上流階級のつき合いを、帰国後活かした
戦後、アメリカでは大戦のドキュメンタリー・フィルムがテレビで連日流れていた。日本の特攻機が米海軍の軍艦に撃ち落される場面に歓喜する日系米人もいたが、メリーさんはまったく逆のことを考えていた自分に気づき、帰国を決意した、と風間さんは記憶する。
当時上流家庭に住み込んだ時に、新聞の社交欄をチェックして冠婚葬祭には花やギフトを手配することや、パーティーに着ていくドレスを記録して被らないようにチェックすることなど、対人関係のノウハウを習得。これが帰国後の人脈づくりに役立ったそうだ。メリーさんは昭和34年に日本に帰国し、四谷に〈スポット〉というスナックを開いた。
「当時は深夜までやっている店は少なかったし、姉弟アメリカ国籍だったので、輸入品のスコッチや食べ物など珍しいものがいくらでも手に入ったこともあって人気がありました。ジョニ黒がアメ横で闇値8000円もした時代に、彼らは安く買えたんだから。浅利慶太とか、服部良一、小沢征爾、笹沢佐保など、華やかな人たちのたまり場でした。泰輔さんもそこに足繁く通っていた一人です。
メリーさんと彼はすぐに親しくなり、泰ちゃんが外国へ仕事に行くときは、メリーさんが車で羽田までよく送っていました。あるとき、泰ちゃんが海外に行く前日にプロポーズをしたのですが、メリーさんは『明日は送らないよ』と言い、翌日藤島さん宅に行って、泰ちゃんの親御さんにプロポーズをお断りした。ハイソな家庭に入るのは無理だという理由でした。
藤島さんの親は、日本銀行の幹部で上流家庭。彼は初等科から学習院出身で今の上皇さまのご学友でもある。メリーさんからのプロポーズを断られ、あてつけのように親の決めた相手と1ヵ月後、結婚を決めました。俳人・高浜虚子のお孫さんです」
藤島さんの結婚式前夜のことを、風間さんはこう記している。
彼女は、コップや酒瓶の乱立するカウンターの前に座って、「タイちゃん、いままではボーイフレンドだったけど、もう客としてもここへはこないで。やっぱり結婚した人がまたくるのは奧様にも悪いから」と彼に告げたことをボンヤリと思い出していた。
「たしか、タイちゃんは一年間禁足して、それが過ぎたらまたくるぞといってたっけ…」
すべてがウイスキーの琥珀色を透かして見るうたかたの夢のような気がして来た。
正確にいうと1年と3日経って、藤島泰輔はまるで昨日の続きのような顔をして〈スポット〉に現われた。〉
(『女性自身 1976年5月6日号』より)