イベリア半島における騎士修道会はレコンキスタ運動(全盛期11世紀~15世紀末)期間を通して継続的に投入可能な常備軍として重宝され、ポルトガルのアヴィス騎士団に至っては大航海時代(15世紀中旬~17世紀中旬)の先触れ役まで務めています。
カラトラバ騎士団 (Orden de Calatrava:1164年~1487年) - Wikipedia
1164年9月26日、ローマ教皇アレクサンデル3世より認可されたスペイン初の戦闘騎士団(ただし認可を教皇庁から受けたのは2番目)。カスティーリャでシトー会の傘下騎士団として設立され、カラトラバ・ラ・ヌエバに本拠の城をかまえた。「カラトラバ」とはアラビア語に由来する言葉である。シトー会派の騎士団は、多くが騎士や騎士の子息らで構成されていたが、カラトラバにおいては正反対に僧が騎士になった。
- その働きに応じて騎士団の指揮官達にはカスティーリャ王から新所領が与えられた。隣国のアラゴン王からも救援を求められ1179年には新たにエンコミエンダ、アルカニスを与えられたが、不幸にもそれらの土地が原因でカスティーリャ王とレオン王の領土争いに巻き込まれ、アフリカのモーロ人に応援を頼んでまで失地回復を狙うイベリア半島のイスラム勢力までも呼び寄せてしまう事になる。
- ムワッヒド朝(1130年~1269年)の強力な侵攻が始まるとスペイン側は敗北し、アラルコスの戦い(1195年)においてもカラトラバの防壁を手放さざるを得なくなった為、カスティーリャでは騎士団は没落したとみなされ、その噂を信じた隣国アラゴンでも冷遇が始まった。アルカニスの騎士団が新たな騎士団長を立ててカスティーリャに移り住みカラトラバの正統な継承者であると言い出したのである。最終的にアルカニス騎士団の団長は気高くも「アラゴンの偉大なる戦士」の称号をもって、カラトラバ継承から手を引く。
- その後も騎士団は歴代の王達とともにレコンキスタを戦い、勇猛をとどろかせ続けた。カトリック連合軍のめざましい勝利となったナバス・デ・トローサの戦い(1212年)でも重要な役割を果たしている。
- 1474年になってカスティーリャ王エンリケ4世の王位継承問題が勃発するとアラゴン王フェルナンド2世とポルトガル王アフォンソ5世がすかさず介入。騎士団もどちらにつくかで内部分裂した。例えば騎士団長ロドリーゴ・ヒロンはポルトガルにつき、彼の部下ロペス・デ・パディージャはアラゴン側に立っている。トーロの戦い(1479年)でアラゴン側が勝つとポルトガルは撤兵。アラゴン王と和解したヒロンは、グラナダ王国とロハ包囲戦(1482年)を戦う。その後、ヒロンの跡を継いだのはロペス・デ・パディージャだったがグラナダでの戦い(1487年)で戦死。
その後はアラゴン王フェルナンドが新騎士団長選挙の為(ローマ教皇インノケンティウス8世の教書をもって騎士団の管理者となっていた)と称して招集をかけ、候補者達に服従を要求。カラトラバ騎士団の政治的自治は、この時をもって終焉。グラナダ陥落(1492年)をもってムーア人に対するレコンキスタそのものが完了した。
ポルトガルのアヴィス騎士団(Ordem Militar de Avis) - Wikipedia
エヴォラのサンタ・マリア修道会、聖ベントのアヴィス騎士団、アヴィス王立騎士団などの旧称があるポルトガルの騎士修道会。
- ポルトガル王国は1128年にカスティーリャ王国から独立し、イベリア半島におけるレコンキスタに参加したがこの戦いに参加する十字軍騎士達の多くはピレネー山脈以北からやってきた外国人で一時的義務を負うのみであり、契約が切れれば戦争が終わっていなくても故郷へ帰ってしまうケースが後を立たなかった。そこで1128年にテンプル騎士団がローマ教会の認可を受けるとポルトガル王太后テレサ・デ・レオンがテンプル騎士団のポルトガルでの活動を許可。ポルトガル国王アフォンソ1世もムーア人から奪回したエヴォラの街を騎士団に与え、異母弟ペドロ・エンリケスを総長とした。ここから騎士団は「エヴォラのサンタ・マリア修道会」と呼ばれる事になる。
- 「聖ベントのアヴィス騎士団」と呼ばれるようになったのは、アヴィス城を攻略してそこへ拠点を移し、ベネディクト会の戒律を採用した1162年以後のことである。カスティーリャ王国のカラトラバ騎士団のように、ポルトガルの騎士団はシトー会の慣習と規律に大きな影響を受けていた。白のマントに緑の百合模様のついた十字はその例である。
- ポルトガル内のカラトラバ騎士団は、「カラトラバ騎士団の総長がアヴィス騎士団を訪れた際は彼に従う」ことを条件にアヴィス騎士団へその拠点を明け渡した。このことから、アヴィス騎士団はカラトラバ騎士団の支流とみなされることもあるが、実際にはアヴィス騎士団の総長は常にポルトガル人であり、ポルトガル王の親族であり続けている。
- 1383年フェルナンド1世の死によりポルトガルとカスティーリャの間に戦争が起きアヴィス騎士団総長ジョアンが王位についた。アヴィス王朝ポルトガル(1385年~1580年)の開闢である。ジョアン王は騎士達にカスティーリャ人に従うことを禁じた。その後、カラトラバ騎士団の総長ゴンサロ・デ・グスマンがアヴィス騎士団を訪問したが、アヴィス騎士たちは彼を厚くもてなしはしたが、新たな総長とは認めなかった。グスマンは抗議し、論争はバーゼル公会議(1431年)でポルトガル側の非が宣言されるまで続いた。しかし、カラトラバ騎士団の権利は結局行使されず、次のアヴィス騎士団総長ロドリゲス・デ・シケイラは自らの地位を守り続けた。
- ポルトガル自体のレコンキスタは13世紀中旬に完了。スペインのそれも15世紀初頭に達成された。するとポルトガル王は騎士修道会を解散するどころか「海外進出の先兵」という新たに任務に投入する。ジョアン1世によるセウタ攻略(1415年)、その子ドゥアルテ1世のタンジール攻撃(1437年)などにおいても、ともにテンプル騎士団を元祖とするアヴィス騎士団やキリスト騎士団はその宗教精神と、教皇の認可に基づいて行動して数多くの武勇と大きな功績を残した。前者はフェルナンド王子、後者はエンリケ航海王子に率いられており、ドゥアルテ1世の王弟フェルナンドはムーア人に捕われ、6年間監禁された後死去したが殉教したとみなされて列聖されている。
- しかし海外進出の主目的が富の蓄積となって国内が潤うにつれて宗教的情熱が次第に失われていく。アフリカ十字軍は単なる商業組織へと変貌し教会の支持は金銭調達のための建前に利用されるばかりとなり、1551年までに騎士団の全権限が国王に掌握される様になっていた。騎士団の収入は国王の手に渡り、陸軍、海軍の費用に利用されることになる。騎士団の宗教精神は消え、修道生活を送る者も少なくなり、1502年には教皇アレクサンデル6世が騎士達に妻帯を許し、1551年にはユリウス3世が財産所有を認める事になる。こうした流れを受けてポルトガル王は当時対抗改革(カトリック教会の組織を建て直してプロテスタントの教勢拡大を食い止めようとした運動)の目玉となっていたイエズス会を彼らへの目付役に選ぶ。例えばフランシスコ・ザビエルは「西インド植民地の高級官吏たちの霊的指導者になってほしい」というポルトガル王の要請を受けて1541年にインドのゴアへ赴いた(その後、ゴアはアジアにおけるイエズス会の重要な根拠地となり、イエズス会が禁止になった1759年までイエズス会員たちが滞在していた)。ザビエルはインドで多くの信徒を獲得し、マラッカで出会った日本人ヤジローの話から日本とその文化に興味を覚えて1549年に来日。二年滞在して困難な宣教活動に従事する(その後、日本人へ精神的影響を与えるには中国の宣教が不可欠という結論にたどりつき、中国本土への入国を志したが、果たせずに逝去)。日本でのイエズス会事業は以降ルイス・フロイスやグネッキ・ソルディ・オルガンティノ、ルイス・デ・アルメイダといった優秀な宣教師達に引き継がれた。
- 1789年アヴィス騎士団は教皇ピウス6世と女王マリア1世によって世俗組織に改められた。ポルトガル内戦によって絶対主義のミゲル1世が敗れ1834年に反カトリック政府が興ると立憲君主制下で財産を没収される。
自由主義体制と新たな法律によって騎士団員の身分は単なる名誉勲位に変貌。かつて重要な役割を持っていた特権も実態を失う。王制廃止(1910年)によって誕生した共和新政府は塔剣騎士団を除く全ての騎士団を廃止。しかしながら1917年の第一次世界大戦の終結とともに、これらの騎士団は祖国への類まれな貢献、つまり共和国大統領の職に対しての名誉勲位となって再建される事になる。
考え様によってはスペインが新大陸に派遣したコンキスタドール(Conquistador)をその機能的継承者と考える事が可能かもしれません。ただしそこにはもはや宗教的熱狂も清貧の精神もほとんど残っていなかったのです。
コンキスタドール(Conquistador) - Wikipedia
スペイン語で「征服者」を意味する言葉だが、とくに15世紀から17世紀にかけてのスペインのアメリカ大陸征服者、探検家を指す。1521年にアステカ王国を侵略したエルナン・コルテス、1533年にインカ帝国を侵略したフランシスコ・ピサロなどが有名。
金銀を求めてアメリカ大陸を探索し、アメリカ大陸の固有文明を破壊し、略奪と乱暴の限りを尽くした。しかし皮肉にも同行した宣教師の告発を契機に本国で「インディオは人間か?」という論争が巻き起こり(ラス・カサスとセプルベダが争ったバリャドリッド論争、1550年)、これとサラマンカ学派のドミニコ会士フランシスコ・デ・ビトリア(Francisco de Victoria、1492年頃〜1546年)の講義「インディオについて」および「戦争の法について」が結びつく形で「人間の権利を自然権と見做し植民地の異教徒をも適用対象とする」「かかる国際法は、国家の法の上位に位置づけられる」といった近代法理の先駆けとなったのだった(近代国際法学および自然法の父たるグロティウスの主著「戦争と平和の法」でも「国際法の祖」ビトリア、およびその後継者であるソトの国際法理論は頻繁に引用されている)。
- その活動はスペイン王の認可を必要としたが、ほとんど財政的援助はなく、軍は小規模で征服自体が投機的な性格の企てであった。コンキスタドールが自ら資金を集めて組織した数百名の武装した私兵部隊であり、スペインの正規軍兵はほとんど含まれていなかった。コルテスで600名、ピサロで200名という少数で、莫大な財産を手に入れた一方で、エルナンド・デ・ソトのフロリダ遠征のように悲惨な結末に終わった例もある。
少数の部隊でアステカやインカの大軍に勝利できた背景のひとつには、火器や剣、甲冑、騎馬兵(アメリカ大陸には馬がいなかった)など、ヨーロッパの科学技術の圧倒的な優位があった。先住民同士の内部対立を巧みに利用したり、アステカの場合には宿命的な迷信が戦意喪失につながったことも理由に挙げられる。
- 征服が完了すると王室は戦利品の5分の1(キント・レアル)を要求し始め、さらに征服地に官吏を派遣してコンキスタドールの権利を剥奪した。ペルーにおけるピサロの様に公然と反乱を起こす者も多く、特に(農奴制の一種ともいうべき)エンコミエンダ制をめぐって対立。しかし16世紀後半のフェリペ2世の頃には、副王制をはじめとした行政機構に組み込まれた。
*南米のインディオは徴税なる概念に馴染まず、労働力として徴用する事でしか税収が得られなかった事に由来する側面もあったりする。
いずれにせよ最終的に到達したのは奴隷制農園に立脚するモノカルチャー経済であり、資本主義経済圏への参入上、大きな障壁となってしまう。
かつては「スペインは宗教的熱狂から商業を卑しみ征服によって本国の農本主義的統治体制に組み込む事しか考えなかった」とされていたが、最近では「そもそもアジアやアフリカと異なり交易網も徴税機構も発達しておらず、スペイン流を持ち込む以外に統治のしようがなかった」とする立場もある。実際労働力確保の為の奴隷狩りも自らの手で行わねばならず、インディオに伝教して「異教徒なら奴隷にしてよい」という方便を奪った上に、彼らに奴隷狩りとの戦い方まで教えるイエズス会士との対立を深めていく。
そもそもレコンキスタの産物というべきスペインの存在そのものに十字軍国家っぽい側面がありますが、こうしたイメージの変遷をよく表してる言葉があります。
スペインで公式にイタリア語起源となっている。語源がはっきりしない言葉の常で、インドヨーロッパ語ではないバスク語に起源を求める俗説もある。一方、イタリア語辞典にはスペイン起源とも取れる解説がある。英語圏にはフランス経由で伝わったとされている。
概ねの国では「風変わりな」「奇抜な」が第一義だが、ポルトガル語における第一義は「上品な、高貴な」、スペイン語における第一義は「勇敢な、雄雄しい」で「風変わりな」「奇抜な」の意味で用いられる事はまれという。
- 貴族共和国における「黄金の自由」概念の文化表現としての「(16世紀から19世紀にかけてポーランド・リトアニア共和国の貴族階級およびウクライナ・コサックの生活様式や思想などにおいて支配的だった)サルマティズムまたはサルマタイ主義(ポーランド語: Sarmatyzm / ウクライナ語: Сарматизм / リトアニア語: Sarmatisms / 英語: Sarmatism)」と重なる部分が多々ある。そういえばドイツ人作家ギュンター・グラスの手になる文学作品「ブリキの太鼓(Die Blechtrommel, 1959年)」にも登場する。「ポーランド騎兵がドイツ機甲師団に正面から戦いを挑んだ」伝承の大源流とも。実際「ドイツ騎士団を叩きのめしたポーランド騎兵隊」のイメージはポーランド民族的自尊心の重要な支えの一つとなってきた様なのです。
- 南米文学におけるガウチョ/ガウーショ(西: Gaucho、伯: Gaúcho, アルゼンチン、ウルグアイ、ブラジル南部のパンパ(草原地帯)やアンデス山脈東部に17世紀から19世紀にかけて居住し、主として牧畜に従事していたスペイン人と先住民その他との混血住民)理想視とも重なる。
19世紀に入ると武芸の達人としての能力を買われ、各地のカウディージョ(スペイン語圏における軍事指導者。19世紀から20世紀にかけてのイスパノアメリカにおける独裁者達と1936年から1975年のスペインの元首フランシスコ・フランコの2例に大別される)に率いられてイギリスのラプラタ侵略(1806年~1807年)を撃退したり、アルゼンチン、ウルグアイ、ブラジルの独立戦争と内戦に従軍するうちに評価が逆転したいう(それまでは辺境を徘徊する賎民というイメージ)。概ね米国人作家アーネスト・ヘミングウェイの文学作品「誰がために鐘は鳴る(For Whom the Bell Tolls, 1940年)」に登場するゲリラ隊のイメージ? さらなるロマン主義的イメージの大源流はナポレオン戦争期における半島戦争(1808年~1814年、英:Peninsular War(半島戦争), 西:Guerra de la Independencia Española(スペイン独立戦争), 葡:Guerra Peninsular(半島戦争), 仏:Guerre d'Espagne(スペイン戦争), カタルーニャ語:Guerra del Francès(フランス戦争))にまで遡るのかもしれない。
この辺りの騎士道精神の二面性については「パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉(Pirates of the Caribbean: On Stranger Tides、2011年)に登場するスペイン軍も漂わせていました。
時代が下るとスペイン人そのものの騎士道への触れ方も随分と自虐的になってきて、ミゲル・デ・セルバンテス「ドン・キホーテ(Don Quijote、Don Quixote、1605年、1615年)」が登場。bizarreの意味が「上品な、高貴な」「勇敢な、雄雄しい」から「風変わりな」「奇抜な」へと変貌していく過程と無関係ではありません。
そういえばバロック(仏英: baroque, 独: Barock)という用語もポルトガル語の「歪な真珠」が起源で、芸術様式としての源流も全盛期ポルトガル宮廷のマニエル様式(1500年〜1530年)やスペイン宮廷に仕えるジェノヴァ銀行家の黄金期(1535年〜1557年)にまで遡ります。これがローマ教皇庁経由でフランス絶対王政へと伝わる訳ですね。
様式云々というより、とにかく壮大さを強調しつつ装飾過多。こちらも時代が下ると「こけ脅しの見せびらかし」「即物的過ぎて優雅さが片鱗もない」「全体としてバランスが悪くグロテスク」と散々揶揄される様になっていきます。植民地の教会建築様式として広まったウルトラ・バロックに至っては…