超こだわりの“一筋メーカー”探訪記 この分野なら任せなさい! |
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砲丸一筋46年!
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「魔物の鋳物」から生まれる、オリンピックの精密砲丸
オリンピック3大会連続で「金」「銀」「銅」を独占、北京はボイコット
汎用旋盤で回転させている辻谷工業の砲丸
「私にとって砲丸は製品品目のひとつであり、さほど重要とは考えていません。商売としてももうからない。ただ、皆ができないというから、『やってやろう』と。人に負けたくない職人の意地かな。認めさせたいって気持ちが強いんですよ、自分自身にね」
アトランタ、シドニー、アテネのオリンピック3大会連続、男子砲丸投げで「金」「銀」「銅」を独占した砲丸は、埼玉県の小さな町工場でこの人の手から生まれた。しかし、アテネの次、2008年の北京オリンピックでは砲丸の提供を断る。ボイコットの理由は中国に対する不信感だった。
「2004年に中国の重慶で行われたサッカーアジアカップ。中国人サポーターの日本人選手に対する罵声やブーイングは、それはひどいものでした。ただ、この時点ではまだ決めかねていました。気持ちが決定的になったのは2005年の反日デモです。日本を嫌う国に大切な砲丸を送れないと思いました」
その結果、金メダル有力候補のアダム・ネルソン選手(米国)がファウルで記録なしに終わるなど、「辻谷砲丸」の品質は逆の形で証明される。この秘密を盗みに、海外の同業他社から「スパイ」もやってくる。「使ってほしい」と訪ねてきて、工場で働くわけだ。それがわかっても辻谷はきちんと教える。しかし、相手は半年や1年で帰っていく。
「そんな短期間で覚えられるなら、誰でもできますよ」
有限会社辻谷工業の辻谷政久氏は、今夏に開催されるロンドンオリンピックに砲丸を提供するのだろうか(後述)。
精密加工に適さない鋳物で、精密加工された砲丸を作る
有限会社辻谷工業
代表取締役
辻谷政久氏
砲丸は鋳物から作られる。主成分の鉄にシリコン、カーボン、マンガン、リン、硫黄などを混ぜるのだが、鋳物工場で鋳造される際に品質にバラツキが出る。なぜなら、重力により軽い物質が上に浮くため、下のほうの密度が高くなる。夏と冬では、寒い冬のほうが固まる時間が短いので収縮率が高くなり、直径が夏のものより直径1ミリ程度小さくなる。固さも冬のほうが若干固めになる。そもそも、鋳物の輸入元である中国、ブラジル、オーストラリアなどの産地により密度に差がある。
ひと口に言えば、鋳物は精密加工を施す素材に適していないのだ。
そのため、コンピュータ制御のNC旋盤で一様に切削すると、砲丸の優劣を決定する最大のポイント、「重心」に差が出てしまうという。そのため、同業他社ではNC旋盤で加工後に砲丸に穴を開け、鉛を流し込むなどしてバランスや重量を調整しているようだ。
「砲丸メーカーは世界30カ国以上にあり、中国、アメリカ、インド、ヨーロッパの国はほとんどすべてで、日本では弊社を含めて2社。ただ、汎用旋盤による手作りはうちだけです」
それはなぜか。材質、密度、サイズなどが異なる鋳物を、手作業で同一の製品に仕上げる技術がないからだ。納品された鋳物の差は、切削する際のハンドルの感触、音、表面の色などで判断すると辻谷氏は語るが、これができない。加えて砲丸の国際規格は条件が厳しい。
数々のプレッシャーを乗り越えて、オリンピックで3メダルを達成
自分の技術に限界を感じて、鋳物工場で1年半の勉強
一般男子用の砲丸の重量は7.260kg(一般女子は4.000kg)で、誤差は+5~25gまで。わずか20gの差なのだが、辻谷氏はこれを「+9~10g」に統一する。そのために150個ほどの砲丸を作っている。 辻谷氏が砲丸を作り始めたのは1966年から。あるスポーツメーカーからの依頼だった。ただ当時は、決められた重量より重ければ合格のように、国内規格は「いい加減だった」。そのためか砲丸メーカーは国内に10社程度あったという。しかし、1980年に国際規格が採用されると、上記のように重量の誤差が20g以内となって状況は一変する。 |
汎用旋盤で加工される砲丸 オリンピックで使われた砲丸と同じもの(レプリカとして販売) |
「指紋の筋」禁止後のアテネで、7人の入賞者が辻谷砲丸を使用
アトランタオリンピックで使われた砲丸と同じもの
選手の手に合うように微細な加工が施された
アテネオリンピックで使われた砲丸と同じもの
加工が禁じられた
その甲斐あって、1988年のソウルオリンピックで初の公式採用となるが、辻谷氏の砲丸を使う選手はいなかった。砲丸投げでは自分の砲丸を使うのではなく、公式採用された中から砲丸を選んで練習し、本番で使用するものを決める。実績のない「新参者」は信用されなかったのだ。
この悔しさが次回バルセロナへの挑戦を生んだ。人の指紋に合うように同心円状に細い筋を入れて、握りやすくする工夫をしたのだ。もちろん事前の審査を得て合格となったものだが、このフィット感があまりに評判よく、選手にこぞって使われた。それにつれて重心の位置の正確さも理解されていく。
そして、次からのアトランタ、シドニー、アテネの3大会連続で、辻谷砲丸は「金」「銀」「銅」を独占する。アトランタとシドニーで他社の砲丸がほとんど選ばれなかったためか、規則が変更され、アテネでは「指紋に合った筋」が禁止される。圧力が掛かったとの見方が有力だが、そのアテネでは8位以内の入賞者のうち7人が辻谷砲丸という快挙となった。
砲丸の製造スパンは国内競技用で1週間に50~60個、精密さが要求されるオリンピック用で同20~25個とのこと。オリンピックには無償提供だが、公式採用されれば会社の知名度や信用度が上がるというメリットがある。だから圧力を掛けて規則を変えたり、冒頭のような「国際スパイの暗躍」があるのだ。
高校時代は短距離選手で砲丸に転向、ぜひロンドンに砲丸を
スポーツ人口の減少を見越して、数十年前から新規事業も
加工による砲丸の変化
(左上、下、中央上、下、右上、右下の順)
砲丸を切削する汎用旋盤
砲丸の製造工程は最後に刻印を押すまで14という。多少を省略して6工程で説明すると写真のようになる。1、鋳物メーカーから納入された素材。2、旋盤に固定する両端の突起にドリルで穴を空ける。3、旋盤で球の側面を削る。4、球の半分を球状に削る。5、反対側を同様に削る。6、突起を切り落として最終的に仕上げる。
「この旋盤(写真)は古いもので、もう何十年も使っています。機械に触ると体が一体化しますので、新しいものに変えたくても変えられないのです(笑)。円盤を付けて削っていくのですが、最初は(1分間に)500回転、仕上げは900回転に上げていきます。神業などと言われることもありますが、全然違う。やれば誰でもできるんです」
国内での注文はインターネットによるものがほとんどで、年間の販売個数は1200前後という。全盛期は4000個だったというから、ビジネスとしては魅力的ではない。辻谷氏は少子高齢化という言葉が出てきた40年ほど前に、将来的なスポーツ人口の減少を先読みし、新たな事業を起こすことを決めた。トライアスロンやマラソンなどの大会に機材をレンタルする会社だ。
大会で使われるゴールゲートやバイクスタンドなどを設計し、分解してトラックで運んで設営する。辻谷氏が社長を務め、3人の息子さんが手伝っているのだが、これが今の本業だという。
ちなみに辻谷氏は高校時代に陸上部で、100と200mの短距離選手だった。その後、「短距離の練習はくたびれるから(笑)」と砲丸に転向。砲丸の注文が来たときは因縁めいたものを感じたそうだ。
今夏のロンドンオリンピック、辻谷砲丸は提供されるのか
一般用に販売される出荷前の砲丸 |
最後になったが、今年のロンドンオリンピックに砲丸を提供するのか。昨年の5月ごろにイギリスの新聞「The Times」の記者が来日し、同じことを質問したそうだが、その心中は複雑だ。北京オリンピックでは日本製砲丸の評判がさほどよくなかったようで、ロンドンへの提供でその差を理解してもらえればよいが、そうでなければ出す意味がないと考えているからだ。 |
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