エピローグ 龍燈が告げた始まりは

 九月二十九日、日曜日。あの一件から六日が経っていた。

 燈真たちは柊の奢りで焼肉を食べるということで、村にある焼肉屋『狐苑亭こえんてい』に来ていた。

 なんでも店の願掛けの際に野生の狐がやって来て、どんぐりを置いていった——そんな話がこの店にはあるらしい。昭和二十四年創業の、東洋焼肉店としては老舗である。


「おっ、柊様じゃないですか。どうしたんです?」


 店主の禿頭にねじり鉢巻の人狼が笑いかけてきた。髪はないのに耳と尻尾はもふもふなんだな、と病み上がりの燈真はかなり失礼なことを考える。

 それを読んだように椿姫が小突いてきた。


「何、若いのが頑張ったでな。美味いものを食わしてやろうと。燈真がリクエストしたというのもあるが」

「えっ、マジ? 燈真いなかったら焼肉じゃなかったの⁉︎」


 椿姫が目を丸くして燈真の肩をばしばし叩く。調子のいいやつめ。


「席は空いておるかな」

「座敷が空いてます。いやいや、まさか柊様が来るとは……いい肉がありますよ」

「おう、それが聞きたかった。あと酒だ。一杯目はビールがいい。生大ジョッキ」


 柊が指を振ってオーダーした。燈真たちは「どの店行っても酒だよな」と囁き合う。

 座敷席に上がり、燈真は自分の履物を揃える。脱ぎ散らかす者は流石にいない。幼い菘や竜胆、一見雑そうな光希もしっかり揃える。


「なあ燈真、いつ焼肉なんてお願いしたんだよ」

「オロチと戦う前。寿司か焼肉がいいっつったんだよ」

「へー、じゃあ次は寿司? 俺大トロバカ喰いしたい」

「ならばまたデカいヤマをこなすのだな。しかし、燈真が三等級に特進か」


 柊が女性の店員が運んできたビールを前にそう言った。車を運転する伊予は酒を辞している。彼女はこう言った場で飲むより、家で晩酌をする方が好きだと言っていた。


「五等級から二階級一気に昇ったんだもんね。私と椿姫が二等、燈真と光希が三等か……なんか感慨深いかも」


 万里恵が冷酒を呷りながらそう言った。見た目は若いが幕末生まれであるため、別段万里恵が酒を飲むことは人間に照らし合わせても不思議ではない。

 かくいう椿姫、光希もビールを飲んでいるし、燈真はまだ「人間的」な思考が拭いきれず、酒は断っていた。

 が、椿姫が中ジョッキを頼んでいて、それを差し出してきた。


「十六なんだけど、俺」

「妖怪でしょうが。私たちは血をこえて絆を結ぶとき、盃を交わすものよ」


 確かにもう妖怪だ。人間の法からは逸脱している。これからは、妖怪の掟に従って生きていくのだ。

 実際、すでに役所に燈真の戸籍についての申請が出されていた。人間という扱いから妖怪への変更手続きだ。

 燈真には人間としての生に未練はない。自分が何者であれ、最強の退魔師になり、他ならぬ己のために身の潔白を証明すると決めたからだ。

 そのためにこの手を殺妖さつじんに染めたのだ。たとえ相手が呪術師であれ、その事実は変わらない。


「そうだな……うん」


 燈真はジョッキを掴んで、口をつけた。

 綿毛のような白い泡の下にある黄金色の液体を、叩きつけるように二口ほど嚥下した。


「どうよ、妖生初じんせいはつのビールは」


 椿姫が機嫌良さそうに聞いてきた。燈真は顔をしかめ、「苦い」とだけ返事をした。


「ガキみてーな反応だなあ燈真。俺くらいになればこの苦さが癖になってくるんだよ」

「燈真君、無理しなくていいのよ?」

「いっき、いっき」

「菘、変なこと言わないの。僕だって気になったけど」


 気になるのかよ、と燈真は苦笑した。

 程なくして、頼んだ肉が運ばれてくる。


「伊予、妾のを焼いてくれ」

「自分で焼きなさいな。いい、私の取ったら許さないからね」

「むぅ……これでも妾は神に数えられるほどの、文字通り神獣妖怪なのだが……」

「神様ってんなら仙人みたいに龍脈のエネルギーだけで生きていけるんじゃね」

「光希よ、龍脈ではなく霞だ。餐霞さんかと言ってな、仙人は霞で生きていけるのだ」

「じゃあ柊だって霞で……」

「馬鹿もん妾は神だ。食わねば死ぬ」


 光希はハラミを網に乗せ、焼き始めた。燈真もホルモンを網に乗せ、菘のために上カルビを焼く。


「待ってろ、俺が肉を育ててやるから」

「もつべきものは、あにきだな!」

「僕もその兄貴なんだけどね、菘。はい、野菜も食べな」


 竜胆がボウルからシーザーサラダを取り分けて、オリーブオイルをかけて菘に渡す。


「むぅ……きつねだから、おにくだけでも……」

「いいから食べる。そんなんじゃ体臭がキツくなるぞ、菘」


 竜胆が女子には結構キツいひと言を放った。が、肉ばかりでは臭くなるのは事実である。だから燈真も肉だけでなく、魚や野菜を食べるのだ。彼とて思春期だから、体の匂いは気になる。

 燈真は石焼ビビンバをかき混ぜ、コチュジャンをかける前に菘に「一口食ってみるか?」と聞いた。彼女は野菜を飲み込んでから「たべる」と頷く。


 燈真は実家にいる弟のことを思い出す。

 恨みたくても恨めない、無邪気な弟。彼も義母の甘ったるいお菓子が大嫌いだった。だから燈真が黙ってスナック菓子をこっそり食べさせてやったりしたものだ。


「どうしたの、とうま」

「悪い悪い。あっついから、フーフーしろよ」

「はーい」


 菘にスプーンを渡すと、彼女は小さな口でふぅふぅ息を吹きかけ、ハフハフ言いながら食べ始めた。

 満面の笑みで「うみゃーい」とご満悦の言葉を漏らす。


 燈真はスプーンを受け取り、コチュジャンを振りかけた。それが石皿と接触して溶岩のように爆ぜる。

 菘が口をつけた程度のスプーンなので、特段ばっちいとは思わない。見ず知らずの他人なら間接キスが嫌になるが、それこそ盃を交わした家の子である。それに、一緒に風呂に入るほどの仲だ。今更である。


「あ、わっちとかんせつのチュウだ。ファーストチュウだね」

「間接キスはファーストキスに含まれませーん」


 燈真はきっぱりそう言った。ちなみに燈真の初キスはまだである。


「お前って辛いもん好きだよなあ。味覚障碍だったりする?」

「そんなわけねえだろ」


 光希の失礼な一言にムッと返す。

 菘のカルビに火が通ったのを確認し、仕切り皿のタレが入っていないところへ乗せた。


「えへへ、おひめさまになったきぶん」

「俺は家来か?」

「んー……ぶし、かな」

「御恩と奉公だな」


 そんなことを言いながら、燈真はホルモンの焼き加減を見つつ鶏肉を二つ乗せた。


「ちょっ、椿姫それ私のカルビなんだけど!」

「御恩と奉公でしょ。御恩にサラダあげるね」

「肉の代価としては釣り合わないでしょうが!」


 椿姫と万里恵は相変わらずである。


「光希、僕は自分で焼くからいいよ」

「気にすんなって。俺だってお前らの兄貴分だぜ。そーいやさ、氷雨さんが帰ってくんのはいいけど、澪桜みおは? あいつにも会いてえな」

「澪桜?」


 聞き慣れぬ名に、燈真は質問した。光希が答える。


八十神澪桜やそがみみおだよ。あいつ、元は退魔局の工場作業員だったんだけど、訳あって妖巧あやくり義体のサイボーグになったんだ」


 妖巧とは、妖力で動くカラクリのことである。妖巧義体——つまり、妖力式のサイボーグということだろう。

 しかしそれよりも重要なのは、八十神という苗字だった。燈真は若干前のめりになって光希に聞く。


「ひょっとして、八十神玲奈やそがみれなさんの弟さんか⁉︎」

「詳しいな。なんで知ってんだ」

「オルタナロックの歌手だからだよ! 俺、何曲も落としてんだぜ!」


 オルタナ——オルタナティブ・ロック。メジャーな産業ロックに反するような志向で書かれたロックナンバーの曲だ。あるいはインディー・ロックとも取れる。

 これについてメジャーデビューした八十神玲奈はオルタナではないとする向きもあるが、彼女はそもそもそういう議論にさえ興味がなく、己の本能の赴くままに曲を書いているのだ。いわゆる打ち込み系で、もともと同人活動をしていた草の根歌手だった。

 燈真はディスク版から、今のダウンロード版に至るまでいくつも曲を持っている。すでに廃盤になりDL版さえないものは、残念ながら所持していないが。


「へ、へえ……」


 食い気味の燈真に光希は若干引いていた。


「とうまのホルモン、こげてないかな」

「あっ、やべっ」


 燈真は慌てて網を見た。ホルモンは焦げる寸前、いい具合に焼き目がついていた。

 ついでに鶏肉の様子を見て、さらに肉を投入。話すのはほどほどに、焼いて食べることに集中しよう。


 食べて、焼いて、ちょっとしゃべって食べる。ビールの中ジョッキを減らすのにだいぶ苦戦したが、燈真はそれでも一杯空けてやはり食べることに集中した。

 そもそも食べ盛りであることに変わりがないので、燈真は酒よりも肉だった。

 菘の肉も焼いてやりつつ、ビビンバがなくなったら白飯を大盛りでおかわりし、また食べる。

 大食いである燈真が、種族的に見て大食漢が多い鬼に覚醒すれば、何をか言わんやである。馬食とはまさにこのことで、肉を追加で次々頼まねば、他の者が食えないほどだった。


「よう食うやつだ。幸い、飯代には困らぬほどに妾は蓄えておるでな、存分に食うといい」

「山の土地だけじゃなくて土地の木とかの所有権までぜーんぶ買うような奴が何言ってんだよ」

「光希よ、無駄遣いと投資を同じにしてはならん。あの山があるおかげでお主らの鍛錬にもなるし、この時期には山菜取りや猟にも出れるのだ。そろそろ猟の時期だし、伊予が鹿でも取れば家で焼肉ができるぞ。しかも野菜だって山で取れるし、米は農家と肉を交換すれば手に入るな。ガハハ、タダで焼肉が食えるではないか」


 酔っているのか気分がいいのかやたら長広舌だ。

 女の話が長いのは古今東西同じで、女が喋っている間男は黙って聞くというのも、お決まりだ。人間も妖怪も同じである。女を怒らせると怖いのは、妖狐も人間も全く同じであった。


「猟銃って危ないから使いたくないのよねえ……私は罠で仕留めるからいいけど」

「猟銃免許も持ってんだ……」


 燈真は菘の皿に何度目かの鶏肉を置きつつ声を漏らした。

 妖怪でも銃を持つんだな、という意外な発見があったのと、おそらくみだりに術を使って退魔局に警戒を抱かせないためだろうと自分で納得もしている。


「ええ。ライフル銃のね。弾は使う時以外買わないし、本体も蔵のロッカーに入れてあるけど。私たち妖怪だって、油断してたら大怪我しちゃうからね。まして事情を知らずに山に誰か入ってきてたらって考えると、罠の方がまだ安全でしょう?」

「確かに……」


 流れ弾が、万が一にでも人間に直撃すればおしまいだ。ゲームや漫画じゃないのだ、手足に当たっただけでも失血死、あるいはショック死である。頑丈な肉体と生命力を持つ妖怪ですら、胸や頭が吹き飛べば死ぬ。

 そう思うと、人間が生み出す銃火器は妖怪にとっては歪で恐ろしい暴力装置に見えるに違いない。


「僕もうお腹いっぱい……食べらんない」

「わっちも、このおにくでさいごにする……でもデザートはべつばらだからね、えへへ……」


 竜胆と菘がリタイア。間も無く椿姫と万里恵も「あとはケーキだー」と言って合掌した。

 柊と伊予が「そろそろ締めにするか」と言った頃、燈真も卵スープと小ライスの雑炊を平らげ、満腹感を抱いていた。

 テーブルの上は空き皿でいっぱいだが、綺麗に食べられている。米粒一つ残さぬ徹底ぶりだ。


「ほれお主ら、デザートを決めよ。妾は酒が回って食えそうもない」

「俺は甘いもんでもアイスなら食える」

「わっちはねえ、モンブランがいいかな!」

「僕はチーズタルト!」

「俺はフルーツタルトかな」

「私はロールケーキがいいかなあ」


 椿姫と万里恵があーでもないこーでもないとたっぷり五分悩んだ末、


「「モンブラン!」」と言った。


 それらを頼んで、燈真が頼んださつまいもソフトクリームをはじめ、各々のケーキを前に舌鼓を打つ。

 蜜のようにとろけたさつまいもをトッピングしたソフトクリームは、はっきり言ってこの上なく美味い。蜜芋の天然の甘味と、なぜかこれだけは美味しいと感じる冷たいソフトクリーム。芋自体はあったかいのだが、これがまた箸休め的に舌が疲れず、冷たいソフトクリームを食べる合間に齧ると味覚と温度に変化が出て、食べていて楽しい。


 やがてデザートを食べ終えると、酔っ払った柊に肩を貸すことになった燈真は酒臭さに閉口しつつ、伊予が会計を済ませるのを待った。

 口直しの飴玉を貰い、燈真は食べられないそれを「今日はいっぱい食ったから、明日な」と言添えて菘に手渡した。


 夜風を浴びながら車に乗り込む。魅雲湖沿いなので風が湖面で冷やされ、涼しい。

 そういえばここで龍神様に予言されたのだ。悪い水、悪い流れ。それを食い止める新しい水の流れ。


 果たして悪い水の流れとはオロチだけを指すのだろうか。

 燈真にはあれが、始まりにすぎないように感じられていた。

 より大きな戦いの——もっと大きな呪術師との戦いの火蓋ではなかっただろうか、と。


「燈真よ」


 柊が酒でとろんとした目を湖に向け、言った。


「察しておるなら、明日からも鍛錬に励め。今のお主にできるのは、それだけだ」




 ——龍燈が告げた始まりは、あるいは百鬼夜行と逢魔時やも知れぬ。

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