《死はどういう意味で悪か》に関するトマス・ネーゲルの立場とその示唆
はたして死はどういう意味で害悪か――この問いに対してトマス・ネーゲルが《死は良い体験の可能性を奪う点で害悪だ》という「剥奪説(deprivation theory)」を採ったことは有名であるが、それを述べるさいの彼の議論には興味深い示唆が含まれる。それは《生とはどのようなものか》の理解に関わる示唆である。この示唆はじつを言えば死の哲学の専門家たちのあいだではよく知られているのだが、それでもまだ周知されているわけではない。以下の文章で敢えて説明する所以である。
本ノートの議論は以下の順序で進む。はじめに――導入として――死の害悪をめぐる哲学的問題とはどのようなものかを確認する(第1節)。そしてこれをふまえてネーゲルの剥奪説が含む《生とはどのようなことか》をめぐる示唆を引き出してみたい(第2節)。
第1節 死の害悪をめぐる哲学問題
死は一般に「悪いもの」と考えられている。とりわけ自分の死は特別な〈悪さ〉をもつと思われる(以下、議論を一人称的な死に限定する)。じっさい、私たちはいつか来る自分の死を不安に感じ、恐れさえ抱く。だがいったん立ち止まって考えてみよう。死は本当に悪いことなのだろうか。そして、もし死が悪いことだとすれば、それはどのような種類の悪なのだろうか。
哲学者の中には、《死は悪でない》と主張する者がいる。よく知られているように例えば古代ギリシアの哲学者エピクロスは次のように論じる。
死は、もろもろの悪いもののうちで最も恐ろしいものとされているが、じつはわれわれにとって何ものでもないのである。なぜかといえば、われわれが存在するかぎり、死は存せず、死が現に存するときには、もはやわれわれは存しないからである。(出隆・岩崎允胤訳『エピクロス 教説と手紙』、岩波文庫、1959年、67頁)
この議論の結論は「死は私たちにとって何ものでもない」というものである。言い換えれば「死は私たちにとって無関係の事柄だ」ということである(それゆえ、この結論が正しければ、死は私たちにとって悪ではないことになる)。なぜかと言えば以下。一方で、ひとが生きて存在する間はそのひとの死という出来事はいまだ生じておらず、他方で、ひとの死という出来事が生じたあとではそのひとはもはや存在しない――それゆえ、私たちの各々は自らの死と出会うことがないので、死は私たちにとって無関係の事柄である、と。
この理屈には正しい点がある。なぜなら実際にひとは、ある意味では、自分の死を決して体験しないからである。たしかにひとは、自分の生の内部で、さまざまなことを体験する(例えばひとは、自分の生の内部で、野球の試合・飲み会・旅行などを体験する)。これに対して死は生の内部で体験されるような事柄ではない。なぜなら、死はひとの生の全体を消し去るような出来事であり、この意味で、死は生の内部の出来事ではないからである。このように死は決して(野球の試合や旅行などと同じ仕方では)私たちに体験されない事柄だと言える。そして、この〈生の内部で体験されない〉というあり方を「無関係」と呼ぶのであれば、たしかに「死は私たちにとって無関係だ」と言える。
とはいえ次の点も指摘せねばならない。たとえ(以上の意味で)私たちが死を体験しないからといって、「死は私たちにとって無関係だ」と言い切ってしまうのは行き過ぎかもしれない、と。なぜなら、事実として、私たちは死という出来事をたいへん気にしているからである。それゆえ「死は私たちに何らかの仕方で関係する」と言えるような一定の意味が存在するはずである。
本ノートの関心に関わる要点が明らかになってきた。はたしてエピクロスの議論の良い点はどこだろうか。それはひとつに、私たちにとって重要な区別を、すなわち〈生の内部で体験される悪〉と〈生の内部で体験されるわけではない悪〉の区別を、教えてくれる点である。通常の意味の悪は前者のタイプである。例えば殴られること・騙されること・侮辱されることなどはすべて生の内部で体験される。これに対して、死は――仮にそれが悪だとすると――生の内部で体験されないところの悪なのである。
ここから以下の点が指摘できる。「死はそれを被るひとにとって悪である」と言う場合の「悪」の意味は、「殴ることは、それを被るひとにとって悪である」と言う場合のそれとは異なる、と。例えば――簡単な例を挙げれば――殴ることがそれを被るひとにとって悪であるのはそれが痛いからだろうが、死が悪であるのはそれが痛いからではない(実際、死それ自体は痛くない)。では、死はどのような意味で悪なのだろうか。
第2節 ネーゲルの剥奪説とその示唆
ネーゲルは「死」と題された論文でこの問題に取りくむ(永井均訳『コウモリであるとはどのようなことか』、勁草書房、1989年、所収)。彼はこの論文で死と悪の問題を多角的に考察するのだが、本ノートではそのわずか一部――ただしそれは論文の中心的主張に関わる箇所だが――を考察したい。というのも、冒頭でも述べたように、ここに興味深い示唆が含まれるからである。
ネーゲルによれば、死は生において良いことが起こる可能性を根こそぎ奪ってしまうがゆえに悪である。じつに、ひとは生きている限り、良いことに見舞われる可能性を有する(この意味で生はいわば良いことのための条件である)。そして死はそうした可能性を一度に抹消してしまう出来事である。起こりうる良いことを根こそぎ奪うこと・剥奪すること――死が悪である理由はこれである。ネーゲルのこうした見方は、死の哲学という分野で「剥奪説」と呼ばれている。
この説を理解するためには、いくつかの細かな点を検討する必要がある。重要なのは次の二点である(次のふたつの論点は相互に連関している)。
第一に、「生において良いことが起こる可能性」と言われたが、ここでの〈良いこと〉とは何だろうか。ネーゲルはどのようなものを念頭において「良いこと」と言っているのだろうか(それは快楽だろうか、幸福だろうか、他の何かだろうか)。
第二にネーゲルは《生は良いことが生じるための条件だ》と考えているが、他方で――すぐに気づくように――「生は悪いことが生じるための条件だ」とも言えそうである(なぜなら、そもそも生きていなければ、怪我としたり病気になったりできないので)。こうなると、死は可能な悪しきことの剥奪だ、とも言えることになる。すると、ある意味で「死は良いことだ」とも言えるのではないだろうか。
ふたつの問いに対するネーゲルの答えは次の引用に現れている。
ある事柄は、それが実際に起こって体験されたときには、人生を良いものにする。そして、ある別の事柄は、それが実際に起こって体験されたときには、人生を悪いものにする。だが、こうした二種類の事柄を取り去った場合にも、価値があるともないとも言えないものしか残らない、というわけではない。むしろ積極的な価値をもつ何かが残るのである。だからこそ、悪い事柄が満ち溢れていて、良い事柄がそうした悪い事柄よりもたいへん少ない、という人生でさえ、生きる価値がある。そしてこうした人生の価値は、個々の体験の内容ではなく、体験それ自体が与えるものである。(これは、永井均訳9頁を参照したが、基本的に論文集Mortal Questions, Cambridge University Press, 1979, 2頁にもとづく私の訳である)
ここはたいへん重要な箇所であり、《生とは何か》の理解を深めるための示唆を含む。引用で主張されるように、ネーゲルは人生における「体験それ自体」が積極的な価値をもつと考えている。私たちは人生において良いことを体験し(幸福な人間関係・スポーツでの熱狂・知的快楽など)、そして悪いことも体験する(肉体的苦痛や精神的苦痛)。とはいえ、ネーゲルの考えでは、こうした体験はそれ自体で価値をもつ。この主張は言われてみれば分かるところがある。なぜなら――直感的に言えば――体験がなければすべてはまったくの無だろうからである。かくして次のように言える。どんな人生も根本的には価値がある――なぜなら体験が、その内容によらず、それ自体で価値をもつからだ、と。
以上より先のふたつの問いへの答えが得られる。ネーゲルが《死は生において良いことが起こる可能性を奪うために悪だ》と考えるとき、ここで念頭に置かれている〈良いこと〉は体験であると解釈できる。要するに、〈体験の可能性を奪うこと〉こそが死の悪たる所以だ、と解されうるのである。
くわえて引用の議論に従えば、《死は可能な悪しきことの剥奪でもある》という点にもとづいて《死は良いものである》と主張する理路もブロックできる。なぜならこの理路は、先の言葉を用いれば、〈生の内部で体験される悪〉へ焦点を合わせているからである。たしかに生は殴打・詐欺・侮辱・怪我・病気を被るための条件であるので、死は(この意味の)悪しきことの可能性の剥奪だとも言える。とはいえ、ネーゲルが《死は可能な良きことの剥奪だ》と考えるとき、彼は個々の体験の内容へ注目しているのではない(このあたりは解釈が関わりうるので、こう言い切るのはいささか薄氷を踏む心地であるが)。彼はむしろ体験それ自体の価値へ視線を向けている。死はこうした根本的な価値を奪う――この意味で、死が〈悪しきことの剥奪〉であるよりも深い次元において、死は〈良きことの剥奪〉なのである。ネーゲルの(以上で紹介した限りの)立場を正確に要約すれば次のようになる。生においては良いことが体験されることも悪いことが体験されることもあるが、こうした「体験」という根本的に良いものの可能性をすべて奪い去ってしまうがゆえに死は悪なのである、と。
念のため注意すれば、以上の指摘は必ずしも《体験それ自体の価値が絶対的だ》ということを意味するわけではない。例えば――事実問題として――世界内部的な苦痛があまりに多い場合には、ひとは体験の可能性を保持するよりもこうした苦痛から例えば死によって逃れることの方を望みうる(そしてそれは仕方のないケースもあるだろう)。だがそうだとしても次の点は依然として主張可能である。すなわち、世界内部的な尺度とは独立の〈生の体験の良さ〉がありうる、と。そして、こうした良きことの可能性を奪う限りにおいて、死はつねに「悪」だと言えるのである。
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