物語は、加藤シゲアキさんが取材をもとに
書き下ろしたリアル・フィクションです

フィルムもTOYOBO

臨床検査機器・試薬、研究試薬などの「バイオ技術」と、人工腎臓用中空糸膜などの「膜技術」、これら2つのコア技術でQOL(生活の質)の向上に貢献しています。また、骨再生素材、神経再生誘導チューブなど、新たな分野への挑戦もつづけています。

Story 02

フィルムの物語

フィルムの物語 長い瞬きと言いにくいコト

「長い瞬きと言いにくいコト」

 それまで健康には全くと言っていいほど無関心だった知り合いの小説家が、突然網膜剥離になったことで夫や私にしつこく人間ドッグを勧めるようになった。
「人はなにがあるかわからないのだから三十過ぎたら一度は行っておくべきだ。健康状態を知るだけじゃない。きっと色々と思うところがある。自分を知る意味でもとにかく一度経験した方がいい」。彼は熱くそう語ったが、正直なところ私はまだいいかなと思った。仕事が忙しいし、特に体調で気になっていることもなかった。ただ夫には行ってほしいと思う。仕事柄会食などで外食も多く、体重は結婚したときよりも十キロ以上増えた。とはいえ面倒くさがり屋の彼だけを受診させるのは難しく、しかたなく自分から「私、人間ドッグを受けることにしたからついでにあなたのも予約しておくね」と口実を作り、夫も行かせることにした。  お互い仕事の都合もあって同時にとはいかず、まずは先に私が受けた。なんだか緊張したけれど、いざやってみると会社で受ける健康診断より少し細かいくらいのもので――私がシンプルなコースを選んだのもあるけれど――思ったよりも気楽だった。内科診察での結果も特に異常はなく、「後日詳細な結果をご自宅に送らせてもらいますが、おそらく問題ないでしょう」と告げられ、安心して私は診察室を後にする。
 来たときよりも軽い足取りで病院の外に出ると、車の助手席から降りようとする女性が目に入った。「夢乃?」。振り向いた彼女はしばらく固まったあと、呟くように「望美」と私の名を呼んだ。
「久しぶり」
 メイクをしていない夢乃は昔のままで、だけど笑おうとする表情には暗いものが差していた。ここで会いたくなかったのだと気付くもどうしていいかわからず、私も動けない。すると運転席から覗いた夢乃の母親が「あら、望美ちゃん、こんなところで」と声をかけ、続いて後部座席から夢乃の息子の大志くんが降りてくる。不思議そうな目で私を見て、「ママ、だあれ?」と彼は言った。
「望美です。ママのお友達です」
 夢乃が応えるより先に、私はそう名乗った。「大志くんが小さいとき、だっこしたことあるんだよ」。しかし彼の心は開かれず、黒目がちな瞳がそれから私に向けられることはなかった。
 夢乃は中学からの親友だった。大学まで一貫校だったので、卒業するまでの十年間、ずっと一緒にいた。就職してからも月に一回は会おうと約束していたけれど、彼女が就職してすぐに地方勤務が決まり、直接会う機会はずいぶんと減ってしまった。「東京に来たら必ず会おう!」という約束さえ、年に一、二回の帰京では叶わないこともしばしばだった。
「大志くん大きくなったね」
 夢乃にそう言うと、「そりゃそうだよ。ミクちゃんだってきっと大きくなったでしょ?」と返す。
「そうね。子どもはあっという間に育っちゃうね」
 図ったわけでもないのに、私たちは同じ年に結婚し、同じ年に子どもを産んだ。どこまでも離れられないね、なんてメッセージをやりとりしたのを今でも覚えている。
 会えなくても、夢乃は私にとってとても大事な存在だった。定期的に長電話をして、夫にできない育児の悩みや愚痴なんかをよく話した。あの時間がなければ、私は間違いなくノイローゼになっていたと思う。そう伝えると、夢乃も同じだと言ってくれた。どれだけ離れていたって、私たちはお互いを必要とし、支え合っていた。少なくとも、私はそう思っていた。
「ねぇ、望美。少し時間ある?」
 夢乃の瞬きが長かった。懐かしい。約束していたテーマパークに急遽予定が入って行けなくなったとき、私の貸したシャーペンを失くしたとき、同じ人を好きになったとき。言いにくいことを伝えようとするときの彼女の癖を、私は何度も見たことがある。
「うん。このあとは何もないよ」
 夢乃の母が駐車しに行き、私は夢乃と大志くんとともに再び病院へと戻った。歩きながら何の気なしに「全然変わらないね」と話しかけると、彼女は「そんなわけないよ」と謙遜する。
「三十代は二十代と同じってわけにいかないもん」
 その物言いに含みがあった。どう返していいか困る私に、「腎臓に病気が見つかってね。家族で東京に引っ越してきたの」と説明した。
「こっちの方が両親の力を借りられるし、ここで人工透析するにも近いから」
 私の足が無意識に止まる。どうして言ってくれなかったの、と言うわけにはいかない。だけどその思いが胸に膨らむ。今しがたすれ違わなければ、私は今も彼女が地方で幸せに暮らしていると思っていた。
「そう」
 頭のなかぐるぐる巡る言葉のどれもぴったりこなくて、私はそれしか言えなかった。
「ごめんね、望美。伝えたかったんだけど、ちょっと勇気が出なくて。だって言ったら、望美すごく頑張っちゃいそうだから」
「そりゃ、頑張るよ。だって私の仕事知ってるでしょ。透析に関しては知識もそれなりにあるし、色んな人に話聞いて何かできたかも」
「だからだよ。でもね、私は大丈夫。やることは決まってるんだもん」
 彼女は私の職場が透析機器に使われる中空糸膜の部署だと知っている。それだけに頼れなかったというのは、あまりに水臭い。一方で、透析患者がどれだけ大変かも理解している自分に、何も言えることがないのも事実だった。
「じゃあ、夢乃は今この病院に通っているんだね」
「うん。週三日、四時間くらいかな」
 夢乃は受付で人工透析の手続きを済ませ、「じゃあ、私治療だから。ごめんね、引き止めて。また連絡する」と手を振った。私も手を振り返そうとしたけれど、やっぱり思い直して「大志くんとお母さんは、どうしてるの?」と聞く。
「大志はいつも適当に、ゲームしたり、本読んだり、宿題したりして待ってるよ。母と一緒に」
「そう、じゃあ私も終わるまで一緒に待ってていいかな」
 夢乃と大志くんを交互に見てそう言うと、彼女は「自由にしてて。だけど無理しないでね。お願いだから」と言って、廊下の奥へと向かっていく。
 大志くんとふたりきりになって、「ごめんね、勝手なこと言って。大志くん、好きにしてていいからね」と声をかける。しかし彼はそれにはこたえず、「ねぇ」と睨むように言った。
「とうせきのしごとしてるの?」
 先ほどの会話からそう思ったのだろう。私は丁寧に「人工透析に必要な部品を作ってるの」と説明すると、彼はさらに目を細めて「じゃあ、ママの敵じゃん」と言った。
 一瞬耳を疑った。人工透析は夢乃の命を守るものだ。驚いて目を丸くしていると、「だってそれでお金もうけしてるんでしょ」と彼は言った。
 しばらく考えていると、夢乃の母親がやってくる。一緒に残る旨を伝えた後、彼女に「あの、ちょっと大志くんとふたりで話してきてもいいですか?」とお願いした。
「ねっ、いいよね、大志くん。お散歩しながら話しようよ」
 そう誘うと、大志くんは戸惑って夢乃の母を見たあと、諦めたように頭をこくりと下げた。
 ひとまず病院の外にある庭園へ行く。空にかかる薄い雲から、午後の日差しが透けている。花壇には色鮮やかなパンジーがたくさん咲いていた。
 大志くんは私と少し距離をとってついてくるので、私は振り向くようにして話しかけなくちゃならない。
「まず、ちゃんと説明するとね、私たちの会社はママの弱っちゃった腎臓の代わりに、血をきれいにする膜を作ってるの」
 彼はぶすっとしながら、「膜?」と聞き返す。
「そう。大志くんの言う通り、会社だからそれを売ってお金をもらってる。そのお金は、もともと患者さんのお金だね」
「うん」
「だけどね、私は自分たちの製品が必要なくなることが理想なんだ」
「え?」と大志くんが立ち止まる。
「私たちの製品がいらないくらいみんなが健康になるのなら、それが一番嬉しい。誰も病気にならない世界があったら、ってよく思う。だけど実際にはそうじゃないでしょ? ママみたいに病気に困っている人はたくさんいるよね。だから私たちは腎臓の代わりになるものを作ってる。あくまで代わりだけどね。腎臓そのものじゃない。腎臓が作れたらどんなにいいか」
「だけどさ、みんなが健康になったらさ、望美さんの会社潰れちゃうじゃん」
 大志くんは行儀が良くて賢い子だ。敵だと思っている私を名前で、しかもきちんとさん付けで呼ぶし、会社の仕組みをよくわかっている。夢乃の育て方がいいんだろう。ミクは彼の言っていることがわかるだろうか。そんなことを思いながら「実はね、ママの血をきれいにしてる技術はね、違うものにも使われてるの」と説明する。
「サウジアラビアって国、わかる?」
「わかるよ、緑色の国旗で剣の絵があるんだよ」
「正解。そのサウジアラビアはね、雨があんまり降らなくて、水が足りてないの。そこで私たちの会社はね、ママの血をきれいにするのと同じように、海の水をきれいにして飲めるようにしてるんだ」
 大志くんが「すごい」と声をあげる。
「地球も健康にしてるんだね」
 私ははっとした。
「うん、そう。地球も人も、みんなを健康にしたいって思ってる」
 私を見上げる大志くんの瞳は清らかな湖のようで、この子を悲しませたくないと思う。夢乃も同じことを幾度となく思っただろう。
「そんな風にね、私たちは困っている人や地球の力になるようなお仕事をたくさんしてる。ほかにもたくさん。だから私たちの会社は大丈夫なの」
 大志くんはうつむいて何かを考えた。それから「だけどさ」と頭を掻いて言った。
「うん、なに?」
「困っている人がひとりもいなくなっちゃったら、会社潰れちゃうね」
 私は思わず笑ってしまう。
「そうだね。そしたらもう、会社なんていらないね。私も会社がなくても困らないんだもんね」
 柔らかな陽が私と大志くんの影を伸ばす。大志くんはいつのまにか、私の横に並んでいた。
「だけど、まだママみたいに困っている人がたくさんいるから。私たちはやらなきゃいけないことがたくさんある。人工透析だって、患者さんのためにもっともっとよくできる可能性があると思う」
「じゃあさ」
 それから大志くんはたくさん要望を出した。もっと病院に来る回数を減らせるようにしてほしいとか、一回の時間を短くしてほしいとか、家でもできるようにしてほしいとか。止めどなくお願いする彼の話を、私はうんうんと頷きながら聞き続けた。
 そして大志くんは最後にハンバーガーを食べられるようにしてほしいと言った。透析患者は塩分制限があるため、食事にはかなり気を使わなくちゃいけない。夢乃は大好物のハンバーガーを我慢していて、それがかわいそうなんだと。それを知って私は胸が苦しくなり、慌てて空を見上げる。
 わかる。知ってる。私もハンバーガーを頬張る夢乃が大好きだった。中学生のときも、高校生のときも、大学生のときも、なにかあると私たちはハンバーガーを食べに行った。そこでテーマパークに行けなくなったこと、シャーペンを失くしたこと、同じ人を好きになったことを聞いた。長い瞬きがそこにあって、私は気にしないでって言って、それから大声で笑い合って、ずっと一緒にいようねって、いつも子供じみた結論になったんだ。
 私たちの大切な思い出を、思い出のなかだけに留めたくない。この先の未来にだって、まだまだ思い出が待っているはずだから。
 空を仰ぐ私に「大丈夫?」と大志くんが声をかける。心配そうに見つめる彼の顔は夢乃に似ていた。
「大丈夫。絶対に大丈夫」
 私は目尻を拭って、大志くんをぎゅっと抱きしめた。その奥で、黄色のパンジーが微笑むように揺れた。

「長い瞬きと言いにくいコト」

 それまで健康には全くと言っていいほど無関心だった知り合いの小説家が、突然網膜剥離になったことで夫や私にしつこく人間ドッグを勧めるようになった。
「人はなにがあるかわからないのだから三十過ぎたら一度は行っておくべきだ。健康状態を知るだけじゃない。きっと色々と思うところがある。自分を知る意味でもとにかく一度経験した方がいい」。彼は熱くそう語ったが、正直なところ私はまだい

いかなと思った。仕事が忙しいし、特に体調で気になっていることもなかった。ただ夫には行ってほしいと思う。仕事柄会食などで外食も多く、体重は結婚したときよりも十キロ以上増えた。とはいえ面倒くさがり屋の彼だけを受診させるのは難しく、しかたなく自分から「私、人間ドッグを受けることにしたからついでにあなたのも予約しておくね」と口実を作り、夫も行かせることにした。
 お互い仕事の都合もあって同時にとはいかず、まずは先に私が受けた。なんだか緊張したけれど、いざやってみると会社で受ける健康診断より少し細かいくらいのもので――私がシンプ

ルなコースを選んだのもあるけれど――思ったよりも気楽だった。内科診察での結果も特に異常はなく、「後日詳細な結果をご自宅に送らせてもらいますが、おそらく問題ないでしょう」と告げられ、安心して私は診察室を後にする。
 来たときよりも軽い足取りで病院の外に出ると、車の助手席から降りようとする女性が目に入った。「夢乃?」。振り向いた彼女はしばらく固まったあと、呟くように「望美」と私の名を呼んだ。
「久しぶり」
 メイクをしていない夢乃は昔のままで、だけど笑おうとする

表情には暗いものが差していた。ここで会いたくなかったのだと気付くもどうしていいかわからず、私も動けない。すると運転席から覗いた夢乃の母親が「あら、望美ちゃん、こんなところで」と声をかけ、続いて後部座席から夢乃の息子の大志くんが降りてくる。不思議そうな目で私を見て、「ママ、だあれ?」と彼は言った。
「望美です。ママのお友達です」
 夢乃が応えるより先に、私はそう名乗った。「大志くんが小さいとき、だっこしたことあるんだよ」。しかし彼の心は開かれず、黒目がちな瞳がそれから私に向けられることはなかっ

た。
 夢乃は中学からの親友だった。大学まで一貫校だったので、卒業するまでの十年間、ずっと一緒にいた。就職してからも月に一回は会おうと約束していたけれど、彼女が就職してすぐに地方勤務が決まり、直接会う機会はずいぶんと減ってしまった。「東京に来たら必ず会おう!」という約束さえ、年に一、二回の帰京では叶わないこともしばしばだった。
「大志くん大きくなったね」
 夢乃にそう言うと、「そりゃそうだよ。ミクちゃんだってきっと大きくなったでしょ?」と返す。

「そうね。子どもはあっという間に育っちゃうね」
 図ったわけでもないのに、私たちは同じ年に結婚し、同じ年に子どもを産んだ。どこまでも離れられないね、なんてメッセージをやりとりしたのを今でも覚えている。
 会えなくても、夢乃は私にとってとても大事な存在だった。定期的に長電話をして、夫にできない育児の悩みや愚痴なんかをよく話した。あの時間がなければ、私は間違いなくノイローゼになっていたと思う。そう伝えると、夢乃も同じだと言ってくれた。どれだけ離れていたって、私たちはお互いを必要とし、支え合っていた。少なくとも、私はそう思っていた。

「ねぇ、望美。少し時間ある?」
 夢乃の瞬きが長かった。懐かしい。約束していたテーマパークに急遽予定が入って行けなくなったとき、私の貸したシャーペンを失くしたとき、同じ人を好きになったとき。言いにくいことを伝えようとするときの彼女の癖を、私は何度も見たことがある。
「うん。このあとは何もないよ」
 夢乃の母が駐車しに行き、私は夢乃と大志くんとともに再び病院へと戻った。歩きながら何の気なしに「全然変わらないね」と話しかけると、彼女は「そんなわけないよ」と謙遜す

る。
「三十代は二十代と同じってわけにいかないもん」
 その物言いに含みがあった。どう返していいか困る私に、「腎臓に病気が見つかってね。家族で東京に引っ越してきたの」と説明した。
「こっちの方が両親の力を借りられるし、ここで人工透析するにも近いから」
 私の足が無意識に止まる。どうして言ってくれなかったの、と言うわけにはいかない。だけどその思いが胸に膨らむ。今しがたすれ違わなければ、私は今も彼女が地方で幸せに暮らして

いると思っていた。
「そう」
 頭のなかぐるぐる巡る言葉のどれもぴったりこなくて、私はそれしか言えなかった。
「ごめんね、望美。伝えたかったんだけど、ちょっと勇気が出なくて。だって言ったら、望美すごく頑張っちゃいそうだから」
「そりゃ、頑張るよ。だって私の仕事知ってるでしょ。透析に関しては知識もそれなりにあるし、色んな人に話聞いて何かできたかも」

「だからだよ。でもね、私は大丈夫。やることは決まってるんだもん」
 彼女は私の職場が透析機器に使われる中空糸膜の部署だと知っている。それだけに頼れなかったというのは、あまりに水臭い。一方で、透析患者がどれだけ大変かも理解している自分に、何も言えることがないのも事実だった。
「じゃあ、夢乃は今この病院に通っているんだね」
「うん。週三日、四時間くらいかな」
 夢乃は受付で人工透析の手続きを済ませ、「じゃあ、私治療だから。ごめんね、引き止めて。また連絡する」と手を振っ

た。私も手を振り返そうとしたけれど、やっぱり思い直して「大志くんとお母さんは、どうしてるの?」と聞く。
「大志はいつも適当に、ゲームしたり、本読んだり、宿題したりして待ってるよ。母と一緒に」
「そう、じゃあ私も終わるまで一緒に待ってていいかな」
 夢乃と大志くんを交互に見てそう言うと、彼女は「自由にしてて。だけど無理しないでね。お願いだから」と言って、廊下の奥へと向かっていく。
 大志くんとふたりきりになって、「ごめんね、勝手なこと言って。大志くん、好きにしてていいからね」と声をかける。し

かし彼はそれにはこたえず、「ねぇ」と睨むように言った。
「とうせきのしごとしてるの?」
 先ほどの会話からそう思ったのだろう。私は丁寧に「人工透析に必要な部品を作ってるの」と説明すると、彼はさらに目を細めて「じゃあ、ママの敵じゃん」と言った。
 一瞬耳を疑った。人工透析は夢乃の命を守るものだ。驚いて目を丸くしていると、「だってそれでお金もうけしてるんでしょ」と彼は言った。
 しばらく考えていると、夢乃の母親がやってくる。一緒に残る旨を伝えた後、彼女に「あの、ちょっと大志くんとふたりで

話してきてもいいですか?」とお願いした。
「ねっ、いいよね、大志くん。お散歩しながら話しようよ」
 そう誘うと、大志くんは戸惑って夢乃の母を見たあと、諦めたように頭をこくりと下げた。
 ひとまず病院の外にある庭園へ行く。空にかかる薄い雲から、午後の日差しが透けている。花壇には色鮮やかなパンジーがたくさん咲いていた。
 大志くんは私と少し距離をとってついてくるので、私は振り向くようにして話しかけなくちゃならない。
「まず、ちゃんと説明するとね、私たちの会社はママの弱っち

ゃった腎臓の代わりに、血をきれいにする膜を作ってるの」
 彼はぶすっとしながら、「膜?」と聞き返す。
「そう。大志くんの言う通り、会社だからそれを売ってお金をもらってる。そのお金は、もともと患者さんのお金だね」
「うん」
「だけどね、私は自分たちの製品が必要なくなることが理想なんだ」
「え?」と大志くんが立ち止まる。
「私たちの製品がいらないくらいみんなが健康になるのなら、それが一番嬉しい。誰も病気にならない世界があったら、って

よく思う。だけど実際にはそうじゃないでしょ?
 ママみたいに病気に困っている人はたくさんいるよね。だから私たちは腎臓の代わりになるものを作ってる。あくまで代わりだけどね。腎臓そのものじゃない。腎臓が作れたらどんなにいいか」
「だけどさ、みんなが健康になったらさ、望美さんの会社潰れちゃうじゃん」
 大志くんは行儀が良くて賢い子だ。敵だと思っている私を名前で、しかもきちんとさん付けで呼ぶし、会社の仕組みをよくわかっている。夢乃の育て方がいいんだろう。ミクは彼の言っ

ていることがわかるだろうか。そんなことを思いながら「実はね、ママの血をきれいにしてる技術はね、違うものにも使われてるの」と説明する。
「サウジアラビアって国、わかる?」
「わかるよ、緑色の国旗で剣の絵があるんだよ」
「正解。そのサウジアラビアはね、雨があんまり降らなくて、水が足りてないの。そこで私たちの会社はね、ママの血をきれいにするのと同じように、海の水をきれいにして飲めるようにしてるんだ」
 大志くんが「すごい」と声をあげる。

「地球も健康にしてるんだね」
 私ははっとした。
「うん、そう。地球も人も、みんなを健康にしたいって思ってる」
 私を見上げる大志くんの瞳は清らかな湖のようで、この子を悲しませたくないと思う。夢乃も同じことを幾度となく思っただろう。
「そんな風にね、私たちは困っている人や地球の力になるようなお仕事をたくさんしてる。ほかにもたくさん。だから私たちの会社は大丈夫なの」

 大志くんはうつむいて何かを考えた。それから「だけどさ」と頭を掻いて言った。
「うん、なに?」
「困っている人がひとりもいなくなっちゃったら、会社潰れちゃうね」
 私は思わず笑ってしまう。
「そうだね。そしたらもう、会社なんていらないね。私も会社がなくても困らないんだもんね」
 柔らかな陽が私と大志くんの影を伸ばす。大志くんはいつのまにか、私の横に並んでいた。

「だけど、まだママみたいに困っている人がたくさんいるから。私たちはやらなきゃいけないことがたくさんある。人工透析だって、患者さんのためにもっともっとよくできる可能性があると思う」
「じゃあさ」
 それから大志くんはたくさん要望を出した。もっと病院に来る回数を減らせるようにしてほしいとか、一回の時間を短くしてほしいとか、家でもできるようにしてほしいとか。止めどなくお願いする彼の話を、私はうんうんと頷きながら聞き続けた。

 そして大志くんは最後にハンバーガーを食べられるようにしてほしいと言った。透析患者は塩分制限があるため、食事にはかなり気を使わなくちゃいけない。夢乃は大好物のハンバーガーを我慢していて、それがかわいそうなんだと。それを知って私は胸が苦しくなり、慌てて空を見上げる。
 わかる。知ってる。私もハンバーガーを頬張る夢乃が大好きだった。中学生のときも、高校生のときも、大学生のときも、なにかあると私たちはハンバーガーを食べに行った。そこでテーマパークに行けなくなったこと、シャーペンを失くしたこと、同じ人を好きになったことを聞いた。長い瞬きがそこにあ

って、私は気にしないでって言って、それから大声で笑い合って、ずっと一緒にいようねって、いつも子供じみた結論になったんだ。
 私たちの大切な思い出を、思い出のなかだけに留めたくない。この先の未来にだって、まだまだ思い出が待っているはずだから。
 空を仰ぐ私に「大丈夫?」と大志くんが声をかける。心配そうに見つめる彼の顔は夢乃に似ていた。
「大丈夫。絶対に大丈夫」
 私は目尻を拭って、大志くんをぎゅっと抱きしめた。その奥

で、黄色のパンジーが微笑むように揺れた。

    人工腎臓中空糸膜について TOYOBOで働きたい

    シェアする

    Who's TOYOBO?

    東洋紡は、綿紡績から始まり
    フィルム、ライフサイエンス、環境・機能材を中心に、モビリティ、高機能繊維など
    「高機能素材」を製造、加工、販売する企業へと発展してきました。

    現状に満足せず、常に成長を続けるために
    変化を恐れず、変化を楽しみ、変化をつくる。

    私たちは、時代をけん引するカテゴリー・リーダーをめざし
    安全安心なオリジナリティあふれるモノづくりで
    人と地球のために、新しい変化を生み出していきます。