10月2日の国際会議での基調演説で、文顯進会長は、「コリアン・ドリームに根差し、一つになった声の音は、エリコの壁を崩した、ヨシュアのイスラエルの民のトランペットの音のように、半島を分断する38度線にこだまするでしょう。」と語り、演説を結んでいました。

 

ヨシュアは、カナンに偵察に行った12人の中で、使命を完遂した2人のうちの一人でした。その時にヨシュアは以下のように報告しました。

 

「わたしたちが行き巡って探った地は非常に良い地です。もし、主が良しとされるならば、わたしたちをその地に導いて行って、それをわたしたちにくださるでしょう。それは乳と蜜の流れている地です。ただ、主にそむいてはなりません。またその地の民を恐れてはなりません。彼らはわたしたちの食い物にすぎません。彼らを守る者は取り除かれます。主がわたしたちと共におられますから、彼らを恐れてはなりません」

 

これに対して、偵察から戻った他の人たちは、「わたしたちはその民のところへ攻めのぼることはできません。彼らはわたしたちよりも強いからです」と言い、ユダヤの民は、それを信じて、「ああ、わたしたちはエジプトの国で死んでいたらよかったのに」と泣きました。

 

私たちは祝福家庭であり、使命がある人たちです。そして、今は、文顯進会長が真の父母として出発することを宣言した時代です。祝福家庭には、「真の父母」と聞けば、絶対的に内外共に一つになろうと思った時が、文鮮明師の存命時にはあったはずです。では、今、そのような信仰と心情が、文顯進会長に対してあるでしょうか?

 

私はもともと知的で分析的に考える傾向があり、信じるだけで一直線に走るタイプではありません。しかし、今は、信じて一つになることの大切さを感じています。

 

統一教会においては、もちろん、文顯進会長は親不孝な泥棒のような人と見なされています。信じて一つになることを語ることすらできません。今は、統一教会員であることと、祝福家庭であることは別々のことです。

 

では、統一教会員ではない祝福家庭にとって、文顯進会長と一つになるのは簡単なことでしょうか?私は文顯進会長の下で働くようになってから約7年葛藤した経験から、決して簡単ではない、と思います。

 

何が障害物になりやすいかと言えば、それは自分というもの、エゴです。堕落性の真ん中にあるものです。文顯進会長が真のアベルとして立った時、統一教会のリーダー達はカインの位置にありました。彼らが引っかかったのも、多くの場合、この課題です。文顯進会長に認められ愛されているうちは喜んでいても、否定されると自己主張し、一気に反発と攻撃に転じるという例も、繰り返し見たことです。

 

真の子女とのアベル・カイン関係というのは、最終的とみなせるアベル・カイン関係ですが、その訓練段階として、祝福家庭は自己犠牲と自己否定の訓練を受けています。自己犠牲は比較的やさしいですが、多くの人が引っかかったのは、自己否定です。

 

アベルである実子に対して、祝福家庭がカインとして復帰される、というのは、祝福の基本でもありますから、リーダーだけでなく、祝福家庭一人一人に与えられた課題であるという事にもなります。

 

今の時代は、アベル・カインが正されて立てられるというところから、さらに文顯進会長が真の父母として出発し、さらに、国家的、世界的次元の仕事をするという、とても圧縮された時代です。

 

以下は、文鮮明師が語られたお話です。

 

「先生は、もう一次アダムの根、二次アダムの根を皆持っています。それゆえ、皆さんは第一アダムと第二アダム、第三アダムを接ぎ木さえすれば、すべて終わるのです。分かりますか、何のことか? 根が一つです、根が。

 

それで愛と、何ですって? 三つが何ですか? 愛、生命、その次には何ですか? 血統です。縦横の神様の愛が生命の交流をすることによって、血統が生まれたのです。

 

それゆえ、皆さんは、誰よりも先生を愛さなければなりません。誰よりも真の父母と一つになければなりません。真なる愛を中心とした血統であるために、そこには相続権があり、同位権があり、同参権があるのです。分かりますか? それでサタンが接近することができないのです。(天聖経)」

 

天聖経には、約180回、接木という言葉が出てきて、ここにも、接木という言葉が出て来ますが、その根本的意味には、サタン的自己に対する否定に根本があると理解します。ですから、根っこまで自分が切られて、接木を受けるというお話が、天聖経にも出てきます。これが、神山会長がダンベリーから出られた後、文鮮明師に教わった事として、伝えたことでもありました。

 

今は、第4アダムの時代です。文鮮明師が語れば、このお話の通りにするべきだと理解する心が祝福家庭にはありました。この基準を、文顯進会長に対して持てるでしょうか?その基準を持って、エリコの壁を崩した信仰に挑戦できるでしょうか?世の中では理解されないでしょうが、モーセの物語において、偵察に失敗した人たちに象徴される人のようになるのではなく、偵察に成功した人たちの象徴される人たちのようになるのが、私たちの目指すべきものと考えます。

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