女に生まれてきたからにゃ、避けては通れぬ道がある。 クレオパトラも楊貴妃も、みんなそれで苦しんできた――と思う。 いや、本当のところはよく知らないけどさ。 でも、絶対苦しんでるに違いないよ。そうに決まってる。 そんなわけで、女の子ならではの月に一度の強制イベント――すなわち生理。 あまり知られてないけれど、実はテニス部のマネージャーには、生理休暇というありがたいものがある。 去年の夏、暑さのためか、いつもよりバテていた忍足がこんなことを言ったのが、そもそものきっかけだった。 「今日は2日目やからキッツいわー」 彼にしてみりゃ、それはなんてことない冗談だったのだろう。 実際笑いだって起きてたけど、でもそんな周囲の暖かなリアクションに反して、その後の展開はさっぱり笑えないものとなったのだ。 なぜなら、本当に2日目で、機嫌も体調も悪かったマネージャー仲間、理子の逆鱗に触れたからである。 「ふざけんな、野郎ども! 軽々しく、『2日目だから』とか口にするんじゃねえ!! あんたら本当の2日目がどんなにつらいかわかってんの!?」 ……あれは本当にすごかった。 あの跡部や榊監督が、一瞬とはいえ本気でうろたえた顔を見せたのは、後にも先にもあの時だけだ。そう言えば、どれだけすごかったかわかってもらえると思う。 っていうか、男ってハプニングに弱すぎ。あの時、慌てふためく男連中をかき分けて真っ先に彼女を止めたのは、何を隠そうわたしだったんだから。 結局、怒り狂った理子は暴れるだけ暴れると、貧血を起こしてぶっ倒れた。 血の気が引いて真っ青になった彼女はなかなか目を覚まさず、最終的には救急車を呼ぶほどの騒ぎに発展したんだけど、夏休みで一般生徒が少なかったこともあってか、この一件は実はあまり知られていない。 でもこの事件のおかげで、マネージャーのわたしたちには生理休暇が認められたのです。 理子は生理時にいつも苦しんでいた他の仲間たちに、勇者と崇められました。 けど、この生理休暇ってヤツ、実はわたしには、あまり必要ないものなのよね。 というのも、わたしってば、今まで一度も生理痛とかで苦しんだ経験がないもので。 そりゃ、いつもに比べて身体が重い感じはするけど、動けないほどじゃない。 個人の体質・体調はまちまちだから、中にはわたしのように大した変化がない子もいるけど、やはりそれは少数派。大半の子たちは、場合によっては動けないほど苦しいらしくて、そんな時のマネージャー業は本当にしんどかったんだって。 こういう休みを監督や部長の跡部にいちいち申告するのには多少の抵抗もあるようだけど、あの2人はそういうのにいちいち突っ込まないから、特に問題はないみたい。女性経験がいろいろと豊富そうな人たちだから、生理というものが女性の心身にいかに影響を与えるか、よーく心得てるんでしょうね。 それにみんなが自主的に休みを申告するってことは、それだけつらいって証拠でもある。だってさ、監督や跡部にわざわざ生理だと報告しなきゃいけないのって、やっぱりかなり嫌だと思うのよ。 他の男子たちにしても、やはり我が友の素晴らしい勇姿が鮮烈に脳裏に焼きついてるのか、生理休暇の女の子をからかうという不埒な輩は、今のところ存在しない。 当時の情景を知らない今の1年生たちは、当初ふざけたことを口にしていたようだけど、でもそれも最初のうちだけで、先輩たちからしっかり教育を受けた彼らは、今ではそんな真似はしなくなった。まあ、あの時の恐怖体験を、切々と言い聞かせられたともいうかな。それだけすごかったのよ、あの時の理子は。 こうして、テニス部には新たなルールが定着した。 けどそれは、わたしには関係ないものだと、特に意識することはなかった。 そう、生理痛なんて、一生無縁だと……。 でも、その考えは間違ってたみたいだ。 そんなふうに考えを改めざるを得なくなったのは、現在わたしが、階段の途中で腹を抱えて、立ち往生する羽目に陥ってしまったからである。 そう、腹を抱えて……。 わたくし早瀬ゆう、実は今、とんでもなく強烈な生理痛に襲われている真っ最中なのであります。 ほんとにわたしは、何を根拠に、一生この問題には困らないなんて思ってたんだろう。 すみません。ほんとすみません。わたしは生理痛を侮ってました。 思えば今日は、朝からあまり具合が良くなかった。 それでも、おとなしくしていればなんてことなかったんだろうけど、こういう時に限って面倒な仕事が舞い込んでくるのよね。どうやら今日は、体調に加えて運まで良くなかったみたいだ。 3年生の教室は最上階にある。その上わたしのクラスは一番端っこに位置しており、そこはつまり、氷帝学園内で一番遠い教室といえるのだ。普段は普通に上ってる階段も、今日に至っては心底つらい。 しかもこういう時に限って、やたらと移動の機会が多かったりするのだ。音楽やら理科の実験やらであちこちの特別教室へ移動の連続。 さらにはタイミングの悪いことに日直まで重なり、細々とした雑用までたくさん降りかかる。 授業終了後の毎回の黒板消しから始まって、授業で使うプリントを職員室まで取りに行ったり、教材を使うからと資料室まで取りに行かされたり、動きたくないのに動き回った。 でもそんなハードな1日を、わたしは気合いと根性でなんとか乗り切ったのだ。 日誌を書き終え、それを提出してようやく終わり、残る仕事は部活だけ……というところまで、ようやく行きついたのである。 なのに職員室を出て昇降口へ向かう途中の階段で、思いがけない痛みが襲いかかってきた。 あまりの痛さに、ついには身動きが取れなくなってしまったほどである。 今思えば、無理して全部を頑張らずに、つらいと思った時に、素直に保健室へ行けばよかったのよね。 でも、普段やたらと健康な人間の頭に、「保健室を利用する」という発想は、簡単には浮かんでこない。だからって、本格的にヤバくなった今頃に思いついても、しょうがないっての。それに、無事保健室まで行けるかどうかさえアヤしい感じになってきた。 お腹が痛い。とにかく痛い。生命の危険を感じるくらい痛い。 ……って、それは大げさか。でも、それくらい痛いってのはほんとなんだ。 今までも生理時には、下っ腹に少々痛みを感じる時はあった。 でもそれはとても軽いものだったし、痛む時間もわずかの間だったから、日常生活に支障が生じることは全くなかった。 けど今回においては支障出まくりである。だって、歩くだけでつらいってどういうこと? 下っ腹の痛みはハンパじゃないし、その上内部から腰……というか、骨盤をガンガン打ちつけるようなすさまじい衝撃まである。 一歩一歩踏み出すごとにその衝撃がひどくなるようで、たまらずわたしは歩くことをやめてしまった。 でも残念なことに、止まったからといって痛みと衝撃が引っ込むわけじゃない。 なんとかこれらをやり過ごそうと、しばらくそのまま佇んでたけど、ついには立っていることさえ苦しくなって、わたしはその場に座り込んでしまった。 階段に腰を下ろし、うずくまったまま膝を抱え込む。 お腹を圧迫させるのはよくないと思ったけど、なんとなくこの姿勢が楽だった。 これでなんとか痛みをやり過ごせたら……そんなことをぼんやり考えてる時だった。 「あれ? 早瀬やん。こんなとこで座り込んで、どないしたん?」 頭上から、わたしを呼ぶ声がする。 特徴的なしゃべり方から、テニス部繋がりの知り合いであることはすぐにわかったけど、わたしは返事をすることさえしんどかったので、悪いけど無視する形になってしまった。 「なあ、おい……早瀬?」 身動き1つしないわたしを不審に思ったのか、声の主はわたしの肩を掴んで軽く揺さぶり始めた。 それはとても軽い力によるものだったけど、突如与えられたその振動に、腹痛の波が変に煽られる。うわ……気持ち悪い。 「……やめてよ」 なんとかその手を振り払って、弱々しくも相手を睨みつけてみれば、そこにいるのは部活仲間の忍足侑士。 忍足はわたしの顔を見て、なぜかぎょっとした。 失礼な、と思いつつも文句が言えない。そんな力は出てこない。 「自分、大丈夫か? 唇真っ青やで」 どうやら見た目に明らかなほど、血の気が足りてないらしい。ああ、それで忍足は驚いてたのか。 「……忍足こそ、こんなとこで何してんの? もう部活の時間だよ」 真っ先に出て来た言葉がこれなんて……わたしってば、マネージャーの鑑かも。 「日直やから、職員室に日誌届けに行った帰りやけど……って、そんなことより、はよ保健室行った方がええで」 「……わかった、そうする。悪いけど、部活遅れるって、跡部に伝えといてくれない?」 「かまわんけど……」 ………………。 …………………………??? 「……忍足?」 「なんや?」 「なんで行かないの?」 なぜか忍足は、わたしの隣に屈み込んだまま動かない。そのまま、じっとわたしを見ている。 えっと……正直、ここから立ち去ってほしいのですが。 じゃないとわたしは、落ち着いて自分の身体を休ませることもできない。 それとも、何か用でもあるのかな? けど今はこんな状態だし、できれば後日にしてほしいんだけど……。 でも忍足は、依然として動く気配を見せない。 彼が何を考えてるかわからなくて戸惑ってると、なぜか憮然とした声音で訊ねられた。 「早瀬こそ、なんで保健室に行こうとせんの?」 うっ、痛いところを。 ちゃんと行くよ。行くけどね。でも歩くのはおろか、立つことさえ苦しい今の我が身に、迅速な行動ははっきりいって無理なのよ。いやー、一度座り込んじゃうとダメだね。 けど、そう言えば忍足は、きっとわたしを保健室まで連れてってくれるんだろう。 日直のせいでただでさえ遅れがちだったのに、そこへわたしを気遣ってる時間も加算され、きっと今頃、すでに部活は始まってしまっている。 公式戦を控えた大事な時期だってのに、これ以上、正レギュラーの忍足の練習時間を削ることなんてできない。とにかく、忍足を早く部活に行かせなきゃ。 「ちゃんと行くから大丈夫だって……ば!?」 一瞬、何が起きたかわからなかった。 自分の視界が激しく変わり、思わずそばにいた忍足にしがみつく。 でも、わたしの顔と同じ高さに彼の顔があって、余計に混乱してしまった。だって忍足とわたしの身長差を考えれば、お互いの顔が同じ高さに並ぶなんてありえないもの。 「すまん、驚かせたか? でも、ちょっとだけ我慢してな」 どうやらわたしは、忍足に抱き上げられた模様です。 でもなんで? どうしてそんなことになっちゃってんの!? 「ちょ、ちょっと忍足!?」 「歩くのしんどいんやろ? そんなんじゃ、どうせ部活は無理やし、おとなしく保健室で休んどき」 「でも、試合前の大事な時に休むなんて!」 そんなわたしの渾身の訴えに、けれど忍足の口調が厳しく変わる。 「無理して出たって、ぶっ倒れるんがオチや。そっちの方が、みんなに迷惑やで」 ………………納得。 「……わかった」 面と向かって「迷惑」と言われるのは正直キツかったけど、でも事実そうなんだからしょうがない。 ちょっと沈んだわたしに肩をすくめつつ、忍足はゆっくりと階段を下り始めた。 わたしの身体を気遣ってか、静かに保健室へ向かっていく。 後はただ無言。 っていうか、何を話したらいいかわかんない。 だってさ、抱き上げられた時は、驚きが勝ちすぎて何も思わなかったけど……この状況って、実は結構とんでもないことよね。 忍足の腕に支えられ、忍足の胸にもたれるわたし。 でも、思わぬ胸の広さとその腕の力強さの中に、なんだかいつも見ている忍足とのギャップを感じてしまい、居心地が悪くなる。 一見細身のくせにがっしりした身体つき、思わぬ筋肉の感触、そしてやたら近い忍足の呼吸――そのすべてにドキドキする。 ただの気安い部活仲間のはずなのに。 なのにそんな忍足相手に、こんなに緊張するのって、なんだかおかしい。 一度意識し出すともうダメで、わたしは忍足の腕の中で、次第に熱を帯び始めた顔を見られないようにするのに必死だった。 そんなわたしを知ってか知らずか、ふいに忍足がポツリともらす。 「正直、意外やってんけど」 「……何が?」 意味がわからず、思わず忍足を見上げるわたし。 すると、予想以上の至近距離に忍足の顔があって、驚きのあまり、勢いよく目を……というか、顔全体をそらしてしまった。 そんなわたしに、忍足が吹き出した。……ムカつく。 「早瀬は今まで休暇取ったことなかったやろ? だからそういうの、わりと平気かと思っててん」 さすが忍足。何も言ってないのに、生理と見抜くとは。 「他のマネージャーが調子悪い時は、よくフォローに回ってたしな。いつもどっしり構えてるイメージがあるせいか、行き倒れてんの見つけた時は、ほんまシャレにならんくらいビビったわ」 「行き倒れって……」 あながち間違ってもないとこが嫌だ。 そして、ようやく普通に話せるようになったところで、保健室に到着。 中に入りベッドまで来ると、忍足はそこでようやくわたしを降ろす。 「ありがと。助かった」 さっきに比べれば、だいぶ具合はよくなったけど、まだまだ気分は優れない。 殊勝に礼を述べるわたしの頭を、忍足はポンポンと撫でると、 「部活終わるまで休んどき。帰りは送ってったるから」 「いいよ、悪いから」 さすがに、そこまで甘えられない。 ある程度休めば、いずれ回復するだろうし、そうしたら後は自分でなんとかできる。 でも、なぜか忍足は引かなかった。 「迷惑やないよ」 「そんなことない」 そりゃ、本人を前にして、「迷惑」とは言い難いよね。 ……って、さっきはっきり言われたけどさ。 忍足もそれを思い出したのか、やや焦り気味で食い下がる。 「いや、ほんまやて」 「だからね、そこまでしてもらうわけには……」 「送らしてください。お願いします」 ついには、頭を下げる始末。 いや、あの………………なんでそこまで? そう言いたげな顔をしてたのだろう。 忍足はそんなわたしを見ると、「心配やねん」と小さく言った。 そしてポツポツと、彼の思いを口にしていく。 「早瀬はいっつも頑張ってて、ほんま頼もしいマネージャーなんやけど、そういうとこしか知らんってのも結構心配なもんなんや」 「普段から頑張るヤツは、頼るポイントってのを知らんぶん、ギリギリまで無茶するからな。で、案の定こうなった」 「しんどい時くらい頼れ。いや、頼ってくれ。今日みたいに誰もおらんとこで倒れられるなんてたまらんわ」 わたしは自分でできることを、自分でやろうとしただけなのにな。 それで普段やってることを、今日もやろうとしただけなのに。 でも、毎日同じ自分でいられないということを、わたしは今日思い知った。 こんなふうにいきなり調子が悪くなれば、いつも当たり前にできることが、今日もできるとは限らないんだ。 マネージャーというサポート役のわたしは、むしろみんなを心配することの方が多いから、そちら側の忍足から、逆に心配されることになるなんて思ってもみなかった。 見てないようで、結構見てるんだね。それって……ちょっと嬉しいかも。 「じゃあ……お言葉に甘えます」 その言葉にホッとしたのか、ようやく忍足は、柔らかい表情を見せてくれた。 そして心底しみじみと呟く。 「ほんま、女の子の2日目ってのは大変なんやなあ」 実は1日目なんだけど……という細かいことは、この際言わないでおいた。 かつて面白半分で2日目発言をした身としては、いろいろ思うこともあるんでしょう。 わたしが横になるのを見届ると、忍足はようやく保健室を後にした。 それでは部活が終わるまでの2時間弱、ゆっくり休むことにしますか。 次第に遠のいていく、忍足の足音。 それを耳にしながら、これからちょっとくらい彼の言葉に甘えてみるのも、悪くないかなと思った。 -END-
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