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思い出の選りすぐりのシーンだけ、集めてみました。

今日は特集・GSS東京サンビームズ②です。

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大義名分というものがある。

つまり、こうこうこういう理由で、我々はこの土地を収めるとか、戦争等を行うという理由付けだ。

そうでないと、戦争は単なる殺戮行為でしかない、

日本もその昔、日本を中心に東アジアに大規模な経済圏を確立しようとした大東亜共栄圏という理想を掲げて闘った。

国内の戦もそうだ。


例えば…。

小田原の後北条氏を攻め滅ぼした豊臣秀吉は、徳川家康にその恩賞として後北条氏の領地だった関八州を与え、その代わりに先祖伝来の三河、戦争で勝ち取った遠江、駿河、甲斐、信濃の一部を放棄することとなった。

それはともかく。

難しいのは関八州の統治である。
というのも、後北条氏は5代に渡り民衆に対し税を軽くするなど民衆から慕われていたので、外様の徳川が入ってきても、容易に納得しない。

そこで苦肉の策を取った。

平家の系統である後北条氏の次を治めるのは、新田系の源氏である徳川だと自らの正当性を主張した。

というのも、当時の日本は源平交代思想というのが根強く、平家が納めた次は源氏の世という慣習があった。

徳川家康という人は大変な勉強家で、鎌倉幕府の成立や成り行きなどを記した吾妻鏡などを熟読し、国を収めるにはどういう条件や形式が必要なのか、きちんと調べていた。

だから、三河の土豪上がりに過ぎなかった徳川が新田系源氏を名乗り後北条氏の領土を納め、後に征夷大将軍への道を切り開いていく。

日本の征夷大将軍は平安時代や鎌倉時代の宮将軍、南北朝時代を除くとほとんど源氏のみ。徳川家康はそれを理解していた。

織田信長は桓武平氏を名乗り、百姓の出である豊臣秀吉は苦肉の策として豊臣という新しい姓を授かり、そして源氏を名乗る徳川家康が源平交代思想に則り、征夷大将軍となった。

古い形式などを打破し、官位にさしたる魅力を感じぬまま、明智の謀反でこの世を去った織田信長の苛烈なところを目の当たりにし、悪いところをきちんと学んだ徳川家康。

以後、15代•約270年間に渡る天下泰平の世の礎を築くこととなる。