第9話 漆宮の血筋

 母の名は浮奈。漆宮浮奈だ。稲尾家で退魔師の修行をして、二等級への昇級チャンスがあった際、魍魎被害に巻き込まれた学生を助け出しせっかくの好機を逃した。

 その学生が父の香川孝之である。父は母に一目惚れし、のちに結婚。婿養子に入り、漆宮孝之と名乗るようになった。

 母は優しかった——と、思う。

 燈真が幼いながらに覚えているのは柔らかくも力強い声、温かくも固く握ってくれた手、ごろごろに切られた具沢山の味噌汁の味。母は料理下手だったが、味噌汁だけは美味かった。よく覚えている。

 燈真が生まれつきの心疾患で心臓移植が必要だと分かった時、ドナーとして心臓を提供したのは母の兄である。燈真は五歳で心臓移植を行い、なんとか生きながらえた。

 不安が一つ消え、両親が喜んでいた。


 小学校に上がった最初の夏、母が死んだ。


 酔っ払いの暴走運転車が歩道に突っ込んできて、燈真を突き飛ばした母は乗用車と電柱の間でプレスされ即死した。

 今でも覚えている。押しつぶされた母のあの様子を。コマ送りで、克明に。ちぎれ飛んだ手を抱きしめて、燈真はわんわん泣いた。

 その日から父は少しずつおかしくなっていった。あんなに妻子思いだったのに仕事のことしか考えなくなり、体裁だけで再婚。

 義母は燈真を蛇蝎の如く嫌い、爪弾きにし、そのくせゲロクソに甘ったるいお菓子ばかり食べさせてきた。彼女の子の、燈真の義弟のための味見のために。

 燈真が甘いものを食べなくなったのは、これが理由だった。


 昔の父なら、燈真の冤罪を信じてくれると思っていた。それこそ裁判を起こしてでも無罪を証明してくれると思っていた。

 けれど父は、稲尾家に行くといった燈真に「そうか」とだけ言って、「ゆっくり休め」と事務的に、実質的な勘当を言い渡した。


 それが、燈真の半生の全てだった。


×


「よう頑張った」


 もふ、もふ、としたものに全身を包まれていた。

 一体なんなんだと思って意識を覚醒させようと努める。聞こえてくるのは祭囃子と、つんと鼻を刺すアルコール臭——酒の匂い。


「なんで俺をおぶってんだ」

「力を使いすぎて倒れたやつがよう言う。竜胆を救ったそうだな?」

「……ああ、感謝しろ」

「ふ……生意気な物言いが浮奈そっくりだ」


 燈真を背負っている柊は、尻尾で燈真をガードするようにしていた。縮めてくれてもいいのに、まるでこのもふもふを自慢するように押し当ててくる。


「なあ柊」

「ん?」

「暑い、下ろしてくれ。熱が籠る」

「なんだと、妾の尻尾は一国一城の主人さえ触りたがる極上の——」

「いいから下ろしてくれって、のぼせる」

「ったく、ありがたみのわからんやつめ」


 地面に降りると、わずかにふらついたがすぐに平衡感覚を取り戻した。

 神社の境内である。エレフォンで時間を確認すると九時を回った頃だった。


「雄途は先に帰った。安心しろ、別に怒ってはおらんかった。むしろ竜胆やお主の無事を素直に喜んでおったでな。良い友ではないか」

「ああ……大事な友だちだよ」


 燈真は近くのベンチに座った。柊が少し離れ、近くの屋台で飲み物を買ってくる。

 ラムネを受け取った燈真はビー玉を落とし、一口飲んだ。


「俺の、これ」燈真は自分の右のこめかみから生える、触ったところ三日月状の角を撫でて聞いた。「これ、なんなんだ」

「黒い角か? ああ、これは……黒い角に、青い脈……お主の家系について、どれくらい知っておる?」

「父さんは学者の祖父と、医者の祖母から生まれたとかなんとか。母さんは元々退魔師の両親がいて、風来坊で行方しれずとか」

「もっと前の、先祖くらいの世代のことだ」

「知らない」


 柊は手に持ったワンカップ焼酎をぐびりと飲んでから、話し始めた。


狭真はざま。妾の友人で、妾が知る限り最強の鬼。かつて妾と、妾の旦那、そして五〇〇〇もの将兵、術師ともに最悪の邪龍を討伐した。その一味がお主の先祖だ」

「それって、平安時代の裡辺で起きたヤオロズ事変?」

「そう。狭真は文字通り、世界の狭間からやってきた男だ。そいつがこの現世の娘に恋をして子を成した。その最たる子孫にして、狭真の五つある心臓の一つを継いだのがお主だ」

「まっ、待ってくれ。話のスケールがデカいって。要するにその狭真って先祖は異世界から来た鬼ってことか? 異世界なんてあるわけがないし、よしんばそんなのがいたとして、千年も前の心臓をどうもらうんだよ!」


 燈真は捲し立てるように聞いた。柊はゆったりと浴衣の襟を直しながら話す。


「今胸を見たか?」

「脱線すんな。見てねえよ」

「つまらん男だ。……ああ、まあ。異世界っていうのはあるんだ。この裡辺が国となっている世界もある。いわば、何かの因子が違う振る舞いをした『if』の世界というべきか」

「パラレルワールド、ってことか」

「そう。狭真は神の血筋、創世の神の長男だ。上に二柱、下に一柱。だいぶ血は薄くなっておるが、お主は直系の子孫なのだ」


 つまり、自分は神の子——そういうことか?


「実感が湧かない。でも、心臓は——、あ、叔父さん……」

「そう、浮奈の兄・庄真しょうまが先代だったのだ。その前はお主の母方の祖母だ。浮奈と庄真は実に五〇〇も年齢が離れておったが、祖母が妖怪ならまかり通るわけだ。とはいえ、庄真と浮奈の親父は別人だが」

「神様の心臓を持ってても、死ぬんだな」

「庄真は無理をしすぎたのだ。特等級退魔師であったあやつは、引退勧告を無視して戦っておった。立派な叔父だ、誇れ」

「うん……で、鬼っていうけど、この色は? 普通鬼の角って骨みたいな乳白色だろ」


 そう、一般的な鬼は乳白色なのだ。

 退魔局で働いている鬼女の鬼灯童子という女性も、先端こそ紅色だが半ばから根元は骨の色である。


「影鬼だ。お主は世代交代の間に影女の血が入り、相性が良かったのか心臓が影鬼のそれとなったのだ」

「影の腕とかも、その能力か?」

「ほう、影を使ったか。見込みがあるな。いかにも、それは影鬼の力だ。〈閤闇影禍ごうあんえいか〉。狭真も知らぬ、先代からの術式だ」

「叔父さんって時代をさきどる厨二病だったのかな」

「お主の母もそうだった」

「知りたくなかったよ畜生」


 柊が狐のように目を細めて笑った。


「まあよい、イレギュラーとはいえ竜胆は無事だった。しかし稲尾の男児は大変だな。精通しておるゆえ、あの女に犯される前でよかった」

「そんな物騒なことされるのかよ、稲尾の男って」

「椿姫やなんかを襲って妊娠を待つより、竜胆を適当に果てさせればそれで済むからな。術でいくらでも着床率をいじれるのだ、呪術や禁術を使えばな。全く、生命をなんだと思っておるんだ」


 彼女は誰よりも子供思いだ。三十四世代も離れた子孫を未だ我が子のように接し、可愛がっている。

 椿姫たちの両親がNGOとして人妖融和活動に専念できるのも、ひとえに柊の愛情あってこそだった。


「椿姫たちも呪術師と戦ったらしい。みんなは無事か?」

「ああ。椿姫と万里恵は二体一だったし、光希は鬼灯のやつが間に合っておった。しかし手練れだよ」


 そんな手練れの呪術師が二名、野放しになっている——燈真は嫌な胸騒ぎを禁じ得なかった。

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