私は個別に意見に応えるという事はほぼしないですが、ブログを通じて、意見に対する応答を、内容を広げることで、より多くの方の思いに応えて書くという事はしています。

 

今回書くのは、「あなたの書いている内容は、被害弁連やメディアの言う内容に似ており、共産主義の思想を持った彼らと一緒に家庭連合を批判するべきではない」という意見を参考にして、です。

 

大事なのは視点と焦点です。果たして、私が書いていることが、共産主義思想を持った人たちと同じ視点と焦点でしょうか?

 

私がブログやメールを始めたのは、2010年位からでした。ごく最近に至るまで、統一教会の方達は、私のような人が何を書いても、気にも留めなかったはずです。神学的内容においては、その頃も今も変わりません。変わったのは、統一教会を取り巻く状況です。特に安倍元首相の殺害以来、大きく変化しました。

 

では、その変化は、天の審判として見るべきなのでしょうか、それとも不当な迫害と見るべきなのでしょうか?統一教会から見れば、不当な迫害であると見える事でしょう。本当に不当な迫害でしょうか?

 

神学的に説明すると長くなるので、神学的説明はこの場ではしませんが、特に2009年の分裂以降、統一教会の幹部はとても大きな罪を犯し、教会員はそこに引き入れられました。そのような事態は、選民が審判を受け、分立される状況を招きます。

 

原理講論の中では、ユダヤ民族における南北王朝分立時代と、キリスト教における東西王朝分立時代の節があります。両時代とも、選民が堕落と腐敗に陥り、内的刷新運動によっても悔い改めなかった時に、神様が選民を異邦人に引き渡して、外的な粛清をされた時代です。

 

今の時代が、その両時代に完全に対応するというのではありませんが、選民が堕落と腐敗に陥り、内的刷新に耳を傾けなかった時に、どのような事が起きるかを示しています。選民の目には、異邦人が悪魔のような存在に映ったかもしれません。しかし、原理講論は、「神は彼らを異邦人に引き渡して、外的粛清の摂理をなさった」と言っています。

 

統一教会員でない方が私の書いた文章を見れば、意味をなしていません。なぜなら、文章のほとんどは、「内的刷新」に相当する内容に費やされているからです。その「内的刷新」に相当する内容が伝えることの中心です。「外的粛清」に関する内容は、「内的刷新」への導入に過ぎません。

 

前回の記事でも、私自身が連帯的罪と贖罪の必要性を受け入れたという内容を書きました。その認識は、安倍元首相が殺害されて、日本の状況が変わるずっと以前からありました。

 

日本のメディアや被害弁連が語っている事が全て正しいのではないというのは、皆さんよくわかっているはずのことです。それは私も同じです。

 

では、統一教会と祝福家庭がしてきた事が全て正しかったのか、と言えば、それは違います。大きく間違ったのです。

 

何が間違っていたのか、を考えるための部分が、「内的刷新」に関する部分です。

 

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