一応軽く状況整理したものを後書きに載せときます。
坂柳有栖は、昔から時折嫌な気配を感じる事があった。
明確に自覚したのは小学校高学年の頃。学校行事で小旅行に行った際に一際強い気配を感じたのがきっかけだ。
理由も分からず感じるそれが無性に不気味で、ある日耐えかねて父にそのことを相談したことがある。
すると、父は子供の言葉と馬鹿にすることも無くこう言った。
『その感覚は大事にしなくちゃいけないよ。きっと、有栖を守る力になるからね』
そう言って、笑みを浮かべながら優しく頭を撫でた父。
幼いながらに察しの良かった有栖は、こちらを安心させようとする微笑みの中に、真剣に身を案じる感情が含まれていることを感じ取っていた。
物事に対し明確な理屈を求める気質の有栖だが、信頼する父からの忠告ということもあって、この時の言葉は深く心に刻まれている。以来、有栖は自らの直感に対し素直に従うようにしていた。
嫌な予感がするところには近づかない。そう心掛けて行動し、何事も無くやり過ごすことが出来ていた――これまでは。
(……まだ、居ますね)
振り返らずとも分かる。
寮への帰り道へと進路を取った有栖だが、今もなお拭いきれない悪寒に、先程のナニカが未だ近くに居ることを感じ取っていた。
偶然か、はたまた尾けてきているのか。もしも後者であるならばその目的は何か。
(とにかく、このまま寮に着くのは避けないと)
得体の知れないモノに追われる恐怖を感じながらも、しかし有栖は冷静に思考を働かせていた。
今、絶対に避けなくてはいけないのは、アレを引き連れたまま寮へと着いてしまうことだ。
しかし体の弱い有栖では走って逃げることなどできるはずもない。限られた選択肢の中で、現状取れる手段を振り絞る。
(まず、確認すべきはあれが幻覚かどうか……)
そんなことを考えている内に、丁度二人はケヤキモールの出入り口である自動ドアを潜り抜ける。
そしてしばらく歩き、モールからある程度離れたところで、有栖はおもむろに携帯を取り出すとカメラを起動した。
そんな有栖の行動を見て、眉を顰める神室。
「あんた、歩きながらケータイなんか弄ってたらコケるわよ」
ただでさえ有栖の片手は杖で塞がっているのに、もう片手で携帯を弄っていては危なっかしい事この上ない。
そんな神室の注意に対し、しかし有栖は携帯の画面から目を離すことなく、素っ気なく返事を返した。
「すみません。少し確認したいことが有るので、その時は手を貸してください」
愛想笑いの一つも浮かべることなく返されたぞんざいな返答。しかし神室は苛立ちを感じるよりも先に、普段の有栖らしからぬ余裕の無さに違和感を覚えた。
そんな神室を他所に、有栖は携帯の画面を注視しながら自分の背後の景色が映るよう、歩きながら角度を調節する。
有栖が確認したかったこと、それはアレがどうやってモールの入り口から出てくるかだ。
もしも何もいないのに自動ドアが開くようなことが有れば、それは有栖の幻覚ではなく正しくセンサーにも引っかかる何かが存在するという証拠。
仮にドアを潜らずすり抜けるようなことが有れば、幻覚かどうかはさておき物理的な障害物が何の意味もなさないと確かめられる。
そうして観察することしばらく。
(……見えませんね)
元々ぼやけた輪郭程度にしか捉えることのできない存在である上、何分距離もある。
見逃すことが有ってはならないと、前方への注意が疎かになるのも承知でジッと観察するが、一向に何も映る気配がなく内心首を傾げた。
自分達を追っていた訳ではなかったのか、あるいは本当に幻覚だったのか、そんな楽観的な思考が首をもたげた瞬間――
画面に映る自動ドアのガラスに亀裂が入り、背後から特大の破砕音が鳴り響いた。
突然の出来事に、足を止めて振り返る有栖と神室。
その視界の先には、先程まであったガラスの一面が跡形もなく消え去り、地面にキラキラと無数の欠片が散らばっていた。
「何なのよ……」
隣で呆気にとられたように呟く神室。
先程まで周囲にはまばらにしか人がいなかったが、流石の騒ぎに野次馬が集まり出す。
そんな中、ザリッ……ザリッ……と、ガラスを踏みしめる音がどこからか聞こえてきた。
「おい、あんまり近づきすぎると危ねぇぞ」
「誰も近づいてねぇよ」
「は? じゃあ何だよ、この音」
野次馬達が疑問符を浮かべる中で、しかし有栖だけはその音の発生源を正しく認識していた。
地面に散ったガラスの上に佇む、その存在を。
何故か、先程よりもはっきりと見える輪郭。体長は2メートルを超えようかという巨体。輪郭こそ人型に見えるが、やけに腕が長く全身を黒い体毛に覆われたそれは、まさしく怪物としか形容できない様相だった。
未だぼんやりとした部分が多く、細部までは認識できない。しかし有栖にはその怪物がこちらを見て、笑みを浮かべたような気がした。
「あ……」
瞬間、全身に寒気が走ると同時に心臓がドクンと跳ね上がるのを感じた。急激な鼓動の乱れに走る激痛。有栖は思わず胸を押さえながら
「……ハ……ハッ」
「ちょっと!」
その姿を見て、慌てた様子で神室が駆け寄る。
痛みと苦しさで混濁しそうになる意識を必死に繋ぎ留めながら、有栖は思った。
(狙いは……私?)
尾けられていると、そんな気はしていた。しかし確信は無く、考えたくもなかった可能性。しかし今しがた目が合った瞬間に否応なく自覚させられた。
(落ち……着いて……まず、落ち着かないと)
元々、有栖は心臓に疾患を抱えている身である。このまま恐怖で過呼吸でも起こそうものなら、アレにどうこうされる前にまずこちらの身体が持たない。
必死に鼓動を整えようと、静かに呼吸を繰り返しながら、何度も脳内で大丈夫だと自分に言い聞かせる。
(もし、その気なら……既に襲ってる筈です)
ガラス面を跡形もなく吹き飛ばすなんてことをやらかす相手だ。人目を気にしていないのであれば、襲うチャンスなど幾らでもあった筈。
しかし、今もアレは一気に距離を詰めることもせず、緩慢な動きでノロノロと歩いている。
つまり、今すぐ危害を加えられることは無い。そう結論付けて精神の立て直しを図る有栖だが、そんな理屈で塗り固めた思考とは裏腹に、体の震えは止まってくれない。
「救急車、呼ぶわよ」
流石に危険な状態と思ったのか、神室はもはや大丈夫かと有栖の確認をとることもなく、携帯を取り出した。
(救急車……)
救急車で運ばれてしまえば安全かと、一瞬思った有栖だったが、しかしすぐに思い直す。
一度救急車に乗ってしまえば、それこそ逃げ場が無くなってしまう。
思えば、先程のガラスを割った行為、単に通り道を作ろうとしたにしては過剰な破壊だ。
こちらが怯える姿を楽しんでいるというのも考えられるが、仮にアレが人間並みの知能を有していた場合、他の可能性も浮上する。
自分は周囲の目など気にしないと、そう示すことで周囲の巻き添えを仄めかし、一人になることを選ばせる。例えばそんな可能性も。
しかし、ならばどうすればいいと言うのか。
自らの足では走ることなどできはしない。隣に居る神室にはそもそもアレの姿など見えていない。
逃げる――どこに?
助けを求める――誰に?
これまで有栖には、自身が強者であるという矜持があった。どれだけ体が弱くとも、優れた知略があればどんな相手にも負けはしないと、そんな自信が。
それが通用しない、完全な理解の埒外にある存在を前に、有栖は自身の無力さを突き付けられた。
ああ、自分はこんなにも脆い人間だったのかと。
身体の苦痛のみならず、悔しさや恐怖、絶望感が入り混じり、有栖の瞳から涙が零れた。
(誰か……誰か……)
「お父、さ……ま、もるく……」
滲む視界、朦朧としかけた意識の中で、有栖が思い浮かべたのは自分が最も信頼する父と、ここ最近やけに気になっていた隣人の姿だった。
こうしている間にも、あの怪物はゆっくりと近づいてきている筈。それがわかっていながらも、体は動いてくれない。
そんな中――
「ふむ、希望に沿えなくてすまんな。生憎護は取り込み中だ」
――頭の上から、声が聞こえた。
突然の声に、恐る恐る頭上を見上げる有栖。するとそこには、以前に1度だけ会った銀髪の先輩、鬼龍院楓花が、何故か男物の黒いブルゾンを着てそこに立っていた。
「あ……」
あまりにも予想だにしない人物の登場に、先程の不安によるものとは別種の混乱から、一瞬苦しみも忘れて思考に僅かな空白が生じる。
「ああ、神室。救急車は呼ばなくていい。坂柳の面倒は私が見よう」
「は? 何言って……」
突然現れての勝手な物言いに困惑する二人を他所に、楓花は地面にへたり込んでいた有栖を抱え上げた。
「ちょっ、そいつホントに具合悪いのよ!」
慌てて楓花を止めようとする神室だが、楓花はその声を無視して有栖に顔を寄せる。
「一応聞いておく、見えているな?」
耳打ちされた言葉に、ハッと目を瞠る有栖。
ジッと真剣な表情で見つめてくる楓花に対し有栖は軽く頷くと、次に神室の方へと顔を傾けて口を開いた。
「……真澄さん……私は、大丈夫です」
「はぁ!? そんな訳ないでしょ」
ちっとも大丈夫とは思えない弱々しい言葉に対し、らしくもなく声を荒げて心配した様子を見せる神室。
普段は素っ気ない態度の癖に、こういう点を見ると本当に面倒見の良い性格が滲み出ていると、有栖は一瞬恐怖も忘れて笑みを浮かべそうになった。
しかし、そんな気持ちを引き戻すかのように、楓花から緊張感の滲んだ堅い声が飛ぶ。
「ああ、心配するのはもっともだが、生憎こちらも説明している余裕はない」
そう言って背後を一瞥した楓花。すると有栖も同様に、その視線の先の光景が目に入った。
先ほど見えた猿の怪物。それが、ほんの数メートル先に立っているのを。
先程まではまだぼやけていた姿が、今ではその表情まで鮮明に把握できる。
外見こそ猿のようだが、その顔はまるで翁の面を一掃不気味にしたようなしわくちゃの顔。その不気味な顔を一層歪めながら、その怪物は口を動かした。
――オニゴッコダ――
一瞬、有栖にはそれが声だとは認識できなかった。それほどに、生物とは思えない程に低く冷たい声。
そしてその怪物は有栖を指さして、ニタリと嗤った。
瞬間、ぶり返してきた恐怖にまたも有栖は心臓を締め付けられるかのような感触を覚えた。
「チッ……すまんが、もう行くぞ」
「ちょっ、何を――」
神室の制止も待たず、楓花は舌打ちするなり走り出した。
「……ああ、もう……何なのよ!」
そして、置いてけぼりになりそうだった神室も、放っておくわけにはいかないと思ったのか遅れて走り出す。
「ふむ、君に一緒に来られてもしょうがないんだがな」
「だから訳を言いなさいよ! ていうか足速っ……」
相手が先輩であることも忘れて、敬語も使わず声を張り上げる神室。しかしそのおかげで、後方に居る存在から僅かなり意識を逸らすことが出来たのは有栖にとって幸いだった。
同時に、後半部分に関して同意の念も抱く。
神室は女子としては決して運動神経は悪くない。むしろクラス内でも上位の方だ。
そんな相手に対し、小柄とはいえ人一人抱えた状態で並走している楓花の存在は、正しく異常な光景と言えるだろう。
加えて言うならば、楓花はただ走っているだけではない。抱えている有栖に負担が掛からないよう、揺れが少なくなるよう配慮さえしている始末だ。
依然として意味不明の状況であるが、明確に味方となる存在の出現により有栖は僅かに落ち着きを取り戻していた。
「先輩は……どうしてここに?」
「生憎と、経緯を全て話してる余裕はないな。一言で言うなら可愛い後輩に頼まれてな」
「やはり護君も、関係者ですか」
「ふむ、流石に気付くか」
惚けるでもなく、あっさりとその後輩が護のことだと認める楓花。
楓花がこの場に来た時点で、関わりの深い護の存在を連想するのは有栖としては当然のことだ。
加えて今彼女が着ている、おそらくは変装としての意味合いがあるのだろう男物のブルゾン。
「その服から、護君の匂いがしますから」
するとその言葉に楓花は愉快気な笑みを浮かべ、隣で並走する神室もどこか物言いたげな視線を向けてきた。
どうしてそんな反応をするのかと内心で首を傾げた有栖だったが、言ってからすぐにそれが少々問題のある発言であったことに気付いた。
「あ、違……」
焦って言い訳を口にしようとした有栖だが、やはりまだ本調子ではなかったのか、その瞬間息が詰まり「ケホッ、ケホッ」と咽た。
「無理はするな。生憎と今、病院に向かう訳にはいかんからな。多少辛くとも我慢してもらうことになる」
「……大丈夫、です。少しは落ち着きました」
正直、弁明したい気持ちは一杯だが、それよりも先に気にしなければいけないことが色々とある。
有栖が脳内で聞くべき疑問を整理している内に、隣で息を切らした神室が口を開いた。
「それじゃあ……どこへ行く気なのよ? ていうか……話すなら足、止めなさいよ」
「悪いがそれはできんな。どうやらアレもすぐに追ってくる気はないようだが、だからと言って呑気にもしてられん」
「アレ?」
当然ながら、先程の怪物が見えていない神室には何の事を言っているのか分からない。
有栖としても、これ以上神室を巻き込むのは良くないと判断し、口を開く。
「真澄さん。私も正直、状況が掴みきれませんが……ひとまずは大丈夫です。今日は、先に帰って下さい」
できるだけ弱々しくならないようにと、意識してはっきりと声を出す。
それでも言葉が途切れ途切れになってしまい、強がっているのがバレバレだったが。
もっとも、無理しているのが伝わったとしても、神室がこれ以上付いていくのは体力的に難しい所である。本人もそれは理解できたのだろう。
「……そいつに何かあったら、学校に報告するから」
「ああ、肝に銘じよう」
念を押してくる神室に対し、真面目な表情で言葉を返す楓花。その真剣さが伝わったのか、神室は大人しく足を止めて追いかけるのを止めた。
そうして二人だけになったところで、楓花は有栖に対して言葉を掛けた。
「さて、色々と聞きたいことは有るのだろうが、先程も言った通り全て説明する余裕はない。
悪いが坂柳、そのケータイで電話を掛けてくれ。私は手が塞がっているのでな」
「構いませんが、どこにかければ?」
「当然、この服の持ち主だ」
◆◇◆
「チッ……無駄に呪力を使わされた」
3体目の呪霊を祓い4体目へと向かう道すがら、護の口から舌打ちが漏れた。
先程建設中のビルへと逃げ込んだ呪霊、強さとしては大したことなかったが問題だったのがやはり壁抜けの能力である。
護の結界は仮に障害物があったとしても、座標の指定さえできれば形成すること自体は可能だ。しかしそれは対象の正確な位置情報が分かればの話。
3級程度の微弱な呪力、加えてビルのような複雑な建築物の中ではいかんせん距離感が掴みにくい。
結果、護がとった方法は、ビルの一区画ごと遮るように大きな結界を張ることで、呪霊の退路を潰していくという、何とも燃費の悪い方法。
護の呪力総量からすれば微々たる浪費であるが、敵の目的もその実力も判然としない現状を考えるならば、僅かな消耗も軽く見ていいものではない。
僅かな憤りを感じつつ走る傍ら、ふと懐に入れた学校用の携帯が振動した。
すかさず携帯を取り出し画面を確認すると、そこには坂柳有栖からの着信を知らせる文字。
(このタイミングでということは、読みが当たったか?)
先程楓花と別れてからの時間を考えれば、既に合流しておかしくないだろう頃合い。
勿論有栖が個人的な用事でかけてきた可能性もあるが、おそらくそれは無いだろうと思いながら護は画面をタップした。
「もしもし」
『護か、私だ』
すると案の定、聞こえてきたのは有栖の声ではなく楓花の声だった。
「……その電話から楓花さんの声が聞こえるってことは、当たりだったか?」
『ああ、先程呪霊の姿を確認した。狙いも、どうやら坂柳で間違いない』
(狙いはそっちだったか……)
護自身も、敵の狙いが有栖であると確証があった訳ではない。しかし敵の襲撃を感知した時点で、まず頭をよぎったのは以前に兄からもたらされた忠告。理事長の周辺がきな臭いという情報だった。
仮に理事長が目的であるなら、その肉親である有栖も安全とは言い切れない。故に護は、念のため楓花に有栖の下へと向かってもらった。
戦力として期待してのことではない。重要なのは楓花に持たせているお守り、それさえあれば直通の転移ルートを確立できるが故だ。
幸い、学校支給の端末は友人同士で登録していれば位置情報を参照できる機能がある。有栖の居場所を知るのは難しいことではなかった。
「状況は?」
少なくとも、声の調子からそこまで切羽詰まった様子は感じられない。
慌てることなく状況を冷静に分析するべく、端的に問いかける護。
『まず、坂柳は無事だ。ケヤキモールでガラスを割られるという騒ぎは有ったが、見た限り怪我人も無い。現状は坂柳を抱えて逃げている』
「今、追われているのか?」
『何とも言えんな。追われていることに違いは無いが、積極性を感じない。
鬼ごっこ、などと呟いていたが』
(意味を理解した上で言語を介するレベルか)
護は内心で再度舌打ちした。仮に敵が式神であるなら、単純な呪霊の等級判断が当てはまるとは限らないが、そうでないなら最低でも2級以上を想定すべき。
しかし、だとするならば解せない。
(どうして、すぐに襲ってこない?)
仮に2級以上の実力があるなら今の楓花には荷が重い相手。襲われてしまえばひとたまりもないだろう。まして、足手まといを抱えている現状、まともな応戦などできるはずもない。
人目につくことを気にしているのか、単純に楓花を警戒しているだけか、有栖を傷つけずに確保したいのか。
(これもブラフか?)
あるいは、これすらも陽動であるのかという可能性が頭をよぎるが、しかしすぐにその可能性は薄いと排除する。
最初の3体の呪霊、あれらは間違いなく陽動だろう。目的の場所からまず護を遠ざけるのが狙い。そして次の4体、これは本命を交えた上での攪乱と見るべきだ。
護の感知結界に引っかからず目的が達成できるなら、隠れてひっそりと行動すればいい話。
それをせず、存在をアピールするように呪霊をばら撒いたのは、目的達成のために呪力の行使が必要不可欠だったからと考えられる。
敵の目的が有栖の身柄、この点に関しては確定と考えていいだろう。
「……有栖さんはどうしてる?」
『呼びましたか?』
護の問いかけに答えたのは、有栖本人の声。しかし電話越しでも分かるほど、いつにも増してか細く聞こえる。
「大丈夫、じゃなさそうだな」
『元気、とは言い難いですね。正直一生分は驚いた気がします』
『どうやら、坂柳も見えているらしい。先ほどは過呼吸を起こしかけていた』
楓花からの補足に、護はより一層現状に余裕が無いことを自覚した。
一般人が呪霊を見やすくなるという事例は幾つかある。濃い呪いの気配に中てられた場合、あるいは死に瀕した状況においてなど。
前者であれ後者であれ、今有栖が見えているのはあまり良い状況ではない。
とはいえ、今それを心配しても仕方がない。前向きに考えるならば、説明の手間が幾つか省けたと考えるべきか。
「聞きたいことは色々あると思うが、今はこっちの指示に従ってくれ」
『ええ、言われずとも……今の私は動けませんから。ただ、護君……』
言葉の途中で有栖は一旦声を止め、まるで念を押すかのようにタメを作ってから言葉を発した。
『――
「……ああ」
あとで、その言葉に込められた意味を理解し、護は神妙に頷いた。
そこで有栖との会話は一旦終了し、楓花の声が再び聞こえてくる。
『それで、これからどうする?』
「俺もすぐに向かいたいところだけど、実のところまだ他の対処が終わってない」
(かといって、後回しにしたら手遅れになる可能性もある……)
有栖の身の安全を考えるならば、今すぐ転移で駆けつけるべきだ。
しかしその場合、他3か所の呪霊を放置することになる。目的が失敗してそこで敵が引くならばいい。だが、おそらくこの相手はそれをしないだろう。
新たに感じた4か所の気配の内3か所、おそらくこれらは攪乱であると同時に人質の意味もある。
現在、有栖達の居る場所は先程感知した4つの結界の内、現在の護が居る位置から最も離れた場所にある訳だが、実のところ護は楓花の連絡が来る前からこの離れた場所にある結界が一番怪しいと感じていた。
それを理解しながらも近場から回ろうと思ったのは、その配置があまりにも露骨だったから。
最短経路で回った場合、明らかに最後になるよう意図的に遠ざけられたポイント。護にはそれが、順序を無視したならば人質を取るぞと示唆しているように感じられた。
そもそも、人気の少ない夜間ではなく、このような時間帯に行動を起こすような相手だ。この時点で、一般人に危害が及ぶ可能性を仄めかしている。
(とはいっても、実際に俺がどう動くかなんて確証は無かった筈……いや、それでもよかったのか?)
そう考えると、何故有栖達をすぐに襲わないのかという点にも繋がるような気がした。
この敵には、目的を達成しようとする必死さが無い。まるでこちらが、どのように対応するのかを見て楽しんでいるような、愉快犯的な気配が薄らと感じられる。
(呪詛師の行動に、合理性を求める方が間違ってるか)
なんにせよ、この3体は放置できない。もしも放置した場合、確実に死人が出ると考えるべきだ。
護が呪霊の位置を特定して移動するまでに数分が掛かるのに対し、呪霊が人を殺すのには10秒といらないのだから。
かといって、これらを先に対処した場合、その間に敵は有栖の身柄を確保しに動くだろう。今はまだ手段を選べるだけの余裕があるようだが、残りの呪霊が少なくなった時点でなりふり構わず動く筈だ。
(逆に言えば、付け入る隙があるとすればそこか)
“策”という程立派なものでもないが、出し抜けるかもしれない考えならある。有栖と民間人、両方に犠牲を出さないための方法。
(けど、これは賭けだ)
敵の情報が少ない以上、確実に成功するとも言えないような分の悪い賭け。
この選択をするならば、少なくとも有栖達の方は対処は後回しになり、危険に晒すことになる。
命の取捨選択を迫られることは、呪術師にとって別に珍しいことではない。
普通に考えるならば、被害規模が大きくなりそうな方を優先して動くべきだ。有栖の方に居る呪霊が狙っているのは有栖一人だが、他の場所の呪霊は無差別に被害をまき散らす危険がある。
しかしそんな合理的な思考とは裏腹に、護はその決断を下すことに僅かな躊躇いを覚えた。
(何を躊躇ってるんだ俺は……)
何故か、先程有栖が弱々しく口にした
すると、そんな護の逡巡が伝わったのか、電話の向こうから楓花が声を掛けてきた。
『護、
「は?」
まるで、こちらが何に悩んでいるのか見透かしたかのような言葉に、一瞬呆気にとられる護。
『大方、どこの対処を優先するかと悩んでいたのだろう?
案ずるな、時間稼ぎ程度のことはできるつもりだ』
「……どういう意味か、分かってるのか?」
――死ぬかもしれないぞ、とは電話の向こうで有栖を不安にさせるので言葉には出せないが、護はその意思だけは伝わるよう語気を強めながら暗に問いかけた。
『無論だ。可愛い後輩を助けるのも、先輩の務めだからな。
前にも似たようなことを言ったと思うが、お前はもう少し人を頼り給えよ』
(頼る……)
瞬間、護は昔兄に言われた言葉を思い出した。
『僕はさ、最強だけど万能って訳じゃないんだよね。硝子みたいに他人の治癒なんてできないし、伊地知程事務仕事が得意って訳でもない。
護ももう少し、人の使い方を覚えた方が良いよ。自分だけがどれだけ強くても、救えない奴ってのは居るんだからね』
きっと兄ならば、こういう時も「じゃあ任せた」とでも言って、気軽に決断を下すだろう。
それは一見いい加減なようにも見えるが、相手の力を信じることは相手の身を案じるよりもよほど難しい。それもまた、兄の強さの一つであると護は思っていた。
「……危なくなったらすぐに呼べ。ケータイでなくても、前に渡したお守りに呪力を流せば分かる」
但しその場合、他の呪霊の対処を放棄することになる。
しかし護は、先程までの思考とは裏腹にその時は楓花たちを優先しようと、自然とそう思えた。
護の言葉に対し、電話の奥でフッと楓花が笑みを零すのが聞こえた。
『過保護な事だな。そんなに想ってくれるのならば、後で何か褒美でも貰おうか』
この状況においても普段と変わらぬような軽口に、半ば呆れながら護は言葉を返した。
「俺に出来る範囲でならな。それじゃあ
『ッ、ああ――任された』
その言葉を最後に護は電話を切ると、駆ける足に一際強く力を込めて、地面を踏み締めた。
夏油さんの立場から見て
・目的としては坂柳さんの暗殺だけど、ぶっちゃけ本人は彼女の命に毛程も興味がない。
・既にいつでも始末できる状況にあるけど、あっさりゲームセットしちゃ護君の力も測れないのでナメプ中。
・当初は適当に攫って人気の無いところに移すつもりだったけど、標的が呪霊の気配を感じてるようなので、存在をアピールして人気の無いところに誘導する方向へシフト。ただ状況次第じゃ人目に関係なく始末する所存。
護君に対して試したかったこと
・ばら撒いた呪霊にどれだけの時間で対処できるかの対応力。
・一般人を人質にとると示唆することで、一般人に対する優先度を測る。
護君の立場から見て
・敵の狙いが有栖と判明。但し絶対果たそうという気概も感じられず、遊びのような感覚じゃないかと思ってる。
・有栖を優先して動いたら、他の呪霊が無差別に暴れ出すと予想してる。
・おそらく攪乱用の呪霊が1、2体になった時点でなりふり構わず動き出すと予想。
あと余談ですが、坂柳さんが苦しむシーンに関して。
ぶっちゃけカミングアウトします。当作品を思いついたきっかけって坂柳有栖という小生意気なお子様に、ホラー体験でギャン泣きさせてプライドポッキリ折ってみたいと思ったのが発端だったりします。
だから初期の段階から彼女が呪霊に襲われるシーンは考えていたんですが、ただ彼女ってよくよく考えると心疾患なんですよね。ギャン泣きどころか普通に命に関わる。
どう描写したもんかなとずっと悩んではいたんですが、原作では足が不自由、体が弱いくらいの情報しか描写されてない。画集のオマケSSで倒れるシーンがあると聞いたから買ってみたけど、そこでも心臓を傷めてるような描写は無い。
心疾患と言っても色々と種類はあるようですし、このような描写で良かったのかと悩む所。もしも違和感を感じたようでしたら申し訳ありません。
あ、あと最後にどうでもいいかもしれないQ&A
Q.楓花さん、何で護君のブルゾン着てんの?
A.制服着て走り回るのは目立つからと護君に渡されました。ついでに銀髪も目立つからフードの内側に隠しとけと。なお、本人は借りパクする気満々の模様。
8月8日 修正報告
護君と楓花さんの会話に置いて、当初護君が楓花さんのところに駆けつけるまで15分くらい掛かると描写していたのですが、感想欄で幾つかご指摘があり考えてみると15分は長すぎたかと思い直した次第です。
呪霊の感知と、その地点に向かう移動時間、どれくらいの時間が妥当だろうと考えたのですが、正直時間間隔がよくわからなくなって来たので、あえて時間明記するのは止めることにしました。