形式的に「当たり前の権利は保障されるべきとして暇空茜を支持する」というなら、「当たり前の権利は保障されるべきとして仁藤夢乃を支持する」ともいえるよね - 法華狼の日記
監査結果を受けてなお、「左派」ならば追及するべき問題だと主張する意見は根深くある。いっさいミスがゆるされないと主張することが悪いとはいわない。しかし刑事裁判で有罪となるような森友学園や桜を見る会や東京五輪の収賄などと同列にできる疑惑ではないのだ
上記エントリに対してid:mohno氏がはてなブックマークで下記のようにコメントをしていた。
[B! 行政] 形式的に「当たり前の権利は保障されるべきとして暇空茜を支持する」というなら、「当たり前の権利は保障されるべきとして仁藤夢乃を支持する」ともいえるよね - 法華狼の日記
mohno 相変わらずだが、監査請求で不適切と指摘されたわけで(対象は東京都だが)これを批判すると、舛添要一都知事を批判した共産党はどうなんだってなるし、“結果”が出なかった他の監査請求も巻き添えになるので
しかし上記エントリの注記で紹介したエントリ*1でも説明したが、舛添要一氏は最終的に経費請求されたが、Colaboに委託料の過払いは存在しなかった。
念のため、私費を投じて公務をおこなうことが問題にならないかというと、必ずしもそうではない。比較のため公用車の比喩をつづけると、私用車では安全を確保できないため重要な公務にあたっているなら公用車をつかうべき、といった意見が出る状況などが考えられる。
しかし同じ重みの不正として同じ内容の追及がされるべきかというと、そうはいえないだろう。
たしかに森友学園などよりは軽い問題で舛添氏が辞任したことは不公平かもしれないし、同じ知事による公用車の私用として大阪の松井一郎氏*2と平等にあつかわれているとも思わないが、公用車の私用がColaboの会計ミスより軽いと主張したいなら根拠がほしい。
マスメディアなどによる東京都やColaboへの追及が甘いと主張したいなら、補助金以上の経費をつかったことは監査で認められた民間団体が、見つかった会計ミスにより補助を打ち切るべきと論じられた事例くらいはさがしてほしい。
以前に紹介したように、山梨県などでは住民監査請求が数年おきに監査へすすみ、東京都でも財政的援助団体への監査は定期的におこなわれているが、それらで補助金が返還させられた事例とくらべてColaboが報道されていないといえるだろうか。
若年女性支援ばかり選択的に興味をもたれた「公金の使途」は、やはり生活保護否定のような社会福祉否定にいきついた - 法華狼の日記
たとえば2022年は12施設に不適切な事例が見つかり、補助金の返還までもとめられている。しかし当然だが、今後に補助金を出さないと結論づけたりはしていない。
https://www.kansa.metro.tokyo.lg.jp/PDF/03zaien/R4zaien/R4zaien_p53.pdf
ただ公私混同を話題にしたmohno氏のコメントは、重要な論点にかすっているとも感じられた。
Colaboのような支援活動は、あえて行政ではなく民間がおこなう意味もある。公用車では警戒される相手へ、私用車をつかって近づいていくかのように。
行政の支援はその性質上、社会の秩序をどうしても優先してしまう。警察による補導などは特にそうで、支援対象者を傷つけ遠ざけてしまう。できるだけ支援対象者によりそおうとする行政関係者がいても、どうしても管理を優先してしまうような限界がある。
しかも行政や司法は家庭内の問題では中立を選びがちだ。そのため家庭内暴力がおこなわれている家庭へ強制的にもどされる場合もある。情報を漏洩した場合でも責任をとりたがらない。
DV元夫側に住所情報 被害者に責任問われた町の主張が波紋:朝日新聞デジタル
2度にわたる元夫側への情報漏出に、町の担当者は確認不足を認め「今後は厳格に文書審査をおこなう」と文書で釈明した。
町の担当者が確認不足を認めていたことから、女性側代理人は主に損害の有無や程度を争うことになると考えていた。だが、訴訟での町側の主張は予想に反するものだった。
民間団体のなかにも、宣伝のために支援対象者の情報を無断で公開して、不信感をもたれる場合がある。
歌舞伎町のホテルから飛び降りた16歳の“トー横キッズ”。亡くなる直前に語った「壮絶な過去」と「大人への絶望」 | 日刊SPA!
――ボランティア団体の人たちとかって、助けになってる?
「うーん。子ども食堂とかは行くけど、ネットに無断で顔をあげたりされるのがいやだ」――許可なく載せられるってこと?
「そう。TikTokとかに。親が子供を見つけられるように発信してるんだって言われるけど、正直怖い。私みたいに虐待されてる子も多いし、親に居場所を知られたくない子もたくさんいるから本当は辞めてほしい」
ここで支援対象者をできるだけ管理せず、問題があってもできるだけ通報などはせず、行政へ不信感をもつ支援対象者の居場所となる民間団体に意味がある。
特にColaboは当事者団体を自認して介入をさけつつ、支援対象者をさらさないことを重視してきた。
Colaboが支援対象に介入する局面を否定したいなら、支援対象を管理しない方針は肯定されるべきだろう - 法華狼の日記
その自認が充分か、構造的な問題を解消できるかは別問題だが、支援対象者へ団体が管理介入する構造を代表させる団体として適切とは思えない。
介入を弱める実践もしている。一時シェルターはDV保護どころか宿泊にかぎらず多目的な利用を許し、中長期シェルターは入居者とのミーティングでルールを決めているという。
監査においても、会計における見かけの不適切さが増えるのに、支援対象者の情報にひもづく領収書の提出はこばんだくらいだ。
支援団体Colaboへの監査で不正が見つからなかったからといって、確定申告で領収書を出さないと主張することは、公金の使途に興味がない証明だろう - 法華狼の日記
もちろんColaboは領収書をまったく出さなかったわけではない。個人情報にふれないような領収書は提出して、助成金以上の経費をつかっていることが認められた。
そもそも個人情報を秘匿する争点については、もとのニューズウィーク記事でもふれられているように、監査でも理解はしめされていた。
Colaboが支援対象者の個人情報を行政にわたすには、それだけの信頼を行政がつちかう必要があるし、それは一朝一夕では達成できない。
あえて遠い理想論を語るなら、ここで解決すべき問題は、私たちが支援団体を信用できるかではない。私たちが支援対象者に信用される社会をつくれるかなのだ。