物語は、加藤シゲアキさんが取材をもとに
書き下ろしたリアル・フィクションです

フィルムもTOYOBO

車室内の空気を浄化するフィルターや、リチウムイオン電池(セパレーター)の製作過程で発生される揮発性有機化合物(VOC)を回収する装置、海水を飲み水(淡水)に変える機能膜など…身近なものから地球規模のものまで。さまざまな製品で、地球の環境保全に貢献しています。

Story 03

フィルムの物語

フィルムの物語 巡るフィルムの導く先は

「風の吹き回し」

 君の志を軽んじるような人たちとは距離を置くことだ。大したことない人はいつもそうするが、本当に偉大な人は自分も偉大になれると思わせてくれる。――マーク・トウェイン

 バイトがしたいという私の願いを、母は洗い物をしながら「高校生にはまだ早い」とあっさり突っぱねた。
「私の志を軽んじないで! そういう人は大したことないって、マーク・トウェインだって言ってた!」
 SNSで回ってきた名言を思い出してそう言い返す。しかし母は「トム・ソーヤも読破できなかったくせに、なにがマーク・トウェインよ」と鼻で笑い、まともに取り合おうとしない。
 まぁまぁと間に入ったのは母の弟、つまり私にとっての叔父で、仕事の関係先から新種の野菜をもらったから届けにきたという彼は、突如始まった親子喧嘩を仲裁するはめになった。叔父は誰より母の性格を熟知しているからか、「わかる。わかる。うんうん」と相づちを打ちながらも、「だけど風花としてはさ」と私の気持ちを代弁してくれる。
「今の高校生は色々お金がかかるっていうじゃん? だからってあんまり姉さんに無心するわけにもいかない、親に迷惑かけたくないって思ってるんだよ。危ない仕事をするわけじゃないし、門限までに帰ってくるんならいいんじゃないか」
「そうは言ったって」
「姉さんだって高校の時バイトしてたろ」
「そうなの⁉」
 私が口を挟むと、母はきっと睨みつける。
「じゃあ風花はなんのバイトがしたいわけ?」
 そこまで思いが及んでいなくて、「それはさ、ほら……」とごまかす。だけど母は私の無計画を見抜き、今にも責めそうだった。察した叔父は「ハンバーガー屋はどうだ?」とまたも割って入り、私にアイコンタクトした。正直飲食店で働く気はなかったが、ひとまず彼に合わせて「いいね!」と親指を立ててみる。
「会社の近くにいい店があって、ちょうどバイト募集してるんだよ。そこならトラブっても俺がすぐに駆けつけられるし、俺がいなくても妻や同僚もいる。それに風花の学校からも家からも電車で一本だし、悪くないと思うよ」
 まるで用意していたかのように叔父は饒舌に話す。母は不満げな顔を浮かべつつも、最終的に「しかたないわね。でも学校の成績が下がったらすぐに辞めさせるから」と私を受け入れ、洗い物に戻った。叔父に感謝を伝えると、彼は「仕事でもこれくらい説得できるといいんだけどな」とうなじに手を当て、照れくさそうに笑った。
「そんなことより、引用するなら読み切れよ。児童文学の金字塔も読めないようじゃこの先が思いやられる」
 私は頷いたけど、心のなかはすっかりバイトのことでいっぱいだった。どうせハンバーガー屋でバイトするなら、制服が可愛くて、仕事が楽で、時給が高いところがいい。
 しかしそんな私の淡い期待は、すぐに裏切られた。バイト先の制服は可もなく不可もなく。時給はそこそこ。そして仕事は信じられないほどきつかった。
 オフィス街にあるその店はハワイから進出してきたばかりのハンバーガーショップで、時間にかかわらず常に行列ができ、なのに人員が全然足りていなかった。だからホール担当の私も、ときにレジを打ったり、ポテトやナゲットを揚げたりしなくてはならない。どんなときも臨機応変に対応できるよう、担当外の仕事も覚えなくてはならず、バイトが終わればいつもくたくただった。何度か叔父がひやかしに店を訪れたときもかまっている時間は全然なくて、逆に彼の方がバツが悪そうだった。そんな私の仕事ぶりが母に叔父から伝わったらしく、へとへとになって帰宅する私を「ざまあみなさい」と面白がっていた。
 退屈よりはましだと自分に言い聞かせるものの、次から次へと仕事に追われてさすがにくたびれる。なんとか疲れを紛らわせる方法はないだろうか。そう思っていたとき、ひとり変わった客がいることを発見した。その人は叔父と同い年くらいの男性で、いつも丸みのある特徴的なメガネをかけていた。彼は毎日来店し、しかも多いときは日に三度やってくる。そして注文するのは決まってポテトのみの持ち帰りだった。どんだけ芋好きなんだよと思うけれど、彼はちっとも嬉しそうに注文しない。「ポテトひとつ」という声は決まって低く、ぼそぼそしている。どういう感情? その顔を見る度、おかしくって吹き出しそうになる。そんなことで笑えるくらい疲れていたわけだけど、とにかく私は彼を心のなかで「いもりん」と呼ぶことにした。そしていもりんが今日何回来るかを賭け、その数が当たれば帰りにコンビニでアイスを買えるというルールを設定した。初めはなかなかアイスが買えなかったが、段々といもりんの行動パターンがわかってきて、ほぼ毎日アイスを買って帰れるようになる。おかげでバイトを始めた時に激減した体重も、今ではアイス効果でもとよりちょっと増えた。そろそろダイエットしなきゃと嬉しい悩みが増え、些細な楽しみが疲れを癒す。仕事にも慣れて段々と余裕ができ、財布も潤う。ここでバイトをしてよかったと私は切に思った。
 しかしいもりんはぴたりと来なくなった。ポテトを食べ過ぎて嫌いになったのだろうか。それともポテトを食べ過ぎて身体を壊したとか。大丈夫かな、いもりん。
 それからしばらく経ち、いつしかルールはすっかり忘れ、バイト終わりにアイスを買って帰る習慣だけが残った。冬になってもそれはやめられなくて、クリスマスムードで沸き立つ街を、私はアイスを食べながら帰っていた。
 ふと駅前のファストフード店に目をやると、店から出てくるいもりんが見えた。手元のビニール袋からポテトの容器が透けている。私はなんだか悲しくて、ショックのあまり自分の気持ちをコントロールできず、気付けばいもりんに「あの」と声をかけていた。いつも無表情な彼だったが、このときばかりはメガネ越しに目を見開いている。私は早口で自分のバイト先と名前を言って、「最近お見えにならなかったので」と続ける。
「うちのポテト、嫌いになっちゃいましたか?」
 彼は「はぁ」と軽く声を漏らしてから、「いや、元から好きじゃないんです」と言った。えっ、と私が驚くと、「いもり!」と聞き慣れた声がする。振り向くと叔父が手を振っていた。なぜ彼が秘密のあだ名を知っているのか混乱していると、「あれ、風花?」と不思議そうな顔をした。
「どうして二人が? 知り合い?」
「声をかけられたんです」
 いもりんはそう答え、手元の袋を一瞥してから「すみません急いでるので」とその場から去っていく。頭にはてながいくつも浮かぶ私をよそに、叔父は「逆ナンか? 大胆だなぁ。あぁ言うのがタイプだったなんてなぁ」とニヤけている。
「あの人知り合い?」
 叔父のトーンには合わせず、真面目に尋ねる。彼はそれを汲んで「井森か? 会社の後輩だよ」と言った。あだ名と本名の偶然の一致に嬉しくなりながら、私は目の前のファストフード店に叔父を誘った。私たちはハンバーガーもポテトも注文せず、カフェラテだけを頼んで席に着き、これまでの彼の話をする。
「だけど、ポテト嫌いって言うし、なのに違う店でポテト買ってるし、どういうことだろうと思って」
「なるほどね」
 ラテに口をつけながら、「ただ食べるためじゃないんだよ、ポテト」と彼は言った。
「彼はフィルターを扱う部署で働いてるんだ。エアコンとか空気清浄機とか、そういうものに使われるフィルター」
「うちにもあったりするのかな」
「あぁ。だけど個人用だけじゃない。うちのフィルターはオフィスや工場にも使われてて、とにかくいろんな場所の空気をきれいにしている」
 叔父は自分のことのように、得意げに腕を組む。
「それでだな、今あいつが目下開発中なのが、車のフィルター」
「車のフィルターってなによ?」
「風花はまだ免許持ってないからわからないと思うけど、車のエアコンには外部の空気を取り込んで循環させるものと内部の空気を循環させるモードがあるんだよ。外の空気の臭いと、車内の臭いって違うだろ? それぞれの臭いを除去するのに、フィルターが一緒でいいわけないじゃん。だからフィルターもシチュエーションによって変わるし、どんなものにも対応できるよう進化してるんだけどさ。今彼らが除去しようと開発してるのがフライドポテトの臭いなんだ」
「フライドポテト?」
私はそう繰り返し、近くの人たちから漂うその臭いをそっと嗅ぐ。
「ドライブスルーなんかでよく食べるフライドポテトの臭いって、車内結構残るんだよ。それをどうにかしようと井森たちは頑張ってる。だから好きでもないのに……嫌いでもないとは思うけど、仕事場で毎日ポテトを食べて、どんな臭いの成分が残りやすいか調べたり、どうすれば効率良く除去できるかシミュレーションしてるわけ。でも一店舗のフライドポテトだけで結果出しても仕方がないから、今はうちの会社から二番目に近いこの店のフライドポテトで試してるってこと」
 そんなのわかるわけない。と思いつつ、彼が全く嬉しくなさそうにフライドポテトを注文していた理由にも合点がいく。
「そんなに食べてたら、どんなに好きなものでも好きじゃなくなるよね」
「そうかもな。井森太ったし」
「そうなの?」
「開発始めるまでは、かなり痩せてた。まぁ人のこと言えないけど」
 そう言って叔父が自分のお腹をつまむ。私も気になって、自分のお腹をちょっとつまむ。
「でも次の店を試してるってことはうまくいってるのかな」
「どうだろな。でも開発を始めて随分時間が経ったし、そろそろかもな」
 それからいもりんがうちの店にやってきたのは、クリスマスから三ヶ月が経った頃だった。彼はレジに立つ私を見て、少し気まずそうに「あの、すみません」と声をかけた。
「ハンバーガーセット、二十個お願いできますか。持ち帰りで」
「かしこまりました」と私はこたえたが、気になってしまって聞き返す。
「もしかして、完成したんですか?」
 相変わらず店は混んでいて、今はお客さんとのんびり話している場合ではない。だけど私は我慢できず、バイトリーダーの視線を感じつつも、「車のフィルター。開発してるって聞きました」と続けた。
「あぁ」
 彼は小刻みに頷いて、「はい」と不器用に口角を上げた。
「今日はその打ち上げで、ここのハンバーガーを食べることに」
「そうなんですね! おめでとうございます!」
 思わず大きい声が出る。
「うちを選んでくれてありがとうございます。でもいいんですか。いもり……さん、フライドポテト好きじゃないって。ポテト、ナゲットに変えます? 他にもいろいろできますよ」
 完璧に覚えたセットメニューのバリエーションを説明したが、彼はきっぱりした口調で「いえ、ポテトでお願いします」と言った。
「色んな店でたくさんフライドポテトを食べてきたんですが、ここのが一番好きだと気づきまして。多分、僕はポテトが好きになりました」
 自分が褒められたみたいに嬉しくなる。でも今日はハンバーガーセットだからアイス食べれないな、そもそも予想してなかったし、だけどまぁいっか、そもそもルール崩壊してるし、気分良いし、アイス食べよ。
「次は何を食べるんですか?」
「え?」
「気になって。次は何の臭いを消すために、何を食べるのかなって」
 いもりんはおでこをぽりぽりと掻いて、「いえ、もう食べません」と照れくさそうに言った。
「次はフィルターに香りをつけられるか試そうと思ってます。例えば目の覚めるアロマが放出されたら、交通事故が少しでも減らせるかなって」
「フィルターって臭いを吸着するだけじゃなくて、何かを放出することもできるんですか?」
「アロマはやってみなきゃわからないです。でも放出する技術はすでにあります。ビタミンCを放出して肌にうるおいを与えたりとか――」
「えっ、車を運転すれば、きれいになるってことですか⁉」
「えぇ、まぁ。肌の水分量は向上すると言われてます」
 そこで二十個のハンバーガーセットが出来上がり、いもりんに渡す。
「頑張ってください! またのお越しをお待ちしております」と言うと彼は小さく会釈し、たくさんのハンバーガーを両手に会社に戻っていく。
 高校卒業したら免許を取ろう。そんでいつか車を買って、運転席で思いっきりフライドポテト食べて、本当に臭いが取れるか試して、ついでに肌をきれいにしてやるんだ。その頃にはアロマの香りもするかもしれないし、他にも面白いことが詰め込まれているかもしれない。
次のお客さんが店内に入ると、扉から流れ込む風が春の香りを引き連れてやってくる。柔らかく、温もりを帯びた風。新たな始まりの前触れを感じ、私は大きな声で「いらっしゃいませ」と言った。

「風の吹き回し」

 君の志を軽んじるような人たちとは距離を置くことだ。大したことない人はいつもそうするが、本当に偉大な人は自分も偉大になれると思わせてくれる。――マーク・トウェイン

 バイトがしたいという私の願いを、母は洗い物をしながら「高校生にはまだ早い」とあっさり突っぱねた。
「私の志を軽んじないで! そういう人は大したことないっ

て、マーク・トウェインだって言ってた!」
 SNSで回ってきた名言を思い出してそう言い返す。しかし母は「トム・ソーヤも読破できなかったくせに、なにがマーク・トウェインよ」と鼻で笑い、まともに取り合おうとしない。
 まぁまぁと間に入ったのは母の弟、つまり私にとっての叔父で、仕事の関係先から新種の野菜をもらったから届けにきたという彼は、突如始まった親子喧嘩を仲裁するはめになった。叔父は誰より母の性格を熟知しているからか、「わかる。わかる。うんうん」と相づちを打ちながらも、「だけど風花として

はさ」と私の気持ちを代弁してくれる。
「今の高校生は色々お金がかかるっていうじゃん? だからってあんまり姉さんに無心するわけにもいかない、親に迷惑かけたくないって思ってるんだよ。危ない仕事をするわけじゃないし、門限までに帰ってくるんならいいんじゃないか」
「そうは言ったって」
「姉さんだって高校の時バイトしてたろ」
「そうなの⁉」
 私が口を挟むと、母はきっと睨みつける。
「じゃあ風花はなんのバイトがしたいわけ?」

そこまで思いが及んでいなくて、「それはさ、ほら……」とごまかす。だけど母は私の無計画を見抜き、今にも責めそうだった。察した叔父は「ハンバーガー屋はどうだ?」とまたも割って入り、私にアイコンタクトした。正直飲食店で働く気はなかったが、ひとまず彼に合わせて「いいね!」と親指を立ててみる。
「会社の近くにいい店があって、ちょうどバイト募集してるんだよ。そこならトラブっても俺がすぐに駆けつけられるし、俺がいなくても妻や同僚もいる。それに風花の学校からも家からも電車で一本だし、悪くないと思うよ」

まるで用意していたかのように叔父は饒舌に話す。母は不満げな顔を浮かべつつも、最終的に「しかたないわね。でも学校の成績が下がったらすぐに辞めさせるから」と私を受け入れ、洗い物に戻った。叔父に感謝を伝えると、彼は「仕事でもこれくらい説得できるといいんだけどな」とうなじに手を当て、照れくさそうに笑った。
「そんなことより、引用するなら読み切れよ。児童文学の金字塔も読めないようじゃこの先が思いやられる」
 私は頷いたけど、心のなかはすっかりバイトのことでいっぱいだった。どうせハンバーガー屋でバイトするなら、制服が可

愛くて、仕事が楽で、時給が高いところがいい。
 しかしそんな私の淡い期待は、すぐに裏切られた。バイト先の制服は可もなく不可もなく。時給はそこそこ。そして仕事は信じられないほどきつかった。
 オフィス街にあるその店はハワイから進出してきたばかりのハンバーガーショップで、時間にかかわらず常に行列ができ、なのに人員が全然足りていなかった。だからホール担当の私も、ときにレジを打ったり、ポテトやナゲットを揚げたりしなくてはならない。どんなときも臨機応変に対応できるよう、担当外の仕事も覚えなくてはならず、バイトが終わればいつもく

たくただった。何度か叔父がひやかしに店を訪れたときもかまっている時間は全然なくて、逆に彼の方がバツが悪そうだった。そんな私の仕事ぶりが母に叔父から伝わったらしく、へとへとになって帰宅する私を「ざまあみなさい」と面白がっていた。
 退屈よりはましだと自分に言い聞かせるものの、次から次へと仕事に追われてさすがにくたびれる。なんとか疲れを紛らわせる方法はないだろうか。そう思っていたとき、ひとり変わった客がいることを発見した。その人は叔父と同い年くらいの男性で、いつも丸みのある特徴的なメガネをかけていた。彼は毎

日来店し、しかも多いときは日に三度やってくる。そして注文するのは決まってポテトのみの持ち帰りだった。どんだけ芋好きなんだよと思うけれど、彼はちっとも嬉しそうに注文しない。「ポテトひとつ」という声は決まって低く、ぼそぼそしている。どういう感情? その顔を見る度、おかしくって吹き出しそうになる。そんなことで笑えるくらい疲れていたわけだけど、とにかく私は彼を心のなかで「いもりん」と呼ぶことにした。そしていもりんが今日何回来るかを賭け、その数が当たれば帰りにコンビニでアイスを買えるというルールを設定した。初めはなかなかアイスが買えなかったが、段々といもりんの行

動パターンがわかってきて、ほぼ毎日アイスを買って帰れるようになる。おかげでバイトを始めた時に激減した体重も、今ではアイス効果でもとよりちょっと増えた。そろそろダイエットしなきゃと嬉しい悩みが増え、些細な楽しみが疲れを癒す。仕事にも慣れて段々と余裕ができ、財布も潤う。ここでバイトをしてよかったと私は切に思った。
 しかしいもりんはぴたりと来なくなった。ポテトを食べ過ぎて嫌いになったのだろうか。それともポテトを食べ過ぎて身体を壊したとか。大丈夫かな、いもりん。
 それからしばらく経ち、いつしかルールはすっかり忘れ、バ

イト終わりにアイスを買って帰る習慣だけが残った。冬になってもそれはやめられなくて、クリスマスムードで沸き立つ街を、私はアイスを食べながら帰っていた。
 ふと駅前のファストフード店に目をやると、店から出てくるいもりんが見えた。手元のビニール袋からポテトの容器が透けている。私はなんだか悲しくて、ショックのあまり自分の気持ちをコントロールできず、気付けばいもりんに「あの」と声をかけていた。いつも無表情な彼だったが、このときばかりはメガネ越しに目を見開いている。私は早口で自分のバイト先と名前を言って、「最近お見えにならなかったので」と続ける。

「うちのポテト、嫌いになっちゃいましたか?」
 彼は「はぁ」と軽く声を漏らしてから、「いや、元から好きじゃないんです」と言った。えっ、と私が驚くと、「いもり!」と聞き慣れた声がする。振り向くと叔父が手を振っていた。なぜ彼が秘密のあだ名を知っているのか混乱していると、「あれ、風花?」と不思議そうな顔をした。
「どうして二人が? 知り合い?」
「声をかけられたんです」
 いもりんはそう答え、手元の袋を一瞥してから「すみません急いでるので」とその場から去っていく。頭にはてながいくつ

も浮かぶ私をよそに、叔父は「逆ナンか? 大胆だなぁ。あぁ言うのがタイプだったなんてなぁ」とニヤけている。
「あの人知り合い?」
 叔父のトーンには合わせず、真面目に尋ねる。彼はそれを汲んで「井森か? 会社の後輩だよ」と言った。あだ名と本名の偶然の一致に嬉しくなりながら、私は目の前のファストフード店に叔父を誘った。私たちはハンバーガーもポテトも注文せず、カフェラテだけを頼んで席に着き、これまでの彼の話をする。
「だけど、ポテト嫌いって言うし、なのに違う店でポテト買っ

てるし、どういうことだろうと思って」
「なるほどね」
 ラテに口をつけながら、「ただ食べるためじゃないんだよ、ポテト」と彼は言った。
「彼はフィルターを扱う部署で働いてるんだ。エアコンとか空気清浄機とか、そういうものに使われるフィルター」
「うちにもあったりするのかな」
「あぁ。だけど個人用だけじゃない。うちのフィルターはオフィスや工場にも使われてて、とにかくいろんな場所の空気をきれいにしている」

叔父は自分のことのように、得意げに腕を組む。
「それでだな、今あいつが目下開発中なのが、車のフィルター」
「車のフィルターってなによ?」
「風花はまだ免許持ってないからわからないと思うけど、車のエアコンには外部の空気を取り込んで循環させるものと内部の空気を循環させるモードがあるんだよ。外の空気の臭いと、車内の臭いって違うだろ? それぞれの臭いを除去するのに、フィルターが一緒でいいわけないじゃん。だからフィルターもシチュエーションによって変わるし、どんなものにも対応できる

よう進化してるんだけどさ。今彼らが除去しようと開発してるのがフライドポテトの臭いなんだ」
「フライドポテト?」
私はそう繰り返し、近くの人たちから漂うその臭いをそっと嗅ぐ。
「ドライブスルーなんかでよく食べるフライドポテトの臭いって、車内結構残るんだよ。それをどうにかしようと井森たちは頑張ってる。だから好きでもないのに……嫌いでもないとは思うけど、仕事場で毎日ポテトを食べて、どんな臭いの成分が残りやすいか調べたり、どうすれば効率良く除去できるかシミュ

レーションしてるわけ。でも一店舗のフライドポテトだけで結果出しても仕方がないから、今はうちの会社から二番目に近いこの店のフライドポテトで試してるってこと」
 そんなのわかるわけない。と思いつつ、彼が全く嬉しくなさそうにフライドポテトを注文していた理由にも合点がいく。
「そんなに食べてたら、どんなに好きなものでも好きじゃなくなるよね」
「そうかもな。井森太ったし」
「そうなの?」
「開発始めるまでは、かなり痩せてた。まぁ人のこと言えない

けど」
 そう言って叔父が自分のお腹をつまむ。私も気になって、自分のお腹をちょっとつまむ。
「でも次の店を試してるってことはうまくいってるのかな」
「どうだろな。でも開発を始めて随分時間が経ったし、そろそろかもな」
 それからいもりんがうちの店にやってきたのは、クリスマスから三ヶ月が経った頃だった。彼はレジに立つ私を見て、少し気まずそうに「あの、すみません」と声をかけた。
「ハンバーガーセット、二十個お願いできますか。持ち帰り

で」
「かしこまりました」と私はこたえたが、気になってしまって聞き返す。
「もしかして、完成したんですか?」
 相変わらず店は混んでいて、今はお客さんとのんびり話している場合ではない。だけど私は我慢できず、バイトリーダーの視線を感じつつも、「車のフィルター。開発してるって聞きました」と続けた。
「あぁ」
 彼は小刻みに頷いて、「はい」と不器用に口角を上げた。

「今日はその打ち上げで、ここのハンバーガーを食べることに」
「そうなんですね! おめでとうございます!」
 思わず大きい声が出る。
「うちを選んでくれてありがとうございます。でもいいんですか。いもり……さん、フライドポテト好きじゃないって。ポテト、ナゲットに変えます? 他にもいろいろできますよ」
 完璧に覚えたセットメニューのバリエーションを説明したが、彼はきっぱりした口調で「いえ、ポテトでお願いします」と言った。

「色んな店でたくさんフライドポテトを食べてきたんですが、ここのが一番好きだと気づきまして。多分、僕はポテトが好きになりました」
 自分が褒められたみたいに嬉しくなる。でも今日はハンバーガーセットだからアイス食べれないな、そもそも予想してなかったし、だけどまぁいっか、そもそもルール崩壊してるし、気分良いし、アイス食べよ。
「次は何を食べるんですか?」
「え?」
「気になって。次は何の臭いを消すために、何を食べるのかな

って」
 いもりんはおでこをぽりぽりと掻いて、「いえ、もう食べません」と照れくさそうに言った。
「次はフィルターに香りをつけられるか試そうと思ってます。例えば目の覚めるアロマが放出されたら、交通事故が少しでも減らせるかなって」
「フィルターって臭いを吸着するだけじゃなくて、何かを放出することもできるんですか?」
「アロマはやってみなきゃわからないです。でも放出する技術はすでにあります。ビタミンCを放出して肌にうるおいを与え

たりとか――」
「えっ、車を運転すれば、きれいになるってことですか⁉」
「えぇ、まぁ。肌の水分量は向上すると言われてます」
 そこで二十個のハンバーガーセットが出来上がり、いもりんに渡す。
「頑張ってください! またのお越しをお待ちしております」と言うと彼は小さく会釈し、たくさんのハンバーガーを両手に会社に戻っていく。
 高校卒業したら免許を取ろう。そんでいつか車を買って、運転席で思いっきりフライドポテト食べて、本当に臭いが取れる

か試して、ついでに肌をきれいにしてやるんだ。その頃にはアロマの香りもするかもしれないし、他にも面白いことが詰め込まれているかもしれない。
次のお客さんが店内に入ると、扉から流れ込む風が春の香りを引き連れてやってくる。柔らかく、温もりを帯びた風。新たな始まりの前触れを感じ、私は大きな声で「いらっしゃいませ」と言った。

    高機能フィルター素材について TOYOBOで働きたい

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    Who's TOYOBO?

    東洋紡は、綿紡績から始まり
    フィルム、ライフサイエンス、環境・機能材を中心に、モビリティ、高機能繊維など
    「高機能素材」を製造、加工、販売する企業へと発展してきました。

    現状に満足せず、常に成長を続けるために
    変化を恐れず、変化を楽しみ、変化をつくる。

    私たちは、時代をけん引するカテゴリー・リーダーをめざし
    安全安心なオリジナリティあふれるモノづくりで
    人と地球のために、新しい変化を生み出していきます。