小説は音楽だ――野坂昭如や織田作之助にみる、上方の浄瑠璃文体の系譜
小説は音楽だ――。
日本近代文学を紹介するこの連載で諸作品の語りの魅力に触れるうちに、そんな思いが頭から離れなくなってきた。愛と死や挫折をつうじて人間の喜怒哀楽を描くのが小説であるなら、悲劇喜劇のあらゆるパターンはとうの昔に書き尽くされている。となれば作品過多な現代において我々読書子の要求を満たすのは、筋立ての巧みさよりもむしろ文体の音楽的魅力なのではないか? 連日の夜勤現場で赤い誘導灯をかたちばかりに振りながら、そんなことばかり考えているヘルメットに制服姿の自分なのである。
野坂昭如の短篇「骨餓身峠死人葛」を別件で読む機会があり、人形浄瑠璃の義太夫節そのままのような息の長い文体にいたく惹かれた。登場人物の心情も所作も地の文に埋め込まれ、太棹の三弦の調べにのせた太夫の語りを聞くがごとくにすらすらと物語が五臓六腑にしみいってくる。もちろん紙の本だから文字情報しかないわけだが、字面の奥から太棹三味線のサワリ(インドの弦楽器シタールにもある開放弦の共振音のこと)がかすかに響いてくる心地すらして、語りのリズムにつられるままに一気読みしていた。
(国立劇場小劇場文楽公演『菅原伝授手習鑑』より。浄瑠璃:竹本住大夫、三味線:野澤錦糸。出典:公益社団法人・日本芸能実演家団体協議会[芸団協]Webサイト)
そこではっと心にかかった。こんな文体、どこかで読んだことがある。あれは……そうだ、オダサク。織田作之助の「夫婦善哉」や「蛍」、それに類する作品群だ。野坂昭如が神戸育ちなら、織田作之助は生まれも育ちも大阪。竹本義太夫に近松門左衛門が活躍した、まさしく人形浄瑠璃の本場である。伝統芸能はいまや風前の灯火でも、横山エンタツ花菱アチャコ以来のしゃべくりはますます盛んで、ミナミの吉本劇場は連日の大盛況。そう、大阪を中心とする上方は、音声言語のリズムとビートにおいて21世紀のいまなお東京よりも優位にあるのだ。そして小説の世界にも町田康という大阪出身の現役作家がいて、織田作之助や野坂昭如の文体を受け継いでいる。
言うなれば、上方の浄瑠璃文体。これは日本文学の大きな鉱脈なのではないかと、今回筆を執った次第である。
ここで話が映画に飛ぶが、『ゴッドファーザー』のあのテーマ曲。南北戦争後の金ぴか時代を経て物質的繁栄を極めたニューヨーク。無味乾燥な街並みのなかで瞼をとじれば、浮かぶは故郷シチリア島のゆかしき風物。椰子の木にかこまれたモスクに、オリーブ畑の向こうにそびえる教会。歴史の十字路、文明の交差点。哀情と郷愁に満ちたあのテーマ曲は作中いとどしく鑑賞者の心の襞をかき鳴らし、演奏のない場面でも胸の奥で響きつづける。もしもあの曲がなかったら、作品のトーンや印象はまったく別物となったに違いあるまい。
されば小説の文体とは、映画『ゴッドファーザー』のテーマ曲のようなものではあるまいか? 字面の奥からかすかに響いてくるその調べが心ゆかしいものだからこそ、読者の没入いやまさり、ページを繰る手も止まらなくなるのだ――。
※今回も長くなってしまいました。ここまでが全体の要約にもなっているので、お急ぎの方はここまででどうぞ。
炭鉱の卒塔婆に蔓を絡ませて花咲く「死人葛」に魅入られた女の物語
野坂昭如の「骨餓身峠死人葛〔ほねがみとうげ ほとけかづら〕」(1969年)は、戦後の混乱と出水事故による閉山の危機のなかで異様な性のユートピアと化していく九州の炭鉱を舞台にした物語である。
ヒロインは炭鉱主・葛作蔵の娘たかを。長崎県の北松浦半島とおぼしき山あいに作蔵がひらいたヤマは海と山襞が織りなす閉塞環境ゆえか、落盤事故で死んだ坑夫や間引かれた赤子が廃棄物さながらに棄てられる無法の巷。その形ばかりの墓場に立つ卒塔婆に絡みつく寄生植物は白い可憐な花を咲かせ、いつしか「死人葛〔ほとけかづら〕」と呼ばれるようになった。
大正の末に娘盛りとなったたおをはこの花の虜となる。死肉を養分にこの花が咲くことを知るや、望まれぬ出産による嬰児を三銭で買い取って花の肥やしとし、近親相姦の間柄だった兄の節夫が結核で死ぬや、兄の最期の望みのままにその亡骸を死人葛の養分となす。そして若い頃から多情だった母親が節夫もたかをも誰の種かわからんとの捨て台詞を残して出て行くと、血のつながりのない可能性に気づいた父作蔵があらわにした情欲にさからうこともなく身をまかせる。
たかをは、土を片寄せ穴に投げ入れ、たちまち節夫の体かくれて、こんもりうず高くなったてっぺんに、棒をさし、なにごともなかったように歩き去った。節夫の失踪は、別段、作蔵の注意をひかず、「よかよか、野垂死にすれば、身に相応たい」夜は必ずたかをを抱きすくめ、しばらくは父娘さかり合うまま、人の噂ともならず、平穏にうちすぎ、年毎の夏、ひたと棒にまきついた節夫の死人葛、ねがった通りの美しい花を咲かせた。
戦時中には徴用の朝鮮人を逃亡させぬためにつねに全裸でおらせ、オーストラリア人捕虜を餓死寸前にまで酷使する。そして戦後、閉山のやむなきに至ったヤマで飢えた人々が誰彼なく乱交して生まれた赤子を死人葛の肥やしとし、デンプン質のその実を栄養源に生き延びる、という阿鼻叫喚図のごとき状況を描きながらも、作品世界がしずかな格調を失わないのは、登場人物の内面世界に深入りしすぎることなく、韻律をもって綴られるこの文体のお蔭であろう。
野坂昭如は1930(昭和5)年に鎌倉で生まれ、神戸で育ち、14歳で敗戦を迎えた。空襲と飢餓の体験を元にした『火垂るの墓』(1967年)が、1988年に映画化されたこともあってあまりにも有名だが、この『野坂昭如ルネサンス〈6〉』の収録作をみても、「同行二人」(1968年)や「人情ふいなーれ」(1969年)、いずれもこの「骨餓身峠死人葛」に似た文体である。前者が神戸山の手の私立女学校で同級だった女ふたりの戦後の物語、後者が浅草のダンサーの物語で、セリフは関西弁に東京言葉と、対照的に違う。そしてこの「骨餓身峠死人葛」のセリフは前述のように九州方言だ。そのように作中の会話の声が大きく異なっても、作品の印象に共通するものがあるのは、地の文に一貫する浄瑠璃的な文体の力によるところが大きいのでないか。
悲恋を心中に駆け込ませることなく、泣き笑いのコメディにしたてた「夫婦善哉」
オダサクこと織田作之助は1913(大正2)年に現在の大阪市天王寺区に仕出し屋の長男として生まれ、「(貧乏長屋の)魚鶴の子ォが高津中学に行きよったでェ」と評判になるほどの秀才ぶりを発揮して京都の三高に入学(出席不足でのちに退学)、新聞記者をしながら執筆した「俗臭」や「夫婦善哉」(ともに1939年)で注目されて作家デビューを果たし、戦後間もない1946年に肺結核により33歳で死去した。
わずか7年ほどと作家活動の期間は短いが、数多くの優れた作品を残しており、無頼派として太宰治、坂口安吾と並び称され、その名を冠した「織田作之助賞」が関西文壇に存在するまでに今なお親しまれている作家である。
その出世作にして代表作である「夫婦善哉」は、しっかり者の芸者お蝶が商家の若旦那で甲斐性なしの柳吉に惚れ、この人を一人前の男に育ててめでたく夫婦となる日を夢見て奮起する物語。
その維康柳吉(これやす りゅうきち)は梅田新道の商家のぼんぼんで総領息子。妻とひとり娘がありながら家業を顧みぬ放蕩ぶりに父親から愛想を尽かされて31歳で勘当となり、11歳?年下の蝶子を頼って黒門市場の路地裏に間借りする身となった。そうしてふたりで剃刀屋、関東煮(かんとだき)屋、果物屋などいろいろな商売に手を出すのだが、柳吉はすぐに飽きがきて芸者遊びで途方もない散財をしてせっかく溜まった金を使い果たし、お蝶から手ひどく折檻されることのくり返し。その度にお蝶は日雇いのヤトナ芸者に出てまた一から生活を立て直そうとする。
(前略)柳吉が蝶子と世帯を持ったと聴いて、父親は怒るというよりも柳吉を嘲笑し、また、蝶子のことについてかなりひどい事を言ったということだった。――蝶子は「私(わて)のこと悪う言やはんのは無理おまへん」としんみりした。が、肚の中では、私の力で柳吉を一人前にしてみせまっさかい、心配しなはんなとひそかに柳吉の父親に向って呟く気持を持った。自身にも言い聴かせて「私は何も前の奥さんの後釜に坐るつもりやあらへん、維康を一人前の男に出世させたら本望や」そう思うことは涙をそそる快感だった。その気持の張りと柳吉が帰って来た喜びとで、その夜興奮して眠れず、眼をピカピカ光らせて低い天井を睨んでいた。
好き合うても晴れて夫婦となることのかなわぬ男女の悲恋とくれば、ずばり近松門左衛門の心中物があるわけだが、心中というクライマックスめがけて駆け込むがごときそれらの作品群と比べて、この「夫婦善哉」は喜劇性においても際立っている。維康柳吉は(たぶん)女好きのする色男だが、「ど、ど、どや、うまいやろが、こ、こ、こんなうまいもん、何処イ行ったかて食べられへんで」という吃音者でもあり、甲斐性なしの生活無能力ぶりとも相まってそれが一種の愛嬌ともなっている。日頃の鬱憤を晴らす大散財のはてに青い顔で帰ってきては目を尖らせた蝶子に折檻される。まるで夫婦漫才のようなパターンのくり返しで、ある種喜劇的な展開でもあるが、その奥から悲恋の涙がにじんでくる。
そしてセリフを改行なしで地の文に埋め込んだこの文体は、前述の野坂昭如のものによく似ている。作者が三人称視点の後景に退くことなく、義太夫節の太夫のごとくに声音を使い分けて人物に憑依するこの文体。登場人物が文楽人形のごとくに類型化する懸念はあるけれど、オダサクのような名手の手にかかればかくも情緒纏綿たるものとなる。
織田作之助の代表作は青空文庫に揃っているから、ぜひ一度お読みいただきたい。この「夫婦善哉」以外にも「俗臭」「競馬」「放浪」「蛍」など、三人称の浄瑠璃的文体の作品が多く、いずれも優れて魅力的である。
話し言葉のリズムとビートが根底にあるがゆえに地の文が精彩を放つ
そして次なるは皆さんご存知の町田康だ。恥ずかしながら未読であったがこの機に『パンク侍、斬られて候』(2004年)をちょっと囓ってみた。
戦場のところどころに柱が立っていて、その先端にはスピーカーが設置されており、「イマジン」が流れている。やがて正気に返った侍達は敵と目があうや、じきに目を伏せ、気絶した者どうし、照れくさそうに頭をかく。そして今度目があったときはもう仲間だ。ふたりの若者は美しい笑顔で笑う。そこへガンジャがまわってきてみなで一服をしていると、丘の上、あほらしくなって城に帰った御大将が陣取っていたあたりにいつの間にか特設ステージができていて、ボブ・マーリー&ウエイラーズが演奏を始める。(中略)みんなのこころがひとつになり、兵どもは、「アヨーヨーヨー」と言って踊ってみんな仲間になる。これが新しい世紀の戦争だ。
さすがに現代作家とあってオダサクや野坂とは一見大いに違うが、底に流れる関西人ならではの音声言語力は共通である。町田康は1962年に大阪で生まれ、パンク歌手を経て小説家になった。義太夫節をことさら意識せずとも、高い音楽的感性に導かれて日本語を綴れば、かくも浄瑠璃的なリズミカルで息の長い文になるのでないか。
関西弁は「寒(さむ)ない」などの中抜けや「社長いてる?」などの助詞の省略が特徴的で、その分古語的であり、言葉が弾んでリズミカルである。自分の暮らす名古屋はまさしく東西アクセントの中間地帯であり、前述の点では関西弁そのままであるものの、イントネーションがより東国的なので垢抜けない印象がある。そして自分の警備会社には関西人もかなり多く、関西3:東海4:九州2:その他1くらいの比率なのだが、関東や東北のアクセントが抜けない若干名の隊員の話し声は、正直バルバロイの蛮声にも聞こえる。
そうした関西ならではの音声言語の生きのよさとリズミカルさがおのずと地の文にも影響を及ぼし、あの浄瑠璃的な文体を生むのではないか――というのが自分の持論である。
とはいえもちろん、東北弁にも独自のすばらしいリズムがある。両親の郷里である福島県中通り地方の「ほだない(そうだねえ)」「うっつぁしい(うるせえ)」などはきわめて精彩に満ち、人間的で美しい。
この点で憂慮と自戒が必要なのは、自分を含めた上京二世、三世たちだ。よそゆきの人工言語である標準語でしか話せないことが、どれほど内なる言語世界を貧弱にしていることか。お国言葉が血肉と化しているからこそ、その人ならではの個性的な文体が生まれるのだと考える。今こそ標準語を振り捨てて、方言が話せないならニンジャスレイヤーの忍殺語の習得にでも励むべきだ!?
牧眞司 さん
「骨餓身峠死人葛」は、阿刀田高編の『ブラック・ユーモア傑作選』で読んで、びびりました。内容もさることながら語りの調子が凄くて……なるほど義太夫節の呼吸なんですね。現代でいえばパンクかな。
返信 - 2017.09.22 13:18
待兼音二郎 さん
牧さん、コメントありがとうございます。「骨餓身峠死人葛」は恐ろしくも美しくて不思議な雰囲気ですよね。今回三人の作家を比較しましたが、野坂昭如の文体がいちばん義太夫節的だと感じました。パンクに根ざした文体というのも、町田康がまさしくそうなのかもしれませんが、色々探してみたいですね。自分はブルーハーツ直撃世代なだけに……。
返信 - 2017.09.22 13:50