『ホーリー・テラー』を読み、テロリストが醜い絶対悪としてのみ表現されるのを眺めていたとき、私が思い出していたのは、「Xメン」のマグニートーのことだった。
そもそもの最初にXメンの宿敵として登場した時点でのマグニートーは、単なる悪人としてのステレオタイプ以上の描写はされていなかった。しかし、Xメンのストーリーが長く続いて徐々にその内容が深化していく過程で、超絶的な特殊能力を持ったミュータントは、被差別者の象徴として描かれるようになっていった。Xメンは、単純な勧善懲悪のストーリーではなく、差別に対して取りうる複数の立場をの矛盾・衝突を描くストーリーへと変質していた。
その結果、Xメンとマグニートーの対立とは、単純な善と悪の対立ではなく、差別の平和的解決を願う者と、強硬策しかありえないと信じる者との対立であることになった。そして、マグニートーには、そのような立場を取らざるをえなくなった出自があることになった。もともとユダヤ人であったマグニートーは、ナチのホロコーストによって家族を皆殺しにされ、ミュータントとしての力によってただ一人生き残った。戦後は新たに家族を得てひっそりと暮らしていたのだが、今度はミュータントに対する差別によって家族を虐殺されるに至る。
やがて、ミュータントという被差別者の生存権を確保するためには強硬策しかないと確信したマグニートーは、その強大な力を躊躇なくふるい、人類の脅威となり、「ミュータント・テロリスト」としばしば呼ばれるようになっていく(こういう風に整理してみると、Xメンにおけるマグニートーの描写の変遷は、映画におけるインディアンの描写の変遷と比較してみると面白いと思った)。
アメリカン・コミックスは、「テロリスト」という対象の表象に関して、少なくともこのような複雑な状況をとらえるところまでは進んでいたはずなのである。もちろん、ミラー自身はそんなことはわかっていて、何かのインタヴューでは、あえてプロパガンダを描く、というようなことを言っていた。だが、いくら自覚してやっていたのだとしても、その結果生み出されるのが俗悪なだけのプロパガンダでしかないのであれば、それは退化でしかない。
ついでと言ってはなんだが、マグニートーについてもう少し。
私の考えでは、差別問題をメインテーマとする「Xメン」のストーリー、またテロリストとしてのマグニートーの描写、これら全てが頂点に達したのが、90年代の一大クロスオーヴァー、『エイジ・オヴ・アポカリプス』(以下、『AOA』)だったと思っている。というか、「Xメン」が語るべきテーマは、『AOA』によって全て出尽くしてしまったのではないだろうか。
『AOA』の直後のストーリーライン、『オンスロート』や『ゼロ・トレランス』は正直グダグダだったし。また、この頃までは日本語版も継続して刊行されていたのが、『ゼロ・トレランス』のころに打ち切りになってしまったのだった。
近年のXメンでは、「狂信的な差別主義者に対する自衛としては殺人もやむなし」ということになってしまっているので、もはや別物になっていると考えた方がいいのかもしれない。が、やはり、長きに渡って「Xメン」が依拠してきた差別のテーマは、ひとまず『AOA』で終わった、と考えた方がいいように思うのだ。
さて、その『AOA』なのだが……「Xメン」の歴史を通して屈指の巨大クロスオーヴァーであるこのシリーズは、そのほとんどが邦訳された。その訳業自体は素晴らしいことなのだが、その一方で、この作品があからさまなまでに持っている政治的寓意は、きちんと紹介されなかった(というか、その含意に誰も気づかなかっただけなのかもしれないが……)。
『AOA』の前日談において、鍵を握ることになる人物は、リージョンという。リージョンは、Xメンの創設者たるプロフェッサーXの息子であるのだが、幸福な家庭生活を送ったわけではなかった。あることから強大なパワーを手にしたリージョンは、諸悪の根源はXメンを妨害し続けたマグニートーにあると考え、自身のパワーによって時間を遡行し、人類の脅威となる前のマグニートーを殺害することを試みる。
ところが、若い頃のマグニートーは、そもそもプロフェッサーXの同志だった。そして、リージョンがマグニートーを殺害しようとする現場に出くわしたプロフェッサーXは、マグニートーをかばい、自身が殺されてしまう。
これによって、それまで「Xメン」が語ってきた歴史は書き換えられてしまう。プロフェッサーXがXメンを創設することはなかった。また、その息子としてリージョンが生まれることもなかった。
かくして、それまでのストーリーラインをいったんリセットすることによって生まれたのが、『AOA』の描く世界である。そこでは、Xメンによってその野望を食い止められることのなくなった不死身のミュータント、アポカリプスが世界を征服してしまう。
アポカリプスの統治する世界において、それまでの世界とは逆に、ミュータントこそが優性人種となる。そして、ミュータントが通常の人類を苛烈に弾圧する様が描かれる。
ここにあるのは、「Xメン」のストーリーが語ってきた差別をめぐる問題を全てひっくりかえし、相対化する視点だ。ミュータントを対象とした差別は否応なく存在してしまう、だからこそ、それをどうするのか、ということこそが問題であるはずだった。だが、ひとたびミュータントが優勢なマジョリティの側に転じた場合、自分が被ってきたのと同等の差別に手を染めてしまうことをこそ、『AOA』は描くのである。
ここで、注意しなければならないことがある。それは、これら全ての発端となった場所である。リージョンによるプロフェッサーX誤殺事件が起きた場所として指定されているのは……こともあろうに、イスラエルなのである。
このように整理すると、巨大クロスオーヴァーである『AOA』の最大のテーマが明らかになる。つまりあれは、あからさまなまでのイスラエル批判であったのだ。
若い頃のプロフェッサーXとマグニートーが出会ったのはイスラエルだったという設定自体はもともとあったので、アメコミファンは何の疑問も抱かずに読み飛ばしてしまった可能性もある。が、やはり『AOA』のストーリーで語られていることと照らし合わせると、そこで展開されているのがイスラエル批判だというのは間違いないと思う。
また、当時の「Xメン」のライターだったスコット・ロブデルは、『AOA』の少し後に『ワイルドキャッツ』の新シリーズのライティングを担当した際(アラン・ムーア先生が担当して『ワイルドキャッツ』の世界観を壮絶にぶち壊した後の仕切り直しですな)、チームが一時解散するきっかけとなった致命的な事件が起きてしまった場所として、アイルランドを指定していた。このことからも、わざわざ複雑な問題の起きている地域を舞台としているのは、作品内容と被せるための意識的な操作であると思われる。
さて、そのようなテーマを持つ『AOA』であるのだが、シリーズ全体を通しての主役は、マグニートーである。プロフェッサーXがおらず、アポカリプスが世界を征服してしまった世界では、抑圧的・全体主義的な圧制に反抗するレジスタンス組織こそがその世界でのXメンである。そして、そのXメンの創設者がマグニートーであるということになっている。
一種のパラレルワールドものであると言える『AOA』では、それまでの「Xメン」のストーリーで語られてきたあらゆる概念が転覆され、相対化されている。差別者が被差別者に、被差別者が差別者に、そして善であったはずの者が悪に、悪であったはずの者が善になる。
Xメンの最大の宿敵であったはずのマグニートーこそが、むしろXメンの創設者となる。だが面白いのは、抑圧的な体制の側からすれば、レジスタンスを組織するマグニートーに張り付けるレッテルは、やはり「ミュータント・テロリスト」であるということだ。
自由主義が支配的であるはずの世界の中で、排除された矛盾や抑圧が凝集する特異点となり、強硬策をとり続ける者は「ミュータント・テロリスト」と呼ばれる。その一方で、全体主義によって覆い尽くされた世界の中で、そこに風穴を空ける、人類に残された最後の希望も、同じく「ミュータント・テロリスト」と呼ばれる。そして、その両者を担うのは、同一人物なのである。
「Xメン」のストーリーが差別やそれにまつわる暴力に関するテーマを数十年に渡って積み上げてきた過程で、その深化の功績の大半は、クリス・クレアモントのものであると言える。しかし、クレアモント以外にも多くのライターが「Xメン」に参加している。要するに何が言いたいかというと、ヒーローものというジャンル・フィクションの集合的な想像力が、「テロリスト」という言葉で名指される概念の複雑な状況を捉えるに至った、ということだ。
「フランク・ミラーの新作『ホーリー・テラー』、テロとアメコミ」