《独占公開》ガーシーを誕生させた「ロンブー田村淳」と「関東連合」の強烈な事件とは【初版5万部暴露本の中身】
「死なばもろとも」(3)ロンブー田村淳とのファーストコンタクト
「芸能人のアテンダー」として裏社会でデビューする前のガーシーは、ミナミ(大阪の繁華街)でヤンチャをしながらブイブイ言わせていた。今から30年近く前、ロンドンブーツ1号2号の田村淳とバーで偶然出会ったことをきっかけに、ガーシーは東京へ進出することになる。
〈ロンドンブーツ1号2号の田村淳と初めて会ったのは、1994年やったと記憶している。あのころ俺は、中古車販売業、板金工場、イベント企画の仕事をこなしていた。さっき話した景気の良かった時代や。
ミナミ(大阪)に、芸能人がよく来るバーがあった。友だちと一緒にその店にいたら、ロンブーの田村淳と田村亮が俺の知り合いの女の子と飲んでいた。俺と一緒にいた友だちが「なんやあいつら。ヒガシ(注・ガーシーの本名・東谷義和)の女に手を出しよって。からみに行くわ」と怒り出した。
いきり立ってからみ酒をしに行きかけたら、店のオーナーが血相を変えて「芸能人やからやめてほしい。勘弁したってください」と必死に止める。淳は未だによく「あのときはヒガシさんたちに殺されそうになった」と苦笑いする。ミナミでの一触即発が、淳とのファーストコンタクトや。
淳と再会する機会はじきに訪れた。ガンバ大阪の廣長優志というサッカー選手がいる。のちにU-23日本代表として、アトランタオリンピックで活躍したスターや。廣長が俺に連絡してきて「芸能人の友だちが東京から大阪へ来るから、一緒に飲まないか」と言う。
大阪市福島区にある「HIMAWARI」というイタリアンバルに呼び出されて出かけたら、そこに淳がいた。あの夜以来の再会や。廣長と一緒に会ってみたらめっちゃいいヤツやったから、すぐに仲良くなった。淳とのこの出会いが俺にとっての芸能界への扉やったんや。
あるとき淳がこう言った。
「ねえ、ヒガシさん東京出てこない? こんだけしゃべりがうまくて、女の子に人脈がある人はどこにもいないよ。大阪よりも東京のほうが絶対向いてるよ」
俺の携帯電話に入っていた数千人の電話番号の中には、関西の女子大を卒業して就職が決まり、東京に引っ越した子も大勢いる。十三へ出禁になってしまったりと、大阪ではスネにいくつも傷を作った。なるほど、淳が言うように大坂から江戸へ河岸を変えるのもええかもしれんな。
こうして1995年、俺は淳のススメにしたがって東京に出てくることになったんや。〉(『死なばもろとも』65〜67ページ)