天一スキャンダル

天一が贔屓の人のあいだでは、むかしから、「あんな支店なら閉めてしまえばいいのに」と言われていたとは言え、到頭、その辺のファーストフードチェーンでも起きないような、みっともない間違いを冒して、そのうえに嘘をついて居直りまでしたようで、名店の暖簾で商売するチェーンというのは、ちゃんと管理していかないと、肝腎要の本店の名前に傷がついて、二度と立ち直れないことになりかねない。

もっとも日本語ネットで観ていても「天一」と聴いて、天ぷら天一ではなくて、天下一品ラーメンのほうだと思い込んでいる、そそっかしい人もおおくて、もともと天一が、それで有名になっていった、頼みの外国人客も、最近は、日本についてのガイドブックが、充実して、

あんまり特別な名前でもなくなっているので、「いずれは起きる」事態が、客の立場に立って考える習慣がない店員たちのせいで、早く起きてしまった、というだけのことなのかも知れません。

「スヰートポーヅ」が閉店してしまったでしょう?

「キッチン南海」は、おやじさんの強運で、いちばん弟子が、元の店のすぐそばに新しい、味を厳格に守った後継店を出したと聴いている。

生まれて始めて日本式の「スイートポテト」を食べた「柏水堂」は、たしか、まだわしが日本にいた十数年前に閉じてしまった。

どういうことで、そうなったのか、子供のころ、共立女子大学の学生だった、なんだか美人の狐のような顔をしたおねーさんに、「ガメちゃん、日本にも、おいしいチーズケーキがあるんだから。

食べさせてあげるよ」と連れていってもらって、ベイクドチーズケーキがたいそう不味くて、閉口したりしていた。

閉店した店でなくても、いくら下品を以て鳴るこの人といえど、まさか店の人に噛みついたりはしないが、木造建物のころから「共栄堂」を贔屓にしていた義理叔父が、「面白い食べ物を食べさせて進ぜる」と述べて、一緒に出かけていったのはいいが、顔なじみだったという店主のじーちゃんはもう亡くなっていて、

息子さんだかが継いで繁盛しているのはいいが、義理叔父に言わせると、

「薄い。味がないじゃないか。なんだ、これは」と怒りだして、

「ガメ、こんなもの人間の食い物じゃない。口直しに違うところに行こう」と珍しく強硬なことを述べて、高山書店の二階に裏口が入る、「ボンディ」というカレー屋さんに鞍替えしたりしたのをおぼえている。

通いなれた店が変わったり、なくなったりするのは、たしかに寂しいが、仕方がないことでもあるのでしょう。

日本などは比較的店も、やっている人も変わらないほうで、

英語圏の街は、どんどん店が変わって、どんどんカネモウケ主義の下品店になってゆく。

実家の近くのポーランド料理の定食屋や、リージェントストリートの裏小路にある「連合王国最古」のインド料理屋のような店を、ふらりと訪ねてみて、まだ変わらずにそこにあると、

アホらしいことに、涙が出てきてしまったりするのは、それだけ、最近は変化が激しいからに違いない。

店というものは難しいもので、あんまり凝られると、こっちの肩も凝ることになる。

客との距離は大事で、あまりに親しくなって距離を詰められると、疎ましくなってか、足が遠のくし、これは東京に実在するレストランだが、三週つづけてやってきているのに、顔をおぼえてもいなくて、毎回おなじく「どちらの国の方ですか?」から始まって、なぜか店の由来、

小さい声で言うと、「あなた、ほんとうは行ったことがないんじゃないの?」と言いたくなる

イタリアの町まちの解説、まるで機械の案内プログラムのスイッチが入ったようなもので、その店の売り物なのか、「イタリアでは通が飲む」ピーチワインを「おすすめ」に来るところまで、毎度おなじで、初めから断っているのに、三度目になっても、なお試飲させようとする。

接客のサービスは「さりげない」ことを本義とするので、気が付かない人は気が付かないが、

あれで、パリやロンドンの店は、たいへんな労力を払っていて、前にも書いたが、テレビで日本の居酒屋や鮨屋の文化を見て驚嘆して、パリから銀座の鮨屋に電話をかけて許可をもらって、飛行機でテープメジャーを持って、カウンターの幅を測りにくる、なんてのは、普通のことです。

店の人が目利きであることも大事で、ここも、いまはもう閉店してしまったが、サンフランシスコの「グランド・カフェ」などは、良い例で、そんなに見窄らしい恰好ではなかったが、自分でも、服装に煩いアメリカのこと、ちょっとカジュアルすぎて、拙いか、とおもうくらいの、ジーンズとTシャツで出かけることになったが、一緒に入店すれば、絶対の最優遇が保証されるモニさんが一緒でもなかったのに、給仕頭が、こちらをチラとみただけで、あの店では有名なレストランの奥に対で存在する「王侯席」に迷いもせずに案内してくれて、なにしろ単純なので、いっぱつでグランドカフェのファンになってしまった。

純粋に乗ってきたクルマと身なりだけで店内での客としての待遇が決定するオークランドのような成金が横行する田舎町とは、えらい違いです。

東京は、その点では、いい店が多かったなあ、と天一スキャンダルを読みながら考えました。

人間をちゃんと観察している。

東京では、なにしろガイジンなので、それ以上でもそれ以下でもなくて、ひたすらガイジンとして遇されることがおおかったが、バルセロナのように「外国人」に対して隠せない敵意が伴う街や、イスタンブルのように、イギリス人とみると、はっきり敵意を見せる街とは異なって、

日本語世界でのガイジンは、文字通り「外の人」で、どこの国でも実は「外の人」として、ほうっておいてもらいたいわしとしては、居心地がいいなんてものではなかった。

「ガイジン」で括られるのも、そんなに嫌ではなくて、軽井沢の離山房という、近くに滅法旨いカツサンドを出す店があるコーヒー店があって、いつか水上勉の随筆を読んでいたら、どうやら常連だったことが覗われて、あの広い緑に囲まれたテラスを思い浮かべて、水上勉という人に合っているような気がして、なるほどなあ、とおもったりしたが、この店は、もうひとりの常連でも名が知られていて、ジョン・レノンが、まだ小さかったショーンちゃんを自転車の前に乗せて、よくやってきていたそうでした。

「初めに来たときは、きったないガイジンで」と、おばさんがもうし訳なさそうに笑っている。

ビーチサンダルって、言うんですか?

小汚いゴム草履を履いているので、「そんな汚い草履の方はお断りします」

と述べたら、すまなさそうな顔になって、

暫くしたら、高級靴に履き替えて、意気揚々とあらわれた、そうでした。

素直な、いい若い人で、というが、そのころはもうジョン・レノンはもう40代だったのではないか、おばさんは、今度はすっかり気に入って、言葉は通じなくても、心は通じるということがあるのか、それからジョン・レノン氏は、毎日、コーヒーを飲みにあらわれて、やがて、ショーンと一緒に訪問するようになったそうでした。

多少の商売っ気もあるのか、そう、涙をうっすらためて思い出話に耽るおばちゃんの後ろからは、「イエスタデイ」がかかっていて、どこかで、有名バンドのメンバーだと気が付いたのでしょう。

ついでに余計なことを書くと、ジョン・レノンは、この翌年、住んでいたダコタアパートの前で銃で撃たれて死にます。

むかし、交叉点で、ぼんやり立っていたら、なにをおもったのか、アパートの守衛さんが、

「きみ、きみが立っている、正にそこで、ジョン・レノンが撃たれて死んだんだよ」と教えてくれたことがあった。

東京は、わし見解では、世界のなかでも格段に良い店が多い街で、おおげさでもなんでもなくて、日本の国家財産で、ヘンテコリンな世界遺産指定をもらうためにプロジェクトを「起ち上げ」て、東西奔走するよりも、世界でもっともユニークな形態の世界資産として、

「飲食店」を指定してもらえばどうか、とマジメにおもう。

多分、こっちの偏見にすぎないが、東京のフランス料理屋やイタリア料理屋は、ラスベガスのエッフェル塔みたいというか、見た目は西洋だが、魂はどこにあるんだ、という気がしなくもないが、

実際に厨房から伝わる雰囲気までローマぽかった九段のイタリア料理屋は、イタリア人の女主人の怒声が客席に聞こえてくるという、石原慎太郎が贔屓だった鎌倉某鮨店なみの、客にとっては苛酷な環境で、結局日本人シェフたちが叛乱を起こして潰れてしまって、

本場っぽければいいというものでもないようです。

断然カッコイイのは日本料理の店で、蒲焼き、いわし屋、蕎麦屋、とんかつ屋、

どこも雰囲気も接客も超一流で、席について待っているときからワクワクする。

神田の連雀町の「藪蕎麦」のように、入店するなり、声調がついた「いらっしゃいまーせー」の合唱で迎えられたりするとコケるが、第一、あのヒロヒロと簀にへばりついた、すだれハゲみたいな少量の蕎麦はなんだ、という気がするが、おなじ老舗でも、赤坂や室町の「砂場」や、麻布の二軒の蕎麦屋などは、こ、これでヌードルショップなんだからね、とオバカなガイジンを唸らせるだけの文化の蓄積と迫力を持っている。

わしなどは、なにしろコンジョワルなので、フランス料理屋と、「ざっかけない」という対応そのままの、しかし「高級」割烹とを頭のなかで比較して、やっぱ和魂洋才とかって、無理x2くらい無理だったな、と偏見を磨くのに余念がなかった。

たかが食べ物と侮るなかれ。

前にも書いたが、大窓の障子を開けて、舞い落ちる一片一片がおおぶりな雪をみながら、

八勺徳利に入った燗酒を傾けて、湯に浸かった蕎麦がきと卵焼きや、なんとなく気恥ずかしいので他に客がいるときは注文できたためしはないし、店の人に聞き返されたりすると、

「あっ、いいです。やめます」といいかねない「ヌキ」で、お作法どおり受け口で唇を尖らせて飲んでいると、日本くん日本くん、きみはなんで西欧のマネなんかしようとしたの?

なんだか毛だらけの西洋人を真似て、似合いもしない大礼服を着て、

戦争が強くなろうとして、なんにもいいことはなかった。

ほら、近代化ひとつ取ったって、いちばん判りやすかった「近代」は軍隊で、ほんとうは西欧には色々な「西洋」があったのに、学校も会社も、なにもかも軍隊がお手本みたいになってしまって、軍隊ならば人間の生命が軽いのは道理で、個人が使い捨ての民主社会という、ヘンテコリンなものをつくってしまった。

日本は本来は、伝統的には、名前がうまく与えられず、形が未分明なままなだけで、乱暴をいえば、西洋の民主社会よりも民主的な、では矢張り語弊があるが、民主的「みたいなもの」をうまくつくりだしていたのではないかしら。

最近は「平和憲法はお花畑だ。軍備なき繁栄なんて空想にしかすぎない」というけれど、外から見ているわしは、日本という国が260年もの長い間、戦争がなかった国なのを、よく「憶えて」います。

しかも、その直前の15世紀には、世界最大の軍隊を持っていて、銃砲の数も世界一で、抗争に抗争を繰り返し、宗教内乱や、領土争いが絶え間なく続く欧州とまるで変わらない戦乱世界で、

ところが、西洋人にとっては不思議としかいいようがない方法で、

「天下統一」「戦さ無き世」が、すべのひとびとの意思となって、最も穏健な将軍だった徳川に政権を預けることになってゆく。

これほどの世界に稀な奇跡を起こしながら、クーデターをきっかけに、西欧のサルマネ社会に陥って、富国強兵とは言い条、ほんとは「強兵」だけの、いまでいえば北朝鮮型の社会をつくっていく。

その仕組みは、カレーライスを見ればわかるでしょう?

軍事に有り金を注ぎ込んだ明治・大正・昭和の各政府は、民政などは「我慢せい」ですませてしまったので、日本人は貧困に叩き込まれて、娘を売春婦に売り、男は兵隊にして、国ごと軍隊のような国家をつくりあげて、なにしろ国の投資先が軍隊だけだったので、その軍隊が元手になる

「侵略立国」という、とんでもない国家方針を打ち出す。

当時の東北の若い人は、軍隊で初めて白米を食べたという人が多かったようです。

おっかなびっくり食べた、薄いスープのようなカレーソースをかけた「銀シャリ」を感激の涙を流しながら食べた。

軍隊の外には「生活」が存在しておらず、軍隊内だけに個人の「生活」が存在する、この倒錯は、いまでも、最近まで「企業戦士」と言われた会社員と企業の関係にすっかり当てはまるようでした。

やがて、昭和30年代になると、「社会が豊かになる」という日本では前例がない未曾有の事態が起きてくる。

「強大な軍隊による他国の侵略」という、悪いけど、はっきり言ってバカっぽいビジネスモデルにしか自信を持たなかった国が、アメリカという巨大な軍事力に屈して、国ごと基地化されて、戦争というバカのひとつおぼえだったカネモウケ以外の方法で、意外や、自分たちにもオカネが稼げることに目覚めていきます。

ラーメンって、あるでしょう?

あれは昭和20年代の発明で、胡散臭い、ばっちそうな食べ物で、「なにが入ってるか判ったもんじゃない」と言われていたのが、若い人たちが面白がって食べ始めて、

昭和30年代になると、ポツポツと「ラーメン店」が出来はじめたもののようで、

渋谷の西原で育った義理叔父が初めて近所に出来たラーメン屋で、こっそり食べてみて、あまりに不味いので、仰け反ったりしていたのは昭和40年代のことだったそうでした。

どんな味だったのだろう?とおもって、当時から変わらぬレシピが売り物だと聞いて

日本橋「たいめいけん」に出かけて、「当時そのまま」のカレーライスとラーメンを食べてみたことがあるが、なるほど、味が薄くて、なんだか日本語人に時々いる曖昧な人そのままで、

レストランの人には悪いが、おいしいというようなものではなかった。

そのころは、当時の本や雑誌を読むと「外食」は出前よりも特殊で、一般の日本の人にとっては

一家でデパートの「大衆食堂」に出かけるくらいが最も普通な外食の形態のようでした。

いまのような、誇張でもなんでもなくて、世界に名だたる日本の外食文化は、日本の経済の繁栄の歴史と歩調をあわせて、意外なくらい最近のもので、歴史が浅い。

享保年間以来創業300年と言っても、豊かな食事を提供できたのは、せいぜい江戸時代の数十年で、(といっても、それはそれだけで、すごいことだが)、明治や大正は、「店が開いていた」だけ、という例も多いようです。

ほかのことごととおなじで、日本の「外食文化」の最大の特徴は、階級的な偏在などは見られなくて、「ちょっと贅沢」で高級店に行けてしまうことで、金銭的余裕よりもなによりも、まず第一に気分の問題として、いくら労働党の巣窟だといっても、その辺の人が、おいそれと

「ジンジャークラブ」に行けるものではないので、そういう機微は欧州人であるか、あるいは何十年か欧州に住まないと判りにくいが、あの世界では、常に、「店が客を選んでいる」ので、誰も店のエントランスで止めたりはしないが、よっぽど鈍感な人でも、自分が異物となった店内の冷たい雰囲気には気付いて、いたたまれないだろうとおもいます。

いま書いていて、おもったが、バルセロナのようなスペイン語の街には、意外なくらい、この「暗黙のコード」がなくて、アメリカの人などが欧州のなかでイギリスやフランスの店を避けて、バルセロナに着くとリラックスした気持ちになるのは、そういう理由がきっとあるのでしょう。

東京は、James Baldwinが感動的としかいいようがない文章で書いているとおり、むかしから、

「外国人が、人種によらず、外国人でしかない街」で、それが(往々にして著名な)外国人を惹きつけるおおきな理由のひとつでした。

少なくとも、外国人にとっては、平等どころではない、誰もがおなじ位相にいる街で、そこに外食文化が、「花開いた」のだから、それで、街として人気が出ないわけはない。

この記事を書いているガイジンにしてからが、天一銀座三越店の不祥事の記事を読んで、初めの感想が、「天一本店に行きてー」で、

悶絶しそうになりながら、岡半も行きたい、ハゲ天でもいいぞ、くらいで、

まるで半日、禁断症状が出た麻薬中毒者のような有様だった。

どうしようかなあー。

プライオリティの問題として、もう日本滞在は十分だから、他に行く所がたくさんあるでしょう。

あっち方面なら、だって、きみ、韓国なんて一度も行ったことがないじゃない。

台北だって、最後に行ったのは1999年だったのではないか(^^;)

でも、東京は魔力があるんだよね。

行かないと決めたのに行きたい。

つらいよお。



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