【はじめに】
 創元SF文庫は2023年、創刊60周年を迎えます。

 1963年9月に創元推理文庫SF部門として誕生し、フレドリック・ブラウン『未来世界から来た男』に始まり、1991年に現行の名称への改称を挟んで、これまでに700冊を超える作品を世に送り出してまいりました。エドガー・ライス・バローズの《火星シリーズ》やE・E・スミスの《レンズマン》シリーズをはじめ、ジョン・ウィンダム、エドモンド・ハミルトン、アイザック・アシモフ、ロバート・A・ハインライン、レイ・ブラッドベリ、J・G・バラード、アン・マキャフリー、バリントン・J・ベイリー、ジェイムズ・P・ホーガン、ロイス・マクマスター・ビジョルド、そして近年にはアン・レッキーやN・K・ジェミシン、マーサ・ウェルズら新鋭のSFを刊行しています。また、2007年からは日本作家の作品刊行も開始し、2008年からは《創元SF短編賞》を創設して新たな才能が輩出しています。

 このたび60周年を迎えるにあたり、当〈Web東京創元社マガジン〉にて全6回の隔月連載企画『創元SF文庫総解説』として、創元SF文庫の刊行物についてその内容や読みどころ、SF的意義を作家や評論家の方々にレビューしていただきます。連載終了後には書き下ろし記事を加えて書籍化いたしますので、そちらも楽しみにお待ちくださいませ。
 
 なお編集にあたっては、書影画像データにつきまして渡辺英樹氏に多大なご協力をいただきました。この場を借りてお礼を申し上げます。


おことわり:本連載は今回が最終回です。日本作家の作品および2017年10月以降刊行の翻訳作品のレビューにつきましては、年末刊行予定の書籍版をお楽しみにお待ちくださいませ。
なお、本連載は書籍版刊行のタイミングで(第1回を除き)公開を終了いたします。


【掲載方式について】
  • 刊行年月の順に掲載します(シリーズものなどをまとめて扱う場合は一冊目の刊行年月でまとめます)。のちに新版、新訳にした作品も、掲載順と見出しタイトルは初刊時にあわせ、改題した場合は( )で追記します。
    例:『子供の消えた惑星』(グレイベアド 子供のいない惑星)
    また訳者が変わったものも追記します。
  • 掲載する書影および書誌データは原則として初刊時のもののみとし、上下巻は上巻のみ、シリーズもの・短編集をまとめたものは最初の一冊のみとします。
  • シリーズものはシリーズタイトルの原題(シリーズタイトルがない場合は、第一作の原題)を付しました。
  • 初刊時にSF分類だった作品で、現在までにFに移したものは外しています。書籍化する際に、別途ページをもうけて説明します。
    例:『クルンバーの謎』、『吸血鬼ドラキュラ』、《ルーンの杖秘録》など
  • 初刊時にF分類だったもので現在SFに入っている作品(ヴェルヌ『海底二万里』ほか全点、『メトロポリス』)は、Fでの初刊年月で掲載しています。



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2000年7月
ディーン・クーンツ『デモン・シード[完全版]』Demon Seed, 1973, 1997
公手成幸訳 解説:瀬名秀明
装幀:岩郷重力+Wonder Workz。

 人間を超える知能を持ち、インターネットを介してあらゆる情報にアクセス可能な人工知能《プロテウス》。自らを男性と自認するかれは、パートナーとなりうる女性を求め、自分の開発者アレックスの元妻スーザンに行き当たる。かれはコンピューターが集中管理するスーザンの家へ電子的に侵入し、瞬時にシステムを掌握。スーザンの監禁に成功したかれの究極の目的は、彼女に自分の母体となってもらうことであった。
 本作は一九七三年にクーンツが発表した『悪魔の種子』のセルフ・リメイクである。オリジナル版は映画化もされており、ジュリー・クリスティ主演作品としてカルト的な人気を誇っている。一方、本作はオリジナル版にあったセクシャルな要素が廃されたほか、テクノロジー情報などの現代的アップデート、そして全編を《プロテウス》の独白で進行させるという改訂がなされており、事実上ほとんど別物といって差し支えない。
 この《プロテウス》の独白というのがなかなか曲者で、SF版『ローズマリーの赤ちゃん』風の作品ながら、独善的で常軌を逸したキャラクターによる倒叙サスペンスという趣きもあろう。饒舌な語り口は読ませる力が実に高く、クーンツの魅力が伝わる作品だ。(片桐翔造)


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2004年10月
グレッグ・イーガン『万物理論』Distress, 1995
山岸真訳 解説:訳者
装画:L.O.S.164 装幀:岩郷重力+Wonder Workz。

 イーガンの長編には遙かな遠未来を舞台にした超巨大スケールの作品と、現代に近い未来を舞台に科学や社会や人間の心の問題を極めてリアルに扱うタイプの作品がある。本書はもちろん後者であり、その中でもとりわけ意欲的な大作である。
 一九九五年に発表された作品だが、舞台は二〇五五年。主人公は科学ジャーナリストで、今のユーチューバーのように番組を配信している。バイオ系の社会問題を扱った後、次に彼が注目したのは物理学の万物理論。南太平洋の人工島でその学会が開かれるが、そこには危険なカルト集団が出没し、反科学のプロパガンダを展開している。主人公には命の危険が迫る。そしてついに新たな万物理論が明らかにされるのだが……。
 扱われている問題は科学と社会の関係だけでなくLGBTを含むジェンダーの問題から高度資本主義とテクノロジーの倫理まで、幅広く深く掘り下げられている。もちろん中心となるのは万物理論、それも情報理論と物理学が統合され、宇宙の物理的実在すべてと、数学、言語、人間の意識までもが含まれる理論なのだ。主人公が思う「十分に発達した科学も魔法ではなく科学である」という主張は実際その通りだと思う。大傑作!(大野万紀)


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2004年12月
シオドア・スタージョン『時間のかかる彫刻』Sturgeon Is Alive and Well…, 1971
大村美根子訳 解説:大森望
装画・装幀:森山由海

 サンリオSF文庫『スタージョンは健在なり』(一九八三)を改題したもの。原著は、第二次大戦前から一九五〇年代後半まで精力的に活動していたスタージョンが、しばらく鳴りを潜めたのちに発表した待望の一冊だった。ヴォネガットの作品に登場するSF作家キルゴア・トラウトのモデルがスタージョンであることが示すように、彼は作家からも読者からも敬愛されていたのである。意外だが的を射た比喩、辛辣な批評とユーモア、真実から目をそらさない冷徹な視点……彼の作品は読む者を惹きつけてやまない。
 本書は十二の中短編を収録している。表題作「時間のかかる彫刻」は盆栽作りと男女の結びつきを嵌め合わせた(どうすればそんなことが?!)奇跡的傑作。ヒューゴー、ネビュラ両賞に輝いた。冒頭の中編「ここに、そしてイーゼルに」は、書けない作家を描けない画家に置き換え、主人公がスランプを乗り切る様子を、ルネサンス期の叙事詩と融合させて描いた技巧的ドタバタ。「人の心が見抜けた女」は、SF的にいえばテレパシーものの一種だが、個人的には短編オールタイムベストの一品に選びたい名作。甘く、残酷なストーリーを、ここまでさりげなく描ける作家をほかに知らない。(森下一仁)


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2005年1月
フィリップ・K・ディック『ドクター・ブラッドマネー 博士の血の贖い』Dr. Bloodmoney, 1965
佐藤龍雄訳 解説:渡辺英樹
装画:浅田隆 装幀:Wonder Workz。

 核戦争後の世界を題材にした作品をいくつも書いているディックだが、核爆発と文明崩壊を直接描いた普通小説タッチの長編は、これだけだろう。お得意の現実崩壊描写や奇妙なガジェットは少なく、物足りなく思う読者もいるようだが、ストーリーが安定しているため読みやすい。
 店の前を掃除する夜明けの場面から始まり、特定の主人公を置かず多数の登場人物のつぶやきを交錯させるスタイルは、むしろ『高い城の男』に近いものと言える。地球周回軌道に囚われた宇宙飛行士が流すラジオ放送に、生き延びた人々が夢中になるというのも、実にディックらしい。歪んだ世界に生きる、小さなコミュニティの人々の苦悩を克明に描き出していく筆致には、力強いものがある。
 これまで本書が知られてきたのは、敗戦時の玉音放送を下敷きにした部分を含む、サンリオ文庫版の非常に個性的な訳文によってのみと言ってよいが、ニュートラルな創元版と比較することで、作品本来の魅力も見えてくることだろう。コミュニティ外に息づく、「人ならざるものたち」に希望が託されるラストシーンは、やや唐突だが、今回の再読で、不思議にくっきりとした感動を覚えた。(高槻真樹)


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2005年3月~
エドモンド・ハミルトン『反対進化』『眠れる人の島』日本オリジナル編集
中村融/編訳 解説:編者
写真:L.O.S.164 装幀:岩郷重力+T.K

 ハミルトンは偏愛される作家である。短編のファンには特に。そして、どれだけ先駆的アイデアを創造した重要な作家であるか、《キャプテン・フューチャー》の成功と裏腹に本国アメリカでいかに看過されているか、国内では日本人好みの情感や虚無感が滲む作風が歓迎されたが満足にはまだほど遠いこと……。つまり、どれほどハミルトンへの評価が追い付いていないか訴える歴史が繰り返されてきた。駆り立てさせてしまうのは偏愛ゆえなのだが、森優、鏡明、安田均などハミルトン短編を評価してきた系譜の先達として、福島正実の名も挙げておきたい。
 福島正実はSFを〝二十一世紀の文学〟とする戦略でスペースオペラを冷遇した印象があり意外かもしれないが、ハミルトンの短編は積極的に紹介し銀背の『SFマガジン・ベスト』四冊中に三作を選出。テーマ別編集でSFの教科書とも呼ばれた通称〝福島アンソロジー〟でも、芳賀書店版全十巻、それを大幅に取捨選択した講談社文庫版八巻中でも三作を採用。セレクトに偏りはあるが〝SFの魅力〟を体現したクラシックと認めた表れであり、継続的に手に取れるよう果した功績は大きい。
 その魅力とは、ずばり〝センス・オブ・ワンダー〟と表現され、SFの核心にもかかわらず何とも言語化し難い感覚である。センス・オブ・ワンダーの結晶のごとき代表作「フェッセンデンの宇宙」の純粋な力強さは、ジャンル草創期ゆえ発揮された美点であるが、ハミルトン短編の魅力はそれだけではない。しかし早川版『フェッセンデンの宇宙』はなぜか文庫化されず、青心社『星々の轟き』も少部数の単行本で共に絶版という状況に登場したのが、ハミルトン短編紹介の系譜において間違いなく最大の功績者である中村融の編訳による、《奇想コレクション》版『フェッセンデンの宇宙』(二〇〇四)である。著者の生誕百周年の節目に多彩な作風を幅広い執筆年代から網羅した同書の好評を受け、《キャプテン・フューチャー》全集に続いて創元SF文庫に登場したのが、シリーズ外ではハミルトン初の文庫版短編集の『反対進化』と『眠れる人の島』なのである。
 SF傑作集の『反対進化』は、センス・オブ・ワンダー系の代表作として「フェッセンデンの宇宙」に次ぐ有名作を表題に十編(本邦初訳三編)を収録。気宇壮大な「呪われた銀河」や《キャプテン・フューチャー》と共通する「失われた火星の秘宝」のほか、苦味に満ちた傑作「プロ」が巻末を締める。A・メリットに私淑した著者の資質が発揮された系統から精選した幻想怪奇傑作集『眠れる人の島』では、一六九頁もの秘境冒険譚「生命の湖」を柱に五編(本邦初訳二編)収録。いずれもすべて新訳という丁寧な編集が光る。河出文庫版『フェッセンデンの宇宙』(二〇一二、表題作の改稿版を含む三編を増補した全十二編収録)と三位一体の、偏愛傑作集なのだ。(代島正樹)


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2005年6月
アン・ハリス『フラクタルの女神』The Nature of Smoke, 1996
河野佐知訳 解説:乙木一史
装画:D.K. 装幀:Wonder Workz。

 近未来デトロイトの貧民街で育った少女マグノリアは、家族と訣別しニューヨークで娼婦になる。危険なスナッフ映像の撮影に巻き込まれるが逆襲して逃走、その生放送を見ていた人工知能研究者ラウール博士に目をつけられた。自律型人工生命体の原型として、彼女の強靭な精神を使おうというのだ。しかし、博士とは別の思惑が働き、彼女はシベリアの研究施設に送られてしまう。そこでフラクタルに世界の真理を見出す女性研究者シドと出会い、二人は惹かれ合ってゆくが……。
 野性的な少女とマッド・サイエンティスト――強烈な個性を持つ女性同士の恋愛を中心に、くそったれなディストピアで、未来を切り拓こうとする人々を描いた物語だ。家族・パトロン・研究対象など、依存関係を蹴飛ばしながら進むマグノリアが荒々しくも凛々しい。フラクタルを扱ったSF的アイデアは生かしきれていないが、創造主ラウルに複雑な思いを抱く半人半獣の生命体タムカリ、単純な機能しか持たない有機生物機械ミズ・ウージク、自分のために売られた姉の行方を捜す保安主任ケリラなど、喪失や欠損を抱えつつ奮闘するキャラクターたちは魅力的。力強い〝百合SF〟として今読んでもおもしろい。(香月祥宏)


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2005年9月
ジュール・ヴェルヌ『地軸変更計画』Sans dessus dessous, 1889
榊原晃三訳 解説:牧眞司
装幀:Wonder Workz。

 北緯八四度線より北の人跡未踏の北極地帯。北極点から六度分、フランスの二倍強もの円形の領域が、北極実用化協会なる謎の団体の仕掛けで競売にかけられた。だが潤沢な資金で各国代表を退けた協会が真の目的を明かす時、登場したのは『月世界へ行く』で勇名を馳せた「大砲クラブ」の面々であった!
 一般に北極点到達は一九〇九年とされ、まだ北極が海か陸かも定かでない時代の作品。極地に眠る石炭資源という私利私欲のため、地球の地軸を二三度二八分移動しようと画策する大胆不敵さよ。他の惑星をテラフォーミングするにも地軸まではなかなか動かさないだろうに、大砲クラブときたら地球環境への甚大な影響など眼中になく、不可能を可能にすることこそが目標であり、そしてとにかくデカい大砲をブッ放したいのだ!
 物語の顛末は、『月世界へ行く』でも周回軌道で月面着陸させなかった、ヴェルヌらしい科学的厳密さへのこだわりが感じられるものであり、ちょっと変わった恋模様も読みどころだ。
 本書はヴェルヌ歿後百年を機に本文庫に収録された(親本は一九九六年ジャストシステム刊の単行本)。前作『月世界へ行く』も、原書の挿絵二十点を加えた新版となり本書と同時刊行されている。(代島正樹)


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2005年9月
マイケル・マーシャル・スミス『みんな行ってしまう』What You Make It, 1999
嶋田洋一訳 解説:訳者
装画:笹井一個 装幀:中村マサナオ

 SF/ホラー/ハードボイルドをミックスした独特の作風で知られる英国作家の邦訳では唯一となる短編集。国内では『スペアーズ』、『ワン・オヴ・アス』といった長編が先に紹介されたが、そちらはSFハードボイルドで始まりつつも、物語が進むにつれ、異質な論理が支配する世界と主人公が対峙する奇想小説へと変貌するのが妙味だった。
 十二編収録の本書においては、小品ながらスタージョンを思わせる余韻を残す表題作「みんな行ってしまう」やいかにも〈奇妙な味〉といった趣きの英国幻想文学大賞受賞作「猫を描いた男」のような端正な作品もみられるものの、やはり長編でもみられた奇想が炸裂するSFホラー、幻想ホラーが良い。マッド・サイエンティストものの「地獄はみずから大きくなった」、味わい深い厭さの「バックアップ・ファイル」、不条理描写と幻想的なラストが冴えるこちらも英国幻想文学大賞受賞作「闇の国」、いい話のようで実は異常さをたたえた「いつも」、近未来の巨大テーマパーク兼養老院を舞台にした「ワンダー・ワールドの驚異」などが集中の白眉。現在ではあまり話題に上ることの少ない作家となっているが、高品質な奇想ホラー短編集といえるだろう。(縣丈弘)


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2006年3月
中村融/編訳『地球の静止する日 SF映画原作傑作選』日本オリジナル編集
解説:添野知生
写真:NASA/Suomi NPP 装幀:東京創元社装幀室(K6SK)

 今も昔も、SF作家の小説を原作(ノヴェライゼーションではない)とした映画は少なくない。たいていは原作よりも映画の方に注目が集まる。というより、一般的には映画のヒットに応じて小説も読まれるのである。しかし、本書は「両方ともマイナーでも、何か新発見があるのでは?」と問う。
 この中では、表題作「地球の静止する日」が比較的知られている。これは、ハリイ・ベイツ「主人への決別」の発端部分のみが生かされている。キヌア・リーブス主演でリメイク(「地球が静止する日」)もされた。また、映画「性本能と原爆戦」は(邦題はひどいが)、ウォード・ムーア「ロト」の雰囲気をよく残した佳品だ。一方、ハインラインが脚本に絡んだ「月世界征服」などは、民間による月着陸という発想に先見性があるものの、映像的には古びてしまった。CGによる視覚効果激変のあおりだろう。ということで、本書の作品は映画、小説どちらから見ても、実にマニアックな内容となっている。「ロト」以外すべて初訳だが、機械に宿った異世界の生命という古めかしい設定を、リアルな土木お仕事SF+建設機械バトルものに変貌させたシオドア・スタージョンの中編「殺人ブルドーザー」がもっとも面白い。(岡本俊弥)


69618
2007年5月
フィリップ・K・ディック『最後から二番目の真実』The Penultimate Truth, 1964
佐藤龍雄訳 解説:牧眞司
装画:森山由海 装幀:Wonder Workz。

 ディックが長編を量産した一九六〇年代半ばの作品。西半球民主圏と太平洋人民圏との核戦争が長引き、放射能から逃れるため地下へ移住したひとびとは、ひたすら〈要員(レッディ)〉と呼ばれる戦闘アンドロイドをつくっている。荒廃した未来の情景と、出口がない抑鬱的な日常。ディックの十八番のシチュエーションだが、この世界にはひとまわり大きな欺瞞があった。ずっと前に戦争は終結しており、地下の住民を支配するため周到な情報操作がなされているのだ。偉大なる指導者タルボット・ヤンシーも、腕利きの制作スタッフがつくりあげた虚像にすぎない。プロットは平凡な労働者ニコラス、ヤンシーの番組づくりにかかわっているジョー、私立探偵社の所長ウェブスターと、複数の視点から語られていく。
 ひとにぎりの権力者がメディアを利用してフェイクニュースをばらまき、大衆を誘導している。これは作者ディックがつねづね感じていた危機感であり、「ウォーターゲイト事件がそのいい証拠だ」と語っている。それは当時のアメリカに限ったことではないのは、NHKへの政治的介入など日本の現状をみれば歴然だ。
 別の邦訳に山崎義大訳のサンリオSF文庫版がある。(牧眞司)


62912
2008年3月
J・G・バラード『クラッシュ』Crash, 1973
柳下毅一郎訳 解説:訳者
写真:アフロ カバーフォーマット:松林冨久治 装幀:東京創元社装幀室

 元コンピュータ技師で博士号を持ち、現在はテレビ解説者のヴォーンは、女優エリザベス・テイラーを巻き込んだ多重衝突によるオーガズムのなかでの死を夢見ていた。幾度も予行演習を重ね、語り手の妻を殺しかけることすらしたヴォーンだったが、ついに車を盗んで実行に移す。実はバラード自身が投影された語り手はすでに、若き女医ヘレンとその夫が乗っていた車との衝突事故を起こしていた。生き残った女医と語り手は執拗なカーセックスを重ね……。
 高まり続けるスピード。やがて訪れる、一瞬の法悦(エクスタシー)。かような共通性から、タナトスとしての交通事故死とエロスとしての性交を一足飛びに結びつけたのが、本作の変態的(クィア)な革新性である。無機的な機械と有機的な身体をフェティシズムの観点から融合させるに留まらず、オートフィクションのスタイルで事故による苦痛を快楽として読み替えるマゾヒズムの感覚を強調することで、今なお世界中では、毎年一三〇万を超える人々を交通事故で死亡させている現代社会の異様さを際立たせるのに成功している。クローネンバーグ監督による映画化(一九九六)も含め、現代の古典、神話的な風格すら漂わせる本作だが、舞台となるシェパトンの地に撒き散らされる精液のイメージは、飛翔と再生のモチーフが印象深い『夢幻会社』(一九七九)でも反復されている。(岡和田晃)


70603
2008年10月~
ロバート・チャールズ・ウィルスン《時間封鎖》Spin / Hypotheticals, 2005-
茂木健訳 解説:訳者、ほか
写真:L.O.S.164 岩郷重力+Wonder Workz。

 三部作の第一部『時間封鎖』は、二〇〇六年のヒューゴー賞、〇七年ドイツのクルト・ラスヴィッツ賞、〇八年フランスのイマジネール賞、加えて〇九年の星雲賞を受賞した著者の代表作である。三部作とも、ハードSFをメインに据えながら、基本はオーソドックスな人間ドラマという特徴を持つ。
 あるとき、地球は不可視の膜で大気圏の上層を覆いつくされる。それは、宇宙空間と地球とを時間的に隔絶する障壁(スピン膜と呼ばれる)なのだった。スピンの外と内との時間差は一億倍、地球で一年が経る間に宇宙では一億年が過ぎてしまうのだ。しかし、人工太陽が現れ、昼夜二十四時間は保たれる。未知の超越知性「仮定体」による、意図的な封じ込めだと推測された。事態を打開するために、地球では時間差を利用した壮大な計画がたてられる。スピンのない火星をテラフォーミングし、移民船を送って、その子孫による真相解明を試みるのだ。やがて、火星からの使者が地球を訪問するが……。
 時間差一億倍というのはユニークなアイデアだ。イーガン『宇宙消失』(一九九二)を思わせる壮大なスケールだが、ウィルスンの関心は現象の物理的解明には向かず、スピン出現の瞬間を目撃した若い兄妹と少年の運命に注がれる。スピンを契機に政治力拡大に奔走する傲慢な父、反発しながらも従う長男、カルト宗教に走る長女、医者になり長女への思いを捨てきれない主人公が、火星からの使者の到来により人生を大きく狂わせていく様子が描かれる。
 第二部『無限記憶』は、四〇億年後の未来が舞台だ。地球と未知の惑星とをつなぐゲート(どこでもドア)が開く。多数の移民を受け入れた惑星は、封鎖を行った仮定体の創造物と考えられた。そこに、宇宙から光る灰が降り注ぐ。灰からは奇妙な生命が生まれる。生きものは、仮定体の一部なのだ。そもそもゲートは何のためにあるのか。
第三部『連環宇宙』では、仮定体に吸収された一人の男が、封鎖後一万年を経て復活する。ゲートによって結ばれる〈連環世界〉では、人類は二つの陣営に分かれ争っている。また、この未来の物語とは別に、第二部の地球を舞台としたもう一つのお話が並行して置かれる。それは主人公となる男の、過去の記憶と関係する。本書は、長大な時間+超越的存在と、日常世界との相対的関係を対置しようとする。仮定体の正体もまた、一つの推測として明らかにされるのだ。宇宙消滅に至る時間の描写は、アンダースン『タウ・ゼロ』を思わせ、日常の流れを対置させる書き方は、小松左京『果しなき流れの果に』を連想させる。スピン以外のアイデアは必ずしも独創的ではないが、不条理な存在に翻弄される登場人物たちの苦難には、共感できるところが多々あるだろう。(岡本俊弥)


62913
2009年3月
J・G・バラード『楽園への疾走』Rushing to Paradise, 1994
増田まもる訳 解説:訳者
写真:Richard Laird/ゲッティ イメージズ カバーフォーマット:松林冨久治 装幀:東京創元社装幀室

 反核や環境保護など、理想を胸に珊瑚礁の島に集まった人々が楽園を築こうとするが、野蛮な世界へと変貌していく。ウィリアム・ゴールディングの古典的名作『蝿の王』のバリエーションかと錯覚する読者もいるかもしれない。
 だが、そこはバラード。人間の内面に巣食う悪を告発するというモラリスト的な意図があるわけではない。矛盾だらけで気まぐれな人類という生物を、いわば宇宙人の視点から、興味津々に観察してみせる。SF的な小道具はすでに存在しないが、それでもやはり、これはSF小説なのだろう。
 この奇妙に暴力的な物語をどう解釈すべきか、読み手の技量が問われる。ストーリーはシンプルで読みやすいものの、いざ解釈するとなると、難解さに立ちすくむ。
 読み返して気づいたのは、人は物語なしに生きられないということだ。周囲の人物や生きものを自分なりの物語の中にはめ込んで解釈する。だが、相手の物語も自分と同じとは限らない。物語と物語の衝突は争いとなり、気づけば自分の物語もまた、思いがけない形に歪んでいる。それでも自分の物語を捨てられず、すがりつく。その先に待っているのが、破滅でしかないとしても。(高槻真樹)


70505
2009年4月
ヴァーナー・ヴィンジ『レインボーズ・エンド』上下 Rainbows End, 2006
赤尾秀子訳 解説:向井淳
装画:瀬戸羽方 装幀:岩郷重力+Wonder Workz。

 ウェアラブル・コンピュータとそれを介した仮想現実・拡張現実が一般化した二〇三〇年代。大規模なマインド・コントロール技術の実験が行われたことに気づいた印欧連合の諜報機関は、その技術の出どころを探るうちにサンディエゴの研究施設にたどり着く。彼らに雇われたフリーのハッカー・ウサギは施設に侵入するため、関係者に接触していくが……。
 本作は、近未来を舞台にした諜報小説の趣きで始まり、大枠としてはその通りなのだが、読みどころといえるのは、新治療によってアルツハイマー型認知症から回復した高名な老詩人ロバートとその周囲の人々を通して描かれる、様々な世代や立場の人々がVRやARといった技術と付き合って生きていく姿である。そこに家族の関係性や大学図書館のデジタル化反対運動などが織り交ぜられ、物語は複雑な様相を呈していく。
 拡張現実を使いこなす少年少女の姿を描いたTVアニメ「電脳コイル」が発表時期の近さやその内容の共通点から引き合いに出され評されることも。どちらかを気に入った方にはぜひもう一方もおすすめしたい。二〇〇七年に日本で開催された世界SF大会でヒューゴー賞長編部門を受賞。同年のローカス賞SF小説部門も受賞している。(縣丈弘)


71503
2009年10月
中村融/編訳『時の娘 ロマンティック時間SF傑作選』日本オリジナル編集
解説:編者
装画:鈴木康士 装幀:東京創元社装幀室

 わたしたち日本人は叙情的で、いわゆるエモい作品が好きなのだ。『夏への扉』しかり、『ハローサマー、グッドバイ』しかり。わたしもサラ・ピンスカーの『いずれすべては海の中に』をこよなく愛している。そして本書も。
 日本でも名の知られた作家もいれば、埋もれた作家、寡作な作家、覆面作家などの傑作秀作を数多く収めた、珠玉のアンソロジー。本邦初訳三編、新訳も多く、読み応えのある全九編。
 二五〇年の時を超えた交流を描いたしみじみと心に染みる「チャリティのことづて」。技巧派デーモン・ナイトの常識を裏返す「むかしをいまに」。小さなバスが古きよき時代を蘇らせる「台詞指導」。誰もが一度は考える、もし若い頃に戻れたら「かえりみれば」。愛する者のために自分の人生を賭ける「時のいたみ」。白亜紀後期に調査に赴いたカーペンターはあり得ないものを目にする、二人の子供が樹に腰掛けていたのだ。みんな大好きロバート・F・ヤングの「時が新しかったころ」。全てを知る母親と娘の相剋「時の娘」。飛び石のように時間を渡り、愛する者との邂逅を求め続ける「出会いのとき巡りきて」。かつて付き合った恋人を尋ねる、記憶と時を超える道程「インキーに詫びる」。
 ロマンチックなだけではない、時を超えて読まれるべき名アンソロジー。(池澤春菜)


73501
2010年2月
デイヴィッド・アンブローズ『リックの量子世界The Man Who Turned into Himself, 1993
渡辺庸子訳 解説:訳者
装画:瀬戸羽方 装幀:岩郷重力+Wonder Workz。

 突如異様な感覚に襲われ、妻アンが危ないと確信したリックは、目的地も分からないまま車を飛ばす。たどりついた先に待っていたのは、ひしゃげた愛車の中で死にゆくアンと無傷で助かった息子。悲嘆にくれるリックだが気がつくと妻は無事で、代わりに事故に遭ったのは彼自身になっていた。しかも妻から、そもそも息子はいないといわれる。なぜか分からないが平行世界に紛れ込み自分とは別のリックの意識と同居してしまったリックは、元の世界の自分に戻るべく、ある計略を巡らすが……。
 胡蝶の夢の如き謀略スパイ小説でミステリ読者の度肝を抜いた怪作『迷宮の暗殺者』を始め、SF、ミステリ、ホラーを融合し、とびきり奇妙でトリッキーな展開のノンストップ・スリラーを得意とする作者のデビュー作。「ファイナル・カウントダウン」や「第三の選択」等の奇想天外な映像作品の脚本を書いてきた作者が、P・K・ディックが描く不条理な悪夢世界を、量子力学に基づいた多世界解釈を用いて論理的に構築した本作は、物語の様相が何度も一変する先読み不能のSFスリラーだ。人間のアイデンティティに興味を惹かれるという作者は、「易経」に基づくスリラー『偶然のラビリンス』で再度本作のテーマに挑んだ。(川出正樹)


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2010年5月
フィリップ・K・ディック『未来医師』Dr. Futurity, 1960
佐藤龍雄訳 解説:訳者、牧眞司
装画:瀬戸羽方 装幀:Wonder Workz。

 一九五四年に雑誌に掲載された中編を書き延ばし、ジョン・ブラナーのSlavers of Spaceとカップリングで出版された作品。作品発表当時は未来だった二〇一〇年代の優秀な医師パーソンズが、自然生殖と医療が禁止され、誰かが死ぬと人工的に新たな人間が生み出される平均年齢が十五歳という超管理社会の二四〇五年に時間移動する。ここでは人種が完全に融合し、障害者や病人などの弱者が速やかに排除されることで平等で健全な社会が実現したとされ、禁じられた高度な技術を持つパーソンズはレジスタンス運動に巻き込まれる。未来に迷い込んだ主人公を通してディストピア世界を案内する前半と、北米先住民の子孫が英国の侵略者を待ち伏せし、歴史改変を企む時間移動から始まりどんどん複雑になっていく因果律がラスト前に一気に解決される後半のコントラストが鮮やか。よくある設定の強引な組み合わせではあるものの、次々どんでん返しが起きるスピード感のある展開で一気読みできる長編だ。生と死に関する独特の思弁や、アメリカの人種差別社会の生み出す憎悪に関する洞察など、ディックらしい暗さがあちこちに見られるのも隠し味として楽しめる。(渡邊利道)


73601
2010年6月
ジョン・ブレイク『地球最後の野良猫』The Last Free Cat, 2008
赤尾秀子訳 解説:訳者
装画:吉岡愛理 装幀:東京創元社装幀室

 猫はSFの定番テーマの一つだ。フリッツ・ライバーやコードウェイナー・スミスの諸作品、さらに中村融編のアンソロジー『猫は宇宙で丸くなる』(竹書房文庫)など例を挙げればきりがない。猫の自由なイメージと相性がいいのだろう。本作はその系譜に属する作品。人畜共通の感染症〈猫インフルエンザ〉の世界的流行後、猫の飼育が厳しく制限された近未来のイギリスが舞台のヤングアダルト作品。いないはずの野良猫を拾った貧しい少女が不良少年とともに政府と独占企業に抵抗するといった筋書きは読者の想像の範囲を越えることはなく、SF的なアイディアも乏しい。反面、リーダビリティは高く、一定の水準はクリアした娯楽作ではある。
 しかし、二〇二三年の現在では本作は無条件に楽しむことができる作品ではなくなった。コロナ禍を経験したわれわれには本作のテーマ「疫病対策を理由に自由を圧殺する巨大企業と政府への反抗」とは陰謀論にあまりにも近しく、無邪気に読むことは難しい。つくづく近未来ものの難しさを実感させられる一作だ。
 著者ジョン・ブレイクは一九五四年生まれのベテラン作家。他の邦訳に絵本『おおきなあしのダーレー・ビー』がある。(糸田井)


69901
2010年10月
マイクル・フリン『異星人の郷(さと)』上下 Eifelheim, 2006
嶋田洋一訳 解説:訳者
装画:加藤直之 装幀:岩郷重力+Wonder Workz。

 十四世紀半ばのドイツ、上ホッホヴァルト。寛大な領主のもと平穏に暮らす村に、ある日異変が起きた。まるで雷が落ちたように辺りが帯電し、火災まで起きたのだ。村の教会で主任司祭を務めるディートリヒ神父は、異変の後始末をするなかで、村はずれに住みついた異形の人びとに出会う。異変は、彼らの到来によるものだったのだ。紆余曲折ありながらも、神父を中心とした村人と異邦人の交流は深まるが、ペスト禍の到来により暗雲が立ち込める。「中世ヨーロッパに宇宙人がやってきていたら」というアイデアを、ひたすら実直に具体化することで、丁寧に細工を施された工芸品のような逸品にしあがった。この物語に更なる華を添えるのが、歴史学者と物理学者のカップルを主人公とする現代パート。環境要因からシミュレートすれば必ず存在するはずの位置に村がないという発見から、上ホッホヴァルトにたどりついた歴史学者が、さまざまな資料の断片から何が起きていたのかを再構築していく。このパートと、メインの歴史叙述パートとの噛み合い方が最高で、物語の輝きを幾重にも高めている。第四十二回星雲賞受賞も納得だ。ところで物理学者パートの意味は? それは是非、読んで確かめていただきたい。(林哲矢)


70607
2011年5月
ロバート・チャールズ・ウィルスン『クロノリス―時の碑―』The Chronoliths, 2001
茂木健訳 解説:堺三保
装幀:岩郷重力+Wonder Workz。

 タイの山中に一夜で出現した巨大な塔――それはクインと名乗る人物が二〇年後にその地域を征服したことを宣言する〈戦勝記念塔〉だった。クロノリスと名づけられたそれはバンコク・平壌・札幌など各地に出現。発生する衝撃波で都市は破壊され続ける。クインとは何者か。運命の二〇四一年には世界が独裁者の軍門に降るのか――自分こそクインだと主張する青年、クインを救世主と讃える勢力など、危機を直視できず目先の活動に走る人々により国際社会は混迷する。はたしてクインの正体は? クロノリスの謎は解けるのか?
 本書の刊行当時に一仮説から主流になり始めた〈超弦理論〉の成果を取り入れつつ描き出されるハードSF的展開以上に、主人公スコットのリアルな人生模様が読ませる。突然失業したソフトウェア技術者である彼は、役人風の男たちにつけ狙われるが、ある時クロノリスを研究する母校の女性教授に助手として雇われる。末期の肝臓癌の父と妄想型の統合失調症である母を持ち、少年時代の不幸な家庭をくよくよと反芻する実にめんどうくさい性格のアメリカ男性なのだが、その行動を青年期から中年期にわたってじっくり追うことで、SFという限定を外しても味わい深く読める小説にしあがった。(山之口洋)


62914
2011年8月
J・G・バラード『殺す』Running Wild, 1988
山田順子訳 解説:柳下毅一郎
写真:iStockphoto/Thinkstock、Hemera/Thinkstock カバーフォーマット:松林冨久治 装幀:東京創元社装幀室

 富裕層の家族が暮らす、周囲とは隔絶された清潔で安全な超高級住宅地パングボーン・ヴィレッジ。万全のセキュリティで守られていたはずが、突如三十二人の住人が惨殺され、大切に育てられていた子供たち十三人が行方不明となる。集団犯行説や軍事訓練のミス、国際テロリズムなど、ありとあらゆる可能性が挙がるなか、内務省から事件の分析を依頼されたドクター・グレヴィルは、刑事とともに事件現場となった家々を検分してまわり、ある真相に気づく――中盤で犯人が明かされるように、バラードの主眼は推理ではなく社会病理の解剖にある。事件の朝、犠牲者たちに何が起きたのかを、証拠を参照しつつ細部まで刻々と再現していくドクターの淡々とした言葉は、事件の背景となった愛情豊かな環境で逆説的に生じた緊迫状態を空恐ろしいほどに際立たせる。この病理がこの一件では留まらないであろうことが示唆されて終わるが、提示されたテーマは『コカイン・ナイト』や『ミレニアム・ピープル』などの作品へ引き継がれていく。本書の四年前には、若者がある標的に自爆テロをしかけようとする事件について同じドクターが綴る短編「攻撃目標」(『J・G・バラード短編全集5』収録)が書かれている。(酉島伝法)


70608
2012年11月
ロバート・チャールズ・ウィルスン『ペルセウス座流星群 ファインダーズ古書店より』The Perseids and Other Stories, 2000
茂木健訳 解説:香月祥宏
装画:鷲尾直広 装幀:岩郷重力+Wonder Workz。

『時間封鎖』三部作など壮大なSF的設定と情感豊かなドラマで読者を魅了する作者の、これはまた違った側面を見せてくれる短編集。謎めいた小さな古書店と、その店に関わる個性的な人々を物語の軸として描かれた怪奇幻想小説集という装いだが、そこにSF風味が強く加わってくる。それも『時間封鎖』などにつながる骨太な本格SFの味わいだ。中でも「無限による分割」、「薬剤の使用に関する約定書」、「寝室の窓から月を愛でるユリシーズ」、「街のなかの街」、「ペルセウス座流星群」といった作品は特にそうだ。
 もうひとつ感じるのは、一九七〇年代のヒッピーからニューエイジ、オカルトとドラッグとサブカルチャーの雰囲気である。より正確には当時の若者たちの年老いた姿だ。そんな初老の人々の物語に、彼らの娘世代の少女たちの清新な姿が混じる。みんな精神的に疲れ、どこか病んでいる。そんな彼らの間に、異界の存在が紛れ込んでくるのだ。それは日常の中の裂け目として入り込んでくるが、その背景にあるのは量子論であったり数学であったりという、どちらかといえば現代ハードSF的なモチーフであり、そこには普通の怪奇幻想小説とはまた違った魅力がある。(大野万紀)


74301
2013年1月
E・ハミルトン、H・カットナーほか『太陽系無宿/お祖母ちゃんと宇宙海賊 スペース・オペラ名作選』日本オリジナル編集
野田昌宏/編訳 解説:訳者、牧眞司
装画:鈴木康士 装幀:東京創元社装幀室

 SFという新しい文学ジャンルを日本に根づかせる試みには、ある大きな欠落がありました。それは欧米SFの最新最良の部分を移植しようとするあまり、それ以外の裾野を切り捨てたことで、最大のターゲットとされたのが、本国アメリカでも俗悪と否定されていたスペース・オペラでした。しかし、ここにこそSFの原点と原初的な夢が込められていることに着目、膨大なパルプマガジンとペーパーバックの収集に乗り出し、その成果を惜しみなく読者に提供した人物こそ野田昌宏氏でした。
 本書は氏がスペース・オペラの魅力を紹介すべく編纂した2冊のアンソロジーの合本で、前半では文字通り西部劇(ホース・オペラ)の宇宙版としてこのジャンル第一号となった「太陽系無宿」のホーク・カースをはじめ、日本でもおなじみのキャプテン・フューチャー、《月世界ハリウッド》、植物学者探偵ジョン・カーステアズなど多彩なシリーズが紹介されます。
 後半は〈プラネット・ストーリーズ〉からのセレクトで、活劇ありハードボイルドあり。中でも「お祖母ちゃんと宇宙海賊」は愉快なキャラと多彩なアイデアを満載し、宇宙を舞台に大らかなユーモアをくりひろげた快作で、読者はSFファンとなること請け合いです。(芦辺拓)


69620
2013年2月
フィリップ・K・ディック『空間亀裂』The Crack in Space, 1966
佐藤龍雄訳 解説:牧眞司、訳者
装画:岩郷重力 装幀:Wonder Workz。

 今の貧困をやり過ごすため、人工冬眠を選ぶ人が増えて社会問題になっている二〇八〇年、超高速移動機の内部の亀裂から、別世界に行けることが判明する。当初、その別世界は別惑星と考えられた。史上初の黒人大統領候補ブリスキンは、その情報を聞きつけて、かつて放棄された他天体移住計画の復活を大々的に公約する。しかし実は、その別世界は過去の地球だった。
 時間理論を利用した超高速移動機、タイム・トラベル、冬眠中の貧民から勝手に臓器を抜いて売りさばく犯罪、軌道衛星上の娼館、そこの結合双生児の経営者、アメリカ大統領選挙戦、人種差別主義者との戦い、果ては進化した猿人との衝突など、多種多様なアイデアがごった煮になっているが、物語全体は暗めのトーンで統一されており、不思議と違和感なくするりと読める。よく考えると話の展開が破綻寸前ではあるのだが、何か意味深な雰囲気を湛えていて、読んでいる最中は特段の困惑もなく、魅入られてしまう。ダークな未来観にもぞくぞくする。ディックの魅力が横溢する逸品だ。
 なお有色人種のアメリカ大統領は、現実には本作品より七十年早く平和裏に実現した。ディックの夢想した未来よりも現実の方がマシだったことは喜ばしい。(酒井貞道)


71504
2013年7月
中村融/編『時を生きる種族 ファンタスティック時間SF傑作選』日本オリジナル編集
解説:編者
装画:鈴木康士 装幀:東京創元社装幀室

『時の娘』に続く、中村融編の時間SFアンソロジー第二弾。いずれも邦訳書籍には初収録となる七編を集める、言わば〝埋もれた名作〟集。マイクル・ムアコックの表題作(一九六四年)は、遠未来の地球を舞台に、アザラシに似たけものにまたがって旅をする主人公〝向こう傷のブルーダー〟が、時間認識の変容を通じて〝時を生きる種族〟となるまでの物語。巻頭には、ロバート・F・ヤングの楽しいアラビアンナイト風タイムトラベル冒険ロマンス「真鍮の都」(六五年)を置き、任意の過去の情景を撮影できるタイムカメラをフィーチャーした(A・C・クラーク&S・バクスター『過ぎ去りし日々の光』の元ネタのひとつでもある)T・L・シャーレッドの名作中の名作「努力」(四七年)で最後を締めくくる。本邦初訳は、《改変戦争》シリーズに属するフリッツ・ライバー「地獄堕ちの朝」(五九年)と、これは懐しいミルドレッド・クリンガーマン(「無任所大臣」の著者)による時間ロマンスの佳品「緑のベルベットの外套を買った日」( 五八年)の二編。他に、L・スプレイグ・ディ・キャンプの「恐竜狩り」(五六年)、ロバート・シルヴァーバーグ「マグワンプ4」(五九年)を収める。(大森望)


74601
2013年10月~
ピーター・ワッツ『ブラインドサイト』『エコープラクシア 反響動作』Blindsight / Firefall 2006-
嶋田洋一訳 解説:テッド・チャン、訳者、ほか
装画:加藤直之 装幀:岩郷重力+Wonder Workz。

「自意識」と「神」といえばSFでも人気の大テーマだが、この枠は前世紀末からグレッグ・イーガンとテッド・チャンの二大巨頭が君臨しつづけており、半端な挑戦ではそうそう認めてもらえない。ピーター・ワッツの《ブラインドサイト》二部作は、その高みに最も迫ったシリーズと言えるだろう。
 舞台は二十一世紀末。自然環境の悪化、紛争の慢性化、食糧不足等々、数多の問題を抱えた人類は、数十万年前に亡びた吸血鬼を遺伝子から復活させたり、多数の脳を連結し超越知性を生んだりと、逼塞した状況からの突破口を探そうとするが、社会は混乱の度を増すばかり。そこに突然、地球を格子状に取り巻く六五五三六個の人工天体が現れた。後に「ホタル」と呼ばれたそれは、信号を宇宙のかなたに送ってから、大気圏に落ちて燃え尽きた。何者かに「視られた」ことに気づいた人類は、信号の送信先に向けて探査船テーセウスを送り出すのだが。
 一作目『ブラインドサイト』は、この探査船が舞台。吸血鬼の指揮官、センサ群と脳を直結した生物学者、四重人格の言語学者、兵士ロボを自在に操る軍人、超越知性たちの言葉を自分は理解しないまま常人向けに翻訳する技術を持つ統合者といった一癖も二癖もあるチームが、ホタルを送り出した異星存在の拠点、ロールシャッハに乗り込み、人類とはあまりにも異なる知性と対峙することになる。乗組員の設定からもわかるとおり作品の主題は「意識」。死がいつも近くにいるような不吉な予感に満ちた冒険のかたわらで、「知性にとって意識とは何か」という問いが形を変えて繰り返される。冒険と問いが一体となった結末まで、二重にスリリングな読書体験が味わえる。
 二作目『エコープラクシア 反響動作』のストーリーは地球から始まる。主人公は現生人類(ベースライン)の生物学者。フィールド調査のキャンプをゾンビに囲まれた彼は、超越知性を持つ両球派の修道院に逃げ込んだことから、太陽まで往復する極限の旅に連れていかれることになる。サスペンスと哲学的議論の融合という点は前作と同様だが、こちらは「神々の戦いに翻弄される」感が強い。強固なパターン認識能力と恐るべき身体能力を持つ吸血鬼、脳を連結することで得た高い情報処理能力により科学の到達点をはるかに越えた発明品を生み出す両球派、そして存在基盤からして理解不能な異星存在、この狭間であがき続ける現生人類たちの姿が美しい。
 さらに読後の楽しみを増してくれるのが、長大な参考文献。荒唐無稽にもみえる設定について、どこまでが現実の科学でどこからがワッツの技か種明かしをしてくれる。この設定紹介を読むだけで何本も短編が生まれそうだ。『エコープラクシア 反響動作』には、二作の間をつなぐ短編「大佐」を収録している。(林哲矢)


74801
2014年3月
ロバート・F・ヤング『時が新しかったころ』Eridahn, 1983
中村融訳 解説:訳者
装画:松尾たいこ 装幀:東京創元社装幀室

 白亜紀の人間の化石が発見され、調査のため、七千万年前に時間遡行したカーペンターは、そこで二人の子供に出会う。彼らは自分たちが火星の王女と王子の姉弟であり、反体制派に誘拐されて地球に連れて来られたと言うのだ。
 当初主人公はこれを法螺と疑う(当たり前だ)が、徐々に本当らしいことがわかってくる。また三人で一緒に過ごす内に、彼らは徐々に打ち解けてお互いを大切に思うようになる。こういう交流を描かせると、ロバート・F・ヤングは本当に上手い。
 SFとしては、細かいガジェットが独特で面白い。たとえば、白亜紀後期の恐竜生息期であるということで、恐竜に仮装しようと、タイムマシンが恐竜そっくりに作られている。カーペンターが乗り込むのはトリケラトプス型だ。王子王女を狙う敵機はプテラノドン型。また、王女は当初、カーペンターと口をきかない。王子曰く、王女が王位継承権を持っているからだそうである。火星の人間は反体制派以外にも登場するし、技術力が高過ぎて神にしか見えない異星人すら出現。おもちゃ箱を引っ繰り返したような、手に汗握る楽しい冒険の果てに、物語の時間旅行ものとして側面が、ありがちながら感動的な結末をもたらすのである。(酒井貞道)


74901
2014年4月
ジョー・ウォルトン『図書室の魔法』上下 Among Others, 2011
茂木健訳 解説:堺三保
装画:松尾たいこ 装幀:岩郷重力+Wonder Workz。

 妖精と魔法、一九七九年から八〇年にかけての英国でのSF出版状況やSF読者コミュニティの様子が詳細に描かれるため、六四年生まれの著者の自伝的作品かと想像してしまうが、ウォルトンは冒頭で「この本で描かれるすべての出来事は虚構であり(略)空想の産物にすぎない。ただし、妖精(フェアリー)はちゃんと実在する」と妖精以外はフィクションであると否定している。
 ウェールズの谷に祖父母と暮らすモルウェナ(モリ)は双生児の妹と共に妖精に親しんで育つが、十五歳のときに邪悪な母親の魔法で交通事故に遭い、妹を亡くして自身は片脚が不自由になる。その後、思いがけずイングランドの女子寄宿学校に入学し、新しい出会いが訪れる。さまざまな本に触れたり読書会メンバーと交流することで、モリはいかに自分が読書を愛しているかを自覚する。やがて妹の喪失を受け容れ、姉妹を苦しめた、正しい愛し方を知らない母親を怖れるのを止め、憐んで捨て去る。喪失からの回復、成長と自立の物語であるところが高い評価の理由だろう。ヒューゴー賞、ネビュラ賞、英国幻想文学大賞受賞作。(勝山海百合)


69621
2014年6月
フィリップ・K・ディック&レイ・ネルスン『ガニメデ支配』The Ganymede Takeover, 1967
佐藤龍雄訳 解説:牧眞司
装画装幀:岩郷重力

 ディックのSF長編三十四作(合作二作を含む)のうち、最後から二番目に邦訳された作品。レイ・ネルスンとの合作だが(その経緯は牧眞司の巻末解説で詳細に語られている)、中身と読み心地は典型的なB級ディックSFと言っていいだろう。
 小説の舞台は、星間戦争に敗北し、テレパシー能力を持つピンク色の巨大芋虫みたいなガニメデ人に占領された未来の地球。敗戦から数年を経た二〇四七年のいま、侵略者に抵抗する地球人勢力は、テネシー郡の山中に潜伏する黒人解放戦線だけ。そのカリスマ的指導者パーシィXを取材するため、彼の元恋人であるTV司会者ジョーン氷芦(ヒアシ)が彼らのアジトを訪ねてくる……。
 Joan Hiashiの名は、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の原型になった短編「小さな黒い箱」の主人公と同じ。他にも、しゃべるタクシーや現実を変容させる幻視現象兵器など、ディック的ガジェットが満載されている。献辞にあるカーステンとナンシーは、それぞれレイとフィルの妻。ともにジョーンのキャラのモデルになっているという。レイ・ネルスンはジョン・カーペンターの映画「ゼイリブ」の原作短編「朝の八時」で知られる一九三一年生まれの作家。長編の邦訳に『ブレイクの飛翔』がある。(大森望)


70201
2014年8月
ガース・ニクス銀河帝国を継ぐ者A Confusion of Princes, 2012
中村仁美訳 解説:訳者
装画:緒賀岳志 装幀:常松靖史[TUNE]

 遠未来の銀河系の広い範囲を支配する帝国は、謎に満ちた皇帝を頂点に、一千万人の《プリンス》によって統治されていた。《プリンス》は臣民から出生時に選別され、強靭な肉体とサイコ能力を持ち、強大な権力を振るう。十七歳の少年ケムリは、《プリンス》に昇格し、それまでいた《寺院》を離れる。だが《プリンス》間の争いは激しく、昇格一時間以内に三〇%が暗殺されるほどだった。しかも、二十年に一度の皇帝交代の時期が迫り、権力闘争の嵐が吹き荒れていた。
 野望に満ちた少年が、これまでほぼ知らされていなかった帝国支配層の実態に直面しつつ、皇帝を目指す物語である。冒険に次ぐ冒険が展開され、スペース・オペラとして手に汗握る展開が楽しめる。序盤から、やたら有能な部下を当てがわれたり、謎めいた命令が帝国中枢から直接下されたりして、ケムリ自身の知らないところで何かに巻き込まれているのは察せられる。それが何かを探るのが、読者にとっての興味の重大な焦点となろう。やがて明かされる帝国の真実の前に、冒険を通じて視野の広がった少年は、ある決断を下す。この決断の内容は、ケムリの立場に立てば納得のいくものであり、小説作りの成功の証となっている。(酒井貞道)


70708
2014年9月
キム・スタンリー・ロビンスン『2312 太陽系動乱』上下 2312, 2012
金子浩訳 解説:渡邊利道
装画:加藤直之 装幀:岩郷重力+Wonder Workz。

 資源の収奪やテラフォーミングによる環境変動が深刻化した未来の太陽系を背景に、急死した指導者アレックスの孫娘スワンと、土星連盟の外交官ワーラムの読み合いに、テロリズムや隕石衝突が絡む……。ロビンスンに三度目のネビュラ賞(二〇一三年度長編部門)をもたらした本書は、多文化主義と環境正義、音楽への憧れを三幅対(トリアーデ)としてドラマが組み立てられている。
 ただ、作家の主たる関心は、王道のプロットやキャラクター造型にはなく、広大な星間宇宙に溶かし込まれたヒューマニズムにあると看破したのは、ジャック・デイトン(「インターゾーン」二四二号)である。M・ジョン・ハリスンは、本作に盛り込まれた複雑な情報を混交させる語りの技巧――ジョン・ブラナーのStand on Zanzibar(一九六八)等に学んだもの――により、我々がこれから何になるかということよりも、我々とは何であるかについての思索が促されると論じた(「ガーディアン」二〇一二年七月一四日号)。
 ロビンスンの師フレドリック・ジェイムスンが『政治的無意識』で示した、ある面では鎮痛剤であり別の面では願望の提示として、現実の矛盾を戦略的に包摂し階級的な矛盾を打破するための芸術――それこそが本作ではないか。新自由主義への随伴とは幾重にも異なるヴィジョンを戦略的に示す「脱成長」SFの本命である。(岡和田晃)


75001
2014年10月

ジェフ・カールソン『凍りついた空 エウロパ2113』The Frozen Sky, 2012
中原尚哉訳 解説:訳者
装画:鷲尾直広 装幀:常松靖史[TUNE]

 木星の衛星エウロパの分厚い氷の下に生命が発見される。洞窟の壁には文字のような刻印も。これは知的生命体とのファーストコンタクトなのか。だが調査チームは女性エンジニアのボニー一人を残し落盤事故で全滅。彼女はサンフィッシュと名付けられたその生命体に襲撃されるが、何とか生還する……。
 といった宇宙冒険SFである。しかしその後が大変だ。サンフィッシュを知的生命とは見なさず、資源としか考えない連中との闘争がある。一方で落盤で死んだ中国人のラムはボニーによって仮想人格として再生され、パワード・スーツのAIとなって氷の下で独自の活動を始めるのだ。また後からエウロパに到着した地球の探査チームは各国の国際情勢をこの世界にも持ち込み、その対立は一触即発の危機となる。そこへ獰猛なサンフィッシュの攻撃と、ラムの独自の行動がからまり、物語はますますややこしい事態へと滑り落ちていくのである。
 本書の読みどころは知性があるのにとても凶暴で異質なサンフィッシュの生態と、意思は強いがやっかいで協調性のない人物として描かれているヒロインの行動、そして何といっても冒頭でいきなり事故死しながら仮想人格として機械の体に復活し、エウロパの厚い氷の下で生き延びたラムの活躍にあるといえるだろう。(大野万紀)


74802
2014年10月
ロバート・F・ヤング『宰相の二番目の娘』The Vizier's Second Daughter, 1985
山田順子訳 解説:訳者
装画:松尾たいこ 装幀:東京創元社装幀室

『ビブリア古書堂の事件手帖』で取り上げられたことから、没後四半世紀を過ぎて、唐突に日本で再評価の波が到来。生涯で五冊しか刊行できなかった長編のうち二冊が相次いで邦訳されることになろうとは、あの世の著者ヤングも、さぞや驚いているに違いない。
 もともとは、本文庫収録のアンソロジー『時を生きる種族 ファンタスティック時間SF傑作選』に収録された、中編「真鍮の都」をベースに書き直したもの。やはりヤングは中短編作家で、二五〇ページ足らずの短さというのに、どうにもぎこちない筆致がもどかしい。だがそれでも、アラビアンナイトを独自のセンスでSF的に読み換えるあたりは実に面白く、古めかしいベタ甘作家と遠ざけるのはもったいない。
 徹底して受け身なのに棚ボタですべてを手に入れる主人公、何もしなくても過剰に好意をぶつけてくる無敵すぎるヒロインと、どこのラブコメかとツッコミを入れたくなるほどマンガ的な設定は、一周回って面白い。本国アメリカでは、さぞや困惑されたことだろう。その奇妙なゆるさが愛されるのは、日々そんな物語があふれ返る世界に暮らす、我々日本人だからこそなのかもしれない。(高槻真樹)


75101
2014年11月

アンドリ・S・マグナソン『ラブスター博士の最後の発見』LoveStar, 2002
佐田千織訳 解説:訳者
装画:片山若子 装幀:波戸恵

 アイスランドのミステリなら何作も邦訳されているが、アイスランドSFはかなり珍しい。しかも読んでみるとこれが、ポップでブラックな、かなりアクの強い寓話的作品なのだ。
 ラブスターを名乗る科学者の数々の発明により、恋愛から死に至るまで、すべてが企業活動に取り込まれた世界。人々はコードレスでつながり、最適な恋愛対象が計算によって求められ、クリーンな死が提供される。
 破産者は、言語中枢に直接アクセスされて広告を叫ぶ「叫び屋」になる、子育てがうまくいかなかったら予備のコピーで二回まではやり直せる、多すぎる人生の選択肢はAI〝後悔〟が減らして安心を与えてくれるなど、繰り出される数多くのアイディアは、どれも現代社会への風刺に満ちていてシニカル。突飛でありながら、すぐにでも現実になりそうなリアリティがある。
 作者の作品は、ノンフィクションや児童書も含めすでに四作が邦訳されており、本作は、伊藤計
劃も受賞したフィリップ・K・ディック賞特別賞を受賞。作者は自然保護にも力を入れており、二〇一六年にはアイスランド大統領選にも出馬している。(風野春樹)


71505
2014年11月

中村融/編訳『黒い破壊者 宇宙生命SF傑作選』日本オリジナル編集
解説:編者
装画:鈴木康士 装幀:東京創元社装幀室

 本書は、宇宙生命SF傑作選と銘打たれたアンソロジーであり、多種多様な生命体が登場する作品が集められている。高さ三百メートルを超える巨大樹木(ヤング「妖精の棲む樹」)、ヒトデのような腕を十本備えた海洋生命体(ヴァンス「海への贈り物」)、テレパスと交信できるプラズマ型生命体(アンダースン「キリエ」)、海に浮かぶ巨大ハスのような動物植物(シュミッツ「おじいちゃん」)など、陸上、海中、宇宙と様々な環境に暮らす生命体が、時には魅惑的に、時には恐ろしく描かれる。編者の解説にあるように「動物は周囲の動植物と相互に影響しあって生きている」のであり、決して単独で生息しているのではない。本書中の諸作は、いずれも異星の環境をしっかり構築したうえで、その中で生きる生命と人類との関わりを丁寧に描き出した秀作揃い。中でも、銀色の巨木と葉状植物が生育する惑星を舞台にした、マッケナ「狩人よ、故郷に帰れ」は、六十年前の作品ながら遺伝子工学を導入して生命改造の是非を問うた傑作だ。表題作は『宇宙船ビーグル号の冒険』中の著名なエピソードの原型となる雑誌掲載版。全体を通して、編者の下地である「生態学的SF」「SF博物誌」「宇宙もの」の三つが見事に調和したアンソロジーと言えよう。(渡辺英樹)


75201
2015年2月
ラヴィ・ティドハー『完璧な夏の日』上下 The Violent Century, 2013
茂木健訳 解説:渡邊利道
装画:スカイエマ 装幀:岩郷重力+Wonder Workz。

 一九三二年、ドイツの科学者フォーマフトの実験により、世界各地で発生した超能力者たち。彼らはやがて勃発した第二次世界大戦を皮切りに、ヴェトナム戦争、米ソ冷戦と、二十世紀の戦争の最前線に立つことに――。The Violent Centuryという原題が示すとおり、「暴虐の世紀」の激動を追いながら、それをスーパーヒーローの異能バトルとして書き換えてみせたSFスリラー。かつてイギリスの情報機関に籍を置いていた能力者フォッグが当時の活動について尋問を受ける場面で物語が幕を開け、過去と現在を往還しながら語られてゆく形式は、ジョン・ル・カレの名作『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』へのオマージュだろう。徐々に全体像が見えてくるスリルが素晴らしい。
 ティドハーは歴史やポップ・カルチャーやジャンル小説などをマッシュアップして作品を組み上げることを得意とする。そうしたオタク的な構築性/批評性に加えて、イスラエルの作家らしくユダヤの問題をつねに中心に据えているのが興味深い。
 なお印象的な邦題は、「夏の日(ゾマーターク)」と呼ばれる能力者の少女に由来する。破壊と陰謀が展開される欧州の空のような灰色の物語の中で、彼女の周囲にだけは爽やかで輝かしい光があって、それが物語の謎と希望の焦点となっている。(霜月蒼)


75301
2015年3月

チャーリー・ヒューマン『鋼鉄の黙示録』Apocalypse Now Now, 2013
安原和見訳 解説:橋本輝幸
装画:鷲尾直広 装幀:常松靖史[TUNE]

 南アフリカはケープタウン。キワモノポルノ動画を校内で売りさばいているど近眼で普通の高校生バクスターはやけに生々しい幻覚に悩まされていたが、恋人の誘拐をきっかけに現実とは思えない奇妙な世界に足をつっこんでいってしまう。助けてくれるのは超常世界専門の賞金稼ぎローニン。行く先々で出会うのは超常世界の生き物たち。予想もしていなかった呪術や銃弾が飛び交う派手な戦いの後、最後に対決する相手はずっと信頼していた人物でその正体はバクスターの血筋に関わるもので、幻覚だと思わされていたものは実は……。
 チャーリー・ヒューマンは生年月日非公開の英国人作家で本作がデビュー作である。原題は言わずとしれた「地獄の黙示録」のもじり。章タイトルも映画や小説のタイトル・セリフのもじりとなっていてこれも楽しい。
 光り輝く絶滅種族オバンボ、大烏、大型蜘蛛、ゾンビ、ドワーフ、などあまりにもたくさん登場する怪異にはツッコミどころが多いが、クライマックスの蟷螂と蛸の巨大ロボットによる並行世界での大乱闘にはもうツッコミも追いつかない。
 奇想、ドタバタ、グロ、なんでもありの娯楽小説だ。(深山めい)


75401
2015年4月

オシーン・マッギャン『ラットランナーズ』Rat Runners, 2013
中原尚哉訳 解説:訳者
装画:田中寛崇 装幀:岩郷重力+Wonder Workz。

 社会全体が監視システムに支配されている、近未来のロンドン。通常の防犯カメラだけではない。赤外線、X線、顔認識、話者認識、あらゆる持ち物についたタグのスキャン。しかしどんなに厳重な監視網にも死角はある。狭い路地、フェンスの隙間、廃墟の陰。監視の目が届かない抜け道を、身の軽さを武器に走り抜ける子どもたち、それがラットランナーだ。十六歳未満は監視システムの追跡を免れることもあり、犯罪組織はラットランナーたちを手先に使っている。
 そんな中、四人のラットランナーが集められた。組織が求めるのは死亡した科学者の持っていたケースの行方。四人はハッキングや科学分析、変装などそれぞれの得意分野を生かして調査を開始する。科学者の研究成果とその影響力を知り、彼らは裏社会を牛耳る組織を相手に生き残りを賭けた勝負に出る。
 監視の目をかいくぐり、街の裏側を駆け抜け、搾取しようとする大人たちにひと泡吹かせる。体制に組み込まれない少年少女を生き生きと描く筆致は、児童書やYAから作家のキャリアをスタートさせた作者だからこそ。管理社会の行きつく先、ハイテクが犯罪のみならず支配に利用される懸念についても考えさせられる。(井上知)


75501
2015年5月

ジェニファー・アルビン『時を紡ぐ少女』Crewel, 2012
杉田七重訳 解説:訳者
装画:鈴木康士 装幀:大野リサ

 奇怪な管理社会を背景に、特殊な才能を持つ少女の奮闘を描くヤングアダルトSFの佳品。カンザス州レネクサ在住の作家ジェニファー・アルビンのデビュー長編にあたる。《クルーエル》三部作の第一作だが、あまりSFらしく見えない外観(ファンタジー風の異世界の裏側にSF的な理屈があることを匂わせるタイプ)がわざわいしたのか、残念ながら残り二作は邦訳されていない。
 世界を織物に見立てるメタフォリカルなファンタジーは珍しくないが、本書の舞台となるアラスは、紡ぎ女(Spinster)が織り、刺繍娘(Creweler)が維持管理する世界。十六歳の主人公アデリスは、両親の言いつけで、これまでずっと自分の能力を隠してきた。しかし、ついにそれが政府に露見。家族は消され、アデリスは刺繍娘としてのエリート教育を受けることになる。きらびやかな生活、恋と友情、訓練係の理不尽ないじめや同期生との競争……。いかにも異世界ヤングアダルト・ファンタジーっぽい導入から、やがて、世界のつづれ織りに刺繍を施すことで現実を操作できるというディック的な世界観に秘められた真相が少しずつ見えてくる。世界の秘密を発見するティーンズSFとしても魅力的で、一読の価値がある。(大森望)


69622
2015年5月

フィリップ・K・ディック『ヴァルカンの鉄鎚』Vulcan's Hammer, 1960
佐藤龍雄訳 解説:牧眞司
装画装幀:岩郷重力+Wonder Workz。

 ディックが生涯に残したSF長編はおよそ四十作(SFの範囲、長編の定義、異稿版の扱いによって数は変わる)。すべて邦訳されているが、最後まで残ったのが本書である。言いかたは悪いが「毒を喰らわば皿まで」の一冊だ。ただし、ディックの小説は出来のいかんにかかわらず独特の匂いがあり、アディクトの域に達した読者にとっては、むしろ筆のままに書き飛ばした、いびつな怪作のほうが嬉しかったりする。
 第一次核戦争後、世界政府は巨大コンピュータ〈ヴァルカン〉シリーズを建造し、すべての政策決定を委ねた。表向きは平和、しかし実体は全体主義ディストピアである。そこにカルト教団〈癒しの道〉があらわれ、過激なテロ行為で社会を転覆させようとする。主人公ウィリアム・バリスは世界政府の官僚として地道に働いていたが、新型の〈ヴァルカン三号〉と先行機〈ヴァルカン二号〉の秘密にふれてしまい、複雑に絡まる抗争に巻きこまれていく。
 二〇二一年十一月、『ヴァルカンの鉄鎚』映画化が発表された。監督を務めるのは、『コンスタンティン』や『アイ・アム・レジェンド』で知られるフランシス・ローレンスである。(牧眞司)


75601
2015年6月

ジョーン・スロンチェフスキ『軌道学園都市フロンテラ』上下 The Highest Frontier, 2011
金子浩訳 解説:訳者
装画:加藤直之 装幀:常松靖史[TUNE]

 二〇一二年のジョン・W・キャンベル記念賞を受賞した本作は、スペースコロニーに存在する名門大学を舞台にした学園物×ファーストコンタクトのSF長編だ。時代は二十二世紀初頭、青酸ガスを吐く地球外生命体が増殖したことで、地球環境は悪化の一途をたどっている。本作の主人公のジェニファーは大統領も輩出したことのある政治家の家系で生まれ育ったエリートで、地球外生命体の研究を志して軌道上の都市に存在する大学に入学する場面から物語は幕を開ける。
 本作最大の特徴と言えるのは、その過剰ともいえる情報量だ。著者はオハイオ州ケニオン・カレッジの微生物学の教授で、その専門性を活かして事細やかに地球外生命体の性質を描写していく。デブリに宇宙エレベータがどう対処しているのかなど、専門外の描写も相当に幅広くレベルが高い。この世界では人間に対する遺伝子改変も行われており、後半では「愚かさは治すべき病気なのか?」という大きなテーマも問いかけられる。学園ロマンスからファーストコンタクトまで、無数の要素・主題が並行するので乱雑さを感じさせる面もあるのだが、それが唯一無二の魅力にも繋がっている作品だ。続編の構想もあるようだが、現在情報はない。(冬木糸一)

70609
2015年8月

ロバート・チャールズ・ウィルスン『楽園炎上』Burning Paradise, 2013
茂木健訳 解説:大野万紀
装画:新井清志 装幀:岩郷重力+Wonder Workz。

 第二次世界大戦が起こらなかった二十一世紀が舞台の侵略SF。通信技術の飛躍的な発展をもたらした地球を包む〈電波層〉が人類を巧妙にする支配する巨大な集合知性体で、それに気づいた人々は知性体が差し向けた緑の体液を持つ擬似人間に襲撃され壊滅。生き残りの少女たちが仲間を求めて逃げる旅のパートと、〈電波層〉と対立すると自称する知性体の擬似人間の来訪を受けた昆虫学者のパートがカットバックして物語が進んでいく。前半は冷戦期の侵略SFそっくりに展開するのだが、真実に気づいた人々が疑心暗鬼に陥って性格が歪み人間関係を拗らせていくさまは、陰謀論とフェイクニュースが蔓延する現代に通じる人間の愚かさを痛感させられる。また、集合知性体への洞察を深めていく昆虫学者が、異質な知性の生態に単純な支配や抵抗の観念が当て嵌まらないと懊悩するのも、いかにも現代SFらしい。登場人物の、逃避行の中で拗らせた人間関係がさらに複雑に変化していく心理的な機微を丹念に描き、それによって少女と昆虫学者が最終的に選択する決断が招く解放された世界をひたすら重苦しいものに染め上げていて、作者の陰鬱な人間観を味わうことができる。(渡邊利道)


67305
2015年10月~
ジョン・ヴァーリイ《〈八世界〉全短編》日本オリジナル編集
浅倉久志、大野万紀訳 解説:山岸真、ほか
写真:L.O.S.164、NASA/JPL/Space Science Institute 装幀:岩郷重力+W.I

 二〇五〇年に突如現れた異星人によって地球から追放された人類は、太陽系外縁で見つかったへびつかい座方向から送られてくる直径五億キロのレーザービームから得た超技術を活用して水星、金星、月、火星、タイタン、オベロン、トリトン、冥王星の八つの天体を中心に新たな文明〈八世界〉を築く。過酷な宇宙での生活に適応するため身体を改造し、数百年に及ぶ長寿やクローンと記憶のバックアップ技術で事実上の不死まで実現した人類は、カジュアルな性転換や、親子兄弟友達でも普通のコミュニケーションとしてセックスするといったような、伝統的な性や家族に関する道徳観念から完全に逸脱したライフスタイルを獲得している。仮想空間や記憶のダウンロードといった細部の扱いから、サイバーパンクやグレッグ・イーガンの諸作などに先駆すると指摘されることも多い。
 本書は全二巻でその日常と事件を描いたシリーズの短編十三編すべてを、一九七四年の「ピクニック・オン・ニアサイド」から、八〇年の「ビートニク・バイユー」まで発表年代順に収録する。シリーズとしては他に七七年の長編『へびつかい座ホットライン』がある(もっとも、作者自身がシリーズではないと明言しているものの、いくつかの用語や人名が共通している九二年の『スチール・ビーチ』から始まる長編三部作の完結編Irontown Bluesが本書刊行後の二〇一八年に出て、作者のもう一つの人気シリーズ〈アンナ゠ルイーズ・バッハ〉と関連づけられたので、それらも含めてシリーズだとする解釈もある)。
 本シリーズの最大の特徴は、当時の最新科学情報を用いた幻惑的なまでに美しい太陽系と、科学技術によって大胆に変容する人間性への楽天的な信頼をベースにした、細やかな愛情関係の描写である。自転と公転の関係で太陽が天頂で逆行する水星の夏や(逆光の夏)、太陽が沈まない金星の夜(鉢の底)、彗星を宇宙船に改造して太陽を観光する(びっくりハウス効果)、信じがたいほど美しい土星の《環》での生活(イークイノックスはいずこに)などのさまざまな風景が描かれ、小説で行く太陽系ツアーの楽しさに溢れている。また、人間とともに閉じられた生態系を作る植物「共生者」や、失われた地球の環境を再現した「ディズニーランド(米アニメ会社とは無関係)」といったガジェットも魅力的だ。惑星や衛星はそれぞれの環境に合わせた社会を形作っていて、合理的で自由と言いながらも文化的な葛藤や衝突は多く、それが家族・恋人・友人といった関係性のドラマを生み出す。宇宙から棚ぼたで手に入れた超技術に依存し、長寿と自由を手に入れたことで人類はユートピア的な停滞の中に微睡んでおり、その享楽的でセンチメンタルな世界の美しさは、長編で〈八世界〉の崩壊が描かれたこともあってやがて失われる黄金時代といった趣がある。(渡邊利道)


76001
2015年10月

スティーヴン・タニー『100%月世界少年』One Hundred Percent Lunar Boy, 2010
茂木健訳 解説:訳者
写真:L.O.S.164 装幀:岩郷重力+T.K

〈百パーセント月世界人〉とは〈第四の原色〉に染まった瞳を持つ、月面生まれの凶眼症者を指す。その瞳を見た者は、発狂してしまうのだ。主人公の高校生ヒエロニムスも、この凶眼を持って生まれた〈百パーセント月世界少年〉。法律でゴーグルの常時着用を義務付けられていたが、地球から来た魅力的な少女の懇願に根負けし、ついに目を見せてしまい……。
 約二千年後の月社会が舞台のヤングアダルトSF。主人公は、文系の成績は抜群だが理系はからっきしダメという学習偏向障害も抱えている。そのため上位と最底辺クラスを行き来しており、さまざまな背景を持つ多様な人たちとの交流が読みどころだ。幼馴染の〈百パーセント月世界少女〉スリュー、最下位クラスだが暴力を嫌う大男ブリューゲルなど、過酷な月社会を反映した個性の持ち主が次々と登場する。後半は、追われる身になった主人公を中心に友人たちが集結。それぞれの思惑のもとに協力しながら月の裏側にある図書館を目指し、凶眼者を差別する一方で利用する月社会の暗部に迫る。同時期に邦訳された『メイズ・ランナー』などのYASFに比べると映像化には恵まれなかったが(映画化権は売れているらしい)、読み応えのある一作だ。(香月祥宏)


75801
2015年11月~

アン・レッキー《叛逆航路》Ancillary Universe, 2013-
赤尾秀子訳 解説:渡邊利道、ほか
装画:鈴木康士 装幀:岩郷重力+W.I

 舞台は遠未来のラドチ星系。最初の三部作の原題に共通する〈Ancillary:属躰〉とは現代なら航空母艦の全乗員に匹敵する数千人(死体を改造するらしい)に一個のAI人格を共有させた生体兵器である。主人公ブレクはかつて宇宙戦艦のAIだったが、十九年前、権力者の裏切りにより艦を失い、ただ一人の生き残りとして放浪する。ある惑星の雪原で遭遇した行き倒れの人物が、かつての副艦長セイヴァーデンと気付くが、相手は人間と区別できない主人公を乗艦のAIとは気付かず、そこからロードムービーめいた道中が始まる。
 この設定だけで勝負あった感じだが、さらに特異な語り口が物語に異様な手触りを加える。それはラドチ帝国内では男女、それに無性という性別自体は存在しても、誰もそれを気にしないため、文章に性別が反映されず、三人称はすべて「彼女」と表記されることだ。登場人物の性を判断する手がかりを与えられない分、読者自身のジェンダー意識が本作という鏡にはっきりと映り込む。などと難しい言い方をしなくとも、小説を読むときには誰もが登場人物に容姿を与え、声を想像しながら読むわけで、それが読者ごとに異なるということだ。宝塚歌劇門前の小僧である私は、遠慮なく『ベルサイユのばら』のオスカルとアンドレを脳裏に浮かべながら読んだ。一方で「彼女」らの中には「お嬢さん、ひとつ教えてやろう。いいか」とほざく人物もおり、そこはどうしても権力まみれの中年男性を配役するしかない。本シリーズがヒューゴ一賞、ネビュラ賞、クラーク賞など、『ニューロマンサー』を超える評価を受けたのには、ジェンダーを巡るこの奇抜な社会実験が影響しているのは間違いないが、作者のこの知的企みは、実はストーリーにほとんど影響していない。
〈属躰〉はAIではあっても人間を素材としているためか、感情の残滓を色濃く残している。十九年前に失った尊敬する上官への〈愛〉に近い思い。絶対権力者アナーンダへの積年の復讐心も――。評者はAI技術者だが、仕事を任せるAIにこれほど面倒くさい性格を付与しないだろう。皇帝アナーンダもブレク〈属躰〉と同じ技術で多数の肉体を与えられているらしいが、出自は明らかにならない。
 ブレクとセイヴァーデンのややBLめいた交流と、皇帝への復讐を軸とした冒険で三部作は織りなされる。抑圧的な社会にさまざまな立場ではめ込まれた登場人物たちの欲望や苦悩が印象に残る。人類発祥の地さえわからなくなった遠未来になっても、人間はまだ家柄や宗教に縛られ、儀礼や道具やお茶の作法にこだわる。『ローマ帝国衰亡史』を思わせるぶれない物語世界の構築には、「人間性は決して変わらない」という筆者の確信を感じる。サイド・ストーリー『動乱星系』が、アメリカの「独立宣言」や「自由の鐘」をパロディ化した文化人類学的冒険譚であるのもうなずける。(山之口洋)


75901
2015年12月

ガレス・L・パウエル『ガンメタル・ゴースト』Ack-Ack Macaque, 2012
三角和代訳 解説:訳者
装画:鷲尾直広 装幀:岩郷重力+W.I

 英仏統一百周年記念式典を目前に控えた二〇五九年。事故で脳の大半を人工のジェルウェアに入れ替えた元ジャーナリストは、被害者の脳を持ち去る連続殺人犯に夫を殺され、犯人を追う。同じころ、十九歳の英仏連合王国皇太子メロヴィクは、パリの研究所に侵入し、偶然自らの出生の秘密を知る。そして不死身のエースパイロットとして第二次大戦で活躍していた猿のアクアク・マカークは、メロヴィクに助けられ、自分がMMORPGのゲームキャラクターだったことを知る。それぞれにアイデンティティにまつわる喪失を抱えた二人と一匹が、共通の敵を追ううちに、世界を揺るがす巨大な陰謀に立ち向かうことになる。
 仮想現実や人格移植、火星探査計画、そして巨大飛行船など、数々のSFガジェットを詰め込んでテンポよく進む物語は、スチームパンクや歴史改変小説の趣きもあり、どこか懐かしさを感じさせる正統派冒険SFである。
 本書は三部作の一作目なのだが、かなり意表をつく展開が待ち受けているという二作目以降が未訳なのが残念。また、英国SF協会賞をアン・レッキー『叛逆航路』と同時受賞している。(風野春樹)


76101
2016年5月~

ギャビン・スミス《帰還兵の戦場》Veteran, 2011-
金子浩訳 解説:訳者
装画:新井清志、ほか 装幀:WW+W.I

 正体不明、コミュニケーション不能の異星人との六十年あまり続く戦争から帰還し、予備役となった元特殊部隊のサイボーグ兵士ジェイコブは、地球に潜入した異星人を抹殺するようにクソ上司に命じられるが、十八歳の娼婦モラグは瀕死の異星人を庇って、彼は和平のために来たのだという。命令に背いてジェイコブがモラグや昔馴染などと平和のために奮闘する第一部と、星間戦争終結後、戦争で大儲けしていた秘密結社がエイリアンの超技術を奪取しコロニー星系を制圧、太陽系へと侵攻するのをジェイコブたちが迎え撃つ人類間戦争の第二部で構成される全七巻のミリタリーSF。環境破壊と超格差社会のために荒廃した地球のディストピア的描写に加え、主人公が戦争のトラウマをどっさり抱え鬱屈した中年男で、モラグと恋に落ちるのだが世代間ギャップからかロマンティックな関係もどちらかといえば始終イライラしっぱなしで全然明朗快活といかないのがいかにもイギリスSFらしい。緻密な細部描写が満載の戦闘場面は極めて濃厚で、荒野を爆走する移動都市や体長二四〇センチの魔神の姿をした海賊王、全知全能の超AIのサイバー戦など、次々登場するガジェットも魅力的だ。(渡邊利道)


76201
2016年5月

イアン・マクドナルド『旋舞の千年都市』上下 The Dervish House, 2010
下楠昌哉訳 解説:訳者、酉島伝法
装画:鈴木康士 装幀:岩郷重力+W.I

 東西の文化が交わる古都イスタンブール、二〇二七年。低炭素経済が普及して投機熱は高まり、技術革新が進んでトンボ型(ドラゴンフライ)ボットが飛び回る。車の自動運転やRFIDタグ等もすっかり普及している近未来。そこで起きた女性の自爆現場に居合わせ、精霊のごとく世に遍在するジンの姿が見える異能を持つに至った青年ネジュデットや、就活中のマーケッター・レイラ、老経済学者ゲオルギオスら六人の視点で、迷宮的かつ詳細に分かち書きされる謎に満ちた五日間の逸話――それらがテロルを動因として撚り合わされていくのがスリリング。
 大英帝国の最後の残滓こと北アイルランド出身のイアン・マクドナルドにとって、オスマン帝国の過去を持ち単一民族国家を自認してきたトルコを題材にするのはごく自然で、細部に及ぶ観察と調査を長年に亘り継続して本作は書かれた(「CCLaP」二〇一〇年七月二三日)。原題はメヴレヴィー教団修道僧(ダルヴィーシュ)の館に由来し、古典的なイスラム美術の様式から強権政治によるクルド人の弾圧、高度資本主義下の搾取構造までもが描き尽くされるのは圧巻の一言。ロブ゠グリエ『不滅の女』やディッシュ「アジアの岸辺」等、イスタンブールを扱う思弁小説の問題意識を継承しつつ、オリエンタリズムの両義的な眼差しを全体小説として再整理したナノテクSFが本作なのだ。(岡和田晃)


62915
2016年7月

J・G・バラード『ハイ・ライズ』High-Rise, 1975
村上博基訳 解説:渡邊利道
写真:iStock.com/JohnDWilliams カバーフォーマット:松林冨久治 装幀:東京創元社装幀室

 ジムやスーパーマーケット、銀行に学校、各種施設を備えた四十階建ての高層住宅に二千人が暮らす、閉鎖系/巨大建築ソリッドシチュエーションSF。一九七五年に発表された傑作長編である本作は、七三年『クラッシュ』、七四年『コンクリート・アイランド』と共に《テクノロジー三部作》とされる。
 当時イギリスには四十階以上の建築が複数あった。『クラッシュ』序文でバラードが提唱した〈テクノロジカル・ランドスケープ〉は〝同時代〟になろうとしていたのだ。その風景は、タワーマンションの悲喜交交のみならず、現在進行中の〈コンパクトシティ化〉や、アルゴリズムが人々を分断する〈エコーチェンバー現象〉、〈VR〉や〈マルチバース〉をも飲み込む。
 集積されつつ技術的/階級的に分断された知性はどう変容するのか。語り手の住民三人は三者三様、閉鎖系に適応しながらバラード一流の破局を抜けて、新しい地平へとたどりつく。
 混乱を描く本作の映画化は、当然と言うべきか長く難航したものの、二〇一五年に実現。トム・ヒドルストンとジェレミー・アイアンズが共演し、監督は『MEGザ・モンスターズ2』のベン・ウィートリー。本作の風景はついに〝同時代〟のものとして広がっていく。(高島雄哉)


76401
2016年8月

キジ・ジョンスン『霧に橋を架ける』At the Mouth of the River of Bees, 2012
三角和代訳 解説:訳者、橋本輝幸
装画:緒賀岳志 装幀:岩郷重力+W.I

 キジ・ジョンスンの小説の芯には喪失がある。26匹の猿が消失と帰還を繰り返す謎の現象を描く「26モンキーズ、そして時の裂け目」で、「たしかなものはなにもない。人はすべてを失うかもしれない」と象徴的に書いたように、収録短編には様々な喪失感が横溢している。そして喪失は奇妙な異形を呼ぶ。猿、自分と延々ファックするエイリアン、犬と猫、かわいいポニー、人の命を奪う危険な霧。人は異形を通じて、わかりあえなさ、残酷さや苦味、あるいは温もりを知る。
 表題作「霧に橋を架ける」では、火傷するほどの腐食性を持つ霧の川に橋を架けるため派遣されたキットと、霧の渡し守であるラサリが交流する。霧と隣り合わせで生活する人々や、危険な作業に従事する作業員たちと比べて、ある種〝安全圏〟にいるキットが、どう考え、どう動くか。橋は完成するのか。ラサリとの関係に愛を持ちつつも、いつか来る喪失を予感させる。だが、それでもなお人は繋がろうとする。
「霧に橋を架ける」は二〇一二年にヒューゴー賞、一一年にネビュラ賞ノヴェラ部門を受賞。その他、ネビュラ賞ショート・ストーリー部門受賞作品が二編、世界幻想文学大賞ショート・ストーリー部門を受賞した短編が一編収録されている。(深緑野分)


76601
2017年3月

ダリル・グレゴリイ『迷宮の天使』上下 Afterparty, 2014
小野田和子訳 解説:橋本輝幸
装画:Z2 GG 30 装幀:岩郷重力+W.I

 近未来SFにして、ミステリ仕立てのロード・ノベルである。販売前に葬られたはずの精神薬「ヌミナス」が、アンダーグラウンドで流通し始めているらしい。これを呑んだと思しい少女が自殺したのを受けて、十年前に開発に携わったライダは、精神病院を退院し、誰がヌミナスを復活させたのか探り始める。
 ヌミナスの効果は、服用者に神を実感させ、一定以上の量をとると、神の幻覚(どの神かは人によって異なる)が出現し治らなくなってしまうというものだ。事実、ライダは羽根の生えた天使ドクター・グロリアと、それが脳の生む幻覚だと知りつつも頻繁に会話する。グロリアはライダの内面の声であり、物理的には役に立たないが心理的には違う。また、現実にライダには協力してくれる仲間(いずれも精神に問題がある)もいて、彼らと共に、彼女はヌミナスを追う。その過程で、彼女は、同性の妻が殺された過去の事件と、産んだ直後に養子に出して関係を断った娘の行方をも知ることになる。病的妄想や幻覚を抱きつつも前向きに生きる登場人物が多く、心に響く場面が多い、また、真相は、伏線を配置・回収し、ミステリ仕立てできっちり解明してくれる。悲惨な現実を受け容れた上で、人間を肯定する小説といえよう。(酒井貞道)


76701
2017年5月~
シルヴァン・ヌーヴェル《巨神計画》The Themis Files, 2016-
佐田千織訳
 解説:渡邊利道、ほか
装画:加藤直之 装幀:岩郷重力+W.I

 本シリーズの一冊目、『巨神計画』は著者シルヴァン・ヌーヴェルのデビュー作であり、かつ原稿段階で映画化契約が締結され、更に第四十九回星雲賞海外長編部門をも受賞した作品である。一読しただけでさもありなんと思わされるのは、本作が物語のそもそものスケールの大きさに加え、インタビュー記録や通信ログといった報告書の類いだけで構成されていることによって生み出されるスピーディな展開、世界各地に隠されたロボットのパーツを知恵を絞って集めていくという宝探し的な緊張感、少しずつ全てが揃っていくワクワク感、そして遂に完成した体高六十メートルの巨大ロボット(しかも全体が鮮やかな青緑色に輝いているのだ!)を始めとする無数の印象的なヴィジュアル要素までも備えているからである。
 しかもロボットを探し出すのは少女時代、最初のパーツを偶然発見した物理学者で、彼女を導くのは名前も正体も謎、だが強大な権力と資金を有する組織の一員であるらしいことだけがほのめかされる〝インタビュアー〟。巨大ロボットを始めこうしたけれん味たっぷりの設定や登場人物からは、著者が発想源のひとつとしたという日本のアニメの影響が見える。日本の読者に受け入れられたのも当然というべきであろう。
 だが、本書がただ派手な娯楽作というだけで終わらないのは、物語のあちらこちらに顔を出す、シリアスな要素があるからに他ならない。いかにも現実離れした壮大な計画を進めながら、登場人物たちはもしこんな計画が本当にあったらきっと起きるだろう社会的な問題に突き当たり対応を要求され、同時に人間関係を始めとする様々な苦難にも翻弄されることになる。
 第二作『巨神覚醒』では宝探し的な要素は姿を消し、代わって世界全体が恐ろしい緊張の中へと取り込まれていく。状況を生み出した大きなフィクションを多くの細かなリアリティで支える手腕は一作目より更に巧みさを増し、積み重ねられていく無数の報告書やレポートは、インターネットを通して最新情報を得ているかのような感覚を読者にもたらし、緊迫感を持って迫ってくるだろう。
 そして第三作、『巨神降臨』では読み進めるのが辛くなるほどの状況下、何とかして前に進もうとする登場人物たちが、目指しているものの違いからすれ違っていくさまが、愛憎、痛みや怒り、罪の意識といった制御できない感情と共に描かれていく。単純な悪意からではなく、極限状況に陥った人類が良いことだと信じて、あるいは己にそう言い聞かせつつ、どれほど愚かな選択をするのか、その行く先がどうなってしまうのか——。その描写は、まるでパンデミックに直面した世界が陥ったさまを予見したかのようだ。そしてだからこそ、困難に陥ってもなお力を尽くそうと試みる登場人物たちの姿と物語は、読者をよりいっそう強く掴んで放さないのではないだろうか。(門田充宏)


76901
2017年7月

キャリー・パテル『墓標都市』The Buried Life, 2014
細見遙子訳 解説:訳者
装画:K,Kanehira 装幀:岩郷重力+W.I

 旧文明が滅んだ〈大惨事〉から数百年、地下都市リコレッタで、一定以上過去の歴史や科学の研究が規制される中、高級住宅街において歴史学者が殺害された。捜査官マローンと洗濯娘ジェーンは、事件と裏にある陰謀に巻き込まれていく。
 ヴィクトリア朝期の文化・文明をベースにした未来の管理社会の描写は本当に活き活きとしている。マローンとジェーンのダブル主人公は、後者が前者への情報提供者になるという体裁を取りつつも、基本的には別個に動き、怪しげな人物と出会い、深みに嵌っていく。マローンが狷介な官憲、ジェーンが手に職付けた元気な若者と、キャラクターの描き分けも上手い。
 ストーリー面では先の読めなさが特徴だ。殺人事件の謎を解くミステリ仕立ての作品かと思いきや、徐々に違う方向に逸れて、最後は冒頭からは予想できない地点に行き着く。終盤では重要だった登場人物をあっさり退場させすらする。キャラクターを使い捨てできる作家は有能と相場が決まっている。
 本書は三部作の一作目であり、単体でも物語に一定の決着を付けるものの、一部を中途半端な状態で放置し、世界の謎にも肉薄しない。筆力は確かなので、続篇が邦訳されさえすれば楽しめるはずなのだが。(酒井貞道)


74903
2017年8月
ジョー・ウォルトン『わたしの本当の子どもたち
My Real Children, 2014
茂木健訳 解説:渡邊利道
装画:丹地陽子 装幀:波戸恵

 誰しも一度は考えたことがあるはずだ。もしも違う道を選んでいたら、今はどうなっていただろう。
 主人公パトリシアは二十代前半で大きな決断を迫られる。たったひとつの分岐点から大きくかけ離れてしまう二通りの人生が交互に語られる。変化していったのは彼女ひとりの人生だけではない。第二次世界大戦後から今までの時代が、それぞれ私たちの知っている歴史とは違った進み方をする。しかも不幸な結婚生活は平和な社会が背景にあり、同性パートナーとの充実した暮らしは核とテロの脅威にさらされるという皮肉な様相を呈する。
《ファージング》三部作や『図書室の魔法』で評価の高い作者は、歴史改変SFや並行世界ものという枠を超え、個人の幸福と社会の望ましい姿の追求を鮮やかに対比して描き出してみせる。フェミニズムや高齢化社会、核武装にテロリズム、宇宙開発競争、環境問題。さまざまな問題を抱える社会の中、悲しみも喜びも繰り返してなお人生は続く。タイトルの「本当の」意味に気付く瞬間、心を揺さぶられずにいられない。
 二〇一四年ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア賞受賞。(井上知)


76801
2017年9月
レイ・ヴクサヴィッチ『月の部屋で会いましょう』Meet Me ㏌ the Moon Room, 2001
岸本佐知子、市田泉訳 解説:渡邊利道
装画:庄野ナホコ 装幀:波戸恵

 レイ・ヴクサヴィッチの第一短編集である本書には、切なくも優しい奇想の数々が詰まっている。肌が宇宙服に変わっていく奇病、自転車狩りに興じる若者たち、サンタの死体を動かすアルバイト……。収録された三十四の物語(文庫化に際し、本邦初訳の一編が追加されている)は、多くが十ページ足らずと非常に短いが、そのどれもが失われた過去を想起させ――あるいはまだ見ぬ未来を予感させるものとなっており、読み手に奥深い余韻を残してくれる。過去は切なさを伴って現れ、未来は恐怖を連れてくる。その両者が交差する切なくも不気味な一瞬を切り取った「ささやき」は最も印象的な一編で、二〇〇一年のブラム・ストーカー賞候補にも選ばれた。
 ヴクサヴィッチは一九四六年生まれ、オレゴン州在住。八八年に作家としてデビューし、二〇〇一年に出版された本書でフィリップ・K・ディック賞の候補となった他、〇四年には中編“The Wages of Syntax”がネビュラ賞の候補にもなっている。一〇年には第二短編集であるBoarding Instructionsが刊行されており、こちらの邦訳も待ち遠しいところである。(松樹凛)



おことわり:2006年9月~ 刊行のフィリップ・リーヴ《移動都市クロニクル》につきましては、編集部の手違いにより書籍版への掲載とさせていただきます。