九段新報

犯罪学オタク、新橋九段によるブログです。 日常の出来事から世間を騒がすニュースまで犯罪学のフィルターを通してみていきます。

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 この件ですね。
 まさか自由戦士がインボイス賛成で足を引っ張るだけではなく、「インボイス署名を受け取るべきなら俺たちの"署名"も受け取るべきだ」という屁理屈で絡んでくるとは思っていませんでした。人の知性と善性を過大評価してしまう私の悪い癖は治っていないようです。 

 さて、引用したツイートが引用RTしていたように、私の態度を手のひら返しだとか言って騒いでいる鶏脳がいるようです。もちろん私の主張は手のひら返しでも何でもなく、インボイス反対署名と戸定梨香の署名は全く持って性質の違うものだから、それ相応に違う評価と対応がなされるべきだというだけの話で、むしろ一貫しています。

 オタク、特に表現の自由戦士になってしまうような低質な輩に共通する特徴として、抽象的な思考が極めて困難で表面的かつ具体的な単語に囚われるというものがあります。今回で言えば、タイトルに「署名」とあるから同じものだ!同じ風に扱え!と思ったのでしょう。もちろんそんなわけはありませんから、この記事ではその点を懇切丁寧に説明するので目ん玉かっぽじって100回読みましょう。

 ついでに、戸定梨香に関して荻野稔と青識亜論が集めた署名が単に嫌がらせに過ぎない点も、簡単に振り返ります。

署名にもいろいろある

 まず、一口に署名と言っても色々あることを指摘しておきましょう。

 最もわかりやすいのが、今回のインボイス反対署名とリコール署名との際でしょう。

 インボイス反対の署名のようなものは、政府や政党、特定の集団に対し、同じ主張をしている人間が大勢いることを示すために行われるものです。署名に対しペンネームがどうこうとか複数回署名している人間がいるとかケチをつける奴もいましたが、極論すれば、そういう署名が少数紛れ込んでいたとしても大した問題ではありません。同じ主張をする賛同者の規模感を示すのが目的なので、少数紛れた不適正な署名は誤差に過ぎないからです。

 もちろん、不適正な署名が多すぎれば信頼性に関わりますから、種々の対策は講じられています。ですが、不適正な署名が1つもないようにカウントする意味は薄いのです。署名者が50万から49万9千になったところで何も変わりません。

 一方、リコールを求める署名のようなものはそうはいきません。あのような署名は有権者のいくらかがリコールを求めていればリコールされると法令ではっきり決まっているので、きちんとカウントされなければなりません。不適正なものがあればそれらは1つ残らず排除して、実際のところ何名が賛同したか明らかにする必要があります。

 大村秀章愛知県知事に対するリコール署名の偽造が大問題となったのは、まさにこのためです。まぁ、あの規模の偽造ならリコール署名でなくとも十分問題でしょうが、逮捕者まで出したのはあの署名がそれほどまでにきっちりとカウントされるべき性質のものだからです。

 このように、署名というのはその性質により様々な特徴があるわけですから、同じように署名と名前ついているからといって同じように扱っていいわけではないのです。

 この点を理解していなかったから、高須克弥や河村たかしの署名はああなっちゃったのかもしれませんが。

戸定梨香署名は嫌がらせである

 表現の自由戦士はここまでの説明も理解できないでしょうが、私の悪癖を発動して、いやしかしと反論する自由戦士がいると仮定します。彼らは恐らく、署名の性質としてはインボイス反対と戸定梨香のものは同じであると言うでしょう。

 確かに、賛同者の規模感を示すという点に関しては同じでしょう。戸定梨香の署名だって、不適正な署名が1つ残らず排除されなけれならないものではありません。

 しかし、彼らは、署名の性質が1つの要素で決まるわけではないことを見落としています。署名の性質は法的な位置づけだけではなく、その中身でも左右されます。つまり、インボイス反対署名はまっとうな署名であり、戸定梨香の署名はそうではない、ほぼ怪文書であるということです。

 前者が真っ当な署名であることは論を待たないのでここで論じるのは割愛するとして、問題は後者です。戸定梨香署名のどこが怪文書なんだと自由戦士はキレるでしょう。

 この点に関しては、私が管理している「表現の自由ファクトチェックwiki」の『【不正確】フェミニスト議員連盟は自身宛の署名を無視している』で論じているのでそれをご覧ください……では少々不親切なので、ここでも簡単に触れておきます。(エビデンスはファクトチェック記事の方にあげているのでここで改めてあげることはしません)

 戸定梨香署名の問題点は大きく2つあります。

①主張が事実に立脚していない
 戸定梨香署名は、彼女の出演する交通安全啓発動画へのフェミニスト議連の抗議が『女性の自己表現の機会を潰す結果となって』いると主張していますが、これは事実に反します。議連の抗議は戸定梨香個人の活動について言及しておらず、宛先も警察署長など行政の長に限られるため、戸定の活動全般を「潰そうと」した意図はありません。結果としても、公開が中止されたのは交通安全動画のみで、それ以外の動画はびくともしていません。再生数が増える方にも、減る方にも。

 ですから、戸定梨香署名は基本的な事実にすら立脚していないのです。これは存在しない被害について訴えられているわけですから、「お前のせいで家が燃えたぞ!」と怒っている人の家に煤ひとつついていないようなものです。(燃えたのは彼女のバイクで、その原因は自分から壁に突っ込んだことだった、というのが事実に即した例えでしょう)

 もしかしたら、彼らは戸定梨香の動画が商業Vtuberにしては全然再生されていないので潰されたのだと勘違いしたのかもしれませんが、それは騒動中も真面目に活動していた彼女にあまりにも失礼というものでしょう。荻野は勝手に彼女が公から追放されたことにしていましたし、無礼すぎますね(『【デマ】戸定梨香が公共の場から追放された-表現の自由ファクトチェックwiki』参照)。

②主張がフェミニスト議連の主張に立脚していない
 基本的な事実認識すらパンケーキ並みにふわっふわな彼らですから、フェミニスト議連の主張もちゃんと読めていません。

 彼らの署名では、フェミニスト議連は「Vtuberが交通安全を啓発すると性犯罪の誘発になる」と言っているし、戸定梨香の服装や体型が性犯罪を誘発するのだと主張していることになっています。が、もちろんフェミニスト議連はそんなこと全然言っていません。議連が問題視しているのは、こうした特徴(つまり、未成年女性を性的に対象化したキャラクター)を警察という行政が採用し、かつ子供向けの啓発動画に採用したという一連のプロセスです。

 議連の抗議では、こうしたプロセスが、未成年女性を性的に扱ってよいという風潮・カルチャーの醸成を手助けすることで性犯罪が誘発されるのではないかという懸念が表明されているのです。かつ、その一連のプロセスに警察という本来犯罪を防止すべき組織によって行われていることが特に問題視されています。

 言い換えると、戸定梨香の外見、服装、個人的活動そのものについては何も言われていません。議連のメンバーが戸定についてどう思っているかは不明ですが、少なくとも抗議の中で戸定個人については一切触れられておらず、あくまで警察の行政としての振る舞いが問題視されているのみです。

 事実関係が間違っており、相手方の主張も正しく把握できていない署名がまともな署名でないことは言うまでもありません。こうした署名は抗議のためではなく、フェミニスト議連に対する嫌がらせ、つまり、署名に賛同した7万人という人数を一種のジャーゴンとして振りかざし、議連の主張がいい加減であるかのように印象操作しながら封殺し、かつ周囲の賛同者による直接的な嫌がらせを煽るものです。

 意図があったかはわかりません。しかし、少なくともあの署名が嫌がらせ以上の意味を持たなかったのは客観的事実です。

 個人的には、この署名が嫌がらせ目的のために行われたのだと指摘するほうが、結果として嫌がらせにしかならなかったというより、むしろ彼らに対して極めて好意的な評価であると思います。もし本当に、真剣に抗議をするためにあんな低質な怪文書をこしらえたのだとすれば、荻野や青識、それに賛同した地方議員などはとんでもない馬鹿ということになってしまうからです。

 であれば、まだわざと嫌がらせ目的でやったのだと解釈してやった方が、彼らの体面も保てるでしょう。そう、あの署名があんなにも支離滅裂なのは、彼らの読解力が表現の自由を訴える割に宇宙的なスケールでお粗末だからなのではなく、わざと支離滅裂にしたのです。そうに違いない。京大卒のインテリネット論客青識亜論が意図もなくあんな文章を書くわけがないでしょう。

 ただ、目的を想像すると名誉毀損だとケチをつけられそうなので、あくまで評価に留めておきます。

自分で例えてやろう

 ここまで書いても自由戦士はわからないでしょうから、自分たちの親玉で例えて上げましょう。

 例えば、青識や荻野がピザ店の地下で児童買春を斡旋しているので職を辞めさせるべきだという主張で署名を集め、7万人くらいの賛同を集めました。さて、これを徳島県庁や大田区議会は受け取るべきでしょうか。

 直感的には、受け取る義理はないと思うでしょう。この署名の主張は全くの出鱈目だからです。
いくら彼らが人間性下劣のクソ煮込みだから言っても、ピザ屋の地下で児童買春をしている事実はありません。人間性を投げ捨てる方法は児童買春以外にもたくさんあります。銀行口座と一緒にうっぱらうとか。ですから、こういう署名は怪文書の類であり、まともに取り合うべきではありません。

 むしろ、積極的に受け取るべきではないとすらいえるでしょう。もしこのような署名を受け取ってしまえば、その署名の主張がある程度はまともに扱うべきものであるかのように見えてしまいます。歴史修正主義者が歴史学者と討論し、自説があたかも歴史学の通説と同程度の妥当性を持つかのように見せかけようとするのと同じです。そうなれば、嘘でも何でも人数を集めればあたかもその主張が妥当であるかのように見せかけられるようになってしまいます。

 こういうわけですから、荻野青識ピザゲート署名など受け取るべきではなく、ドブとかに捨てておくべきだという結論が得られます。

 しかし、そう結論するなら、戸定梨香の署名も受け取らなくていいということになります。事実に立脚していない点は全く同じだからです。

 戸定梨香署名がやっていることはまさにこれと同じで、私があの署名を受け取らなくてよいとしているのもそういう理由からです。これでよくわかったでしょう。

 では、少し状況を変えて、今度は青識が石川優実氏の発言を捏造したとか、荻野が口座を譲渡してそれが振り込め詐欺に使われたとか、そういう事実をもとにこのような人物は相応しくないと訴える署名を集めたらどうでしょうか。

 これらの主張は全くの事実です。ですから、少なくともピザゲート署名よりは受け取る義理や義務があると言えるでしょう
(例えなので、請願法的な手続きの話はさて置く)。これと同じようなものがインボイス反対署名です。

荻野はいつから「署名無視」を言い出したのか

 ところで、荻野はいつから「フェミニスト議連が署名を無視している」と言い出したのでしょうか。私の把握する限りでは以下のツイートが最古です。

 これが重要なのは、荻野がどの程度署名を渡すために動いているか知る手掛かりになるからです。署名ページによれば署名を集め出したのは2021年9月10日で、翌年4月10日に集結しています。そこから増田市議の暴露まで約7か月間も沈黙していたとすれば、荻野は署名終了後碌に何もせず、そのことをばらされてから慌ててフェミニスト議連を悪者扱いし始めたということになります。

 さて、どうなんでしょうね。これ以外の発言を把握されている方がいたら情報をお寄せください。

 今回書評するのは、反レイシズムのために遺伝学者が執筆した1冊です。著者はイギリス人ですがインドにもルーツがあるようで、そうした背景から差別を経験したこともあり、そのことが本書を書く動機ともなっています。

人種とはそもそも何か

 本書は結構気合の入った書きぶりで、のほほんとしていると理解が難しいところもあります。私は生物学や遺伝学、地理の知識が欠けているのでなおさらでした。

 そんななかで本書の内容を理解し、そもそも人種とは何なのかを整理してみましょう。

 まず前提として、集団間の差異というのは確かに存在します。人種は社会的に作られたものであるという指摘も多いですが、だからといって集団間の差異が完全にフィクショナルなものであるわけではありません。

 生物学的な差異で言えば、その多くが局所的な適応を原因としています。日差しの強い地域に住む者は肌の色が濃く、日差しが弱い地域に住む者は薄くなるといったようなことです。もっとも、すべての差異が局所適応を原因としているわけではありません。

 人種という概念の問題は、その成立が歴史的な疑似科学に基づくことと、身体的特徴が人種を区別する決定的な手掛かりではないということです。例えば、「チェダーマン」という1万年前の人骨から得られた手掛かりから、彼は茶色から黒っぽい色の肌を持っていたと考えられています。

 ただし、彼が見つかったのはアフリカではありません。イングランドです。このことは、イギリスには昔から白人しかいなかったと考えている白人至上主義者にとっては殊更ショックだったようです。

 そもそも肌の色(に限らず人間の体の特徴)を決める遺伝子の仕組みはかなり複雑で、古代の人骨から特徴を再現することに否定的な学者もいます。

同一祖先ポイント

 レイシストは人種という概念を極めて強固なものだと考えている節があります。純粋な白人とか日本人とかがいて、そのような人は先祖を辿っても白人や日本人しかない、というイメージです。

 しかし実際には、我々の遺伝子というのはかなり交雑が進んでいるようです。昔の人々は様々な地域を行き来しながら交わり、これを繰り返して最終的にはいまの「人種」に分かれているようです。

 特に興味深い概念に「同一祖先ポイント」というものがあります。これは、ある地域に住む人々の祖先を辿っていくと、全員に共通する1人の祖先を通過するポイントです。

 直感的にわかりにくいのですが、何とか説明を試みましょう。我々は世代を1つ戻るごとに、祖先の数が倍になります。父母は2人、祖父母は4人、その上の世代は8人……というようにです。遺伝学では一般に30年程度を1世代と見なすので、例えば300年で我々の祖先の数は2の10乗、1024人になります。600年だと2の20乗で104万8576人です。

 こうして遡ると、自分の祖先である100万人余りが、他人の祖先である100万人余りと全く被っていない可能性は著しく低くなります。そして、ある時点で「長らくその土地に住んでいるなら、ほぼ絶対に共通の祖先をもつ時点」が現れます。これが同一祖先ポイントです。

 イギリスの場合、同一祖先ポイントは我々が思うよりはるかに最近で、600年前になります。つまり、たった600年遡れば、イギリス人全員の祖先である1人の人物が見つかるのです。

 著者は、人々が祖先に拘る例として、あるイギリス人俳優の祖先が14世紀の国王であると突き止めたテレビ番組を挙げています。しかし、同一祖先ポイントの考え方に基づけば、最近イギリスにやってきた移民でない限り、イギリス人のほぼ全員がその国王の子孫であると推測できるのです。祖先を云々することの無意味さがよくわかります。

 恐らく日本人の同一祖先ポイントも、イギリスと大差ないでしょう。仮に600年前がそのときだとすれば、室町幕府の三代将軍足利義満の時代には、我々全員の共通の先祖がいた可能性があるわけです(金閣寺の創建が1397年)。

 そして、当然ですが、全人類の同一祖先ポイントも存在します。推測によれば、それは紀元前14世紀ごろです。だいたいツタンカーメンの時代です。チェダーマンが1万年前の人類であることを考えると相当最近だと言えるでしょう。我々は実のところ、かなり近いところで血縁だったのです。

黒人は遺伝的に足が速いのか

 最後に本書が扱うのは、黒人が人種的に足が速いので陸上で活躍するのだといった、身体能力と人種を関連させる言説です。実のところ、この通俗的な言説にはいくつかの方法で反論することが可能です。

 まず、実は必ずしも黒人がスポーツのあらゆる分野で活躍しているわけではないことが指摘できます。仮に黒人という人種が宿命的に足が速いなら、なぜすべての競技で表彰台を独占しないのでしょうか。足の速さが重要なスポーツは無数にありますから、アメリカのサッカーチームが黒人だけになったり、メジャーリーガーが黒人ばかりになってもおかしくないはずです。

 次に、「足が速い」というのは一見単純ながら、実は複雑な要素で成り立っていることが指摘できます。足の速さに影響するのは足の筋肉だけではなく、乳酸を効率的に処理できるかどうか、心臓が大きく酸素を取り込みやすいか、体の動きをうまく調整できるかどうか、大舞台で臆することなくパフォーマンスを発揮できるかどうか……とにかく無数にあります。このすべてで黒人が遺伝的に優れていると考えるのは無理があり、また事実ではありません。足の速さに影響すると考えられる遺伝子の中には、黒人とそれ以外の人種であまり差がないものも相応にあります。

 通俗的な説明の中にも多くの欠陥があります。例えば、黒人の身体能力が高い理由を、奴隷制の歴史から説明するものがあります。奴隷となった黒人は身体が頑強なものが生き残りやすかった、そのため黒人は体が丈夫な者が残り遺伝的に適応したのだというものです。しかし、この説明は一口に奴隷と言っても様々な業種があったことを見落としています。奴隷の中には家事労働を任される者もあり、こうした者は殊更身体能力が高くある必要がありませんでした。

 これらの説明は全て、人種のおかれた歴史や走るという行為そのものの特徴をあまりにも単純化していると言えます。

 では実際にはどのような要因が考えられるでしょう。著者が指摘する大きな要因の1つは文化です。「陸上で活躍する黒人」の出身地域は実のところ結構局所的で、短距離走では西アフリカ、長距離走では東アフリカに集中しているのですが、これはそれぞれの地域で「その競技で活躍して一山あげよう」という機運が高いためではないかと考えられます。実際、エチオピアの人口2万にも満たない街には高度なトレーニングセンターがあり、世界中から有能なランナーを求めてスカウトが集まるまでになっているようです。地元の選手の活躍を見た子供たちは選手に憧れ、自分も活躍しようと練習に励むという循環が生まれます。

 もちろん、遺伝的要因や環境的要因は無関係ではありません。エチオピアの高地での生活やそれに適応した身体は陸上競技に有利となるでしょう。しかし、それだけが活躍の要因なら、同じ高地であるチベットからも優秀なランナーが生まれるはずですが、実際にはそうなっていません。それは、チベットには走る文化がないからです。

 そして、このことは知能の問題にも適用できます。ユダヤ人が賢いと言われるのは遺伝的な要因というより、勉学を重んじる文化があるためでしょう。これはフィクションですが、フェイ・ケラーマンの小説シリーズにはユダヤ人(にルーツがあることに気付いた)の刑事が登場し、ユダヤ教徒として勉学に励む姿が描かれています。

 本書の内容は少し骨太ながら、それゆえにレイシストのでまかせに負けない柱となってくれるでしょう。人種とはどのようにして生まれどのように使われているのかを念頭に置きながら、レイシズムの波に抗っていきたいものです。

 アダム・ラザフォード (2022). 遺伝学者、レイシストに反論する 差別と偏見を止めるために知っておきたい人種のこと フィルムアート社

 今回は犯罪とも心理とも関係がないのですが、ずっと読みたいと思っていて読んでみたら案の定良い本だった1冊。せっかくなので気になった内容をメモがてら記事にしようということです。

教養とは「全体における位置」を把握すること

 本書はタイトルの指す内容とは少し異なり、そもそも本を読む必要があるのか、いや本を読むのは有害なのではないかという指摘をするものです。

 本書は「読んでいないこと」を様々な段階に分けて論じていますが、フィクショナルな例として、蔵書を1冊も読んでいない図書館司書が登場します(ムジールの小説『特性のない男』の登場人物)。ただし彼は目録だけは読んでいます。

 蔵書を1冊も読んでいない図書館司書に仕事ができるのか?と思うかもしれません。しかし、彼はしっかりと仕事をこなすのです。なぜそのようなことが可能かと言えば、彼は本の内容こそ把握していないものの、その本が図書館の本棚のどこに置かれるべきかは理解しているからです。もちろん、図書十進分類法などない時代です。

 詳しい説明こそありませんが、恐らくこの司書は、本の著者やタイトル、装丁から本を分類すことが出来るのでしょう。同じ著者の本は同じ棚へ、同じ時代の本は固めて並べる、小説は小説の棚へ置き哲学書は哲学の棚へ置くということが出来るはずです。

 この例を引きながら、著者は教養が1冊の本の内容を把握することではなく、全体の見晴らしを把握することだと指摘します。
 教養のある人間が知ろうとつとめるべきは、さまざまな書物のあいだの「連絡」や「接続」であって、個別の書物ではない。それはちょうど、鉄道交通の責任者が注意しなければならないのは列車間の関係、つまり諸々の列車の行き交いや連絡であって、個々の列車の中身ではないのと同じである。(p32)
 そして、本について論じるという行為は、実は1冊の本ではなくもっと広い範囲のひとまとまりの本について論じているのだと著者は指摘します。それはある文化の方向性を決定づけている一連の重要書の全体であり、これを著者は「共有図書館」と呼んでいます。

 かなり卑近な表現をするなら、本を論じるときに同じ著者の別の本についても言及することはあるし、同じような内容の別の本について言及することもあるでしょう。我々は1冊の本を論じているような気になりながら、実際にはその本の「共有図書館」における位置も含めて論じているのです。

 そして、その本の「共有図書館」における立ち位置を把握できることこそ教養であるというのが著者の指摘であると解釈できます。

 教養よりももう少し狭い知識の例かもしれませんが、例えば百田尚樹の本を論じることを考えてみましょう。教養がある人間であれば、『日本国紀』を読むことなく「いい加減な内容だ」論じられるはずです。それは著者が日本における保守的な差別主義と歴史修正主義の大手であるという知識、他の信頼できる歴史家が本書を否定していることから可能です。それらの人物の評価を正しく整理し把握することこそ教養の一端なのでしょう。

 実のところ、『日本国紀』の内容を論じることのできる人間は多くありません。私もそうですが、大半の人間は日本史の細かい事項や解釈に明るいわけではないので、『日本国紀』の誤りを具体的に指摘することは困難です。しかし、教養(あるいはそれ以前の知識)があれば、『日本国紀』を信じ込むこともなく、読むことすらなく正しく論じることが可能なのです。

読むべからざる本

 本書の後半において、著者はオスカー・ワイルドが「共有図書館」の本を整理し、3つのカテゴリーに分けていると指摘します。そのカテゴリーとは「読むべき本」「再読すべき本」そして「読むべからざる本」です。

 挙句、ワイルドは読むべからざる本を教えることは、大学の公的な使命の1つとしてもよいくらい重要なことだと主張しています。意外な主張に思われるかもしれませんが、しかし、心理学者として教壇に立つこともある私としてはかなり納得のいく主張です。

 私は最近、YouTubeで『通俗心理学本を読む配信』などをやっていますが、心理学は「読むべからざる本」が無数にある分野です。こうした本は読むことが時間の無駄であるというだけではなく、誤った知識や認識を植え付けられるという意味で有害ですらあり、まさに「読むべからざる」と強調したいものです。実際、私は講義中によくいい加減な本を読まないように忠告しますし、学生が読むべき本を示すために参考文献リストを常に提示しています。

 「読むべからざる本」とは少し異なるものの、本書では読書そのものが脅威となる場合も指摘されています。例えば、批評においては、重要なのは本そのものを論じることではなく、本が扱うテーマについて、あるいは「共有図書館」における関連や立ち位置についてであり、本に登場する細かいレトリックを云々することにはあまり意味、あるいは価値がありません。本を読む、精読するということは、こうした枝葉末節に囚われるリスクがあるのです。

「屈辱」で遊ぼう

 最後に、本書に登場する面白いゲームを紹介して終わります。これはロッジの小説『交換教授』に登場するゲームで、ルールは至極単純です。

①自分が読んでいない本を挙げる。
②周囲の人は、その本を読んでいるか申告する。
③読んでいる人1人につき1点が、本を挙げた人に入る。

 つまり、このゲームで勝つには「自分は読んでいないがみんなは読んでいる本」を挙げる必要があります。恥を晒せば晒すほど勝ちやすくなるゲームなので「屈辱」と銘打たれているわけです。

 ただし、小説ではこのゲームでハムレットを読んでいないと告白した英文学者が、大学でのポストを得損ねて最後は自殺にまで追い込まれています。所詮ゲームなので、致命的な無教養まで晒さないようにしましょう。

 ピエール・バイヤール (2016). 読んでいない本について堂々と語る方法 筑摩書房

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