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「強い」集団とは

どこでだったか、こんな話を聞いたことがある。

植物の種を蒔くと、比較的すぐに発芽する個体と、「今更かい!」みたいなタイミングで出てくるものと、そして、それ以外のええ感じに出てくるもの、がある。つまり、バラバラに出てくる。

これはその植物の生存戦略である。つまり、仮に全ての種子がまったく同じタイミングで出てきて、その発芽後に何らかの環境異変、たとえば雨が何日も降らないというようなことが起これば、その植物自体が絶滅する。ところが、発芽のタイミングがバラバラであると、万が一先に発芽した個体が全滅しても、あとからしれっと発芽した個体が生き延びて、次の世代に遺伝子をつなぐことができる、と。

何もなければ、早く発芽した個体が有利に成長する。先に大きく成長し、その分太陽の光を多く得ることができるし、土中の養分も先に吸収することができる。あとから出てくる芽は、そういう意味では何もなければ「役立たず」なのである。

要するに、植物は、それぞれがバラバラであることによって繁栄している。集団としての植物の強さである。

人間にも同じことは言える。ある集団が強い(=無限の環境の変化に耐えうる)とは、その集団がバラバラであるということである。

「チーム一丸」とか、「心を1つに」とかいうことばは、このことを無視した上で成り立っている。その一瞬は物理的なエネルギーの量で他を凌駕するかもしれないが、長い目で見れば、組織の構成員は「各々が全く違うことを考えている」という方がよい。

たとえば、外国語として英語しか教育しない社会は、何らかの世界の趨勢の変化によって、アメリカやイギリスや、その他の英語圏の力が弱まったときに、共倒れになる可能性を孕んでいる。長い目で見れば、英語が世界の共通語であることができる残された時間はどれくらいのものだろうか。かつてのポルトガル語やスペイン語がそうであったように。

であるならば、少しずつでも世界中の言語を話せる人材が少しずついるという組織は、潜在的にはそうではない組織よりも、この環境の変化を生き延びる可能性が高い。「集中と選択」という、耳に心地よい(よくないが)表現は、そういう意味で危険な考え方である。(選択して集中的に資金を投入した分野が、すっかり使いものにならないという場合が考えられるから)

国家というものも、1つの組織である。国家をできるだけ長く存続させるためには、その組織の中にバラバラな人々がバラバラなままに暮らしているということが重要だということである。強引に思想を統一させようとしたり、同じ方向を無理矢理向けさせようとすることは、その組織を弱体化することである。

最初に書きたかったこととはずいぶんとずれちゃった。えへ。


【本日のイラスト】

ちょっと前の記事を読み直してイラストを付けてみました。雑木林。ぐっちゃぐちゃにいろんな植物が色んな風に繁茂して、だからこその統一感を醸し出す。こういうのがベストやと思うのです






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関西人の言語学者、日本語学者です。最新刊『いい加減な日本語』発売中!  研究者情報: https://researchmap.jp/tsunko
「強い」集団とは|堤 良一