「鏃」(やじり・ぞく)とは、矢の先端に付けられ、弓より放たれた矢に鋭利性を生み出させ、貫通力を付与し、目標へ突き刺す利器(鋭利な刃物や鋭い武器の総称)のことを言います。弓矢は、人類が進化する中で狩猟生活の段階を迎えて、手の届かない獲物をも狩るための道具として生み出した飛び道具です。
初めは、身近にある石を拾って投げ付けるというようなところから、強い弾性を持つ器具を使って殺傷能力のある鋭利な物を弾き飛ばすことが必要とされ、「より遠くに飛ばす」また「より命中精度を高く」することを目指す中で、羽根を付けた矢の形などの工夫が試されたのだと考えられますが、どれだけの年数を重ねて、現在の人類が理解する弓矢の形となっていったのでしょうか。
我が国の武具発達史の中でも、飛び道具としての弓矢は初めから存在したと言って過言ではありません。弾き飛ばすための器具としての「弓」と、飛んで突き刺さる「矢」の組み合わせで成立する武器ですが、広い意味での刀剣史の一端として注目しなければならないのは、矢の先端に挿げられ、鋭利性を生み出す鏃です。「矢の根」とも呼びます。
鉄鏃は、構造的に先端部の「鏃身部」(ぞくしんぶ)と「柄部」(つかぶ)とに大きく分かれます。
各部の名称は、まず柄部では、矢柄に埋め込まれる「茎部」(なかごぶ)と鏃身部と茎部の間の「頸部」(けいぶ)から構成。
棘状(とげじょう)の突起が付いて矢柄が接する箇所を「篦被関部」(のかつきまちぶ)と言い、頸部と鏃身部が接する箇所が「鏃身関部」(ぞくしんまちぶ)と言います。
「鏃」(やじり・ぞく)は、当初木や動物の骨・角など、安易に入手できる素材から端を発し、武器としての弓矢の発達、大陸文化の流入、制作技術の向上などの要因によって、「石鏃」(せきぞく)、「銅鏃」(どうぞく)、「鉄鏃」(てつぞく)と進化していきました。
石鏃は、旧石器時代(200万年前)から使用が始まったと考えられ、黒曜石・安山岩・粘板岩など打ち砕きやすい石を加工して作られました。
種類は石を打ち欠いた「打製」(だせい)と、側面や縁を研磨した「磨製」(ませい)があり、世界的には打製が一般的ですが、中国では新石器時代当初から磨製の石鏃を用いています。
青銅製の鏃のことです。
柄に取り付けるための茎(なかご)をもつ「有茎式」(ゆうけいしき)と、茎が無い「無茎式」(むけいしき)があります。
中国では、紀元前17世紀頃の殷王朝の時代から存在し、前漢の時代まで使用されました。
鉄製の鏃のことで、石鏃に代わり、主に武器として使用され始めました。
鉄製であるため、何度も溶かされ、鏃だけでなく他の鉄製品などに再生利用された影響で、時代の古い物は現存数が少ないだけでなく、制作年代の特定が困難です。
なお、奈良の正倉院の収蔵品には、「雁股」(かりまた)や「鏑矢」(かぶらや)のような、手が込み技巧を凝らした鉄鏃が現代に伝わっています。
鏃が日本国内に登場したのは、15,000年前の縄文時代初期と言われ、狩猟用に石鏃が使用され始めたと考えられています。当初はすべて打製の石鏃で、弥生時代に入り磨製の石鏃が発達しました。
続いて、弥生時代から古墳時代前半にかけて銅鏃が登場。中国の「両翼鏃」(りょうよくぞく)を模した物が使用されました。これは当時の中国大陸より先進的な技術が海を渡り日本に伝えられていたことを表します。
銅鏃は、4世紀以降盛んに使用されたと考えられ、重要文化財の東大寺山古墳出土品など、この時代の古墳の副葬品として発掘されており、5世紀に入ると鉄鏃の普及の影響もあり姿を消していきますが、一部は呪術などの儀式や儀礼用に変化し、形も大型化するなど、本来とは違った用途で使用され続けました。
鉄鏃は、紀元前に中国から伝来したと考えられ、実際に紀元前2世紀の遺構から中国製の鉄鏃が発見されています。日本国内では、2~3世紀以降に武器として普及し、弥生時代から古墳時代になると、鏃はすべて鉄鏃になりました。
金属を叩いて圧力を加える鍛造(たんぞう)によって制作され、銅鏃と同様に、矢柄に装着する茎の部分のある有茎式と、鏃の先の部分のみの無茎式の2種類が存在。主な形状は、有茎鏃には三角形や定角形、柳葉形など多くの種類があり、無茎鏃は三角形や五角形がありました。
日本に広く普及し、一般的に使用されたのは弥生時代後期にあたりますが、当時の日本は「環濠集落」(かんごうしゅうらく)などの発達から村をはじめとする集団ができ、それらが国となって隣国と争いを起こし始め、日本で初めての内戦と言われる「倭国大乱」([後漢書]東夷伝)という時代を迎えました。
その影響で、武器として性能の良かった鉄鏃が主に用いられ、遺跡では鉄鏃が刺さったままの人骨が見つかっており、それは卑弥呼が邪馬台国を治めるまで続きます。
古墳時代中期(5世紀初頭)に入り、鉄鏃は一層多用され、当初は切っ先が尖った物や、大型化した鉄鏃が使用されましたが、次第に細長い「長頸式」(ちょうけいしき)の鏃が中心となり、以後主流になりました。
これは、朝鮮半島の「百済」(くだら)から伝わった鉄鏃の形式に影響されたからです。そのため、長頸鏃が元来西日本で使用されていた長弓と共に朝鮮半島に出征した兵士らによって東日本へ伝わっていき、国内の統一規格になっていったと考えられます。
弥生時代以降は、鉄鏃だけが使われ続けました。鎌倉時代には、弓は兵士だけでなく、武将にとって必須の武芸のひとつとなったのです。戦国時代に入り、ポルトガルから伝えられた鉄砲が戦場の花形武器となって以降も、戦(いくさ)の開始の合図を司るなど主要な武器として使用され続け、世上が平穏になった江戸時代には弓道という形に変化。武芸だけでなく、文化的に使用されたことにより、形も特殊な物が多く制作されます。
鏃には、大きさや使用方法によって、様々な形状や種類が存在します。主だった物を挙げてみます。
この雁股に、「鏑」(かぶら)と呼ばれる、木や竹、鹿の角で「蕪」(かぶら)の根に似た形を作り、中に空洞を作って甲高い音が鳴るようにした物を根元に付けた矢を鏑矢(かぶらや)と言い、「矢合わせ」(やあわせ)と呼ばれる鎌倉時代の合戦開始の合図として使われました。
現代では、「平家物語」で「那須与一」(なすのよいち)が屋島の合戦で、平家の掲げた扇を射落とすときに用いた物として、広く知られています。
司馬遷が著した「史記」の「匈奴列伝」(きょうどれつでん)に描かれている「冒頓単干」(ぼくとつぜんう)の章に、鏑矢とそれを作る鏃工の記述があります。冒頓とは、紀元前2世紀の匈奴(きょうど)と呼ばれる遊牧民族の君主のことで、この頃すでに鏃は使用されていて、それを専門に制作する職人が存在しました。
日本における鏃工の記した書籍は少ないのですが、元文年間(1736~1741年)に著された「鏃工名鑑」や、昭和初期に発刊された「鏃工譜」などが知られています。
鏃は、銘が切られていない物が大半ですが、鏃工の銘が彫られた物も多く見受けられます。また、銘切師の存在も確認されており、戦国時代から江戸時代初期において大量生産の必要性から、工房制作が中心になったことで、刀剣界での末備前の「長船祐定」(おさふねすけさだ)や美濃末関一派と同様に、職人の分業制として、工房内で制作された鏃に銘切師が銘を入れて、効率的に需要を支えていました。
武具の制作ということで、鏃工だけではなく、刀工が鏃を作った記録も残っており、古来より上手と伝わるのは、丹波の刀工である「口人」(あきひと)や、大和の「千手院宗忠」(せんじゅいんむねただ)、丹後の「河守」(こうもり)、紀州熊野の「天狗」(あまいぬ)、伊予の「国吉」や「国長」が、鎌田魚妙(かまたなたえ)が著した「本朝鍛冶考」や「新刀辨疑」(しんとうべんぎ)などで伝わっています。
また日置流など、弓道の流派の書にも鏃制作が上手とされる刀工の名が載せられ、「天国」(あまくに)、「豊後行平」、「五郎正宗」、「江義弘」(ごうのよしひろ)、「佐伯則重」、「一文字則宗」などの名工が挙げられていますが、実際にそれら刀工の作とは考えられず、一種のブランドとして後世の鏃工や刀工が写した物や、倣った物であると考えた方が正しいでしょう。
鏃には、歴史上の人物が関係している物が多くあります。まずは最も有名な鏃として、保元の乱(1156年)で活躍した、「鎮西八郎為朝」(ちんぜいはちろうためとも)使用の「大雁股」(おおかりまた)が1番に挙げられるのではないでしょうか。
文献に弓矢や鏃が華々しく綴られる源平の時代では、1843年(天保14年)に「栗原信充」(くりはらのぶみつ)によって著された「弓箭図式」(きゅうせんずしき)によると、八幡太郎義家は定角(じょうかく)・剣先・椎形、源義経は龍舌(りゅうのした)・平雁股・鎧通し、梶原景時は龍舌・飛燕、斉藤実盛は燕尾(えんび)、那須与一は蕪(鏑)形・雁股・盾形の鏃を使用したとの伝承が記されています。
刀剣ワールドでは、刀剣や甲冑、浮世絵だけではなく、石器時代から江戸時代までの石鏃と鉄鏃なども収蔵しています。
「鉄(くろがね)の華」と称される刀剣とは違い、消耗品として制作された鏃は、美術的価値は一歩譲る部分もありますが、戦の嚆矢を飾り、実用の美を兼ね備える花形の武器の1つでもあることから、貴重な武具の歴史的資料として大切に保管しています。
特に鉄鏃は、形状の種類、在銘、珍しい透かしなど、歴史上の史料価値の高い物が多いです。それぞれの解説と考察を、学校の授業や自由研究の参考にしてみてはいかがでしょう。
鏃 | 石鏃(黒曜石製・粘板岩製他)、猪の目透かし菱形平根 他 |
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時代 | 石鏃:石器時代 平根鏃:室町時代前後 |
備考 | 出土の地名と思われる「関東」、「近畿」、「東北」、「監原」、「塩原」の名札がある。「石上神宮[いそのかみじんぐう]禁足地より出土」の札も附属しているが、どの鏃を指しているかは不明。 |
石器時代の遺物としても黒曜石で作った物が出土していますが、刃物・利器に鉄を用いるような時代になると、鏃も鉄で作られるようになり、その形態も種類を増していきます。
まず、細長く、いかにも実用的な鏃と、大型で身幅が広く、実用性には少々疑問符が付く鏃などがあるため、それぞれの呼び方については諸説ありますが、ここでは、前者を「尖根」(とがりね)、後者を平根(ひらね)とさせて頂きました。
古墳時代中期後半になると、実戦用の尖根鏃十数本に対して2~3本の平根鏃がセットにされる例が多く見受けられます。その理由は、尖根の鏃は実戦用として合理性がありますが、平根の鏃は大型で先端が鋭く尖っておらず、遠くまで飛んで刺さるという矢の役割には不適であることからです。これは、特殊な用途に使われていたと考えられるため、実戦用の尖根鏃と合わせて使用しなければなりませんでした。
では、平根の鏃はどのような特殊用途なのでしょうか。軍記物語には、戦の開始にあたり、まず双方の代表となる武者が出て儀礼的に矢を射合う「矢合わせ」があります。これは中国の古い伝統を踏襲した儀式で平家物語にも記され、射合う矢は風をはらんで大きな音のする鏑矢を用いることとされており、物事の始まりを指す「嚆矢」(こうし)という語はこの故事が語源になりました。平根の鏃は、おそらく元々はこの矢合わせや魔よけの儀式のために用いる物だったと考えられます。
弓も使用する武士のニーズによって軽弓から強弓、大型化など様々な種類が出てきますが、同時にそれらに合わせた鏃も多くの種類に派生。現存する鏃の中にも、「実用的な尖根」もしくは「実用的でなく儀式等に使われる平根」と判断が困難な、両者の合体型のような物が多く見受けられました。
下記の鏃は実用的な尖根と考えられ、ほっそりと柳の葉のように見えるので「柳葉」(やないば)と呼ばれます。
鏃 | 柳葉 |
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時代 | 室町後期~江戸初期 |
備考 | 「高来」、「元寛」、「元金」、「元武」、「元安」の銘がある。高来は越前の鏃工で、上手と知られた「黒田高来」のことである。 |
鏃 | 柳葉 |
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時代 | 江戸初期前後 |
備考 | 「元平」銘と、無銘作。 |
鏃 | 角根の柳葉 |
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時代 | 室町後期~江戸初期 |
備考 | 「スケミチ」、「石」銘と、無銘作。 |
さらに形態によって区分すると、下記の各鏃は、大きさ・身幅に多少の差はあるものの、鏃として定角(じょうかく:標準的な形態)になります。柳葉より細く小さいと「槙葉」(まきのは)とも呼ばれました。
鏃 | 柳葉 |
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時代 | 江戸初期前後 |
備考 | 「助信」銘と、無銘作。 |
鏃 | 槙葉(まきのは) |
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時代 | 室町後期~江戸初期 |
備考 | 「石」銘と、無銘作。 |
鏃 | 柳葉 |
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時代 | 江戸時代 |
備考 | 「貞次」、「スケキヨ」銘と、無銘作。 貞次は、江戸時代の鏃関係の書に上手と名を挙げられている。銘の切り方も刀剣制作の名工「青江貞次」に倣っている。 |
鏃 | 柳葉 |
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時代 | 室町時代~江戸時代 |
備考 | 「スケフサ」、「守次」、「信国」の銘がある。守次は字体から青江鍛冶の守次の後代を表す物と推測される。信国は寛正頃の信国に字体が似ているが、そこまでは時代が上がらない物である。 |
鏃 | 尖根(とがりね) |
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時代 | 室町時代 |
備考 | 無銘作。 |
下図の鏃は、身幅に厚みがあり、先が尖らずに平らになるという、少々変わった形をしています。「鑿形」(のみなり)もしくは「楯割」(たてわり)などと呼び、文字どおり鑿のような姿で、人を直接というより防御具である楯(古くは木の板で作られていた)を突き通して、無力化する目的で作られました。
鏃 | 鑿形(のみなり)または楯割(たてわり) |
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時代 | 室町時代 |
備考 | 無銘作。 この形で鹿の角や木でできていると「平題箭」(いたつき)と呼ばれ、的矢として当てることを目的とする物になる。 |
このような砲弾に似た形をした鏃は、椎の実からの発想で「椎形」(しいなり)と呼ばれます。
鏃 | 椎形 |
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時代 | 室町時代 |
備考 | 無銘作。 |
尖根の一種ではあると思いますが、それぞれ特異な形態です。「十文字形」(じゅうもんじなり)、「長鑿形」(ながのみなり)、「長椎形」(ながしいなり)と呼称されます。
鏃 | 十文字形(じゅうもんじなり)・長鑿形(ながのみなり)・長椎形(ながしいなり) |
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時代 | 室町時代 |
備考 | 「□次与」銘と、無銘作。十文字形の銘「□次」は字体から貞次と推測される。 |
これらは平根で、先が二股に分かれている形の物は「雁股」(かりまた)と呼ばれます。対象物を「射通す」(いとおす)、すなわち刺し貫くことを目的とするのではなく、「射切る」(いきる)、すなわち切断することを目的とする形から制作。前記した矢合わせの鏑矢には、これが挿(す)げられていたことが多く描写されました。
これだけでも同じ雁股とはいえ、かなり雰囲気が異なることから分かるように、多くの変形を生じており、特に三日月を連想させることから「偃月形」(えんげつがた)と呼ばれる特徴的な姿の鏃もあります。
鏃 | 偃月形(えんげつなり)、雁股、蕪(かぶら)に雁股 |
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時代 | 江戸時代 |
備考 | 無銘作。 |
鏃 | 平根 |
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時代 | 室町後期~江戸初期 |
備考 | 「スケミチ」銘と、無銘作。 |
この鏃は、特に先が鈍角の三角形をなしている物を、不動明王が持つ倶利伽羅剣などの鋒/切先との類似性から、「剣先」(けんさき)と呼びます。
鏃 | 剣先(けんさき)・尖根 |
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時代 | 室町時代 |
備考 | 「スケミチ」銘と、無銘作。 |
鏃 | 尖根 |
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時代 | 室町時代 |
備考 | 無銘作。 |
いずれも少し長い尖根で、切先部分が膨らんだ形態をしています。これを上から見て古人は、鳥の舌に似ていると感じたようで、「鳥の舌」(とりのした)と呼びました。
鏃 | 鳥の舌(とりのした) |
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時代 | 室町時代 |
備考 | 無銘作。 |
雁股の類型になります。「立業」(たてなり)の形状に近い物もあります。
鏃 | 雁股 |
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時代 | 室町後期~江戸初期 |
備考 | 「兼氏」、「幸貞」、「スケ宗」、「守久」銘の物と、無銘作。 |
鏃 | 雁股 |
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時代 | 室町後期 |
備考 | 無銘作。 |
いずれも鏃に透かし彫りが施されています。あまり実用的とは思えない、典型的な平根と言うことができ、どれも全体的な形態は似ている物ばかりです。
この形態のを指して平根と呼んでいる(ここでの分類法とは異なります)資料も存在し、透かしが施された鏃の場合、その形よりも透かしに着目し、「透かし鏃」(すかしやじり)と呼ばれます。
桜の花の透かしが最も一般的であるようですが、文字や神仏の象徴物などを題材とすることもありました。
鏃 | 矢(矢羽根欠)、平根、柳葉、桐紋透かし |
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時代 | 江戸時代 |
備考 | 「三原正氏」銘と、無銘作。 |
鏃 | 平根(猪の目、三重塔、弓鬼の透かし有り) |
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時代 | 江戸時代 |
備考 | 猪の目に「則継」銘と、無銘作。 三重塔と弓鬼の透かしが珍しく貴重であり、保存状態も良い。 |
鏃 | 平根(猪の目、丸に剣花菱、桔梗、梅鉢の透かし有り) |
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時代 | 江戸時代 |
備考 | 猪の目に「兼氏」、「石道」銘と、無銘作。 |
鏃 | 平根(猪の目に桜、宝珠に桜、桜の透かし有り) |
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時代 | 江戸時代 |
備考 | 「越前吉久」、「黒田」、「助国」、「兼氏」、「言門」銘と、無銘作。 |
鏃 | 平根(桜の透かし有り) |
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時代 | 室町時代~江戸時代 |
備考 | 無銘作。 |
今回は最低限の区分として、実用的な尖根と特殊な目的に用いる平根とに大きく分け、加えてその形態に着目して記してきましたが、分類の方法は必ずしも統一的なものではなく、異なる区分方法の仕方も可能です。
また、このように多様な鏃の注文に応じる鍛冶職についてですが、時代が進むにつれ、日本刀を鍛える刀匠と鏃を鍛える鏃鍛冶(矢の根鍛冶とも)の分業が進んだと考えても良いでしょう。そして平和な江戸時代になって、特別な注文に応じて有名刀匠が特に鍛えた物などを除くと、鏃には在銘の作品が少ないですし、美術的な価値を持つような作品として残されている物は多くありません。
したがって、研究も進んでいない実態があり、現に鏃を前にしたとき、その制作された時代や国について、また、仮に銘が刻まれており、同銘の刀匠がいたとしても、それと同人なのかどうか等について、明らかにできないことが多いのです。
大事に代々伝えられる太刀等とは異なり、矢に挿げて飛ばしてしまう消耗品としての鏃の性質から、現時点においては、これもやむを得ないことかと思います。今後の研究が待たれます。