もっかは移動中だが、特に移動している途中だから日本語から離れている、というわけではなさそうです。
興味がなくなったのかというと、そういうこともなくて、ただ、なんとなく、漠然と「日本語習得も、次のステップに行かないとしょうがないよね」とおもっている。
いくつかの記事で、日本語と付き合ってきた14年をふり返ってみようとおもって書き始めています。
明日か明後日にはアップロードするタイミング/時間の余裕があるのではないか。
例によって例のごとく飽きてしまうかも知れないし、読み返してくだらないとおもえば、他の多くの記事とおなじ運命を辿って、あえなく削除されるかも知れないけど。
以前になんどか述べたように、日本語は、視覚的美を動態をもって描写できたりして、美しい言語で、いやいやどうも、どうもどうも、と名刺を交換して、ひきつづきお近づきになりたい程度には付き合っていきたいとおもっているが、他言語同様、欠点も数多あって、例えば、そんなものは二世代程度もあれば改善されるに決まっているが、もっかは社会がボロボロで、
なぜボロボロかというと、社会の中心になってきた一定の世代が、善意の持ち合わせがなくて、悪意だけで、ある人が「ムダに頭がいい」と述べたけれども、その通りで、
全般に賢いのはいいが、その賢さをろくな目的に使わない。(失礼)
このブログに何度か登場した
どんな人間を社会が求めているかという大学を卒業する若い人たちへの、投資ジジ、ウォーレン・バフェットのスピーチ
““You’re looking for three things, generally, in a person, intelligence, energy, and integrity. And if they don’t have the last one, don’t even bother with the first two. I tell them, ‘Everyone here has the intelligence and energy—you wouldn’t be here otherwise. But the integrity is up to you. You weren’t born with it, you can’t learn it in school.”
は、むかし、ブログに引用したあと、さまざまな人が気が付いて指摘したように、日本の人一般に、なぜここに来て日本社会がうまくいかないかを教えてくれているような言葉で、
社会を動かす人間に求められる三つの資質、知的能力、活力、integrityのうち、最も重要なintegrityがなければ、残りのふたつは、ないほうがマシであって、integrityの持ち合わせがないのに活力や知的能力にあふれた人間なんかに社会に出てこられては、傍迷惑で困る、というバフェットらしい率直な言葉で、ところが、困ったことに、日本語にはintegrityをもたない人間が多いどころではなくて、語彙そのものが存在しない。
ピンとこない人がいるかもしれないが語彙がそもそも存在しないということは、そういう考え自体が存在しない社会だ、ということです。
以前、初めて記事を書いたとき、しばらく、哲学者、企業家、作家、研究者、たくさんの日本語人が、それぞれの立場でintegrityの意味を考えてくれて、
義ではないか、こうあるべきと信じたことを行動に移す信念ではないか、
結局は善意のことなのではないか、いろいろな角度から意見を述べてくれたけれども、なかなか、「ああ、これのことですね」というストンと気持ちに落ちる日本語表現が見つからなくて、そのうちに、いつものことで、あいつらはintegrityカルトだのなんだのと言い出す、嫌がらせ名人の「知識人」のグループが現れたりして、みんな、弱気に乗じられやすい日本の人らしい、というか、そりゃそうだよね、というか、嫌気がさして議論をやめてしまった。
遠くから見ていると、成り行きが、この嫌がらせに至って、「カルトと呼ばれたりするのは嫌だからやめよう」で、議論が中止に追い込まれてしまうこと自体が「ムダに頭がいい」社会の姿そのもので、
なんだか可笑しかったが、そこで笑うと、また嫌がらせが一層巧妙になって、全員が不愉快になるだけなので、まあ、いつものことだ、日本語社会の宿命だ、ということにして、沙汰止みにしてしまった。
親切心の不足も甚だしいともいえるが、しばらく、ほとぼりが冷めたころになると、嫌がらせグループの誰かが、まるで自分がいまおもいついたかのように「integrityの欠如が」と持ち出して、そこで初めて議論が始まるのが日本語社会の、これまでの常なので、いずれは話さざるをえないことでもあって、
特に、このまま議論しなくなるのではないか、と考えたりすることもありません。
問題は区区たる嫌がらせ名人ぞろいの「ムダに頭がいい人」がなにをいい、どんな手を使って社会の意識をsabotageで混濁させているかということよりも、例えばintegrityを初めとして、いくつかの、あるいは多数の、社会の成立に不可欠な倫理語彙を、あらめて日本語に埋め込んで、言語としての倫理の欠落を埋められたとして、そんな弥縫が、まにあうのか、ということがある。
よく考えてみると、倫理概念の欠落が近代日本語の根本問題であるとして、そしたら、もしかして、明治初年にまで遡らないとダメなんじゃないの?
という疑問がわく。
同時代では負け犬の遠吠えと嘲るだけで、誰も耳を貸さなかったが、幕末、御一新と、幕臣や東北諸藩のひとびとは、薩摩や長州の、傲岸さ、人間性のかけらもみられない勝者の傲りに満ちた姿に憤ったものだった。
実際、軍事クーデターの勝者の側だった薩長人は、芸者遊びに明け暮れ、収賄は日常茶飯事、贅沢三昧で、
薩長にあらねば人に非ず、せせら笑って、歯がみする「生き延びさせてくれ」と土下座する陳情側の人々を現実に足蹴にする「官僚」もいたようでした。
勝てば官軍、というが、そのまんまで、負けた者には一分の理も認めなかった。
欧州なみの軍事国家をつくるために、毎年、GDPの半分から8割という途方もない軍事費を巻きあげ、砲を正確に測距して撃ち、近代的な造船を可能にし、やがて零戦という軍部に開戦を決意させた高性能の軽戦闘機に結実する航空機製造技術をつくるために必要な、物理、数学、理財、というようなものには集中投資をして、その分野の俊才たちには、国費留学という形で惜しみなくオカネを注ぎ込んで、黒船を見て以来の憧れだった「強国」を作り上げる。個々の国民の生活が存在しない「強国」という歴史に未曾有な「近代国家」を形成します。
対露戦争に勝つと、無理もないが、もう有頂天になって、
「これで日本も一等国」と浮かれ騒いで、どうしておれたちは、こう優秀なのだろう、と自己愛に浸りきる様子は、当時の現実描写にすぐれた小説家、夏目漱石が、書いている作家の渋顔が見えるような筆致で活写しています。
その漱石は、物語のなかで、三四郎に「でも、これからは日本も変わってゆくでしょう」と訊かれて「亡びるね」と「広田先生」に応えさせている。
三四郎は、なんてやつだ、非国民だ、と憤慨するが、実際に、この小説が書かれた40年後に日本は、なんと、作中登場人物の広田先生が予言したとおり、亡びて、焼け野原になってしまう。
日本の人が、他国との力関係を測って、大丈夫だと踏んで、やったことに対して、西洋諸国が倫理的反発によって、予想もしなかった激烈な反応を起こして、茫然自失、訳が判らなくなって、「人種差別だ」と言い出すのは、日本の近代史のひとつのパターンになっている。反発のエネルギーのもとになった国家としてのintegrityは「人種差別の言い訳」「綺麗事」で、なぜかあっさりすませてしまう。なにしろ自分の頭のなかにintegrityが存在しないので、なんでそんなに怒っているのかピンとこなくて、わかりやすい差別に一本化して理解する。
こうした計算違いのなかで最もよく知られている例を挙げれば「真珠湾を奇襲して徹底的に破壊すればアメリカは戦意を喪失するだろう」という山本五十六と海軍首脳の「読み」がそうです。
山本五十六の機動艦隊を挙げての大博打に反対の提督たちは多かったが、
「そんな危険な作戦が成功するわけがない」という反対であって、万が一作戦が成功した場合には、なるほどアメリカはおおへこみに凹むだろう、という点では、疑問を持つ人はいなかった。
そんな卑怯を絵に描いたような攻撃をホノルルという市民の生活の場の空にしかければ、アメリカ人は、自分たちの生活を守るために死に物狂いで立ち向かってくるだろうとは、不思議なことに誰も考えなかった。
当時の海軍首脳で、最もアメリカとアメリカ人を理解していたのは、ハーバード大学への留学経験を持ち、余暇にはブルックリンの下町のパブで労働者たちとポーカー賭博のテーブルを囲んだりしていた山本五十六で、その当人が、「うまくいけばアメリカは戦意を喪失する」と疑いもない事実として述べるのだから、呑まれるように信じてしまったのも、無理はないといえば無理はない。
しかしこれは英語人の側から見れば、とんでもない誤解で、考え違いもはなはだしくて、仮に当時真珠湾に不在で難を逃れた3隻の正規空母が在港していて、すべて撃沈されていても、1年ていど反撃開始が遅れただけで、戦争にボロ負けに負ける結果は、おなじだったでしょう。
日本の人にとっては考えたいことではないに決まっているが騙し討ちは原爆投下と呼応してもいて、日本の人の考えでは「次元が異なる話ではないか」と感じられても、話してみると、アメリカ人にとっては原爆は真珠湾騙し討ちへの、釣り合いがとれた「仕返し」なのであるようです。
日本の人が酔っ払って、これ、そこのアメリカ人、なんで原爆を落としやがった、と日本人が訊くと、言われたアメリカ人のほうはムッとして、なぜおまえらは真珠湾を騙し討ちにした、と返答するのは、あながち、売り言葉と買い言葉というわけではない。
理由は簡単で、山本の作戦は「倫理に悖る」行為だったからで、この「倫理に悖る」という言葉の意味の重さが、日本語では、日本語の限界として、感じ取ることができない。
真珠湾作戦くらい日本語人側からの視点だけで理解されている作戦はなくて、
例えば、奥村書記官たちが前夜からの徹夜麻雀に耽っていて、開戦通告の手交が遅れたのが問題だった、というが、では文書を渡すのが攻撃開始の一時間前だったら、「間に合ってよかった。正義の戦闘になった」ということになるかというと、そんなことはあるわけがない。
どちらかといえば、形式だけ宣戦布告の手続きを全うしただけ、その狡猾さに一層憎しみが掻き立てられたでしょう。
法律に触れないから、やってもいいことだ、という思考の回路は、どちらかといえば、日本人だけのものです。
アメリカのドキュメンタリや歴史本には、よく「フォード島に初めの爆弾一発が着弾した瞬間に、広島への原爆投下と日本の敗戦は決定付けられたのだ」という言葉が出てくるが、ここで、怒りを込めて「日本人の人間性の欠落」を述べている人の脳裏にあるのは、もちろん戦艦アリゾナの、大多数が殺された乗員の姿でもあるけれども、それ以上に、逃げ惑い、巻き込まれて死んだ市民の姿であり、有名な例でいえば、次次に担ぎ込まれては息絶えてゆく水兵たちを腕に抱きかかえて、息をひきとるまで励ましつづけた16歳の女の高校生の涙で、ほとんど判っている限りのひとりひとりの個人の終焉がいまに語りつがれているので判るとおりの「これを許せば自分は人間でなくなる」というアメリカ人たちの強いおもいだった。
普段は異民族間のルールに従って、おくびにも出さないし、実際に人間という生き物は生来お人好しで、目の前に立っていて、いつも一緒に話したり笑い合ったりしている人間は、他のどんな属性よりも自分が知っているひとりの人間としてしか考えられないので、表面に浮かんでくることは少ないが、
日本の人たちに対して、いまでもはっきりとつづいている「人間とはなにか違う生き物」という抜き難い不信の気持ちは、いったんことがあると、いまでも姿をあらわすはずで、アメリカ人にとっての日本人の人間性への根本的な不信は、直截には真珠湾への騙し討ちと、それにつづく捕虜への虐待や、香港でもジャワでも繰り返された各地の欧州人看護婦たちへの集団強姦に深く根ざしているでしょう。
まあ、こんなふうに言うと、「おれたちはアジア人の女だって山ほど強姦したんだから、文章として触れるべきだ。やっぱり、お前は人種差別主義者だ」という人が来そうだけど。
社会文化として事の良し悪しを絶対的に判断する能力がないので「これなら自分が罰せられずにやれる」あるいは「ばれやしねえぜ」と思えば、
平気で嘘をつき、それらしく話をつくり、懲らしめられそうもなければ、いくらでも汚い手を使う、という日本人のイメージは、残念ながら、いまでも強まりこそすれ、弱くなってはいないように見受けられます。正直に言って世界の人の意見は、戦後直後の「のさばらせてはいけない民族」に戻りつつ有る、と感じることが多くなった。
そんなことはない、みんな心からやさしく接してくれます、という人たちはもちろんいるはずで、前にも書いた、8年ほど前だったかイギリス人のいまに残る人種差別感情について話したら、いまのイギリスには人種差別なんてありません、という人がおおぜいやってきて閉口したが、面と向かってる相手にほんとうのことであればおもってることをなんでも話してくれているのだと簡単に信じ込んでしまう日本の人らしいというか、やはりナイーブだというほかはない。
あるいは卑近な例でいえば、よっぽどおめでたくないかぎり、誰でもが気が付いている、ネット「言論人」のやり口がある。
日本語では個人の不満と鬱積の捌け口として人気があるTwitterなどは発言が字数制限のあるそれぞれのツイートに分散しているので、こういうことはお手のもので、「スクショ」をとって、それらしく並べて「動かぬ証拠」だと言う。
ちょっと評判が高い人の名前で検索すると、当の本人が「いじめグループ」に所属していない場合は、もれなく、「標的」の人への嫉妬以外には理由が考えられない、そういう「スクショ」や「魚拓」が発見できます。
しかも、そういう手口をつかう人は口にする悪態まで決まっていて自分のほうから嫌がらせを仕掛けておきながら、自分は被害者なのだと述べて、自分は歯牙にもかけない相手だが、相手から攻撃してきたのでやむをえず最小限の対策を採りました、と2ちゃんねる以来の定石に則って、あんまり頭を使うのが得意でないひとたち、もともと目を付けてある将来はコガネ稼ぎのお客様でもある自分の追随者たちにことわりをいれる。
この手の自分の追随者のナイーヴさを見越して振る舞う「なんちゃって知識人」のひとたちの現実の能力とはかけ離れた自己への過大評価と肥大しきった自我の醜悪さには日本語世界との付き合いを通じて慣れたつもりでも、いいとしこいて滑稽なほど背伸びをして、それが背伸びでないと思ってもらえていると信じている、歪んだ自己像を満足させるために、若いときには賢い頭脳にものを言わせて日本語社会で他人を蹴落として、頭の弱いひとびとをせせら笑いながら暮らしていくはずだったのに、現実の人生という容赦のない判定者は、性格が悪い不用意な競走者の水ぶくれしたエゴなど虫けらほども気にかけてくれずに、むごいもので、見事なくらい無様な思い上がりのなれのはてを曝け出してしまう。結局は自分でいくらほんとうだと思い込もうとしても嘘は嘘で、自分自身が生活の現実を通じて思い知らされることになっていく。
余計なことをいうと、彼らには出入が許されないコミュニティの、SNSの外側での、同じように人間性の持ち合わせがない、しかし勝者の側に立ったひとびとの、詐欺師、ペテン師、パチモン知性の呼び名となってしまっている「ネット知識人」たる彼らへの容赦のない嘲笑が聞こえなくて幸福なのではないかと考えることもあります。
なんとも厳しいが、日本社会は、すべての日本人を血まみれにしないではおかない社会なのであるらしい。
児戯、という言葉があるが、
彼らが気が付かないことは、彼らが跳ねて踊って賢そうな口ぶりをつくって悪態をついて、小さな舞台で大道芸を演じる有様を、取り囲んで、黙って観ているひとたちが大勢いて、遙かな昔こそ、憤慨してDMなりなんなりで、せめて理不尽な攻撃の対象になった人に対してなりとも、慰めなり、あんなクズばかりではないという釈明なり、言葉にしていたが、このごろは、どうやらグループが決まっていて、水面下で結び付いて、ほんとうはひとつのグループなのが判ったので、「呆れはてて言及したくもない」状態だそうで、日本語SNSそのものを気楽に発言できる場所としては見限って、公開されたタイムラインでは自分が考えていることを口にしなくなっている。SNSは、とうの昔に「ほんとうのことはなにも言えない」場になっていて、日本語ネットそのものも「まとな人間」が発言する場所だとみなされなくなっていく。
社会というおおきな単位で見ると、なんのことはない、ひとつの言語集団としての自傷行為になっている。
このあいだ、「え?きみはツイッタなんてやっているの?やめなさいよ、品が悪い」と、日本社会では常識を代表する著名ということになるはずの、おっちゃんの友だちが述べていて、おっちゃんらしく、新しい事には、なにごとにも疎くて、相変わらずだね、と笑ってしまったが、案外、「ツイッタは訳のわからんやつがコガネ稼ぎを狙ってウロウロしているところだから」と考えている人は、このひとの他にも多いようでした。
ネットの頽廃は、実感として述べると、この5,6年で急速に進んでいて、最近は、クリシェっぽい言い方になるが、加速がついている。
もう、昔は「警察にはつかまらないな」と計算が立てば、なにしろ自分は人生の敗残者だと自覚があるので、どうせ失うものもなしで、おもいきって汚い手に訴える、事情が判っている人には「ああ、あの人」というくらいの限られた人間だけがやっていて、別アカウント群という中傷専門につくる不思議なアカウントを駆使した現実の根拠もなにもない嘘中傷の拡散も、最近は、誰も彼も、と言いたくなるくらい、twitterならば、フォロワーを集めるために平然とおこなうようになって、相手のアカウントを鍵付きや閉鎖に追い込んで、それを材料に「ノート」サイトやお仲間を集めての「共著本」でコガネを稼ぐのは、一個の流行にもなっているようです。
社会だけでなく日本語は言語としての自浄能力を完全に失ってしまっているので、さして抗議の声もあがらず、仕掛けたほうは「ノート」サイトやそういう本を出すのが好きな出版社から本を出して、いくばくかのオカネを稼ぐのが、三方一両得、ビジネスモデルにまでなっていて、材料にされて、孤立無援のままアカウントの閉鎖に追い込まれる被害に遭った本人以外には、よいことずくめにおもえるが、
そうはイカの金の問屋が卸してもらえない。
結果は、遠くから眺めている目には明らかで、やっぱりといえなくもないが、ネット言語世界全体が、沈降して、停滞して、メディアとして、ないほうがいいかもしれないと思える状態にまで落ち込んでいる。
マスメディアはもとから問題にならないほどダメで、出版も自分が生き延びるためになりふり構わず必死で、右翼出版社が5000でも10000でも売れそうならば自称にしろ左翼知識人の本を出すていたらくで、ネットが、微かではあっても、再生のゆいいつの希望であったはずの日本語にとっては、これは案外おおきな打撃かもしれません。
以前なら、日本語はどうなっていくだろう?
更にさかのぼって、その前は、日本語は、このままでダメになってしまう、と書いていたが、正直にいえば、むかし水村美苗さんが「日本語が亡びるとき」という本を書いて、「自分がバイリンガルだから自慢したいだけの本」
「日本語がなくなるわけないだろう、バカな女」だのと、読んでるほうがびっくりするようなことを、品性の低劣とおもいあがった自己をそのまま言語にしたような言葉で言われていたが、
やや意味合いは異なるものの、日本語は、多分、2011年くらいを境に急速に崩壊しはじめて、現実から乖離して、なんだか、ピースの形が合えば現実だということになってしまう、ひらひらした言語になってしまって、
言語としての美どころか、「おれが言えばそれが事実」の、表面の辻褄さえあわなくなってきている。
表現力、解像度がどんどん低くなっていて、人間の言語であるよりは、鳥たちが囀りあう符丁のようなものになっている。
ここからスタートして、日本語が現実にふたたび根ざして、美しい肉体を取り戻すためには、どうすればいいか、考えてみたいとおもっています。
やる気が出れば、ちゅうことだけど
Categories: 記事
こんにちは。いつも綺麗な文章でかつ中身のある内容を楽しく読ませてもらっています。
今回のブログの冒頭でintegrity について記載がありました。以前のPostでもこれについての更新があり、そちらも興味深く読ませてもらっていました。
その中で、日本語に対応する言葉が無いとの事でしたが、私は”徳”という言葉が近いと思います。
元々は中国からの輸入であり日本人が生み出した言葉ではないですが。英語と違い日本語の単語は人の行動を示すものでないものもあり、一部ではあるかもしれません。
ですが人を説明する際に使われる意図としては、integrity に違い用途と思います。
確かに私自身も日常生活で使ったこともなく、実質的に実態が社会にない言葉かもしれません。そう言った意味ではもはや無いに等しいです。行動をもってこれを体現している人がいないことが、日本にはintegrity はないと言われることに繋がっているとなると、悲しいことではあります。
いつも読んでます。今回は初版と二版目と読めて嬉しいです。
通勤中の、歯を食いしばっているときに新着通知が来て
どんなに嬉しかったことでしょう。
私はずっと
若いころは特に、どうしようもない選択ばっかりしてきたせいか
ずいぶんたくさんの人に助けられました。
Integlity という言葉とぴったり合うのか
まだ勉強不足なものですから
自身をもって言えないんですけど
悪い環境にいたし、
何かを決めるときすら、悪いほうしか選べなかった
馬鹿だった私を
助けてくれたひとがいっぱいいるんです。
もしinteglity が善や徳という言葉に似ているなら
私の人生は、たくさんの人からそれを与えられえる人生です。
でも言語のちがう人と結婚して
夫の友達や家族と話してみると
その心の温かさ、心の強さ、優しさ、自分はこらえても相手を許す態度、
毎日驚くことの連続です。
お互い言語が上手じゃないんですけど
全身でいつも愛をくれる人たち。
Integlity を持つ人ってこんな人たちのことでしょうか。
人に恵まれた人生です。
integrityは日本語に無いです。loveの概念もないんじゃ無いかなと思います。私は単純だけどぼんやりと良心みたいなものかなあと考えています。
神様は人間の良心を擬人化したものとあったので。
そんなことをしたら、✕✕に叱られますよ、と言ってしつけられた私達は、善悪を判断する心を育てる代わりに、社会から与えられる罰/叱責/非難を恐れる気持ちを利用して規律を教えられてきたのだと思います。ルールにきちんと従うのが真面目な善人とみなされる社会。
正常な社会では社会の土台として倫理があって、その上に法律や規則が築かれていくのかなと思います。そして、社会が間違った方向に向かっているとき、これは正しくない、この社会のルールには従えません、ということは起こると思います。それがintegrityだと思うのです。一人が立ち上がると徐々に目覚める人々が増えていって、社会の方向やそのルールが間違ってると認識されてそれを正す力が働くんだと思います。倫理に基づいてルールを書き換えられる社会。
でも、倫理の言葉がなく、法律や規則以前に人として超えてはいけない一線がある、という感覚を共有できない社会では、立ち上がったその人はただルールを守れないだめな人とされてしまう。
たぶん、善悪を判断する心が無ければ、損得、勝ち負けだけの世界、ただ勝者を目指す競争だけの世界を生きることになるんでしょう。この世界の人たちにとって利益を最大化するためにルールの抜け穴を利用することになんの恐れもなくて、リスク管理のようなものとして捉えてる。罰を受けるリスクがあるかどうかの問題として。最も効果的なのは権力に近づくこと。
私達はこの人たちの暴走をうまく止めることができない。これがルールです、ルールに基づいてちゃんとやりました、と言われるとうまく反論できない。怒ることもできない。ここにはルールの言葉しかないから。
人間の言語であるよりは、鳥たちが囀りあう
に思わずニヤリ