わず頭を抱える。
「…まさかメリュジーヌとか言わないよな?」
「ふふ、まさか! 貴方と同じ人間よ」
「断る。俺はもう婚約者を作る気はない」
「そんなこと言わないで! もう日程は組んであるのよ、明日の午後三時にホテル・ドゥボールに行ってね」
「おいおいいつにも増して強引だな看護師長」
「絶対、ぜーったいに会って欲しいもの。一度だけでいいのよ。ね?」
小さく首を傾げながら大きな瞳で自分を見つめるシグウィンに、リオセスリはやれやれと首を横に振った。自分の魅せ方をようく分かっている。それに彼女とは短い付き合いではない、こちらがどんなに断ろうが首を縦に降るまで延々と言ってくるという確信がある。
「……分かった」
「さすが公爵ね!」
ぱちぱちと小さな手を叩いて喜びを表現する小さな同僚を横目に、リオセスリは薄く息を吐く。さっさと会って適当に対応すればいい。誠心誠意真心込めて対応しろと流石に文句は言われないだろう。
ほんの数ヶ月前までは婚約者という肩書きを、女除けとして使える最適なカードとして認識していた。それがひっくり返ってしまったのは一体いつだったのだろうか。
その肩書きを分け合った女がいた。いずれは自分の妻として隣に立って欲しいと、分部不相応な願いを向けてしまった女がいた。
──「リオセスリさん」
思い出の中の彼女がやさしく、柔らかく微笑んでいる。それを思い出すだけで今もまだこんなにも心が打ち震えて泣きたくなる。いつか、歌を奏でるような心地良い声も、胸の奥がじんわりと温かくなるようなその笑顔も、彼女を形取る何もかもを時間と共に忘れていくのだとしても。
婚約者はもう必要ない。その肩書きを名乗る女などもういらない。
何故ならその肩書きはたった一人、愛した彼女だけが持っていたもので、その事実をこれからも変えるつもりはないのだから。
◇
フォンテーヌ廷にあるホテル・ドゥボール。そこにはこの場所には些か不釣り合いな重苦しい靴を鳴らす水の底の最高責任者がいた。
待ち合わせ時間の約五分前の到着だ。だが、スタッフに案内された個室にはまだ誰の姿も見当たらない。出された紅茶に口をつけながら、顔も名前も知らない相手を待つ。早く終わらせたいんだがとリオセスリはうんざりしたような表情を浮かべた。
メロピデ要塞を出る際に、「いい報告を期待してるね!」とはちきれんばかりの笑顔を浮かべて見送ってくれた彼女を思い出す。薄情なメリュジーヌだ。未だにこころの大部分を占めているのが誰なのかを知っている筈だろうに。なのにもう忘れてしまえと、二度と満たされることのない乾きを別のもので潤してしまえと言う。
彼女の言い分も分からなくはない。恋でついてしまった傷は新しい恋で治せばいい。それはその場で停滞することを止め、前に進むための方法としてよく活用されていることだ。古い書物にも、今時の三文小説にだって書いてある。
それが容易にできるような愛だったのならよかった。海の底よりも深く、青空よりも広い愛でなければ、全てを投げ打ってでも構わないと思えるような恋でなければできたのかもしれなかった。
まだ、愛した彼女の声が鼓膜の内側で自分の名を呼んでいる。何回、何十回、そうして何百回と回数を重ねる頃にはきっと、どんな声をしていたのか忘れてしまうのだろう。どんな声色で、どんな柔らかさで、どんな想いで、
「──リオセスリさん」
そう、こうして己の名を呼ぶ声に、いつかどうしようもなく苦しくなる日が来るのだろう。
それにしてもやけに鮮明に聞こえる幻聴だなとリオセスリは目を伏せながら思った。最近書類仕事ばかりで根を詰めすぎていたから疲れているのか。目頭を指で揉みながら、帰る前に少し体を動かして行こうかと画策する。
あまりにも現実味のある声だった。自分の脳内ではここまできれいに再現されたことはない。なのにそれができたのは単に疲れているからか、それなら自分に感謝をしなければならない。だが、本当にそうだろうか。自分が精神的な病にかかっていないのであれば、あんなにはっきりとした幻聴は聞こえないだろう。
そう、さっきの声はそうだ。まるでこの場にいるかのような──
そこまで考えた時、リオセスリは勢いよく立ち上がった。ファウンテンブルーの瞳をしっかりと開き、いつの間にか入り口に立っていたたった一人の女を視界に入れた。
全身が、震える。言葉では到底言い表せられない激情が自分の身体を、心を、震わせている。もし、感情にかたちがあるとしたならば、今抱いているこの思いはぐちゃぐちゃにかき混ぜられた恐ろしく歪な物体になるのだろう。
病にかかったわけではない。日々の疲れのせいで幻聴が聞こえたわけでもない。
確かにそこに居る。やさしい日差しが降り注ぐ水の上、鮮やかな花の海が一等似合うその人が。
「久しぶりだね」
誰よりも幸せであれと願った、ただ一人の女が。
「…あんた、どうしてここに」
「シグウィンちゃんに頼みました」
「…なるほど。してやられたわけだ」
満面の笑みでピースをしている小さな彼女が脳内に浮かぶ。女はゆっくりと歩み寄り、リオセスリの目の前で足を止めた。深く息を吐く音がする。それは一体どちらだったのだろうか。
「今更赤の他人に何の用だ」
「貴方と話がしたくて来た」
「そうか。生憎だが俺はない」
「また逃げるの」
行く手を阻むかのように立ち塞がる女に、リオセスリは眉間に皺を寄せた。ほんの少しの力で吹き飛ばされてしまうような細っこい体が、どうして自分を止められると思ったのか。
しかし幾人もの荒くれ者たちを屠ってきたリオセスリの手が、彼女を突き飛ばすことはなかった。代わりに敵を威嚇する凶暴な狼のように彼女を睨み、早く自分の目の前から消えろと警告をする。だが、そこまでしても女は微動だにしなかった。それは勇気ある者か、ただの無謀者の行動か。
「あの時のように。私からも、自分の気持ちからも。逃げ続けるの」
繊細で、美しくて、だけど力強さが垣間見える瞳が他の誰でもない、リオセスリだけを見ている。陽だまりというよりは太陽のようだった。近づきすぎれば、あっという間に消し炭にされてしまうような強い光。
何も知らないくせにと奥歯を噛み締める。一体なんのために掴むのを諦めたのか、この女は知らない。
「勝手にそう思ってくれていい。とにかく俺はもうあんたと関わる理由はない」
「そうやって突き放し続ければ私が諦めるとでも思ってる?」
「ああ。さっさと諦めてくれれば有り難いんだが」
「諦めないよ。絶対に諦めたりなんてしない」
「…しつこい女は嫌われるぜ、レディ」
「貴方は私のことを嫌いになったりなんてしないでしょう」
縋るような声ではなかった。それが当たり前の事実かのように自信に満ちた声だった。
「ねえ、自分から遠ざければ私は脅威から晒されることなく平和に過ごせると思った? 私を手放せばいずれ水の上で勝手に誰かと幸せになるとでも思った?」
「……」
「貴方は優しいのに、本当に自分勝手なのね」
しん、と水の膜のように薄い沈黙が二人の頬を撫でる。時が止まったのかと錯覚してしまうくらい何の音もしないその場所に、ふ、と鼻で笑うような声が響いた。薄い薄い水の膜に一滴が落ち、それがゆっくりと波紋を広げていく。
「ああ、あんたの言う通り俺は自分勝手な男さ。だから俺のやりたいようにやった。あんたを守るとか言った約束もその辺の道端に投げ捨てた」
「…私の気持ちなんて聞きもしないで?」
「あんたの気持ち? そんなもん関係ない。ここには水の底では到底生きていけないという現実があるだけだ」
「確かに私の力だけじゃ生きていけないのかもしれない。でも、貴方が守ってくれるって信じてる」
「何回も言わせるな。俺じゃあんたを守れない。せいぜい水の上で幸せになればいい!」
「貴方が勝手に私の幸せを決めないでよ!」
互いに食いつくような応酬を止めたのは、女の思いだった。今まで聞いた中で一番大きなその声に、リオセスリは口を噤んで静かに女を見る。あまりにもか細く、弱肉強食の世界へと放られれば最初に喰われてしまうような、そんな儚さがあった。
「…貴方のものさしで私の幸せをはからないで」
「……」
「私、わたしね。水の上に出て自由になったらやりたいことが沢山あったの。だけどどれをやっても楽しくないし、心が満たされなくて。心の真ん中にぽっかりと穴が空いているみたいでずっと苦しくて、水の底にいる時より息がし辛くて仕方なかった」
「……」
「ねえ、無理だよ。だって、貴方と出会ってしまった、貴方を知ってしまった。貴方を、愛してしまった。だからもう貴方がいないと私はきっと幸せになんてなれない。例え水の上であっても天国であっても、そこに貴方がいなきゃ意味なんてないの」
声は情けなく震えていた。しかし強い意志を持った瞳は涙を溢さまいと必死に堪えていた。ただ泣きじゃくって感情のままに叫べば、少なくともリオセスリを狼狽えさせることや罪悪感に苛ませることはできたはずだ。
しかし女はそれをよしとしなかった。こういうところだ。弱くて、そして強い女だと思う。自分の身を守れるような力はないくせに、優しげな瞳には揺るがない決意を携えて。涙で訴えるのではなく言葉で伝えるべきだからと、眉根を寄せて我慢して。ただ逃げようとする情けない男を、愛想も尽かさずにひたすらに追いかけてくれて。
こんな、愛というかたちをしたひとが他にいるのだろうか。鮮やかな花の海の中が誰よりも似合う陽だまりのようなひとが、誰よりも自分のことを想ってくれるひとが、この泣きたくなるような果てしなく広い世界にたった一人でもいるというのか。
いない。いるわけがない。彼女だけだ。この世界の隅から隅までくまなく探しても、彼女だけがそうだ。
「……貴方に見てもらいたいものがあるの」
リオセスリは何も言わず女を見つめていた。呼吸すらもちゃんとしているのか疑うくらい静かに、女だけを視界に入れていた。
「これを見て不快な気持ちになるのなら、その時は私、貴方を諦める。…どのくらい時間がかかるか分からないけれど、それでも頑張って忘れるから」
諦める、忘れる。そんな言葉が女の口から飛び出してきただけでリオセスリは動揺して心臓を跳ねさせた。馬鹿な男だ。自分はあれだけ突き放しておいて、いざ女の方から離れる可能性が見えると嫌な汗がどっと吹き出す。
リオセスリは女の言葉に小さく頷いた。女は一度息を吐くと、決心したかのように後ろを向き、自身の髪を前へと流す。うなじまで見えている女の後ろ姿をじいっと見つめ、何をする気だとリオセスリは眉を顰めた。
女の細くて綺麗な指が、服のファスナーゆっくりと下ろしていく光景に流石のリオセスリも「おい」と口を挟まざるを得なかった。しかし女は彼の静止も聞かず、腰の位置くらいまで下げると肌がよく見えるように服を左右に手繰り寄せる。視界に飛び込んできた光景にリオセスリは言葉を失った。
彼女の白い背に何箇所も刻まれていたのは、父から与えられた理不尽、八つ当たり、行き過ぎた躾。切り傷はもちろん、火傷だろうか肌が爛れて戻らなくなっている箇所もある。
リオセスリは一瞬にしてこの身が発火したかのように思えた。あの時、彼女の父を何発か殴って半殺し、いや、殺してしまえばよかったと本気で後悔するくらい、激情が身体中を物凄い速度で駆け巡った。あまりにも頭に血が上り過ぎて、過去にタイムスリップできるような代物をどうにか科学院で作り出せないかと、とち狂ったような考えまでし始めたくらいだ。
溢れ出すのは怒りと、後悔と、そしてやるせなさ。こんなことになっても誰にも助けを求められないまま、たった一人で声を押し殺してずっと我慢をしてきたというのか。そしてそんな思い出したくもない過去を、できれば自分一人の秘密にしておきたいだろうものを自分に見せてくれたというのか。
「…醜いでしょ? これを見せるのは本当に怖いけれど…でも、こんなものを隠して貴方に迫るのはフェアじゃないと思ったの」
「……」
「…正直に言ってね。言うのも憚られるなら黙って部屋を出て行ってくれればいい。大丈夫、未練がましく追いかけたりしないから。もう二度と…貴方を探さないから」
俯き、凍える体を温めるかのように自身の体を抱き締めている女の背中を、リオセスリはただ眺めていた。
一言。たった一言だ。拒絶の言葉を紡げば終わらせることができる。
十歩。たった十歩だ。黙って部屋を出ていけば終わらせることができる。
どちらかを行動に移せば、彼女を穏やかで平和な場所に居させられる。そうして水の底にいる自分とは一生関わらない場所で、自分じゃない誰かと幸せになって、そして──ボロボロに傷ついた胸の内に、一生消えない爪痕を残していく。
「っ、」
びくり、と女の狭い肩が揺れた。リオセスリが背の傷をそっと撫でたからだ。自分を突き放してもう二度と会わないと言っている人の触り方とは思えないくらい優しくて繊細な触れ方に、女は視界が溢れ出しそうな感情で歪みそうになるのを堪えた。
いつもそうだった。少し乾燥した分厚い皮膚、壊れてしまわないようにと慎重に触れてくる大きな手。その手はいつだって愛を惜しみなく与えてくれた。不器用なのに真っ直ぐで、何も飾らないひたむきな愛だった。女の幸せだけを願うような、献身的で盲目的な愛だった。
そういう愛し方をする人を好きになった。
張り詰めたような静寂が二人を包み込む。触れ合った箇所を通じて、互いの心臓の音が届いてしまいそうだ。
その静寂に終わりを告げたのはリオセスリだった。俯きながら女の背にゆっくりと自身の頭を寄せ、大きく息を吐いた。まるで縋るような、これからすることを許して欲しいと懺悔するかのような切なさに溢れた溜め息だった。
もう一度だけ傷を撫で、その指がゆっくりとファスナーを上げる。傷が見えないようにとしまい込むその動作に女は青ざめた顔をさせてきつく唇を噛み締めた。ああ、見るに堪えないということか。
きっとこの後、リオセスリはこの部屋を去る。もしかしたら拒絶の言葉を口にするのかもしれない。しかしそうなったとしてももう、女には引き留める権利も愛を伝える権利もない。心は凍りついていくのに、目の奥は燃えるように熱くて苦しい。吐いた息が終わりを悟ったかのように悲しげに空気を揺らす。
再び静寂が訪れる。互いに何を言うわけでも、動くわけでもなく、ただ時が止まったかのように深い沈黙の中に鎮座している。どのくらいそうしていたのかは分からない。一分、十分、もしくは三十分。時間の流れさえも把握できないほどの静けさの中で先に口を開いたのはリオセスリだった。
「……俺の負けだよ」
──それは。例えば、罪人が罪を認めたかのような声色だった。己の中にある真実に向き合う意志がそこにはあった。
女はその言葉に体ごと振り返ろうとした。しかしそれは叶わない。そうする前にその細い体をリオセスリが自身の体で覆うように抱き締めたからだ。
背に感じる温かさ、きつく自分を抱き締める逞しい腕、肩口に埋められた顔。刹那、女の瞳からはどうしたって堪えることのできない想いが溢れた。
「嘘でもあんたがつけられた傷をどうして気持ち悪いと言える? あんたがたった一人で戦ってきた傷をどうして非難できる?…負けだ、俺の完敗だよ」
「…リオ、」
「好きだ。あんたが好きで好きでどうしようもない。本当に…気が狂いそうなほど好きだ。愛してる」
ほんの少しの飾りだってない、ただありのままの想いだ。器用に俗世を生きる術を熟知している男の、不器用でただ真っ直ぐのひたむきな愛だ。
女は自身の震える手で、抱き締めてくれる大きな手に触れた。視界の端で柔らかな黒髪が揺らめいて頬を撫でる。涙が頬を伝いその黒を濡らしていく。
「好き…わたしも、すき」
「ああ」
「貴方を本当に、愛してるから、私のためにとか、そんなので離れようとするのは、やめて」
「…ああ、悪かった」
「わたしを、諦めないで」
「ああ、もう諦めない」
抱き締められていた力が緩み、リオセスリの腕の中で女は体ごとゆっくりと振り向いた。ファウンテンブルーの瞳を見つめ、愛おしさに目を細めればまた目尻から涙が零れる。
「…あんたには、あんな薄暗くて冷たい水の底じゃなく優しく温かな日差しの下がお似合いだ。その気持ちは今だって変わらない。だが──」
涙を優しく指の腹で救い上げ、もう泣かないで欲しいと懇願するかのようにリオセスリは愛が溜まったその場所へと口付けを落とした。しょっぱいはずなのにどこか甘い。例え原始胎海のように触れれば溶けてしまうのだとしても、彼女の涙に溺れられるのなら喜んで身を差し出すのだろう。
「それでも俺は水の底からあんたを引き摺りこんで二度と水の上に返さない。お天道様が反対しても、例え水神様に非難されようとも俺はあんたを離さない。一生俺の隣で生きていくんだ。…もし、逃げ出すならチャンスは今だけだ。これ以降は泣いて嫌がっても離してやれない」
お遊びなど微塵も見当たらないリオセスリの言葉に対し、ふふ、と女は笑って見せた。ころころと鈴を鳴らすような声がリオセスリの鼓膜を優しく包む。未だに涙で潤んだ瞳は、リオセスリだけを見つめていた。
「逃げたりなんてしないよ」
鼻先がぶつかりそうな距離で見つめ合う。互いに吐く息を混ぜ、髪を撫で、頬を撫で、そうしてどちらからともなく手を絡ませる。触れ合う温もりを確かめるかのようにぎゅっと握り締めれば、それだけでしあわせになれる気がした。
「今度こそ、俺にあんたを守らせて欲しい。あんたがずっと幸せに笑っていられるように、俺にその手助けをさせて欲しい。…だが、もし、万が一あんたの体に一つでも傷が増えたその時は、」
リオセスリの言葉を遮るかのように女が小さく首を横に振る。
躊躇いなどなかった、ただ愛に満ちた雰囲気にたった一つの不純物だってなかった。ほんのりと色づいた薄桃の唇が幸福を描き、ファウンテンブルーを見上げる瞳はこの先のふたりの未来を見据えていた。
「いいの」
ああ、本当に彼女は──。
ぱちぱちと何度か目を瞬かせたリオセスリの瞳に映ったのは、柔らかく愛しい笑顔。それは目が眩むほどの光だった。
「貴方はその傷ごと愛してくれるんでしょう?」
この先、延々とその光に手を伸ばし続けるのだとしても。そしてその光に焼かれて死んでしまうのだとしても──。
引き寄せられるように唇を寄せ合った。幸せが零れ落ちないようにと二人で分かち合って、ようやく重なり合った愛の縁を何度もなぞり確かめ合った。互いの体温が混ざり合っていく、そうしていずれ一つになれればと。
リオセスリは眩しそうに目を細める。
その視線の先には優しい陽だまりのような光がしあわせそうに笑っていた。
◇
「おいおい姉ちゃん、こんなところでなぁにやってんだぁ?」
いかにも面倒事を持ってきましたと言ったかのような言葉に、女は「げ」と、あからさまに嫌な顔をした。
ここ、メロピデ要塞で厄介事は日常茶飯事だ。絶対に最低最悪の治安だと、収監される前は体を震え上がらせ恐怖でガッチガチになる者も少なくない。しかし意外にも常に視界の端で乱闘が起きているわけではない、目が合っただけで殴られるという理不尽が横行しているわけでもない、水すらも貰えずに飢えていくわけでもない。それなりに悪くない治安に肩透かしをくらう者も多数いるのは事実だ。
だが、ここ、メロピデ要塞で厄介事というのは日常茶飯事だ。大事なことなので二回言っておく。その日常茶飯事に、女は絶賛ブチ当たっていた。
「看守でもないのに仕事もせずに呑気に散歩たぁ、いいご身分じゃねぇか。暇なら俺に付き合ってくれよ?」
「いえ、用があるので」
「用〜? ハハッ、姉ちゃんもっとマシな嘘つきな? 男引っ掛けたくてこの辺をウロウロしてたんだろぉ?」
上から下まで舐め回すような視線に、女は苦虫を踏み潰したかのような表情を浮かべた。そろそろやめておいた方が身のためだと思うが、こういう輩は一度絞られた方が他の人のためにもなるだろう。
「ジスランさん」
「へぇ! 俺の名前を知ってるなんてやっぱり、」
「貴方、一週間前にここに来た人ですよね?」
女の問いにジスランは至極愉快そうに笑い声を上げた。なんと、自分が来た日も把握しているとは!下心満載の笑みはこの後目の前の女をどうしようかという欲で塗れに塗れていた。
だから気づけなかったのだ。「あの男、終わったな」「よりにもよってあの方に…」「看守が既に彼に知らせたらしい。これから楽しいモンが見られるぞ」そうやって周りがヒソヒソと二人を見ながら話をしているのを。
そして。自身に一歩、一歩と近づく漆黒の破滅の音に。
「やあジスランくん。息災かな?」
突然後ろから男の声で名を呼ばれ、ジスランは「アァ!?」と苛立ちを露わにして勢いよく振り向いた。せっかくいいところなのに誰だ邪魔なんてしやがるのはと、拳を振り上げて怒りをぶつけようとしたのだ。
「あ…え…こ、公爵…?」
しかしその拳が勢いよく振り下ろされることはなく、捲し立てるように物申すこともなかった。それどころか青ざめた表情でとんでもない量の汗が吹き出している。それもそうだろう、彼の名を呼んだのはこの地の管理者である男だったのだから。
「君はもうここには慣れたかい?」
「は、はい!」
「そうかいそうかい。それは何よりだ」
コツ、コツ、と重たい靴音を鳴らしながら自身に近づく男に、ジスランは肝が縮み上がりこのまま死んでしまうのではないかという錯覚に陥った。まるで死神がひたひたと近づき、己の命を刈り取りに来たような心地さえして、上擦った情けない声が口から漏れる。
そもそもどうしてこんなところに公爵──リオセスリがいるんだ!
「それはそうとジスランくん。彼女と一体何を話していたんだい?」
「え、あ、そ、それはっ」
ぽん、とジスランの上がりきった肩に、大きな手が乗せられる。リオセスリは変わらずにこにこと笑っている。
「君はここに来て日も浅いからね。道案内でも頼んでいたかな?」
「そ、その」
「ああ──もしかして」
ジスランは思わず「ヒィッ!」と、腹の底から悲鳴を上げた。真横にいる男は確かに笑みを浮かべている。だが、目が全く笑っていないのだ。
「口説いていた? それも聞くに堪えない下劣な言葉で」
その地を這う声は、まるで自分を地獄へと誘うかのような恐怖を携えていた。この状況で誰が反抗などできようか。できるとすればそれは単純に力が互角の猛者か、心臓に毛が生えた空気の読めないただの大馬鹿者である。
「も、もも、申し訳ありませんっ! に、二度としません、許して!」
「ジスランくん」
「は、はいいっ!」
「謝るのは俺にじゃない。彼女だ」
「は、はいっ! 本当に申し訳ございませんでした! に、二度とあんなこと言いません!」
「はぁ…分かりました、許します」
「おお、よかったなジスランくん、彼女が優しい女性で。俺は何も女性を口説くなって言っているわけじゃないんだ。ただ今回は相手が悪かった」
ぽんぽん、とジスランの肩を叩きリオセスリは女の方へと歩み寄る。「あ、相手…?」未だに死にそうな顔をしているジスランの目に飛び込んできたのは、リオセスリが慣れた手付きで女を抱き寄せる光景だった。
「ジスランくん。彼女が何と呼ばれているか知っているかい?」
「い、いえ…分かりません…」
「なら教えておいてやろう。”公爵夫人”だよ」
「こっ…!?」
「ああ、あんたは俺のものに手を出そうとしていたわけだ。俺はちょっとしたヤンチャなら黙って見過ごしてあげてもいいと思っている。だが、彼女は別だ。もう二度とないと、思っていいんだよな?」
「も、もちろんです! 約束致します! 誓います!」
「ならいいさ。さぁ、行くといい。時間を取って悪かったね」
「い、いいえ! 失礼します!」
恐ろしい速度で頭を下げ、恐ろしい速度でその場を去ったジスランにリオセスリは「おお」と呑気に驚嘆の声を上げた。あれは稲妻にいるという雷霊といい勝負ができるだろう。
「さすが公爵様!」「今日も夫人を愛していらっしゃいますねー!」周りから拍手と共に絶賛の声が飛び交う。しかしリオセスリの腕の中にいる女は申し訳なさそうに周囲にぺこぺこと頭を下げると、溜め息をついて、じと、と楽しそうにしている男を見上げた。
「貴方、来るのが物凄く早かった気がするんだけど…」
「そうかい? 俺のものに手を出す馬鹿な奴がいると思うと居ても立ってもいられなくてね」
「そんなだから嫁バカ公爵とか言われるんだよ…いいのそれで?」
「はは、言わせておきな。それに間違っちゃいない、事実だ」
訂正する気など全くないリオセスリに、女は想像通りの答えだと肩を竦める。そんな不名誉な肩書は早々に訂正してもらいたいと思うが、本人が気にしてないとなると何を言っても無駄だろう。
「はあ、喉が渇いたな。お茶でも飲もうか」
「あっ、そうだ。この前いい茶葉を貰ったの! シグウィンちゃんも呼んでアフタヌーンティーにしよう!」
先程とは一変し、弾けるような笑顔を振り撒きながらリオセスリの手を取り、行こう行こう!と女が急かす。
太陽の光さえも届かない水の底にあるメロピデ要塞。しかしそこには確かに陽だまりが存在していた。温かくて、やさしくて、愛おしい。手を伸ばし、諦めて、拒絶し、そうしてもう一度手を伸ばして掴んだ光だ。
リオセスリは眩しそうに目を細める。「はいはい」と呆れたように呟いたその表情には、沢山の幸福と愛が満ち溢れていた。
実装前にどうしてもお出ししたくてヒイヒイ言いながら書いたブツですが、普通に間に合いませんでした。悲しいね…実装おめでとう公爵…これから伝説任務やるのでどうしても目を逸らせない解釈の違いなどあったらそっと消すかもです。
愛する人の幸せを願いすぎて逆に突き放そうとするリオセスリさん絶対いるよね〜の気持ちで書いたら約4万字になるというわけわからん事態になりました。海よりも深い愛を抱く男と、そんな男の陽だまりになった柔らかな女の、愛にまみれたお話が書きたかった。
感想いただけると嬉しいです!(wave box↓)
https://wavebox.me/wave/5rbqlsdz1u7wy7el/