去年11月、ALS患者の女性が面識のなかった医師2人に殺害を依頼したとされる、京都ALS患者嘱託殺人事件。女性は生前SNS上で、日本でも“安楽死”(※注)を受けられるようになることを求めていました。この“安楽死”について、私たちはどのように考えればよいのか。重度障害のある娘の母親で、海外の安楽死について発信を続けるフリーライターの児玉真美さんに聞きました。
注:いわゆる「安楽死」には、
① 医師が致死薬を投与する「積極的安楽死」
② 医師が処方した致死薬を患者自身が服用する「医師ほう助自殺」
③ 延命治療を手控えたり、中止して死を待つ「消極的安楽死」
などがあります(他にも様々な分類や解釈が存在します)。この記事では①と②を合わせて“安楽死”と表記します。
──今回の、京都のALS患者の女性が嘱託殺人で亡くなったという事件を聞いたとき、児玉さんはどのようにお感じになったのでしょうか。
児玉:すごくショックを受けました。事件を知れば、起こるべくして起こったこととは思うんですけど、でも具体的な形を想定することができないような思いがけない出来事が起きたということで、衝撃が大きかったですね。
真っ先に頭に浮かんだのが、海外の安楽死とか医師ほう助自殺とかの情報が、まだここまで知られていない時だったら、たぶん「死にたいという思い」でとどまっていたものなんじゃないのかなって。だけどそれが、自分にも手が届くかもしれないリアルな選択肢として意識される時代になって、そうすると「死にたいという思い」が、「死にたい欲求」に高まって、それが何かのはずみで、このように現実の死に、結びついてしまう。そういう時代性みたいなものを感じましたね。
──「思い」から「欲求」になってしまったと。
児玉:うん、そういう面があるのかなって。ただ同時に、私は重い障害のある子をもつ親として、つらい時ほど、ちょっとしたささいな出来事に大きく気持ちが揺らぐ体験をしてきたので、死にたいという思いが、死にたい欲求に高まることがあるのも分かる。そういうふうに気持ちが日々揺らぐグラデーションを生きているからこそ、周りにいる人たちが「死にたい」という言葉とか思いだけを受け止めて、全面的に理解してあげたり、賛同してしまうと、むしろ本人の方もその思いに目をくぎづけにされてしまって、そこから目を離せなくなるところがあるんじゃないかという気がして。そんな不幸な展開をたどってしまった出来事なのかもしれないと思いました。
もう1つ、事件後に気になるのが、「死ぬ権利」という言葉ですね。生きる権利と同じように、「死ぬ権利」もあるはずだという主張をよく聞くようになりましたけど、積極的安楽死を「死ぬ権利」と呼ぶなら、それは「医療によって殺してもらう権利」ということになる。そんな権利があるんだろうかと思うし、仮にあるとしても、それを実現してあげる、保障する責って、社会にあるんだろうか。まして、社会がその「権利」を保障してあげるために、医療に対して殺すことを認めたり、社会として殺すことを医療に託してもいいんだろうかということを考えます。
児玉:「海外でも合法化されているんだから、日本でも安楽死を認めましょう」みたいな声もよく聞きますが、その「海外」の実態をどこまで知った上でそういう主張をされているのか。例えば海外の「滑り坂」の実態など、“安楽死”を認める・認めないという議論の前に、もっと知るべきこと、慎重に考えないといけないことがあるんじゃないかと思います。
──「滑り坂」ってなんですか。
児玉:生命倫理学で使われる比喩で、1つの方向に足を一歩踏み出したら、そこは足元が滑りやすい坂道になっていて、1回足を滑らせたら最後、どこまでも歯止めなく坂を転げ落ちていく。あることを容認すると、なし崩し的に対象が広がっていく現象を言います。安楽死だとか医師ほう助自殺の実態について日本ではそこまで詳細に報道されませんが、私は滑り坂はいろいろな形で起きていると考えています。
オランダでここ数年、当初は安楽死法制化に尽力し、その後も推進してきたお医者さんたちの一部に、「『滑り坂』は起きた」と警告を発している人たちがいるんですよ。自分たちは当初、終末期で耐えがたい苦痛のある人のために、その救済策として合法化したつもりだったのに、時間経過とともにどんどん対象者が広がってきている、こんなはずじゃなかったと言って、よその国は同じてつを踏まないようにと警告しているんです。
実際オランダでは、認知症の患者さん、それから精神障害者、知的障害者とか発達障害者にも広がってきていて、オランダ議会には2016年に続いてまた今年も75歳以上の高齢者にも安楽死を認めようという法案が出されました。そういうことを指して、同じてつを踏まないようにと警告しているわけなんですけど、そういう医師の中には、次のターゲットは終身刑の囚人と、親が安楽死を希望する障害児になると予測する人もいる。
こういう実態を見ると、「滑り坂」は現実に起こっているし、対象者の拡大の他にもさまざまな形でも起こっています。
終末期で耐えがたい苦痛のある人の議論が、救命できない人ではなくてQOL(生活の質)が低い人へと広がってきたというのは、別の見方をすれば指標がシフトしてきたってことだと思うんですね。それに伴って、一定の状態を「生きるに値しない命」とみなすような線引きが社会に広がって共有されていく。そして、それが「医療コストに値する命」と「値しない命」の線引きへと横滑りして、医療現場では本人や家族の意思に反して、医師が重い障害のある人への救命・延命治療を「無益」と判断し、一方的に差し控えたり中止する事例が増えてきています。そういう「滑り坂」の形もあるんじゃないかと思います。
他にも、臓器移植医療と安楽死はすでにくっついており、安楽死から数分だけ待って臓器を摘出する安楽死後臓器提供がオランダ、ベルギー、カナダでは現実になってますが、そういうことも日本ではあまり知られていませんよね。
もう1つ、私は家族の立場で気になっているのが、介護家族による「自殺ほう助」です。医師による積極的安楽死や自殺ほう助の広がりに伴って、たとえば介護者である息子が、自分が介護してきた親に、そうとは言わずに毒物を飲ませた、というような事件が許容されていく、という現象がいくつかの国で目に付きます。
──毒を飲ませるのは殺人ですよね。
児玉:そうですよね。そんなの自己決定でもなんでもありません。なのに、こんな要介護状態のお父さんは生きててもつらいばかりだよね、こんなになったら誰だって死にたいと思うよね、という暗黙の了解みたいなものが社会や司法の関係者の間で共有されてしまうと、裁判で無罪になるばかりか判事が「思いやりによる行為」と称賛したりもする。積極的安楽死や医師ほう助自殺が合法化されて広がっていくにつれて、家族介護者が介護している家族に手をかける恣意的な行為にも、社会や司法が寛容になっていくというのは、私にはすごく気がかりです。
今、どの国も社会保障が縮減に向かっていることもあって、日本でも介護家族による虐待とか殺人とか増えてますよね。特にコロナ禍で今すごく増えてるんですけど、社会がそういうことに目をつぶろうとしているような、そういう暗黙の了解まで広がっていく恐ろしさがある。そういうのも、ひとつの「滑り坂」なんじゃないかと思います。
──医師が苦しんでいる人を死に導くはずだった“安楽死”から、家族が殺すことまで認めるようになっていきかねないと。
児玉:家族介護って密室ですから、本当に自殺を手伝っただけなのか、それとも殺そうとしたのかって、どこまで判別できるだろうって思うんですね。家庭の中のことって簡単にはわからないですし。家族が介護に行き詰まって、もうどうにもならなくなって、死んでほしかったかもしれない。介護って、どんなに深い愛情がある家族でも、過大な負担が続くと虐待してしまう可能性があるし、この人さえいなかったら、と思う瞬間だってある。だから、あり得ることだと思うんですよ。だけどそういうことに対して、苦しんでいる人を家族が死なせてあげたんだから、愛情からの行為だよねと社会は見てしまう。合法化されていないことまでが社会的に容認されていく怖さみたいなものを、私は自分が家族介護者であるだけに感じます。
──自己決定で死にたい人と、周囲から死への圧力がかかったり、死にたいと思わされたりする人は、手続きを厳密なものにすれば分けられるという考え方もあると思います。その辺りは、海外の事例と照らすとどうですか。
児玉:自己決定って、頭の中で理路整然と考えて結論が出ること、とイメージされると思うんですけど、1人ひとりの人間って、そんなに理屈だけで物を考えてるわけじゃなくて、もっといろいろな感情や思いの中で揺らぎながら生きていると思うんですよね。「自分の意思はこうです」といった、理性で割り切れるものが自己決定として立派なんだみたいなところがありますけど、人間の意思ってもっとあいまいなもので、それから自分ひとりで完結できないものじゃないかと思うんです。人とのあいだで初めて見えてくるところもあるし。
ベルギーの20代の精神障害のある女性で、つらくてもうこれ以上生きていけないから安楽死したいと言って、認められて、日にちまで設定した方の事例なんですけど、実行日の2週間前ぐらいに、親友2人に公園で打ち明けるんですよ。自分はこういうふうにしようと思う、って。そのときに親友2人が、すごく引き裂かれてるんですね。本当はとめたい、だけどこの人が自己決定した以上、自分は余計なことは言えないんじゃないかって。引き裂かれて苦しんでいるのがドキュメンタリーの映像で分かる。そして、実行する日、安楽死が予定されている何時間か前に、その2人のうちの1人が訪ねて来たんです。心配して。そして、その女性はお医者さんが来たときに、「私はできません」って言って意思を翻した。そういう事例があるんです。
──その友人が来て、彼女をとめたんですか。
児玉:いや、とめたかどうかまではドキュメンタリーには出てこないんですけど。でも、私が思うのは、死ぬ覚悟を決めて、もうお医者さんとの打ち合わせも全部できた人が、実行する何時間か前に、心配して友人が来なかったら、死んでたかもしれない。でも、友人がそこに来てくれたことによって、思いとどまった。そういう事例があったということは、人の意思というものがいかに不安定なものか、ということをあらわしているような気がするんですね。
児玉:それから欧米の自殺ほう助の事例の中にも、あとですごく苦しみ続けているご家族が結構おられて、その中の1人でビナーさんという人が手記を書いています。ビナーさんはがんで亡くなった娘さんをみとった経験があり、その何年かあとに、夫がスイスの自殺ほう助機関で自殺するのに付き添った方なんですけど。娘をがんで見送ったときには、娘とのあいだに気持ちの通い合う大切な時間を過ごすことができた、だけど夫の死については、けりがついていない感じがずっとつきまとうということを書いています。そして、自殺ほう助は、喪の悲しみを複雑化して、独特の傷痕を残す、とその手記に書いてる。彼女が言っている言葉で私がすごく胸に残ったのが、「頭では、死ぬことが自分の権利だと言う人たちの主張はわかる。反論することもできない。でも、心は今なおノーと言う。魂のところで、しっくりこないものがある」。
「死ぬ権利」を主張している人たちって、どこかで死は自分だけのもので、だから自分で決めていいんだと考えているような気がするんですけど、でも死ってそんなふうに自己完結しているものなのかな。私たちはもっと人とのあいだで生きているし、頭で考えることだけでもないし。自分というものを外に開いて、いろいろな人とのかかわりの中で、自分を見出しながら暮らしていると思うんですね。生きることがそういうことであるならば、たぶん死ぬことも、そういうことじゃないかなと思う。
それから日本では、家族との関係が欧米よりも密ですよね。密接な家族関係があるから、逆に家族を重んじて、自分の個としての生き方を貫きにくい社会でもある。ALSの患者さんたちも、家族に迷惑かけないように呼吸器をつけない選択する方が多いと聞きます。積極的安楽死や医師ほう助自殺が制度化されている国で死にたい理由を見ると、欧米の人の場合は「自分」なんですよ。自分がもう楽しいことができなくなったとか、こういう状態になった自分を自分で認められないとか、自分が自分をどう考えるかっていうことなどが並んでいます。日本の場合、例えば高齢者の方に将来の不安を聞くと、口そろえて言われるのは、「家族に迷惑をかけたくない」。個人として生き方を貫きにくいと同時に、私たちは家族とのつながりが、いい面も悪い面も両方ですけど、濃い。そういうところで全く違う文化の中にあると思うんですね。
命のとらえ方も、我々1人ひとりの命の尊さって、この人よりもこの人のほうがすぐれているから、社会の役に立つから尊いというものではなくて、1人ひとりの命をはるかに超える何か大きな、いわば平仮名の“いのち”の中に1人ひとりが包まれて、生かされている。その1人ひとりの命はどんなにちっちゃくっても、そのちっちゃい命は、その中に、その大きな“いのち”を、みんな宿して生きているから尊い、というような。日本の仏教的な感性かもしれないですけど。
児玉:あと、日本的な感性と言えば、個人の権利の意識が全然違うと思います。
──権利の意識?
児玉:はい、権利の意識が。例えば、さっきもお話ししましたが、病院側から一方的に治療を拒否されるということが、“安楽死”が合法化されているような国々で起こり始めていて、重い障害を持った新生児が生まれたときに、この子は生きてもQOL(生活の質)が低いままになるというようなときに、病院側が、この子には治療が無益と判断するわけです。そして、生命維持を中止しますと宣言する。そういう時に、欧米の親たちは、自分の子供が入院している病院を訴えるんですよ。入院していながら、その病院側と訴訟で争うんですね。私はこの強じんな権利意識というのは、たぶん日本の私たちには持ちにくいものじゃないかと思います。自分の家族がお世話になっている病院を、そこに入院していながらに訴えるというのは、多くの日本人には難しいんじゃないでしょうか。
でもこれこそが、治療を受ける権利、自分の治療を自分で選択する権利、基本的に自分の権利は闘って守るべきものという土台の上に乗っかった自己決定権という意識だと思うんですね。その先につながって初めて、自己決定によって医療に殺してもらう権利を主張する強固な権利意識がある。日本の私たちにその土台があるでしょうか。医療の現場でのお医者さんと患者さんの関係性を見ても、終末期どころか一般的な医療を受ける際に、自分の治療については自分がきちんと納得できるように説明してもらう権利があると考えている人って、日本にはまだまだ少ないと思うんですよね。自分には知る権利があり、治療を選択する権利があり、治療を受ける権利があるという意識が、私たち患者の側にまだ育っていない。そういう医療現場の中で、日ごろの医療はお医者さんの専門性にお任せで、頭下げて「よろしくお願いします」っていう文化のまま、死ぬところだけが自己決定だっていうのはすごく無理があるような気がします。
オランダが安楽死を合法化した時代からすると、もう20年近く経ちますよね。その間に緩和ケアの技術もずいぶん変わってきているはずだと思うんです。いくつもの国で“安楽死”の議論の原点というのは終末期の人だったのが、時間経過とともに広がっていってしまったプロセスがあるわけなんですけど、この事件が起きたために、日本ではALSの患者さんの“安楽死”をデフォルトにして議論が始まるとしたら、私はそれこそ、もう議論の前に滑ってますよっていうふうに思ってしまう。
この問題は、“安楽死”を認めるべきかどうかではなくて、本来の原点に戻って、終末期で耐えがたい苦痛がある人の苦しみに対して何ができるかという問題設定に立ち返るべきじゃないのかなと思います。もちろん緩和ケアにできることも増えているでしょうし、医療だけじゃなくて介護とか福祉とか、家族への支援も含めて社会にできることはなにか。終末期、臨死期の患者さんの苦しみに対して何をできるかという問題設定に戻ってみれば、死なせてあげる、殺してあげるという手前のところにできることがたくさんあるはずだと思うんですね。
特集 京都ALS患者嘱託殺人事件
(1)NPO「境を越えて」理事長・岡部宏生さんに聞く
(2)鳥取大学医学部准教授・安藤泰至さんに聞く(前編)
(3)鳥取大学医学部准教授・安藤泰至さんに聞く(後編)
(4)フリーライター・児玉真美さんに聞く(前編) ←今回の記事
(5)フリーライター・児玉真美さんに聞く(後編)
(6)国立病院機構新潟病院院長・中島孝さんに聞く
※この記事は、11月4日放送のハートネットTV「特集 京都ALS患者嘱託殺人事件(2)“安楽死”をめぐって」の取材内容を加筆修正したものです。