Armored Core farbeyond Aleph 作:K-Knot
「私、ロランが好き」
「え……」
CE7年。
国家解体戦争以後にリンクスとなりNo.29を授かり、
その後も世界最強の兵器の名に恥じぬ活躍を見せながらもさしたる興奮も感慨もない日々を過ごしていたロラン・アンドレヴィッチ・オレニコフは人生最大の衝撃に直面していた。
「待ってくれ…俺は…その、何もない…つまらない男だ」
イクバールの所有する通常兵器開発工場の暗い倉庫に突然呼び出され、愛の告白。
「そんなことないわ。ストイックで、強くて、でもひけらかすこともせずに黙々と仕事をこなして。素敵だと思うわ」
「エリザベス…でも、君が俺を好きになる理由が分からないんだ…」
「好きになることに理由が必要?あなたが私に必ず挨拶をして、時々話しかけてくれた。それだけで十分よ」
「でも、でも、その…」
「他の女性にはそんなことしないのにね」
「うぅ……」
未だ醒めぬ驚きと喜びの渦中で気づかれていた、という事実に顔が赤くなるのを感じる。
「ずっと私を見ていたよね。他の人に紛れて。気が付かないと思った?」
「あ、あぁ…その…それは…君が…あんまりにも…」
綺麗だったから、という言葉は口の中でもごもごという音になり外に出ない。
生まれて27年、女性と付き合ったことはおろか5分以上話したことすらない自分にどうしてそのような言葉が口に出せようか。
被っていた帽子のつばをつまみ深くかぶって俯くが、彼女がおよそ160cmなのに対し自分は182cm。
赤い顔ももごもごやってる口も全部見られているんだろう。
「でも、お互い様ね」
「…え?」
「私もあなたの事をずっと見ていたから」
「え?え?」
知らなかった知らなかったそんなこと。
そちらを振り向けば目が合う機会が何度もあったという事か。
「私も相当だし…このまま待ってても何も進まないだろうから、私から言っちゃった」
「う、うぅ…俺も…俺も君が好きだ…エリザベス…でも、君は若いし周りにもっといい男が…」
「そうやって今まで自分の感情も言いたいことも言わずに過ごしてきたの…?それに、若いって言ってもあなたと四つしか変わらないわ。おじさんみたいなこと言わないで」
「す、すまない…」
癖のようにまた帽子のつばを掴み顔を隠す。
そんな癖は自分にはないのだが。
「んんー…じゃあ、ひとつわがまま言っていい?」
「え、は、え…」
からかうような笑みを浮かべてはいたが、なんとなく悪いことは言われないそんな気がした。
「抱きしめてほしいの」
その言葉だけで鼻につんとした衝撃が駆け抜けて腰が砕けそうになった。
俺、童貞なんだって。死ぬからやめてくれ。
「私も勇気を出したんだから、ね。そっちから…」
薄暗い倉庫だが彼女が両手をこちらに向けて広げているのがわかる。
「……あぁ」
いかなる戦闘でも冷や汗すらかかなかった自分が震えている。
もう、どうとでもなれと歩み寄り抱き寄せる。
「……」
「……」
いい香りだ。それに柔らかい。
ごつごつした自分の身体とは大違いだ。
それに…それに…頭に霞がかかる。
何時間も運動したかのように熱い。
喉がカラカラだ。
(俺は…誰かにこうされたこともこうしたこともない…)
誰の人生にだって普通にある筈の愛しいものへの抱擁というものをロランは今日、初めて味わっていた。
「…震えてる。好意を受けるのは怖い?」
「いや…、あぁ…そうなんだ…それに、人を抱きしめるなんて初めてで…」
呟くように答えるが、そうなのか?
そんな難しいこと考えたことない。
「私も抱きしめられるなんて初めてよ…素敵…あなたに包まれているみたい」
むさい男の多いイクバールの、ことさらむさい倉庫で日が暮れてからこんな展開が起こっているなんて誰も想像しないだろう。
「……ああ…。今日は…もう遅いから…」
数に限りがあるわけでもないのにその感触を楽しむのが急にもったいないような気がして引き離してしまう。
「…遅いから、送ってよね?」
「…あぁ、うん…」
エリザベス・ウォルポールはイクバールに所属する若いメカニックだった。
金色の髪、透けるような白い肌。
少々幼い顔つきに常にはにかんでいるかのような唇と大きな目とエメラルドの瞳に長いまつ毛。
柔らかなラインを描く身体。
童話に出る、若く好奇心旺盛なお姫様が飛び出してきたかのような女性で、
男臭いイクバールの特に男臭い機械だらけの工場で彼女は正に一輪の花であり、他にも数は少ないがいるにはいた女性と一線を画す美しさによってそこにいる男は誰もが彼女の性格と容姿に惹かれていた。
ロランも当然その一人ではあったものの、最初からそんな幸せはあり得ないとどこか線を引いており、
熱いアピールを捧げる男どもからは一歩、いや、五歩ほど引いて見ているだけであった。
そんな自分にこんな幸せが突然降ってくるなんて今でも信じられなかった。
色気のかけらもないジープをがたんごとん運転しながら彼女に示された道をたどりその家へ。
「ありがと。…また明日ね」
「…ああ。…また、明日」
くるりとスカートを翻してアパートの二階へと向かう彼女の背中を見送りながら考える。
(あの道は…どう考えても遠回りだったな…)
エリザベスが指し示す道を右へ左へ、正しく右往左往とジープをぷすんぷすん言わせながら走らせここまで来たが、方向感覚には結構自信があるからわかる。
もっと早く、半分くらいの時間でここまでこれたはずだ。
(なんで………。…俺と一緒にいたかったから…か?)
むむむ、とにやけそうな口元を引き締め努めて心を落ち着かせながらエンジンをかけた。
二人がこんな関係になる運命だったというのならば、きっと二人が出会った日は世界で一番記念すべき日なのだと信じて疑わなかった。
「お肉が好きなの?」
「ん?…ああ…。特に考えたことも無かったが…そうだな、好物だ」
日曜日。
少し遠出して元ロシア連邦の首都、モスクワへ。
ロランのネクストが格納されており、エリザベスの職場でもあるイクバールの子会社、テクノクラートの工場から三時間ほどジープに乗りやってきたのだ。
ちなみにイクバールは南アジア、テクノクラートはロシア全土を支配している。
…となっているが国家解体戦争の折にロシアの主要都市を占領したのはサーダナ率いるバーラッド部隊とその時バーラッド部隊隊員であったロランであり、実質両地域ともイクバールの支配となっている。
テクノクラートにもオリジナルリンクスが一人いることにはいるのだが正直リンクスの中でもかなり戦力として数えがたく、その上自分勝手なので、
結局のところ支配を親企業であるイクバールに頼らざるを得なくなっているのがテクノクラートの泣き所である。
他企業と一線を画す兵器を作っている…と言えば聞こえはいいが、その方向性も今のところかなり怪しいものだ。
また、南アジアと国土面積一位であったロシアを実質支配しているイクバールだが、全企業の中で間違いなく最大のその支配地域を完全に掌握できているかと問われれば勿論そんなことは無く、
イクバール・テクノクラートの管理コロニー外でもかなりの人々が生活している。
とはいえ、それは寒さ厳しいタイガの森の中や、永久凍土の上でセイウチなどを狩りながら生活している人々等が大半で、元から国の庇護保障の類から外れていた自立している民族や部族ばかりであり、
そこに反逆の意志などが見られようはずもなく、両企業はそういった人々の支配は諦め広い国土に点々と住む彼らを放っていた。
「モスクワって寒いわね。いつもこうなのかしら?」
「いや…夏はそれなりに暑いんだが…冬だしな…」
エリザベスが切っては口にするサケのホイル焼きの皿から目を離し窓の外へ眼を向けると雪が降っていた。
「…後で車にチェーンを巻かないといけないな」
「手伝うわ。そういう機械いじりって好きなの」
と言うエリザベスの言葉はこちらに話を合わせているのではなく、メカニックの彼女としての本心なのだろう。
「…君はロシア出身じゃない…のか?気候の話もそうだが、名前も…」
「うん、そう。私はイングランド出身なの」
「…どうしてこっちへ?」
「どうして…かぁ。そういえばそんなに深く考えたことなかったかなぁ。少し長くなるかも」
「…聞きたいんだ」
「そうね…。イギリスの名家、ウォルポール家の一人娘として政府官僚の父母の間に生まれた私はしっかりとした教育を受け、
政治家になるはずだったのが機械への興味が強くなってしまい大学の機械工学科へ進学…。ローゼンタールとイクバール、迷ったけどイクバールに就職することにしたのでした」
「…あまり長くないんじゃないか?」
ぽつりと感想を言うロランだが、今一度エリザベスをまじまじと眺めてみるとなるほど、名家のお嬢様のような気品がある…気がする。
少なくとも童話の中から飛び出してきたお姫様という印象は全くのはずれではなかったようだ。
「一息で私の半生語り終えちゃった」
「どうしてイクバールに?…両親は何も言ってこないのか?一人娘を閉鎖的なロシアに送るなんてことは…」
「もうロシアは無いけどね。ローゼンタールのデザインも好きだったけど、イクバールの作るノーマルやネクストの方が曲線的で綺麗じゃない?だからかな?
…両親は七年前、私が高校生の時に死んだわ…。国家解体戦争に巻き込まれて。政府の官僚だったって言ったでしょ?」
「す、すまない…」
「いいの。悲しいことだけど、世界最大の価値観転覆にしては死人がほとんどいないと言っていいくらいなんだから。…あなたは?」
「俺…?」
「そう。あなたの過去。私だって知りたいわ。あなたがどうしてここにいるのかを」
「つまらないと思う…」
「いいからいいから」
白い歯をちらりと見せるその笑顔につい帽子のつばをつまんで顔を隠したくなったが、しまった。
食事中だから帽子を被っていなかったんだ。
「…オレニコフ家は代々軍人の…いや、戦う男の家系だったんだ。俺は父アンドレイの子、次男として生まれた」
「お兄さんがいるの?」
「ああ…だが、もう十年以上口をきいていない」
「え?」
恵まれた環境、厳しくも理解ある両親の元で育ったのであろう彼女にはそんな不和は理解できないのだろうか。
怪訝な顔をしてこちらを見てくる。
「…お袋は俺を産んだ時に死んだ。早産の上、物凄い難産でな、まるでこの世に産まれてくることを拒んでいるかのようだったと聞かされている」
「……?」
「…親父はお袋の命を奪って生まれた俺の事を許さなかった。およそ愛情を受けた覚えはない。…ただ厳しく躾けられ育てられた」
「で、でも、厳しくするのが愛情だったってことも…」
「…ああ、そうなのかもしれない。…でももう分からない」
「どうして…?」
「親父ももう死んでいる。戦場で生き、戦場で死ぬ、という家訓通りに七年前の国家解体戦争で国の方についてな。…皮肉なことだが、親父の駆るノーマルを討ち取ったのはバーラッド部隊だった」
「そんな…!」
「…話を続けよう。…親父の態度が兄にも伝わっていたのだろう。子供は親の真似をして育つものだからな。兄も俺を邪険に扱うようになっていた。
…そして、このことがますます親父と兄を苛立たせたのだろうが、俺は何をやっても兄よりうまくできたんだ。…でもそれは俺のせいじゃない。別にやりたくてやっているわけでもなかったんだ…」
「ロラン…」
「…長男が家を継ぐことがオレニコフ家の決まりだったからな。兄が見合いで妻を娶り、いよいよ家に居場所が無くなったと感じた俺は家を飛び出した。…11年前の話だ」
「……」
「…イクバールの私兵として入隊した。飛び出したはいいが、俺は戦い以外に生きる術を知らなかったからだ。同期に…年は上だったがアジェイ…いや、サーダナがいた。
大学と大学院で数学を修めたと言っていたが、今考えてみれば…意味がわからん」
「…サーダナ様と!?へー…」
イクバールの魔術師の異名を持つ最高のリンクスの一人、サーダナ。
同じリンクスであるロランが知り合いなのは納得だがそんな前から知り合いだったのは驚きだ。
「奴は相当に変わり者だった。怪しげな人体実験と言ってもいいような物も嬉々として志願し受け、リンクスとなり…何よりも部隊でも孤立していた俺の友となったのが特に変わっていたな」
「……」
「全く不思議な事だが、お世辞にも戦闘向きとは言えない体格だったのに、ノーマルに乗った途端奴は人後に落ちることはまずなかった。
…作戦立案なども意表をついているようで理路整然としていて、訓練でも自分に厳しかった。…そんな奴がバーラッド部隊の隊長となるのは不思議じゃない…ようで不思議だ」
「確かに戦いに向いている、って感じじゃないよね。ひょろーんとしてて肉が付いていないというか…でも不思議って?強くて自分に厳しいなら隊長の資格十分なんじゃない?」
「…資格の面で見ればそうだ。自分にも他人にも厳しく、不言実行…、だが、奴は人がとにかく嫌いなんだ。
普段はまず他人を寄せ付けないし、無駄口を利くことも無いし、とんでもない辺鄙な場所に住んでいる。…だからこそ俺の友なのかもしれない。…そんな奴が今、赤子を拾って育てているというのは…青天の霹靂だ」
「え!?知らなかった…。だから最近あんまりイクバールのどこにも顔を出さないのかしら」
イクバールの最高戦力、それもリンクスナンバー2、ともなれば簡単なミッションには参加しないだろうし、我儘も言えるのだろうがまさかそんな理由だったとはエリザベスは全く想像もつかなかった。
「…俺がイクバールに入り、バーラッド部隊の所属となって三年、奴からリンクス適性検査を受けてみろと勧められた。…正直、昇進にも名誉にも興味が無かったんだが、
友の提案を無下にはできなかった。…そして俺には素質があったんだ。そうしてリンクスとしてやってきて今に至る…これぐらいか」
その才能の少しでも兄の方に行っていれば少しは家族との関係も変わったのだろうか、と思うことは何度もあった。
勉学も自分の方が出来てしまう、背も自分の方が10cm以上高く筋肉もついている。およそ才能と呼ぶべき物に愛されてきたが、それに関して自分が幸福だと思ったことはなかった。
「へー…」
というエリザベスの顔はにこにこと…いや、これはにやにやという表現の方が合うのだろうか。
「ど、どうしたんだ」
「あなたの人生を聞きたいな、って言ったのに半分以上はサーダナ様のお話なのね」
「あっ、む…、いや、これは…」
何故そんなに慌てるんだ、と自分でも思うぐらいに挙動不審に手を動かし空を切る。
「いいのいいの。人は人と関わって出来ていくものなんだから…よかったね…お友達が出来て」
「…む…。君は…友人は?」
「…そつなく、荒立てず、人付き合いをこなしてきたけどこれといった友人はいないわ」
「…馬鹿な…。君の周りにはいつも人がいるじゃないか」
いつも五歩ほど引いて彼女を見てきたからわかる。
いつだって彼女の周りには人がいて、そんな中で彼女は完璧な笑顔を植物に与える純麗な水のように振りまいてきた。
「…大学生までは女の子の…友達って呼べる子もいたわ。でも、ドライなモノね。大学に行ってからは連絡すら取らなくなっちゃった。
男性は環境に慣れようとするけど女性は環境を作ろうとするの。…私は彼女達の環境には望ましくない存在だったのかもね」
「……?…すまない、よくわからないんだが…」
「…わからなくていいわ。そのままのロランでいいの。…そう、でもあなたの言う通り。大学の機械工学科に入ってから…女性がほとんどいなくて、
関わるのは男性だけになったわ。…私が右に行けば右に。左に行けば左に。耳触りのいい言葉を投げかけてくるけど、彼らは一体私の何を見ていたの?
何もしていない私にその言葉をかけて、他の女性にその言葉をあげない理由は何?…そう考えたとき、答は容姿しかなかった…。見ただけでわかることなんて、見た目しかないんだもの。
…ごめんなさい…私、傲慢よね…」
「その…」
言えない。自分も最初は彼女の容姿に惹かれていたなんて。
食べ終えた肉の乗っていた皿で顔を隠したい。
「去年、イクバールに入社して、私たちがいる場所に配属されても結局状況は同じだったわ。うんざりだったの。私の中を見てくれる人はいないのかって。ありきたりだけど思っていたわ」
「……」
「あなたもその中の一人だった」
「う…」
返す言葉もない。
ここで上手い言い訳も出来ない自分にどうして彼女は好意を寄せて…つまり、一般的に言うところのデートなどに付き合ってくれているのだろうか。
「でもね、他の人と違うところがあったわ」
「……?」
「サーダナ様を除いて敵う人がいない程のリンクスで、間違いなくあそこにいる中では一番の出世頭…いや、あんなところにいるのがおかしいくらいの人だったのに、
そういうことを嵩にかけて口説いてこなかった。みんな私を褒めちぎって、自分を大きく見せようとするのに」
(自分に自信がなかっただけなんだよ、エリザベス。俺はそんな大それたことが出来るような人間じゃないんだ)
「挨拶だけは必ずしてくれて、時々は世間話もした。大雨なのに、いい天気だな、って言ってきたことあるよね」
「…そ、そうだったかな…」
話しかけるのにいっぱいいっぱいでそんなこと忘れていた。
「でも、それだけ。それ以外は遠巻きに私をちらってみて、それで終わり。…ずっと考えていたの。あの人はなんで凄い人なのにひけらかさないんだろう。
私だけじゃなくて、それ以外の誰にも自慢することなく、私にそれ以上踏み込むことなく…でも会ったら必ず挨拶をしてくれて」
「……」
「あぁ、あの人。また私にだけ挨拶して行っちゃった…って。人との付き合い方が、距離の取り方が上手くないのかなって。好意を持っていてもそれを上手く見せる方法を知らないのかなって。
色々考えているうちに、あなたを目で追うようになっていた。明日も声をかけてくるのかな、って。…気が付いたら、いつも考えるようになっていて…好きになっていた。…簡単な女ね」
「…そんなこと…その…」
「でもね、甘い言葉を吐いて、好意を飾りたてて、自分の欲望をまるで私の為の物のように見せる…小慣れた男性よりも、遠巻きに見ているだけのその不器用さが綺麗で清潔に見えたの」
「…あ、ありがとう…」
貶されているワケでは…いや、むしろ褒められている…のだろうか。
とりあえず自分の顔が赤くなっていることは間違いない。
「さ、外に行こう?まだまだ日が暮れるまで時間があるじゃない。雪でもなんでもずっとここでおしゃべりしているのはもったいないわ」
「…ああ」
席を立ち、伝票を持ってレジに向かう。
「待って。折半でしょ?似合わないことしないで?」
「い、いや…それに俺の方が食べたから…」
さらに言えば決して女性に奢ろうなどという気の利いた考えからではなく、
レストランに誰かと来たことなどないロランはいつも通り伝票を持っていつも通り払おうとしただけなのだ。
「いいからいいから。ね?」
「…ああ…すまない」
店を出て目の前を駆けていくエリザベス。
茶色いブーツから軽快な音を立て、黒いストッキングを隠す厚手の黒いチェックのワンピースをひらめかせコートを片手に走る彼女はただただ素敵で…
(走る…?どこへ?)
反応が浅瀬に寄せる波よりもゆったりと遅れるロランをよそにエリザベスは雑貨店に入り何かを手にして出てきた。
「これ…傘」
「…あ…そうか…雪…」
「はい!」
はい、と傘を差しだしてくるエリザベスだが、
帽子を被ってる自分よりも金髪を雪に濡らす彼女の方がよほど必要なのではないか。
「俺は…帽子を被っているから…」
「唐変木!」
「は?え?」
その存在は知っていた。
まさか自分がそれをやることになるなんて。
「……」
骨董品のブリキのおもちゃのようにカタカタ歩く自分の右手には傘、左腕にはエリザベスが腕を絡めている。
「うっ、つ、次はどこへ行くんだ…」
「うーむ…次はあそこのブティックに吶喊しましょう、ロラン曹長」
顎を突き出ししかめっ面をし、努めて渋い声を出すエリザベス。
「むむむっ…」
そのあんまりにも似合っていない姿に思わずにやける顔を引き締める。
と、言うからには自分の服を見るモノだと思っていたのだが。
「ほら…かっこいいよ…いっつも同じ格好だもんね。折角背も高いんだし、もう少し自分に興味持ちなさいな」
「…、…あ」
姿見に映るその姿は、ブラウンのブーツに紺色のジーンズ、ベージュのタートルネックに灰色のPコートを合わせ、
少々たれ目で三白眼だが、ロシア人男性らしい白い肌に茶髪がよく似合うどこに出しても恥ずかしくない美青年だった。
「今度ぼさぼさの髪も切りに行こうね。普段はどうしてるの?」
「…自分で…」
「はぁ…。あそこにも美容室くらいあるんだから、ね?」
「あ、ああ…」
結局自分の服を見繕うだけでブティックから出る。
こんな美人とデートしていることもそうだが、自分がこんな親切を受けている事が信じられない。
呆然自失と言った様子で相合傘で歩く二人の前で、走り回っていた五歳くらいの男の子が突然滑って転んだ。
「あ!」
「…あ…。だ、大丈夫か…」
「ううぅ…わあぁん!!ええぇん!…いぃぃい!」
慌てて駆け寄るがその子は冬の格好をしている為一見どこを怪我しているかがわからない。
「泣かないでくれ…どこが痛いんだ…お、親はどこだ…」
おろおろとするロランの前で子供はますます大声をあげて泣き出す。
「ほらほら、男の子なんだから泣かないの。飴食べる?」
「うう……うん…グスッ」
火のついたように泣いていた子供はエリザベスが頭を撫でながら飴を差し出すとゆっくりと泣き止む。
「お家は?」
「…あっち…」
「そう。滑るからあんまり走っちゃダメだよ?ね?」
「うん…飴もう一個ちょうだい?」
「いいよ…ほら。もう痛くない?」
ただおろおろとしていた自分と違ってエリザベスが相手しただけであっという間に泣き止んであろうことか笑顔すら浮かぶ。
「うわ!ありがとうお姉ちゃん!アンナにもこの飴あげるんだ!」
走っちゃダメ、という言葉の20秒も経っていないというのに走って行ってしまう子供。
「……」
ぽかん、としているだけの自分に声をかけてくるエリザベスへの反応が五秒は遅れた。
「ねぇ。ねぇってば」
「え、ああ。…え?」
「子供は好き?」
いつの間にか自分の隣にいるエリザベスがそんなことを尋ねてくる。
何の気もなしに聞いているようで重要な事を聞いている気配が出ている。
…が、不器用そのもののロランは気の利いた答えなど出せずに結局正直に答えてしまう。
「いや…苦手だ…と思う」
「どうして?」
「…笑顔を作るのが苦手だからだ」
「ふーん…。笑顔って作るものでもないと思うけど。ちょっと笑ってみてよ」
「…え?いや、何?」
「ほら、笑って笑って」
「よ、よし…」
一般人が三階から飛び降りるぐらいの勇気を使って笑顔を作ってみる。
ニ゙ッ!
「あはははははは!何それ!?顔面神経痛!?あはははは!」
「顔面神経痛…そうだな…」
実に言い得て妙な表現に柄にもなく落ち込むロラン。
「…あの、ごめんね?言い過ぎたわ」
「いや…いいんだ。それよりも…」
「なあに?」
「来週も、一緒に…どこかに行かないか」
家を飛び出した日以来の決断を以ての発言。
今日という日に太陽が昇ってからずっと考えていた言葉。
この言葉を言うためにどれだけ口をもごもごさせていたか。
にっ、と笑って答える彼女は今まで見た何よりも美しい。
「ロランはどこへ行きたいの?」
「君と一緒なら、どこへでも」
『……』
(…………………………………………)
「ねぇ、ロラン。恋が続く時間って知ってる?」
「あの…二年間までが恋愛感情という奴か…?」
「そう、それ。私たちが付き合ってもう何年?」
「二年と…半年」
「そして出会ってから三年以上!…今でも、ううん、あの頃よりもずっとあなたのことが好きよ、ロラン」
「俺もだ…リザ」
リザからの衝撃的な告白から二年半。
あの時と同じ場所同じ時間にロランはリザを呼び出していた。
「こんな暗がりで…私はどうされちゃうのかしら?」
「茶化さないでくれ…、リザ。…聞いてくれ」
「うん…」
びしりと踵を合わせて直立しているのは礼儀とか雰囲気とかではなく、ただただ緊張しているからだ。
「君と出会う前の俺はきっと生きていなかったんだ」
「感慨もなく、怒りも喜びも悲しみもない。ただ明日も心臓を動かすために戦って飯を食う…。それだけが俺の人生の全てだった」
「君と出会ってから全てが変わったんだ。景色に色が付いて、明日が来るのが楽しみで、今日を過ごして週末を迎えるのを喜んでいた」
「今でも笑うのは苦手だけど、君が俺を変えてくれたんだ。君が俺を生かしてくれた」
「この喜びはきっと…今この瞬間では伝えきれない。いや、明日明後日明々後日までかけても言い切れない」
「もし言い尽くすことが出来たとしても、俺は何度でも何度でもその喜びを君に伝えたいんだ。君と一緒なら不幸になっても構わない。結婚してくれ、リザ。残りの人生を俺と一緒に過ごしてほしい」
何百回と練習したその言葉をついに噛むことなく言い終え懐から指輪を取り出す。
この指輪にしたってリザの指の大きさをふとした時に覚えてからずっと記憶から消さずに、一カ月もかかって選んだものだ。
「…うん、ありがとう…。口下手なあなただからきっと一生懸命考えてくれたんでしょう?でもね…」
「……」
「不幸にはならないわ。こんな時代だけど、一緒に幸せになりましょう…ロラン」
そしてその左手の薬指にそっと指輪をはめる。
その感触をきっと自分は一生忘れないだろう。
「はっ…はは…」
思わず口からもれた声は喜びか。涙と共に感情が溢れてくる。
戦場でどんな強敵と相対しても何も感じないのに、情けない事に今の自分は腰が砕けて地面にへたり込んでしまっている。
「相変わらず笑顔が下手ね…。でも、よかった。二年半もあなた…私、てっきりあなたは魔法使いになりたいのかと思ってた」
「…イクバールの魔法使いはサーダナだけで十分だ」
「サーダナ様は魔術師じゃなかったかしら?…ロラン、抱きしめて」
「…ああ」
二年半前とは違いなめらかにその身体を自分の腕の中に迎え入れる。
しかし、その感触と喜びは二年半前と全く変わらない。
「…ふふ。寿退社、しちゃおうかな」
「へ!?リザ、折角機械のそばにいれるのに…」
「それよりもあなたの傍にいて、家からあなたを送り出して、あなたを待ちたいわ。…機械よりあなたのことを愛しているんですもの」
「あ、ああ…」
「家、買いに行きましょう?」
「ああ、そうだな…」
この瞬間を閉じ込めてしまいたいと何度思ったことか。
だが、それ以上に光る日々がこれからもあるのならば、閉じ込めて眺めるのではなく先に進もう。
次の日リザは辞職届を出した。
付き合っていることをサーダナ以外に言っていなかった為、突然の退職に職場の男の誰もが驚いていた。
彼女の薬指に光る物に気が付いたとき、思わず涙する男も一人や二人ではなかった。
…そして誰も俺の薬指の指輪には気が付かなかった。
結婚式は開かなかった。
二人とも特に友人も多くなく、サーダナを呼んでも素晴らしい祝辞が貰えるとは想像も出来なかったからだ。
その代り週末にはすぐに土地と家を買いに行った。
幸せの絶頂だった。
…幸せの、絶頂だった。
「ここにしよう!」
「…何もないぞ」
モンゴルとロシアの元国境線を跨ぐアルタイ山脈の麓。
アネモネやポピー、サクラソウなどが辺り一面に咲く花々と木々の中に開けた土地にぽっかりと土だけの場所があり、そこを指さすリザ。
「ここで家を作って、お花畑を作って…戦いから帰ってくるあなたを待つわ」
花畑の中でチェックのスカートを翻す、白いブラウスがよく似合う彼女はここに咲くどんな花よりも美しい。
まるで一つの絵画のように完成された風景だ。
…練習もしていないのにこんな言葉は言えないが、と鼻の下を伸ばしながら考えていた。
「わかった…。そうしよう。この近くにもイクバールの基地はある。そこにネクストもろとも移ろう」
近くと言っても広いロシア、車で3時間近くかかるが仕事とリザのこと以外に時間の使い道を知らない自分にとってはその程度は構わない。
イクバールの子会社の子会社の子会社の建築会社に連絡を取りそこに二人で考えた家を注文する。
プロポーズからわずか一週間、少々急ぎすぎのようにも思えたが、二人の生活を想像すると気を落ち着けてゆっくりとなんていうことは自分もリザも到底できなかった。
(…………………………………)
さらに一年と半年。
二人での生活も慣れ、リザの料理がこの世のどんなものよりも美味いと思えるようになり、二人で想像した花畑が脳内の光景に負けない程美しく壮麗になったある日。
結婚後、遠慮していたのか、気後れしていたのか、あまり連絡を取らなくなっていたサーダナから突然通信機器にコールが入った。
「どうした…」
『折り入って頼みがあるんだが』
「……?」
久々の友の声は気のせいか少し慌てているような気がした。
『実は明後日から一週間、私の息子の面倒を見てほしいんだ。どうしても外せないミッションが入ってしまった』
「…あ?そんなもの、いつもみたいに霞に任せればいいだろう?」
自分が言えたことではないが極端に友人の少ないサーダナだが、霞スミカというリンクスの知り合いがいたはずだ。
仕事の時はいつも預かってもらっていると言っていたのは気のせいではないはずだ。何故企業も違う…どころか女も人間も嫌いだったサーダナにそんな知り合いがいたのか分からないが。
『もうそこまで連れていく時間が無いんだ、頼む。私の家の位置情報を送る』
「待て、俺にも仕事があるんだぞ」
話がかみ合っていない…が、そういえばサーダナとの会話はかみ合うことの方が珍しかった。
『大丈夫だ。明日から5日間の有休を申請してあるから安心してくれ』
「お、おい…勝手に…お、俺が子供の面倒を見られるような奴だと思うのか」
何て奴だ。こんなとこで自分の地位の特権をフル活用して。
『その内お前も子供の面倒を見るようになるだろう。予行練習しておけ』
「そういう…」
『名前はガロア。賢い子だ。もうトイレも風呂も一人で大丈夫だし大抵のことは全部一人で出来る。手は煩わせん。飯だけ都合立ててやってくれ。
とりあえず三日分のシチューを用意しておくから温めれば食べられる』
「ちょ、ちょっと待…」
『では頼んだぞ』
「…あ…」
久しぶりの友との会話はほぼ一方通行で終わってしまった。なんだなんだ。
…もう少し話してもいいじゃないか。
「どうしたの?」
キッチンから料理の匂いと共にリザの声が聞こえてくる。
「…サーダナから子供の面倒を見てくれと頼まれた」
「へぇ、いいじゃない。行ってきなさいな。それにサーダナ様が育てている子…気にならない?」
「それは…そうだが…五日間は留守になる…」
「それはちょっと寂しい…かな。お土産話を期待しているわ。いい子だといいわね」
「…ああ。…なんて場所だ…。ここから車で60時間はかかるぞ…。もう行かなければ…」
車ではなく電車か何かで行ったらいいのに、という話ではあるかもしれないが、国家解体戦争以降大きく変わったのが交通事情であった。
飛行機は公的な用事で許可証が無ければまず乗れないし、
鉄道やバスも一週間以上前から申請し、目玉が飛び出るような金額を払わなければならない。
インフラに大きなダメージを与えることなく成功した革命だがその生活様式は大きく変わってしまった。
ここイクバール、テクノクラートの支配域では広大な土地ゆえ個人の車の使用は禁止されていないが、
他の企業の支配域では一定間隔ごとに検問があるという噂だ。
なんて場所だ、といいつつもロラン達の住んでいる場所も周囲10kmに住んでいる人はおらず、人付き合いと言えば、朝牛乳を届けてくれる若い女性だけであった。
山を下れば大きいとは言えないまでもそれなりに栄えている街が二つほどあるのだが…ここに住んでいる彼らもまぁ、相当なモノ好きであった。
牛乳を届ける女性もこの家が無ければ勤務時間がだいぶ減るのであろうが…。
ちなみにロランはイクバールの基地へ向かう時は毎朝必ず自宅の北にある街を通る。
そこを通らなければ行けない…ということは無いのだろうが、舗装された道路を通りたいのならばその街を通過するしかない。
「基地からヘリか何か借りたら?」
「…私用では使えない。…ジェット機あたりを一機買うか?いや…でも維持費が…」
「あら。まだ行ってもいないのにもう次に頼まれた時の事を考えているの?」
「………」
「からかいすぎちゃったかしら。…今作っているのはお弁当にするから、気を付けて行って?」
「ああ…本当にすまない」
「いいじゃないの…お友達からの頼みなんだから、ね?」
「…む…」
ロランの家からジープを飛ばして北西に5,500km。
北極圏最大の都市、ムルマンスク。
…からさらに東に40km。
人を避けるようにその家はあった。
「なんて場所だ…」
雪を被った針葉樹の森の中に唐突にあるその一見木造の異質な家。こんなところに人の住む家があると考えて来るものはまずいないだろう。
隣にある馬鹿でかい倉庫はネクスト格納庫なのだろうか。とりあえずカラなのは間違いない。
その横に鎮座しているのは自家発電機だろうか。
よく見ると屋根にはソーラーパネルらしきものが付いている。
ロランには気が付けなくてもしょうがないが、地下を通って近くの川では水力発電もしている。
おまけに雪を利用するのだろう、巨大な浄水器もあり、後は食料さえ確保できれば一生この地で生きていけるだろう。
(イクバールにも住んでいる場所を報告していないんだったか?…まぁネクストがあればどこへでもすぐ飛んでいけるのだろうが…)
なるほど、人嫌いの男が隠遁生活を送るにはよい場所…なんだろう。
温かい暖炉の傍で本を読みながら日がな一日を過ごしていたはずのサーダナを想像すると似合いすぎている。
問題は…
(どう考えても子供の成育にいい環境ではない気が…)
世を逃れ静かに暮らす孤独な男にはこれ以上ない住処ではあるが、サーダナが育てている子はどのように育っているのだろう。
「…む」
「……」
などと考えていると家の入口で自分の身長と同じくらいのシャベルでえっちらおっちらと雪かきをする男の子とばったり出くわした。
「…むぅ…」
窓際の椅子に座り外を眺めながら紅茶を口にする。
雪は降っていないがこの曇り空では今晩あたりまた雪が降るかもしれない。
…と、窓の外を眺めながらよしなしごとに頭を巡らせるほどロランは老けてはいないが、仕方がない。
何せ何もないのだ。
ゴツい本棚がいくつもあり、読めば時間つぶしになるのだろうが、
「老子道徳経」だの「論理哲学論考」だの「リー群論」だの一ページ目からまず頭に入ってこなさそうな本ばかりが収められている。
それもそういった本にありがちな「置物化した難しそうな本」といった様態ではなくどれも何度も何度も読まれ捲られ大切にされてきたかのように劣化している。
劣化しているのに大切というのは矛盾しているようだが、本という物の役割を考えるのならば人の手に何度も捲られ垢や汗で劣化していくのが本当に大切にされているという事なのだろう。
まあ本はいい。読まないからいい。どうせ読み始めたところで一週間では読めない。
だがテレビはおろかラジオ、音楽再生機の類もないというのはどういうことだ。
「……」
さっきの子供は暖炉の前の机とセットの椅子で幼児らしい柔らかな頬に手を当てながら「呉書」と書かれた分厚い本を読んでいる。
子供の育成など人類全体を集めても下から数えた方が早いと、自信をもって言えるくらいには興味関心があるほうではないが、あれは絶対に「ない」と言い切れる。
あれぐらいの年頃なら絵本か、せめておもちゃの一つでも与えた方がいいに決まっている。
というか欲しがらないのか…と、考えて完全に外界からの接触が絶たれたこの世界ではそういった物の存在を知ることが出来ないのかも、と気が付く。
「……」
自分の顔ほどもある本をめくるスピードは、本当に「読んでいる」ように見える。
退屈しのぎに捲っているとか、カッコつけて読んでいるふりをしている…といった感じではない。現に眼が文章を追って…
(なんだ…?あの眼は…)
水面に石を投げ込んだかのような波紋が浮かぶ眼。
瞳の輪郭が異様に際立っているとでも言えばいいのだろうか。それにしては輪が多い気がする。
だがその異常以外は至って普通の…少々小さいが普通の子供のように見える。
目鼻立ちは割と整っているがまだまだ子供のそれであり、鼻の頭が赤い。
可愛らしい赤毛はところどころ癖でくるくるなっており、子供っぽさが更に強調されている。
「…む」
「……」
まじまじと見ていたのに気が付いたのかその独特な眼でこちらを見返してくる。
…何か話した方がいいのだろうか。
「ガロア…親父は好きか?」
「……」
こくこくこく、と三回も頷いて肯定の意を返し、また本に目を向けてしまう。
(親父が好き…か)
少なくとも自分には理解しがたいことだし、サーダナが父親に向いているとは逆立ちしても言えないが、あれだけ頷くからには相当に慕われているのだろう。
(…ん?)
頷くこと自体は問題ではない。
その答えを口にしなかったことがロランの中に引っかかる。
うるさいだとか騒がしいだとか、そういう感じの言葉をこねくり合わせて出来るのが子供だと思っていたロランにとってガロアは静かすぎた。
家に招き入れてくれた時もそうだが、今この瞬間まで一言も発していない。
だが、心のどこかに傷を負って人と話すのが極端に苦手になってしまった虐待被害の少年…といった感じでは全くなく、
他人であるはずの自分が同じ空間にいるというのに全く気にせずに図太く本を読み、自分の目の前にあるすっかり冷めてしまったこの紅茶を出してくれた。
拾ったと言っていた時から計算すると五才だろうか。
その年齢の子供が騒ぎもせず、わがままも言わず難しい書を読み、茶を入れ客人をもてなし、雪かきをする。
…もしかすると、語るも涙、誰に言っても信用されないレベルの全く手がかからない賢い子なのではないだろうか。
聞き流していたが、そういえばサーダナはこの子を賢い子だと言っていた。
あの人嫌いが人を世辞やそれに類する感情で人を褒めるようなことは無かった…と思う。
とりあえず分かることはこれぐらい賢い子でなかったらサーダナに子育てなんか出来たはずがない、ということだ。
「…ガロア、飯にしよう。もう温まっただろう」
子供の目の前で右往左往する友を想像し少しだけ笑って口にした。
「……」
「……」
一定のリズムでスプーンに乗せたシチューを口に運ぶ二人。
口数の多いロランではなかったが、それでも普段はリザが結構話してくれるので食卓は賑やかだった。
が、無口の二人が向かい合って食事をするとこうなってしまうのか。
「……」
それにこのシチュー。
…あまり美味しくない。
なんだろう。味が薄いからか?野菜がいちいち大きいからか?変なところで隠せていない隠し味が効いているからか?
…リザの作る料理が恋しい。
「…美味いか?」
このシチューはお前にとって美味しいのか、と聞いたつもりだった。
するとガロアはスプーンを置きスケッチブックを取り出しそこに何かを書き出した。
「…あ?」
『二人で食べると美味しい』
「…お前、喋れないのか!?」
「…?」
「いや、すまない…聞いていなかったんだ」
無口なんかじゃなかった。
喋る口が無かったのだ、そもそも。
なんでこんな大事なことを先に伝えてくれないんだ。
(一言足りな過ぎる…)
「?…?」
額に手をやる自分の前でガロアは困惑している。
喋れないのが普通で、サーダナが始めからそのことを知っていたのなら、誰かにこのような反応をされるのは初めてだったのかもしれない。
「…いや…そうだな…。二人で食べると、美味いよな…」
「……」
喋れないという事はともかく、この幼子が示した単純明快な答えはロランにとってもよくよく知るところである。
そう、食事は一人で食べるよりも二人で食べた方が美味しいのだ。味が変わるという意味ではなく。
もしそういう理論が成り立つのならば、きっと二人より三人の方が。
(子供…か…)
少しだけ、自分の未来のことを考えて、分かりやすくけれども重要な事実を示してくれたこの賢い子供に笑顔を作る。
ニ゙ッ
「……」
「な、なんだその顔は…」
無口ではあるが感情表現が苦手という訳ではないようで、ロランの顔面神経痛に対して実に微妙な顔で反応を示してくれたガロアであった。
そしてさらに二年と半年後。
勲功には全く興味が無かったものの元々戦うこと以外に自己表現をする術を極端に知らないロランは着々とその名をあげ、
もはやこの世界では知らぬ者がいない程の強者となっていた。
サーダナが滅多に動かない今、黙々と任務をこなすロランはイクバールから実に重宝されていた。
そんな名誉はさておき、彼にとってもっと喜ばしく重要で楽しみな事が一つあった。
「考えたんだ」
「何を?」
抜けるような青空の下で花に水をやるリザにぽそっと声をかける。
「名前…その子の名前だ」
「まだ性別が分かったばっかりなのよ?あわてないでも…」
「ああ…。だが、最近はそれしか考えられなくて些か仕事への集中も欠くようになってしまってな…」
「じゃあ、教えて?」
「…花の名前にしようと、思っていたんだ。君が育てた花、俺は好きだ。そこからとろうとずっと思ってた」
目の前いっぱいに広がる花々を見ながらまたぽつりと言う。
元々咲いていたアネモネやポピーサクラソウだけでなく、アルメリアやヒナギクにユリ…色とりどりの花が植えられている。
「うん」
「…リリアナというのはどうだろう」
「ユリの花?」
「…そうだ。綺麗な花はそれだけで美しいが…そこに静謐で廉直な気品がある花はそうない。…俺はユリが一番好きなんだ」
風に揺れながら花弁を垂らすその白い花を見ながら言う。思えばいつからリザと淀まずに話せるようになっただろう。
もうずいぶん長いこと一緒にいる気がする。
「…私もずいぶんいっぱい名前を考えたけど…あなたが言うのなら、この子の名前はきっとそうなのね」
「ああ…。会う日が楽しみだ」
眺めていた足元のユリに影がかかる。いつの間にかリザは目の前にいた。
「その割には随分憂いのある顔をしているのね…。あなた、無表情な方だと思うけどずっと一緒にいるからわかるわ」
「……」
いつからか、リザと一緒に住むようになってからはもう頭の隅を過るようになっていた事がある。
「教えて?」
「何故、戦いは無くならないんだ?」
「……」
「君がいるこの世界を…この娘が生まれてくるこの世界を少しでも平和に…綺麗に…俺の…俺の家族が傷つかない世界であるようにしたい…」
隣に座るリザのお腹をそっと撫でながら言葉を続ける。
「……」
「誰だってそう思っているはずだろう…?何故戦いは終わらない?何故俺は人を殺し続けているんだ…?」
「ロラン、それは違うわ」
「…?」
「殺しに理由なんてない方がいい」
「何を…何を言っているんだ…?理由なく殺すなんて…」
「じゃあ…あなたが正しいと信じる正義の元に殺した人たちは誰がどう見ても誰にとっても完全な悪だった?」
「それは…」
そんなはずある訳ない。未だ全世界で起こる「テロ」と称される暴動、戦闘。
その首謀者のほとんどが国の為に戦っている兵士達。
反徒共、と企業は言うがあの国家解体戦争ではまさしく自分たちが国に仇成す反徒であったはずだ。
それに国などは関係なくごく小さな盗みや強盗をするものだって家族を、あるいは自分が生きる為に戦っている。
それが間違いだと言うのならば、最早それは生きる為に殺すことを義務付けられているこの世界の生き物全てが罪深いのだろう。
「そう。もしあなたが正義を選び取るならば、悪という烙印を一方的に押し付けられる人々が必ず生まれる。
正義と決めて守るものを選び、そうでないものを殺す。そうして理不尽に怒る者は生まれる。どうしたって殺した人物に関わる全てを消すなんて事は出来ないんだから、必ず一方的な正義に怒る者が出てくるわ」
「……」
今までにない厳しい顔で言うリザはまるで自分を叱っているかのようだ。
「あるいは神ならば、正義と認められない全てを消滅させることが出来るんでしょう。もしかしたら、それが出来る者を神と言うのかもしれない」
「…じゃあ、俺は…」
「この世に正義なんて何一つないわ。たった一つの悪があるだけ」
「それは…?」
「独善よ。自分の正しいと思ったことを押し付けること。正しいと思って人を殺すなんてことは結局より多くの死をまき散らすだけよ」
「…だから…」
「そう。だから殺しに理由なんてない方がいい。道具であったほうがいい。理由を求めればその瞬間に悪が生まれるのよ。正義に従った瞬間に生まれるの。銃にも刀にも…牙にも爪にも罪は無いわ」
「…う…」
誰もが戦う時に感じる矛盾。国を家族を自分を守るために戦う敵は果たして悪なのか。
悪なのではない。悪と決めているだけなのだ。そして自分も正義ではない。
「聞いてロラン…。本当の人間はきっと、動物と同じように、野を駆け山を跳び歌を歌うのが正しい姿なのよ。
動物が獲物を食い殺す姿を間違っていると思う人は誰もいないわ。でも人が人を殺す姿は間違っていると誰もが思っている」
「間違っているじゃないか!どんな動物でもいじめや排斥はあってもお互いに永遠に殺し合う様な真似はしていない!」
つくづく返す言葉の無かったロランだがそこだけはなんとしても間違いだと言いたい。もしそうだというのならば、自分達の生きるこの世界は、この子供が生まれてくるこの世界は地獄そのものだ。
「そう、あなたは正しいわ。間違っているのはこの世界の方よ」
「どういうことなんだ…」
「99%の富を1%の人間が握っている…誰もが間違っていると言うし、私たちはその歪みに苦しめられている」
「じゃあそいつらを裁けば…」
「違うのロラン。間違っているのはきっと残りの99%の人間の方。悪い…と言っているわけではないのだけど」
「意味が…意味が分からない…君が、俺が間違っているのか」
「この世は弱い生き物ほど多く生まれ強い生き物ほど少なく生まれるようにできているわ。それが食物連鎖、この世のバランスだからよ。
人間はせいぜい一度に一人。頑張って二人。三人以上はほとんどないわ。百獣の王のライオンですら一度に三匹は産んで、多い時は六匹は産むのに」
「……」
「人間はこの世界で一番の生き物だからそれでいいと宣う者もいるわ。一番強い、すなわち人間こそが神だと。でも生態系の環、食物連鎖からは逃れられずに世界を破壊し共食いをしている」
「……」
「多すぎたのよ。人は。この世界を壊しかねない程に」
「…じゃあ、殺して殺して、それでいつか正しい形になるのか!?」
生命と正義、人間の業を直視する勇気が持てず、弱気を掻き消すように大声をあげる。
前までの自分は何も考えずに戦うただの駒だった。エリザベスと一緒になってから自分はいつの間にか…人間になっていたのだろう。
「そこまではわからない…。でもロラン、黒い鳥の話は知っているでしょう?」
「知っている…。サーダナに聞かされたからな…全てを焼き尽くす死を告げる鳥、だろう」
この世界に生きる者ならば大抵の人間は黒い鳥、という終末の使者の話は知っている。だが詳しい内容までは知らない。
「正しくはこうよ」
リザは戯曲のように仰々しくその物語を口にする。
今からずっとずっと昔…この世界は古の王…一人の王によって支配されていたの。企業が君臨するこの世界とは比べ物にならない、完全なる支配。約束された秩序と繁栄。
…それがユートピアなのかディストピアなのかはわからないけど、その王は最早神だった。悪とみなした者は完全に消滅させることができたから。
その王が言っていたことなのよ。
自分が支配する前…世界がこの形になる前にどこからか生まれどこからか飛んできた黒い鳥が理由無く世界を巻き込む戦いの引き金となり悉くを焼き尽くした。
戦う人々を、護られる人々を、正義、悪…決めつけ合う混沌の人々を。徹底的な破壊…。黒い鳥はただただ壊していき、それに巻き込まれて人々も…。
でもそれはやり直しの切っ掛けでもあったの。王はその世界を治め、君臨した。でも王は言ったわ。
いずれ自分の統治するこの世界にも混乱が現れる。そこに手を差し伸べるとき、また黒い鳥が飛んできて世界を、秩序を、自分すらも粉々にする、と。
そうしてこの世界は繰り返されていく。…黒い鳥は再生とやり直しを司る。
「…そんな話だったのか…」
「黒い鳥はその王とは別の神であったとも言われているわ」
「…?」
「火山の噴火で人が死んで火山に怒りをぶつける?地震で人が死んで、地震に戦争を仕掛ける人がいる?嵐で作物が荒らされて嵐を断罪しようとする人がいる?
今も昔も変わらないわ…ただ祈るだけ。風、火、大地、雨…人々は分け隔てない純粋な暴力を神と呼んで恐れ、崇めたのよ。誰かにだけ一方的に降りかかる暴力を正義、あるいは悪と人間が言うようにね」
「…結局、君は黒い鳥が正しい、と?」
一気に遠大な話になってしまい急についていけなくなったロラン。
「そういうことじゃないわ。正しいとか、そういうものでもないし、来てほしいとも思っていない」
「…子供の顔を見る前に世界の終わりなんてのは冗談でも笑えない話だ」
「そうよね…。ねぇ、ロラン?こんな…こんなどうしようもない世界だけど…」
「……」
「ロランはこの世界が好き?」
「君がいるから、好きだ」
世界の全てだった。
つまらない、何の為に心臓を動かして昨日も今日も戦っているのか分からなかった。
たった一人の人間が自分の心に踏みこんできたおかげで全てが変わったのだった。
自分にとってエリザベスとお腹の中の子がこの世界の全てだったのだ。
(……………………………………………………)
考えてみれば俺は強いから生き残ったというよりも、運が良かったから生き残ってしまって強くなってしまったんだ。
運が悪かったのか良かったのか。
その日はとにかく邪魔されることが多かった。
何かから自分を遠ざけるかのように。
鎮圧を命じられたテロ部隊がゲリラ戦をしかけてきて予想の倍の…一週間もかかってしまったこともそうだし、
ようやく基地にたどり着いた時に積み上げてあった物資を崩してしまって積みなおすのにそうとう手間がかかったこともそう。
帰ろうとしてガソリンが切れていることに気が付いたこともそうだ。なぜ、その日に切れていたのか未だに理解できない。
その前の日や、次の日ではダメだったのか。
『先にご飯を食べてくれ。遅くなりそうだ』
電話でもメールでもよかった。そう伝えようとしていたのに、崩れた物資に埋もれたときに通信端末が壊れてしまっていた。
そうでも伝えないともうすぐ生まれようとしている赤ん坊がいる身体だというのにも関わらず、食卓でずっと待っているだろうから。
昼間に今日の夕方には帰れそうだなんて連絡してしまっているから尚更だろう。
ジープを飛ばしに飛ばして帰っても夕餉の時間は大分過ぎる。
山道をライトで照らしながら事故を起こさぬ最低限のラインを守りながら走る。
「……?」
違和感に気が付いていた。
未だ豊かな自然があるモンゴルとロシアの元国境付近。
その山道を自宅へ向けて走れば走る程…動物たちが向こうからやってきている気がする。
暗くてよくわからないが、すれ違う鳥は全て自分が向かう側から飛んできていないか。
さらに夜道ゆえに確認することも出来なかったが、
ロランの腰に取り付けられた…ここ数年である程度の文化を持つ者ならば携帯することが当然となったコジマ汚染計測器がその針をちろちろと左右に揺らしていた。
「停電か…?」
自分の家まで行くのに使うトンネル。
その先には小さな町があり、そこから車で山道を20分登ってようやく家へとたどり着く。
そのトンネルはいつも薄く明かりが点いていたのだが今日は真っ暗だ。
ガリガリ
圧し掛かる不安のような暗闇をジープのライトで照らしながら先へ進む。
空洞に響く音があちこちに反響してリアルな悪夢に迷いこんでしまったかのような錯覚に襲われる。
ガリガリ
「…!?」
出口が見えた。
明かりがついていないのに、あんなにもくっきりと。
星と満月が空を満たす時よりもはっきりと。
トンネルを抜けるとそこは地獄だった。
ガリガリ
「なんだ…!?これは…!?」
街が火に覆われている。
道路に車だったモノの残骸が燃えて塞いでおりジープではこれ以上進めない。
既に火が上がってそれなりの時間がたっているのだろうか、動物の気配も人の気配もない。
ただ燃えてはいけない物も燃えやすい物も燃える音だけがパチパチ、ガリガリとあたりに響き渡っている。
ガリガリ
「テロか!?こんな街を!?」
こんな戦略的価値が低い街をテロリストが襲うとは到底考えられないが目の前にあるそれだけがただただ現実。
とにかく取り残されている人がいてはいけない。
探し出して救助しなければ。
そう思い車から飛び降り街へと走り出して気が付く。
腰に取りつけているコジマ汚染計測器がガリガリと針を振り切っていることを。
さっきからなっているガリガリという音は、これ。
「コジマ汚染…!こ、…あ…」
コジマミサイルやその類ではない。
それならばもっと徹底的に街が破壊されているはずだ。
ネクストの襲撃があったんだ。
「…!」
駆け出していた。
車で20分かかる山道を脚で、なんてどれだけ時間がかかるかなんてのは考えるまでもない。ただ脚が動いた。
動物の気配が、人の気配がない。
ただ、よく見ればその形をした黒いモノがその辺に転がっている。
まさか。
襲撃したネクストの目的は
(俺?)
「いやだ…ウソだ…」
駆けていく。焦げた街を抜け、黒ずんだ人を飛び越え、燃える山を駆けあがっていく。
「あ、あ、リザ、リザ…お、…あ…」
身体のあちこちに火傷を負いながらようやくたどり着いたその土地。
二人の家は既に倒壊していた。焼けこげ、いくつもの倒れた柱の塊と化している。
一緒に住んだあの温かな家が、リザが愛した花畑が、地獄を飾りたてる炎に抱かれている。
「そんな…まさ…!」
ドクンと心臓が跳ね上がる。
倒れ、炎に包まれる細い柱が見えた。
いや、違う。
あれは焦げた柱なんかじゃない。
リザと何年も暮らしてきた家だ。柱の一本一本でさえ思い出で、記憶に刻まれている。
あんなに細い柱は無かった。
黒焦げたその細長い何かの先に炎の光を受けて輝く物を見た。
そう、それはまるで永遠の愛を誓うための指輪のような…
ドクン
「リザ!!!」
やはりその日は運が悪かったのか。
この世界の流れを決める何かは駆け寄らせてくれさえしなかった。
「ああ゙っ!!」
倒れこんできた木に道を塞がれ、さらに連なる倒木に右腕を挟まれる。
「うっ…あああああああ」
痛みも熱も無視して一気に腕を引き抜く。
肉が引裂け血が噴き出る。
勢いで尻餅をついたとき、乾燥した木から上がる炎が顔を舐めでろりと皮が剥がれた。
「え…」
立ち上がろうと腕をついたそこで質量の殆どない何かに触れる感覚がする。
ドクン
「あ…う…リリアナ…」
炎に抱かれてなお形を保っているその花を手が焼けるのも構わずにそっと手に取る。
北の街も東の街も火をあげており、夜空が赤く染まっていた。
ドクン
コジマ汚染計測器は振り切ってしまい先ほどからガーガーと音を立てている。
「あ…」
手の上に乗せた花が炎に焼かればらりと崩れた。
『黒い鳥が理由無く世界を悉く焼き尽くした』
「い、いやだ…」
花畑の上で踊る炎を払うように、四つん這いになりながら手を揺らすがどこへも消えてはくれない。
身体中を襲っているはずの痛みは全く脳に届いていなかった。
ドクン
『徹底的な破壊…』
「リ、リザ…君がいないと俺は…」
火の上で呆けている自分の身も容赦なく焼かれていく。
ガーガー
「ダメなんだ…君が…君じゃないと…君がいないと…この世界は…」
倒木に手をかけて押す。だがそれは当然のようにピクリとも動かず手のひらに滲む血を沸騰させるだけ。
身体を舐めていた火はいよいよ燃えうつり自分の身をも焼こうとし始めた。
ドクン
『黒い鳥が飛んできて世界を、秩序を粉々にする』
「違う…君がいるから…この世界が…」
もうわかっている。さっき見えたのは何も家だけではない。
家も花畑も森も山も…人も。全部燃えている。
ドクン
髪に火が燃え移った。
肺に煙が入ったのか、あるいは汚染にやられたか、猛烈に咳き込み血を吐く。
「ゲホッ、ガッ…グッ…ゴボッ…あ゙、あ、…リザ…いやだ…」
ガーガー
『黒い鳥は再生とやり直しを司る』
「…やり直…し…黒い、鳥…」
燃える森で呆然と膝で立つ。
痛みや熱さは感じていないのに、汗が吹き出ているのをイカれているのに一部だけ冷静な頭が感じ取っていた。
ガーガー
耳に響く火の音、計測器の警報。
吐いた血がかかり、唯一つだけ火が消えた黒焦げの一輪の花。
うつろな記憶。
その日、ロラン・アンドレヴィッチ・オレニコフはイクバールから姿を消した。
企業から一定の距離を置くリンクスの住まいが厳重な防衛システムに守られている理由。
考えてみれば当たり前の事だった。一騎当千の兵器となるネクストの動力源たるリンクスを抹殺しようなんて考えは当然のように浮かんでくる。
だからこそ、企業からリンクスはおいそれと離れて暮らせないし、そうしたいのならば自分の身を守れるだけの設備が整った場所で暮らすか…あるいは誰にもその住処を知られてはならない。
リリウム・ウォルコットは王小龍と共にBFFで最も堅牢と言っても過言ではない基地にある屋敷で暮らしているし、
ウィン・D・ファンションが住む土地はそこら中にガードロボが24時間体制でうろつき、不埒な侵入者を射殺するし、対空砲が8門もある屋敷は半径20kmに近づいた余所者を警告の後に撃ち落とす。
ローディーにしてもその他の企業管轄街から離れて暮らすリンクスにしても、皆厳重な警戒の元で自分の身を守っている。
サーダナには先見の明があった。
国家解体戦争の折は互いに手を取り合い、同じ方向を向いて戦った企業同士であってもいずれは互いに利益を求め争うようになり、自分や他のリンクスが直接命を狙われるようになるのだろうと。
人嫌いのサーダナが人に守られずに安全に過ごす方法はすぐに頭に浮かんだ。
誰にも言わずに誰にも見つからない場所に一人で住んでしまえばいいのだ。
たとえ考え付いたとしても、それを実行できるのはリンクスに限らず全人類の中でもごく限られた者だけであろうが、
金があり、力があり、親しい者が極めて少なかった彼はそれが可能だったのだ。
その途轍もなく捻くれた考えによって一人の少年が生き延びて後の世界を大きく変えていくこととなるのは全くの偶然だった。
それはセレンとガロアが出会う六年も前の、どこにも報じられない大きな事件であった。
エリザベスは悪女という訳では無いのですが、彼女が少々特異な考えを持っていた事が後々のオールドキングの誕生に繋がってしまいます。
彼女がいなければ歴史は大きく変わっていたでしょう。
この世界に根付いている黒い鳥の伝説ですが、それと対の存在である古き王という存在も同時に語り継がれています。
黒い鳥が『全てを焼き尽くす暴力』と言われているように、古き王にも『管理者』という別名が存在します。
黒い鳥が破壊と再生を司るなら、古き王は秩序と繁栄を司ると言った感じです。
誰にも平等な圧倒的な暴力か、誰一人逃れられない完全な支配はどちらも神に限りなく近い存在になりうる…という話です。