Armored Core farbeyond Aleph 作:K-Knot
子供の眼に子供らしい輝きの一切がない
ああこれを地獄というのだ
アジェイが家に帰らなくなってから二週間を過ぎた頃、ウォーキートーキーは執拗に「ワタクシをお母さんと呼びなサイ」とガロアに迫る様になっていた。
そしてガロアはそれを言われるたびに頑なに拒否し、アジェイが出て行ってから一か月、とうとう大喧嘩になった。
「お母さんと…」
『うるさい!!うるさいうるさいうるさい!!黙れ!!お前は人間じゃないだろうが!!』
「デスガ、それでもガロア様はワタクシをお母さんと呼ぶのデス!子供には親が必要なのデス!」
『俺の親は…俺の親は一人しかいねぇ!!』
はた目からは機械が一人で騒いでいるようにしか見えないが、それでも会話は成立している。
「そうデス!デスからワタクシが」
『命令だ!!あっちの部屋に引っ込んで一生出てくるんじゃねえ!!』
「了解デス」
リビングの隣の部屋…アジェイの寝室だった部屋を指さし命令を出すと、
今の今まで金切り声をあげてケンカしていたのが嘘のようにキュルキュルと音を立てながらウォーキートーキーは引っ込んでいってしまった。
そのあまりにも機械的な動作を見てガロアはほんの少しだけ悲しげな顔をする。
(お前は…機械なんだ…ウォーキートーキー…)
機械らしくそのコンピューターの中でカチカチと計算して確率でも出したのだろう。
つまり、父がこの世にいない確率を。そしてあんなことを口走り始めたのだ。
だがガロアはその現実を認めたくなかった。
(死んだって…認めたらもうお終いだろうが…)
分かっている。もう帰っては来ないという事。
だが、あの日ウォーキートーキーが飛んできたように、死の報せでも来ない限りは絶対に認めてはいけない。
そう考えていた時。
トスン
(なんだ…?)
大きな振り子がついた時計から何かが落ちるような音がした。
だが時計自体に壊れたような様子はなく、相も変わらず冷酷に時間を刻んでいる。
「……」
直ぐに音の正体は見つかった。
時計の裏に封筒が落ちている。
「……」
差出人は誰か、そんなことは考えなくても分かる。
静かに瞼を閉じて椅子に座った後、意を決してナイフで封筒を切ると一通の手紙が出てきた。
この手紙は私が1ヶ月帰ってこなかったら出るようになっている。
即ち、私はもうこの世にはいないのだろう。
リンクスなのだ、それは覚悟していた。死ぬのを恐れてはいない。
ただ一つ心残りがあるならばお前だ、ガロア。
お前が生まれた日、6/6。
私はリンクスとして、悪を断たんとして、
私の中の正義に基づいて依頼を受けていた。
お前の本当の両親の抹殺だった。
調べた限りでは凡そ容認できぬ世界の理に背く大罪を為している悪人として、私が裁くことを決めたのだ。
だが、私がそこにたどり着いた時には既に二人とも殺されていた。
あるいは、私がその引き金となり、結果的に二人が死ぬことになったのかもしれない。
他の誰でもない私がお前を、赤子だったお前を見つけ出したのは本当に偶然だった。
コジマ汚染の中で既に命を落としていた母の腕にきつく抱きしめられ、まるでお前が死ぬのだけは防ぐかのようだった。
本来ならば母と共に神の元へと送られていたはずのお前は声を失くし母の乳を飲むことすらも許されなかったが、しかしこの世に生を受けて私に見つけられて生き延びたのだ。
お前は生きるべきだったのだ。
神に生かされたのだ。
その深い母の愛の姿を見て、決めたのだ。
例えどんなに矛盾していようと、お前を生かし育てていこうと。
お前の名前はガロア・アルメニア・ヴェデット。
6/6はお前の誕生した日であるとともにお前の本当の両親の命日だ。
今となってはもうお前の両親が本当に悪だったのかすらわからない。
常々話していたな、この世には正義も悪もないと。見方によって変わるだけだ。
私の目にはどうしようもない悪に見えたその行為もやむにやまれぬ、いや、正義と信じるに足る理由があったのかもしれぬ。
故に、ここでは何が起こったかは記さない。
自分で悪とも正義とも断じることが出来なくなった今、一方的な視点でお前の両親が死んだ理由を語ることは私には出来ない。
いつか、その意志があるのならば。
自分でその答を探してくれ。
まだ幼いお前にこんな事実を突きつけてしまうことを心苦しく思っている。
だが、お前は賢い子だ。本当に必要な事ならばいずれその真実に辿り着けるだろう。
ずっと言い出すべきだった。
お前の両親の事を。
お前の両親も、お前も殺そうとしていたことを。
お前の両親の死に少なからず携わっていたことを。
出来なかった。
救いがたいほど罪深いということも、その権利がないことも、矛盾していることもわかっていた。
お前の笑顔を見る度に、日に日に親に似てくるお前を見る度に、
成長を喜ぶと共に私は苦しんでいた。
それでも、私はお前の父でありたかった。
だから。
今更もうお前に許してくれなどと言えない。
もし、私を許さないと言うのならばそれでも構わない。
ただ、これだけはお前に伝えることを許してほしい。
私はお前を愛している。
アジェイ・ガーレ
「……」
「……」
「……」
「……」
ドサッ、という音がガロアを現実に引き戻す。
玄関から何かが聞こえたのだ。
(誰?!誰が…)
だが扉を開けてもそこには誰もおらず、
今の音は屋根から雪が落ちた音だった。
(あ、…雪かきを…しなきゃな…)
人の作る明かりが一切無い暗い森が玄関を開け放ったガロアを包み込もうとして冷たい風を吹かしてくる。
(夜って…こんなに深くて広いのか…そうか…)
「……」
『私はお前を愛している』
「……」
ほんのり雪に照り返す月明かりを受けて森を縫う道とも呼べぬ道を歩いていく。
「……」
何度も何度も、記憶がある前から来ている川のほとりに辿り着いた。
ここまでの道は明かりが無くても来れる程にこの場所はガロアの原風景だった。
「……」
オーロラを纏う月が映る川を覗き込むとそこにはうっすらと赤毛に灰色の眼をした少年が映っていた。
水面に映るガロアの顔は、アジェイとは違い過ぎた。
そしてそんなことはずっと前から分かっていた。
(どうにもこうにもならねえよ…俺は…父さんの子じゃない…知ってたよ…)
例えば霞の言葉を、例えばアジェイの反応をガロアは見て聞いてこの年まで生きてきた。反応していなかっただけだ。
ただ口が利けないだけなのだ。
ぱくぱくと口を動かしても音は出ない。
声という物が、皆が当たり前に使っているそれがどういう物なのかがわからない。
(いつかは聞きたかったんだよ…どうして俺を拾ったのかって…人間が嫌いだったんだろう、父さん…。いつか聞こう、いつかは聞けると思ってたんだ…)
霞に対する反応や距離感からもよく分かったし、霞自身が「この方がサーダナにはいい」と言っていたことからもよく分かった。
父は人間が嫌いだった。それがどうしてかはよく分からないが、それよりも、もしそうならどうして自分を拾ったのかが分からなかった。
最後の手紙にはああ書いてあったがそんな義務感や使命感で動くような人ではないことはよく分かっている。
(父さんはなんで死んだ?黒い鳥って奴と戦って?くそっ…生きるために殺してきた…だから殺される…分かっているよ…)
(ただ…)
(教えてほしい事がまだたくさんあったんだ…)
ぱたぱたと透明な滴が水面を揺らしていく。
殺さなければ生きられない。相手は父を殺して生きた。
そうは分かっていてもただただ悲しい。涙ばかりが溢れてくる。
霞の死にはまだ覚悟の余裕があった。
弱っていく姿を見る時間が、そして別れを受け入れる時間が。ガロアにとって死とはいつもそばにある物だったから、長い時間をかけて覚悟を決めていた。
だがアジェイは最後にあったときも自分の足で歩き、大きな手で頭を撫でて家を出ていった。
断崖絶壁のようにいきなり目の前に何もなくなったかのような唐突な死が訪れた。
どうしていいのか分からない。ただ悲しい。
(なんで…?どうして俺は生まれた?どうして俺はまだ生きている?)
(どいつもこいつも産んでくれなんて頼んでいない。理不尽にこの世に生を与えられ必ず奪われる。世界は残酷すぎる…どうして俺は生きている?)
(俺は何を…何を…)
両刃のナイフの刃の部分を右手で思い切り握って引き抜く。
緩やかに流れる川にぱっと花が咲く様に赤い血が垂れていく。
(この…血が流れるだけの肉箱を運ぶためだけに生きているのか?)
(殺さなければ生きられない!?)
(殺されれば他の流れに取り込まれる…じゃあなんで生きるんだ!!)
(分からねえ…)
霞や父の死を考えると同時に浮かぶのは自分が今まで生きる為に殺してきた動物たちの死体の虚ろな目。
ガロアの大切な人の死と、動物達の死のどこに違いがあるのかが分からない。分からないままでそこに涙を流したら思考の敗北を受け入れてしまうような気がする。
だがそれでも、涙が流れるのはどうしてなのか。答える人もいない。
「…っ…っ…」
(大切な事を何も言わないまま…何も聞いてくれないまま皆…皆いなくなる……)
「……」
「……」
「……」
(父さん……)
ガロアは考える。今まで人類が追い求めてきた答えを探して。
ガロアがアジェイの遺書を読むのと時を同じくして、アジェイの死は闇に潜伏していたロランの元にも伝わっていた。
「……アジェイ…死んだ…か…」
国際的なテロリストの首領となっていた自分をどうやって探したかはあまり重要ではない。
自分よりよほど頭のいい男だったし、その手段をペラペラと人に話すような男でも無かった。
問題は遺書に全財産を譲る、ガロアの事を頼むと書いてあることだ。
「人を…信頼するなよ…お前はそんな奴じゃなかっただろう…」
(こんなクソみたいな世界で…俺のようなクソ野郎にそんなことを頼むとは…馬鹿もいいところだ…)
「安心しろ…ちゃんと…殺しておいてやる…」
企業の裏仕事を請け負うようになってからロランの負の感情は完全に振り切っていた。
こんな世界は滅びてしかるべし。
その思いしかなく、こんな世界で子供が一人で生きていくということも苦でしかないと決めつけていた。
「頼る大人も…人間もいないあんなと…」
(誰も…?)
ふ、と違和感がロランの心に差し込む。
長きにわたって自分をずっと苦しめていたのが人間だと言うのならば、ガロアはどうなるのだろうか。
『人は人と関わって出来ていくもの』
最愛の妻が昔くれた言葉が頭の中でこだまする。
アジェイは死んだ。霞も死んだ。ガロアは、あの賢い子供はあの森で一人で生きている。きっと育ての親が死んだことを理解して、それでも動物を殺して生きていくだろう。
その果てに出来上がる物は何か。
人間は人間と関わって出来ていくと言うのならば、これからガロアはどうなっていくのか。一人ぼっちの人間はどうなるのだろう。
ニチッ、という音を立てて溶けて半分以上くっついていた唇が裂けて血が出た。
何年振りかの心からの笑顔だった。
(面白い…どうなるか…見届けてやる…ガロア…)
ロランは人間を超えた怪物が生まれることを望んでいた。
すなわち、この世を焼き尽くす黒い鳥が生まれることを。
アナトリアの傭兵も結局道半ばで死んだ。残ったのは汚染された世界だけ。
この汚染された世界の中で、人に汚されずに生きているガロアは限りなく透明に近い。
オセロのように、純粋な白が純粋な黒に転化していくのならばガロアはきっと…
思えばロランの予感はいつも当たっていた。それも悪い事ばかりが。
だが、今回のこの予感。途轍もなく強大な何かが生まれるというこの予感が当たってくれるというのならば。
そんな闇に蠢動する思いもつゆ知らず、ガロアはその短い生涯をもう終えてしまおうとしていた。
「……」
川の傍の石の上に、かつてアジェイがしていたように座り頭と鼻の上に雪を積もらせている。
身体にかかった雪の溶ける速度は非常に遅く、ガロアの体温が深刻なラインまで低下していることを示していた。
水分を失った唇には血の気が無く、肉体は軋んで既にまともに動かす事もままならない。
通常は肉体が朽ち果てて魂が解放されるが、先に魂がその身を出ていこうとしていた。
既に意志は魂を手放している。後は肉体から離れるだけだ。
(まだ…まだ生きているのか…どれだけ時間が経った?……もういいよ…いらない…生きていたって…。なんで俺は生きているんだ…分かんねえ…だって何千年も考えて…分からねえんだろ…誰も…それっぽいこと言う奴もいるけど…あるのか?答え…。でも…欲しいよな…答えが…だって…太陽が昇っても…月が出てもどこに進んでいいかわからない…)
この思考の時間は僅か0.05秒。この世の全てに平等な時間から離れてガロアの体感時間が完全に歪んでいた。
生死の狭間を漂う魂が時間という絶対の概念を無視し始めている。
(……あのシカ…オオカミに食われて死ぬ…)
川を超えて2km先で歩くヘラジカのメスがオオカミの群れに狙われているのをほぼ大地と一体化してしまったガロアの身体は正確に感じ取っていた。
元々魂の癒着が希薄だったのか。普段から研ぎ澄まされて獣じみていた第六感が完全な進化を遂げていた。
(魚が…跳ねる…)
そう思った五秒後に目の前の川で魚が跳ねた。
かつて幾人もの宗教家が、あるいは武芸者が至ろうとして一握りの者しか至れなかった妙境へ、ガロアは命を手放すことで達していた。
命を手放すことで世界そのものである自然に戻り、感じ取る。
眼は最早うっすらとしか開かれておらず、僅かな視界も最早映っているだけで見ていない。
氷のように冷えた耳に届く音、しかし感じる鴉雀無声。何も聞こえていない。
(……死ぬのは怖くない…世界に戻るだけだ…でも、もう会えない…寂しいよ…寂しい…この世界は静かすぎるんだ…)
極みに達したとて最早残り少ない命。
(まぁ…もういい…)
渾然一体、梵我一如の果てを見たガロアの命はもう持たない。
(万物は流転する…死んだら俺が肉体を手放すだけだ…)
呼吸の一つ一つから命が外へと出て行きただの空気になる。
(不自然なんだ…意識を持っていることが…)
そしてガロアの意識は。
(ただ流れを運んでいる途中で浮き上がった水泡みたいなもんだ…意識なんて…あってもなくても変わらない存在…世界は一つの流れだ)
闇へと溶けていく。
(だから…もういいだろう…捨ててしまおう…何もかもを…)
その時、溶けて消えたかと思われた意識は美しい何かを感じ取った。
(花が……見える……)
こんな寒い場所に咲くような花では無い。
鮮やかでも派手でも無く、薄い桃色でそっと咲いている花だ。
あの世の川を渡った先にある花畑という訳では無い。
(俺…だ………)
あと少しで死ねる。どうやら次はあの花になるらしい。
花もいい、鳥もいい………と思ってから何故鳥なのか?と疑問が浮かんだ。
(鳥が………目の前…)
このまま放っておけば一時間後には冷たい岩と同化していたはずのガロアの前に一匹の鳥が舞い降りた。
「チチチ…」
ほとんど自然と一体化しているもののまだ息がある、しかし動いてはおらず危険も感じ取れないガロアに興味を抱いたのか、その鳥は頻繁に首を傾げながらガロアを見ている。
(言葉にした瞬間には…過去になっている…)
(感じ取れ…)
身体から離脱していた魂が再び重なり、左手に握ったナイフが、右手の切り傷が、身体中の鈍痛が、何よりも空腹が戻ってきた。
「……」
「…チッ…」
「……」
「チチ…」
ヒュッ
鳥の動体視力はそのナイフが振り下ろされる光景を全て捉えていた。
決して速くない。その大きさも色もよく分かるくらいには。だが、避けれないという事も同時に分かった。
目の前のよく分からない物体から興味を失い、飛び立とうとした瞬間。翼を広げた瞬間に刃が振り下ろされたのだ。
見えてはいる。しかし避けられない。鳥は好奇心の代償をその命で支払うことになった。
「……」
よく焼けた鶏肉を味付けもせずがつがつと口にしていく。
久々の固形物に臓器が驚いているようで腹が痛いが、それよりも空腹の方が辛い。
(寒い…いや…それよりも…)
焚火を焚いて身体を温めている今よりも、雪を被っていた先ほどの方が絶対に寒いはずなのに、
復活した神経は今の方が寒いと告げていた。
(俺は…何を…しているんだ…?)
と、考えた瞬間に口からぶじゅりと血が出てきた。
「…!?」
(なんだ?吐血…いや違う…歯肉から出血…)
(それに体中が痛いしだるい…)
(そうか…)
(壊血病か…くそっ…)
アジェイが仕事をしなくとも時々家を留守にして街に出ていた理由。
それは野菜を買いに行くためだった。
一年の内八か月が雪で覆われるこの地方で野菜を栽培することは容易でなく、それはビタミンが確保できないことを意味する。
まだガロアが幼い頃は西へ行った街に人が住んでいたが、ここ最近ではそこにも人はいなくなり、アジェイはわざわざ野菜を買う為だけに家を留守にして遠く離れた街へ行っていた。
冷凍庫にはもう野菜の備蓄は無い。
このまま食事をしなくてもガロアはビタミンCの欠乏でどちらにしろ死んでいたのだ。
(もう何日野菜を食べていない?……このままでは…)
ふらふらと南にある崖まで歩いてきた。
300mほどしか距離がないはずだがそれでも10分以上移動に時間がかかった。
日がよく当たるこの場所では青々とした針葉樹の木々が冬でもある。
(まずい…最悪にまずい…)
むしりとった葉を口に入れていくが美味しいはずも無く、尖った針葉はガロアの弱った口内をズタズタにしていく。
「…ゲハッ…」
結局飲み込むことが出来ずに地面に葉を吐き出してしまった。
ザッ、と雪を踏みしめる音が聞こえた。
その音は深く広く、森に広がるようだった。
「……!」
足音。人の物ではない。
いや、この地面の揺れは。
「ブルルル…」
(バック!!)
並の木の枝よりも太いその角が目に入ると同時に、ガロアは本能的に手を腕の前で交差させた。
「ブオオォ!!」
(ぐぁっ…)
何とか突進を腹に受けることは避けられたが、10m以上の高さがある崖から突き飛ばされた。
(クソ野郎…)
ああ、これが走馬灯か。思ったほど時間はゆっくりにならないや、と思った瞬間。
ズボッ
「……」
獣でさえも踏み込まないのか、静かに開けた窪地の雪に間抜けにも頭から埋まってしまった。
(あの…クソ野郎…畜生がぁ…ふざけやがって…)
さらさらの雪から頭を抜いて身体中に付着した雪を払う。
(だが…聞いたぞ…)
今自分が落下した瞬間に感じた他の生命の身じろぎ。
左手にナイフを握りしめ、崖の傍まで歩いていく。
「……」
「……」
「……」
(ここだ!!)
深い雪に勢いをつけてナイフを突き立てると肘までも埋まった。
ズブリと雪を掻き分ける以外の感触がガロアの臓腑に響き渡り、白い雪が赤く染まっていく。
その腕を抜くとナイフの先には既に絶命した丸々と太ったユキウサギが刺さっていた。
「……」
血がダラダラと流れる口を思い切り開いて動かなくなったウサギの腹に齧りついた。
ブジュッ、ブシュウ、と下品な獣が咀嚼するかのような音がガロアの耳に届く。
そんなことを気にしていられなかった。
「…ペッ…」
血を吐き出し、骨をナイフと腕で引き千切り生肉を腹に収めていく。
(不味い…さっきほどじゃないけど…)
心臓を噛み潰すとガロアの白い肌までもが真っ赤に染まった。
先ほどから鼻で呼吸をしていない。生の兎肉はえぐみが強く、臭いも強くてとてもじゃないが食べられたものではない。
それでも動物の生肉には豊富なビタミンCがあり、壊血病を治すための手段としては全く無駄ではない。
実際ビタミンCは動物の肉に含まれているものの熱に弱く、熱と共に破壊されてしまう事を先祖からの知恵で知るイヌイットは今でも生で動物の肉を食べる。
無論、これは応急処置でありこのまま火で殺菌もせずに生肉を食していけばいずれ何かしらの菌にやられてしまうだろう。
「……」
気が付けば辺り一面が赤い血に染まっており、ガロアの服も真っ赤だった。
狂犬病に罹った犬に食い散らかされたような兎の死体の前で口元を赤く染めたガロアは虚ろな目をしている。
(血を啜って…生肉食って…獣みたいに…)
(何をやっているんだ…?死のうとしたのに…)
先ほどまで死のうとしていたのに、今自分は醜いまでに生き残ろうとしていた。
そこに思考は殆どなく、動物のように本能で動いていた。
だが、それでもやめようと思えば出来たはずだ。
(だって父さん…ここで死んだら)
こびりついた血がゆっくりと流されていく。
(父さんが助けてくれた意味すら無くなってしまう…)
血にまみれながらガロアは子供らしく、しかし声は上げずに大泣きする。
真っ赤だった顔の血が涙で洗い流されていく姿はそれでも純粋であろうとする子供らしさの顕れか。
(生きていることの意味はよく分からないけど…それでも父さんは俺を生かしてくれた…)
(その意味が分かるまでは…生きなきゃ…)
自分の物か、そうでないのかも分からない血を滴らせながら遠回りをして家へと歩いていく。
ずるずると重たい身体を引き摺りながらようやく家の傍まで辿りついた時、不思議な物を見た。
(!?人の…足跡!?)
自分の物ではない。
ここ何日もこの辺りは歩いておらず、仮に歩いていたとしても雪で埋もれて消されているはずだ。
(この大きさ…歩幅からして…)
地面に這いつくばり足跡を調べ上げていく。
今一つ目的は分からないが足跡の情報から一人の人物が浮かび上がる。
(身長は180前後…体重80kg強…ロランおじさんか!?生きていたのか?)
残念ながら父の物では無かったがそれでも、一年以上も前に行方不明になった古くから知る男の足跡だと知り久しく無かった喜びが湧き上がる。
いや、もしかしたら父の事も何か知っているかもしれない。
(あれ…?)
だが足跡を辿ると不思議な事に家ではなく、ネクストが格納されていた倉庫の方へと足跡が続いていた。
(鍵が…開いている…)
父はここに立ち入ることを禁じていたし、実際危険な兵器があることを知っていたため入ろうとも思っていなかった上普段は鍵がかかっていた。
無論、父がいなくなってからもずっと鍵はかかっていた。こんなところに一体何の用があると言うのか。
(誰もいない…)
初めて入ったが基本的にはがらんどうだ。
鍵がつきっぱなしのスノーモービルやネクストの部品、もう何か月も触られた様子の無いコンピューター等があるがそれでもやはり主役のネクストが無ければ空っぽなのは当然か。
(……!!)
雪混じりの足跡が続く先、そこには幾つかの袋が置いてあり、今ガロアの身体が一番欲している野菜が見えた。
「…!…!」
キャベツを掴みとりそのまま齧りつく。
歯の隙間に挟まるし芯は固いがそんなことを気にしている程余裕はない。
(うまい…うまい!くそっ…こんなに野菜は美味しかったのか…)
結局そのままキャベツを一玉丸々食べてしまい、さらに入っていたトマトも飲み込むように食べてしまった。
今日の食事量は普段の五倍を軽く上回っており、生きる本能が身体中を刺激した結果なのかもしれない。
また、そのことをガロアが知ることは永遠にないだろうが、ガロアの本当の父親・ガブリエルがガロアと同じ10歳の頃に口にしていた量とほぼ同じだった。
「……」
ようやく気分が落ち着いてはぁはぁと息を吐く。
袋の中を覗くと、この地方では最早手に入れることの出来ない調味料や野菜類さらにはハチミツなどの糖分が少なく見積もっても一か月分は入っていた。
(ありがたい…だけど…ロランおじさん…どうして会いに来ないんだ…礼を言いたいのに…。いや…会いたいのに…)
いくら考えても分からず、結局ロランは姿を現さない。その場に居続けてもしょうがないので食い散らかした野菜を片付けて、倉庫の扉を閉めて家へと向かった。
(調味料か…。久々の野菜…美味しかったけど…やっぱりそのままかぶりつくのはダメだよな…獣じゃなくて人間なんだから…)
10kg近くはありそうな袋をなんとか家までもっていき、玄関に放置して父の部屋の扉を開く。
「……」
(電源が切れてやがる…当たり前か…)
一生出てくるなと命令したウォーキートーキーは入り口の前で動作停止している。
二日に一回は充電しないと動かなくなるという話だったから当然だが。
(くっ…クソ重い…よく空を飛んでここまで来たもんだ…この野郎…)
充電器のある二階の自分の部屋まで、ウォーキートーキーの腕を引っ張りなんとか持っていく。
何回も階段に当たったし、充電器をこっちに持ってきた方が早かったと途中で気が付いたがそれでもなんとか二階の充電器の上まで持っていくことが出来た。
「……」
(つ、疲れた…ああ、身体がまた重くなってきた…)
「………ムムッ!?ガロア様!?血だらけではないデスカ!!」
『俺の血じゃねぇ…それより…ごめんな…ウォーキートーキー…ごめん。俺に…料理を教えてくれないか…』
「……いいのデス。ジジジ…子供は…親にガガガ…反抗するものデスカラ。料理、ハイ。お教えしますトモ」
(なんだ…?)
反応が随分遅かったし、赤いカメラアイは途中途中で点滅していたし機械から鳴ってはいけない類の音が聞こえたような気がした。
(故障しても直せないぞ…自分で直せるんじゃなかったのか?)
「さぁ、ワタクシをお母さんと呼びなサイ!!」
『それは嫌だ』
「ヌッ!?」
『風呂…入ってくるよ』
身体から血が流れていく。
殺した生き物の血か、自分の血かはどうでもよかった。
お互いに食い合ってどちらかがどちらかの血となり肉となり生きていくだけのこの世界だ。
どっちの血だ、なんて考えることに何の意味がある?
そう『意味』だ。
まだ分からない。いつ分かるんだろう。
俺が『生きる意味』って奴は。いつか答えが見つかるのか。
それともどっかの生き物が俺を取りこんで俺の代わりに生きる意味を探そうとするのだろうか。
今は苦しい。
いつかその意味が見つかれば苦しみは無くなってくれるのか。
誰か教えてくれ。
「……」
風呂から上がったガロアは丁寧に身体から水気を取っていく。
正直、あんな風に過ごして風邪や大した病気に罹っていないのは奇跡としか言いようがない。
(生きろってのか)
何かに生かされているのか、自分の持っている生命力か。
身体を冷やさない為にも乱暴に髪をドライヤーで乾かしていく。
髪が伸びていた。爪も髪も当然のように伸びている。生きている証拠だった。
「お待ちくだサイ」
『…なに?』
「ガロア様も10歳。ジジジ…そろそろ身だしなみに気を使わなくてはなりマセン」
『…?……??…なに?どういうこと?』
「髪をただ乾かすのではなく、きちんとセットして冷風でバッチリきめるのデス」
『…それで?どうするんだ?』
「質問の意味が分かりマセン」
『身だしなみに気を使ってどうするの』
「デスカラ、」
『誰が俺の身だしなみを見るんだ?』
「ガッ、ガガガ…」
『ここに俺とお前以外の誰がいるんだ?…父さんは………………死んだ。俺が見た目に気を使ってウォーキートーキーはどうするんだ?』
「ソ、ソレハ…」
『意味を…意味を教えてくれ。生きるよ。生きるけど、意味を教えてくれ』
「……」
冷たい言葉をぶつけ続けるととうとうウォーキートーキーは無機質なカメラアイを明滅させたまま黙ってしまった。
自分は人間だが、ウォーキートーキーは機械だった。
『寝る』
「…ハイ。おやすみなさいマセ」
その日ガロアは抗生物質を投与した後に久しぶりにベッドで寝た。
一度は生命を手放しかけた経験は、生への欲求の再確認となった。
だが生への欲求はあってもその意味は分からなかった。
ガロア10歳。まだまだこの深い森での孤独な戦いは続いていく。
愛しているという言葉はガロアにとってこれ以上ないほど大切な宝ですが同時に人生を大きく縛る強烈な呪いにもなりました。
この時点ではまだアナトリアの傭兵を恨んではいません。殺した殺されたなんて普段から自分もやっていることだからです。
とはいえ、人間と動物を同じように考えているガロアは純粋なのか危険なのか…。
ガロア君の後の搭乗機になるアレフ・ゼロとは数学用語なのですが、ℵ₀とかNとかで表されます。
ガロア・A・ヴェデットという名前はGalois A Vedettと書くわけですが…名前の由来はサーダナがぶつぶつと語っていましたが、名字はどう決まったのかなというとですね。
アレフ・ゼロを表すNとA Vedett を並び替えるとVendetta(復讐)になります。復讐ありきの主人公です。恐ろしい恐ろしい。
これからガロア君が怒りや嫉妬、狂気に取りこまれて獣へと堕ちていく姿をお楽しみください。