『16区』はパリ修行時代の思い出の場所です。
三嶋さんのお菓子とカトリーヌ・ドヌーヴに接点があったとは…」と、驚く方も多いヨーロッパ修行時代を経て、舞台は福岡に移ります。三嶋隆夫はなぜ店舗を浄水通り近くに構えたのか。開店当時の『16区』はどんな店だったのか。そして、三嶋にどのような出会いがあったのか。

子どもの頃夢中で遊び回った浄水通り
1980年、4年間にわたるスイス・フランス修行を終えた三嶋は、故郷の福岡市に戻りました。講習会の講師を務めたりしながら、いよいよ自分の店を開くことになります。その候補地として、三嶋の頭にあったのは浄水通り周辺でした。「浄水通りは子どもの頃、戸車を打ちつけた板きれに乗って遊んだ懐かしい場所。仰向けになって坂道を滑り降りると、木洩れ日がキラキラ顔に注いできて印象深かった。職人になった時から、店を持つなら浄水通りの近くでという思いがありました」。浄水通りの近くに見つけた物件は、天神や商店街からは離れているものの、駐車しやすさが魅力でした。「これからは車の時代。車の寄り付きがいい店でないとダメだと思ったのです」。

悩みに悩んだ末に決めた店名『16区』
店を開くにあたり、三嶋を悩ませたもの。それは店名でした。実は、南仏・ニースで修行した『ル・ペシェミニヨン』のパトロン(店主)は三嶋夫妻を大変可愛がり、同じ店名を日本で使うことを許可するという一筆を書いてくれていました。けれど、果たしてこの名前でいいのか。迷った三嶋は、友人たちにも意見を求めました。すると、危惧した通り、「覚えにくい」「なじめない」という声ばかり。そんな時共にフランス時代を過ごした、淳子夫人がこう言ったのです。「思い出深いパリの16区にちなんで、『16区』がいいんじゃない?」緑の並木が続き、瀟洒なアパルトマンが建ち並ぶパリの16区は、三嶋が最後に修行した店のあった場所。その雰囲気は福岡の浄水通りと重なるものでした。

パティシエ二人の意地で支えた開店当時の厨房
1981年10月24日、三嶋隆夫のフランス菓子『16区』はオープンの日を迎えました。案内は新聞に折込んだり手配りしたチラシなどでしたが開店前から行列ができるほどの大盛況。その後も客足が途絶えることはありませんでした。「うれしい誤算だった。当初、パティシエは僕と浜田君というスタッフの二人だけ。大変な仕事量で、朝の五時から夜中の3時まで働いた。座ると寝てしまうので、食事も立ったまま。それでもウツラウツラして、何度となく味噌汁に顔を突っ込みました(笑)」。

最初は注目されなかったダックワーズ
「なぜオープンしてすぐに『16区』が人気になったのか今もわからない。当時は生ケーキばかりが売れて、焼菓子はサッパリ」。昨年度の日本経済新聞(11月6日付)『おつかいもののお菓子』ランキングでは全国第4位に選ばれたマロンパイですが、オープンした年は毎日5、6個ほどしかうれなかったというエピソードも。そのうち、生ケーキが美味しいから、焼菓子も食べてみようというお客様の間でダックワーズが大ブレーク。福岡のシェフが考案したお菓子として全国に知られるようになりました。しだいにスタッフの数も増えわずか10坪ほどの厨房に10人以上のパティシエがひしめき合う状態になったのです。三嶋の心の中で「お客様のためにも、もっといい仕事ができる環境をつくりたい」という思いが強くなっていきました。

三嶋に一大決心させたお客様の言葉
そんなある時、三嶋は顔なじみのお客様から食事に誘われました。日頃よくご来店され、お顔は存知あげていた14、5人の方たちからいろんなお話を聞き、勉強になりました。「君のおかげで胸を張れる博多みやげができた。ありがとう。これから、あなたには職人として上等な人間になってほしい。我々が顧客として自信の持てるお店、またシェフであって下さい。」思いもよらぬその夜のひと言が、三嶋の背中を強く押すことになります。
「“上等な”という中身には、人間性やサービス、清潔感などすべての要素が含まれていることを教えてもらった。それで僕はまずパティシエとして確固たる自信の持てる、衛生的で働きやすい仕事場をつくろうと決心した」。その時、開店から9年半の歳月が流れていました。



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