北海道の奥地では、まだアイヌが自立していた時代。大きな騒動が許されなかった江戸時代において、「クナシリ・メナシの戦い」の事後処理は、藩の存亡に関わる一大事でした。
この難局を前にして松前藩が取ったのは、いわばイメージ戦略でした。「屈強なアイヌを味方にして戦いを鎮圧した」ことを絵画にする事で、藩の統治能力を示そうとしたのです。
こうして描かれたのが《夷酋列像》。和人とは全く異なる衣装と、いかにも「剛の者」という風貌が印象的な、個性あふれるアイヌ像です。
《夷酋列像》蠣崎波響夷酋列像を描いたのは、蠣崎波響(かきざきはきょう)。藩主の異母弟であると同時に、南蘋派に学んだ画家でもありました。
夷酋列像には、アイヌの実像とは離れた描写もあります。西洋の外套や朝鮮の織物を描く事で、アイヌの「異様」を表現。同時に、鋭い眼光や数々の武器で、アイヌの「威容」をも強調しています。
藩の命運をかけた絵画の創作にあたり、波響は他の作品も研究しながら入念に進めました。両膝を立てて座るマウラタケは、同時期に活躍した画僧・月僊(げっせん)による仙人の図案から。ツキノエは、波響自身が写した《南蛮騎士の図》に同じ面貌が見て取れます。
夷酋列像の下絵とみられる作品も展示結果的にこの策は成功し、松前藩の巧みな情報工作もあって「クナシリ・メナシの戦い」の責任が藩に及ぶ事はありませんでした。
夷酋列像は京都に持ち込まれて評判になり、ついに光格天皇の天覧を受けるまでに。その後、諸藩の大名によって数々の模写が制作されるほどの人気となっています。
波響による夷酋列像は長らく所在不明になっていましたが、1984年にフランス・ブザンソン美術考古博物館で発見されました(イコリカヤニ以外の11図)。ただ、なぜフランスにあるのか、その来歴は分かっていません。
会場には夷酋列像に連なる他の作品や、波響の肖像、波響の他の作品なども紹介されています。
蠣崎波響による他の作品など第4展示室副室では、夷酋列像に描かれた文物も紹介。独特の文様が刻まれた刀、アイヌの主要産物だったラッコの毛皮などが展示されています。
木綿の古着を使ったアイヌの衣装は、アイヌが和人の経済圏に組み込まれている事を示しています(北海道で綿花は採れません)。ただ、丹念に縫い込まれたアイヌ文様からは、アイヌのアイデンティティを失っていない事が見て取れます。
また会場最後には、夷酋列像を拡大して見られる大きなタッチパネルもあります。髪の毛ほどの線で文様が描かれるなど、その表現は驚異的。この作品にかける波響の執念が伝わってくるようです。
アイヌの資料など夷酋列像に描かれた12人は和人側からすると協力者ですが、立場をかえると裏切り者。ただ、12人の首長たちも、アイヌ社会を保つためには和人との交易関係を残す事が得策と考え、止むを得ず協力した側面もあります(12人の中のひとり、ツキノエの子セツハヤフも首謀者のひとりとして斬首されました)。
そもそもアイヌの蜂起は、和人商人の非道が原因でした。支配する側とされる側の関係に思いを馳せると、胸が痛む展覧会でもあります。アイヌが蜂起したのは1789年。くしくも、パリ市民によるバスティーユ襲撃と同じ年の出来事です。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2015年12月15日 ]■夷酋列像 に関するツイート