pixivは2023年6月13日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴
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その時幻太郎は、追い込まれていた。締切までにはまだ余裕がある。しかし筆は進まないおろか先の展開さえも思いつかない。ただ白紙のページと向き合うだけの時間が過ぎていた。
気づけば時計の短針は頂点に近づき始めている。しかし作業は進まない。にもかかわらず空腹さえも感じ始めた。そういえば、夕飯を食べるのを忘れたいた。気分を変えるかと、幻太郎は作業机から離れ、台所へ向かった。
彼がこうして仕事に没頭しているとき、いつも彼女が夜食を用意してくれていた。付き合いはじめた頃は、彼の食生活を心配した彼女が彼の家で食事を作っているだけだった。それが次第に彼女が幻太郎の家にいることが多くなり、ここ最近は内縁関係をだらだらと続けている。
しかし幻太郎のあては外れてしまった。台所には皿を洗う彼女の姿が。彼女は幻太郎に気がつくと、バツが悪そうに彼から目をそらした。
「おにぎり作ってたんだけど、ごめんね、お腹空いちゃったから食べちゃった」
申し訳なさそうに彼女が言う。その態度が、疲労困憊の幻太郎の精神を逆撫でた。
「何もないんですか? 夕飯は?」
「それも……」
「食べちゃったんですか?」
彼女はゆっくりとうなずく。普段なら何でもないことだったが、幻太郎は疲れていた。彼女の行動がひどく自分勝手に思えて仕方なかったのだ。
幻太郎は大げさにため息をつくと、彼女に背を向けた。何もないなら、仕方ない。書斎に戻って仕事を再開しようとした。だがそんな幻太郎を彼女が引き止める。
「ごめんね。すぐ何か買ってくるから」
「いいです。もう遅いですし、小生はもう少し仕事をします。あなたはもう寝てていいですよ」
「でも、幻太郎ずっとお仕事してたのに」
幻太郎の制止も聞かず、彼女は出かける支度をしようとする。
「だからいいですから」
それでも彼女は止まらなかった。幻太郎の制止もエスカレートする。
「こんな時間に危ないでしょう!」
思わず声を荒げてしまった。幻太郎の怒鳴り声に、彼女の動作も止まった。あからさまにしゅんとして、それでもまだ諦めきれないのか、彼の顔色を窺う。
「でも悪いのは私だし……」
「余計なことはせずにもう寝ててください」
幻太郎はピシャリとそう言い放ち、その場を去った。もう仕事をする気も失せた。その夜彼は書斎で眠った。
翌朝、幻太郎が目をさましたのは昼前だった。彼女はもう起き出しているのかと思って寝室を覗くと、敷きっぱなしの布団が膨らんでいた。近寄ると、彼の気配に気づいたのか、布団の膨らみがもぞりと動いた。
「ん……」
「おはようございます」
布団をめくってみると、やはり彼女だ。身じろぎをしてから彼女が目を覚ます。
「げんたろう?」
「おはようございます、よく眠れましたか?」
そこでようやく彼女は今の状況に気づいたのかはっと起き上がった。
「今何時?」
「うーん、そうですね、11時くらいでしょうか?」
「うそ」
「嘘ですよ――なんで嘘ですよ。ほんとです。その様子だと、あなたも今起きたようですね」
「あ、朝ごはん、今からするから!」
慌てて立ち上がる彼女に幻太郎は微笑みを浮かべて語りかける。
「小生の分はいいです、外に食べにいきますから」
昨夜からの怒りが幻太郎の胸中によみがえっていた。昨日から彼女には苛立たされてばかりだ。このままだと彼女に怒りをそのままぶつけてしまいそうだった。
「ほんとに、すぐ作るから。昨日からこんなことばっかりでごめん。ちゃんとするから」
幻太郎はぎょっとした。彼女が泣いている。目は涙でいっぱいになって、溢れた雫が次々に落ちていく。
「ごめんなさい……」
泣きながら謝る彼女を、幻太郎はもう責めることはできなかった。
「いえ、小生も悪かったです」
「ごめんね、私が、私が……」
本格的に泣き出した彼女を抱き寄せて、頭を撫でてやる。彼女がこんな風になるのは珍しい。
「昨日からどうしたんです。体調が悪いなら小生にも教えてください」
「それは……」
「何か理由があるんでしょう」
「ある、けど……」
「なんですか、小生には言えないようなことですか」
押し問答が続いた。折れたのは彼女の方だった。
「赤ちゃん、できたから、それで……」
「はい?」
幻太郎が首をかしげる。彼女は真面目な顔でうなずく。
「はい、おととい病院に行ってきて、8週だって」
「それは、それは。おめでたい……」
幻太郎の脳内は混乱で満ちている。彼女が妊娠した? 自分の子供を? 8週? 現実を処理しきれない。だが彼女は構わず言葉を続けた。
「ずっとお腹が空くのもそれでみたいで、あと体がだるくて」
彼女の言葉は右から左に通り抜けていく。幻太郎は、一つ気になる言葉を見つけていた。
「おととい?」
「はい、おとといに」
「なんですぐに教えてくれなかったんですか!」
「だって、仕事が忙しそうだったし」
「関係ありません! 父親ですよ!」
彼女の肩を掴んで自分から引き剥がす幻太郎。彼女は彼の混乱にいまいちピンときていないらしい。一度大きく瞬きをしてから小首をかしげる。
「だって、相当行き詰まってたみたいだったし、邪魔したくなかったんだもん」
彼女の返答に、幻太郎はめまいがした。目頭を抑えたところで大事なことを思い出した。
「体は? 平気なんですか?」
「うん、ちょっとだるいだけ」
「お腹は、空いてませんか?」
「……空いてる」
恥ずかしそうに、彼女が笑った。
「何か食べましょう、食べに行きますか? それとも出前を取りましょうか」
「いいの? 原稿しなくて」
「腹が減っては戦はできぬ、ですよ」
「じゃあ食べに行こっか。幻太郎はなにがいい?」
「あなたが食べたいものでいいです」
「じゃあサンドイッチね、昨日からずっと食べたかったの」
「ではそうしましょう」
幻太郎がうなずくと、彼女は嬉しそうに立ち上がった。これからは二人分食べさせていかないと思うと、いくらでもなんでも書ける気がした。
Twitterにあげていたものです。