ディープ・フェイク

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私は時々、目の前で見ている事とは関係ない心の世界に入ることがあります。きっかけは、疑問の対する答えを祈りで求めたことなどという気がするのですが、忘れた頃にやって来る、という感じなので、特に自分が求めたからとは言い切れないところがある経験です。

 

今朝もそんな体験があって、その後、1時間ほど仕事の会議に参加すると一旦は普通の世界に戻るのですが、祈るともう一度、何を感じていたのか思い出します。

 

私は文顯進会長のお話を聞く時に、答え合わせのような事を体験します。アダム的人物というのは4人しかいませんし、私はカイン的人物であるので、アダム的人物と同じ事を神様から頂くということはできません。これは、今読んでいる方達にも、これは共通することです。でも、アラインメントというのをすることはできます。

 

自分の考えと、アラインメントというのは違います。アラインメントという事を感じるようになったのは、文顯進会長の下で働くようになって7年ほど過ぎた後でした。

 

先日、韓国で、文顯進会長は、「メンバーは、pick and choose(選り好み)して、信じている」と、一言スピーチの中で言いました。例えば、文鮮明師のお話で言えば、文師は、神様、真の父母、真の家庭、などという天聖経の中のタイトルを見てもわかるように様々なお話をされ、さらに海洋産業や新聞社、政治、経済、歴史など、幅広く大量のお話をされました。

 

その中で生涯の教えの要約となったのが、平和メッセージ1であり、文家三代を動員して、全世界でそのメッセージが伝えられました。分裂の後、文顯進会長は、このスピーチを何度訓読に使われたかわからないほど訓読されました。このメッセージには、アダム的人物しか語ることができない内容があります。でも、同じレベルで、その重要性がメンバーに感じられたかというと、そうではないと思われます。

 

世の中でも、ディープ・フェイクというのがあります。情報はあふれ、ソーシャル・メディアでも、コンピューター操作された写真があふれていて、美しい景色も、コンピューターが作り上げたものが多いです。そのようなものがあふれると、本物の写真を見ても、素晴らしさがわからなくなるかもしれません。また、実物を目の前にした時の感覚は、写真からは想像できないものです。

 

神様は、アダム的人物を通して成し遂げなければならない御旨を持っています。それはとても縦的なものです。真理というものも本来、縦的なものです。

 

世の中は、新しい真理に見えるものや、霊的啓示に見えるものにあふれています。例えば、独生女思想もその一つです。

 

今朝は、世の中がディープ・フェイクであふれているのを、客観的に眺めるような思いをしましたました。「わからない」ということが増えるのも、避けるのが難しいことなのかもしれません。自分の思いでも無いような心で、感じてみるというのも有意義なことがあります。そんな朝でした。

 

でも、神様は確実に、何が歴史の中で正しい側なのかを教えています。日本で、統一教会の解散請求が間近となっているのも、その一つであり、U C I裁判が文顯進会長の完全勝利となったのも、また一つです。同じ時期に、パーク・ワン事業の主人公として、文顯進会長がメディアに登場したのと対比できます。でも、ディープ・フェイクがあふれるような中で、統一教会にいながら、本物を見つけることができるでしょうか?

 

 

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