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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第四章 『永遠の契約』

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第四章1  『帰り着いた場所で』

 ――生憎の曇天の空模様は、まるでスバルの今の心境を反映しているようだった。


 クルシュ邸の前に並ぶ竜車は六台。中にはロズワール領から共に逃げてきたアーラム(そういう名前の地らしい)の村民がすでに乗り込んでおり、誰も乗っていない最後の一台がスバルとエミリアに用意された特別車であった。


 道のりは長い。行きと違って子どもたちを同乗させなかったのは、道中でエミリアと話さなくてはならないことが山ほどあったからであり、さすがのスバルも『彼女』と子どもたちを一緒にさせておくほど無神経でいられるわけでもなかった。


「寂しくなってしまいますね」


 静かに、竜車の列を眺めていたスバルの背後から声が届く。

 首だけで振り向く先、スバルの方を見ているのはクルシュだ。長い緑髪を湿った風に撫でられながら、目を伏せる彼女にスバルは頭を掻き、


「長居しても事態の進展がないし、ずるずるお世話になりっ放しでもしょうがないからさ。――本当なら、ゆっくり静養でもしてるべきなんだろうけど」


 拳を開閉し、スバルは自身の体調を鑑みながら苦笑する。

 思い返せば当初、スバルはこの屋敷へは悪化した体調の回復のために訪れたのだ。そこへはロズワールの裏の意思が介在しており、癪ではあるがあの道化のその願いは見事に達成した形になる。建前は破綻し、達成したそれも踏みにじられた形だが。


「ナツキ・スバル様にその意思がおありでしたら、当家としてはいつまで滞在していただいても構わないのですが……そうも言えませんよね」


「厚意は嬉しいですし、学ぶ点も多いとは思うんですけど、こっちも片付けなきゃなんない課題が山積みで。白鯨のことも『怠惰』のことも、互いの状況が落ち着いてからじゃないと丸ごと商人勢に持ってかれかねませんから」


 好意的なクルシュの言葉に首を横に振って答えて、スバルはユリウスを含めたアナスタシア陣営のことを考える。

 現状、白鯨の討伐と『怠惰』の討伐の事柄に関してだけ考えれば、三陣営共同作戦というべきこれは戦果と被害の兼ね合いで見て彼女らの圧勝だ。

 白鯨討伐という四百年の月日を経た偉業を成し遂げたクルシュ陣営――しかし、当主であるクルシュが受けた被害もまた軽視できない。

 『怠惰』討伐の主軸となったスバルたちエミリア陣営もこれは同じであり、事情に精通するロズワール抜きで事態が進行するのは良い兆候ではない。被害もまた、クルシュ陣営ほど致命的とはいえないが、スバルにとっては大きすぎる傷を残した。


 傭兵団の一部を失ったものの候補者と騎士、その他戦力が健在なアナスタシア陣営はどちらの討伐に関しても主幹とはいえないが、大きな役割を果たした上に被害も少ないという高配当である。

 先の被害――それらの大きさから他の両陣営が今回の手柄に関して大っぴらに公表する時期を躊躇するのに対し、それがないというのも大きい。

 依然、アナスタシア陣営を牽制する意味でも、クルシュ陣営との密接な繋がりは維持していかなくてはならないのだ。


 そんな意図を含めたスバルの判断に、しかしクルシュは物憂げに吐息を漏らす。その仕草に眉根を寄せるスバルに、彼女はわずかに恥じた顔で「いえ」と手を振り、


「女々しい態度でしたね。ただ、大恩のある方にさしたる助力もできず、足りない自分を恥じ入るばかりで……」


「貸し借りを即返済ってのは取立人にとって楽な相手だけど、自分が大変なときにそこまで気を遣わなくて大丈夫ですよ。ってか、ちゃんと報酬はもらったわけだし」


 畏まるクルシュに言いながら、スバルは列を為す竜車の先頭をちらと見る。

 他の竜車に比べていくらか装飾過多なそれはVIP待遇を示す高品質車両であり、その栄誉ある竜車を引っ張る地竜は――、


「欲のないお話です。負傷した地竜を治療して、それを引き取りたいだなんて」


「命の恩人……ならぬ恩竜か。付き合った時間は短いですけど、くぐった死線の数は下手したら俺の人生で最多の相棒なんで。今後も俺の苦難に付き合わせる意味で、パトラッシュからしたらたまったもんじゃないかもと思ったりもしますが」


「――その点でしたら心配は御無用でしょうな」


 地竜――パトラッシュを横目にしながらのスバルの言葉に、柔らかに否定を投げかけたのはヴィルヘルムだ。それまでパトラッシュが引く竜車の調子を確かめていた老剣士は、二人の会話に割り込むことを会釈で断り、


「地竜の中でも気難しいとされるダイアナ種が、身を呈して乗り手を守るなどなかなかあることではありません。スバル殿はずいぶんと、地竜に懐かれましたな」


「大したことした記憶はないんですけどね。白鯨戦前に好きな地竜を選んでいいよって言われたときから、ピンときたあいつを選んだってくらいで」


 相性がいい、というのは事実なのだろう。その点も含めて運が良かった。

 仮にパトラッシュ以外の地竜と組んでいた場合、白鯨戦もその後の『怠惰』との戦いに関しても、命を繋げたとは思えないのだから。つまり、


「俺はもう、お前以外の地竜じゃ満足できない体……きゃっ、パトラッシュの男殺し!」


 滑らかな質感の横腹あたりを掌で触れて、しなを作るスバルは上目にパトラッシュを見る。と、地竜はそのスバルの馴れ馴れしい態度に心底嫌悪感を抱いたような目つきでこちらを見下ろし、体を揺すぶってスバルの手を突き指させようとしてくる。


「あっぶね! 照れ隠しにしてもお前それはやり過ぎだろ。突き指とか、中学で雑巾がけの勢い余ったとき以来のドキドキだよ! 軽くトラウマるわ!」


「なに、地竜のちょっとした戯れでしょう。そうして仲睦まじく言い争えるのも揺るがぬ信頼関係があればこそです」


「言い争ってるように見える!? 一方的に俺が喋くって、パトラッシュは肉体言語で俺を拒絶してるように感じるけど!」


 修羅場では言葉にしなくても伝わる信頼関係も、こうして一度愁嘆場を離れてしまえばこの様である。気位の高いお嬢様の相手は案外難儀だ。もっとも、つれない態度をとっていても最終的には撫でさせてくれるのだが。

 ともあれ、


「白鯨討伐の結果に名前入れてくれるって話だし、『怠惰』討伐とエミリアたんの無事は守れた。その上で気に入った地竜ももらえる……報酬としちゃ、上々でしょ」


「白鯨を討った、ということがどれほど大きなことなのか、自覚のないところがスバル殿の美点と言えましょうな。いずれもっとちゃんとした形で、その大業に世界が報いることがあるでしょう。その日が楽しみですよ」


「そんな大それたことしてねぇと思うけどなぁ、俺。鯨の鼻先で餌の振りして走り回ったってのが実状じゃね?」


 謙遜するでもないスバルの発言に、ヴィルヘルムはどことなく微笑ましいものでも見るかのような目つきを向けてくる。その視線の温かさにむず痒いものを感じつつ、しかしスバルはそれらの感慨を振り切るように首を振り、


「ま、パトラッシュのことはいいとしておいて……ヴィルヘルムさんとも、しばらくはお別れってことになりますね。傷、養生してくださいよ」


「ご心配をおかけしまして。――どうやら距離が離れたのか、今は出血するだけで済んでいます。いずれ、またスバル殿と並び立つ日もくるでしょう。そのときに」


 ヴィルヘルムの傷――先代剣聖であるテレシアに与えられた塞がらない傷口。その古傷が開いた事実を前に、ヴィルヘルムの瞳が宿す光は鋭い。彼の意識はクルシュを襲った大罪司教、『暴食』と『強欲』の二人に向けられている。

 仮に剣鬼の妻の死に、白鯨以外のなにかが関わっているとするならば、直近にいたその二人が最大の有力候補だからだ。


 スバルもまた、ヴィルヘルム同様に『暴食』には強い恨みがある。

 いずれ、必ず相対することになるだろう大罪司教。できるなら顔を合わせたくない集団の筆頭である連中だが、『暴食』だけは話が別だ。

 立場だけを知るその大罪司教を必ず打倒し、取り戻さなくてはならないものが多い。クルシュの記憶もそうであるし、なにより――。


「スバルきゅん。レムちゃん、固定したから確認したげて」


 言いながら、竜車から身を乗り出すネコミミの人物――フェリスだ。パトラッシュが引く竜車の中、そこから顔を覗かせた彼に従ってスバルも竜車へ駆け寄り、中を覗き込む。と、広い車内の座席を一ヶ所潰し、備え付けられた簡易的な寝台にひとりの少女が寝かされているのが見えた。

 見慣れた給仕服ではなく、水色がかった薄手の衣に身を包む、青髪の少女。目覚めることのない眠りと、その存在の一切を周囲から忘れられたひとりの少女。

 スバルを愛し、スバルもまた愛そうと、そう思っていたはずの少女。


「振り落とされたりとかないよな」


「そこらへんはちゃんと気を遣ってるってば。曲りにゃりにも治癒術師ですしぃ? といっても、レムちゃんの外傷自体はとっくに治療終わってるから、病人とも患者さんとも呼びづらいとこではあるけどネ」


 安らかに見える寝顔を眺めながらのスバルに、フェリスの口調はあくまで軽々しい。が、その横顔は普段のとぼけた態度とは一線を画しており、自身の力が足りないことへの痛切な感情は彼もまた持ち合わせているらしかった。

 もっとも、その無力さを痛感した理由はレムではなく、彼の無類の主が原因であるとは思うが。


「ホントに連れて帰るの?」


「連れ戻るよ。ここにいて静養してても治るわけじゃねぇし……いや、今のは別にお前に皮肉言ったわけじゃねぇけど」


「わかってるってば。スバルきゅん、そこまで性格悪くにゃいもんネ」


 発言がきつくなったかとフォローを入れるスバルにフェリスは苦笑。と、それからすぐに彼の瞳の瞳孔が細まり、「それより」と立てた指をスバルの顔に突きつけ、


「レムちゃんもそうだけど、もっと大きにゃ問題はスバルきゅんでしょ」


「俺?」


「そだよぅ、とぼけちゃって。ゲート、また無理させちゃったじゃにゃい? 治療途中だったとこに無理くりマナ大量に流し込んで、ゲートの出入り口に少にゃくにゃいダメージがあったはずにゃんだよネ。体、だるかったりしにゃい?」


 フェリスの問いかけにスバルは首と肩を回す。

 ぐるぐると、外傷の治療は終わった体に不調な様子は見当たらない。その場で飛び跳ねたりしてみるが、彼の懸念するような問題は特段出てこなかった。


「んにゃ、問題なさげ。もともと、使ってるようで使ってなかったりした部分だしな。ゲート云々はともかく、魔法なんて日常普段から使うようなもんでもないし」


「魔法使いじゃにゃい人の発想だよネ。フェリちゃんからしたら、魔法が使えにゃいとか緊急事態以外の何物でもにゃいんだけど……ま、それでいいにゃらいいか」


 あっけらかんと危機感のないスバルに、フェリスもそれ以上の追及は諦めた様子。ただ、彼は引くと見せかけてぐるりと首を巡らせ、その大きな瞳をくりくり動かし、


「だけど、無理させたらダメにゃのは継続中だかんね。スバルきゅんの体の中の毒素は押し出したつもりだけど、それで傷付いたゲートがズタズタにゃのは治ってにゃい。じっくり時間をかけて修復して……二ヶ月は、様子を見てネ」


「二ヶ月、ね。十七年も魔法使ってなかった人間には低いハードルだよ」


 などと診断に軽口を叩いてみせるが、そもそもこの世界に入ってからまだ二ヶ月も経っていないことを思い出す。体感時間ではそろそろ四ヶ月近い時間が経とうというところだが、実時間では約一ヶ月半――ずいぶん、遠くまできたと感じる。

 それまでの間に起こった数々の出来事を思えば、二ヶ月の安静という内容がどの程度のハードルなのか、自分でもよくわからなくなってきたが。


「まぁ、さすがにそうそう騒動にばっかり巻き込まれるはずが……なんか、今の俺の発言ってフラグ臭くなかった!? ピコンって聞こえた気がしたよ!」


「残念にゃがら頭の方の治療はフェリちゃん、専門外にゃんだよネ」


 自分の発言を省みて愕然とするスバルに、いよいよ冷たいフェリスの反応。

 それを受けて、そろそろこの場の話も終わりにすべきかとスバルも判断。それから思うところあり、スバルはフェリスにそっと手を差し出した。


「にゃに?」


「いや、色々と助かったってちゃんとお礼言ってなかった気がして。俺の体の治療もそうだし、ぶっちゃけ白鯨とか『怠惰』のときもお前いなかったら無茶利かない場面とかいっぱいあったしな。……レムのことも、感謝してる」


「……それ、嫌味とか皮肉じゃにゃいと思うけど、それにしかにゃってにゃい」


「俺のスキル、『ノット・エア・リーディング』が発動したんだ。我慢してけれい」


 素直な礼の気持ちだったのだが、フェリスにはお気に召さなかった様子。が、その気持ちだけは伝わったのだろう。差し出した手をフェリスもまた握り返し、しっかりと握手が成立。こうして、彼の掌を触ってみると、


「指ほっそ、手ぇちっちゃ。ごつごつして指は男らしい……みたいな展開になるかと思いきや、そんなこともないのね」


「こんだけ完璧に可憐に装ってるフェリちゃんが、そんにゃガッカリ展開にゃんて見せちゃうわけにゃいでしょ? 無駄毛も肌荒れも一切にゃし、天然ものです」


 自慢げに握られていない方の手を持ち上げ、ちらりとスカートから白い足を覗かせる。透き通るような脚線美が大胆に晒され、スバルはげんなりと肩を落とし、


「だが、男だ」


「そう、フェリちゃんは身も心も男にゃのです」


「その自負がある癖にその格好かよ。それって、男としてどうなん?」


 なよなよしい格好が男として許せん――というほどスバルは前時代的ではないつもりだが、少なくともフェリスの立ち振舞いが男らしさと対極の道を突っ走っていることぐらいはスバルにだってわかる。

 そんなスバルの問いかけにフェリスは口元に指を当て、悩ましく腰を振りながら、


「だってぇ、フェリちゃんにはこういう格好が似合うってクルシュ様が仰ったんだもーん。そのものにはそのものの、もっとも魂を輝かせる姿が似合う。――クルシュ様のお言葉に、フェリちゃんは全身全霊で応えるだぁけ」


「でもそれは……」


 今のクルシュは知らないことだ、と続けそうになって途中で止まる。

 そんなこと、スバルに言われるまでもなくフェリスだってわかっている。敢えて口にしたところで傷付くだけだし、なにより自分がされて嫌なことを彼に対してするなど言語道断だ。

 レムのことを知ったように言及されることに自分が苛立つのなら、フェリスだってスバルにそんな言葉を聞かされたくはないだろう。


「――カルステン家がどうなろうと」


「……え?」


 ふいに、それは押し黙ったスバルの鼓膜を鮮烈に叩いた。

 静かで、冷たく、感情の凍えた声音だった。それが誰のものであったのか、つい今まで、この目の前で聞いていたにも関わらず気付くのが遅れるほど。

 俯いたフェリスの表情は、額から落ちた前髪が邪魔でうかがうことができない。

 その姿勢のまま、フェリスはスバルの握った手を強く握り、


「クルシュ様だけは、必ず私がお守りする」


「ふぇ、フェリス?」


「だーかーらっ」


 声を詰まらせるスバルの前で、フェリスが突然に声を弾ませて顔を上げた。そこに宿るのは普段の悪戯な眼差しそのままであり、今の一瞬の変貌が嘘のような姿で、


「スバルきゅんも、約束守ってくれなきゃだヨ? じゃにゃきゃ、体の中のマナが暴走して狂い死にしちゃうゾ」


「笑顔でとんでもおっかねぇこと言うなよ! あと同盟相手を脅迫もすんな!」


「脅迫ってより、死刑宣告?」


「より悪いわ! ったく」


 振り切るように握手の手を離し、スバルはフェリスに背を向ける。ちらと、今の騒がしさでレムに変化がないかとうかがうが――それは淡い期待が過ぎた。

 小さく吐息をこぼし、裏切られた期待を忘れて竜車の外へ。そこへはちょうど、屋敷からの荷物を抱えたエミリアがクルシュたちと言葉を交わしているところで。


「あ、スバル。レムさんのベッド、ちゃんと準備できた?」


「ああ、フェリスがばっちり。これで俺がパトラッシュと絶妙なコンビネーションで木下大サーカスやっても落っこったりしないよ」


「よくわかんないけど、すごーく嫌な予感がするから大サーカスしないでね?」


「そら残念。心臓ドキドキでエミリアたんに吊り橋効果を期待したのに」


 名付けて、『自分の運転で命の危機に晒しつつ、このドキドキってひょっとして恋!?』作戦というマッチポンプの塊みたいな策だったのだが。

 ともあれ、エミリアの口から『レムさん』という呼び名が出てくることに、悟られない程度の痛みが胸中を刺すのをスバルは止められない。


 エミリアの瞳が一瞬、軽口を叩いて口を閉ざすスバルを見て細まる。が、それに対する彼女の言及があるより先に、スバルの後ろから出てきたフェリスが地に降り立ち、


「さって、竜車の準備もできたみたいだし、あんまり時間を取っても名残惜しいだけだかんね。――クルシュ様、最後になにかお言葉があれば」


「ええ、そうですね」


 仕切るフェリスが主を前に出すと、クルシュが一歩こちらへ足を踏み出す。上からでは失礼と、フェリスと同じように竜車から降りたスバルはエミリアの隣へ。そうして二人を視界に入れて、クルシュはまず大きく息を吸い、胸に手を当てて、


「まず、何度も繰り返していますが、お二人に深い感謝を。こうして私が記憶を失いながらも命を繋ぎ、記憶を失う前の私の望みが繋がっていることにはお二人の協力があってこそだと思います。ありがとうございます」


「い、いえ……私は、クルシュ様に感謝されるようなことはなにも。私、この数日の事件のほとんど蚊帳の外で……」


「ま、実質エミリアたんは空手柄だよね。でも、そこは俺の活躍がきっちりあったから安心していいよ。俺の手柄は、俺のエミリアたんのものだよ」


 恐縮した様子で畏まるエミリアを、スバルが気楽な態度で胸を叩いてフォロー。それを聞き、エミリアはスバルを横目にして小さく頷き、


「ありがとう。――私、まだスバルのものになった覚えないけど」


「ぐっ。どさくさ紛れに第三者に聞かせて否定できなくする策が見抜かれた……!?」


「油断も隙もないんだから。……あ、話がそれちゃってごめんなさい」


 胸を押さえて大きく下がるスバルに吐息を当てて、エミリアは置いてけぼりにしてしまったクルシュに謝罪。が、クルシュはそんな二人のやり取りを楽しげに見て、


「いいえ、仲がよろしくて羨ましいです。私も早く、以前のようにフェリスやヴィルヘルム様と打ち解けなければいけませんね」


「フェリちゃんはぁ、いつだってクルシュ様には心も体も全開状態ですよぅ」


 両手を頬に当てて、くねくねと体を揺するフェリス。背後でタコみたいに動く男の娘を置きながら、それを受け入れる器にだけは変化のないクルシュが女性らしい微笑みを浮かべて、


「また必ず、近い内にお会いしましょう。エミリア様やナツキ・スバル様とは、末永く親しく付き合いたいと思っております」


 それは嘘偽りのない、彼女の本心であるのだろうとスバルは思う。

 記憶を失ったとしても、その高潔さは彼女の中心から失われていないのだ。誠実の二文字を輝かせる彼女の生き様に、嘘やお為ごかしの装飾は似合わない。

 それがはっきり伝わったからだろうか。エミリアが驚いたように目を見開き、かすかに唇を震わせながら、


「私は……クルシュ様にとっては対立候補です。同盟を組んではいても、きっといつかは争う立場に戻ります」


「ええ、そうですね。エミリア様が対立候補でしたら、私も負けないようにしっかり努めなくてはなりませんね」


「それでなくても、私はハーフエルフです。それも銀髪の。……恐ろしくは、ありませんか?」


「エミリアたん、それは……」


 尋ねなくてもいい質問だと、スバルはそれを止めようとする。が、エミリアの横顔に宿る真剣味と必死さ、それがわかってしまえば言葉を続けられない。

 エミリアは本気で、この問いかけを発している。彼女の想いを一端でも知っている身として、軽々しくその問いに割って入ることなどできなかった。

 そしてなにより、その問いかけに相対している人物がクルシュ・カルステンであることをスバルは知っていた。――止める必要など、ないことも。


「魂の在り方が、その存在の価値を決める。己にとっても、他者にとっても、もっとも輝かしい生き方こそを、魂に恥じない生き方こそを人はするべきなのだ」


「――――」


「と、以前の私は口癖のように言っていたそうです。なんというか……こうして客観的になれるようになってから聞くと、ずいぶんと上から見た言葉ですよね」


 口元に手を当てて、クルシュは自身の過去に堪え切れない笑いを噛み殺す。それを聞くエミリアは呆然と、ただただ押し黙るばかりで。


「エミリア様は、ご自身の生き方を恥ずかしいとお思いですか?」


「……思って、いません。私は周りにどう思われたとしても、自分だけは自分を嫌わずにいられるよう、そうあれるように思って生きてきました」


「でしたら、なにを悔やむことも恐れることもありません。己を磨き、努力を重ねて、自分の在り方を真っ直ぐに通す――あなたは、すばらしい魂をお持ちです」


 微笑み、クルシュは胸に当てた手をエミリアの方へ差し出し、


「あなたと知り合えて、私は嬉しく思います。恐れなど、どこにもありません」


「――っ」


 エミリアが胸に痛みでも覚えたように唇を噛み、差し出される手を見下ろす。クルシュは急かすこともせず、彼女の動きを静かに待っている。

 やがておずおずと、エミリアの指先が彼女の掌と絡み、柔らかな握手が交わされ、


「どうか壮健で。また遠からず、お会いできるのを楽しみにしています」


「私も……いいえ、私も、今度はクルシュ様の前で真っ直ぐ立てるようになっておきます。それまで、どうかお元気で」


 二人の王選候補者が互いの健闘を誓って、約束が交わされる。

 その二人のやり取りを隣で見ながら、スバルの胸中をひとつの達成感が満たした。それはスバルが苦しみ、足掻き、傷付いて、それでようやく手に入れた形のひとつだ。

 なにもかも全て、完全に拾い上げて辿り着くことこそ、できなかったけれど。


「そうやってやり遂げたことも忘れて悲しい顔する理由を、お前のせいにしたくねぇよ、俺は」


 ちらと竜車を見て、スバルは車内に眠る少女の姿を瞼の裏に思い浮かべる。

 この祝福すべき場面で、下を向いている理由にレムを使うことなど自分に許せない。そうされることなど、彼女も望んでいない――そう考えるのは、エゴなのだろうか。


「ナツキ・スバル様も、どうぞご壮健で。あなたの今後のご活躍と……彼女の容態が回復することを心よりお祈りいたします」


「俺が大活躍するような事態、あんまない方がいいと思うけど。……ぶっちゃけ、俺ってば猫の手も借りたいような最終手段にしか役立たない男だし。レムのことに関しては、クルシュさんも他人事じゃないんだ。どうにか、必ずしますよ」


 スバルにも同じように差し出された手。それを握手という形で受け止めるのがどこか気恥かしくて、スバルはそれを誤魔化すように彼女の手に掌を合わせる。

 小さく渇いた音が鳴り、それでスバルと彼女の触れ合いは終わりだ。弾かれた手を見てクルシュは小さく目を瞬かせると、


「また必ず、お会いしましょう」


 そう言って、主従共々に凛とした態度で腰を折り、スバルたちを見送ったのだった。



※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 ――帰路につきながら、竜車は微妙に重苦しい空気で満たされていた。


 報酬としてクルシュからもらったパトラッシュが引く竜車は、これもまた彼女らの感謝の印だろう――装飾を別にしても高価な造りなのがわかる代物で、座席の柔らかさに内装の艶やかさと落ち着かないにもほどがある。

 広々とした車内は十名近くが乗り込んでも余裕ができるようしてあり、その空間を実質的に三人で使っているとなれば持て余すのも当然だ。


 現在、車内で沈黙を守っているのはスバルとエミリア、そして昏々とした眠りについているレムだけであり、眠り姫の隣に控えるスバルはその場を離れる気が起きず、エミリアもエミリアで意識のないレムに気を遣っているのか口を開く様子がない。

 その結果、どうにも気まずい空気だけが流れ出しているのだった。


「――――むぅ」


 これはいかんな、と腕を組みながらスバルは思う。

 騒ぎ立てるのは言語道断としても、話さなくてはならない話題はいくらでもある。王選への今後のスタンスもそうであるし、そもそもクルシュとの同盟をまとめるに至ったここ数日間の互いの情報のすり合わせも完全ではない。

 レムの身柄に関しても、スバル以外の記憶に残っていない現状では屋敷でどう扱われるかも心苦しい。ラムが眠るレムを見て、なにを言うのか考えただけでも背筋に寒気が走ろうというものだった。もちろん、避けられることではないが。


「気遣われてんのはわかるけど、これならガキンチョ共が一緒の方がいくらか気分的にマシだったかもな……」


 ロズワール領へ戻る竜車の群れの中には、当然ながら行きの竜車で同乗していた村の子どもたちの乗る車両も含まれている。現在、子どもたちは親らと一緒の竜車へ乗っているはずであり、それらは聞かれては困る話もあるだろうと村人たちが率先して気遣ってくれた結果だ。その計らいがどうにも、裏目に出た感があるが。

 さて、どうしたものか――とスバルが珍しく後先考えながら視線を上げると、


「なんだかひょっとして、話題がなくて困ってたりします? もうこの、重苦しい沈黙というかそういうのに僕耐えられないんですが」


「さらっと入ってきてなにを言い出すんだよ、お前。っていうか、いたの?」


「ひどいですねえ!? いるに決まってるじゃないですか! 僕がそもそも、どんな条件でナツキさんに協力したか覚えてないんですか!?」


 オーバーリアクションで唾を飛ばすのは、顔だけ覗かせて喚き散らすオットーだ。御者台にて竜車の御者を務める彼は、車両と御者台を繋ぐ連絡口から傾けた顔を差し込んで、静まり返る車内の様子に言及していた。

 オットーの物言いにスバルは首を傾げ、「あーあー」と何度か頷き、


「思い出した思い出した。そうそう、確かロズワールに会わせてほしいって話だったよな。……しかし、なんていうかあれだな」


「なんです?」


「いや、男に走るだけならまだしも、相手がロズワールっていうのはどうなのかなって思ってさ。……あ、俺はノーマルだし、エミリアたんがいるから狙われても困る」


「そういう話じゃないはずなんですけどね! あんた、僕のことなんだと思ってたりするんですかねえ!?」


「賑やかし系商人?」


「イロモノ扱い!!」


 心底心外だ、とでも言いたげに目を剥くオットーに、やれやれとスバルが首を振る。と、そんな二人のやり取りを眺めていたエミリアは目を丸くして、


「なんだか……二人ってすごーく仲良しなのね。びっくりしちゃった」


「おいおい、エミリアたんてばそんなのよしてよ。こんな金に飢えた亡者と一緒とか……俺は君からの愛にだけ飢えた亡者だよ」


「亡者じゃん! 亡者じゃん! っていうか、僕は亡者じゃないですけど!」


「オットー、うっさい」


 騒ぎ出す行商人にため息をこぼして、スバルは立ち上がるとつかつか前へ。そして連絡口の蓋を掴むと、


「あ、ちょっと、そうやってすぐに僕を邪魔者扱いして――」


「はい、シャットアウト!」


 ぴしゃりと音を立てて連絡口が閉ざされ、最後まで何事か叫んでいた小うるさい男の顔が見えなくなる。手をはたいて一仕事終えた感に浸りつつ振り返れば、エミリアはそんなスバルをきょとんと見上げていて、


「ぷっ」

「ひはは」


 互いに顔を見ているうちに、ふと噴き出して笑ってしまう。

 そのまま笑いの衝動に任せてしばらく笑声が弾け、それから静かにその声もフェードアウトしていく。そしてその衝動が収まれば、


「気まずい空気を読んで黙るとか、俺らしくなかったな」


「そうね、スバルらしくない。私の知ってるスバルはもっといつも元気で、無茶で、こっちの気持ちなんて全然関係ないぐらい気持ちよく騒がしい人だもん」


「それ、空元気で空気読めない奴って風に翻訳できる気がするんだけど」


 ともあれ、オットーの存在のおかげで場の空気がほぐれたのは事実だ。

 感謝するのは癪ながらも、オットーに感謝してエミリアの隣に腰掛ける。当たり前のように隣に座るスバルにエミリアは苦笑し、


「もうサッと、隣に座るよね、スバル」


「そら、好きな女の子の近くにいたいと思うのは当然というか当たり前だから。なるたけ近くで、エミリアたんの吐いた空気で呼吸してたいね」


「途中まで恥ずかしかったのに、途中から急にすごーく嫌な感じになったんだけど」


 好意を素直にぶつけられて顔を赤くしつつも、後半の変態性の高い内容にエミリアは顔をしかめる。その彼女の反応に首を傾げて、


「いやほら、いつもの俺でいこうと思うとついこういう発言が」


「そうよね、スバルってそういう人。そんなだから、いつだって私はスバルの言うことちゃんと受け止めてあげられなくて」


 ジッと、エミリアがこちらを見つめて言葉の先を濁す。

 頭を掻き、彼女が躊躇った先を引き継ぐべきかスバルは悩みつつ、


「ふざけてる風を装わないと本気で口説くのもできない男の子心理なんだよ。俺がエミリアたんを好きなのも、エミリアたんをエロい目で見てるのも、エミリアたんの助けになりたいのも全部本当の本気。信じてくれていいぜ?」


「信じるけど、受け入れるのとはまた別のお話だからね?」


「いいよ。信じて、その上で受け入れてもらえるように努力すっから」


 振り返って、けっこう攻め気の強い発言が飛び出したな、と他人事のように思う。実際、スバルにそう言われたエミリアのどぎまぎぶりはかなりのものだ。

 表情は平静を保つよう努力しているが、頬と耳がフォローできないぐらい赤い。きっとこうして、無条件の好意を示された経験がないのだ。もちろん、口説く側のスバルも経験がないものだから、なんだかんだで顔真っ赤なのだが。

 それでも、


「気落ちして下向いてるより、こっちの方が俺らしいもんな。だろ、レム」


「……今、なにか言った?」


「エミリアたんの綺麗な髪の毛持ち上げて、うなじ視姦したいなって」


「すぐそうやって誤魔化す。……レムさんのこと、気にしてるでしょ」


 軽口で逃げようとしたスバルの道を塞ぎ、エミリアがはっきりそう告げる。それを受けてスバルは苦笑し、寝台に眠るレムを見据えて、


「気にしてる。すっげぇ、気にしてる。どうにかしなきゃってずっと思ってるし、ずっと考え続けると思う。エミリアたんを一番に考えてたいとは思うけど……これは順番つけられることじゃねぇんだ。ごめん」


「怒ったりしたらすごーく嫌な子じゃない、私。そんな大事なことで怒ったりしないもの。……あの子がスバルにとって大事な人なの、見てればわかるから」


 スバルと同じく、眠るレムを見てエミリアが瞳を細める。それから彼女は唇を震えさせ、しばしの躊躇いのあとで、


「好きな子、なんでしょ?」


「好き、大好き。エミリアたんとおんなじぐらい好き」


「こういうこと言うとなんだけど……スバルって、浮気性なの?」


「わりと一途なつもりでいたはずなんだけど、あんだけ尽くされて心動かない奴ってもはや血も涙もないと思うんだよね」


 ここ数日間のループを思い出し、その間にレムから受けたあらゆる無償の愛を思い出す。それらを受けて、どうして心動かずいられようか。

 気付けばスバルにとって、彼女の存在はあまりに胸を占める割合が大きすぎる。


「私のこと、好きだって言ったくせに」


「言っとくけど、俺もレム好きだけどレムの方が俺のこと超好きなんだよ? べた惚れだから、マジで不思議なことに」


 腕を組んで、無償の愛を捧げられることに関してだけは疑問を抱かずにいられない。レムぐらいできた女の子に、あれほど愛される価値が自分にあるだろうか。

 今でも、そう思わずにはいられない。その価値に見合うだけの男にならなくてはならないと、そうも思っているけど。

 と、そんなスバルの自己評価にエミリアはふっと唇をゆるめて、


「わかる気がする」


「へ?」


「レムさんがスバルのこと、すごーく好きになる理由。きっと間近で、スバルのいいところばっかり見せられちゃったのね。スバルって、時々すごーくかっこいいことする病気みたいだから」


「病気て。反論は……まぁ、できねぇけど」


 頬を掻き、スバルは口を尖らせて不満をアピール。エミリアはそんなスバルの反応には取り合わず、「そうよ」と澄まし顔で目をつむり、


「私、そんな簡単に陥落したりしないから」


「その方が挑み甲斐があるよ。いずれエミリアたんも俺にメロメロにさせて、目を覚ましたレムと俺を取り合って大岡裁きだ。ああ、考えただけでニヤニヤする!」


 エミリアとレムに両手を引っ張られて、ひとつしかない体を取り合われるのだ。それはなんとも、幸せで頬のゆるむ光景なのだろう。

 だからきっと、いつか必ず――。


「千切られるまで、引っ張ってもらわなきゃな」


「なにを考えてるのかわからないけど、言っておかなくちゃいけない気がするから――千切ったり、しないもん」



※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 そんな会話を皮切りに、車内での話し合いは円滑に進んだ。

 もともと、半日近い時間の猶予が持たされた移動だ。語るべきことは多くとも、それをすり合わせるだけの時間も十分にあった。

 互いに数日間の情報を交換し、最後にはオットーも交えて今後の方針が練られた。

 結果、話し合いがまとまってみれば、


「けっきょく、ロズっちと顔合わせて話しなきゃまともに方策も練れねぇんだよな」


 なんだかんだ、話の帰結は最初の時点に戻るよりない。

 つまるところ、エミリアの陣営の保有能力や戦力を把握しているのはロズワールだけであり、彼を交えなくしてエミリア勢は立ち行かないのだ。


「まぁ、聖域に向かったラムがロズワールと合流してりゃ、自然と屋敷の方にもご帰還願えるだろーよ。したらまず、横っ面ひっぱたいてそれから話し合いだ」


「雇い主のはずの辺境伯に対して、ずいぶんと攻撃的ですね、ナツキさん」


「それぐらいやっても許される権利が俺に、そしてそれぐらいやられてくれなきゃ許されない罪が奴にはあると俺は思う」


 振り返ってロズワールのやらかした所業を思えば、スバルが一発で済まそうというのがどれだけ穏当な判断なのかわかろうというものだろう。エミリアも、意気込むスバルを止めるつもりはないらしく、「一発なら」と許容の構えだ。

 ともあれ、話し合いがそんな形でまとまって、いざ領地での話し合いを目前、森を抜けて村へ戻ってみて――すぐ、スバルたちは異変に気付いた。


 見慣れた村の風景、人気のないそれはペテルギウス攻略に向けて、住人たちを避難させた直後の殺風景さそのものであり、逗留していた討伐隊の姿もない現状は以前のそれよりもさびれている。

 もっとはっきり端的に述べれば、村人の戻った形跡が見当たらないのだ。


「見た感じ誰もいませんよ、ナツキさん。荒らされたとかそういうんじゃなくて、誰も戻っていない感じです」


 竜車を降りて、村人たちと軽く村内を見て回った感想をオットーが口にする。彼とは別グループで見て回ったスバルも、遺憾ながら同意見だった。

 静けさのあまり、以前のペテルギウスらの手による村人虐殺のフラッシュバックがスバルの全身を襲ったが、それらが思い過ごしであるのだけは確認できた。

 だが、それではかえって別の問題が発生してしまう。


「ラムが言ってた『聖域』ってのは確か、こっから七、八時間の距離って話だったはずだが……王都で三日も居残ってた俺らより、帰りが遅いってどういうことだ?」


「魔女教を討伐できたっていう状況が把握できてないから、警戒してるんじゃ?」


「領地見捨ててロズワールが? 俺の想定だと、『怠惰』とロズワールが真正面からやり合ったら十中八九ロズワールが勝つ。真正面からやらないのが『怠惰』のやり方だと思うけど……それにしたって、偵察ぐらいするだろ」


 空すら飛べるロズワールなら、襲われた自領の偵察ぐらい簡単にできるはずだ。そして偵察する意思があれば、魔女教が一掃された屋敷周りの安全が確保されていることぐらいは確認できるはずだ。それがないということは、


「慎重策をとってるか……」


「『聖域』でなにか、問題でも起きてる……?」


 スバルとエミリアの間で意見が一致し、互いに顔を見合わせて頷き合う。いずれにせよ、『聖域』の状況を確認できなければ事情はわからないのだ。


 二人の懸念はそのまま、村にとっては村民への懸念でもある。

 なにせ、ラムと同道して『聖域』へ向かった村民は村のおよそ六割。エミリアと同行することを強固に主張した子どもたちと、その親や青年団数名を含めた四割だけが村への帰還者であり、これでは村の機能が著しく低下してしまう。

 村人たちの心境も、決して明るい方へ傾くことはないだろう。


「いずれにしても、どうにかしなきゃだ。……とりあえず、屋敷の方に戻ろう。レムを落ち着かせてやりたいし。オットー、お前も泊まる場所ないだろうから屋敷だ」


「うええ!? へ、辺境伯のお屋敷で御厄介に!? そんなとんでもない状況に与るくらいなら、竜車で寝泊まりする方がいっそ気楽なんですが!」


「うるせぇ、巻き込まれろ。もはや一蓮托生だ。死にかけるまで扱き使ってやるぜ」


 ぶつくさと文句を垂れるオットーを無視して、パトラッシュに指示を出すとスバルたちは村人と別れて屋敷へと向かう。

 徒歩で十五分、竜車でならほんの五分の距離にあるのは懐かしのロズワール邸だ。

 前回はゆっくりと見て回る余裕もなかったが、こうして改めて見上げてみれば感慨深いものがあった。


「つっても、変化はなさそうだな。……ラムたちが戻ってる感じはないか」


「でも、中には変わってないならベアトリスがいるはずよね。『聖域』の場所、あの子が知ってるといいんだけど」


「あ、そっか。やっべ、俺もエミリアたんも『聖域』の場所知らねぇんだ。ロズっちとかの安否確認しようにも手段がねぇじゃんか」


 根本的な部分で方針が破綻しかけて、スバルは先行きの暗さに眉根を寄せる。

 エミリアもその整った面貌に憂いの色を落とし、オットーは会話に混ざらずに物珍しそうに周囲を見るのに夢中な様子だ。


「ちっ。とにかく、今はベア子がなにか知ってるのを祈るしかないな」


「今、僕の方を見ながら舌打ちしませんでした?」


「ちっ。自意識過剰だよ。お前が思ってるほど、誰もお前に興味なんてない」


「言い方ひどっ!」


 凹むオットーを無視して、スバルは前庭に竜車をつけると玄関へ向かう。

 まずベアトリスを呼び出し、それから屋敷の中を見回って、レムの寝床を確保して、それから改めて方針を――。


「帰ってきたぜ、ロズワール邸。さあ、懐かしの我が家……」


 言いながら玄関の戸を押し開き、中を覗き込んだスバルの声が詰まる。

 それははっきりと、予想したのとは別の形で出迎えられたことが原因だ。


 絨毯の敷き詰められた玄関ホール。上階へ向かう大きな階段の脇には高価そうな壺と、それを彩る花々が差し込まれている。天井からは結晶灯による照明が吊り下げられており、異世界風シャンデリアといっても問題はないだろう。

 それら見覚えのある玄関ホールの様子が、予想とまったく違うのだ。

 それは、本来予想された姿より――、


「荒らされてるんじゃなくて……整えられてる!?」


 絨毯が皺ひとつない形にピッシリと伸ばされ、階段脇の花瓶に差された花は瑞々しいまでの輝きを放ち、シャンデリアは丹念に舐めるように手入れされて結晶灯本来の美しさを増していた。


 その光景のあまりの違和に、スバルは言葉を失って立ち尽くす。

 あまりのことに度肝を抜かれたが故に、その後のスバルの反応は全て遅れた。


「――誰ッ!?」


 小さな、かすかな、聞き逃しかねないわずかな音がして、スバルは焦燥感に導かれるままに視線を動かす。だが、その影に意識が追いついたときにはすでに遅い。

 影は、すでにスバルの後ろへと回り込んでおり――、


 黒い影がスバルを真後ろから覆うように迫り、スバルは見た。


 その人影の中にはっきりと浮かぶ、白い牙だらけの獣のような口腔を。

 ――そして次の瞬間、迂闊にもスバルの意識は、世界は、暗転していた。



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