娘のジュリーを溺愛した母の顔

しかし見合い結婚はうまくいかず、藤島さんとメリーさんの仲は「水がにじむように」ゆるやかに元に戻ったと風間さんは当時書いている。昭和40年にメリーさんは妊娠に気づき、「自分さえきちんとしていれば大丈夫。いつかはその子もきっと私を理解してくれる」と、語っていた。

親友の月丘夢路さんの励ましもあって一人で産むことを決意し、誰にも気づかれずアメリカで娘(藤島ジュリー景子さん)を出産。藤島さんには認知を求めずに、父親欄は空白のまま、区役所に出生届けを出したという。彼女は結婚を望まず、藤島さんにも「絶対に離婚しないでほしい」と頼んだが、昭和47年、藤島夫妻は正式に離婚した。

「藤島さんがフロリダから電話をかけてきて『風間さん、ゴルフの相手がいないから来てよ』というんです。私が現地を訪ねたらそこに彼女もいて、普段すごく痩せているのに、お腹が大きいような気がしたんです。ムームーのようなものを着ていたのではっきりとは気づきませんでしたけど。

数年後、メリーさんの父親が大阪で亡くなった時、先に大阪に来ていたメリーさんは、まだ小さかったジュリーさんを東京から一人で飛行機に乗せ、呼び寄せました。名札をつけて乗りこんだジュリーさんと偶然機内の隣の席に乗り合わせ、面倒を見てくれたのが、藤島さんの別れた妻・高浜さんのご両親だったそうです。

伊丹空港で出迎えたメリーさんはジュリーさんから『高浜さんという人が親切にしてくれた』と聞かされます。老夫妻は『高浜の両親です』と名乗り、メリーさんは『この偶然の出会いは、神様が私に与えたペナルティだ』と思ったそうです」

メリーさんのジュリーさんへの溺愛は有名で、望むことは何でも叶えてあげていたという。

「上流階級の子どもたちが通うスイスのフィニッシングスクールに通わせていたこともあります。ほかの学生は休暇になるとプライベートジェット機で親が迎えに来て、そのままバカンスに行く。宿舎に残るのはメリーさんとデザイナーの君島さんのお嬢さんだけ、というほどの金持ち御用達の学校でした。

娘に限らず、メリーさんは姉弟愛も深い人で、ジャニーさんの上にはもう一人、アメリカでNASAの関連会社に勤めていた真一さんという弟がいるのですが、彼が病気になったときは日本で治療を受けさせるため、プライベートジェット機で日本に連れて帰りました。治療後アメリカに戻った真一さんは結局亡くなられ、メリーさんがアメリカでの葬儀もとりしきっていました」