リゼロEX 『ゼロカラミマガウイセカイセイカツ』
恒例のエイプリルフール企画です。
本編のパラレル内容となっておりますので、ちょっとおかしな感じです。
何が違うのか、果たして賢明なる読者の皆様に見抜けるでしょうか。
では、もしよろしければまたあとがきでお会いしましょう。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
――これは本気でマズいことになった。
一文無しで途方に暮れながら、心中はそんな諦観で埋め尽くされていた。
もっとも、一文無しというのは正確ではない。ポケットに財布は入っているし、中身も小銭やポイントカードの類が多いことを除けば、まぁ人並み程度だと思う。
少なくとも、アルバイトもしていない高校生の所持金としては平均ぐらいだ。
それでも、一文無しと呼ばれることになるだろう状況――というか、実際に一回そう呼ばれて、自分でも想定外のダメージを受けた。
お金がないことが人の心を貧しくする、という話は聞いたことがあったが、それがまさか他者にまで適用されるとは知らなかった。
いずれにせよ――、
「やっぱり、貨幣価値とか全然違うんだよな……」
手の中の十円玉――いわゆる『ギザ十』を弄びながら、そんな嘆息が漏れる。
特別希少なギザ十というわけではなく、たまたま見つけて財布の中に取って置いたぐらいの代物。それでもいつか、白馬の王子様の如く手助けしてくれる瞬間があるのではと期待していた。しかし、その期待は空しく裏切られた。
まさしく十円分、傷付いてしまうグラスハート。
「――――」
傷付くグラスハートと言えば、周囲から向けられる無遠慮な視線もその一端だ。
じろじろと、物珍しい珍奇なモノでも見るような視線の数々、それが先ほどからどこへいっても付きまとってくるので、それがとても煩わしい。
それほど目立つ容姿ではない、と思う。
目つきの悪さを指摘されることは多々あれど、それ以外はいたって平凡な人間だ。
染めていない黒髪に、学校指定のものではない部屋着のジャージ――まぁ、部屋着を外で着ていることを悪しと言われるなら、気を抜いていたので謝罪会見を開く覚悟。
もっとも、謝罪会見もまともに聞いてもらえる自信はなかった。
なにせ――、
「つまり、これはあれだな」
腕を組み、首を傾げたすぐ真横を、大きな音を立てて回る車輪が通り過ぎる。その車輪の本体たる馬車を引っ張るのは馬ではなく、何の冗談かでかいトカゲだった。
他にも、こちらをじろじろと眺めてくる無遠慮な視線の持ち主たちは、いずれも渋谷のハロウィンかと思うぐらい気合いの入った仮装の人々――否、実装だ。実装ってなんだ。
この場合の実装って何なのか、そんな疑問を空に描きながら、認める。
「――異世界召喚もの、ということらしい」
指から弾かれたギザ十が、軽い音と共に回転しながら憎らしい青い空へ打ち上がった。
△▼△▼△▼△
――菜月・昴は平成日本生まれのゆとり教育世代で以下同文。
つらつらと、この場でスバルのさして特筆する点のない人生を語る意味はない。
押さえておくべきポイントは、スバルが高校生で、ちょっとした理由で不登校気味で、コンビニにいった帰りに見知らぬ世界に迷い込んだ。それだけでいい。
「それだけで説明できてしまう、なんてお手軽な異世界召喚……」
お手軽もお手軽、トラックも不要、瞬き一つで迷い込める異世界だ。
免許もいらないのだから、十八歳以下も命の心配なく安心して異世界へ突入できる。ただし、異世界行きは片道切符で、現地到着後の自由時間がひたすら長い。
中学高校と、修学旅行で一緒に行動する相手がいなかったせいで、自由時間をずっとゲームセンターで過ごしたスバルにはなかなか過酷な状況だ。
「この世界、ゲーセンなさそうなんだよな……いや、元の世界でもゲーセンはどんどん廃れて閉店に追い込まれてる状況なんだけども。みんな、もっと外でゲームしようよ」
ひょっとすると、スバルの知らないところでゲームセンターに代わる、外でゲームをする環境が整っている可能性もあるのだが、そこは無視だ。
あるいはオンラインゲームとか、外に出かけなくても人とゲームのできる環境が過疎化の一端を担っているのかもしれない。スバルはオンラインやらないのでわからないが。
「人とゲームしてると、負けず嫌いが発動して死にたくなるから」
などと、昨今のゲーム事情を嘆いていても、スバルの事態は改善しない。
結局、無一文状態で異世界に投げ出され、行く当てもない状況は変わらないのだ。
「幸い、言葉は通じるのを確認したし、文明レベル的にもいきなり野垂れ死にって線は避けられそうかな……?」
言いながら、虚空に『ステータスオープン!』と念じてみるが、何も見えない。
どうやらステータスが見られる系の異世界転移ではないらしい。
「そもそも、手違いでこの世界に送り込んだ神からの謝罪もないし、召喚してくれた美少女の姿も見当たらないし、ちょっと手抜かりが多いぞ……あ、ヤバい」
指をワキワキと宙で動かしながら、状況認識を続ける瞳がじっとりと潤んできた。
異世界で現実逃避するという二重の世界剥離を続けていたが、確認事項がなくなってきたせいではっきりと自分の立場を自覚し始めてしまった。
このまま放っておくと、思わずここで涙そうそうしてしまいそうになる。
往来で泣き喚く高校生なんて、地元紙の端っこを飾りかねないみっともなさだ。
それを周りに見られることを恐れて、スバルはそそくさと大通りを外れて路地へ滑り込む。そこで壁に額を当てて、「う~」と鼻を啜った。
自分が親不孝者の自覚はあったし、それはそれで死にたくなる情けなさだったが、ちょっとこの方向で親不孝を重ねるのは予想外だった。
いくつになっても家を出ていかず、両親に自分たちの老後の心配をかける。
予想していたのはその方向だ。――否、その方向をしっかりとイメージしたのも今が初めてだったので、そうならなくてむしろマシだった気さえしてくる。
いっそ、自分がいなくなったあと、仲睦まじい両親が幸せに暮らしてくれれば――、
「――う?」
と、そんな益体のない思考で涙をせき止めようとしていたスバルは、不意に聞こえた鼓膜に残る音に顔を上げた。
その視線が向いたのは、今いる路地の入口だ。大通りに面した路地の入口だが、往来の人々の姿がこの瞬間は見えない。――三人の人影に塞がれていた。
路地に現れた人影、それが壁に額をごっつんこするスバルを眺めている。
無遠慮な視線は通りで浴びたものと同じだが、それよりも野卑なものに思えるそれは、もっと明確な害意を孕んだものだった。
すなわち――、
「やべぇ、強制イベント発生だ」
湧いた涙も即座に渇き、スバルは内心の動揺を隠して相手に向き直る。
心臓がバクバクと跳ねている。ちらと見れば、路地の奥は高い壁がある行き止まり。なんでこんなところに入り込んだのかと、自分の危機意識の低さにビックリする。
たとえ現代日本でも、暗い夜道は気を付けろと口を酸っぱく言われているのに。
「いや、怖気づくな怖気づくな。確かにステータス画面は開かなかったけど、まだ色々と諦めるには早い……! 異世界モノなら、ここから無双の展開が十分ありえる! やれるぞ、やれるぞぉぉぉ……!」
「なーんか、ブツブツ言ってるよ、アイツ」
「状況がわかってないんだろ。教えてやったらいいんじゃないか」
無理やり気分を盛り上げるスバルと対照的に、相手の態度はどこまでも冷たい。
あっちからすれば、所詮スバルはか弱い獲物で、自分たちが一方的に狩りを主導する狩猟者の気分なのだろう。三体一だし、わからなくない考えだ。
わからなくない考えだが――、
「おっと、調子づいてられんのも今のうちだけだぜ。言っとくけど、こういう道端で絡まれたときの対処法をシミュレートするのは日常茶飯事だ。バッタバッタとなぎ倒して、明日の糧にしてやる、経験値共め……!」
「何言ってんだかわからねえけど、アタシらを馬鹿にしてんのはわかった。ぶち殺す」
「そりゃ……こっちの台詞だ!」
先手必勝、その考えが稲光のように駆け巡り、スバルの足が地を蹴った。
そして、不意を打たれて目を見開く三人組、その先頭の相手の鼻面にスバルの拳が叩き付けられ――、
「――ッ! やってくれたじゃねえか、テメエ」
「あれ? そんな感じ?」
スバルの拳を鼻で受け止めて、のけ反った相手の目が怒りに燃える。
おまけに、殴ったスバルの手の方もめちゃめちゃ痛くて、むしろそっちの痛みの方で涙目になりそうな塩梅。
しかし、そんなのはスバルを襲う悲劇の序章に過ぎなかった。
「おい、こいつを押さえろ! 本気でぶちのめしてやる!」
「え、あ、ちょ! 待った待った! 思ったのと違う!」
殴られた一人の指示で、残りの二人――小柄と大柄の二人が腕を伸ばし、あっという間にスバルが囚われの身に、壁に押し付けられてしまう。
何とか身じろぎするも、二人がかりで押さえ込まれてびくともしない。
「さあ、覚悟しな。舐めた真似してくれた代償はでかいよ」
そう言いながら、スバルに殴られた中背――三白眼の、スバルに負けず劣らず目つきの悪い細身の『女』が、その長い舌を見せながら迫ってくる。
その女の意見に同調するように、大柄と小柄の二人の『女』も嫌らしく笑う。
それを見て、スバルは自分の置かれた状況の最悪さを理解し――、
「すみませんアタシが全面的に悪かったですどうか命だけは――!」
と、ナツキ・スバル十七歳、乙女のピンチに必死に高い声で命乞いしたのだった。
△▼△▼△▼△
両手両足を押さえつけられ、抵抗できない状態に追いやられたナツキ・スバル。
そんなスバルの様子を眺めながら、三白眼の女は殴られた鼻を手でこすり、わずかに流れる鼻血をスバルのジャージに擦り付けた。
そして――、
「黒髪黒目に珍しい格好、その手に提げてる袋もなんだ? こっちは殴られてんだ。ちっとは金になってくれなきゃ大損だよ」
「ど、どうかなぁ……ほら、せっかくの服も今まさにあなたが鼻血付けちゃったし、ちょっと価値が落ちたかも……あ! め、珍しい東洋人、傷付けない方が高く売れるんじゃないかなってアタシは思ったり……ぐえっ!」
「うだうだと口数の多い女は好きじゃねえ」
抗弁する口を、鳩尾にねじ込まれた硬い感触で黙らされる。
よく見たら、いつの間にか三白眼の女の手にはナイフが握られていた。一瞬焦るが、スバルの胸を抉ったのはナイフの柄だったようだ。
刺されてはいない。でも、いつでも刺せるという意思表示でもあった。
サーっと、自分の体から血の気が引いていく。
本気で、本気でヤバい状態に置かれたと、そのことで意識が白んでいきそうに。
「ちょっとどけどけどけ! そこの奴ら、ホントに邪魔!」
その瞬間、怒涛の修羅場を断ち割るような声が路地に響き渡った。
弾かれたようにスバルたちが顔を上げれば、声の主は路地の入口から、こちらに向かって猛然と走ってくるところだった。
それは、金色の髪をなびかせた小柄な少年だ。
意思の強そうな赤い瞳に悪戯っぽい八重歯、やや小生意気そうな顔立ちは、磨けば光る資質を感じさせる生まれつきのものだ。
その姿に、スバルは物語が始まる予感を覚えて拳を握りしめた。
きっと、義侠心溢れる性格のこの少年が、苦境に立たされたスバルを助けるための切っ掛けと、この異世界冒険譚の新たなるページを開いて――、
「なんかすげー現場だけど、ごめんな! オレ忙しいんだ! 強く生きてくれ!」
「って、ええ!? マジで!?」
が、そんなスバルの期待を足蹴に、少年は囚われのスバルの目の前を通過すると、そのまま一気に行き止まりの壁に跳躍し、器用に取っ掛かりを足場に屋根へ上がった。
そうして、はしっこい野良猫のような挙動で登り切り、颯爽と向こうへ消えてしまう。
消えてしまった。戻ってくる素振りもない。
「今ので毒気が抜かれて気が変わってたりしませんかね!?」
「むしろ水差されて気分を害したぜ。無事に済むと思うなよ?」
ぺしぺしと、ナイフの腹で頬を叩かれ、スバルはごくりと息を呑んだ。
痛めつけるという意思表示にも、あるいはそれ以上の過酷な何かが待つとも言われかねない緊迫感が高まり、スバルは強くもがく。
だが、それは相手の不興を買うだけで、賢い選択ではなかった。
「大人しく、しろ!」
「ぎあ!」
ねじった胴体に蹴りを打ち込まれ、そのまま地面に崩れ落ちる。這いずって逃げようとしても背中に足を乗せられ、すぐに身動きを封じられた。
異世界の洗礼、なんて言葉にすればたったの一言で終わってしまう。
でも、ナツキ・スバルにはそれが全部だった。
このまま、過酷な異世界の流儀に敗北した一人として消えて終わるのか。
何も残せず、何も果たせず、一人で。――死ぬ、のか。
死ぬのは怖い。死ぬのも、怖い。でも、それ以上に怖くて、恐ろしくて、体の震えが止められないのは、何もない空っぽのままで終わること。
何もないままで、スバルは――、
「――そこまでだよ、悪党」
――瞬間、響いた銀鈴の声音が、路地の空気を静謐に凍らせていった。
「――――」
時が止まるとは、このことだ。
実際に時間が止まったわけではない。ただ、その存在が現れた瞬間、あらゆる世界が動きを静止し、その相手を見つめる以外の行動が何もできなくなる。
スバルだけではなく、取り囲む三人組も言葉を失い、立ち尽くした。
そのぐらい、それは規格外の存在感と、目を引きつける美貌の持ち主だったのだ。
美しいと、そう形容するしかない青年だった。
薄暗い路地にあってさえ煌めいて見える銀色の髪、紫紺の瞳には凛々しさと誠実さが光となって宿り、鼻筋の通った面差しにはあらゆる部位が完璧に配置されている。
瞳が、鼻が、唇が、眉が、あらゆる部位が完璧に、美しく造形されていた。
鷹のような鳥の刺繍が入った白いローブを羽織った青年、彼はスバルたちの方を見つめながら、その薄い唇を動かし、
「それ以上の狼藉は見過ごせないよ。――そこまでだ」
そう今一度、眼前の悪行を正すべく、はっきり言い切ったのだった。
△▼△▼△▼△
――その後の出来事は、誰もが思い描く正道の物語だった。
「お、覚えてなよ――!!」
「ただじゃ済まないんだからね!!」
捨て台詞を言い残して、慌てて路地から逃げ去っていくレディース三人組。
それを見送り、安堵したように肩の力を抜く銀髪の青年、それと――、
「一昨日おいでって話だよ。まぁ、やれるものならなんだけどね」
ひらひらと小さな手を振り、逃げる三人を見送るのは鼠色をした喋る猫だ。
長い尻尾を揺らし、宙をふわふわと浮いている猫。愛らしいマスコット風だが、それを見た途端、レディースたちは蜘蛛の子を散らすみたいに逃げていった。
もちろん、直前に見せた青年の魔法――氷の礫を飛ばすという、かなりファンタジー感薄めな実用性重視の一撃、それが効いた可能性が高い。
いずれにせよ――、
「――大切な探し物なんだろ? アタシにも手伝わせてほしい」
「――――」
探し物があり、どうやら路地に逃げ込んできた少年を追っているらしい青年。
行く当てがなく、でも恩人を見過ごす恩知らずにはなりたくないスバル。
両者の目的は一致していないが、同じ方向に歩くぐらいできるはずだ。
そんなスバルの提案を受け、青年は迷い、
「いいんじゃないの? 実際、この調子で王都をうろちょろしてても進展があるか怪しいところだし、人手は多い方がいいよ。弾除けも」
「言い方!」
「――ティンク、そんなに調子のいいこと言わないでよ」
浮いている小猫が口に手でバッテンを作る。それを横目に青年は嘆息し、その美しい横顔に微かな憂いと、いくらかの期待を宿しながら、
「本当に、何のお礼もできないんだよ?」
「見返りは、アタシ自身の一日一善! あと、アタシ史上ぶっちぎりの王子様みたいなイケメンと一緒にいられる権利、それで十分!」
「ちょっと何言ってるのかわかんない」
と、差し出したスバルの手をおずおずと取ってくれたのだった。
そうして結成された新生ナツキ・スバルパーティー。
二人は息の合った連携と、お供の小猫の活躍もあって見事に探し人の居場所を特定、一気に状況を進展し、そしてなんやかんやで幸せに結ばれた――!
「とはならないんだよなぁ、この異世界」
「どういうことなの?」
「大きい街で探し人……人脈と土地勘、必要なものが足りないねってお話」
首を傾げる青年の前、街並みを見渡せる高台でスバルは再び途方に暮れる。
大切なモノ探しとでもいうべき旅路だが、捜査はかなりの暗礁に乗り上げていた。まず運動不足が祟って、歩き回るスバルの足腰がかなりガタついている。
加えて、前述した人脈と土地勘、捜査に必要なモノが足りていない。
もう一個、青年にはとても明かせないが――、
「文字が読めない……」
言葉が通じるので大丈夫な感があったが、街中にある看板や道案内の標識、そういったものが全く読めなかった。
看板に書かれているのは前衛的なアートだと自分を誤魔化していたが、それも長くもつ類の自己暗示ではなかったので、とても残念なことになってしまう。
ともあれ――、
「――それでも、貧民街に当たりを付けられたのは前進だよ」
そんな風に、わずかな進捗をちゃんと喜んでくれる青年はとても優しい。
顔がいいだけでなく、心根まで優しい。異世界の寒風に晒されるスバルとしては、凍える身も心も救われていく気分だ。
最初の印象よりも、接しているとどことなく危うい幼さのようなものも感じられて、眠っていた母性本能がくすぐられる感じもある。
動物番組を見たときぐらいしか働かないことで有名な、スバルの母性本能が。
「ボクはぼんやり相手の心が見えるから言うけど、君はかなり馬鹿だね」
「うっさいな。マスコットキャラなら、もうちょっとオブラートな対応を心がけてくれ。そんなんじゃ魔法少女が育たないよ」
「ボクが育てるのはこの子だけだからね。……そう言えば、まだ君の名前も聞いてなかった。そろそろ、自己紹介ぐらいしておく?」
「自己紹介! 言われてみたら確かに……じゃ、ここはアタシの方から」
寄りかかっていた手すりから体を起こして、スバルは軽く咳払い。
それからその場で指を天に向け、ビシッと腰をひねったポージング。
「アタシの名前はナツキ・スバル! 右も左もわからない上に、天衣無縫の無一文! 何卒、末永くヨロシク!」
「それだけ聞くと絶体絶命って感じだね。うん、それでボクはティンカーベル。ティンクって呼んでね。よろしく~」
ふわふわと浮かんだ小猫――ティンクがスバルの手の中に飛び込んできて、手と体全体とでぶつかり合う握手が実現する。
しかし、とスバルは首を傾げて、
「ティンカーベルって、アタシの知ってる妖精の名前と同じだ。あれ女の子だけど」
「ならいいんじゃない? ボクも女の子だから。メスだよ」
「ああ、そうなんだ」
「それよりも、ティンクを妖精なんて呼ぶのはやめてほしいな。……僕のことはなんて言われてもいいけど、ティンクは」
「え、あれ!? なんか気に障った!?」
手の中でティンクをにぎにぎしていると、何故か青年に寂しげにそう言われる。
長い睫毛が震える姿にスバルは慌てたが、そんなスバルの代わりにティンクが「大丈夫だよ」と気安い調子で言って、
「この子、悪気は全然ないから。妖精も、この子的には褒め言葉だったみたい」
「そう、なの?」
「ええと、そう! 可愛いとか幻想的とか、そういうイメージで……こっちって、あんまり言わないんだ? あはは、ごめん、気を付ける!」
ティンクのフォローに便乗し、スバルは早口でカバーストーリーをでっち上げる。
とはいえ、まるっきり嘘という話でもない。実際、『妖精』は悪い意味で使ったのではなく、この世界のルールがよくわかっていないのも本当の話だ。
と、それを聞いた途端、青年が「そっか」と納得した風に頷いた。それから、青年が不意にスバルと距離を詰め、いい香りにのけ反るスバルの手をそっと握ってくる。
思わず、「うえ!?」と不細工な声が漏れてしまった。
「道理で、綺麗な手をしてると思ったんだ。あんまり力仕事とかしてなさそうだし、髪や目の色も珍しい……うん? どうしたの?」
「ち、近いです近いです目が潰れますいえ眼福なんですけど」
「――?」
自分の美顔に無自覚なのか、美しい凶器をひけらかす青年にスバルはたじたじだ。
そんなスバルの様子に眉を寄せる青年、それもいたたまれない気持ちになるので、スバルは慌ててこの空気を換えるべく、
「こ、今度はそっちの番でしょ? その、君の名前はなんてーの?」
慌てる自分を誤魔化すためにも、スバルはあえて軽い調子でそう聞いた。
しかし、その問いかけに青年は一瞬だけ目を伏せる。それを見て、スバルは自分が何かしくじったかと、あるいはこの美形の名前を知りたがるなんて思い上がったかと、大いなる悩みの大河に突き落とされた気持ちに――、
「――ルナ」
「え?」
不意の青年の呟きに、後悔で溺死しかけたスバルが救助される。
そして、大きく息継ぎするスバルに、青年はその紫紺の瞳を向けて、
「ルナと、そう呼ぶのはどうかな」
名乗っておきながら、何故かそう呼ばれたくない感のある態度だった。
スバルとしても、もっと呼びやすい名字から入ってほしかったところだ。いきなり異性を名前で、それもこんなカッコいい相手を、というのは難易度が高い。
とりあえず、しばらくは二人称で乗り切ろうと、へたれた決意。
そんなスバルと青年――ルナとのやり取りを見ながら、いまだにスバルの手の中に握られているティンクが一言だけ、
「趣味が悪いよ」
と呟いたのは、誰の耳にも届かなかった。
△▼△▼△▼△
「ひょっとして、フォルテの奴かもしれないな。金髪のはしっこい坊主だろ?」
その有力情報にぶつかったのは、貧民街での聞き込みを開始してしばらくしてだ。
ここへきて、ようやくスバルは自分がルナの役に立てたという達成感を得られた。なにせ、この情報の獲得にはスバルの絵心が貢献してくれたからだ。
「これでも一時期、イラストを描いて食っていこうと思ってたこともあるんだぜ。まぁ、自分より上手い人間が山ほどいる現実に折れたけども」
「そう、なのか。でも、これって僕にはすごーく上手に見えるよ」
「そう言ってもらえるのは嬉しいけどね! いや、ホント謙遜とかじゃなく」
言いながら、スバルは探し人――フォルテと、ようやく名前を獲得することができた相手を描いた板切れを背中に隠す。
フォルテとは一瞬の邂逅、それもスバル的に人生最大の危機的状況でのことだ。
おまけに直後にスバル的に人生最大の衝撃の出会いを味わったので、それがあの少年の顔を掻き消していないか若干の不安があった。
幸い、そうはならずにデフォルメされたイラストを描くぐらいの記憶は残されていて、それが今回の情報を獲得する手助けになったというわけだ。
「それにしても、盗品蔵か……絶対、ろくでもないところだよな」
「盗品を売りさばいてる場所って話だし、そうなんだと思う。……あのさ、君はもう十分手伝ってくれたし、これ以上は」
「待った待った待った! 言い出しそうだと思ったけど、それは待った! 危ないってわかってる場所に、それこそ一人でなんていかせられないって! あの妖精……じゃなく、ティンクだっていないんだから」
NGワードを口にしかけて、スバルは慌てて言い直しながらルナに詰め寄る。
ルナと一緒にいた妖精ならぬ、精霊のティンクは捜索の途中で引っ込んでしまった。どうやら活動時間に限界があるらしく、今日の時間は使い切ってしまったらしい。
つまり、ここから先、ルナはスバルがいなければ孤軍奮闘ということになる。
「そんなのやらせられないって。君、思ったよりも危なっかしいし」
「危なっかしいって、君に言われたくないな……あっちにふらふらこっちにふらふらして、僕が割って入らなかったら、あの三人組とも危なかったのに」
「あれはもしかしたら、未知の力が目覚めて……いや、それはないな。アタシの人生、運なら君との出会いで使い果たしたから……」
「――? よくわからないけど、もうずっと不幸ってこと?」
「意味合い的には正しいけど、アタシが気にしてほしいのはそこじゃない!」
スバルの訴えに、頭の上に疑問符を生やしながらルナが首を傾げる。
そのもどかしい反応に、スバルは自分の胸の前で指を突き合わせながら、
「とにかく、アタシは君を放っておきたくないの。一度始めた善行、どうせなら最後までやり通させておくれよ」
「……まぁ、僕もスバルを放っておくのはちょっと怖いとは思うけど」
「おうふ」
「――?」
自然な流れで、特に意識せずに名前を呼ばれてスバルが動転する。
何とか会話はどぎまぎせずにできるようになってきたが、それでもこの天然の美少年に自然と名前を呼ばれることのインパクトは大きい。
しかし、何も彼といたいのは下心ばかりが理由ではないのだ。
「――――」
ルナは、スバルの命の恩人だ。
その後もスバルから謝礼を求めず、それどころか自分の危機的状況を後回しにしてまで助けてくれた。――その、恩を返したい。
それを返さずに安穏と暮らすことは、ナツキ・スバルにはできなかった。
「……僕が前で、スバルが後ろだ。前に出ちゃダメだよ。君は……なんだか、すごーく危なっかしい子に見えるから」
「アタシだって、自分が思ったより非力なのはわかったから。無茶はしない……とと、たぶん、ここが噂の盗品蔵だ」
「ここが……」
話しながら、二人の足がようよう辿り着いたのは、貧民街の奥地にある古く大きな平屋の建物だった。
すでに周囲はうっすらと暗くなり、夕方を通り越して夜を目前としている。
異世界では夜の照明が充実しているところも少ないらしく、都は一部を除くと、ほとんどが生活の灯り以外の照明が落とされている様子だ。
当然、貧民街に外灯なんて贅沢なものが置かれているはずもなく――、
「真っ暗になっちゃったな。ここからどう……」
「ラグマイト鉱石がある。これで光は十分だと思うよ」
「らぐまい……?」
聞き覚えのない響きに眉を寄せるスバルの前、ごそごそと懐を探ったルナが白い石を取り出した。それを、手近な壁にカンと打ち付けると、不意の灯りが広がる。
「お」と驚くスバルの視界、光を放つのはルナの手の中の白い石だ。
「これが、ラグマイト鉱石……」
「衝撃を与えると、溜めたマナが光になって放出される。……スバルって、これも知らないでどうやって過ごしてきたの?」
「偉大な先達が、なんかすごいエネルギーとか開発してくれて……」
離れて故郷を思うという言葉があるが、便利さは不便さの中で実感するものだ。
もはや当たり前のように感じている便利さ、それがどれだけ幸せだったのか。
ともあれ――、
「よし、徽章を取り戻さないと。さっそく中に入ろう」
「待て待て、落ち着きなよ。そう簡単な話じゃないって」
「え?」
白い光を片手に、意気揚々と盗品蔵へ乗り込もうとする腕を引き止める。そして、不思議そうな顔のルナに、スバルはため息をついた。
これだ。この、正道を行きすぎる性格が放っておけないのだ。
「だって、中の連中は君からその徽章だっけ、それを盗んだわけだ。なのに、盗まれた当人が入っていって、それで大人しく返してくれるわけないでしょ」
「そうかな。ちゃんと話したら、自分が悪かったって認めて返してくれるかも……」
「優しい世界だな……でも、返してくれなかったときは?」
「そのときは……あ、もしかして、ケンカになる?」
「言い方が可愛いな。くすぐってくるじゃん、母性を」
思い至らなかった、という顔をするルナに、スバルはやれやれと肩をすくめた。
当人が平和主義だからなのか、路地に入ればレディースと出くわすこんな世界で、ずいぶんとルナの考え方はほわほわとしている。
もちろん、ルナが乗り込んで堂々と意見を言えば、揉め事は避けられないだろう。
それもケンカどころか、もっと血腥い事態になることもありえる。
だから――、
「ここは、アタシが先に入って交渉してくるよ」
「スバル! だからダメだってば。君は弱いんだから」
「弱いって言われると、アタシが女でもカチンとくる! か弱いって言って!」
「君はか弱いんだから!」
「キュンとした!」
素直に言い直してくれるルナ、彼が本気でスバルを心配してくれているのはわかる。
わかるが、スバルがここで引き下がるわけにはいかない。
彼にいいところを見せたい。
それに加えて、ちゃんと彼に探し物を返してあげたいのだ。
「確かにアタシはか弱いよ。でも、か弱いからこそ、暴力なんて選択肢は最初からない。それなりに口が上手いのは、これまででわかったでしょ?」
「ん……」
「押してダメなら、すぐに戻ってくるよ。そのあとで作戦会議をしよう。せめて、徽章がホントにあるかだけでも見てくるからさ」
両手を合わせ、片目をつむって上目にスバルはルナを見た。
下から仰ぐ角度で見ても美形だったことに衝撃を覚えつつも、お願いの姿勢を崩さない。結局、ルナはしばらく黙り、唸っていたが――、
「絶対、無茶しちゃダメだからね」
と、スバルの提案に折れる姿勢を見せてくれた。
そのまま、彼がそっとラグマイト鉱石をこちらへ手渡す。不思議と、熱を持つわけではない鉱石を受け取って、スバルは「任せて」と笑ってみせた。
「心配してもらってる以上、それ以上の不安はかけられないよ。安心して、家でお風呂溜めて待っててくれていいよ、ルナ」
「――あ」
「うん?」
軽口を叩いて背を向け、盗品蔵へ向かおうとするスバル。
その背中にルナの掠れた声がかかり、スバルの足が止まった。そのスバルを見つめ、ルナは何度か視線を彷徨わせると、
「ごめん。戻ってきたら、ちゃんとそれも含めて謝るから」
「何を謝られるのかわかんないけど、子犬みたいな顔しないでよ。くすぐられるから、母性を」
「バカ」
何とも可愛い叱責と心配を受け、スバルは今度こそ盗品蔵へ。
入口の扉に手をかけると、軋む音を立てながらゆっくりと開いた。鍵をかけていないのも不用心だが、家主がいるならそれも不思議ではない。
ただし、家主がいるにしては――、
「暗い、な……」
光源のない暗い建物の中、スバルはさっそくラグマイト鉱石を掲げ、視界を確保。
入ってすぐにスバルを迎えたのは、酒場にあるような大きなカウンターだった。よく見れば内装もそれっぽい感じになっていて、元々酒場の建物なのかもしれない。
もっとも、現在は酒場として営業している様子はなく、見える範囲にあるのは雑多に積まれた統一感のない品々――おそらく、盗品の山だ。
盗品にはそれぞれ木札がかけられ、たぶん、値段が書かれているのだと思う。
数字っぽいものが書かれているので、もしかしたら文字を学ぶ取っ掛かりとして、これが活きてくるかもしれない。
そんなことを考えながら、スバルは盗品の中、ルナが探している『徽章』があればと視線を彷徨わせ――、
「え?」
ピチャリと、水っぽいものを踏んづける感覚をスニーカーの靴裏に感じた。
それも、ただの水ではなく、どこか粘性のある液体だ。急速に喉が渇く感覚があり、ゆっくりとスバルは光を正面、液体の伝う先へと向け、照らす。
そして、見た。
――首を斬られ、片腕をなくした大柄の老婆の亡骸を。
「ひ」
その『死』を認識した瞬間、スバルの鼻腔に鉄臭い香りが滑り込む。
――否、臭い自体はずっとしていたはずだ。ただ、この異様な空間と緊迫感が、スバルにそれをそれとして認識させなかった。『死』を認識した途端、それが一気に現実味を帯びて、スバルの全身を悪寒が包み込んでいく。
すぐに、すぐに逃げなくては。
すぐにここを離れて、外のルナと、今すぐに。
「――ああ、見つけてしまったのだね。それでは仕方ない。ああ、仕方ないのだよ」
男の、声がした。
低く淡々と、しかしどこか隠し切れない愉悦を帯びた男の声が。
「うあ――ッ」
振り返る暇はなかった。
声がした方を向こうとした瞬間、衝撃がスバルの体を壁に吹き飛ばしていた。
苦鳴をこぼし、ゴロゴロとスバルの体が床を転がり、大の字になる。
手の中からラグマイト鉱石が転がっていき、見当違いの場所が灯りに照らされる。その間、目を回すスバルはすぐに、猛烈な熱さに腹部を焼かれた。
「ぐぅぅぅ……あ、熱ッ」
全身を、圧倒的な『熱』が支配していく。
そしてそれが、生命維持に多大な影響を与えるものと、本能が直感した。
すぐに、その熱を止めないといけないのに、体が動かない。
――熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い。
そう叫ぼうとしても、開けた口からこぼれるのは悲鳴ではなく、血塊だ。
咳込み、とめどなく溢れる血を口から吐き出していく。陸にいるのに、こんなに熱い苦しみを味わっているのに、溺れて死にそうなんてどうかしている。
そうして、溺れかけながらスバルは気付く。
――ああ、これ全部、アタシの血なのか。
床に倒れた体が、じっとりと広がっていく血の海に浸っている。
自分の体内から溢れた血で溺れるなんて経験、初めてしたし、したことのある人間は大抵、その経験を最後に人生を終えるのだと思う。
そして、残念ながらスバルも、そうした先例と同じ結果を辿りそうだ。
そう、自分の終わりを意識した途端、急速に世界が遠くなっていく。
全身を焼き尽くさんとした熱も、溺れる苦しみも遠い。
意識は体を離れ、誰の手も届かない彼方へと、全てを持ち去ろうとしている。
それに従い、消えてしまえば、もうこれ以上の悩みも――、
「――バル?」
その、鈴の音のような声が、ナツキ・スバルの『魂』を地上に引き止めた。
空耳だと、そう信じたい。だって、もう何も見えない聞こえない感じないのだ。
それなのにどうして、彼の声だけは都合よくこの耳に聞こえるというのか。
全部、何かの間違いで、彼はこの建物には入ってこなくて。
ここで命を落とすのは、間抜けな異世界からの来訪者一人で十分で――。
だから――、
「――っ!」
短い悲鳴が聞こえて、血の絨毯が新たな訪問者を歓迎する。
倒れ込んだ体はすぐ傍らに、そこにはだらしなく伸びたスバルの腕があった。
力なく落ちた白い手と、血塗れの自分の手が重なる。
全て、偶然だ。
でも、微かに動いた指先は、確かに自分の手を握り返したような気がしたから。
「……ってろ」
遠ざかる意識の首根っこを掴み、無理やりに振り向かせて時間を稼ぐ。
『痛み』も『熱』も全ては遠く、あらゆる全部が負け犬の遠吠えだ。
だが、それでも――、
「アタシが、必ず……」
――君を、救ってみせる。
次の瞬間、ナツキ・スバルは命を落とした。
△▼△▼△▼△
「――どうするんだい、お姉ちゃん。急に呆けた顔して」
「は――?」
眉の太い、威圧感のある女性に正面からそう問われ、スバルは唖然とした。
目を何度もぱちくりとさせて、長く深く息を吐く。
それから――、
「え?」
「え、じゃないよ! あんたの方から話しかけてきたんじゃないか。リンガ、買うのか買わないのか、どっちなんだい?」
「り、リンガ……」
ずいっと目の前に突き出されたのは、赤くて丸い形をした果物――リンゴだ。
いや、リンガと呼んでいるんだから、リンガなのかもしれない。
どちらにせよ、買うか買わないかと言われても。
「アタシ、無一文」
「――。そうかい、冷やかしかい。だったら」
「だったら?」
「とっとと失せな! 商売の邪魔だよ!」
そう、力一杯怒鳴りつけられ、スバルは這う這うの体でその場から逃げ出す。
逃げ出して、周りを見渡して、明るい太陽の日差しを頭上から浴びながら、
「え、どゆこと?」
と、そう首を傾げる以外になかった。
△▼△▼△▼△
「うあたぁ! 絶対に鍛えられないところに喰らえ!」
「ぎゃあああ!!」
スバルの踵の一撃を足の甲に喰らい、悲鳴を上げて三白眼の女がひっくり返る。
そのまま、とっさに女が取り落としたナイフを拾い、それを見せつけながら、残った二人の女――便宜上、アンポンタンと呼んでおくが、そのアンとタンと睨み合う。
スバルの突然の動きに、二人の女の対応は遅れた。
すでに無力化されたポンを見て、スバルを対峙するのを恐れているらしい。ならば、その怯えをさらに後押ししてやればいい。
「言っとくけど、アタシは血を見るのが好きでねえ。あんたたち、いったいどっちが先に渇いた路地を潤してやるんだい、いーっひっひっひ!」
「ひい! こ、この女、ナイフ舐めてる!」
「イカれてる! イカれてるわ! 逃げるわよ!」
これ見よがしにナイフを舐めるスバルに恐怖し、アンとタンは悲鳴を上げて、倒れているポンの体を二人で抱き上げ、そのまま慌てて路地から逃げていった。
それを最後まで、ナイフを涎でべたべたにしながら見送り、スバルは嘆息する。
「ど、どうにか押し切った……なんだったんだ、あれ。さっきの報復にしちゃ、ものすごいナチュラルに絡んできたけども」
アンポンタン――数時間前に遭遇したレディースに再び絡まれ、スバルもかなり唖然としたものの、どうにか対処に成功した。
一回負けたので、次挑まれたときのシミュレートをしておいたのが功を奏した。
とはいえ、まさかもう一度同じ相手に使うことになるとは思わなかったが。
「ぺっぺっ、ばっちい。……けど、これは捨てずに持っておくか」
幸い、ポンの腰からはナイフの鞘も一緒に拝借できた。
剥き出しで持ち歩くのは無茶だが、これで持ち歩く分には問題あるまい。――武器があるに越したことはない。なにせ、急がなくては。
「ルナが危ない……!」
盗品蔵に入って、いきなりの衝撃があって、スバルは意識を失った。
その後、何故急に通りに戻されていたのかはわからないが、辻ヒーラーがスバルを癒して何も言わずに放置していった的なことがあったのかもしれない。
答えはわからない。わからない以上、わからないことは後回しだ。
一番重要なことは、盗品蔵にいかなくてはならないという、その事実。
ルナを、あのお人好しな青年を、死なせてはならないということ。
「急げ、ナツキ・スバル……! せめて、そのぐらいはしてみせろ……!」
そう自らに任じながら、スバルは急いで、全力で盗品蔵へと走り出した。
△▼△▼△▼△
「馬鹿げた話なんだけど、お婆さん、最近死んだことない?」
「わっはっはっは! 何を言い出すかと思えば。確かに死にかけのババアなのは認めるがね、生憎と死んだことはまだないさ。ま、この歳だ。お迎えもそう遠くなかろうよ」
そう言って、グラスに注いだ酒をぐいぐいと呷る老婆を見て、スバルは唇を曲げる。
スバルの眼前、カウンターの向こうで酒を飲んでいるのは、この盗品蔵の主であり、勢い込んでやってきたスバルを迎えた老婆――ロム婆だ。
上背二メートルを超していそうな長身と、あり合わせの布で仕立てたセンスのいいボロを纏っている。気風のいい性格らしく、かなり失礼な初対面を迎えたスバルに対しても、こうして一応店に招き入れてくれたほどだ。
ただ、ロム婆に店に迎えられたこと自体、スバルの混乱の種だった。
なにせ、スバルの知る限り彼女は――、
「――死んでた、よな」
首を深く抉られ、その片腕を落とされてロム婆は死んでいた。
それを目の当たりにして、直後にスバルも盗品蔵で襲われたのだ。もちろん、ロム婆もスバルも無事でいる以上、あれが現実だとおかしな話になる。
しかしその場合、スバルは会ったこともないロム婆という女性の死を幻に見たというわけのわからないことになる。
そもそも、だとしたらスバルがルナと盗品蔵を探し回ったことはどうなる。
「……結局、何がどう現実で、アタシはどうしてここにいるんだよ」
異世界に呼ばれたこと自体、スバルにとっては予想外の出来事。
それだけでも十分、頭はパンク寸前だというのに、立て続けにわけのわからない展開だ。いったい、自分は何のために――、
「――馬鹿か、アタシは。いや、馬鹿だアタシは」
頭を抱えて、自分の目的を自問自答するうちに、スバルは己を馬鹿と認めた。
確かに、自分がなんで異世界にいるのかはわからない。でも、盗品蔵にいる理由はわかっている。――それは、ルナに恩を返すため。
あれが、もしも夢だったとしても、ルナは確かにいるはずだ。
たとえ彼が知らなくても、スバルは彼に恩がある。
そう信じることが、この寄る辺のない世界でのスバルの支えになるのだ。
そんな風に、スバルが自分を支える柱を意識したところで――、
「――あ? なんだよ、この姉ちゃん。おい、ロム婆、まさかオレを売ったんじゃねーだろうな」
そう、態度の悪い少年――フォルテの声が聞こえて、スバルは顔を上げた。
ロム婆が間を取り持ってくれるその間に、スバルは自分の懐から、彼との交渉の切り札になりそうな文明の利器――ケータイを取り出して、
「まあまあ、お姉ちゃんと話をしようぜ、男の子。そっちに悪い話じゃない。きっと、聞いた方が得するってもんだからさ」
△▼△▼△▼△
「――なるほど、関係者というわけだ」
スバルの不用意な一言を切っ掛けに、事態は一瞬で血腥い方向へ動いた。
「あ、あ、あ……」
「クソったれ……!」
地面に引き倒され、尻餅をついたスバルは目を見開き、声が出せない。
その傍らに膝をついたフォルテは、悔しそうに唇を噛みしめ、自分の無力を憎むような怒りを瞳に宿していた。
それはそうだろう。だって――、
「お返ししよう。もう、私には必要のないものだ」
ゆっくりと、腰を折った長身の背中が盗品蔵の床にグラスを置いた。
ミルクの入っていたグラスで、その先端が割れ、鋭い断面には赤い血が付着している。ほんの数秒前、ロム婆の喉を掻き切った証拠の血が。
――黒髪の、長い三つ編みを背中に垂らした男だ。
エインズと名乗ったその人物は、グラスを置いたのと反対の手にくるくると、先端の曲がった曲刀のククリナイフを回し、振り向く。
切れ長の瞳と、血の余韻に微かに歪んだ唇。
色白の肌をした整った美形だが、血に染まる黒い装いがその危険な気配を引き立てる。彼の背後には、大きな体を床に沈め、もう動かないロム婆が倒れていた。
ルナの徽章を巡った、スバルとフォルテの交渉。
それはフォルテに徽章の盗難を依頼した人物、エインズの参戦で思わぬ流れを辿り、そして誰も考えていなかった血の結末へと導かれた。
――あるいは、エインズだけはこの結果を期待していたのかもしれないが。
「テメー、絶対に許さねーぞ……」
「ふむ、抵抗はあまりおススメしないが。余計に痛い思いをすることになる」
「抵抗しなくても、だろーが。異常者が!」
「動かれると手元が狂う、という意味だよ。私は刃物の扱いが雑でね。よくしっかり者の弟からも指摘される」
ゆるゆると首を横に振り、エインズが曲芸師のようにククリナイフを扱ってみせる。
自由自在に回転する刃、それが唸れば結果は見えている。
あとは――、
「……悪かったな、巻き込んで」
「あ、アタシは……っ」
尻餅をついたまま、動けずにいるスバルにフォルテがそう詫びた。
そして、その背中を引き止める暇もなく、フォルテの姿が視界から消える。文字通り、彼の姿が風となり、猛烈な加速で世界を駆け抜けたのだ。
フォルテは盗品蔵の床を蹴り、瞬時にロム婆を死なせたグラスを拾う。
そして壁を蹴り、エインズへと復讐の一撃を届かせんとした。
しかし――、
「『風の加護』、素敵だ。君は世界に愛されているのだね。――妬ましい」
恍惚を孕んだ呟きが漏れ、最後の一言に乗った妄念が刃となって走った。
背後からエインズを狙ったフォルテ、その体が真っ直ぐに振り切られる刃を浴び、肩口からばっさりと残酷に斬り捨てられる。
血をぶちまけながら、フォルテの体が勢いよくひっくり返る。その体は何の慈悲か、大きなロム婆の亡骸にぶつかり、重なり合うように倒れた。
親しげだった二人の死体が、ひどく悪趣味に重なった形で。
「君は、最後まで動かないのだね」
「あ……」
その、フォルテとロム婆の奮戦を見届け、絶句するスバルの前にエインズが立つ。
二人の返り血で汚れた姿で、白い頬に浴びた血を手の甲で拭うエインズ。その黒い瞳に見下ろされ、スバルは忘れていた呼吸を取り戻した。
そして、沸々と、湧き上がってくる怒りに押されるままに――、
「ああ、やっと立てたね。遅いし、つまらないが、悪くはない」
立ち上がったスバルを見て、エインズが嫣然とそう嗤う。
その笑みを見た瞬間、スバルはがむしゃらに、怒りのままに彼に飛びかかった。
しかし、そんな無謀な吶喊は、エインズの膝に容赦なく迎え撃たれる。
「だが、全然ダメだ」
「がふっ……」
強烈な、路地で浴びた暴力なんて比ではない、本物の暴力に内臓を破壊される。
ご馳走されたミルクを吐き戻し、スバルは腹を押さえて後ろに下がった。
そして――、
「終わりだ。天使に会わせてあげよう」
そんな歪んだ愛の囁きがあって、エインズの姿勢がわずかに前のめりになる。
それが次の行動の予備動作だと察した瞬間、スバルの脳裏で警鐘が鳴り響いた。その、警鐘の訴えるままに、スバルは動いて。
「な――っ」
――狙いは腹にくると、そう考えたスバルの間一髪の回避を間に合わせていた。
「う、ああああ――!!」
叫び声を上げ、スバルは目の前で空振ったエインズへと腕を突き出す。
その手に握られているのは、路地裏でポンから奪ったあのナイフだ。無我夢中で、そのナイフをエインズの胸元に向かって、真っ直ぐに。
その結果、彼が命を落とすかどうか、そんなことは頭になかった。
ただがむしゃらに、目の前にある命の危機を乗り越えるために、ナイフを。
「――ああ、今のはとても感じたよ」
――突き出したナイフを、エインズが掲げた自分の左手に貫通させて受け止める。
スバルの手首も掴めただろうに、あえて自分の掌を貫かせて。
それはまるで、スバルの健闘に対する褒賞だとでも、言わんばかりに。
スバルの手に、人の体をナイフで貫いた嫌な感触が跳ね返る。
おぞましい感覚に脳が焼かれ、悲鳴がこぼれそうになった。
だが、それよりも早く――、
「――ぶ」
放たれる返す刃が、スバルの胴体を掻っ捌いて、その中身を床にぶちまけていた。
△▼△▼△▼△
「――待って、待って、ルナ!」
「――――」
またしても、わけのわからない超常現象に巻き込まれ、思考回路はショート寸前。
全てを投げ出して、いっそ倒れてしまいたいと思った最中、スバルは往来を通りがかる銀髪の青年を見かけ、その背中に必死で追い縋った。
スバルの声を聞いて、白いローブの青年が足を止めた。
見間違いではないと、そう信じるスバルの前で振り向いたのは、ずっと再会を求めて焦がれた、あの紫紺の瞳を持つ青年だった。
会えて、自分の全部が報われたような気持ちになる。
盗品蔵で強引な別れがあったあと、彼がどんな時間を過ごしていたのかわからない。その話だって、したい。スバルがした、とんでもなく辛い体験の話も。
きっと彼なら、その話を馬鹿にしないで聞いてくれるに違いないと、
そう、泣きそうな心地で思っていたのに――、
「君は、どういうつもりなの?」
「え?」
「誰だかわからないが、人を『嫉妬の魔人』の名で呼んで、どういうつもりなんだ!」
きりりと眉を立て、確かな怒りを宿した顔に怒鳴られる。
その、路地裏のレディースたちにさえ向けなかった真摯な怒りを向けられ、スバルは絶句し、全身の血の気が引くような恐怖を味わった。
いったい、自分は何を言ってしまったのかと。
そんな風に怯えるスバルに対し、ルナは深々と息を吐くと、
「答えてほしい。なんで、僕をそんな名前で呼ぶんだい」
「な、なんだって、だって、そう呼べって、言われたから……」
「――。誰に言われたのかわからないけど、趣味が悪すぎるよ。禁忌の象徴、口にするのも憚られる存在、『嫉妬の魔人』と同じ名前で誰かを呼ぶだなんて」
嫌悪感も露わに、ルナ――否、銀髪の青年がスバルを睨みつける。
その、彼の怒りの意味がわからない。しかし、どうやら彼の怒りは正当なものらしく、往来で二人の言い合いを目にする人々も、スバルを非難するような目をしていた。
この場所、この世界の常識で、間違ったことをしたのはスバルの方らしい。
でも、それが何なのかわからない。わからないのに。
「……君は、本当に悪気はなかったの?」
「――ぁ」
「そんな顔をして……ええと、僕も言いすぎたかもしれないから」
よほど、スバルの表情が絶望的なものだったのだろう。
押し黙ったスバルを見て、青年が心配するようにそう続けた。その反応は、彼の根っこの優しさが変わっていない証だ。
でも、変わっていないなら、これは何なのだ。
まるで、スバルを知らないとでも言わんばかりの彼の態度。これでは、あの出会いも、助けてくれたことも、その後の道筋も全部、なかったことみたいに。
そうして、理解のできない事態に足踏みするスバルを、世界はまたしても置いていく。
「――っ!」
「な!?」
不意に、往来の人込みに飛び降りてくる小柄な人影。それがスバルを案じる青年の背後に忍び寄ると、素早い動きで懐から何かを奪い取った。
とっさのことに驚く青年は、自分の懐に手を入れ、顔色を変える。
だが、顔色を変えたのはスバルも同じだ。
「フォルテ!?」
青年の懐を探り、走って逃げていくのはフォルテ――盗品蔵で、スバルの目の前でエインズに惨殺されたはずのフォルテだった。
それが背を向け、颯爽と往来を駆け抜けていく。
「やられた! このための足止め……君もグルだったのか!?」
「ち、違う! アタシは……!」
「ダメだ! それは返してくれ!」
スバルがフォルテの名前を呼んだせいで、青年の誤解を買ってしまった。
盗まれたものを取り返すため、青年は一瞬、スバルを取り押さえるか迷ったものの、すぐさま駆け出し、フォルテの背中を追う。
その走り出した背中に、スバルも急いでついていく。
「待って! 待って……! なんで、なんなんだよ、ここは! もっと、もっと誰かアタシに優しくしろよ! 何のための異世界なんだよ!」
この世界の不条理を叫びながら、スバルは込み上げてくる涙を怒りに変えて叫ぶ。
もちろん、返事はない。スバルをこの世界に送り込んだうっかり者の神様も、スバルを滅びゆく世界に呼び出した美少女も、どこにもいないのだ。
「クソ! 見失った!」
二人が駆け込んだ路地へ追いつくも、目の前にあるのは行き止まりだ。
きっと、フォルテと青年はこの壁を乗り越えていったのだろう。フォルテの身軽さなら容易いし、青年も氷の魔法を使えば足場喰らいわけないに違いない。
でも、スバルにはできない。壁を乗り越えられない。
「どこに……盗品蔵?」
全てがそこに帰結するなら、また盗品蔵へ向かえばいい可能性もある。
しかし、悪いことの全部が盗品蔵で起こっている以上、あの場所にもう一度向かうことへの恐怖も、強く強くスバルにはあった。
でも、だったら、他にスバルに何ができるというのか。
「わかったよ! いけばいいんでしょ! いけば!」
バンと力任せに壁を叩いて、スバルは路地から通りに戻り、盗品蔵を目指そうとする。
だが、振り向いた足がそこで止まり、長い震える息が漏れた。
何故なら――、
「……嘘でしょ、オイ」
路地の入口を塞ぐように立つ、見知った三人のレディースがそこにいた。
△▼△▼△▼△
「――『死に戻り』なんて負け犬前提の能力、いかにもアタシらしい」
と、三度目の『死』を経験して、スバルはようやくその結論に辿り着いた。
ジャージの裾をめくれば、掻っ捌かれたお腹の傷×二回分と、先ほどやられた腰の裏あたりの傷は丸っと消えている。
これでも一応女子なので、体に傷が残っていないのはありがたい。
「まぁ、幼女時代に転んで箸が刺さった傷がこめかみらへんにあるけど。アタシ、傷物になるのが早すぎるでしょ。責任取ってくれよ、箸」
百パーセント木製の箸も、まさかそんな重たいものを摘まめるようにはできてない。
なので、傷物のスバルの責任は未来へと棚上げされることになった。
ともあれ、そんな余談は置いておいて。
「時間遡行……って言うのかな。時間操作系の能力って、これがフィクションならほぼ最強の能力なのに、死んで戻るだけって使えねぇ……」
もちろん、他の方法があるのではと、念じたり、オリジナルの呪文を唱えてみたり、それっぽいことはやってみたのだ。
しかし、時間遡行が発動する気配はなく、現時点では『スバルが死んだら発動』という条件を更新できない。――それにしても、だ。
「アタシの生き汚さ、自分で自分に呆れちゃうね」
馬鹿は死んでも治らないとはいうが、まさか馬鹿が死なないはやりすぎだ。
厳密には死んでいるので、もうなんと言っていいのかよくわからない。
「でも、ケータイもコンポタもここにある。これが高く売れるってこと、今のアタシは情報として知ってる。……これは一応、アドバンテージかな」
ポケットを探れば、手放したはずのケータイが確かにそこにある。
手の中のビニール袋には、ロム婆の酒のつまみにされたコンポタも残っていた。そしてこれらが異世界人にも好まれると、もうスバルは知っている。
これを売り飛ばし、軍資金を獲得して異世界生活の基盤を整える。
目下、寄る辺のない状態を継続中のスバルには、十分ありの選択肢だった。
ただし――、
「アタシがいかなくても、エインズが暴れてロム婆は死ぬ。……もしかしたら、フォルテもいたのかもしれない」
最初の盗品蔵、スバルが目にしたのはロム婆の亡骸だけだ。
だが、あの惨劇の引き金がどういった形で引かれたのかを想像すると、交渉で欲張ったフォルテが理由で、エインズの衝動にスイッチが入った可能性が高い気がする。
だとしたら、盗品蔵にはフォルテの死体も転がっていたのかもしれない。
スバルが我が身可愛さに、このまま行動しなければ、あの二人が危機に陥る。
それは、なんというか――、
「もにょる。――なんて、アタシこんな真っ当な人間だったかな」
もっと、自分のことばかり考えて、だから不登校でもいられたのではなかったか。
そんな自嘲を重ねて、スバルはゆっくりと立ち上がり、やるべきを定めだ。
盗品蔵へ向かい、そこで起こるだろう惨劇を食い止める。
フォルテとロム婆を助けて、それを恩に着て、フォルテが盗んだ徽章を取り戻す。そしてその徽章を、ルナ――否、あの青年に。
「あれは、偽名だったってことか。そりゃそうだ。アタシみたいな初見から怪しい奴に、普通は名前なんて教えないって。――しからば」
あの偽名ではなく、本物の名前を知りたい。
たとえなくなってしまったことでも、彼がスバルを助けてくれたことは事実で、きっと同じ状況になれば、彼はまたスバルを救ってくれたはずだから。
「今度は名前ぐらい、ちゃんと教えてもらえるように頑張らなくっちゃだ」
△▼△▼△▼△
「誰か――!! 男の人呼んでえええ――!!」
「い、いきなり叫ぶか、このアマ!?」
絹を裂くようなスバルの悲鳴が上がり、路地を塞いだレディースたちが慌てふためく。
今日四度目の顔ぶれであり、前回はスバルの命を奪った彼女らだ。
前回の『死』はアクシデントの結果っぽくはあったものの、実際、一度は殺されたことも事実。前々回のように、うまく切り抜けられるとも限らない。
だったらここは、公権力の力を借りるのも一個の手だと、割り切った作戦だった。
これで、誰かの助けが入れば僥倖。もしも誰も助けてくれない世知辛い世の中だったとしても、隙を突いてポンの足を封じ、ナイフを奪って脅しつけて――、
「――そこまでになさい」
瞬間、路地の中を熱風が吹き抜けたかと、そうスバルは錯覚した。
さほど大きくない声量、しかし凛としたそれが路地裏の空気を切り裂いて、その場にいたスバルとレディース、四人の意識を一瞬で奪い去る。
声の主、それは路地の入口に立っている赤い髪の女だった。
長く伸ばされた、炎を思わせる赤い髪。澄み切った空を閉じ込めたような青い瞳は、この世のあらゆる不条理を見過ごさない使命を帯びているかのように明るい。
すらりと手足の長い長身を、白い装いに包んだその人物は、あらゆる芸術家の筆を折らせる天上の美貌を惜しげもなく晒し、こちらへ歩いてくる。
「たとえどんな事情があろうと、それ以上、彼女への狼藉は認めない。そこまでになさい」
堂々とした警告、その内容はスバルを助けようとするものだが、スバルにはそれが警告ではなく、優しく響く愛の言霊に聞こえた。
あらゆるものを庇護し、慈しみ、守ることを存在意義とする絶対の調。
叶うなら、永遠にその声音を聞いていたいと思わせる存在感――、
「あ、あんた、まさか……」
その女性の登場に、アンポンタンが顔色を青ざめさせ、唇を震わせる。
三人は女性の姿を上から下まで眺め、大きく唾を呑み込むと、
「燃えるような赤毛に、青い瞳……騎士団の制服に、竜の爪痕がある騎士剣」
「お、『女騎士の中の女騎士』!」
「アーデルハイト……『剣聖』アーデルハイト!?」
「自己紹介の必要はないようね。ただし、その二つ名はまだ私には重すぎる。そんな風に思っているんだけど」
女性――アーデルハイトと呼ばれた彼女は、最後の一言にウィンクを加えた。
しかし、それを最後に表情を引き締めると、美しく凛々しい面差しから放たれるプレッシャーが、スバル以外の三人を容赦なく包み込む。
喉が引きつり、冷や汗を流し始めるアンポンタン。
「このまま離れるなら見逃すわ。でも、続けるというなら相手になる。三体一で、数の上ではそちらが有利だけど、騎士としてお相手しましょう」
「じ、冗談じゃない! わりに合わないわよ!!」
アーデルハイトの凛々しい宣言に、慌てふためいてアンポンタンが路地から逃げる。
バタバタと走り去る三人の背中を見送り、アーデルハイトは短く息を吐いた。それから彼女はスバルに振り向くと、その表情を柔らかく緩めて、
「お互い無事のようね。ケガはなかった?」
「……なんて凛々しいお姉様」
「うん?」
思わず、両手を重ねて感激してしまうスバルの一言に、首を傾げたのだった。
△▼△▼△▼△
「――フォルテ、開けるな! 殺されるぞ!」
「……殺すなんておっかない真似、いきなりしたりしないってば」
「え!?」
開け放たれた盗品蔵の扉、そこから姿を見せた相手の姿にスバルは目を見張る。
建物の中、スバルは先んじてフォルテと接触し、彼が青年から盗んだ徽章を、エインズとの交渉前に買い取ろうとしていたところだった。
エインズと接触すれば、何を材料に爆発するかわからない。
彼は危険な男だ。倒せる算段も付かない以上、争いを避けるのが最優先。
スバルの真剣な訴えに、金にがめついフォルテも多少は思うところがあったのか、ロム婆のアシストもあり、交渉は次のフェーズへ進みかけていた。
しかし、そこに冒頭の一言と共に現れたのが、件の銀髪の青年だった。
徽章の所有者の突然の登場、それを見てスバルが思ったのは、「アタシがいないと、こんなに早くちゃんと盗品蔵につくんだ!?」という、自分が猛烈に足を引っ張っていたことがわかってしまった衝撃だった。
そして、その衝撃が通り過ぎると、その場に残っているのは――、
「お兄ちゃん、あんたエルフだね」
「正しくは違う。……僕がエルフなのは、半分だけだから」
「ハーフエルフ? それも銀髪って……まさか!」
「違う! 僕とは関係ない。……僕だって迷惑してるんだ」
睨み合いの最中、ロム婆が青年の種族を看破し、その問題が波及する。
正直、スバルにはピンとこないやり取りだったが、それが何となく、彼が『ルナ』と呼ばれるのを嫌がった理由と関連性があるように思えた。
だが、この場は睨み合う両者よりも、状況が見えているスバルが取り成すべきだ。
「まあまあ、ここは落ち着いて、フォルテは負けを認めようよ。徽章をあの子に返してあげて、それから……君は、それを持ってここから立ち去る。もう大切なものを誰にも取られないように大事に扱うんだ。お姉さんとの約束だよ」
「――? なんで、君が僕に親身なのかがわからないんだけど。それに、僕は君よりもずっとお兄さんだと思うし」
「納得いかねーのはオレも同じだよ。姉ちゃん、結局アンタはなんなんだよ。この徽章、アンタも欲しかったんじゃねーのか?」
「アタシは元々、持ち主に返してあげたかっただけだから……」
不貞腐れたフォルテにスバルがそう答えると、青年は「僕に……?」と目を丸くする。
そう言われて信じられるものでもないだろうと、スバルはどんな風な言い訳をするのがベストか、少し頭を悩ませようとして――、
「――――」
――滑るように黒い影が、瞬時に青年の背後に現れるのを見た。
「――ティンク! 防いで!!」
とっさにスバルの声が出るのと、閃いた刃が青年のうなじに迫ったのは同時だ。
だが、刃が青年の細い首を刎ねるより早く、そこへ生み出される氷の盾が割り込む。
快音、それが響き渡り、青年が前のめりに倒れる。――否、倒れていない。
前に飛び込み、凶刃から距離を取ったのだ。
「ティンク……!」
「なかなかどうして、ギリギリのタイミングだったけど、間に合ったね」
危機一髪、かろうじて『死』を免れた青年が精霊を呼ぶ。
その呼び声に応えるティンクが手で顔を洗い、それからスバルの方を見た。
「ナイスタイミングな掛け声だったね。おかげでうちの子が助かったよ」
「助かったのはこっちこそだよ。まだ定時上がりしてなくて助かった!」
親指を立てて、お互いの存在を認め合うスバルとティンク。
そして、その妨害に遭い、後ろへ跳んで全員から距離を取った人影――エインズがゆらりと立ち、ククリナイフを揺らしてみせる。
この状況で、彼はなおも悠然と一同を見回して、
「精霊、精霊とは素敵だ。まだ、精霊のお腹は開けてみたことがなくてね」
「おい、どーなってやがんだよ!!」
血の色をしたエインズの興奮に、そうして水を差したのはフォルテだ。
青い顔色をしたフォルテは、自分に盗みを依頼した相手の暴挙にそう抗議する。だが、エインズはそんな真っ当な抗議の通じる相手ではない。
案の定、エインズはフォルテの訴えに白けたような目を向ける。
その視線に射抜かれ、「あ」とフォルテの瞳が揺れた。
「生憎と、君は私の依頼の意図を履き違えている。欲したのは徽章であり、徽章の持ち主は別枠だ。こうなってはもはや、全員の口を封じるしかない」
「そ、そんなの、どうかしてんだろ……」
「そうかもしれないな。――しかし、仕事を全うできなかったのは君だ。使えない道具は取り換える。そこに何かおかしなことでも?」
「――っ」
平然と、フォルテの在り方を切り捨てるエインズの冷酷さ。
それを受け、フォルテの瞳が大きく痛みに揺れた。
確かに、フォルテは馬鹿なことをしたのかもしれない。
スバルがいなければ、その馬鹿で浅はかな考えが理由で命を落としたかもしれない。
でも、ここではそうではなかったのだから。
「ふざけるなよ、サディスト! こんなちびっ子に言いたい放題、それで勝ち誇って恥ずかしくねぇのか、大人げない! はー、母ちゃん情けない!」
「――? 君は、私の母親ではないと思うのだが」
「比喩だよ、ひーゆー! あと、頭にきすぎてて自分でもちょっと何言ってんのかわからなくなってるところがあります、そこはソーリー! ごめんなさい! でも、こうやってわちゃわちゃ言ってるのも実は時間稼ぎですからバーカ! お茶の間の皆様はチャンネルそのままでぜひどうぞ!」
意味不明なスバルの言葉の羅列に、エインズが困惑を眉間に刻んだ。
そんなエインズの態度に、もうちょっとやり方はなかったのかと、自分の乙女ゲージと時間とを引き換えにしながらスバルは手を叩き、
「はい、ここまで! やっちゃえ、ティンク!」
「見事な無様さだったね。――でも、その期待には応えるよ」
胸の前で手を叩いたスバル、その呼びかけにティンクが笑い、答えた。
弾かれたように顔を上げたエインズの周囲、そこに浮かび上がるのは逃げ場のない空間を埋め尽くす、無数の氷柱だ。
その鋭い先端をエインズに向け、氷柱が真っ直ぐに放たれる――。
「自己紹介もまだだったね、紳士くん。ボクの名前はティンク。――名前だけでも、覚えて逝ってね」
刹那、凄まじい衝撃音と白煙が盗品蔵の中を呑み込んでいった。
△▼△▼△▼△
「『腸狩り』エインズ・グランヒルテ」
「――『剣聖』の家系、アーデルハイト・ヴァン・アストレア」
示し合わせたわけではなく、互いに互いが名乗り合い、直後に剣気が膨れ上がる。
放たれる白い光――そう、光だ。
振るわれる剣から斬撃が放たれ、それが盗品蔵を、大気を、空を割る光となる。
迸る凄まじさは音を置き去りに、直後に膨れ上がる衝撃波が風となり、盗品蔵はその内側から竜巻を孕んだように爆ぜ、全てが吹き飛んだ。
逆巻く風が盗品を、木材を、そして人体までもを巻き上げていきそうになるのを、スバルは倒れたロム婆の巨体を掴み、偽ルナを引き寄せてどうにか耐える。
耐える、耐える、耐える、耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて――、
「ぬぎゃああああ――!!」
女子がしてはいけない顔と、聞かせてはいけない声を上げて、耐え抜く。
そうして耐え抜いた先、ゆっくりと体の力を抜いたスバルが顔を上げる。すると、そこにあるのは澄み渡る夜空と、満天の星々――。
「た、建物が、なくなってる……」
「よかった。無事だったようね」
へたり込んだスバルの声を聞きつけ、振り向いたアーデルハイトが微笑む。
その彼女の手の中、生まれて以来最大の無茶をさせられた凡庸な剣が、その役割を果たしてゆっくりと塵になっていった。
アーデルハイトという規格外の存在によって、剣が自分の存在以上の力を引き出された結果だ。――それが、剣にとって幸せなのかどうかわからないが。
「何が化け物狩りは自分の領分だ。自分の方がよっぽど化け物じゃんか!」
「そんな風に言われると、さすがに私も傷付くんだけどな」
苦笑して、アーデルハイトが塵となった剣が風に流れていくのを見送る。
その横顔に宿った寂しげな色に、スバルは一瞬、今の言葉を後悔した。軽口の類だったとはいえ、言ってはいけないことだったかと。
しかし、それより謝るよりも早く、
「無事に終わった、のかな……」
「あ、大丈夫? ちゃんと立てる?」
「うん……」
ティンクの撤退と、負傷したロム婆の治療。
そしてアーデルハイトの戦闘に何らかの負荷があったらしく、疲労の色が濃い顔をしている偽ルナが、スバルの支えを受けてその場に立ち上がる。
そのしなやかだが、たくましいとは言えない青年の腕に触れながら、スバルはじっと偽ルナの顔を見つめて、
「――? 何かな。そんな風にじろじろ見るのはすごーく失礼だと思うよ」
「いや、ちゃんと首もついてるし、手足もなくなってないなって」
「……当たり前だよ。怖い話をするなぁ」
驚きつつも、偽ルナは不安になったのか自分の手足を確かめている。
そんな偽ルナの様子を見ながら、スバルも深々と安堵の息を吐いた。
ようやく、ようやくだと。
ようやく、ここまで辿り着くことができたと。
「そう言えば、まだお礼を言ってなかった、アーデルハイト。本当にマジで助かった。さっきの路地もそうだけど、アタシの叫びが聞こえたの?」
「どうやら、私はスバルのお姉様のようだからね。……なんて、もしそうだったら素敵だけど、実はそうじゃないの。ほら」
「うん?」
アーデルハイトが顎をしゃくり、スバルの視線を建物の入口――もはや、入口だったものというべき残骸だが、その陰からこちらを除く人影を示した。
そこに立っていたのは、エインズとの激闘の最中、スバルが命懸けで逃がしたフォルテだった。どうやら彼が、外にいたアーデルハイトを呼んでくれたらしい。
「全部、繋がってるってことか……」
「あの子は……」
ため息をつくスバル、その隣で偽ルナもフォルテの姿に気付いた。
徽章を巡るあれこれの未解決、それの再燃を恐れ、スバルはそこに割って入る。
「待って待って! ほら、フォルテのおかげでアーデルハイトがきてくれたんだし、怒って八つ裂きにするのは待ってあげて! ほら、アタシの顔に免じて!」
「そんなことしないよ! 僕をなんだと思ってるの! それに、君の顔に免じてって……」
「あー、ええと」
「そもそも、君は結局何なの? 僕を助けてくれたり、でも徽章を盗んだあの子たちと一緒にいたり、よくわからないよ」
どんな顔を作ればいいのか、その判断に困っているような偽ルナ。
その彼の顔を見て、スバルも何を言えばいいのかとっさに困る。徽章を買い戻して、無事に彼にあれを返して、そんな流れは考えていたけれど。
でも、その先のことなんて、何も考えていなくて――。
「――スバル!」
――そんなスバルの思考は、アーデルハイトの鋭い呼び声に打ち砕かれた。
「――ッ!!」
廃材の残骸、それが跳ね上げられ、その下から黒い影が飛び出す。
真っ直ぐ、風のような速度で地を蹴ってくるのは、その全身におびただしい傷を負い、なおもその目から凶暴な光を失わない戮殺者、エインズだ。
「あんた――っ!」
飛び込んでくる影に、本調子でない偽ルナは対応できない。
アーデルハイトも、飛んでくるには時間が足りない。ここで動けるのはスバルだけ。
ひしゃげたナイフ。一瞬の邂逅。相手は一発に全部懸けている。アーデルハイトは間に合わない。でも、一撃しのげばアーデルハイトが何とかしてくれる。どうにかする。偽ルナは振り向く余裕もない。狙いは。どっちが。アタシは三度目、彼を守る。
守る守る守る守る守る守る守る守る守る守る守る守る守るるるるるる!!
「狙いは腹狙いは腹狙いは腹ぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
とっさに、ロム婆の使った棍棒を踏みつけ、起こしたそれを腹に抱えて飛び込む。
放たれる漆黒の殺意、それが凄まじい勢いで弧を描き、偽ルナを――彼の前に飛び込んだスバルの胴体、棍棒の上から薙ぎ払い、吹き飛ばした。
ぐるぐると視界が回り、まるで車に撥ねられたような衝撃に呑まれる。
そのまま壁に激突し、スバルは崩れてくる廃材の山に埋もれていった。
「この娘は、まだ邪魔を――」
「そこまでよ、エインズ!」
スバルに一撃を防がれ、唇を噛んだエインズ。
しかし、追撃を偽ルナへ向けるよりも、アーデルハイトの接近が早い。エインズはとっさにひしゃげたナイフを彼女に投じ、前進を牽制して上へ跳んだ。
投げられたナイフは躱すまでもなく、不自然な軌道を描いてアーデルハイトを外れる。だが、エインズが逃走する時間は稼がれた。
壊れた屋根の残骸を踏んで、月を背にしながらエインズは眼下を眺める。
そして――、
「いずれ、この場にいる全員の腹を切り開くとしよう。それまではせいぜい、腸を可愛がっておくことだ」
それだけ言い残し、エインズは驚異的な底力を発揮、その姿が屋根を蹴って、貧民街の闇の中へと消えていく。
追いかけるのも至難の業、ここを戦えるアーデルハイトが離れるのも危険。
そう判断し、追跡を断念したアーデルハイトが、それから立ち尽くしている偽ルナへと振り返り、「ご無事ですか?」と声をかける。
しかし――、
「僕のことは後回しでいい! それよりも、なんて無茶を!」
アーデルハイトを振り切り、偽ルナが慌てて廃材の山へと駆け寄る。そこに、エインズの一発で吹き飛ばされたスバルが埋まっている。
偽ルナが大慌てでその残骸を掘り返すと、すぐに埋まったスバルが発掘された。
「大丈夫!? 生きてる!? 無茶しすぎだよ!」
「あ、う、だ、大丈夫大丈夫……ほら、ちゃんとガードも間に合ったし、あそこはアタシが無茶する場面、でしょ? 何とか、世界ぐるぐるしてるけど……」
「世界ぐるぐる……アーデルハイト!」
「おそらく、頭を打ったのかと。すぐに治療院の手配を……」
「い、いやいや、ストップストップ! そこまで大げさにしないで平気!」
顔色を変えて本気で心配する二人の様子に、スバルはその場に体を起こす。そして、二人の前でえっちらおっちら、ラジオ体操の動きを行い、無事を証明。
二人はそのスバルの動きを、まるで珍獣でも見るように見ていたが。
「その動きはよくわからないけど……ホントに無事、みたいだね」
「ええ、よかった。――スバル、あなたには助けられたわ。私がいたのにごめんなさい。あなたがいなかったら、この方を……」
「それもストップ! 待って、アーデルハイト! ここまで頑張って、それをあなたに言われたら、アタシって女の立つ瀬がない!」
謝罪ついでに爆弾を投下しかけたアーデルハイト、彼女を黙らせて、スバルはそれから改めて銀髪の青年の方に向き直った。
そのスバルの視線に、青年は目を丸くし、それから居住まいを正す。
話を聞いてくれる姿勢だ。
思えば、彼とこうしてちゃんとまた話すために、どれだけの苦労があったことか。その苦労に関しては、ちょっと間を端折るようなこともしたが。
周りは知らなくても、スバル自身はちゃんと全部知っているから。
――ゆっくりと、スバルが右手で空を指差し、左手を腰に当ててポージング。
「アタシの名前はナツキ・スバル! 色々言いたいことも聞きたいことも山ほどあるのは知ってるけど、そのへんは後回しで聞かせてちょうだい!」
「な、なんだい?」
「アタシってば、今まさにあなたを凶刃から守った命の恩人! ここまでオーケー!?」
「おーけー?」
「よろしいですかの意。ってなわけで、オーケー!?」
「お、おーけー……」
体全部を使ってOとKを表現するスバルの勢いに押され、青年はおずおずと頷く。そんな彼の態度に、スバルは頷きながら畳みかける。
「命の恩人、エンジェルアタシ。そしてそれに助けられたプリンスあなた。これだけのことがあったなら、相応のお礼があっても不思議じゃない! じゃない?」
「……もちろん、わかってる。僕にできることなら、って条件付きだけど」
「もち! アタシのお願いはたった一つ、オンリーワンよ!」
指を一本だけ立てて突き付け、くどいくらいにそれを強調する。
ドン引きされるかと思いつつも、一度始めたからには最後まで手は抜けないと、スバルは緊張した顔の青年に笑みを向け、続ける。
それは――、
「そう、アタシの願いは――」
「うん」
歯を光らせて、指を鳴らして、立てた指を自分の頬に当てて決め顔を作り、
「――君の名前を教えてほしい」
「――――」
そのスバルの言葉に、呆気に取られたように青年の瞳が見開かれた。
そのまま、しばしの無言が二人の間に落ちて、決め顔を維持するスバルの唇がプルプルと震え始める。
ヘマをしたか。一世一代の大舞台で、やらかしてしまったか。
いっそあの残骸に埋もれたまま、発掘されずに眠ったままの方がよかったのでは。
そんな、絶望的な焦燥感が脳裏を埋め尽くし――、
「ははっ」
その極限状態のスバルの思考は、ささやかな笑声によって打ち消された。
口元に手を当てて、白い頬を赤くして、銀髪を揺らした青年が笑っている。
それは諦めた笑みでもなく、儚げな微笑でもなく、覚悟を決めた悲愴なものでもない。ただ純粋に、楽しいから笑った。それだけの笑みだ。
そうして笑みながら――、
「――エミリオ」
「え……」
笑い声に続いて伝えられた単語に、スバルは微かな吐息を漏らした。
彼はそんなスバルの反応に姿勢を正し、自分の顔を指差して微笑みながら、
「僕の名前はエミリオ。ただのエミリオだよ。ありがとう、スバル」
「――――」
「――僕を助けてくれて」
そう言って、彼はスバルへとその手を差し出した。
差し出されたその白い手を見下ろし、スバルは息を呑んだ。。細くしなやかで、温かな血の通った、男の子の手。
――助けてくれてありがとう。
そう言いたいのは、彼だけではない。スバルの方だった。
スバルの方が先に彼に助けてもらったのだ。だからこれは、その恩返しをしただけ。
通算して三回、刃傷沙汰で命を落として辿り着いた結末。
あれだけ傷付いて、あれだけ嘆いて、あれだけ痛い思い怖い思い散々して、あれだけ命懸けの状況を切り抜けて、その報酬が彼の名前と笑顔一つ。
ああ、なんと――、
「――まったく、わりに合わないんだから」
言いながらスバルもまた笑い、固く青年――エミリオの手を握り返したのだった。
△▼△▼△▼△
――と、ここで終わっていればいい話で終われたのだが。
「それにしてもスバル、よく無事だったわね」
一通り、エミリオとのやり取りを終えるタイミングを待ってくれていたのだろう。
二人の『再会』を見届けたアーデルハイトが、スバルの無事にそう驚いている。彼女の目から見ても、エインズの最後の一撃はそれほどのものだったのだろう。
文字通り、死力を尽くした一撃だったのだ。
スバルだって、エインズの狙いがわからなければとても防げなかった。
「その棍棒でとっさに防いでなかったら、今頃真っ二つになってたでしょ」
「そうでしょうね。これがなかったら――」
BADEND4『真っ二つ』は回避できなかった。
と、あっけらかんと言ったスバルに頷いて、アーデルハイトが何気なく落ちていた棍棒を拾い――その手の中で、棍棒が真っ二つになった。
「あ」
その柄をアーデルハイトの手の中に残し、棍棒はその生涯を終えている。
それを見届けたところで、アーデルハイトの青い瞳がスバルの方を見る。
スバルもその視線を辿って、嫌な予感を感じつつもジャージの裾をまくる。そこにスバルの、一応腹筋だけしてウエストは保っている腹部がある。
打撲で色が変わっていて、目を背けたくなる惨状、そこに変化が生まれた。
――不意に、横一線に赤い筋が引かれたのだ。
「あ、ヤバい。これ、アタシにも先が読めた」
顔を上げて言った直後、その線をなぞるように、血が噴出した。
「――ちょ、スバル!?」
すぐ近くで、エミリオの切羽詰まった声が聞こえる。
ああ、やっと本当の名前が聞けたところなのに、下手したらまた終わりかも。
――でも、たとえそうだとしても、アタシはまたここにくると思う。
視界が大きく傾いて、スバルはその場に倒れて動けなくなる。
アーデルハイトが血相を変えて、近くで顔を覗き込んでくるエミリオが、その整った顔に焦りと悲痛な色を刻んでいる。
それを見て、とても場違いで申し訳ないのだけど。
――ああ、焦ったりしててもめちゃめちゃイケメンだわ、異世界ファンタジー。
そんなひどく無遠慮な感想を最後に、激痛とショックがスバルの意識を波濤の如く、どこまでもどこまでも押し流して――、
――そして、本来の歴史とちょっぴり見紛う、別側面の異世界生活は続いていくのだ。
《了?》
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
今年も、本編の分岐……分岐か? 分岐のエイプリルシナリオでした。
ほんのりと根幹部分を今回用にいじりつつ、ちょっと重要な部分もあったり。
それすら嘘の可能性がある。エイプリルフールですからね。
本編七章の更新中ですが、基本的にスバルの精神が安定すると、
スバルが闇落ちしてハチャメチャやるルートには向かわなくなるんですね。
さて、七章以降に別のお話はあるのか。いったいどうなるのか。
なお、今回のネタは今日思いついて今日書きました。
また来年も、作者の悪ふざけにお付き合いいただければ幸いです。デュワ。