pixivは2023年6月13日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴
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「吸おうかな」じゃなくて「吸いたいな」と思ったときに、もうだめだと思った。そのとき、その場に煙草の一本もくれる同居人がいなかったので、最早これまでだ。
誰に共感されなくとも、独歩を突き動かしたのはそんなたった十五秒間ほどの気付きと思考だった。ああもうだめだ。本当にだめだ。もうこれ以上、どうしようもないしどこにも行けない。
広くも狭くもない2DK。ふたりがリビングだとか共用スペースと呼んでいる、小さなキッチンと成人男性二人がギリギリ並んで座れるソファ、それからローテーブルとテレビが配置された、ダイニングキッチンでのことだった。ソファに、ではなくソファの下に敷いたラグに座り込み、上半身だけをソファに投げ出しながら、独歩は部屋を借りると決めたときのことを思い出した。
ネットで賃貸物件情報を閲覧していたときに、「できるだけ一緒にいたいカップルにオススメ」という文字に気まずさを覚えたのは、きっと独歩だけだった。もっと広い部屋を借りてもいいんじゃないかと一二三は言ったけれど、家賃を折半するという点だけは譲らなかった独歩に払える家賃の限界だった。頑として譲歩しない独歩に、一二三は小さく「そっかあ」とだけ言って、次の瞬間には顔を寄せて狭いスマートフォンの画面を覗き込んで、「あっ、こことかいいじゃん。二部屋とも収納あるし、築年数浅いし」と明るい声を上げた。そこからはトントン拍子に内見にいって、思いの外駅から遠いことに二人して文句を言いながらも、「せっかく見にまできたんだからここでいいんじゃないか」といい加減なやり方でその日のうちに入居申し込みを済ませた。
それが──、ええと、何年前のことだろう。もうずいぶんと変化のない毎日を送っているせいで、独歩には思い出せそうにもなかった。あれは、社会人になって何年目の出来事だったんだろう。
走馬灯と呼ぶにはあまりに短く、限りなく焦点の絞られた記憶がざーっと脳裏を過っていく中で、独歩は視界の片隅に放り投げたビジネスバッグから、社員証の赤い紐が垂れていることに気がついた。社畜が社員証で首吊って死ぬって、相当おもしろくないか?
夏の谷間みたく、やけに涼しい夜だった。吹き込んだ風が、シンプルなレースカーテンを揺らした。首の角度を少しばかり変えて見上げた先にカーテンレールがあったので、独歩は社員証を拾い上げて立ち上がった。
携帯電話にストラップをつける要領でカーテンレールに社員証を括り付ける。そういえば、一二三が遠出した際に土産だと買ってきたストラップを、酔っ払っていた独歩は何を思ったか社用携帯に括り付けて、翌朝それをすっかり忘れて出社した結果、課長にひどく叱責されたことがあった。あのときは帰宅してすぐ一二三におまえのせいだと八つ当たりをしたものだけれど、今覚えばあれは明らかに俺のせいだった。書き残すべきだろうか。
そう思ったが、遺書と呼ぶにはあまりに粗末な内容になることが書き始める前から目に見えていたのでやめた。
ベランダに通じるこの家唯一の大窓を背に、独歩は社員証に首を通した。引っ越してきた当初は、二人の休日が重なったときなんかに二人並んでベランダで缶ビールをあけたりもしたものだけれど、最近じゃあもうそういうこともない。
椅子もない狭いベランダで、酒と煙草を片手ずつに持って、室外機の上に百均の灰皿を置いて、ただそれだけの空間で、いくらでも時間を潰すことができたのなんて、いつまでだろう。一二三も俺も、忙しくなったんだよな。と独歩は静かに思う。潰す時間のほうがなくなってしまったのだ。それだけのことだ。それだけのことだった。
社員証のストラップは思いの外長く、首を吊ってぶら下がるには些か高さが足りない気もしたが、昔聞いた話によれば、人間死ぬ気になればドアノブで首を括ることもできるという。
だから大丈夫だろうと、独歩は自身の身体を支える二本の足から力を抜いた。
独歩がそれを知ることもないけれど、目論見通り気道を押し潰す苦痛を味わったのは、時間にしてしまえばほんの十数秒のことだった。
力を抜いた途端、細い紐が首の皮膚に食い込む感覚に、痛いと思った。苦しいというより、紐がすれて、食い込んで痛いと感じたことが、「縄でやるともっと痛いんだろうな」と思考を明後日の方向に飛ばした。死ぬ間際に考えたことがこれか。あまりにも情けなくて、一周回って自分には相応しいような気がしてくる。
息ができない苦しさが表面的な痛みに打ち勝つのに、そう時間はかからなかった。死んでしまう気でいたくせに、苦痛から逃れようとするみたく醜く藻掻いた一方で、もう二度と立つ気もない足に力を込めることはなかった。独りでも歩いていけるなんて強がったって歌えそうにない。
──死ぬのだ、死ぬのだ、死ぬのだ! チカチカと赤いのが、視界なのか思考なのかも分からぬ中で、独歩は叫んだつもりでいた。別にそれは歓喜などではなかったが、なんらかの衝動が独歩にそうさせた。実際には、ひゅうとか細い息が辛うじてこぼれただけだったのだけれど。
「ただいまあ」という呑気な声が玄関から響くのと、最後に聞く言葉が此れだとすれば幸福だという思考が一瞬でショート寸前の脳みそを駆け巡るのと、ぷちんという微かな音が頭上で響いたのが、同時だった。少し遅れて、独歩はほんの短い無重力を味わって、さらにその直後、息苦しさを塗り替えるくらいの衝撃と痛みに、「ぐっ」と悲鳴にもならぬ声をあげた。
尻を強かに打ったのだなんて、これまた情けなくて反吐が出そうなので、その瞬間に気づかなくてよかった。その瞬間はただ、分かりやすい痛みと、ぶり返してきた息苦しさから逃れるように背を丸めるので必死だったのだ。
多分、首を吊ろうとしていたところに同居人が帰宅して、それと同時に首吊りにも失敗して尻から落っこちて痛みに蹲っていただなんて、独歩が即座に気がついていたら、反射的に舌を噛み切って死んでいた。
そうする間もなく、「独歩ぉ? なんかすっげえ音したけど」とリビングの扉を開けた同居人がいたので、観音坂独歩は生きている。
ベランダに通ずる窓際で蹲っている独歩を見て、一二三はたった一度「ぎゃん」と鳴いた。何度思い返しても、それは犬かなにかの鳴き声じみて独歩の耳にこびりついている。打ち付けた尾てい骨がひたすらに痛くって、弁明も開き直りもできずにちいさくなっている独歩のもとに、一二三は大きな二、三歩で駆け寄って、俯きっぱなしの独歩の顔を覗き込んだのだ。
それにも独歩が反応を示さないと分かると、一二三はその場でぐるっと首を回して、状況を確認したようだった。よれたスーツのまんまの独歩。ソファの足元にジャケットだけ脱ぎ捨てられている。半開きのビジネスバッグ。社員証はカーテンレールに引っかかったまんまで、セパレートパーツがふたつに分かれて、もはや輪でさえない赤い紐がぶら下がっているだけだ。
こんな小さな日用品さえ、事故防止に一定以上の負荷がかかるとパーツが外れてひとの命を救うように設計されているだなんて、独歩は知らなかった。
この状況から、首吊り失敗以外のどんな状況が導き出せるというのだろう。普段は騒々しくてばかっぽい独歩の親愛なる同居人も、きちんと正しく理解をしたようだった。顔もあげないまま、それを気配で感じ取って、独歩は余計に顔を上げられなくなる。
「──独歩、」
そう、ひどく静かな声で一二三が名前を呼んだ。ちいさな子どもを宥めるような、優しい声だった。それなのに独歩は、ゆるしてくれとでも言いたくなって、余計に背を丸めた。相変わらず、顔はあげられそうになかった。
「なんか、言うことある?」
いろいろと言いたいことはあンだけど、というのを含んだ口ぶりで一二三は言う。たっっぷりと心配の色をにじませて。一二三にも、かける言葉に悩むことがあるんだなあと、独歩はまるで他人事みたいに思って、どうしようもなくその瞬間の一二三がどんな表情をしているのか、知りたくなってしまったのだ。
ゆっくりと顔を上げた独歩を、案の定一二三は間近でじいっと見ていた。独歩が顔を上げたことで、一二三の視線が不安気に揺れた。ごく近い距離でふたりの視線が交わって、独歩が口を開いたのは無意識だった。
「……たばこ、くれ」
喉にへばりつくものを引き剥がすような強引さで吐き出した声は、めいっぱい掠れていた。擬態語をつけるなら間違いなく“ガサガサ”って具合に。
独歩にだってなんだって開口一番そんなことを言ったのかわかっちゃいなかったけれど、一二三が見たこともないくらい呆れた顔をしたのは、ショートしたついでに回路がしっちゃかめっちゃかになっている脳みそからしても明らかな事実だった。
◇
一二三のきれいな吊眼と眉が、その完璧なバランスを崩してぎゅんと更につり上がったので、独歩は肩を縮こまらせたのだけれど、数秒置いて一二三はごそごそとポケットを探った。
ぽかんと口を開けてその仕草を見つめている独歩の眼の前で、一二三はひび割れひとつない唇に煙草を一本咥えて、じゅっとジッポに火を灯した。だいぶ昔、客の一人に贈られたもので、一二三の名前が刻まれているやつ。と、独歩はなんとなく思い出す。
ついでに、ローマ字を習いたての頃に、一二三が自分の名をHIFUMIと綴るか、それともHIHUMIが正しいのか、うんうんうなっていたことを思い出して、独歩の気持ちはほんの少し高揚する。
ぼんやりと過去を振り返っていた独歩の唇は半開きで、そこに唐突に差し込まれたものは細長かった。「んう」とちいさく唸った独歩を尻目に、一二三はまた一本煙草を咥えて火をつけた。
そんな些細な仕草が絵になるからムカつくんだよなあ、と考えながら息をして、独歩は自分が火のついた煙草を咥えていることに気がついた。まったりとした煙草の味と、薄いメンソールの感覚が舌を冷やしていくようだった。
大きく息を吸うと、鼻を通って喉の奥がひんやりする。ほんの数十秒のことなのに、その煙草は独歩の乾いた唇にひとりと張り付いて、引き剥がそうとすると少し痛んだ。
床に座り込んだまま、口と鼻で呼吸を繰り返していたら、そんな独歩の目をじいっと見つめたまんま同じように煙草を短くしていった一二三が不意に立ち上がった。疲れたときの癖みたく、首から肩を抑えながら、ローテーブルに置きっぱなしだったバケツ型の灰皿を掴んで戻ってくる。
へたりこんだままの独歩の向かいに胡座をかいて、一二三はふたりの間に灰皿を置いた。ことんと硬い床を叩く音がする。蓋を外して、一二三は促すみたいにトントンと灰皿の縁を叩いた。ほうけた顔をしていた独歩の視界に、煙草の先端がほろりと崩れかけるのが見えた。次の瞬間、一二三の細長い指が独歩の唇から煙草を奪って、灰皿の中に灰を落とした。それだけの動作を経て、はじめの半分ほどの長さになった煙草は独歩のもとに返ってくる。
「……一二三、煙草変えた?」
「あー、うん。最近」
独歩の何気ない質問に答えた一二三は、がしがしと頭を掻いた。はあとため息をつかれる。独歩の思考は相変わらずふわふわとしていて、吸い込んだ煙が脳みそをさらに溶かしていくようだ。
「……独歩さあ、」
一二三の声ににじむのが、呆れなのか疲れなのか、独歩にはもうよくわからない。ただ、独歩の名前を呼んだきり、天井を見上げたり、「あー、うーん」と唸ってみたり、はっきりしない一二三の様子に、独歩は思わず言ってしまう。
「これ、うまいな」
ずいぶんと落ち着いたこころでそう言ったら、一二三は眦を下げて、「そう?」と言った。唇の端に煙草を咥えたまんま手を伸ばして、独歩のうっとうしい前髪をかきあげるように撫ぜる。高級感もなにもないフローリングにしゃがみこんで紫煙をくゆらせているだけのくせ、静かに独歩だけを見つめている一二三は妙に絵になる。
いつもならそれが少し癪なはずだけれど、独歩はぼんやり「いいなあ」と思う。
しばらくふたりで黙ってそうしていた。ワンルームの窓際、ラグさえ敷かれていない空間に三十路の男が向かい合って、時折安物の灰皿に灰を積もらせていく。
あっという間に一本目をフィルターのぎりぎりまで吸いきって、独歩は何気なく手を伸ばした。了承も得ずにポケットをまさぐって、白い箱を取り出す。きっちり噛ませてあった蓋を指で弾くように開いて、その中の一本を取り出す。咥える寸前で、ふと思い出したように一二三を見上げたら、一二三は苦笑して「いいよ」と言った。
カサついた唇で煙草を挟んだら、一二三が独歩の手を握り込むようにしてジッポを渡してよこした。そのまんま、導かれるように独歩の手と、その中のジッポは、一二三の掌に包まれた状態で独歩の口元へ。一二三の親指が、じゅっとダイヤルを擦って火を灯す。危なくねえのかな、と独歩は思ったけれど、一二三はなんとも思っていないらしい。
客の女にもこういうことしてんのかな。と、想像してしまった自分に乾いた笑いしかこみ上げない。
そんな思いを追いやるように、独歩は唇を舐めるのと同じ要領で、口の中で煙草の吸口に舌を這わせる。ちろりと一周したところで、それがストローのような形状をしていると気づき、指でそいつを掴んだ。
煙草の吸口をじいっと眺めることなんざ早々ないが、そうしてようやく、巻紙の部分が長いのだと気がつく。奇妙な形をしているなあと思ったところで、ふと思い出したように一二三が「あ、」と言った。「太陽、でけた?」とも。
何を言っているのだろうという顔を、独歩が素直にしていたのだろう。一二三はにいっと幼いころから変わらないいたずらっぽい顔で笑った。またしても独歩の手元から煙草を取り上げて、独歩に変わってしげしげと覗き込むようにフィルターを覗き込む。「あ~、だめっぽいね」と軽いダメ出しを食らう。
一体何を言っているのだろう。ついていけない話をひとりで展開させている一二三に、独歩は黙りこくったままだった。その様子を見た一二三は少し得意げに、身体を寄せて、火のついたまんまの独歩の吸っていた煙草を示した。
ふたりして、小さな穴を覗き込むような形になる。望遠鏡でも万華鏡でもなく、それが一本の煙草であるという事実に、ロマンチシズムなど欠片もないが。
「ここがね、じょうずに吸ったら、太陽の形になんの」
一二三が示したのは、巻紙の奥に見えるフィルターで、独歩の吸っていたそれには、歪な楕円形の茶色い染みが浮かんでいる。
「太陽?」
「そ、太陽。わかるかな~、うまくゆっくり吸ってやると、真ん中ンとこがさ、まん丸くなって、そっからホウシャセンジョーっていうの? 線が入って、太陽に見えるンだって」
今ひとつ納得した様子のない独歩の眼の前で、一二三は煙草をもみ消した。箱からもう一本を取り出して、自分の口に咥える。
「独歩もリベンジする?」
ゲームにでも誘うような気軽さで差し出された紙箱から、独歩もまた一本を抜き取る。今度は自分で火をつけて、幾度か呼吸を繰り返す。呼吸のリズムを意識して、気がつくのは思いの外メンソールが強いな、ということだけだった。
一度灰を落として、先程のように吸口を覗き込んでみたって、そこにあるのは崩れた円だけだった。じっと自分の吸っていた煙草を見つめている様子はさぞかし滑稽だろうに、一二三はそんな独歩を愉快げに眺めている。
「独歩のへたっぴ」
煙草の一本、うまく吸えなかったからといって、なんだというのだろう! ふん、と独歩は鼻を鳴らした。一二三は二本の指で煙草を挟んだまま、ゲラゲラと笑って更に身を寄せた。
「見て、独歩。俺の太陽」
そういって、一二三がふたりの前に掲げたちいさなのぞき穴の中、薄茶色の太陽がじんわりと浮かんでいる。
あ、本当だ。と独歩は思った。思ったし、気が付かないうちに声にも出していたらしい。静かな部屋に、静かなつぶやきはよく響いた。
「独歩にあげるね」と一二三は言った。半分ほど残った煙草が、返事をする前に独歩の口に突っ込まれていた。身じろぎひとつする間に、一二三は独歩の指の股から短い煙草を抜き取って、一口吸ってから火を消した。
一二三がくれた完璧な太陽も、独歩が息をすると無残に形を崩していった。灰を落とすたびに巻紙の奥を覗き込む独歩を、一二三はただ隣で見つめていた。
ギリギリまで吸い尽くした煙草が独歩の肺に運ぶ空気は、メンソールに冷やされたはずなのに、やたらに熱い。
与えられた吸いさしの煙草を、本当に限界まで短くしたとき、独歩には言うべき言葉がそれしか見つからなかった。
「おまえに、似合ってんな」
一二三はゆっくりと瞬きをする。
◇
突然立ち上がった一二三に腕を引かれて、独歩はサンダルに足を突っ込んだ。
夜も遅くに帰宅して、食事も取らずに首を吊ったばかりだったから、独歩はまだスーツで、なんなら靴下だって履いたまんまで、一二三もまた、仕事着のスーツのジャケットを脱いだだけだったから、部外者の目撃する二人の姿を想像した独歩は、ちいさな地獄みたいだと思う。
文句のひとつも言えないんだから、俺は疲れているのだろうな。とも、思う。疲れた顔をして、同い年の男に腕を引かれて、人の少ない深夜の道を歩いている。「一二三、」と気弱な声を一度上げたが、一二三は返事はおろか、振り向いてもくれなかった。
連れて行かれた先は、アパート最寄りのコンビニエンスストアだった。
深夜でも変わらず明るい音楽で出迎えてくれる都会のオアシス。店内にはまだそれなりに客もいて、さすがに独歩も多少強引に一二三の腕を振りほどいた。
スウェット姿の男が立ち読みをしている雑誌棚にも、サラリーマンが立ち尽くす出来合いの食料にも、カップルが物色しているちいさなドラッグストアみたいな一角にも目をくれず、一二三がまっすぐに向かったのはレジだった。
「これ」と短く言って一二三が示したのは、ポケットの中で少し潰れた煙草の白い箱だった。独歩は、それを数歩後ろで、店員が男でよかったなあと思いながら見ていた。
一二三は硬貨一枚で支払いを済ませて、硬貨一枚のお釣りを受け取った。新品の箱を握りしめて、一二三はまっすぐ独歩のもとに返ってくる。おかえり。と、内心でつぶやく。明らかに場にそぐわない言葉を。
この店に他に用はないらしい。あっさりと出口に向かう一二三を、独歩は無条件に追いかけてしまう。
◇
「はい、独歩のだよ」と一二三は言った。帰宅して早々のことだった。
ぽかんとしている独歩の手に、強引に白い箱が握らされる。ロング煙草の紙箱は、独歩の手にも少し有り余った。
「いいよ、別に。おまえにもらうし」
独歩の言い分は横暴だ。横暴だけれど、もうずっとそうしてきたんだから、二人にとっては当然のことだった。少なくとも、独歩はそう思っていた。
先に煙草を覚えたのは一二三で、多分職場で覚えてきたんだろう。「独歩も吸ってみる?」なんていたずらっぽく笑って差し出されたのは、部屋のベランダでのことだった。もうずいぶん昔のことだ。
それなのに一二三は、それじゃだめだと言った。首を横に振って、はっきりと。
「いーの、これはお守りみたいなもんだから」
「煙草くさいとまたどやされる理由が増える」
「カイシャで吸わなきゃいーでしょ」
いつになく強引に、一二三はその箱を押し返そうとする独歩の手首を掴んだ。紡ぐ言葉だけはいつもの軽口みたいだ。
「ほら、箱だって白いし。なんかチョット上品っぽいっしょ」
「そういう問題じゃない」
「次からは独歩が自分で買うんだよ~。ちゃんと銘柄覚えてね。このへんのコンビニだったら、だいたい置いてるから」
「だから、いらないって」
げんなりとした調子で独歩がそう言ったときだった。一二三が、低い声で独歩の名前を呼んだ。「独歩」そう短く呼ばれただけなのに、独歩が思わず何も言い返せないのを、一二三もよく知っているはずだった。癪なことに、こういうとき、だいたい一二三のほうが正しいということを独歩は経験上知っていて、だけど今回ばかりは納得がいかない。
「あンね、独歩」
額と額がくっつきそうな距離で独歩の眼を見つめている。一二三の声に合わせて、ふわりと煙草のにおいがする。何、と言い返そうとして開いた独歩の口からも、きっと同じ空気が流れているんだろう。肺まで、おんなじ空気で満たされているんだろう。
そう考えると、いまさらニコチンが体中の血管を収縮させるみたいに、頭がくらくらする。そういえば、ヤニクラという言葉を独歩に教えたのも一二三だった。
頭がおかしくなりそうだ、と独歩は思ったけれど、多分もう、とっくにおかしい。
「俺のいないトコで、死んじゃだめだよ」
じ、っと一二三の視線に晒されて、独歩は自分のしようとしたことを、或いはその意味を思い出した。今度は急激に、すうっと頭が冷えていく感覚。死ぬなよ、と言われなかったことの意味を考える気には、到底なれない。
独歩の表情だとか、眼の色の変化を見届けたのか、一二三は小さく息をついた。声音が、慰めるような、宥めるようなそれに変わる。
「すーーーっげえ怖かったンだからね」
そう言う一二三は、多分、怒っているんだろうけれど、わざとらしく頬を膨らませてくれた。独歩に笑うだとか、毒づく余地を与えてくれるみたいに。それなのに、独歩は何も言えないでいる。
「想像してみ? 仕事終わらしてさ、家に電気ついてるー! 一緒に飯食えるかなー! ただいまー! って気持ちでドア開けたらさ、俺っちがまさに首吊り失敗しましたーって状況でぼーっとしてんの」
「……すまん」
「会社でなんかあったのかなーとか、先生呼んだほうがいいのかなとか、本当に大丈夫かなって思って声かけたらさ、煙草くれって、ふざけてンの?」
「…………悪かった」
「ほんっと、心臓に悪いから、やめてほしい」
一二三が腰に手を当てるのが、お説教ですというポーズのようだ。やっぱりおどけた口調に乗せてくれているんだろうなあということまで想像して、独歩はひたっすらに苦しい。居た堪れない、と思う。
はあ、と一二三がため息をつく。構えるように、独歩の肩が強張った。伸ばされた手が、どう動くのか予想もできない。と思った途端に、一二三の、爪まで整えられた指先が、独歩の頬を両方から摘んだ。
「……反省してる?」
たった4cmの差を、独歩は見上げた。軽い口調とは裏腹に、一二三はもう笑っていなかった。独歩の胸の内を探るような眼をして、独歩を見下ろしていた。
「……ひてう」
「あっは、やっべー、舌っ足らずな三十路、きっつー!」
安堵を笑い声でかき消すみたいに、一二三は大きな声を上げて笑った。頬を両側から引っ張られたまんまの独歩には、笑うことも泣くこともできないけれど、掌に握らされたまんまの一箱に、そっと力を込めた。
それを見て、一二三はようやく満足したかのように独歩を開放した。じんわりと薄い頬に残る痛みが、徐々に引いていく。
「なら、よし! あー、安心したら、なんか腹減ってきちった。なんか食お、独歩、食いたいモンある?」
「……なんでもいい。つか、なんかあったっけ」
「賞味期限ギリギリの卵」
「…………オムレツ」
「かしこまりーっ」と、一二三がおどけた仕草で礼をした。独歩に、とりあえず着替えてくるようにと促す。自分だってまだ仕事着のくせに。
その後ろ姿が、いつもよりもちいさく見えて、独歩が口を開いたのは、“思わず”だった。
「……これ、いくらすんの?」
振り返った一二三が、何のことだろうという顔で、独歩の頭のてっぺんから視線を下ろしていく。掲げた右手に握られたまんまの白い箱を見て、ぱあっと顔を輝かせた。
「一箱490円、でえっす!」
「……高くね?」
「独歩、他に金使う趣味もないっしょ。いいじゃん、娯楽費、娯楽費」
「今時、煙草が唯一の趣味のアラサーって……」
「ハイハーイ、しょーもないことでネガんないの。それに独歩だっておいしそーに吸ってたじゃん。気に入ったんデショ。俺っちとおそろい、ハイ決定!」
びしっと突きつけるように、一二三が人差し指を立てた。独歩は導かれるようにそれを見ていた。
そんな視線の移ろいに、一二三は満足そうにうなずく。たったそれだけのことなのに。上機嫌そうに、一二三は冷蔵庫に手をかける。ほんの少し開いた隙間から、器用に卵をひとつ、ふたつ、みっつと手にとって。
「……煙草って、緩やかな自殺って言うよな」
呟いたことに、他意はなかった。悪意なんて、もちろんなかった。意地の悪いことを言いたいわけでもなかった。ただ、そう思っただけだ。
独歩のそういう思考だってお見通しだってふうに、一二三は調子を崩さずに振り返る。着替えを取りに自室に消えようとしていた独歩と、ばっちり視線が噛み合った。
「──でも、それなら独歩は、明日も俺っちと一緒に生きてってくれるでしょ」
一二三が浮かべる笑顔の色を変える。はにかむような、笑みだった。
「じょうずに太陽をつくれるようになったら、俺っちに見せてね」
何も言えない。
ただ、その笑みに視線を奪われたまま、観音坂独歩は明日の朝、コンビニでも、なんでもいいから、安っぽいライターを買おう、と心に決める。