そろそろ「お前の考えはどうやねん」と思われていてもおかしくない、と思うので書く。
配偶者の抱える三つの裁判のうち二つが終わった。
そもそも「私」が「彼」の配偶者であると知っている人のほうが世の中には少ないだろう。
「なんのこっちゃ」と思う人の多いことだろう。
事情を知る人のなかには「くだくだと言い訳を並べているな」と思う人もいるかもしれない。
この文章は、私という一個人の自己開示以上でも以下でもないものだ。
しかし仮にこの件の関係者、もしくは過去になんらかの被害を経験した人がこれを読んだ場合、この文章はトラウマを引き起こす文章である可能性がある。
読みたくないと思ったら、すぐに画面を閉じて読むのをやめてほしい。
・・・
はじめに、
私の配偶者が起こした問題に始まる一連の件(※補足説明を付けないが悪しからず。係争中の事柄もあるため具体名を出さない)について、私がこれまで言及を避けてきたのは、身内という立場で何を発信したとしても加害者擁護になると考えたからだ。
けれどもこれ以上沈黙を続けることは、もはや、私自身が加害の当事者であることから世間の目を逸らすことだと、考えを改めてこれを書く。
また実のところ、私の沈黙は私たち夫婦の健全な関係を妨げている。
配偶者は自身のブログで、考えの変遷や過ちに対する反省の意を自身なりに公開しているのに対し、
いまのところ私は逃げも隠れもできる立場。
外からは一方的な被害者として見ることも可能だろう。
これはフェアではない。
このように書いたことで想像できると思うが、当面のところ私たちの離婚は考えていない。(私の名前で検索するといまだに「離婚」の文字がサジェストされる。)
しかしもちろん、多くの婚姻がそうであるように、この婚姻も私と配偶者の合意によって解消される可能性はある。
まず、いくつかのことを明らかにしておきたい。
・配偶者が2年半前、旧Twitterでアカウントの鍵を解除する前から、私のアカウントは相互フォローの状態で、発言内容と周囲への影響関係を見ることができた。他者への誹謗中傷が行われるのも当然見ていた。強い違和感を覚え、長い時間自問自答したが、諫めたり質問したりするような行動には移さず、傍観した。つまり私は加害の当事者であり、被害者ではない。
・オープンレター(※略称)を問題化することに反対の立場である。またオープンレターが原因で配偶者が職を失っても仕方がないことだと当初から思っている。SNSはそのくらいの前提で利用するものと認識しているからだ。
・一方で当該のレターの署名システムには疑問を抱いている。システムの不備については多くの人が指摘するところなので割愛する。また署名が業界内で一種の免罪符として機能する事象を良くは思わない。
・配偶者が職場を相手取った訴訟を起こすことについて、前述の理由で反対した。本人の当時の健康上の問題もあった。しかしどうしても裁判をさせてほしい、とお願いをされて承諾、その後は見守った。
・他二つの裁判については事前に知らされず、ネット上で話題になってから知ることとなった。前述のとおり私はオープンレターを問題化することに反対であるため、反対であると伝えた。
ここから先は主にこの2年半、夫婦のことや自分の心に起こったことについて書く。
・一連の問題が表面化する前、「夫婦といえど他人なのだから、相手の考えに干渉すべきでない。自分の意見さえしっかり持っていれば良い」と私は考えていた。
しかしその影響が他人や外の社会に及んで初めて、夫婦というものは「社会性を持ったコミュニティ」だったのだと理解した。
・夫婦がコミュニティであるならば、その健全化に努めるべきであり、それを怠ってきた自分を認識した。
・正直なところ、私にとって婚姻関係の持続は、責任を感じていることがモチベーションの多くを占める。自罰的な気分を多分に含んできた。配偶者は私がこのようなモチベーションを持っていることに深く傷ついている。
・過去の行動を反省し学びを続ける配偶者の姿勢には、敬意と、一緒に歩む希望を感じている。
・平行線の意見、合わない価値観も多いが、ペンディングである。
・今もまだ、心が振り子のように揺れ続けている。
離婚すればすべて洗い流せて、私は被害者であったことにもできるな、そしたら楽だな、というずるい考えの訪れる瞬間が何度もある。
よかった変化もある。
・夫婦のコミュニケーションにおいて、切り出しにくいことを切り出すコツのようなものが分かり、前よりも言いたいことを言えるようになった。
・被害者の安全確保を優先し、コミュニティの中で加害をなくしていく知識や技術について、私自身が勉強を始めた。
・・・
ここに書かなかったことは山ほどある。
けれど配偶者が前向きな姿勢でいることが、結局今の私にとって救いなのだ。
こんな曖昧な主観を書くことで、読んだ人をさらに傷つけたり怒らせたり混乱させたりしているかもしれない。
でも配偶者とは一緒に学ぶことで成長したいという結論に私の意思で至り、現在それを選択している最中である。
結局擁護ではないか、と思ったかもしれない。
そうした批判があるとしたら甘んじて受けなければいけない。
でも人間と関係を築くことは、振り子のような心を抱いたまま関わり続けることでしかありえないと思う。
相手を信頼したり、やっぱり疑ったり、受け入れたり、受け入れられなかったりしながら、いけるところまでいくしかないのだろう。
という、
凡庸で歯切れの悪い結論のまま、この述懐をしめくくりたいと思う。