コラム

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最底辺労働者が下流社会を語る

「南の島のハメハメハ大王」の歌詞が切ない我らが身の上

♪南の島の大王は、その名も偉大なハメハメハ……というハワイアン風のあの歌は、学校の音楽の授業や「NHKみんなのうた」を通じて多くの方がご存知かと思う(余談だが自分はずっと「カメハメハ大王」だと思っていて、この記事のために検索をしてちょっと驚いた)。
 ちなみに歌詞の全文はこちらのサイトにあるので、懐かしいと思った方はどうぞ。ただしお節介にも演奏のみのMIDI音源が自動でダウンロードされるので、不要な方は削除をお忘れなく。
 この歌の三番に、「学校ぎらいの子どもらで/風が吹いたら遅刻して/雨が降ったらお休みで」という歌詞がある。あれを思い出すと我々は、どうにも苦笑せずにはいられないのだ。
「雨が降ったらお休みで」という部分が、我々最底辺労働者にぴったり当てはまるからだ。まとまった雨が降ると現場作業ができなくなるため、仕事が休みになってしまうのだ。なお我々は非正規労働者であるから、休みといっても無給であり、丸損だ。かくして日銭を少しでも取り返そうとパチンコ屋で勝負をして余計に財布の中身を減らすという構図ができ上がる。そんなこんなで食いつめて、土日にも仕事の誘いがあればほいほいと尻尾を振って出かけることになるのである。それでまたいっそう世間のまっとうな勤め人世帯との生活感覚のズレが広がっていき、最底辺から抜け出すことが余計に難しくなる。かくして「南の島のハメハメハ大王」の陽気なハワイアン風の伴奏と、神戸市収容所区的な身の上が重なって脳内リフレインするのである。
 マンガ『ナニワ金融道』第8巻に、まさしくそんな場面がある。ヤクザ腹黒助平のベンツにおかまを掘ってカタにはめられた奈良県奥山郡在の山川与飼夫とその父与太郎が神戸市収容所区の標高800メートルの山地にあるタコ部屋的土木作業現場に送り込まれる。該当ページのセリフを引用してみたい。

ナニワ金融道 2

ナニワ金融道 2 著者: 青木 雄二

出版社:講談社

発行年:1999

※ちなみにこの表紙写真は別の巻のものです。第8巻は見つかりませんでした。

「そしたら私と息子で月50万円出してもらえるんですか」
「そや 月に雨が3日以上降らなんだら保証できるで」
「ホ ホナ 雨が降った日はお金になりませんのか」
「そや その日が休日や 充分 体を休めてや」

なお念のために補足しておくが、実際の土木現場で働いているのは家族も妻子もあって常識的でまじめな方が大半である。この場面のように皆が借金返済のために働いているという職場は、少なくとも自分の身の回りではちょっと考えがたいので、そこは誤解のないようにお願いしたい。

若年層の「下流」化を10年前に予見した『下流社会』

下流社会 新たな階層集団の出現

下流社会 新たな階層集団の出現 著者: 三浦展

出版社:光文社

発行年:2005

さて前置きが長くなったが、今回紹介するのは『下流社会』(三浦展著、2005年、光文社新書)だ。パルコ出身のマーケティング専門家である著者が、内閣府の「国民生活に関する意識調査」や独自アンケート調査を元に、団塊ジュニア以降に下流意識が広まりつつあることを明らかにしたものである。
 ここで著者三浦が着目したのは、日本最大の人口クラスタである団塊世代と、団塊ジュニア世代である。本書内での定義によれば、団塊世代は1947~51年生まれ(刊行当時53~58歳/現在64~69歳)、団塊ジュニアはおおむね1970~75年生まれ(刊行当時29~35歳/現在40~46歳)である。
 その団塊世代が幼少の頃に発足したのが自民党一強の1955年体制であり、ちょうどその年くらいから1973年くらいまで続いたのが、実質経済成長率は年平均10%を超える高度経済成長期である。彼らは日本経済が貧しさを脱して復興し、世界第二位の経済大国までになる歩みとともに成長し、成人し、社会に出たのである。
 対照的なのが団塊ジュニア世代だ。一番早い70年生まれが大卒で社会に出たのは93年であり、バブル経済による就職売り手市場には一年違いの滑り込みアウトで間に合わなかった。この年から企業の新卒採用数は急減し、就職氷河期、超氷河期が到来したのだ。
 貧しさの中から成長して豊かな生活を手にした団塊世代と、世界第二位の経済大国の豊かさの中で生まれ、日本経済が長い下り坂にさしかかったところで社会に出た団塊ジュニア。登り坂の人生と、下り坂の人生。ひとつ屋根の下で暮らす親子が、そんな正反対の人生を歩むことになったわけだ。
 そうした中で団塊ジュニア以降の若年層が下流化しつつあるというのが本書で三浦が指摘することなのであるが、ではその「下流化」の流れが、必死に船上に留まろうとする者を船幽霊が海に引きずり込もうとするような流れであるのかというと、それはいささか違う。
 日本の正社員の滅私奉公と長時間労働は今に始まったことではないが、団塊ジュニア以降がそれを嫌って派遣社員やフリーターといった働き方をみずから望んだ一面もあるというのだ。
 超氷河期の就職戦線を勝ち抜いて電通のような超一流企業に就職できたとしても、待っているのがあの過労自殺事件に象徴されるような過重労働であるとするなら、最初から戦線離脱をしたいと考えるのも確かに無理はない。誰もが正社員になれた団塊世代から新人類世代(本書の定義では1960~68年生まれ)とは違い、団塊ジュニア以降が正社員であり続けようとするなら、そんな過酷な労働環境に身を置き続ける覚悟もなくてはならないというわけだ。
 そうして下層意識が国民に広まりつつあるなか、物の売り方も変わらねばならないと三浦は解く。そのキーワードが「55年のクラウンから、2005年のレクサスへ」だ。
「いつかはクラウン」という言葉がかつてはあった。今は平社員で社宅住まいでも、頑張って働いていれば毎年収入が伸び、いつかはクラウンが買える身分になれるはず、という高度成長期の消費者意識を言い表した言葉である。そんな中、国民の大多数を占める中流層を対象によい物をより安く売る、というのがかつての商売のあり方だった。
 しかし今や、中流がやせ細り、上流と下流が増えている。そこで必要なのは、上流層に高級品を買ってもらって利益を確保するビジネスモデルであり、その象徴がレクサスだというのだ。
 たしかに2005年は、身近なところでふり返っても自分の地元の名古屋でレクサスショップができはじめた頃だから、納得がいく。百貨店各社もその観点で富裕層向けに特化していれば今ほど凋落することもなかったかもしれない。

などなど、示唆に富んでいる本書ではあるが、2008年のリーマン・ショックを経た現在の目からすれば、現状認識にまだまだぬるま湯的なところもあるなと感じられる部分もある。
 たとえば、次の一節だ。

ディスカウントストアには、目を疑うような低価格で物が売られている。クラシックの歴史的名盤すら、百円のCDとなって売られている。こんな時代に、努力して働こうと思う方がおかしいとすら言える。だらだら生きても生きられる。

「だらだら生きても生きられる」という昭和元禄の名残のような意識は、もはやまったく失われてしまった。
 だから我々最底辺労働者はくる日もくる日も現場で搾取されながら働かねばならないのである。「雨が降ったらお休み」ではあるけれど。


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