渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

セパレートハンドル

2023年09月24日 | open



二輪のフロントフォーク左右
に直接装着されたハンドルの
事をセパレートハンドルと
呼ぶ。
1970年代には私たちはクリップ
オンと呼んでいた。今でもセパ
ハンよりはクリップオンのほう
がピンとくる。カンチレバーの
ように。
今では一般的ではないようだ。


日本では公道市販車でセパハン
を後から装着換装するのは1970
年代には違反だった。
国家が国産車の車両登録で認可
を下ろさなかったからだ。
だが、輸入のヨーロッパ車では
最初からクリップオンである車
も多く(というかそれが標準)、
それらは国内でも登録ができた。
いかに日本の国家が我田引水の
国家権力を振るっていたかが、
オートバイの認可の実態という
それだけからも判る。

カウル装着も日本では禁止だっ
た。
理由は、警察によると「カウル
はライトが前しか照らさない
ので危険だから」というもの
だった。
ふざけるにも程がある。
ならば四輪車などは全部危険だ。
セパハン禁止も「ハンドル操作
ができないので危険だから」と
いうのが警察の見解だった。
たわけの極みだ。


今では考えられない出鱈目な
論を国家権力は上意下達式に
一方的に述べて、そして国民
を統制し
ていた。それが戦後
の日本社会だった。

それらの権力の横暴は社会全般
にわたり、国民の自由を奪い、
国民を苦しめた。
戦前は思想信条の自由さえ無い

軍事独裁国家だった(国家に異
議を唱える者は国家によって
殺害された)が、戦後もその
体質に変化は無かったのが昭和
時代の日本だった。
「戦後民主主義」などはまやかし
だった。

何の事は無い。
今では白バイもカウル付二輪
を常用している。
危険だとした見解への撤回や
反省の公表などはもちろん
無い。国家権力などはそんな
ものだ。
鵜呑みにして信じている国民
がいるとしたら、どこまで
それこそが無軌道であるのか。
裸の王様の服を誉めたてる
ようなのが良識ある国民では
ない。間違っている事は国家
の言辞であろうと間違って
いるのだ。
カウル付きやセパハン二輪が
危険な訳ない。
だとしたら、二輪先進国であ

ったヨーロッパは全て危険な
二輪を作っていた事になる。
警察はじめ国家権力はかつて
は嘘をついて国民をたばかり、
自分らの思うように一方的に
統制していたのが真実の実像だ。
今でもその構造は変わってい
ない。

レーシングマシンがクリップ
オンにするには意味がある。
それは、前傾姿勢により、
全面投影面積を少なくできる
事が第一。これは高さを低く、
左右幅を狭くする事で得られ
る。
そして、これはマニアックな
事だが、路面からの情報を
フロントフォーク直着けのク
リップオンだとダイレクトに
感知できる事が挙げられる。
これはかなり大きい。
ロードレースの競技車両はハン
ドルの切れ角などは狭くとも
良い。

1983年。
スズキが大革命を起こした。
カウル付き、セパレートハン
ドルのオートバイを認可させ
たのだ。
それがスズキRGΓ(ガンマ)
250だった。ガンマとはギリ
シャ語のゲライロ、栄光を
意味した。

認可は担当官の錯誤だったと
いう話もある。
認可を通した運輸省担当官は
左遷されたとの情報もある。
国家権力の実体は政府では
なく行政執行権力だ。
そして、権力を握る人間たち
はいいように人事や社会の
決まり事を自分たちの思う
ように変更する。人飛ばしや
クビなどのパワハラはごく
日常的に普通に実行する。
それが権力者だ。
ガンマを認可した行政側の人
は、歴史的な人柱となったが、
ようやく日本の歴史を変える
事ができた。
日本の国家権力は馬鹿なので
「前例」を非常に重んじる。
それは自分の身には責任が
及ばないようにする為だ。

自己が責任を負わないように
する事のみが役人の性根で、
保身根性の権化が役人だ。
自分の身の安全と出世と保身
にしか興味がない。
だが、
前例を建前とする為に、
一度
認可を下ろしてしまった
事が
前例となり、結果として
はその後の国産二輪
はカウル
もセパハンもOKと
なった。
それによって、形を競技車に
似せた250ccのレーサーレプリ
カ大ブームが到来した。
大どころではない、超特大だ。
若者たちは喜んでレーサー
レプリカに乗った。
よく乗れている人もかなり多
かった。
そして、レーサーレプリカブ
ームは、その後現在に続く
スーパースポーツの流れの
素地を作った。
1980年代レーサーレプリカの
存在を否定する人は、現在の
国産二輪の流れが何によって
導かれたのかという歴史を
見られず、目の前の事しか理
解できない暗愚な思考回路だ
と断定できる。

ところが、セパハン+カウル
のオートバイが一般化した今、
新たな現象が起きている。
それは、セパハンマシンの
乗り方、乗車運転フォームを
全く知らない無知蒙昧な免許
持ちがドワッと増えた事だ。
カウルのスクリーンを黒く
して前方が見えないようにし
たり、腕を伸ばしてハンドル
に腕立て伏せのように体重を
載せている大型二輪走行者が
ごまんと増えた。
それこそ危険な乗り方である。
そして、セパハンとカウルの
意味が全く解っていない。
二輪にも乗れなければ、物を
理解する事もしようとしない。
そうした免許持ちが大型や普通
二輪を背骨伸ばし・顎出し・腕
伸ばし突っ張りの硬直石仏運転
で乗り回しているのが現代だ。
危険すぎる。

カウル付&クリップオンには
それなりの乗車フォームと
乗り方、走らせ方がある。
何もかもが一緒ではない。


二輪乗りの資質の良否を判断
する一つ確かな判断材料のバロ
メーターがある。
それは「セパハンは疲れる」と
いう事を言う人は何であるか、
という事。
元世界チャンピオンだろうと
国家権力だろうと、間違いは
間違いだ。権威などは関係ない。
不見識は不見識なの
だ。
セパハンマシンが疲れる事は
無い。
疲れるとしたら、それは
乗り方
が間違っているからだ。
事実として、還暦の私がセパ

ハンマシンで片道750kmを往
復しても、身体四肢は全く
疲れない。疲れたのは長距離
走による脳だ。眠くなるだけ。
身体のどこ
かが痛くなるとい
う事は絶無だ。

例えば、2ストマシンはシビア
なスロットル操作が必要とされ
るが、2ストが全く乗れない現
代人が「2ストは二輪としては
適していないよね」とか言う
としたら、それは見当違いの
どたわけとなる。
そうだとしたら、原付買い物

バイクは全部2ストだったが、
おばちゃんたちは適していない
乗り物に乗らされていたのか、
となる。
不見識極まりない。

それと同じ位に「セパハンは
疲れる」論がある。
不適合な乗り方をするから疲れ
るというごく当たり前の物事の
道理を理解しようとしてい
ない。
不適合な乗り方の前に、不適合
な考え方を自己検証しない限り、
真実をつかみ取る事はできない。
つまり、目に鱗を着けたまま、
その一生を終える事になる。
真実を見るのは他人がやって

くれるのではない。
自分のまなこで見るのだ。
生きているならば。
生きてるのに死人の眼では

どうしようもないだろうに。
刮目せよ。
瞼を開け。
真実を見よ。







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