全力でやること それが 僕の信条です。 三嶋隆夫のフランス菓子16区。スタッフはオーナーシェフの三嶋を愛情こめて「ムッシュ」と呼びます。ムッシュというのは、日本語に訳せば「親方」というニュアンスになるでしょうか。その三嶋が福岡市・浄水通り近くに店を構えて、この秋30周年を迎えます。三嶋はどのような経緯を経てパティシエになり、今があるのか。 三嶋隆夫の道程をたどりお届けします。 ラグビーひとすじの硬派が料理の道へ 三嶋隆夫がパティシエの道に進むことになったきっかけ。それは、東京での大学時代にさかのぼります。ラグビーひとすじに打ち込む硬派の三嶋には、部員だけが知る意外な一面がありました。それは、料理を作るのが好きだということ。機会があれば、材料を買ってきては料理を作り、独自のひと工夫でみんなの味覚を楽しませていたのです。 四年生になった時、マスコミへの就職を迷う三嶋に、ラグビー仲間の一人がこんな言葉を投げかけました。「お前、料理が上手いからコックになればいいじゃないか」。そのひと言が三嶋の気持ちを料理へと向わせたのです。 将来を決めたお菓子との出合い 友人の言葉がきっかけで、三嶋は帝国ホテルの料理飲料部に就職。お菓子部門に配属されます。「目指していたのは料理人だったけど、僕はどこにいても全力でやるのが信条。そのうち、お菓子づくりの面白さ、将来性が見えてきて、パティシエになることを決めた」と三嶋は当時を振り返ります。帝国ホテルで五年、さらに街のケーキ屋で2年経験を積んだ頃、三嶋は洋菓子の本場、ヨーロッパで修行することを決意します。「今と違って僕が渡欧した頃は、材料や道具に歴然とした格差があった。パティシエをやっていればヨーロッパに行きたくなるのは自然の成り行きだった」。 イメージとのギャップに悩みを抱えて 初めに足を踏み入れたのはスイスのルツェルン。製菓学校に通 いながら、校長に働ける店を紹介してくれとしつこく頼み込みました。熱意が伝わり、一軒の店を紹介してもらったのですが、一ヶ月ほど働いた頃には、「なんだ、これは自分がイメージしていたヨーロッパの仕事ではないと思ってしまった。思い上がりがあったんですね」。 その後、三嶋は南フランス・ニースの店で職を得ます。最初は天にも昇る気持ちだったのだが、また一ヶ月もすると「こんな仕事をするために来たんじゃないと思ってしまった」。 ストレスから、生まれて初めて胃けいれんを経験。「このままではだめだ。自分はお菓子を見たこともさわったこともない。それくらいの真っ白な気持ちに戻って全力でやらなければ…」。新たな気持ちで取り組んだニースでの1年。そしてオーナーの紹介でパリを目指したのです。 職人エルグワルシュ氏のこだわり 「パリで最初に働いたのは『エルグワルシュ』という、フランス人のパティシエから一目置かれた店。僕はここで現在の16区の原点ともいえるこだわりを教わった」。オーナーシェフのエルグワルシュ氏はとにかく素材にこだわる人でした。 毎日みずから市場に行って納得のいくフレッシュな材料を仕入れるのはもちろん、冷凍材料も業者から買うのではなく自分の店で手づくりするほど。「派手な人ではなかったけど、本当の職人。日本人の僕にも正当な評価をしてくれて、どんどん仕事を与えてくれた」。 『エルグワルシュ』で一年二ヶ月が過ぎ、最後の修業先となるパリの高級住宅地16区の『アクトゥール』に移ります。 |
リッチモンド製菓学校にて校長(右) ニース「ペシェミニヨン」時代 |
ドヌーヴを感動させたお菓子の味 『アクトゥール』でシェフ(パティシエの最高位 )となった三嶋は、ある時、オーナーから特別 注文のケーキをつくるよう言われます。注文主は、フランスの大女優カトリーヌ・ドヌーヴの身内の人でした。この時つくったお菓子。それは、ダックワーズの原型となる丸型ケーキに生クリームでデコレーションしたものでした。後日、注文主はドヌーヴが大変喜んでいたとお礼を言いに来ましたが、三嶋は自分が挨拶に出ることを固辞。「日本人がつくったと知れば、誇り高きフランス人のプライドを傷つけるかもしれない」。いかにも三嶋らしいエピソードです。1980年、フランス人を感動させるお菓子の技術を習得した三嶋は、故郷の福岡で店を開くべく、帰国の途に着きます。 |
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