ダークスレイヤーの帰還

真の戦士と枯れぬ花、そして時の終わりの物語
堅洲 斗支夜
堅洲 斗支夜

序章・眠り人のめざめ

第一話 夢の中

公開日時: 2020年9月3日(木) 22:05
更新日時: 2023年2月12日(日) 17:02
文字数:6,581

 夢魔の少女チェルシーは、ある「眠り人」を起こすべく、彼の夢の世界を旅していた。

 リリムまたはリリン。

 

 『最初の人』『人間の先輩』とも言われる彼女たちには、なぜか男が一人もいなかった。

 

 多くは夢の世界を住処とし、個体によって様々な姿を持つとされる彼女たち。その中の一人、『花柄』を意味する名を持つ夢魔の少女チェルシー。

 

 彼女は今、とても大事な務めで、長く目覚めないある男の夢の中を今夜も飛び続けていた。

 

「はあ……」

 

 ため息を声に出し、チェルシーは広大な世界を眺める。


 魔の国の給仕服姿に銀製のはたきを手にした彼女は、赤い蝙蝠のような翼を広げてどこまでも飛び続けているが、薄青い空に深い青の湖か海が広がり、大小さまざまなまばらな島々と白い砂浜が延々と続いている。

 

 荒涼とした世界なのに、風と日差しは熱く、どこか静かに心の熱を奮い立たせるものがあり、この夢の世界の主は相当な闘志と長い旅の記憶を持つと思われていた。

 

 しかし一方で、建物も人々も動物も、生ある者や被造物も一切存在せず、この夢の世界の主の愛していた世界は、既に遠い昔に滅んでしまっていたと思われた。

 

 毎夜、祈るようにこの男の目覚めに期待する女たちの想いを受けて、もう何度この世界に来たろうか? しびれを切らしたチェルシーは、危険を省みずに他人の、それも男の夢の世界で大声を上げた。

 

「ああもう! 気持ちいいけれど、一体どういうことなの? この世界! なぜ誰もいないの? あなたはどんな人生を生きてきたの⁉」

 

 本来、相手の心の世界に大きな混乱を起こし、夢の世界に侵入した自分自身さえ大きな危険にさらされる行為だったが、ほかに手段は無くなっていた。

 

「えっ?」

 

 突如として、青い空に黒い雷鳴が走り、激しい嵐が巻き起こった。

 

「ちょっと待って、私が飛べない? 何で⁉」

 

 急激に気温が下がり、雹と冷たい雨まで降ってきた。これらがチェルシーの肌や翼にあたると、心まで冷やす効果があるようで、チェルシーは翼を動かして夢の世界を飛び続けることもままならなくなってきた。

 

「えっ⁉ 嘘でしょ? やっちゃったな、私……」

 

 墜落して意識を失えば、最悪、この男の夢の中に囚われてしまい、自分も二度と目覚めなくなってしまう可能性があった。

 

 チェルシーの意識が遠のきかける。

 

(ああ……しくじっちゃったな、私……)

 

 チェルシーは深く青い湖に真っ逆さまに落ちていった。底知れないその青さは水底に深い闇が漂っているようで、チェルシーは自分の運命を悟って目を閉じた。

 

 しかし。

 

 激しい水音と共に落下した湖は南国の海のように優しく温かく、もがこうとしたチェルシーは容易に足がつき、腰程度までの深さしかない事に気づいた。

 

「えっ? 暖かい? ……あっ!」

 

 水の中の砂はきらきらと小さな白金や黄金の粉のように舞い、すぐに沈んでゆく。暖かな砂を踏みしめて立ったチェルシーは、この不可解さにすぐに気付いた。

 

 深いはずの湖は浅く温かく、地面に激突もしない。そして、一瞬前まで荒れ狂っていた空は再び深い青に晴れ渡り、より熱い風が吹いている。

 

(まさか……!)

 

 考えられることは一つだけ。この夢の世界の主がチェルシーの存在に気付き、夢魔であるチェルシーを凌いで夢を制御し、比較的易しいやり方でここに落した、という事。

 

 つまり、この近くにこの夢の世界の主がいる可能性が高かった。チェルシーは周囲をきょろきょろと見回す。

 

「あっ⁉」

 

 チェルシーは焚火のはぜるパチパチという音と、木の燃える良い香りに気づいた。うっすら流れる煙を目で追うと、近くの岸に小さな焚火がくべられており、そばの大きな流木には、黒いフードとマントを着た黒衣の何者かが座っている。

 

 チェルシーは衣服の透けや服装を確認した。

 

 夢をこれほど制御する力を持つ相手なら、夢魔の力でもどうにもならない可能性が高く、可愛らしい少女の姿を持つ自分は、夢の世界とは言え酷い目に遭う可能性もあった。

 

 しかし、そのような空気も気配も感じられない。チェルシーは意を決して近づき、黒衣の人物に声をかけた。

 

「あなたが、この夢の世界の主?」

 

 問いに応えるように、黒衣の男はフードをはいだ。黒い髪と、右目を斜めに走る傷跡。しかし失明はしておらず、明るいとび色の両目がチェルシーを見る。チェルシーはこの男の顔を良く知っていた。チェルシーや他の『眠り女』たちが夜毎に手を繋いで起こそうとしていた、目覚める事のなかった男。

 

 男は深いため息をつき、その様子は予想外に親し気なものだった。

 

「……怪我はしていないな? こんな事が起きるとは、夢の世界も寝っぱなしとはいかないものだな。あやうくひどい目に遭わせてしまうところだった。……信じがたいが、君は外部からおれの夢に侵入しているな? 何が目的なんだ?」

 

 自分に敵意が無い事は伝わっているはず、とチェルシーは確信し、なるべくいつもの空気で語り始めた。

 

「えーと……何から話したらいいのか、とにかくびっくりしています。夢魔である私をあべこべに夢をいじって落とすなんて何者なんですか? 乱暴に落とすと思ったら、怪我しないように落としてくれるあたりもよくわかりませんし」

 

「特に敵意が無い女の子を叩き落とす方がおかしいだろう?」

 

「まあでも、不法な侵入ですし」

 

「そうだったな。……何がいい?」

 

 男は小枝を二本、焚火の横に刺しながら聞いた。

 

「えっ?」

 

「飲み物だ。何がいい? 客人なのだろう? ……酒は駄目だぞ? 流石に他人の夢の世界で只酒を飲む様な客人は歓迎できん」

 

 この夢の世界の主の口調からは、賢さと自信がうかがえていた。優し気な声だが、怒らせたら怖い気もするとチェルシーは目星をつけた。

 

「では、紅茶でお願いします!」

 

 チェルシーは古代に『船の民』と呼ばれる人々が伝えたとされる好物の飲み物を思い描きながら伝えた。男はその言葉を受け取り、思い浮かべるように少しだけ視線を宙に泳がす。

 

「ふむ、これか……」

 

 いつの間にか、湯気を吹き出す薬缶が焚火の上に現れており、男は長旅で摩滅した銀の湯呑を取り出すと、お湯を注いでチェルシーに渡す。

 

 器には濃い琥珀色の紅茶が満たされていた。

 

「良い香り! いただきますね」

 

「ああ、毒は入っていない。入れ物が銀なのはそれを意味している」

 

「なるほどー! 銀の湯呑みはそういう……」

 

 チェルシーの言葉には特に反応せず、黒衣の男もまた自分の湯呑みに何かを注いだ。

 

「珈琲ですか?」

 

「そうだな。夢の世界ではあるが」

 

 チェルシーは紅茶に口を付けた。濃厚な香りと品の良い澄み渡る味に驚く。

 

「ほあぁ……美味しい! あっ、待ってください、夢の世界で夢魔でもあるリリムがもてなされるとか、あり得ない事なんですけど! ……いや、これは流石ご主人様と言えばいいのかな?」

 

 ご主人様、という言葉に男がせき込んだ。

 

「ご主人様? ……待て、おれは今どういう状態だ? いや……そもそも、おれは誰だった? どうなってる?」

 

「ああー、やっと正常な反応が見られて嬉しいですよ。夢の中に不正に入って来た女の子を素っ裸やいやらしい格好にしない人はまずもって稀有ですが、それを通り越して夢を制御してもてなすとか、どれだけ意志力が強いんですか?」

 

 半ば呆れたようにチェルシーは笑い、話を続ける。

 

「ご主人様は……あー、まずこの呼び方は私が、……まず私の事はチェルシーと呼んでほしいんですけれども、私はあなたにとても恩を感じていて、『ご主人様』と呼んでいます。他に理由はありませんし、他の呼び方をする気もありません。いいですね?」

 

「そこは大事な所ではないと思うが、理解した。で?」

 

「あなたは今、多くの世界の人たちが『永遠の地』と呼ぶウロンダリアという世界で見つけられ、『眠り人』とされて目覚めを待ち望まれています」

 

「……『眠り人』?」

 

「はい。私たちの世界には、つ世界から長い眠りについた旅人がしばしば流れ着きます。そんな人たちは目覚めると、私たちの世界ウロンダリアに大きな良い影響を与えてくれるのです。あなたもそんな『眠り人』の一人として大きく期待され、目覚めを待ち望まれています」

 

「……どうやってそんな人間を起こす?」

 

 この質問に、チェルシーの目が輝いた。

 

「よくぞ聞いてくれました! 本来『眠り人』を起こすには、『眠りの巫女』と呼ばれる特殊な種族の女性が必要でした。しかし、既に『眠りの巫女』は失われて久しかったため、心身に汚れのない様々な種族の女性たちを集め、その子たちとあなたの夢を私が繋いでこの世界に順応し、起きられるようにしてきました。これを『夢繋ぎ』と言います」

 

「そんな方法で……」

 

 男はまた空を遠い目で見つめた。

 

「確か、おれのゆかりのある世界はとうの昔に滅んだはず。でも何かが強く燃え、自分を動かし続けていた気はする。見たところ……」

 

 黒衣の男はチェルシーを見つめた。チェルシーはこの男が、自分の記憶や見て来たものを自分を透過して知覚していると気付いた。

 

「……っ! あまり覗き見しないで下さいよ?」

 

「そんな気はない。どんな世界か概要を……」

 

「……分かりました」

 

 不死に等しいチェルシーは、膨大な記憶の中から現在の世界の概要を束の間思い浮かべた。

 

「もう大丈夫だ。途轍もなく広く、様々な種族のいる変わった世界だな……。そうか、おれはそんな世界に流れ着いたのか。まだまだ、おれの人生は続くって事か……」

 

 男はため息交じりに天を仰いだ。精悍な顔に、背は高いが筋骨満ちた屈強な体つきの男に、意外にも深い哀愁が漂い、チェルシーは胸が締め付けられる思いがした。

 

「……もしかして、目覚めたくありませんでしたか?」

 

「いや、そんな顔はしないでくれ。きっとここでは、君もおれの心の影響を受けすぎてしまうだけだろうよ。全て滅んで、記憶さえ残っていないんだ。ただそれでも何かが心にわずかに残っているんだろう。……しかし今となっては、全て過去で、しかも別の世界でのことに過ぎないのだと思う。幻想のような物さ」

 

(ああそうか……だから……)

 

 この男の夢の世界が砂と湖だけなのは、この男の世界が既に滅んでいたからなのだろう。

 

「何か期待されている立場らしいが、果たして何ができるものか……それさえもわからないのに……」

 

 チェルシーから見て存外に強い意思力を持つ男は、意外な謙虚さを見せた。

 

「あの、ちょっとこう色々複雑なんですけれど、まず、ご主人様には私ってどう見えます?」

 

「羽根の生えた、桃色の髪の……可愛い女の子だな」

 

「あら~! ありがとうございます。魔族や色々な種族に関わらず、女の子が嫌いでなかったら、それだけでも起きる価値はあると思いますよ? 起きてくれないと困っちゃう子も沢山いると思いますしね」

 

「どういう意味だ?」

 

「色々あるんですよ。でも、ご主人様は賢そうだから、起きたら状況が飲み込めると思います」

 

 男は少し考え込んでいるようだ。

 

「なんであれ、既に君らの世話になっているわけか。……ん? それはどれくらいの期間で?」

 

「一年半くらいですかね。とても甲斐甲斐しくあなたの世話をしている子もいますよ」

 

 男の眼から迷いが消えた。

 

「起きよう。必要とされているようだしな。記憶のどこかに『少し魂を遊ばせろ』と言われたような気もする。起きていなければ、遊ぶも死ぬもない。そうだろう?」

 

「その通りだと思います! ……って、そんな記憶今までどこにも見当たりませんでしたけど」

 

 男の強大な意志力によって、夢の世界でさえ限定的にしか見られない事に気づき、チェルシーは目の前の男の底の知れなさに感心していた。

 

「……で、おれはこの後どうすればいい?」

 

「明日の朝になれば目覚めると思いますよ。楽しみに待っていますね。ああそれと、私は夢魔リリムのネア氏族の姫、チェルシー・ネアと言います。よろしくお願いしますね!」

 

チェルシーは自己紹介をつけ足すことを忘れなかった。

 

「わかった。では……」

 

 夢の世界は暗転した。

 

 

                  †

──夢魔リリムは最初の夢魔リリスの娘たちとされている。しかし、リリスは別の伝承では人間の先輩であり、『隠れし神々』について、我々人間より、その秘密の多くを知っているとされている。

 

──インガルド・ワイトガル著『ウロンダリアの種族』より。

                  †

 

 

「……シーさん、チェルシーさん!」

 

「あっ⁉」

 

 控えめな呼び声でチェルシーは目覚めた。広い部屋と、早春の夜の空気が、重厚な黒曜石を組んだ暖炉の熱を程よく伝えて暖かい。壁も床も黒光りする黒曜石の部屋に、暖炉のやや勢いを弱めた炎がちらちらと反射して、眩しいほどだった。

 

「気が付きましたか? 今夜は随分長く『夢繋ぎ』をされていたようですが、汗もかいているようで様子が違ってて。大丈夫なのかと思ったのです」

 

 フードを被った、灰色の艶を持つ黒髪の女が心配そうにのぞき込んでいる。長めの細い三つ編みが揺れ、色白の整った顔をした女は、いつも優し気なその顔を心配に曇らせていた。

 

──聖餐教会の教導女、シェア・イルレス。

 

「あっ、シェアさん? 良い知らせです。会えましたよ! 明日は普通に起きると思います」

 

「本当ですか? ……どんな方でした?」

 

「何というか……ものすごく強い意思力を持っています。ちょっと乱暴な人なのかと思ったら、全然そんな事無くて、かなり紳士的ですねぇ。とりあえずびっくりした事は、私の能力が全然通用しなかった事と、紅茶を頂きましたね。美味しかったです」

 

「紅茶? どういう事なのですか?」

 

「ほんと、どういう事なんでしょうね?」

 

 言いながら屈託なく笑うチェルシーの表情を見て何かを悟ったシェアは、その表情を和らげた。

 

 シェアはベッドの横に跪くと、まだ眠り続ける眠り人に、うるんだ瞳で語りかけた。

 

「眠り人様、献身が届いて嬉しく思います。どうか私たちの願いを聞き届け下さい。『聖餐教会』の教導女、シェア・イルレスはこの身が灰と化すまで献身を続けることを誓っています……」

 

「人間の方の世界は色々と大変ですもんね。でも、シェアさんの献身はきっと届いているから、何とかなっていく気がしますよ?」

 

「良かった……」

 

 シェアはまるで、待ち望んでいた救世主を見出したように涙ぐんでいる。

 

(……でもどうなんだろう?)

 

 チェルシーは先ほど出会った自分の主が、複雑な知性の持ち主に感じられていた。宗教的な観念にはなびかない人物のような気がしていたが、一方でシェアの事情や献身ぶりも知っている。悪い流れになって欲しくないと思っていた。

 

 ここで、部屋の出入り口のドアが開き、月影の中に甲冑を着た騎士の影が浮かび上がった。

 

「……何か起きたの?」

 

 甲冑の人影から、静かだが強い意志を感じる女の声がした。

 

「あっ、クロウディアさん。良い知らせですよ。『眠り人』さんが目覚めます」

 

 甲冑の人影は黒い兜を脱いだ。月光さえつややかに跳ね返す黒髪と編まれた髪が流れる。

 

「……そうなの? それは良い知らせね」

 

──影人の皇女、クロウディア・クロウ。

 

 静かな受け答えだったが、チェルシーは彼女が驚きと喜びを感じていると気付いた。声に微かにそんな気配がある。

 

「どんな人かしら?  そして、どんな能力を?」

 

「あっ、能力はわからないです。でも、精神力は相当なものだと思います。あと賢そうだし、乱暴なようでいて優しい気がします」

 

「アレクシオスを倒せそうな人かしら?」

 

「うーんそこまでは。でも簡単には負けないような雰囲気は感じますね」

 

「そう? 明日が楽しみね。『本当の身体』で触れた事のある男の人は、お父様を除けば、忌々しいアレクシオスと、この方だけ……」

 

 クロウディアは甲冑の音を立てないように『眠り人』の傍に寄った。

 

「『眠り人』様、この『鴉の騎士』クロウディア・クロウは、禁忌を破って生身であなたに触れています。どうか目覚めたのち、我が『影の帝国』の忌まわしい反逆者、暗黒騎士団の団長アレクシオス・ベイドスを抑え込むのに力を貸してください。覚悟は示しています」

 

 クロウディアは深々と頭を下げた。

 

(うーん……)

 

 その様子を見ていたチェルシーは、自分の仕えている眠り人が、既に何か大きな運命と関わっているような気がしていた。

 

 今ここにいない『眠り女』もそうだが、心身に汚れのない『眠り女』たちに、結果として妙に有能で美しい女たちばかり集う結果となった。しかも皆それぞれ難題を抱えている。

 

(面白い人。これから何が起きるんだろう?)

 

 チェルシーは何かが大きく動き出す予感を、遥かな夢の世界から感じ取り始めていた。

 

 三人の眠り女たちは落ち着かない想いを胸に、夜明けを待った。

──影人の皇女クロウディアは、『恋人』の力を司る眠り人マヌと、『悪魔』の力を司るとされる眠り人ダーサの娘である。影の帝国インス・オムヴラの皇女である彼女は、暗黒騎士団『鴉の師団』の師団長でもある。

 

──チェルシー・ネア著『眠り女』より。

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