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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第四章 『永遠の契約』

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第四章36 『無理解の果てに』

記念すべき202話目となりま(以下略



 ――扉の外に引きずり出された瞬間、スバルが感じたのは天地が逆さにひっくり返る浮遊感だった。


「――おぐぁ!?」


 固い地面に背中から落ちて、肺から空気を絞り出される苦しみに喉を喘がせる。その勢いのまま床を転がり、壁にぶつかってようやく静止。投げ出されるような感覚に頭を振って顔を上げ、スバルは痛みにくらむ目を見開き、


「ベアトリス……っ」


 別れ際に名を呼ぶことすらできなかった少女の名を音にするが、もはやそれは件の少女には届かない。『扉渡り』が成立し、二人の間には行き来することのできない隔たりが生じてしまった。彼女の拒絶は高く深く、スバルの声が届くことはない。


「俺はどうして……いつも……!」


 失敗してからでなければ、最悪の最低の選択肢を選んでからでなくては、自分の犯した過ちに気付くことができないのか。

 最善の手段を、最高の未来を、たぐり寄せるそのことだけを願っているのに、どうしていつも足りないのか、弱いのか、愚かなのか。


「なんでお前が福音を……。お前、なんなんだよ……!?」


 彼女が手にしていた黒い装丁――福音の存在が彼女との距離を決定的に開いた。

 これまでスバルは少なからず、自分とベアトリスの間には短い時間の中で確かに築き上げてきた『なにか』があるものと固く信じてきた。

 憎まれ口を叩き合っていても、顔を見れば互いに嫌な顔をし合う関係でも、そうするだけで終わらないなにかがあるものとスバルだけは信じていた。


 それは思い込みだった。思い上がりだった。勘違いの筋違いの極みだった。

 スバルがあるはずと頑なに信じていたそれは独り善がりの産物で、ベアトリスはスバルに対して言葉通りの感情しか抱いていなかった。彼女はただ福音の命ずるままに、自分の使命をまっとうするそのためだけにスバルに付き合っていただけで、本心ではスバルのことを疎んでいて、嫌悪していたのだ。


「……本当に、そうなのかよ」


 あると思っていた絆がまやかしであると告げられて、それを否定してほしがるスバルをしかしベアトリスは怒声で断ち切った。

 スバルの想像を、偽物の絆であったことを肯定し、何一つスバルの存在に心など揺らしておらず、ただただ義務感だけを理由にこれまでの全てがあったと。


「ああして笑ったことも、怒ったことも、俺を守ろうとしてくれたことも……全部なにもかも、筋書き通りの嘘っぱちだったっていうのかよ……そんなの」


 ありえないだろう、とスバルの弱い心は未だ否定したがっている。最後の瞬間、別れる間際のベアトリスの涙声が、彼女の言葉の真偽を曇らせている。

 なにもかもまだ、自分の中だけで結論を出すには早すぎる。


「本の言う通りでもなんでも、俺がお前に助けられたことを覚えてる……それは変わらない事実で、俺だけが知ってる借りなんだから」


 屋敷を発端とするループの中で、スバルは幾度もベアトリスに救われた。

 『死に戻り』をして考えをまとめるのに彼女の禁書庫へ足繁く通ったし、魔獣の呪いを浴びたときには解呪を願って文字通り命を救ってもらった。消えてしまったループの世界では、レムを死なせてラムとロズワールに追われるスバルを、口先だけの契約を曲解してまで守りにきてくれた。

 その最大の恩義はもはやこの世界に残っておらず、スバルの胸の中にあるだけだが。


「あのとき……俺は、嬉しかったんだ」


 誰一人味方がいなくなってしまったと、そう思い込んでいたスバルを救ってくれた。

 レムとラムの二人を敵と考え、ロズワールの思惑を読み切れず、エミリアのことすら信じ切れずに擦り切れたスバルを、ベアトリスだけが救ってくれた。

 あの一時、あのときの仮初の契約がスバルをどれほど救ったか、それは言葉では尽くせない彼女への返し切れない恩義だった。


「借りは返す。お前が俺に自分から貸したのか、それとも本の意思とやらを尊重したのか、それもわからないから……それを確かめて」


 もうはっきりと、スバルへの拒絶に意思を固めた彼女に問いを投げることはできない。だからスバルの覚悟はこの世界では意味を持たず、次の世界へ持ち越しだ。


 右手を持ち上げる。指が三本欠けた手。引きつる肩と腰。打ち付けた頭。少しばかり短くなった舌。どれもこれも、忘れてはならない痛みだ。

 閉じた瞼の裏にレムがいる。ペトラが、フレデリカが浮かび、ベアトリスがこちらに背を向けて、最後にエミリアが浮かんだ。


 ――スバルがこの世界で取りこぼし、掴み取ることのできなかった全て。


 それを取り戻すために、できる行いに踏み切る。ベアトリスに遮られて叶わなかったそれを再び行い、もう一度螺旋の中へ飛び込もう。


「――――」


 短くなった舌を伸ばし、スバルは再び噛み千切る覚悟を固める。

 一度、し損なった自決を思えば、苦しみが蘇って怖気が立つ。弱気が生まれ、足が震える。覚悟なんて言葉遊び、終わりの前ではなにほどの価値もない。

 それら後ろ向きな負感情をねじ伏せて、死に臨む最大の負感情を押し切る。そして全てをやり直す時間まで遡れることを祈るように、スバルは最期の瞬間のために瞳を閉じようとして――。


「……ここ、どこだよ」


 『扉渡り』を抜けて辿り着いた場所が、見覚えのないことにようやく気付いた。



※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 それはスバルにとって、見慣れたロズワール邸の中とは思えない未知の空間だった。

 じっとりと湿った石畳、鬱蒼と蔦の這う薄汚れた壁面。乱雑に配置された机に錆びついた金属――工具のようなものが散乱し、視覚情報から不快感を呼び起こす。

 そしてなにより、


「う――!?」


 一度、気付いてしまえば意識せずにはいられない、濃密なまでの悪臭。

 生ゴミの腐臭とは異なる、しかし腐臭としか言いようのない悪臭が嘔吐感を呼び起こし、スバルは口元に手を当てると空っぽの胃袋から胃液を絞り出す。

 黄色がかった吐瀉物を床にぶちまけて、荒い息を吐きながらスバルは周囲を睥睨。見れば見るほどに知らない空間で、未知である以上に異質さが際立っている。


 空間は石畳の敷かれた薄暗い部屋であり、その広さはロズワール邸の客間を二部屋分ほど。広々というほどではないが、手狭とはいえないスペースだ。

 その部屋の片隅に散乱する机や謎の器具があり、そして机の反対――およそ部屋の大部分の空間を占めるスペースにあるのは、


「壊れた机と、水晶……? 結晶とか、魔鉱石の欠片か? それにこの穴……」


 見下ろす眼前、破壊された机の残骸と力を失った魔鉱石が散らばり、その先には直径四メートルはあろうかという穴が口を開けている。それも、光源に乏しいことを度外視してもなお底の見えないほど深い穴が。


 ふと顔を上げて壁を見れば、壁面から発光するのは薄青の輝きを放つ苔だ。森などに群生するそれは大気中のマナを吸収して光る性質があるらしく、屋敷周りの森などでも星明かりと光苔の明かりに頼れば真っ暗闇ということは避けられる。

 その苔の照明を意識しながら地べたを這いずり、ズボンの濡れる感触と掌を汚す粘液に嫌悪を覚えたまま、穴の底をじっと眺める。


 静かで冷たい風が底から上ってきており、それは鼻が曲がる――否、鼻を潰しかねない悪臭をそこから運び込んできているようだった。


「う……っぶ。中、覗く勇気はなくて正解か……なんの臭いだ?」


 これが命を孕んでいたものの持つ独特な生臭さであれば、スバルの想像は最悪の一つ上をいく最悪を想定したかもしれない。だが、流れ込んでくる悪臭は肉や水が腐るそれとは別のもので、強いていうなら化学薬品の放つそれに近い。

 臭気の強い薬品を嗅いだときに感じる、堪えようのない痛みを伴う鼻孔への刺激。ほの暗い穴の底から届いてくるのは、そういった類の生物的でない臭いなのだ。


「――他は」


 穴の底を確認することを物理的にも精神的にも諦めて、スバルは鼻の頭を拭ってから口呼吸を意識して部屋の中を見回す。

 目立ったものは足元に転がる机の残骸と魔光石の搾りかす。鉄製の机はすさまじい衝撃を加えられて叩き潰されており、魔鉱石はどうやらその机の上に積まれていたものらしい。ひしゃげた机をひっくり返してみると、折れ曲がった机の上部に彫り込むような形で紋様が刻まれていることに気付いた。


「魔法陣……みたいなもんに見えるけど……」


 こうした魔法陣は異世界ファンタジーではある種お約束だが、この世界にきてからというものお目にかかった覚えがない。基本、魔法は生き物の肉体を経由して外界へ干渉するのがこの世界の魔法であり、一部例外である魔法灯や魔法器以外でそれらしきものに出くわすこともなかった。

 それだけに、魔法陣を発見したことに対する驚きは一入ではあったが、


「実際、効果があるもんなのか? あるとしても、どうしてこんなとこに……魔法陣を置く理由なんて……」


 直接、この場で魔法を起動することができなかったか、遠隔的な魔法措置を受け取るための効能を持っていたのかもしれない。あるいは術者なしで継続してなんらかの術式を行うためのシステムとも考えられるが、


「それなら、傍に中身がない魔鉱石が転がってる理由もわかるんだよな」


 エネルギータンクとして外付けされていた魔鉱石の中身が空になり、結果的に魔法陣が効力を失った――という見方が一番筋が通るだろう。その結論を得てもわからないのは、穴の正体と破壊された机。術式が中断すると部屋ごと爆発四散させる手はずになっていた可能性も捨て切れないところではある。

 とはいえ、


「結局、ここがどこなのかって疑問の答えは出てこない」


 どこまで続いているのかもわからないような暗い穴。なんらかの術式を行なっていたと思われる魔法陣と魔鉱石。腐臭じみた悪臭が漂う部屋を観察し、部屋の隅に転がる別の机と工具――赤錆だらけの金具を拾う。

 ペンチかニッパーなど、およそプラモデルを作るときの道具に似ている。床を汚すのと同じ粘液にこちらも塗れており、なにより使われなくなってどれだけ時間が経過しているのか、スバルの手が触れる端から崩れて塵になる風化具合だ。


 工具だけでなく机も同じ状態で、経年劣化で足の折れたそれらは風を浴びすぎてすでに塵になる寸前であり、軽く足を乗せた途端に形を失ってクズ鉄へ変わった。

 得られる情報はこちらからもない。ただ一つ、気になることがあるとすれば、


「壊れ方と壊れた時期が、穴の前の机とだいぶ違う……」


 時間経過で脆くなり、崩壊を迎えたこちらと違い、穴の傍の机らは明らかな破壊の力で捻じ曲げられていた。それも壊された足場の様子を見れば、その破壊が極々最近――ほんの数日以内のことであるのも察せられる。


「壊れた部屋……誰がなんのために……」


 疑問を口にして、スバルはふと自分のその思考が馬鹿馬鹿しくなる。

 その生じた疑問をどうしようというのか。考えて答えが出る類のものだと思えないし、なによりスバルが抱え込む問題はすでに両腕で抱え切れないほどいっぱいだ。

 この上、荷物の隙間に小物を詰め込むような、崩落を早めるような真似は避けなくてはならない。なにより、こうして別の方へ意識を向けるという行い自体が、目前に迫っていた自決の時間を先延ばしにする悪足掻きのようで耐え難かった。


 だが、それら抗い難き『恥』の感情を理解してなお、この部屋の異質さがスバルを掴んで離さない。今、とてつもなく重要ななにかを目の当たりにしている――。


「――――」


 答えの出ない確信、それに導かれるままにスバルはぐるりと首をめぐらし、部屋の出口を探し求める。ここへスバルを放り込んだのが『扉渡り』である以上、開閉のできない扉の部屋に投げ出されたということはありえない。

 果たして、スバルは自分を部屋の中へと乱暴に落とした扉――部屋の壁の上部に備え付けられた、換気用かなにかの小さな開閉扉を見つける。


 それ以外、部屋の出入り口になりそうな扉は見当たらない。おそらく正式な扉は崩落した穴の向こう――行き来のできない部屋の反対側にあったのだ。

 その事実を飲み込んだ時点で、スバルは真っ当な脱出手段を選ぶ道を捨てる。掌の汗と正体不明の粘液をズボンになすりつけて落とすと、小さく息を詰めて件の開閉扉へ指を伸ばす。


 背伸びしてようやく届くといった高さにある開閉扉は、大きさはダストシュートと例えるのが一番近いか。人間が通れないほど狭くはないが、ゆうゆうと通り道にできるほどスバルは華奢ではない。

 指の足りない右手の握力で苦心しつつ、錆びた扉を軋む音を立てて開くと、狭い通路に体をねじ込んで移動開始。通気口のような狭い場所だ。最悪、虫やネズミなどの温床となっている可能性を考慮していたが、意外なほどに清潔――ではないが、埃の溜まる通路はしかし生き物気配が全くないことだけが救いだった。


 狭い道を抜けることおよそ三分。後半は匍匐前進にも慣れて、挙動がスムーズになり出したところでゴール地点に到達。先の部屋とこの換気口で繋がっていた部屋に同じ手管で降り立つと、ざっと周囲を確認。同じような穴が空いていないか最大限に注意を払ったが、


「さっきの部屋とは趣が違うな。実験室みたいだったとこと比べると、こっちは待合室っぽいというか」


 先の部屋の半分をさらに半分にした程度の広さ。ただ通り抜けるだけの部屋として設定されているのか、地を歩いて抜ける類の扉が二つある以外には物らしい物も置かれていない。正しく、待合室らしき部屋だ。

 これで雑誌と椅子が置かれていれば完璧な布陣と言えただろうが――。


「進んできた方角的に、こっちの扉の向こうが……と、やっぱりか」


 軋むドアノブをひねって押し開けば、崩れる足場とともに穴がすぐ目の前に広がった。とんだデストラップ状態に小さく吐息を漏らし、スバルはほとんど役目を果たしていない扉を精神衛生上の問題で閉じる。――悪臭が、こちらの部屋にも忍び込んでいて、判断が遅かったと己を悔やむ。

 そして軽く首を横に振ると、今度は反対の扉へ。こちらの扉の先が、スバルにとっては未確認の空間となるはずで――、


「…………っ」


 自然、拭ったはずの汗が掌に、そして背中を冷たい汗が流れるのを堪えられない。

 この扉の向こうがどこなのかはわからないが、その場所に最悪の場合、なにがいるのかを想像しておく必要だけはあった。


「ここが……屋敷の中、なら……」


 見覚えのない部屋ではあるが、開いて出た途端に目の前にエルザがいたとしてもおかしくはない。そして仮に彼の殺人者を目前にして、冷静さを保っていられる自信もスバルにはなかった。

 一刻も早く死ななければならない、という苛烈なまでの自決への迸りが、歯の根を噛み砕いたことを思い出させる憎悪へと変換される。


 あの刃でペトラを、フレデリカを――レムを殺した異常者が、そこにいるかもしれないと思っただけで、スバルの脳が沸騰しそうなほどの憤怒に苛まれる。

 いることを望む呪詛の気持ちと、いないことを臨む浅ましい生への渇望。両極端の感情の狭間に揺れながら、スバルはその口元に凶笑を刻み、


「――――」


 いたとしても、いなかったとしても、その狂気的な感情は裏切れない。

 そんな正気を逸した思考の果てに臨んだ世界を前に、


「――――ぁ」


 あるはずのない光景を目撃して、スバルはこの瞬間、我を忘れた。



※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 ――スバルの脳内では、この見覚えのない空間がどこなのかという疑問には実は答えが出ていた。


 そもそも、ロズワール邸でスバルが足を踏み入れたことのない場所などほぼなく、禁書庫にすらある意味では自由に出入りできた彼の見知らぬ可能性――それが残っているとすれば、二度もその扉に手をかけて、その先を臨むことのできなかった『避難経路』の扉の先に他ならない。

 一度は灰色の体毛の精霊に遮られ、二度目は今回のループで殺人者との相対で退散を余儀なくされた場所。故に、スバルは一度もあの扉の先を拝んでいない。

 それだけに、用途不明の部屋が連なった場所に不信感を抱きはしても、その場所がロズワール邸の一部であることになんら疑問を抱いてはいなかったのだが、


「どこ、だ……ここ?」


 呆然としたまま、ただただ間抜けた声で誰にともなく疑問の声を上げる。

 スバルの正面、開いた扉の先に広がるのは冷たく暗い地下通路――ではなく、鬱蒼と緑の木々が生い茂る自然の中、それもおかしなことに、


「あ、朝……?」


 木々の隙間から見上げた空に、昇る太陽の存在が見えた。日差しの高さ、そして風の感覚からそれが早朝の風であると肌で察して、さらなる疑惑が脳を掻き回す。

 スバルが屋敷に帰り着いたのは夕刻前のことであり、その後のペトラやフレデリカとの会話、そしてエルザ襲撃などの時間経過を考慮すると、スバルの負傷は夜が更け始める直前――それが今、半日近い時間が経過している。


「意識がなかった間に、か……!?」


 一度、舌を噛み切って自決に踏み切った際、スバルは意識を消失している。もう一度目覚めたとき、負傷を癒されたことと死に切れなかったことへの悔恨が先走って意識することを忘れていたが、スバルは禁書庫でどれだけ意識をなくしていたのか。

 あの場所が『時の経過と切り離された場所』とベアトリスが嘯いていたことを思い出す。それにどこまで信憑性があったものかはわからないが、


「このまま、上書きセーブされるなんてことがあったら……!」


 とんでもない事態になる。

 幾度も懸念した事態が現実に塗り替えられる前に、スバルは一刻も早く己の命を絶たなくてはならない。ならないのだが、その焦燥感と額をぶつけ合うように存在を主張する別の感情がある。その感情はこう叫んでいた。


 ――この場所がどこなのか、それを確認しなくてはならない。


 そのことになんの意味があるのかはわからない。これまでの経緯を思い返し、『死に戻り』の悪辣さを鑑みるならば今すぐに自殺するべきなのだ。

 だが、スバルの中のひどく冷静な部分が、今の自分の置かれた境遇を理解した上でそれを提案してきている。


「――く、っそ!」


 地を蹴り、唾を吐き捨て、スバルは目の前の森に向かって足を踏み込む。駆け足に木々の隙間を抜けながら、脳裏に浮かぶのはペトラとの会話。

 避難経路の先は屋敷の裏手の山中、そこにある山小屋と通じていて、避難時にはそこから非常持出袋などと一緒に脱出する手筈になっているのだと。

 その言葉を信じるのであれば、今の場所がその山小屋であり、自分が走っているのは何度か足を踏み入れたことがある裏の山ということになる。しかし、


「今のが山小屋? 持ち出し袋がどこに? そもそも……あれだけ放置されてる時間が長そうな場所に、なんの救済措置が置かれてるって……!?」


 スバルが見てきたあの場所にあったのは、得体の知れない空間と嫌な予感を裏付ける物証の数々だけ。ペトラの語ったそれと一致する点が少なすぎる。なにより、フレデリカやレムが定期的に手を入れていたのだとすれば、あの場所の劣化具合に対する説明がつかない。それを自信を持って言えるぐらいには、スバルはあの二人のメイドとしての仕事ぶりを知っている。


 森を駆け抜け、傾斜がないことにも疑問が浮かぶ。山中にあるはずの小屋が、百数メートルも周囲に傾斜のない場所に建てられているのか。自分のいる場所がどこなのか見失いかけ、そもそも正しく見えていないことに苛立ちが沸き立つ。

 そして、生じた苛立ちと不信感の臨界点は思いの外、早く打ち破られることになった。


 木々が開けてふいに視界がクリアになり、スバルは横滑りに勢いを制止させる。舗装、というには乱暴な仕事ぶりの地面は人の行き来があることの証左であり、なにより遠目ではあるが立ち並ぶ家々が人の住まう土地であることを如実に表す。

 それらを目に留めて、いよいよスバルの思考が本当の意味で驚愕に絡め取られた。

 なぜならこの景色は――、


「せ、『聖域』!?」


 半日前に別れを告げて、戻るのに丸一日かかると目算したはずの場所だった。

 怖気に従って右手を持ち上げる。指が足りない。欠損している。『死に戻り』は発動していない。それなのに今、いるはずのない場所に自分は立っている。


「なん、で……ここに。『扉渡り』が、理由なのか……?」


 それ以外に答えがない。

 スバルはベアトリスの手で屋敷の禁書庫から、『扉渡り』で『聖域』の一角へとその身を送られたということになる。だが、どうしてそんなことになったのか。


「距離は関係ない……ってのか? いや、確かに一度、屋敷から村の厩舎まで転移させられたことがあったけど……」


 あれは距離でいえばまだ転移のレベルとしては許容範囲と考えられる距離だった。しかし、『聖域』と屋敷の間にあった距離を考えれば、ここまでの長距離移動ははっきり言って想像と常識の埒外だ。

 それら超常すぎるほど超常的な力を目の当たりにした事実を飲み下せば、頭を掻き毟るスバルは無理矢理に思いを腹に納めて、


「とにかく! 今、『聖域』にいるってんなら……ロズワール!!」


 あの道化の下へと駆け戻り、その思惑の全てを吐き出させてやる。

 ベアトリスを屋敷で手厚く扱っていたロズワール。彼の魔人ならば必ずや、彼女の素性を、彼女が福音を手にする理由すらも知っているだろう。

 なにもかもを知っていて、その上で知らないスバルを掌で弄ぼうとしているというのならそれもいい。その鼻面を殴りつけて、焼かれても切り裂かれても、喉笛に食らいついて全てを吐き出させてやる。


「――――!」


 今、その瞬間、スバルは自害しなくてはならない制限を忘れて走り出し、思考を真っ赤な怒りに染め上げて村の端へ。ロズワールが眠る建物へと疾走する。

 憤怒の化身となったスバルの速度、猛然と『聖域』を走り抜ける肉体は疲労を、苦しみを忘れてその身を目的の場所まで誘う。

 蹴り破るような勢いで扉を開けて、スバルは家の中に押し入ると牙を剥き、


「ロズワール! 面ぁ出せ! てめぇに聞きたいことが、山ほどできたぞ!」


 側付きのメイドの折檻を受けかねない剣幕で飛び込み、開口一番に荒々しい啖呵を切るスバル。室内からの返答はなく、スバルは足音高く寝室へと詰め寄ると、最後の扉一枚を乱暴に開け放ち、


「白も切らせねぇし嘘もなしだ。隠してること全部洗いざらいぶちまけて……」


 もらおうか、と続けようとしたスバルの声が途切れた。

 そのこれまでの不満を凝縮した恨み節、それを聞くべき相手が部屋のどこにも見当たらなかったからだ。


 姿をくらましている、その事実にさらなる怒りが脳を沸騰させる。寝台を思い切り蹴りつけて、痛む爪先にさらに怒りを上乗せしながらスバルは建物を飛び出す。

 いるとすればリューズの家――エミリアと会っているか、もしくはリューズかガーフィールの下へ足を運んでいるか。いずれにせよ、スバルがいなくなった途端に動き出すとはいい度胸だ。本当は大した怪我でないのを偽っていたのではないか、とそんな勘ぐりが働くほどにタイミングが良い。


 疑いだせば切りのない負感情の螺旋。それらに思考を支配されたまま、鋭い目つきで『聖域』を睥睨し――またしてもスバルは遅すぎる理解を得る。


「……あ?」


 時刻は早朝、スバルの知る限り、『聖域』の日常的なタイムスケジュールの中では『聖域』の住民たちが朝食の準備や洗濯を始める時間のはずだ。避難民がいなくなったことで炊き出しの必要性はなくなったが、それでも各家庭の飯炊きの必要はある。

 そのはずなのに、その日常の営みの形跡がまったく見られない。否、それ以前に、


「ロズワールたちだけじゃねぇ……みんな、どこ行ったんだ?」


 右を見ても左を見ても、人っ子一人見当たらない。

 思えば森を抜けて『聖域』に戻った時点から、ここにくるまでの道のりで誰かとすれ違った覚えも、誰かを見かけた記憶もない。

 『聖域』の住民の絶対数がそれほど多くないことを考慮しても、村の真ん中を突っ切って誰の顔も見ないなど、どれほど可能性として少ない目を引いたというのか。


「そんなはずが……」


 頭を振り、嫌な予感を振り払うようにスバルは手近な民家の戸を叩く。叩いて、それでも返事がないのを確認して扉を開き、中を覗き込む。――無人だ。

 この家には獣耳の女性が二人、姉妹で暮らしていたはずなのだが。


 そうして記憶に思い当たる限り、スバルは目に付く民家を次々と覗き、そのたびに期待を裏切られて失望を積み重ねていく。

 誰の姿もない、どこにも人がいない。『聖域』から人の気配が消えている。


「誰か! 誰かいるだろ!? どこ行ったんだ!?」


 嫌な予感が積み重なっていく。

 この焦燥感、この得体の知れない喪失感には覚えがあった。


 それは魔女教との対決の最中、なんの準備もできず、遅れてアーラム村へ戻ったスバルを迎える惨劇の記憶――折り重なる死体、苦痛と絶望の死に顔の数々。色を失った顔見知りの人たち、そして崩折れて二度と動かないペトラ。


「――――あぁ!」


 恐怖がスバルの背中を駆け上がり、とめどない不安に押し出されるように走り出す。悲鳴のような声を漏らしながら、スバルが向かうのはただ一つの場所。

 村の端、一際立派な建物。それはこの『聖域』を束ねる族長としての数少ない尊重の表れであり、今はその場所を借り受ける一人の少女のための寝床で。


「――エミリア!!」


 飛び込み、愛しい少女の名を叫びながらスバルは部屋の中を見回す。

 銀色の髪の少女が寝ぼけ眼でスバルを振り返り、何度かの瞬きの後で驚いた顔をしてから、「おはよう、スバル」と胸が痛くなるほどの微笑を浮かべて――、


「――――」


 振り返ってくれるはずの場所は、しかしやはり無人のままだった。


 寝台に駆け寄り、指を伸ばして乱れたシーツに触れる。温もりはそこになく、寝ていた誰かがここを離れてすでにかなりの時間が経過している。

 それだけを確認してスバルは家を飛び出し、その足を今度は最後の拠り所。この状況を、意味のわからない理不尽を、その答えを教えてくれるかもしれない場所。


「はっ……はっ……!」


 息が切れる。血の味を喉の奥に感じながら走り、スバルは『聖域』の再奥、『強欲の魔女』エキドナの眠る墓所へと駆けつける。

 道中、座り込んでいるはずのガーフィールの妨害も、その姿もなく墓所の目の前へと辿り着けてしまった。それが救いなのか、あるいは妨害されたとしても見知った彼の姿を確認できた方が幸いだったのか――。


「いや……どの面下げて……」


 彼のたった一人の姉を救えなかった身で、どうして無様に顔を出せたものか。

 いなかったことに安堵を覚える自分、誰も見つからないことに耐え難い焦燥感を覚えているくせに、その自分の弱さを省みない点がひどく醜くて疎ましい。


 感傷を首振りで捨てて、スバルは邪魔の入らない内に墓所へと足を向ける。

 『試練』の開始する時間ではないが、あるいはなにかしらのアクションが魔女の側からあるかもしれない。それを期待して、それに縋るように、スバルは問いかけに答えをくれるかもしれない魔女の姿を求めて――、


「――か、ふ」


 足を踏み出した瞬間、スバルは自分の体をなにかが通り抜けていった感触を得た。

 ゆっくりと下を見る。胸板の下、下腹部の上、胴体のど真ん中――そこにぽっかりと、丸い丸い拳大の穴が生じていた。


「ふ……ぇ?」


 手を伸ばし、穴に当てる。と、音を立ててその穴から大量の血が吹きこぼれる。とっさに掌で塞ぐが、穴は体を貫通して背中側にも開いている。両方を止めることはできず、ただでさえ血を失いすぎていた体が体勢を維持できずに倒れ込んだ。


 ――痛み、ない。理解、できない。なにが、起きたのか。


 死。死ぬ。死ぬのだ。死、知っているそれが目前にきているのがわかった。

 なぜ、どうして、こんなことに。エルザ? スバルを追ってここまで? 屋敷と『聖域』にどれだけ距離が。ベアトリスが、まさか。福音。彼女は、どうして。レム。誰がこんな。死ぬ。恐い。なにが。誰が。エミリア。魔女。魔女。魔――。


「――――ぁ」


 視界が霞み始める。終わりが近づき始める。

 予期していた死が、予期していない形で訪れる。そのことにスバルは、やっと死ねたという安堵など感じない。ただただひたすらに、今は死が恐い。

 死ぬ覚悟を決めたなどと言っても、決めた覚悟と違う道を通って死が訪れればこの様だ。心は乱れて、浅ましい生への渇望は絶叫し、魂が世界から剥がされることを拒絶しながら――それでも、『死』はゆっくりとスバルを侵食し、


「――も、よわぃ」


 どうにもできぬ自分の無力さだけを頬に流して、スバルの鼓動が静止する。

 待ち望んだ死を、望まぬ形で得た死に顔は苦痛と恐怖に歪んでおり、その死に様の哀れさは誰に見咎められることもなく、


「――――ッ」



 音を立てて、咀嚼された。



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