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ああ、クソ。
クソクソクソクソ。クソ。
「はぁああああああ…………」
今をときめく人気女流作家夢野幻太郎。美しい言葉の世界で生きる小生にとってはこんな言葉、無縁だと思われていることでしょう。
否。
クソです。これはクソ。
いつも通りの時間に目が覚めるとすぐに、下半身の違和感に気づいた。毛穴がキュッと閉まるような嫌な緊張感が体を駆けていって、慌てて布団をめくってみると、経血がべっとりと布団に染みついていた。
24歳ともなれば、生理の周期だとか前兆だとかは大体把握できる。一週間ほど前から酷い眠気と軽い頭痛、めまいや肌荒れを感じていた。そしてそれ今だと思って昨夜ちゃんと、ちゃんとナプキンをつけて寝たのに。
尻の方を触ってみると股の間から後ろの方までがじわりと濡れていて、右手の指をほんの少し赤く染めた。2人で向き合って寝ると必然的に体勢が横向きになるから、ナプキンの横から血が漏れてしまったのだろう。抱き合いながら眠りについたはずの相手はすっかり仰向けになっていびきをかきながら、左腕で私の頭を支えてくれていた。朝まで腕枕とか、痺れたりしないのだろうか。
とりあえず帝統を起こさないようにそっと布団を出る。大抵私が先に起きるし、この男、ちょっとやそっとのことでは起きない。四つん這いになって布団から脱出すると、少し血のついた掛布団をもう一度掛け直した。敷き布団は酷いことになってたからできるだけ早く洗いたいけれど、まずは服だ。それに見たところ汚してから時間が経っている。帝統はどうせ私がいなければ寝相なんてグチャグチャなんだから、そこを狙ってシーツと布団カバーを回収しよう。帝統の気持ちよさそうな寝顔にそっと口づけて、手洗いに向かった。
着流しと下着を新しいものに変えると、少しは気持ちが落ち着いた。あとはこの真っ赤な、いや、すこし茶色くなってきているこれらをどうにかすればいいだけだ。
真っ白な朝日が洗面所を刺すように照らす。凍えるほど冷たい空気に喉を縮こまらせながら頬をバチンと叩いた。
洗面台に水を張って下着を浸していく。血が固まるからお湯は使ってはいけない、分かってはいるけれど。指先から侵入してくる冷たさが憂鬱な気分を一歩、また一歩と私に近づけてくるみたいだ。しばらく流したあと、汚くなった水を替えて石鹸を取り出す。洗面台の下にあるそれを取るために屈むと腰がズキリと痛んで体がフラフラとよろめいた。
ああ、お腹が痛い、頭がぼーっとするし、なんとなく気持ち悪い。
奥の方にあったそれをやっとのことで引っ張り出す。壁に手をついて立ち上がろうとした。その瞬間、持っていた石鹸を落としてしまった。するりと落下する石鹸を咄嗟に拾うこともできず、ゴトリと床に転がる様をただ見つめる。
途端、なにかのスイッチが入ったのか切れたのかは分からないが、涙がポロポロと出てきてしまった。
泣いても仕方ない。泣いたって目の前の下着は綺麗にならない。急いで洗わないと跡になるし、帝統が起きてくるかもしれない。今はとにかく、目の前にあるこれをどうにかしなくちゃいけないのだ。頭にムチを打って当初の目的を思い出させる。
水で溶かした石鹸を両手に塗りたくって下着を揉みこむ。白かった泡はだんだん茶色くなっていくのに、茶色くなってしまった下着の色がなかなか変わらなかった。サニタリーショーツだから経血が落ちやすいはずなのに。
その間もずっと涙が止まらなかった。気分が悪い生理1日目の朝に、自分で漏らした血を自分で洗わなければいけない状況に悲しくなって。とにかく、悲しい気持ちがとめどなく溢れてくる。帝統に見つかったらどうしよう。とにかく急いで落とさないと。両手を乱暴に擦り合わせていると、指先に鋭い痛みが走った。自分の爪で指を少し切ってしまったようだった。痛い。汚い泡がまた少し汚くなった。切ってしまった中指が脈打つようにジクジク痛む。つられるよつにして涙がボロボロと出てきて目の前の下着すら見えなくなってしまった。
「うっ、……ぅうう、っ、……うっ、うっ、」
たくし上げた浴衣の袖で涙を吹きながら一生懸命に下着を擦る。一度水で流してみると、およその汚れは落ちていた。けど、まだ、もう一回。薄く残った汚れが憎くて、でも洗濯したってどうにもならないから。もう一度手に石鹸を広げていたときだった。
「おはよー……って、幻太郎」
「あ、」
鏡に反射して写っていたのは、目の周りまで赤くなった自分の顔と、目を見開いた帝統の顔だった。
「……大丈夫か」
「あっ、や、……うっ、……っ、」
「えっ……あ、げんたろ、おい」
見られた。
帝統の視線は私の顔と手元を交互に行き来していて、かごの中にいれてある汚れた着流しまで見られてしまった。それはどう見ても経血の汚れだったし、私の手の中にあるのはどう見ても生理用のショーツだった。
頭がパニックを起こしてもう何がなんだかわからない。目からは涙が際限無く流れ出てきてしまって前が見えないし息が上手く吸えないし頭が締め付けられたみたいに重い。
「ぅぁああ、っ、ひっ……っ、うっ、うっ」
「幻太郎、大丈夫だから」
後ろから温かい手のひらで肩を撫でられる。脳みそがギューっと握られたみたいになってもっと涙が出てきた。帝統に、見られた。
「うっ、あっ、いや、やだ、あうっ、ひっ、」
「大丈夫だから。落ち着けって、な?」
「いや、ひっ、あ、いや、いや、」
胸が苦しい。お腹が痛い。気持ち悪い。寒い。冷たい。
「幻太郎、一回それ離して」
冷えきった手の甲に熱い手のひらが乗せられる。自分のよりも一回り大きいそれはピリピリと温かくて力が抜けそうになった。けど、これは、これは、可愛くもない生理用ショーツでおまけに経血付きなんですけど。
「や、や、」
「ごめんな……っと、」
帝統の力に抗えるわけもなく、泡だらけのそれをひったくられてしまった。汚い、それ、汚いやつです。触らないで、お願い。
「あっ、あぁ……、あ……………っ……」
「そーそー、偉い偉い」
帝統は下着を洗濯かごに優しく置いて、水で私の手と自分の手を一緒に流した。そのままタオルで手を拭かれて、繊維の柔らかさに安心していたら横からひょいと抱き上げられた。
「……うわっ、ちょっ、帝統っ」
「んー?」
絶対に聞こえているのに相手にしてもらえず、帝統は私をお姫様だっこしたまま廊下を歩いていった。触れてる部分全てが心地よくて帝統の匂いが気持ちよくて、厚い背中に手を回して強くしがみついてしまった。
何がなんだか分からないまま体の奥がじんわりとあったかくなってくる。いや、本当はわかってるんだけど、それも全部投げ出して、このまま目を閉じてしまいたい。
「帝統……」
「もーちっと寝てな、なんかあったら呼んで」
目を薄く開ければいつの間にか寝室に運ばれていて、ひんやりと冷たい客用の布団に横たえられた。ふと横を見てみると、私が汚した布団はいつの間にか部屋から無くなってた。突然不安になって帝統の腕を掴む。
「帝統、小生、シーツを」
帝統が振り返る。
「俺やっとくから、暖かくして寝ろ」
「でも、あの、汚いから、貴方に触らせるなんて──」
まさか帝統に洗わせるわけにはいかないし、起きたあとに洗うのではいくらなんでも遅すぎる。痛む下腹部を押さえながら布団から出ようとすると、強い力に阻止された。
「きゃっ」
「何時に起こす?」
「あの、帝統、本当に」
上から肩を押さえつけられて、体がびくともしない。いつの間にか布団の中の温度は体温との差を縮めて、足の裏がふわふわと温かく、意識がグラグラと不安定になっていった。私はただ、その指が、私の汚いそれで汚れてほしくないだけなのに。ちゃんと伝えようと思って小さく息を吸うと、帝統の困ったような顔が一瞬見えて、すぐ、真っ暗になった。
瞼をなぞるように触れられて、唇によく知っている柔らかさを感じた。
「何時」
「……9時」
「ん」
カサついた大きな手のひらで額を撫でられると、体を支えていた骨組みみたいなものが全部溶けてしまって、意識が水平線の向こう側まで流されそうになった。遠くなっていく意識の中で帝統が部屋を出ていこうとするのが見える。新しいシーツは、しんと冷たい。
「帝統、」
「ん?」
「……終わったら、こっちに来て……下さい」
帝統は一度面食らったような顔をして、すぐに優しく微笑んだ。
「はいよ」
帝統はわざわざ私のところまで来てもう一度キスを落とすと、にこりと笑って頬をさすってくれた。私はいっぱいの幸福感とちょっぴりの寂しさを感じながら、そのまま目を閉じた。
ぱちりと目が覚める。目が覚める瞬間とは意外と一瞬で、そのあとに少しずつ色んな感覚が追いついてくる。相変わらず頭は重いし腰は痛いし股は気持ち悪いしであまりいい目覚めとは言えなかったが、横から抱えるようにして私に抱きついている帝統の存在を認識したので気分は落ち着いた。温かい手のひらは腹の下の方に当てられていて、足は2本ともしっかり絡められていた。
枕元に置いてあるスマホを確認してみると時刻は8時半で、寝坊していなかったことに安心した。生理中だろうがなんだろうが締切はやってくる。仕事をしないわけにも行かないのだ。もうこのまま起きてしまおうと思い、帝統に声をかけた。
「だいす、だいす、おはようございます」
回された腕を軽く叩きながら後ろを向いて囁く。すぐ近くにあった顔は声に応じるように何度か瞬きをして、目を開けた。
「……ん、おはよう」
帝統が私の肩口に顔を埋めて甘えるように強く抱きしめてくる。柔らかい鼻先がくすぐったくて少し笑ってしまった。
私を甘やかそうとしてくれているのが分かって嬉しいけれど、先に謝らないと。
「先程はすみませんでした、あの……血が……」
恥ずかしい様を見せてしまったし、汚れた色々の処理までしてもらったことに申し訳無さが募る。血が落とせたかも不安だし、帝統に気持ち悪がられたらどうしようという不安も強かった。恐る恐る聞いてみると、帝統が寂しそうな声を出したので驚いた。
「いや、俺もすぐに気づけなくてごめんな。これからはすぐに起こせよ、これ、辛いだろ」
下腹部に当てた手のひらをポンポンしながら帝統が言った。
あれ、ハタチの男の子ってこんなことができたんですか。帝統と付き合い始めてから何百回も思ったことをまた思ってしまった。チョロい私は胸をキュンとさせてしまう。
「……いや、でも、気持ち悪いでしょう」
月に一度どうしたって大量の血を見ることになる私は慣れていたとしても、やっぱり帝統には不快なものなのではないだろうか。不安が拭いきれなくて色々と聞いてしまう。帝統は未だに私を抱きかかえたまま眠そうに言った。
「……んー、別に、全然平気、慣れてるし」
「……はい?」
慣れてるってなんだ。無意識に耳がぴくっと動き、体が強張る。
「なんだよ」
「慣れてるってなんですか」
つい強めに言ってしまうと、帝統は私がなぜ怒っているのか全く分からないと言ったような顔で眉を下げた。帝統はやっぱりハタチの男の子だ。優しくしてもらったのにすぐこんな態度を取ってしまう自分が嫌になる。
「すみません……ごめんなさい。起きます」
簡単なことで涙が出そうになるのをグッとこらえて帝統の手を振り払い、布団を出た。
「なぁ、おいって」
聞こえていないフリをして居間へ行くと、大きな窓の外に真っ白のシーツと着流しが干されていた。帝統は私の後をちょこちょことついてきた。
「まぁ、ちゃんと落ちてる、お上手なことで。迷惑かけてすみません、次から気をつけます」
「いや、いーけどよ……」
よく晴れた冬の空の下で、健康的な光を浴びてひらひらと揺れるシーツは私が汚したことなんてまるで感じさせないほど真っ白で、よくよく見てみてもやっぱり真っ白だった。腹が立つ。
「朝ごはんにしましょう。頑張ってくれたご褒美に卵焼き焼いちゃいましょうかね」
「無理しねぇでいいって」
「いいんです、お食べなさい」
そこからはヤケだ。生理の前に行っておいた買い出しで手に入れた塩鮭を焼き、具材たっぷりの味噌汁とポテトサラダを作り、仕上げに甘い甘い卵焼きを巻いた。
料理をしているうちは気が紛れて他のことを考えなくて済む。それにしても私、本気出せば30分でこんなに豪華な朝ご飯が作れるんですね。見直しました。
居間のちゃぶ台に皿を並べていく。
「なんか、無理させてごめんな?」
先に座っていた帝統は私を怒らせたと思っているのか、申し訳なさそうにこちらを見上げてきた。私はそんな顔をしてほしい訳じゃない。
「いいんですよ、小生は死ぬほど元気ですので。さ、食べましょう」
「そーかよ」
嘘ですけど。起きてからもずっとお腹が痛い。それでもこんな事は言いたくなくて、姿勢を伸ばして座布団に座った。
いただきます、と二人で手を合わせてから朝ご飯を食べる。するとなんということでしょう、先程までのパッとしない態度はどこへやら、帝統は卵焼きを口に入れた途端に目をキラキラと輝かせて美味い美味いと言いながら食べてくれた。帝統のために用意した食事が帝統のために消費されていくさまを見て、機嫌が良くなってくる。食欲なんて無いくせに、私も負けじと料理を口に運んでいった。
結局大量に作った朝食は二人で食べきってしまい、満足そうにごちそうさまと言われれば、心の中の違和感も消えてなくなるような気がした。こういうとき、帝統はいつもとびきり可愛く笑う。
温かい食事を取れば体も幾分か落ち着いた。朝食分の洗い物をしながら今日一日の予定を頭の中で組み立てていく。とりあえず昼食までは雑誌のエッセイ、午後からは長編、夜は誤字脱字のチェックをしよう。生理痛は夜からが一番辛いから、途中でも切り上げやすく、かつ淡々とこなせる作業のほうがいい。本格的に痛みだしたら薬を飲んで寝ればいい。24年生きてきて、自分の体のことは大体分かってきた。変えられない癖は把握して、対処するのが一番。
一人で生きてきた私にとって、自分のことを自分でなんとかするのは当たり前のことだった。
「幻太郎」
帝統の声。
「な……に………?」
肩をポンポンと押されて目が覚める。頭はとろけてしまったような甘い感覚に溺れていた。エッセイの執筆をしていたら、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。机に突っ伏すように脱力していた体を起こす。
「こら……仕事場には入るなとあれほど……」
目を擦りながら振り返ると帝統が心配そうにこちらを見ていた。
「なー、やっぱり今日はやめとこうぜ、色々。横になった方がいいって」
しゃがみこんでこちらを覗き込む帝統の顔が、子犬のようにしゅんとする。
「……無理です。小生、締め切りを守らないやつはクズだと言いましたよね? あなたと違って大人ですので与えられた仕事はきっちりと──」
「俺知ってるぜ。幻太郎、今急ぎの仕事ねぇだろ」
「そ、それは」
帝統の言葉にギクリとする。本当は締め切りギリギリの仕事なんてない。周期を予測して、生理の前に大方の仕事は片付けておいたのだ。生理中にも仕事が出来なくは無いけれど、こんな風に寝てしまって締切に間に合わないなんてことはあってはいけない。今日くらい休んでしまっても良かったのは事実だ。それに、ものすごく眠い。
「……それは、確かに、そうですけど……」
「じゃー、これおしまい。昼飯作るから居間で寝っ転がってろよ」
帝統が立ち上がって台所に向かう。まぁ今日は気分転換にしっかりと休んでしまおう。私も立ち上がろうとしたその時、帝統が「あっ」と何かを思い出したみたいに振り返った。
「立てる?」
その瞬間、頭がジンと熱くなった。
「……ッ、立てます! 先行っててください!」
「はぁ? 急にキレんなよ……って、ああ、わり……ごめん、おぶるか?」
なんですかそれ。生理中の女は情緒が不安定だから優しく接するんだよって教えられたのを思い出しましたか、生理中の女はたちくらみが起きやすいって教えられたのを思い出しましたか。
シーツについた経血の落とし方も、誰かに教わったんですか。
「いい、いらないですッ、それくらい一人で──」
大声を出してしまってクラクラし始めた頭の違和感は無視して、机に手を付いて勢い良く立ち上がった。そのとき。
「──い"ッ!」
下腹部が殴られたように痛み、眼球が後ろに引っ張られたように目の前が真っ黒になった。
耳の奥がキーンと鳴って、頭の中がグラグラ揺れる。肩を叩かれている気がするけど、目が開けられない。自分が今、立っているのか倒れているのかも分からない。突然襲ってきた大きな波をやり過ごすために、ただ目を閉じる。ウーン、ウーン、と耳鳴りが近くなって遠くなって、もう一回近くなったあと、遠くに行って戻ってこなくなった。
頭のグラグラが引いていく。ゆっくりと目を開けると、自分の膝と畳が見えた。
帝統の声が聞こえる。
顔を上げると、帝統が怒ったような顔でこちらを見ていた。私はあのまましゃがみこんでしまったらしく、帝統は一緒にしゃがんで背中をさすってくれていた。
「幻太郎、幻太郎、おい」
どうやら私は名前を呼ばれていて、それに応えるように帝統に目を合わせた。怒っているのだろうか。なんですか、と口を開こうとした途端、胃の奥から何かが込み上げてきた。
「ウゥッ!……」
慌てて口元を抑えると、帝統が素早くゴミ箱を目の前に持ってきた。
「……吐いちまえ。大丈夫、怖くねぇから」
そういいながら帝統は私の背中をさすり続ける。運良く中身が入っていなかったゴミ箱には真新しいビニール袋がかけられていて、確かにここになら吐いてもいい、いや、もう吐いてしまいたいと思った。
「ん、んぅ、あッ、はぁ、はぁ、……」
上手く回らない頭ではもう何も考えられなくて、ゴミ箱の前まで頭を下げると口から手を離して嘔吐する準備をした。
「吐けるか? ゆっくりな、息吸って」
背中に与えられる温かさを感じながら深呼吸する。ゴミ箱を抑えていた帝統の手首にしがみついて目を閉じた。
「はぁ、はっ、……んっ、はぁ、ひっ、は、は」
涙と共に口の中から唾液がポトポト垂れて、ビニール袋がカサ、カサ、と鳴る。どうにかして吐いて楽になりたかったが、もう一歩のところで吐けなかった。
10分ほど頬の横から湧いてくる唾液を吐き出しながら深呼吸していたら、聴覚がクリアになってきた。モヤがかかったような感覚が澄まされて、心臓の鼓動も落ち着いてきた。
「ふー、はぁ……、……ふー」
吐き気が去っていき、胸のあたりが軽くなる。震える手の甲で口を拭い、今なお背中をさすっている帝統の方を振り返った。
「帝統……」
「……辛ぇな、吐きたい? 手伝うから」
先程までの怒った顔はしていなかった。
言葉を返せなくて首をフルフルと横に振れば、帝統は「おっけ」と言ってティッシュで私の口と目尻を拭いてくれた。
ジェンガが崩れるみたいに体の力がスッと抜けて、お尻をついて座り込んでしまう。
「帝統……私……」
「口ん中気持ちわりぃだろ、ちょっと待ってて」
そう言うと帝統は台所から冷たい水を入れたコップを持ってきてくれた。
それをひとくち、ふたくちと飲むと水が喉を通り過ぎて胃に落ちていく冷たさが気持ちよくて、思わずため息をついてしまった。
「……はぁ……」
「辛かったな、大丈夫………じゃねぇだろ、とりあえず寝るぞ……って、あーあー」
帝統に優しく頭を撫でられて、涙が出てきた。私は一日に何度泣けば気が済むんだろうか。
「寂しくなっちゃったか、一緒に寝よーぜ、ほら」
帝統が私を抱き上げようとする。でも、違う。やめて、の意味で腕を拒めば帝統はショックを受けたみたいな顔をした。
私が泣いているのは、泣いてしまったのは、寂しいからじゃない。私がシーツを汚しても、失神しても、あなた、全く動じませんでしたね。何度もあったことなのでしょう。対処法はバッチリです、って。何から何まで慣れている様子が気に入らないんです。
止まらない涙をひたすら拭っていると、帝統が隙を見て私を抱き上げた。そのまま寝室に連れて行かれ、布団の上に座らされる。先程のように寝かせられるかと思いきや、帝統は私の背もたれになるように後ろに座った。完全に横になるともう一度吐き気を催してしまいそうだったので、これも恐ろしく気遣いができているのだけど。
「なー、そんな泣かれると俺もそろそろ心配になっちまうんだけど」
「……」
もうしゃくり上げるような涙じゃない。目の端からサラサラと流れていく涙が顎をつたって着流しに落ちた。
「ごめん、なんつーか……俺居ないほうがいいよな」
帝統が立ち上がろうとした。
反射的に腕を伸ばす。
「うぅ……」
体を精一杯捻って帝統の体に抱きつく。帝統の胸に顔を埋めれば煙草と汗の匂いが脳を満たして、体の中心からドロリと溶けてしまいそうになった。
「なんだよ、やっぱり──」
「小生の次の女の子にもこうやって優しくするんですか」
「……え?」
ここまでしてくれた帝統に八つ当たりするのは酷い行為だ。自分で自分が惨めになるが、吐くものも吐けなかった口からは言葉が湧いたように溢れてくる。
「貴方言いましたね……慣れてるって。小生以外にも沢山いたんですね、月のものが重い方。その方々にもこうやって優しくしてきたんでしょう。シーツの汚れも落としてあげたんでしょう、背中をさすって体を労ってあげてたんでしょう。それで、それで……」
顔を上げられない。これでは帝統の心臓に語りかけてるみたいだ。でも、その方がいい。
「小生の、小生の……次の……女性にも……」
目をぐっと閉じて、自分のメチャクチャな言葉を反芻する。帝統とお付き合いしてきた人も、帝統とお付き合いしていく人も、さぞ幸せなのだろう。ここまで親切に優しくされて、突き放す、ましてや八つ当たりする女なんて私ぐらいだ。素直になれない事ばっかりでそろそろ帝統にも見放されるかもしれない。
思考が坂を転げ落ちるように沈んでいく。
「……ごめんなさい………」
こんなに可愛くない女、いらないですよね。
帝統の声が聞きたいのと同じくらい次の言葉が聞きたくなくて、もっと強く帝統の服を引っ張った。
「…………うーん、ああ、まあ、そーって言えばそうなんだけど……えーっと、うーん?」
耳を当てていた帝統の胸が細かく震える。帝統は話し始めたけれど、なんだかハッキリとしない。
「こんな女嫌なんでしょう、嫌なら嫌って、言って……ください…………違う、そんな……ううう」
嫌なら言え、なんて甘ったれた考えだ。酷い。酷すぎる。
「あーあーあー! 泣く泣くな! 取りあえず横になんぞ、体調悪いんだからよ……」
「ううううううわあああああん」
「ああああ」
声を上げて泣く私を抱き上げて寝室まで連れて行ってくれた帝統は、素早く湯たんぽとか温かい飲み物とか暖房とかも全部セットしてくれた。そのあとじっくり30分、帝統は私の腹をさすってしつこいくらいに甘やかした。初めはそんな行動よりも言葉が欲しいと思ったが、調子が悪い状態では私が何を聞いても癇癪を起こすことを、帝統はよく分かっていたみたいだ。
しばらくして「ありがとう、気持ちいい」と遠回しにOKサインを伝えれば、布団の中に寝転んだ帝統は私の額を撫でながら少しずつ、話してくれた。
「えっと、さっき幻太郎が言ってたことだけど」
「はい……」
今日一日で泣きすぎて頭がフワフワしている。
「俺がその……そういうさ、看病みたいのができるのが嫌だったったことか?」
「…………別に………………………まぁ、そうです」
「……できる男でわりぃな」
「本気でそういうことを言えるトコ、好きですよ」
「あんがと」
「褒めてない……」
真剣に謝る帝統がおかしくて可愛い。
「……まぁ、前に付き合ってたやつのそれが重くて、色々覚えたんだよ。……嫌だった?」
「嫌です」
心が穏やかなおかげで「嫌」と「イライラ」の気持ちの区別ができた。正直な気持ちを帝統に伝える。
「そっか。……まぁでもよ、これは言い訳なんだけど」
帝統がそう言いながら、私の額に置いた手のひらをゆっくり動かし始めた。
「目の前のやつを大切にしたいって思うのは、当たり前じゃねぇの」
「……それは……」
それはつまり、その時帝統と付き合っていた人が大切にされていたということで、今私が大切にされているということ。ですよね。
「俺はさ、ただ、その時全力でそいつのことが大事で、必死になってたから覚えただけで……だから、幻太郎のおかげでできるようになったことも、一杯あんだよ。それは分かってくれねぇか」
ゆっくり、一言一言を絞り出すように話してくれた。こいつは この可愛い二十歳は、私の有栖川帝統は、正真正銘の。
「…………クズ。もしくはクズタラシ」
「はぁ!?」
帝統の目が大きく見開かれた。
「彼女の前で元カノの話とか厳禁でしょう」
「なっ! お前が話せって言ったんだろ──」
「ふふっ、ウソウソ」
顔を上げて帝統の唇に口づけする。
「それでは、小生の次のお相手さんにはより沢山のサービスができますね」
「お前なぁ!………俺は!……その………!」
帝統が声を荒らげる。
「んー?」
続きの言葉を促すように聞いてみる。帝統の頬に触れてみると、ぽんぽんと熱かった。
帝統と知り合ってからも、付き合ってからも短くはない。私も随分と帝統を信用しているみたいだ。
「……次とか、ねぇから」
目だけは逸らさずに、帝統は顔を真っ赤にして呟いた。
「………」
口の端が上がってしまうのを耐えられない。私のために、こいつはどこまで頑張ってしまうのだろうか。
「本当に?」
「……本当に!」
「言いましたね?」
「言った!」
ぎゅっと、横向きになって帝統に抱きつく。
「うぉっ!」
「んぅ〜」
いい匂い。
帝統は、ただただ目の前の女性に真摯に向き合っていただけだった。
昔付き合った男に、「今までの彼女にはこんなに優しくしなかった」「実は君のために彼女と別れた」と言われたことがある。その時、いつか私も捨てられてしまうのだろうと思ったことを思い出した。だって、それは“僕は今の彼女より魅力的な人がいたらそちらに行ってしまいます”と言っているようなものだから。関係に合う合わないはあるとしても、その言葉は私に大きなショックを与えた。
「ねぇ帝統」
「あ?」
ガラの悪い返事に安心する。
「……今、小生より好きな人ができたらどうします?」
「え、…………? どういうこと?」
「いや、だから小生より好きな人ができたら──」
「お前がいんのに、好きな人できんの?」
ポカンとした顔で私の顔を見てくる。純粋に謎を感じているみたいな面白い顔だった。
「ふふっ、すみません、今の話は忘れてください」
「はぁあああ? 意味わかんねぇよ」
「はいはい……ああ、そういえば」
一途で真面目な帝統君、ここまで相手にぞっこんになる彼が元カノと別れてしまったのは何故だろう。
「その女性とはどうして別れたんですか」
話の流れ的に帝統が振ったわけではないだろう。どちらにせよ帝統を手放してしまった女性には感謝したいが。
「あー……え、聞く?」
「聞く」
「……付き合って4ヶ月くらいのときに賭場で身ぐるみ剥がされちまってよ、その姿見られて振られた」
「ふっ、」
思わず吹き出す。
「ショックだったけどギャンブルやめんのは無理だから諦めたわ………ああ思い出した」
顔を覆って帝統が唸る。待て待て。帝統の脳内が元カノの顔でいっぱいになるのは不本意だ。
「今の彼女は誰ですか」
悔しくて、帝統の手をそっと舐める。
「ひっ………幻太郎です」
「ヨシ」
「お前からは逃げたくても逃げられねぇな」
「……え?」
「あああ! ちがうちがう! 逃げるわけねぇだろこんなに好きなのに」
数年前の月9でも見ないような甘い台詞を吐かれて、胸の奥がムズムズする。
「……そういえば帝統」
「おん?」
「身ぐるみ剥がされた際、小生に連絡してきますよね。振られるかも、とか、少しは学習しなかったんですか」
帝統は2ヶ月に1回くらいのペースでボロボロに負けて、のっぴきならない状況がどうとか言った電話をかけてくるのである。その度に迎えに行って服を買い戻して家で飯を食わせたりしてる。
「だって、幻太郎は付き合う前に俺のこと迎えに来てくれたことあんだろ。だから平気だと思った」
帝統はそう言ってサッパリと笑った。
「はぁ」
そういえばそんなこともあったかな、と思い出す。普通に考えれば自分の彼氏がギャンブル狂で、さらに道端で裸になっていたら間違いなくドン引き案件だ。
まぁでもそれは。
「お互い様ですね」
「何がだよ」
「こんな癇癪持ちの嘘つきを彼女にするのは初めてでしょう?」
帝統がハハッ、と笑った。
「そりゃ間違いなく。締め切り前に泣き叫んだり包丁持って暴れたり風呂場で逆さまになったりするような奴は初めて」
「風呂場で逆さま?」
「覚えてねぇのかよ」
「覚えてませんよ」
「ありゃ酷かったな」
「……言いなさい何があった」
「言わねぇ」
「言いなさい」
「言わねぇ!……くくっ」
笑いをこらえきれないのか帝統が寝返りを打って背中を向けた。プルプル震える背中は大きくて、背骨の一つ一つが浮き出るシャツからは帝統の匂いがした。
「言いなさい!!」
「言わねぇ〜〜〜」
「トゴにしますよ」
「にゃっ! それだけは〜〜〜!」
二人で散々騒いだあとは、夕方までゆっくり眠った。横向きになって抱き合ったおかげで漏れ出た経血が汚したシーツは、帝統が綺麗に洗ってくれた。
おわり
生理が重い幻太郎を帝統が看病するお話……を書いていたつもりでしたがまぼちゃんがグズグズし始めたので話が長引きました。ピュアで一途なギャンブラー、帝統が好きです。
※生理のお話なので苦手な方はお控えください!