それと歩調を合わせるように、最近は自分も含めて同年輩の人達に生きてきた澱のような汚れを感じることも多くなりました。
もちろん歳を重ねて、より磨かれる人も多いですが、しかし、どうしても生きてきて溜まった澱は付きがちだと思います。
その中には人を偏見の目で見るということも含まれるかもしれません。
以前、私が他人様の記事をリンクすると責められた方がいましたが、この方は責めるだけ責めて、私が、「私がリンクしたという該当のブログを教えてください」とお願いしましたら関わり合いたくないと逃げてしまいました。
立派な職業に就いていられた方のようでしたが、こんな他人を傷つけることを平気でする人は人間的にちっとも立派ではありません。
大体が、人様のブログを善意でリンクさせていただくことのどこが悪いというのでしょう。
私もその人には傷つけられましたが、別の方はその人に責められたことでブログを止めてしまわれました。とても心の綺麗な方でしたから、私は今でも残念に思っています。
私は思うのです。
いくら立派な職業に就いていたとしても、思いやりのない人間はカスだと。
が、世の中の、ある程度以上の年齢になった人は、しばしば、その肩書に騙されてしまうんでしょうね。
物事は、その見方によって、よく見えることも悪く見えることもあります。
私は、その人は、大したことでもないことで、殊更に人を責めて己の自尊心を満足させるタイプの人だと見ました。
同じことを言うのでも、思いやりのある人と、そうでない人がいます。
その人は、人を貶めるのが目的ではないかと思うような物言いをされる人でした。
一方、私が最近学ばせていただく若い人達は人に傷つけられることはあっても人を傷つけない人達です。
その人達は、社会的に、むしろ弱者の立場におかれているからこそ優しいのです。
肩書は人を傲慢にします。
そんな肩書なら、むしろないほうがマシだと思います。
ということに最近気づけた私も、最近までは肩書に惑わされる人だったかもしれません。
が、最近知り合った若い人達から、そうでないと言うことを学ばせていただきました。
これは一昨年から誹謗中傷を受けて傷つけられたから気付けるやうになったとも言えるかもしれません。
その意味では傷つけられたことも役に立ったのかもしれません。
私自身、傲慢な人間だったし、今も、そんな面があるから、余計に…。
だからこそ、その社会的に一応立派な職業に就いた人のいやらしさが余計見えてしまったのかもしれませんが…。
その傲慢な人を尊敬する人達は付和雷同する人達だということもわかりました。
人は、いくつになっても学べますし、どんな人からでも学ばせていただけます。
また学ばないといけないと思います。
私は、人生の最終章に入ってこういう学びを得られたことを有り難く思っています。
人を幸せにするのは肩書ではないということを学ばせていただいたことでは、その人にも感謝しないといけないかもしれません。
ブログでは知識も授けていただけますが、こういう人間観察もさせていただけます。
その意味でも、ブログは、私にとって非常に有り難いツールだということが言えます。
この記事は自戒を込めて書きました。かしこ