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2021年8月14日、ジャニーズ事務所を創設したジャニー喜多川さんの姉であり、ジャニーズ、フォーリーブス、郷ひろみの育ての親である藤島メリー泰子(メリー喜多川)さんが亡くなりました。享年93。「少年隊」「SMAP」「嵐」など、多くのグループやタレントを支え、2019年にジャニーさんが亡くなってからは代表取締役会長を務めてきました。

彼女を初めてメディアに登場させたジャーナリストで、メリーさん、ジャニーさん、作家の藤島泰輔さん(メリーさんの夫で1997年に亡くなった)とも古くから親交のある風間博さんは、1976年に『女性自身』で、メリーさんへのロングインタビューをしています。若き日のメリーさんとの思い出や、妻として、母としてのメリーさんの素顔を振り返ってもらいました。

ロサンゼルスで生まれた二世として

「メリーさんに最後に会ったのは、2年前のジャニーさんのお別れの会の時です。メリーさんの隣に黒柳徹子さんが並んで座っていました。私は帰り際、石井ふく子さんと一緒にメリーさんにご挨拶をしたのですが、その際、メリーさんが石井さんの手を握って『私のことを頼むわね』とおっしゃったんです。石井さんは意味がわからないようで『え?』と問い返すとメリーさんは『心配なのよ…』と。もしかしたら自分の天命が迫るのを、この時にはもうご存じだったのかもしれません。

私がメリーさんと知り合ったのは、私の友人で、彼女のご主人である泰ちゃん(作家の藤島泰輔氏)を通じてです。初対面は彼女が経営する、東京・四谷にあったスナック〈スポット〉でした。

メリーさんは父親が日本から派遣された真言宗の巡回布教師だった関係で、昭和のはじめにロサンゼルスで生まれています。彼女の小さいときに母親が亡くなっているので、弟のジャニー喜多川さんは母の記憶すらないそうです」

風間さんは、メリーさんの来し方を、当時の執筆記事で以下のように記している。

〈「だから、ジャニーは愛こそこの世の中で至上のもので、自分が相手に対して、愛を惜しまなければ、他人(ひと)もそれと同じ質と量で応えてくれるという、自分の尺度で物事を計る。だから、ときどき裏切られて悲しい思いをする」とメリー喜多川は弟を見つめるが、だからといって、彼女にも言葉通りの冷徹さがあるか、というとそうではない。

「メリーさんは、小さいときから他人の面倒を見ることが好きな子だった」と、彼女の乳母をつとめた女性はいう。

メリーとジャニーの姉弟は日米開戦となる少し前に、日本へ帰ってきた。日本人として、日本の教育を受けるためである。やがて敗戦。
姉弟は再びアメリカへ渡ることになった。アメリ力で生まれた二世にとっては帰るという表現が正確である。

昭和21(1946)年、二人は米海軍の軍港と化した横浜港からLST(米軍の軍用船)に乗って日本をあとにしたが、この渡航費用はアメリカで働いて月賦で米政府に返済するという条件のついたものだった。

「決して楽な生活ではありませんでした。ベビー・シッター(子守り)もやったし、ショップ・ガール(売り子)もやりました。学校が終わると、アルバイト先へ直行したり…。

カレッジでは、ネクタイに絵を描く仕事が当たったり、名門家庭のハウス・ガールに選ばれたりで、楽しかったんですが、どうしても日系米人の社会に同化できなかったことや、日本へのホームシックも大きくて中退して帰ることにしたのです」と彼女はいう。〉

(『女性自身 1976年5月6日号』より)