四重人格後藤ひとり ぼっち・ざ・くあどろふぇにあ! (怠鳥)
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序章「ざ・ろっく」 
序章-1


 ギターをかき鳴らして歌う廣井さんに、私はどんな視線を向けていたんだろう。

 咎めるような目だったのかもしれない。

 羨ましそうにしていたのかもしれない。

 そんな私の目をどう思っていたかは聞けなかったけれど、廣井さんは、

「聞いてくれてありがとう、ひとりちゃん」

 と言ってくれた。

 結局、廣井さんも現実に勝てなかった。

 分かってる。

 世の中で普通の人が一番多い理由。

 普通じゃない人は早く死ぬ。

 そうだ。生きていくのなら、普通が一番いいんだ。

 私はどうすればいい?

 

 お酒を飲んだ。

 昔の廣井さんよりたくさん飲んだ。

 

 ●

 

 ある日の夜、廣井さんに飲みに誘われた。それも私だけに声が掛かっていて、なぜなんだろう、って少し不思議に思っていた。

 それで店の前で待ち合わせて、一緒にお店に入って、飲み物を注文して……そこでようやく“変”だと確信してしまった。

 私がビールを頼んだのに、廣井さんは麦茶だった。

 

「あっ、あの廣井、さん……今日お酒飲まないんですか……?」

「うん。ていうか、もう一生」

「えっ……」

 

 手慰みに割り箸を撫でていた手が止まって、震えた。

 廣井さんはそんな私を見て、申し訳無さそうな笑顔で、でも俯いて。

 

「肝臓、ダメにしちゃったんだよ」

 

 早晩そうなるんじゃないか、と思い続けてもう10年が経っていた。

 それでも生きていたんだから、この人は大丈夫な人なんだろう、なんて思い込んでいた。

 そうであってほしかった。だから慌てすぎて思わず、

 

「えああ、あのあ、よ、余命は……」

「気が早いって。まあギリギリだったとかで、無理しなきゃそれなり生きられるみたい」

「あ、あの、すみません……」

「あとアル中も治療で……知ってる?アルコール依存症って一生治らないんだって。ひとりちゃんも気をつけた方がいいよ~」

「き、気をつけますけど、今日わ、私だけお酒飲んですみません……」

「気にしないで、ほらかんぱーい。麦茶で失礼~」

 

 私の持つジョッキと廣井さんの持つグラスのぶつかり合う音。

 ……非対称に響くガラスの音。

 廣井さんがグビグビと麦茶を呷ってぷはーと息を吐くと、宙を眺めながら、

 

「これからしばらくはシラフでステージに立つんだなぁ」

「し、しばらく……ってまたお酒飲むんですか……?」

 

 廣井さんは私に気がついたみたいに目を瞬かせて、そして笑って言った。

 

「違う違う、バンドやめるの」

「……え?」

「お酒なしじゃSICK HACKの廣井きくりじゃないな、って思って。メンバーにも相談したんだけど、それなら解散しようか、ってなったんだ」

 

 頭の中が疑問符で埋まる。色とりどりのカオス。

 悲しみの青。安堵の緑。真っ白な現実逃避。失望の灰色。裏切られた黒。

 それに染み込む、続く言葉。

 

「結構悩んだんだ」

 

 自分がどんな顔をしているかわからない。

 廣井さんは麦茶を見ているから多分わかっていない。

 

「でも生きてれば、またライブはできる」

 

 言葉が続く。

 

「やれるって保証はないよ。でもそんな希望がどこかに残る。夢物語が」

 

 私は黙っている。

 顎がこわばって、口が動かない。

 

「そんな望みを持たせるのも罪作りな気はしたんだけど、2人ともそれがいいって」

「……」

「それに、一人ならアコギを弾いて歌えばいいやって。椅子か地面に座って……ロッカーというか、シンガーソングライターだね。…お茶失礼」

「まぁ、それでいいかって、思ったんだよね。ごめん、話しすぎたかな」

「い、いえ……全然……私のほうが話せないだけですから……」

「ひとりちゃんは変わらないなあ」

 

 私は元々泣き上戸だったから、涙はお酒のせいにできた。けれど、その日は泣くためにお酒を飲んだ。お酒のせいなんかじゃなかったけれど、そういうことにしないと、やりきれなかったから。

 

 笑い上戸な廣井さんとは大違いで、別に廣井さんになりたいとは思ってもいなかったけれども、ただ、廣井さんのようにはなれないんだ、とがっかりする自分がいた。

 

 廣井さんが路上で、アコギを弾いて歌うようになって。

 それを見てもやっぱり、私はこういう風にはなれないと思った。

 お酒を飲んだ。

 廣井さんの分まで飲んだ。

 毎日、毎夜、飲んだ。

 

 §

 

 そのうち、飲まずにいるのがつらくなった。

 ライブ前には酒を抜かなくちゃいけなかった。

 お酒は孤独を麻痺させてくれる。

 けれどアルコールが抜けていく、抜けている間は孤独が寒さになって体を震えさせた。

 

 バンドの音合わせが終わって解散して、家に帰った。

 

 すると、喜多ちゃんが後ろにいた。家に押し入られた。

 

 見られた。

 空き缶の山、山、山。

 

 片付けながら、喜多ちゃんは泣いていて、私はどうすればいいか分からず泣きながら立ち尽くしていた。

 手の震えは止まらなくなっていた。

 

 空き缶をごみ袋に詰め終わると、喜多ちゃんは私に詰め寄って、けれど怒鳴りつけることなく、多分そうしたかったのに、優しい声で、

 

「お酒、もうやめましょう……?」

 

 そう言われて初めて、廣井さんが心配していた依存症になっていたことに気がついた。

 喜多ちゃんは私の手を握って、

 

「このままじゃ、死んじゃう……」

「あっ……うん」

 

 それはないだろう、という返しをしてしまった。

 でも、しくじったという気持ちさえもぼやけ続けている意識の中に溶けていく。

 私の手の平は黄ばんでいて気持ち悪かっただろうな、と考えていた。

 

 §

 

 お酒をやめるために、病院に行くことになった。喜多ちゃんに手を引かれて。

 問診を受けて、血を採られて、お腹に油みたいなものを塗られて超音波検査。

 わかったのは、私はすっかり依存症で、肝臓もあっという間にやられていたということ。

 余命とかは伝えられなかった。

 

 すぐに入院が決まって、同時に事務所からも活動休止がアナウンスされた。あっという間だった。ただ、アルコール依存症の治療のため、だとか詳細は載っていなかった。あまりにスムーズすぎたから、多分みんなからの事務所への根回しが済んでいたんだろう。

 そういえば、私はわかりやすい女だった。

 

 私がおかしくなったことに気付いていたのは、喜多ちゃんだけじゃなかった。ただ、代表として私の家までついてきたのが喜多ちゃんだった、それだけで。

 点滴の雫を眺めながら、味気ない病院食を食べながら、カウンセラーの先生の話を聞きながら、私は何も言わずに泣き続けていた。

 

 私のカウンセリングは、難航した。というのも、私はいつまで経っても人見知りの陰キャの口下手で、酒に溺れた理由を説明することが出来なかった。一言で済めばよかったのに、私には、私が酒に沈んだ理由がわからなかった。ただ駆り立てられるように飲んだ。廣井さんがきっかけではあったけれど。

 

 歳をとって、ちやほやされるだけじゃ生きていけないし、ちやほやされるためには必死にならなくちゃいけないことは分かっていた。でも、もう飽きた、なんて言ってやめるつもりもなかった。そのはずなのに私はなんでお酒を飲んでいたんだろう。よくわからなかった。

 

 カウンセラーの先生に、廣井さんのことを話した。そして、廣井さんが普通に生きているのが間違っていると思っていたり、羨ましく感じていたりすることも。

 

 先生は、「もしかしたら」を頭において、

 

「死んでしまいたい、と思ったことは?」

「あっはい」

 

 私はなぜかすんなりとそれを認めた。

 

 そこから私はなにかを言ったけれど、自分でも思い出せない。

 具合が悪かったのか、悪夢の方の夢見心地だったのか、それともキレていたのかも分からないけれど、気がついたら先生に手を握られていた。

 相変わらず私の手のひらは黄ばんでいた。カウンセリング室の机が濡れていた。

 私の涙だった。

 

 お医者さんから、双極性障害─────いわゆる躁うつ病の診断が出た。

 色々説明を受けた。

 それで、なんとなく自分の行動に説明がついたとき、

 

「あはははははぅええへっへへへへへええぇへへへへ」

 

 笑ってしまった。面白かった。占いみたいで。

 

 そして、私の中の承認欲求モンスターが久しぶりに顔を出した。

 

「これを克服したら、かっこいいですかね……?」

「え、えぇ。もちろんそう思います」

 

 お医者さんもそうだと言っていた。

 

 §

 

 ようやく私の治療はスタートラインに到達した。

 それからはカウンセリングを受けたり、私の昔話をしていたら知能検査とかを受けることになって、更に別の病気の診断が出た。

 でも逆にテンションが上がった。乗り越える壁が高くなった。つまりなんだってよかった。

 越えたときの私たぶんかっこいい。

 

 肝臓の数値が落ち着いてきたから退院することになった。

 

 薬で飲酒欲求とメンタルの波を抑えつつ、通院で治療していくことになった。

 体の具合は良くなり始めていた。本当にゆっくりすぎるペースで。

 けれど、黄ばんだ手のひらは元には戻らなかった。

 

 退院する日は、みんなと家族が迎えてくれて、やたらと映えそうな薬膳のお店でお祝いになった。

 

 喜多ちゃんも、リョウさんも、虹夏ちゃんも笑ってくれた。

 心配掛けてごめんなさい、って頭を下げて謝ったけれど、みんな”これからもがんばろう”って言ってくれた。

 それは結束バンドのことでもあるし、私の治療のことでもあった。

 なんてことないことみたいに、私の生活についてのサポートを話し合っていて呆気にとられてしまった。

 

 その日の夕方。

 久しぶりに家に、一人暮らしをしているから正確にはマンションの部屋に戻ってきた。

 

 まず、お酒をまとめた。あんまり飲んでこなかったウイスキーとかウオッカとか強いお酒の瓶。私が大量に飲んできたのはストロング系の酎ハイだったから、あまり手が伸びていなかった。ちなみに酎ハイは残ってなかった。

 

 誰かにあげようかと思ったけれど、開封済みだった。だから捨てることにした。

 

 シンクにとくとくと酒が滴る。

 鼻を突くアルコールの臭い。動悸がする。目に染みていないのに涙が出る。

 犬みたいな呼吸。

 

「ぁ、う……ぁ」

 

 全て捨て終わると、虚脱感と達成感がやってきた。そのままシンクの前で座り込んで、空の酒瓶に囲まれる。

 私は自分の意志で、お酒とお別れができた。やったんだ。

 そう思ったのに体は重すぎて、這ってたどり着いた布団の中でがたがた震えて眠った。

 

 §

 

 普段の買い物はほとんど通販にした。

 食料や生活用品を色々買った。

 外に買い物に行くとお酒が目に入ってやられてしまいそうだったし、あと純粋に体調が悪かったから。

 毎日薬を飲んでいても、部屋の中を歩くのが精一杯の日もある。

 それでも歩き回ろうとした。部屋の中だけは。

 それとカーテンはちゃんと開けていた。

 

 ギターの練習も再開した。しばらく触っていなかったから、指がうまく動かない。

 その日は体の調子が良かったから、楽器屋に弦を買いに行った。

 こんなに元気な日は久しぶりだったから、ただ弦を買うだけなのに御茶ノ水まで電車に乗っていった。

 

 楽器屋に着いて弦選びで悩んでいると、古馴染みのお姉さんから、「大丈夫ですか?」と耳打ちされた。

 私はできるだけ胸を張って、けどやっぱり猫背で「は、早く戻れるよう頑張ります」と言った。

 

「ひとりちゃん……?」

 

 廣井さんが、いた。

 一番会いたくなかった。顔向けできなかった。なんて言えばいいのか分からなかった。

 この言葉以外は。

 

「ごめんなさい」

 

 嘘みたいに流暢に口から出た、これ以外。

 

「わ、私も……体、壊し、ちゃいました……」

 

 目一杯頭を下げて、申し訳無さで泣いた。

 詳細は公開していなかったし、私も細かいことは言わなかったけれど、廣井さんは全てを察したみたいで、

 

「顔、上げて」

「あっはい……」

 

 泣きそうな顔で笑って、頭を下げながら私の手を包んで、

 

「ごめんねぇ……悪い先輩でごめんねぇ……」

「私のほうが……ごめんなさい……こんな悪い後輩で……」

「こないだまで入院してて……ギターの練習、再開したところなんです……ゆ、指、結構なまっちゃいました」

「そっか……」

 

 音楽の話だったけど、そんな世間話が出来るくらいには、私も成長していた。

 

「ゲージ、しばらく下げたほうがいいかも。無理しないで」

「え、えっ……」

「力がうまく入らないんじゃないかなって思ったんだよね。それで無理して辛くなっちゃあ意味ないじゃん」

「そ、そうかも……」

「あんまりがんばりすぎない方がいいよ。私だって、SICK HACKの終わり頃は細い弦でやってたし、今もギターは超細いので鳴らしてるから」

「は、はい……」

「入院してたんだよね。それじゃ、安っぽくて申し訳ないけど……弦おごるよ。何セット買う?」

「あ、えぇ、うぁ」

「しばらく力加減分かんないだろうし、3セットと……1弦と2弦をバラで3組くらい行っとこうか」

「えぇ、えええ……」

「それと、お茶しに行こうよ。こんなところじゃなんだしね」

 

 退院祝いとして、今までより細い弦を買ってもらってしまった。それに加えてお茶まで。飲みに誘われることはあっても、お茶しようなんてのは初めてだった。それも廣井さんから。どうにもシュールすぎて、笑いながら私は泣いた。

 突然泣き出した私を廣井さんはすごく心配していた。でも、

 

「こ、これも、病気……なんです」

 

 と、それだけ説明すれば全部分かってくれてしまった。

 その上に、

 

「お茶しようって言っちゃったけど、無理してない?大丈夫?」

 

 更に気を使わせてしまった。それには、

 

「お話、したいです」

 

 と返した。

 雰囲気のいいカフェ、しかも半個室の席があるところに連れて行ってもらった。

 そして飲み物を注文して待っている間、沈黙が流れた。

 私は、自分がこのざまになってしまったことの他にも謝ることがあると思って、また頭を下げて、

 

「私、廣井さんに、なんて謝ればいいのか、わからないことが他にも……」

「ど、どしたのいきなり」

「じ、自己満足、なんだって分かってるんです……でも、そのことを話さなきゃ、いや、話したくて」

「わ、分かった分かった。別になにかされた覚えないんだけどな~」

 

 私自身、整理がついていなかった。しかも、私が今こうなっている理由を廣井さんに押し付けるような……。

 だから、今言ったことを取り消したいとも思った。でももう取り消せなかった。“やっぱりなんでもないです”じゃ済まされない。なんでこれを飲み込んでいられなかったんだろう。それを後悔しながら、

 

「私、廣井さんを……妬んだんです」

「へ?そりゃまぁ……なんで?」

「SICK HACKを終わらせて、お酒もやめて、普通に生きている廣井さんが、ね、妬ましかったんです」

 

 言ってしまった。

 

「昔、言ってましたよね……つまらない人生を送るのかってことに絶望してたって……なのに、今の廣井さんは、それを受け入れることができてて」

 

 頬が痒い。

 

「わ、私には……できないって」

「……それは、どうして?」

「人並みにできることが、ギター以外にもあれば、私にも普通の人生があったのにって」

 

 カウンセラーの先生に言った言葉は、多分これだった。

 

「真っ当に生きるためのほとんどのものがないのに」

 

 悔しさで眼の前がまぶしい。

 

「どうしたら私は普通に生きられるんですか」

 

 顎が痒い。

 はっとなって、

 

「あ」

 

 また泣いていた。目から頬、顎を伝って、テーブルに雫が落ちた。

 今度は何を言ったか覚えていた。

 呪いの言葉だった。

 

「ご、ごめんなさい……」

 

 廣井さんだって、辛いはずなのに、こんな当たり散らすみたいな恨み言を言ってしまった。

 

「ごめんなさい、私がおかしいんです、バンドもうまく行ってて、ちやほやされてて、何も不満なんてないんです、おかしくなってただけなんです」

 

 謝って、まくし立てて、誤魔化してしまいたかった。

 

「でも、つらいんだね」

「……た、たぶん病気のせい、です」

「そうだね」

 

 言葉が途切れる。気まずい。

 廣井さんの言葉を待つ。

 

 話が始まる前に、飲み物が来てしまった。

 私はコーラで、廣井さんはミルクティーだった。

 廣井さんがカップを持ち上げて、

 

「ほら、退院祝いで」

「へ……?」

「乾杯」

 

 私も慌ててグラスを持ち上げて、軽くカップに触れさせた。

 互いに一口分口を潤した。

 

「ひとりちゃんはさ、日常が好きなんだね」

「あっ、え」

「届かないからって、つば吐きかけちゃうくらいに……」

 

 なぜか、10年前の風景が蘇る。新宿FOLTの楽屋。

 私も廣井さんも陰キャだという話をしたあの日。

 

「そっか……私とは本当は真逆だったのか……」

 

 廣井さんは俯きながら、苦笑した。

 

「ひとりちゃんと私は、根っこの根っこが全然違ったんだね……」

「あっ、えっ、その、どういう」

「今、ひとりちゃんはその答えを言ったんだよ」

 

 普通に生きられない私、普通に生きる廣井さん。

 ああ。

 ああ……。

 

「ひとりちゃんのこと、結構分かってるつもりだったけど、思い上がりだったのかなぁ……」

 

 辛そうに、悔やむように頭を抱えながら笑う廣井さんに、何を言えばいいのか、全く思いつかなかった。

 私の言葉は、それだけ決定的で、私達の関係を致命的に壊してしまった。

 理解者の先輩を、失った。

 

「悪い先輩で、どうしようもない先輩で、本当にごめんね……」

 

 私は、酔っぱらいで、優しくて、酔っていなくても優しい先輩を失った。私が突き放してしまった。

 でも、寂しくて。

 

「……また、路上ライブ見に行っていいですか?」

 

「え……うん。もちろん、いつでも見に来てよ。それでさ、だから……死ぬんじゃないぞ」

 廣井さんは、私の手を強く握りしめてそう言った。

 私の手のひらとよく似た色が、左手の手の甲に広がっていた。

 私たちはまだ、切れていない。似て非なるけど、似ていないわけじゃない。

 

「あっ手の色……」

「あぁ、これね……」

「私の手のひらも……」

「治んないらしいね……」

 

 諦めた笑い。

 

「……廣井さんも、長生きしてください」

「今生の別れみたい」

 

 §

 

 本当に、そうなってしまった。

 

 



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序章-2

 それから、私はギターの練習に没頭した。

 勘を取り戻すために。ギターヒーローに戻るために。

 

 私の部屋にはバンドのみんなが代わる代わる様子を見に来てくれた。

 

 喜多ちゃんは軽い合わせ練習に付き合ってくれたし、虹夏ちゃんはご飯を作って一緒に食べてくれたし、リョウさんは新曲の相談に来てくれた。

 

 リハビリ、作詞、それと健康的な生活に邁進して、体の調子も上向いてきた。

 そして、

 

「もう、そろそろ大丈夫そうです」

 

 バンドの皆、事務所にそう宣言して、私は復帰を決めた。

 

 早速ライブがスケジュールされた。

 全国ツアーになるそうだったけれど、結構日にちは空いていたからガタの来た私の体力でもなんとかなりそうだと思った。

 

 でも、その見通しは甘かった。

 移動だけでへばるようになっていた。

 

 前乗りして英気を養う、それでも体力が回復しなかった。

 ライブが終わるたびにダウンして、アンコールは私だけ椅子に座ってやることになってしまった。

 演奏はひどくならないよう頑張ったけれど、バンドマンとして私はもはや死に体だった。

 復帰宣言を早くも後悔していた。

 

 昔習ったこと。酒でドーピング。

 それは絶対にできなかった。やったこともないし、これからやるつもりもなかったけれど。

 ただ、そんなことを思い出すくらいには切羽詰まっていた。

 

 バンドの皆にも相談することにした。

 

 喜多ちゃんからはヨガを教えてもらって、無理なく体力を付けることを勧められた。

 リョウさんは結構素っ気なかったけれど、主治医に相談するのが一番いい、とアドバイスをくれた。実家が病院なだけあって、当たり障りないようでいて的確だった。

 虹夏ちゃんは、家に定期的に通いに来てくれて、作りおきのご飯を作ってくれた。材料の買い出しのとき、買い物袋は私も持った。

 

 それが体力で悩む私への愛のムチだということは痛いほど伝わってきた。

 

 買い物の度に目に入る、お酒のコーナー。

 薬を飲んでいて、飲みたいという気持ちは抑えているし、飲むと酷く悪酔いする刑罰のようなことも起きるらしいのに、もう飲みたくないのに、目線が酒を追う。泣きたくなる。

 

 虹夏ちゃんは帰る前に、いつも料理酒やみりんを持って行ってくれた。

 その度、私はコメツキバッタのように頭を下げて、ありがとう、ありがとうと言っていた。虹夏ちゃんも、何がありがとうなのか分かっていたと思う。寂しそうな笑顔でいつも別れていた。

 

 リョウさんはたまにドライブに連れて行ってくれた。静かな場所。

 

「寝てていいよ」

 

 助手席で、私はいつも寝ていた。

 リョウさんはタバコを吸うようになっていた。私も酒に溺れるよりはマシかな、と思って吸わせてもらおうとした。けれど、

 

「だめだよ、ぼっち」

 

 止められた。

 

「な、なんで、ですか」

「まず普通に体に悪い。本当なら酒のほうがマシ」

 

 いつもの掴みどころのない雰囲気とは違っていた。

 

「それと、これが一番ぼっちに重要だけど、ニコチンやその他諸々の有害物質は肝臓で代謝される」

「えっと……つまり?」

「肝臓壊したぼっちには絶対NG」

「あっはい……ありがとうございます」

「ん」

「副流煙吸わせないためにドライブ中は我慢してる」

「あっごめんなさい……」

「でもぼっち寝てたからそこらじゅうで車停めてタバコ吸ってた」

「あっ、ああ、はい」

「だから気にしなくていい」

「あっはい」

「あと実はさっき駐禁で一枚切符切られた」

「……」

「次はうまくやろう」

 

 なんというか、いつもどおりのリョウさんだった。

 

 喜多ちゃんは、私に気を遣ってか遠くに連れ出すことはしなかった。リョウさんとドライブに行っていることは、多分私の知らないところでバンドのみんなに伝達されているんだろう。

 あまり気張らなくていい、けれど健康志向なレストランで写真を撮ったり。私が生きていることを発信してくれた。

 

 服は、喜多ちゃんが選んでくれた。昔、お母さんが買ってくる服は嫌いで袖を通すことはほぼ無かったけれど、喜多ちゃんの選ぶ服は何故か着れる。お腹を冷やさないようにいつも少し厚着。相変わらず私は笑顔が下手で、ピースサインもぎこちなかった。喜多ちゃんの笑顔は昔から変わらないなぁ、と思った。

 

 §

 

 時間が出来たから、実家に顔を出そうと思った。だから電話をかけて、

 

「あっお母さん?明日帰るから」

『あ、そう?迎えに行くわね』

「えっ、あ、え?」

 

 切れた。

 それで明日部屋を出ると、見慣れない車に乗ったお父さんがいた。

 

「さぁ乗った乗った」

 

 電車で2時間かかるから、車だと当然それ以上かかる。

 正直、助かるのか逆に辛いのか分からないけれど、寝ていれば家に着くというのは気楽だった。

 私は助手席に乗るなり、癖のように一瞬で眠りに落ちた。

 最近出来た、体力温存のための戦術だった。

 

「おーい、ひとり。着いたよ」

 

 声をかけられて起きる。

 久しぶりの我が家。なんだか、何十年も帰ってなかったような気がして涙が出た。

 

「ただいま……」

 

 空は夕暮れ、茜色。東の空はもう暗い。助手席から這い出して、玄関をくぐる。

 リビングからふたりが出てきて、出迎えてくれた。

 横浜にある進学校の制服だった。

 

「おかえり、お姉ちゃん」

「ふたり……」

「久しぶりに帰ってきたし、ギター教えてくれない?」

「いいよ、教えてあげる……」

 

 思わず抱きしめた。

 

「え、な、何?何?いきなり」

 

 戸惑うふたり。けれど、そうした自分も何を考えていたのか分からなかった。

 でも、何か残したかったのかもしれない。

 柄にもない私の行動に、ふたりは突然泣き出した。

 

「お姉ちゃん、こ、こんなに痩せちゃって……」

「うん……」

「死なないよね?生きてるんだよね?」

「うん……」

 

 ふたりは、とても賢い子だったなぁと思い出していた。進学校に通ってるんだものなぁと。

 

 私のための消化のいい食事で夕食を済ませて、それからふたりにギターを教えた。

 ふたりのギターは、ちょっとヒネた型だった。

 少し弾きにくくて、久しぶりに下手っぴ呼ばわりされた。

 それが懐かしくて笑ったら、本気で心配された。色々、自業自得だった。

 

 それから一晩家で過ごすことになったから、久々に自分の部屋で寝る。

 懐かしさを感じる家の布団で寝転がっていると、部屋にふたりが入ってきた。

 

「お話したくて」

 

 深刻なトーンだったから、

 

「いいよ」

 

 そう言って私は布団の隅に寄った。

 ふたりが入ってきて、私を背中から抱きしめた。

 

「あのね」

「なに?」

「私の肝臓、お姉ちゃんに分けてあげる」

 

 血の気が引いた。

 

「ふたり」

「辛いんだよね」

「ふたり」

「そんなの見てる方だって辛いから」

「ふたり……」

「だから、私、お姉ちゃんに肝臓を分けてあげたい」

 

 それで、私は私の罪を思い知らされた。

 私のせいで、ふたりは自分の体を傷つける覚悟を決めてしまった。

 私がふたりの人生を狂わせている。

 

「私のも全部なくなるわけじゃないし、それに、こんなに元気だから。分けてあげてもいいかなって思ったの」

「自分で調べたの?」

「うん。頭いいもん」

「そう……」

 

 私は寝返りを打って、ふたりに向き直る。真剣な目。涙が溢れそうになっているが月明かりの照り返しで見えた。

 右手でふたりの頭を撫でて、

 

「ふたりは優しいね」

「お姉ちゃん」

「でも、だめだよ。ふたりの肝臓はふたりのものだから」

「じゃあ」

「いいんだよ。……悪いお姉ちゃんで、本当にごめんね」

 

 ふたりは、歯を食いしばりながら泣いた。わんわん泣きたかっただろう。

 私にはもったいない程よくできた妹で、そんなふたりには、ずっと元気でいてほしかった。私がその邪魔になることに、耐えられなかった。

 家族をこれ以上傷つける度胸なんか、私にはなかった。

 それに、早晩死ぬと決まったわけじゃなかったんだし、これからは健康に生きると決めていたから。

 

 ふたりが寝静まったのを待って、私は布団からそっと抜け出した。多分、お父さんかお母さんのどちらかは起きているだろうと思って。一階に下りると、二人共そこにいた。

 

「寝なくていいの?辛くない?」

「大丈夫か?それと、ふたりが……」

「ううん。いいから」

 

 椅子に座った。

 

「ふたりにね、"肝臓を分けてあげる"って言われちゃった……」

「ええ」

「やっぱり知ってた?」

「ひとりが肝臓を壊したって知ってから、すぐに"私のを移植すればいい"って言い出したよ」

「そう……」

 

 3人とも、ため息をつく。

 私は、これだけは伝えたかった。

 ふたりの両親に、わたしの両親に。

 

「人の痛みがわかる、いい子に育ったね、ふたりは」

「そうね……」

「私、ふたりを泣かせちゃった……」

「やっぱり、断ったか?」

「うん。ふたりにはふたりの体を大事にしてほしいからって。説得力ゼロだけど……」

「お父さんの肝臓ならどうだ?」

「お母さんだって覚悟は出来てるのよ」

「いいよ……」

 

 申し訳無さに泣きながら、

 

「こ、これからはね、健康に気をつけるから、体……大事にするから、心配しなくて、いいから……」

「わかった、わかった……」

「ええ、だから、ゆっくり休みなさい」

「うん……おやすみ」

 

 部屋に戻ると、ふたりはいなくなっていた。多分、気を遣ってくれたんだろう。

 ありがたいと思う反面、寂しかった。誰かの温もりが少し、いや大分恋しかった。

 ふたりの部屋に行くことも考えたけれど、やめておいた。

 

 次の日、寝起きで苦しんでいる私のために、部屋までふたりがお粥を持ってきてくれた。色々な野菜が入っていて、薄味だけど美味しかった。

 

「おいしい……」

「私が作ったんだよ」

「ふたりは料理も上手いね……」

 

 そして、時計が目に入って、

 

「っ、けほっ、ふたり、今日、学校、遅刻……」

「家族の介護のために遅刻します、って連絡してあるんだよ」

「……はぁ……しっかりしてる……」

 

 本当に、ふたりは賢い子だと思った。

 家を出るとき、またお父さんが送ってくれることになった。仕事は有給を取ってお休みにしたんだとか。

 ふたりは結局私を見送るまで家にいた。もう昼過ぎだったのに。でも、心配ないかと思った。私の妹はとても賢くて、いい子だから。

 

「お姉ちゃん、元気でいてね」

「うん」

「いつでも帰ってきてね」

「うん。また、ギター教えてあげるから」

「約束してくれる?」

「うん、約束」

 

 小指を繋いで、約束をした。

 車が出た後も、道を曲がるまでずっとふたりは手を振っていた。

 

「お父さん」

「なんだい」

「ありがとう」

「どういたしまして」

 

 私は眠気に耐えきれなくて、また眠った。

 

 §

 

 約束は果たせなかった。

 

 §

 



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序章-3

 ツアーファイナル。場所は川崎。

 満員御礼。

 ファイナルだけあって大舞台。

 というか、ハコを埋められるかどうか不安だったけれど、無事埋まった。

 チケットの販売状況を知らされて、皆で胸をなでおろした。

 私は、体調も体力も体重も少しずつ持ち直していた。

 今の私の、万全だった。

 

 §

 

 私含めて皆が住んでる下北近辺からは流石に前乗り不要、となったから、前日は久々にSTARRYのスタジオで合わせ練習をした。体調は良かったから、休憩は挟みつつも全曲仕上げることが出来た。

 

 今夜のSTARRYはライブがなくてバー形態だったから、終わった後のミーティングはそこでやった。

 

 店長さんも、

 

「いいよ。好きなだけ話してれば」

 

 そう言って許してくれた。

 

 馴染みの机で車座に座って、少し黙り込む。

 

「来るところまで来たね、わたしたち」

 

 虹夏ちゃんが切り出し、

 

「うん。あそこでやれるんだ」

 

 リョウさんが答える。

 そこに店長さんも入って、

 

「私がやってたころより遥か遠くまで行っちゃったな。まぁ時間はかかったけど」

 

 しみじみとして、懐かしそうに言う。

 

「でもな……ぼっちちゃんに無理させすぎだろ」

「あっでも私がやれるって言ったので」

「こういうのは本人じゃなくて他人が傍から見て決めるんだよ。あー……」

 

 少し天井を見上げると、

 

「しばらく充電期間あったほうがいいんじゃないか?」

「─────」

 

 皆黙り込んだ。

 

「ぼっちちゃんも、まだ体キツイだろうし、明日の終わったら全員でゆっくりしたほうがいい。まぁ……新曲の準備とかレコーディングとかはやるべきだろうけど、ライブ、特にツアーは休む方向でな」

 

 皆うなずいていた。私だけはいつもどおり俯いていた。でも、みんな瞬く間に答えを出して、

 

「そうしよう」

 

 虹夏ちゃんが言った言葉に誰も異論を挟まなかった。今の私には、どうこう言う資格なんてなかった。

 

「明日のライブで一区切り、がんばろうね」

 

 たったそれだけでミーティングは終わって、解散になった。

 

 §

 

 次の日、ツアーファイナル当日。

 私は布団から起き上がれなくなっていた。

 

「……昨日、がんばりすぎた……?」

 

 精神の薬も禁酒の薬もちゃんと飲んでるし、ご飯だって虹夏ちゃんの作り置きを美味しくいただいてる。

 這いずりながら窓にたどり着いて、カーテンの向こうを覗く。

 今日は雨だった。

「低、気圧……?」

 

 幸い目が覚めた時間自体は早かったから、ロインで皆に連絡して、助けを求めた。

 そうすることを躊躇うのは、もうやめていた。

 

 しばらくすると車の排気音が聞こえて、それが遠ざからない。

 近くに停まったことがわかった。それからドアの開く音、閉まる音。

 階段を登ってくる音に続いてノックが3回。

 

「ひとりちゃん?入るわね」

「ぼっち、大丈夫?」

「ぼっちちゃーん?」

 

 全員来ちゃった。

 

 こういう時のために全員に合鍵を渡してあったんだけど、まさか総出になるとは思ってなかった。

 

「ぼっちちゃん食欲ある?なくても食べてくれなきゃ困るけどね~」

 

 虹夏ちゃんが朝ご飯の用意、

 

「ひとりちゃん、使う化粧品ちゃんとまとめてある?あと、現場入りまでの服もこれでいい?」

 

 喜多ちゃんが身支度を、

 

「ギターとボードは任せろ」

 

 リョウさんが機材の運搬をやってくれた。

 

「あっあの、アンプヘッドも……」

「それは重いからやだ」

「うぅ……」

「冗談だよ。安心してお世話されてて、ぼっち」

「あっすいません……」

「いつまで経っても面白いやつめ」

「うぁむぐむぐ」

 

 リョウさんに頬を摘まれてぐにぐにされた。

 面白がる瞳が、すっと悲しい色になったのを私は見てしまった。

 

「触り心地悪いから太って」

「あっはい……がんばります」

「デブ活はがんばるものじゃない、好き勝手食ってデブってしまうのがデブ活」

「えぇ……」

「それじゃ機材積んでそのままタバコ吸ってくる」

「あっでも路上喫煙は」

「建物の隙間は路上じゃないし携帯灰皿ある」

 

 じゃ、と言って私の機材を器用に全部担いで行ってしまった。

 

「ぼっちちゃん、ご飯できたよー。起きれる?」

「あっがんばります……」

 

 布団から抜け出て、ふらつきながら立ち上がる。まだ膝に力が入らない。

 

「ひとりちゃん、ゆっくり歩きましょ?」

「あっ喜多ちゃん……ごめんなさい」

「無理しないで、あまりがんばらないで」

「んー……今日は最初から座って演奏だね」

「……ごめんなさい」

「それか、公演中止しても仕方ないよ」

「それは、だ、だめです」

 

 今朝一番の大声が出そうになって、喉に詰まった。

 

「それだけは、だめ、です……がんばりますから、それだけは……」

 

 私って、こんなにはっきりものを言えたんだ、と自分自身が不思議だった。

 

「だって、結束バンドがここまで来れたんです。ちゃんとやりきりたいんです、私も、みんなと」

 

 まただ。朝っぱらから泣き出してしまった。

 

「ひとりちゃん……」

 

 喜多ちゃんが背中から抱きしめてきて、

 

「ぼっちちゃん」

 

 虹夏ちゃんが正面から抱きしめてきた。

 

「喜多ちゃん、ぼっちちゃんの抱き心地どう?」

「ちょっと骨っぽくて、悲しいです……ふたりちゃんの言ってた通り、泣きそうなくらい」

「え」

 

 喜多ちゃんとふたり、連絡先交換してたんだ……。

 

「こっちは昔からおっきい胸のおかげでちょっとマシかな……でもやっぱり肩とか二の腕とかほっそくて……」

「ひとりちゃん、一番ひどい時よりは体重増えた?」

「あっはい、入院するまで体重計持ってなかったんですけど、退院してから買って……ちゃんと計ってます……増えてきてはいるんです……」

「ひとりちゃん、筋肉も落ちたままだと思うけど……ヨガは続けてる?」

「あっ作詞に悩んでるときの気晴らしに、いいですよね……」

「……ぼっちちゃん、このライブ終わったらさ、うちにご飯食べに来なよ。毎日来てくれていいから」

「えっ」

「ほら、ぼっちちゃん、放っとくとすぐ偏食になりそうだし、あと賑やかで楽しいじゃん。お姉ちゃんも喜ぶよ」

「わ、私なんかじゃ、賑やかにはできません……」

「いいの!……約束」

「伊地知先輩、それじゃ私も色々作って持っていきますね」

「おう、映える担当がいると心強い」

「なにご飯の話?」

「うわリョウ戻ってきた」

「食わせて」

「リョウは実家でご飯食べなさい」

「いい歳してるんだから一人暮らししろって言われた……」

「あの甘々なご両親から言われるなんて……」

「家賃は出すし車はそのまま家に置いていいって言われた」

「今でも全然甘々ですね……」

「近くの楽器可のマンション空かないかな」

「おい」

「普通の自炊できないから虹夏、ご飯食べさせて」

「あー、もうどうでもいいや、まとめてかかってこい!それとぼっちちゃんお箸持てる?食べさせてあげる?」

「あっ流石にそれは大丈夫です……多分」

「よし、じゃあ召し上がれ!」

 

 虹夏ちゃんの作ってくれるご飯はいつも優しい味がして好きだった。

 私の家に作り置いてくれる品々は、私の好きだったものばかりだった。

 食欲が少しでも出るようにって、考えてくれているのが私でもわかった。

 2人に抱きしめられて、心が少し浮つくほど暖められた。

 人の温もりが幸せで、私は泣きながら朝ご飯を食べた。

 温かくておいしい。ご飯の味がしたのが、何故か久しぶりに思えた。いつもの作り置きも美味しいはずなのに。

 

 ご飯を美味しく頂いてから、歯を磨いて、顔を洗った。

 顔は本番直前まですっぴんでいい代わりに、サングラスで済ませることにしていた。これも喜多ちゃんが選んだもの。

 

 着替えて部屋を出る。喜多ちゃんは私に肩を貸してくれて、部屋の鍵は最後に出た虹夏ちゃんが閉めてくれた。階段をよたよたと降りる。

 機材車はもう行っていたみたいで。

 それに、今回はリョウさんの車じゃなくて事務所手配のバンが来ていた。

 

「よし、ぼっち乗せるよ。虹夏」

「ほいきたリョウ」

「あっ本当にすみません」

 

 まだふらふらしていて、1人で乗るのも少しつらかったから本当にありがたかった。

 

 無事車に乗り込んで、下北を出発。

 

「ぼっちちゃん、寝ててもいいよ」

「あっ……はい……」

 

 言われるまでもなく、私は眠りそうになっていて、返事だけ出来て良かった、と思った。

 

 §

 

「ぼっち」

「ぼっちちゃん、起きてー」

「ひとりちゃん、着いたわよ」

 

 目を覚ます。気がついたらブランケットを掛けられていた。

 

「す、すみません、いまおきました……」

「起こしたんだけどね」

「寝起きだしだっこして下ろそっか」

「郁代、お姫様抱っこ出来る?」

「え゛っ、あの、いきなり?」

「出来ないなら私がやる。それ」

「リョウさんあっああっあのお姫様抱っこはそのあの」

「急に活きが良くなった」

 

 恥ずかしい。こんな歳になって初めてこんなことされるなんて。

 リョウさんの顔を覗き見ると、さっき私の部屋で見た、少し悲しそうな目をしていた。

 

「わ、私、立てます、立てますから」

「じゃあ下ろすよ」

 

 目を瞑りながら、体を硬くして地面に足がつくのを待つ。爪先がついた。

 

「あ、ありがとうございました……」

 

 そう言った途端、今度は肩を貸された。喜多ちゃんだった。

 

「リョウ先輩、お姫様抱っこ出来るなんて凄いですね……」

 

 喜多ちゃんの言葉に、リョウさんは少し固まって、でもすぐに、

 

「ギタリスト共より腰は強い。ベースはギターより重いし」

 

 いつもどおり振る舞った。

 付け加えて、

 

「これ実は腕力さほどいらない。コツさえ掴めば郁代でもぼっちを抱っこできる」

「本当ですか!?」

「では教えてしんぜよう。5000円」

「ちょっと待ってください、財布財布……」

「あのー喜多ちゃんとリョウはぼっちちゃんで遊ばないでー」

「わかった」

「わ、私も分かってます!」

「遊ばれてましたー……へへっ……」

 

 ……楽しいな。

 

「じゃあ、結束バンド会場入り!」

「おう」

「はい!」

「あっはい」

 

 見上げると雨は止んで曇り空。ライブハウスのくすんだ看板から雨の雫が落ちている。

 喜多ちゃんの肩を借りて、ブランケットで守られながら、私はツアーの最後の場所へ足を踏み入れた。

 

 §

 

 私の、最期の舞台。

 

 §

 



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序章-4

 会場に入るとすぐ、スタッフの人達から挨拶。出せる精一杯の声でおはようございますと返す。

 そしてすぐに楽屋入り。

 リョウさんと虹夏ちゃんは楽屋の様子を見るやいなや、椅子を一列に寄せ始めて、

 

「よし、出来た。ぼっち用簡易ベッド」

「ちょーっと不安定だけど、地べたで寝るよりはいいよね」

「あっ……ごめんなさい」

「いいのいいの。あっ、でも今寝るより座ってた方が楽?」

「そ、そうですね……すぐセッティングとか入りますし、寝ちゃうとまたふらふらになっちゃうから……」

「じゃあ崩すか」

「っておーい」

「冗談。予備の椅子そこにあるし、これはこのまま置いておく」

 

 私用のベッドに使った椅子とは別に、予備として置いてあった椅子をリョウさんが並べていく。皆で着席。

 リョウさんが、

 

「虹夏、今日の流れの説明お願い」

「任された。えーっと、まずセッティングするにあたってスタッフさん達と挨拶。実際に機材セッティングしてサウンドチェックしたら一旦お昼」

「お弁当出る?」

「なんでお弁当の心配するの……?いや出るけどね?」

「よし」

「よしじゃないけど」

「しゃおら」

「そういう問題でもなーい」

 

 お弁当、その言葉で少し気が重くなる。

 胃があまり動かないから。このツアー中ずっとそうだった。

 頑張って食べて、それで逆に気分が悪くなったこともあった。

 

「あ、う、ぁあの……」

「ひとりちゃん、お弁当のことは心配いらないから!」

「あっそうそう、喜多ちゃん特製のぼっちちゃんスペシャルランチなんだよね?」

「そうです!」

「えっ……あの、なんで私だけ特別……」

「だってほら……お弁当屋さんには申し訳ないけど、いつもひとりちゃん食欲なさそうだったし、無理やり詰め込むみたいに食べてたじゃない?だから、食べやすくて食欲もきっと出てくる栄養のあるお弁当を作ってきたの!」

「あっありがとう……」

 

 俯いてしまった。

 私は、ここまでしてもらえる人間じゃないのに。

 そんな価値なんてないのに。

 ちやほやされたいという願いが叶っているのに、意外とそれが虚しいことだと気付いて、眼の前が眩しくなった。

 

「ひとりちゃん……?大丈夫?」

「あっ大丈夫……」

 

 大丈夫じゃなかった。

 なんで急にこんなことを考えてしまったんだろう、と思った。けれど、

 

「……あの、今日、低気圧」

 

 そういうことにしておけば、少し前向きになれた。

 

「ん……それなら……仕方ないのかしら」

「うん……大丈夫じゃないけど、大丈夫……」

「ん。じゃあ続きいくね」

 

 虹夏ちゃんが優しく微笑んで、続きを話し出す。

 

「お昼休憩終わったら、そこからはリハ。最終調整って感じかな。それ終わるとしばらく暇だから……2時間くらいはぼっちちゃん寝てて大丈夫かな。体力温存!」

「あっはいわかりました」

「それじゃー、ステージ行こっか!」

「待って虹夏。スタッフさんにちょっと問い合わせてくる」

「え!?リョウちょっと待っ」

「んじゃ」

 

 そう言うと、リョウさんはシュバッと楽屋を出て行ってしまった。

 

「……何しに行ったんだろ」

「さぁ……」

「はい……」

 

 数分経つとリョウさんが戻ってきて、

 

「……ここ、車椅子常備してないらしい」

「あー……なるほど。肩貸して移動より安全だよね……」

「じゃあお姫様抱っこで移動しましょう!」

「あ、あのあ、あのそこまでしなくても……」

「安全第一。今のぼっち、どこで倒れたりすっ転んだりするか分からないから」

「よし。ぼっち一回立って」

「は、はい」

「今度は暴れないでね」

「は、はいぃ……」

 

 またリョウさんに抱えられてしまった。

 

「掴まれる?」

 

 リョウさんが私の目を見て言う。

 

「えっと、あの、こうですか」

 

 右手で、リョウさんの左肩につかまる。

 リョウさんは頷いて、

 

「じゃあ行こう」

「虹夏、先導お願い」

「あいよー」

 

 リョウさんの歩みはふらつきもなく、ゆっくりと私をステージへと運んでいく。

 

「今回今までで一番広いハコだから楽しみよね、ひとりちゃん」

「あっそう、ですね」

 

 ギタリストとしての人生を振り返って、こんな言葉が浮かんだ。ちょっとしたウケ狙い。

 

「大きい押入れだなぁって、思います」

 

 押入れで育ったギタリストの私が、こんなところまで来てしまった。

 

「なにそれ」

 

 昔から変わらない華のような笑顔で、喜多ちゃんは笑ってくれた。

 

「やっぱりぼっち面白い」

 

 リョウさんもやっぱりいつも通り。

 

「ここもぼっちちゃんからしたら押入れかぁ」

 

 虹夏ちゃんも冗談めかしたトーンで言う。

 

「こりゃ、武道館どころかドームまで行かないとぼっちちゃんを押入れから連れ出せないかもね?」

「あ、わ、ど、ドームじゃなくてアリーナがいいです」

「そこかい」

「マジ面白」

「アリーナも憧れるわよね!横浜、埼玉……あとどこがあります、リョウ先輩?」

 

 そんな益体もない話をしていると、すぐに着いた。

 

「わ……」

「でかっ」

「うん。結構でかい」

「おっきいですね……」

 

 スタンディング1300人。

 ようやくだった。

 そんなたくさんのチケットを、私達は完全に売り上げた。

 数字だけでも震え上がった。そして今、目の前の空間が人で埋まるというすぐそこの未来に、身震いする。

 

「……ぼっちちゃん、一応スタッフさん達との顔合わせだから……立てる?」

「あっはいがんばります……」

「下ろすよ」

 

 リョウさんの腕から下りる。

 

「いいトレーニングになったぜ」

 

 腕の筋肉を服の上から見せつけるポーズをして、リョウさんが鼻を鳴らす。

 マイペースなようで、実際びっくりするほどマイペースだから、こういう時もいつも通りのふりをしておどけてくれる。それが本当にありがたかった。

 

「ひとりちゃん、すぐ椅子用意してもらうから……大丈夫?」

「あっ立ってるだけなら大丈夫です」

「んじゃ手早く……おはようございまーす!」

 

 スタッフさん達が集合して、挨拶と自己紹介。誰が何担当かもここである程度覚える。

 この人達との連携がダメだとライブが壊れてしまうから、仕事の分だけはなんとか人見知りを克服できている。

 

「結束バンド、ドラムでリーダーの伊地知虹夏です。よろしくお願いします」

「リズムギター、ボーカルの喜多郁代です!よろしくお願い致します!」

「どうも、世界のYAMADAです」

 

 どっと笑いが起きる。

 

「……ベース、山田リョウです。よろしくお願いします」

「ご、ごご、後藤、ひとり、です……よよよよ、よろしく、おお願いします……あっリードギターです……」

 

 スタッフさんの一人が、

 

「後藤さん、病み上がりからツアーで、今日ファイナルですけど……大丈夫なんですか?」

「いやー、今日も大丈夫じゃないんですけど、挨拶はいつも通りなので!」

「は、は、はい、ただのコミュ障……人見知りなの、で……大丈夫です……」

「わかりました……」

 

 他のスタッフさんが一歩寄ってきて私達にひそひそ話で、

 

「いや、彼大ファンなんですよ。後藤さんの」

「あっそう、なんですね……え、えへへへ……私のファン……」

「……本当に後藤さん大丈夫ですか?」

「調子悪くて承認欲求のブレーキ効いてないだけです。どちらかといえば平常運転」

「……イメージ違うなー」

 

 と言われても、私のイメージってどんな感じなんだろう。

 あまり考えずにやってきたけれど……

 

「寡黙でミステリアスな超人ギタリストじゃないんだなぁ……」

 

 そう呟きながらそのスタッフさんは元の立ち位置に戻った。

 

「……えっ」

「あぁ……またイメージ崩壊しましたね……」

「えぇ……」

「素で面白キャラなんだからそれでいいのに」

「いや、仕事でもこのレベルの人見知り発動するのは大っぴらにしづらいでしょ……」

「あっそれはそうです……」

「あーあのね、今までで言ってなかったけど、実はぼっちちゃん個人へのインタビューのオファーとか、私と司馬さんで握り潰してたんだよね……」

「え、ええ……」

「いやだってぼっちちゃん、断れずにっていうか、喜んで受けといて本番でビビりまくった挙げ句大火傷しそうじゃん?」

「あ、わわ、たしかに……」

「崩壊した顔面でギタマガに載ったら超面白いのに」

「わ、私が通訳としてついていけばいつか受けられるわよ!そうよねひとりちゃん!」

「あっはい……」

 

 同じ日本語話すだけなのに通訳が要るんだ……私……。

 実際誰かついてないととんでもないこと言い出しそうだし、それと結束バンドだとボーカルギターの喜多ちゃんが適任……。

 

「喜多ちゃんがいないと生きていけないんだ……私……」

「ひとりちゃん……ずっと私がお世話するから……」

 

 私が情けなさで肩を落としていると、喜多ちゃんが肩を抱いてくれた。

 

「郁代、私も飼って」

「さっき私のご飯食べたいって言ってたでしょうが」

「家は郁代、飯は虹夏に頼る」

「節操ないな!」

 

「バンド仲めっちゃいいですね……」

「現役高校生でインディーズデビューして10年やってきてるんだから、そりゃあ仲良しだろ……」

「仲良しというか介護チーム……?」

 

 スタッフさん達がひそひそ話をしているけれど、嫌な感じはしなかった。

 スタッフさんの中の、さっき私達に寄ってきた人が一度咳払い、それで仕切り直して、

 

「機材はすべて入って来ています。あとはステージに持ってきてセッティング、据え終わったところから順次サウンドチェック入ります」

 

 空気が引き締まった。

 私はというと、緊張で心臓が跳ねている。体が弱っているから弱々しいけれど。

 

「では始めましょう!」

 

 気合を入れるための柏手一回。スタッフさん達の表情が変わり、動き出す。

 今までのハコのスタッフさん達も凄かったけれど、ここは更に別格に見えた。

 機材が入ってくる。そう思って身構えていたら、真っ先に来たのは、

 

「まずは後藤さんの本日の椅子入ります!」

「いよぉー!」

 

 なぜか拍手と一緒に椅子が入ってきた。重ねて片付けられる、背もたれ付きで座面の広い椅子。

 

「ご着席の前にサイン頂いてよろしいでしょうか!」

「えっ、えっ、あっはい」

 

 背もたれ、クッションの反対側でプラスチックの部分。椅子を持ってきたスタッフさんがサインペンを私に手渡してくれた。手が震えないように、でも緊張しすぎないように私のサインを書いていく。

 

「あっ終わりました」

「ありがとうございます!サインいただきましたー!」

 

 本当になんで拍手……?

 

「じゃあサインに保護シール貼らせていただいて……どうぞ!」

「あっありがとうございます……」

 

 手際よく私のサインにカバーシールを貼ったスタッフさんが、私に着席を促した。

 

「それじゃ後藤さんの機材据えましょう!」

 

 そのスタッフさんが言うまでもなく、私の機材が運び込まれて来た。

 

「続いて喜多さんの機材も運んで!」

 

 私の機材の設置と並行して、喜多ちゃんの機材の搬入……全てが無駄なく手際よく進んでいく。それ故のさっきのお遊びだった。

 

「すごいね……」

「流石。やっぱり格が違う」

「見ていてワクワクしてくるくらいです!あ、ひとりちゃん、イソスタに写真上げるから!」

「えっ……どんな写真ですか」

「今回は自撮りじゃなくてポートレート調!椅子のサインとひとりちゃんの背中が見える感じで……髪ちょっとどけるわね……はい!どう?」

「わ……」

 

 そこには、私のサインが入った椅子の背もたれ、そして私の後ろ姿。少し斜めから撮影されたから、横顔も僅かに写っている。

 

「え、えへ、えへへ……」

「早速アップしーましょっと」

「喜多ちゃん喜多ちゃん、どんな写真撮ったの?見せて?」

「伊地知先輩も、ほらリョウ先輩も見てください!」

「おう」

「これは……シブく撮ったねー!珍しい!」

「モノトーンなのもそれっぽいね。郁代、いいの撮った」

「やった!」

「えへへ……えへへへへ……」

「ぼっちちゃんのニヤケ笑いが止まんない!」

「そんなに気に入ったのか」

「自信作ですし!……あ、もういいねが付き始めてる」

「おー……凄い勢い」

「こうして無口なスーパーギタリストのイメージが作られるのかぁ……」

「”かっこいい”ってコメントもついてますよ!ほら!」

「郁代、それ以上いけない。ぼっちが戻れなくなる」

「え?」

「わ、私かっこいい……スーパーギタリスト……うぇへへ」

「いかーん、ぼっちちゃんの承認欲求に火が着いちゃったしもうこっちの世界からテイクオフしてる……」

「あぁ……ひとりちゃん!こっちの世界に戻ってきて!もうすぐ設置終わっちゃう!」

「えーっと、あの……後藤さん、エフェクターボードこの辺設置でいいですか?」

 

 スタッフさんの声で現実に戻ってきた。

 

「……はっ!あぅ、あっはい、その辺で、お願いします」

「戻ってきましたね」

「あっじゃあ私、スタッフさんと打ち合わせ入ります……」

「ん」

「私もセットの組み立てとかあるから、また後で!」

 

 みんなと一旦離れて、スタッフさんと向き合う時間。

 

「とりあえず仮でセットアップ完了しました。今回後藤さん、基本椅子座っての演奏で、あとギターのチェンジはスタッフに一任する形で聞いてます」

「あっはいお願いします」

「で、返しがステージ際なので、ボードと椅子移動しましょうか」

「あっはい」

 椅子から立つ。椅子を持とうとすると、スタッフさんが遮って、代わりに持ってくれた。返しのスピーカーの前に立つ。

「サウンドチェックやリハでまた動かすときは気軽に声掛けてくださいね!」

「あっすみません……」

「僕もベストのパフォーマンス見たいですから、位置もベスト探していきましょう!」

 

 ……今回、スタッフさんにも特別気を遣ってもらってる。申し訳なく思ったけれど、私がちゃんと演奏できれば、それが恩返しになると思った。

 

「がんばります……」

 

 リードギター単体、次々進んでいく他の楽器のチェックもスムーズに進んで、最後に皆で音を鳴らして仮のバランス調整。

 

「OKです!休憩!」

 

 セッティングが終わった。リハでも調整するけれど、ここから大きく変わることはない。でも今日の私の場合、いざ本番同様の音を鳴らして、返しからの音の聞こえ方が良くなければ椅子、それに伴ってエフェクターボードの移動まで必要になる。結構な面倒をかけるかもしれない。不安で気が重かった。

 

「ぼっちちゃん、楽屋戻るよー」

「ぼっち」

 

 虹夏ちゃんが舞台袖を指差して、リョウさんは腰を落として構えている。

 私は立ち上がって、少し身を固くする。

 

「あっはい……お願いします……」

「リョウ先輩、私もひとりちゃん抱えたいです!」

 

 私を抱えると、またリョウさんは少し悲しい目をして、喜多ちゃんに言った。

 

「……ん、落っことしたら危ないから、また今度」

 

 いつもと違う、少し濁したトーン。

 

「……うーん、それもそうですね!ごめんなさい、ひとりちゃん」

「えっあ、あの、こっちが、ごごめんなさい……」

「じゃあお昼行こう」

 

 楽屋に戻ると、机に人数分のお弁当が置かれていた。多分、川崎のお弁当業者さんのだと思う。全国を回ったけれど、業者さんによって箱が違っててそこは少し面白かった。でも傾向としては、なにか花の模様やお弁当の名前が入っていたり。今回もそれに当てはまっていた。でも、見ると気が重くなる。

 喜多ちゃんが言っていた通り、食べなきゃ体が持たないのに食欲が出ないから。多分美味しいのに、鬱で調子が悪いと味がよく分からなくなるせいで無闇にかき込むように食べていた。

 

 ……というか、私の分もあるけど、どうしよう。

 椅子に座ってお弁当の箱を見つめていると、

 

「ぼっち、それちょうだい」

「あっはい、あげます……2つ食べるんですか?」

「1つは今食べるけどもう1つは明日のお昼食べる」

「あっあの腐ったりしませんよね」

「冷蔵庫入れとけば大丈夫。だから心配せず郁代スペシャルを喰らえ」

「あっありがとうございます」

「リョウ先輩、私からもありがとうございます!」

「よせやい」

「あ、でもぼっち」

「あっはいなんですか」

「郁代スペシャルにも興味あるし、お弁当もらってあげたから代わりに一口ちょうだい」

「あっ……はい」

「山田ァ!」

「怒られた」

「リョウ先輩……今回はひとりちゃんの分量で作ってきたので……今度また同じもの作りますから、食べに来てください!」

「やった、1食浮く」

「浮くも何も実家でご飯食べてるでしょーが」

「仕事サボって外出する日とか、昼代なくて今でも草食べてる……ソフト音源で金が飛ぶ……」

「マジかぁー……」

 

 リョウさんはバンドとは別で、作編曲家としての仕事もしている。だから楽器以外の出費もかなりエグい。

 

「デモ用とか、私が弾いて問題ないギタートラックは一本のギターでどうにかできるようになった。だからギター沼は卒業できたけど、ソフト音源とかプラグインの沼にはどっぷり」

「大変ですよね……仕事量大丈夫なんですか?」

「外部の仕事しないとソフト音源買えないからこれからも仕事受ける」

「リョウ、仕事のために買ってるのか買いたいから仕事してるのかどっち……」

「どちらかと言えば後者……」

「でも評判いいですよね、リョウ先輩の曲。タイアップしてるアニメ、私も見てますけどすっごく合ってますし」

「ありがと。そういえば言ってなかったけど、私の曲、大抵イライザさんが弾いてる」

「え゛っ」

「イライザさんって、SICK HACKのイライザさんですよね?あ、もう元SICK HACKですけど……」

「うん。でもSICK HACKまだやってた時から一緒に仕事してた」

「まぁあの人なら対応できるよねぇ、技巧派だし」

「でも毎回”コレぼっちちゃん基準デショ?癖強いヨ!難しいネ!"って怒られる」

「うわぁ……」

「良くも悪くも私達、ひとりちゃんに慣れすぎてますよね……」

「あっあっなんかすみません」

「ぼっちちゃーん、それ逆にイヤミになるから」

「ひぃぃすみませんすみません」

「でもちょっと単純にすると今度はSICK HACKっぽくブチ壊されるから悩ましい……お腹すいた。いただきます」

「えっこの流れでいきなり食い出すの」

「時間は有限」

「あんたが溶かしたんでしょーが」

「まぁまぁ伊地知先輩。あ、それじゃあひとりちゃんのお弁当出すわねー」

「あっありがとうございます」

 喜多ちゃんがバッグの中から太くて短い筒のようなものを出す。ステンレスみたいな表面の円筒。

 そういえばこういうお弁当箱もあったな、と思い出す。喜多ちゃんが蓋を開けると、湯気が立ち上った。

 そう、保温できるからお弁当があったかいんだった。

 それにこの匂い、多分日本人の大体が好きだと思う、

 

「私特製、ひとりちゃん用!スープカレーリゾットになります!」

「わぁ……」

「おー……しかもこの香り!まさか自分でスパイス調合した?」

「はい!でもあんまりスパイシーだとひとりちゃんが気分悪くしちゃうかなって思ったので、スタンダードめに作ってみました!それに野菜も蒸してから裏ごし、更に豆乳ベースなので野菜もタンパク質も十分のはずです!」

「凝ってるねぇー……でも喜多ちゃん?スパイス自分で調合したりするの、モテない男の趣味っぽくない?」

「え?そうですか?私、パフューマーみたいで楽しい趣味だと思いますけど」

「あー、食べられる香水って考えると調香師かもねー……」

「それに挽きたてのスパイスって本当に素敵な香りなんですよ!」

「き、喜多ちゃん……これ、凄くいい匂い……」

 

 そこまで複雑ではないし、強烈でもないカレーの香り。けれどとても豊かに薫ってくる。

 喜多ちゃんが私の顔を覗き込んで、

 

「気分悪くなってない?大丈夫?」

「だ、大丈夫……食欲湧いてきました……」

「良かった!それじゃあ召し上がれ!」

 

 スプーンを持って、カレーリゾットを掬う。口に含む。

 爽やかな辛さと香りが口いっぱいに広がる。優しく夢から手を引いて連れ出すような、私を目覚めさせる味。

 

「おいしい……」

「本当!?嬉しいわ!ひとりちゃん専用だから遠慮せず食べて!」

「は、はい……!」

 

 スプーンが止まらない。

 豆乳ベースって言ってた。だからか、たまに気になる牛乳の臭みとかもないし、後味あっさりとしているのにまろやかでもある。たっぷりと溶かし込まれた野菜、それとふやけたお米のおかげで少しとろみがあって食べやすい。

 

「お、おいしい……おいしいです」

「嬉しい!飲み物も準備してあるから飲んで!」

「うんうん、やっぱカレーは魔法の食べ物だよねー」

「私もカレーは大好き。野草のカレー粉炒めもおいしい」

「いやリョウのそれはカレー粉凄いってだけの話でしょ……」

「というかリョウ先輩、出先でキャンプでもしてるんですか……?」

「出先の公園で摘んだ野草をコッヘル使って料理してる」

「不審者じゃん……通報されないの?」

「何回かされたけど、開き直って堂々とやったら全然通報されなくなった」

「流石リョウ先輩ですね……あっひとりちゃん、はい、生姜入りのチャイも持ってきたから飲んでみて」

「あっありがとうございます……お洒落……」

 

 生姜とスパイス入りだけれど、尖った辛味は抜けていて口当たりがいい。

 心が和んでため息が出る。

 喜多ちゃんは私の正面に座って弁当の箱を開けながら、

 

「体が冷えると心も落ち込んじゃうかと思ったの。気休め程度だけど」

「あっでも、すごくうれしい……頑張れそうです」

「私も嬉しい!」

 

 喜多ちゃんもお弁当の蓋を開けて食べ始める。

 虹夏ちゃんはいつの間にか天ぷらにかぶりついていた。

 

「こういうお弁当ってさ」

 

 天ぷらを口に含みながら虹夏ちゃんが話し始めて、

 

「なんで統一感ないんだろうね?メニューに」

「私は天ぷらとハンバーグのセットいいと思う。デミグラス天ぷらもイケる」

「リョウは節操がなさすぎ!食のハードルが低すぎるんだよ……美味しいの好きかと思ったら食えればいいレベルまで落ちるし」

「でもそれだけ逞しいってことじゃないですか!」

「喜多ちゃん、リョウへの欲目が10年以上続いてるの凄いよ……」

「え?もうそこまででもないですよ?リョウ先輩頭カラカラですし、でもそこも愛嬌ですけど」

「いやそれはそこまでって言うよ?」

 

 そんな昔から変わらない益体もない話をして,昼休憩を過ごした。

 

 お弁当を食べた後、寝るのはやめておいた。

 休憩明けにはリハに入るから、寝起きでやるのは怖い。そして時間になって、

 

「よし、そろそろリハの時間だからステージ行こっか」

「あっはい」

「じゃぼっち」

「あっはい」

 

 ご飯を食べたばかりで抱えられるのが怖い。吐いたらどうしよう。どうしよう。

 考えるだけでなぜか吐き気がしてくる。怖いって思っているだけで、それが現実になろうとしている。

 

「腹ごなしになるから歩いて」

「あっはい……はい……」

「郁代、肩貸してあげて」

「もちろんです!ほら、行きましょ」

「あっうん」

 

 恐怖がなくなると、吐き気も収まった。胸に手を当てて深呼吸する。

 

「あ、あの、喜多ちゃん」

「なぁに?」

「肩、借りなくてもだ、大丈夫です」

「本当に?」

「うん……ちょっとくらい体動かさないと、逆に動きが悪くなりそうで」

「そうかもしれないけど……無理しないでね」

 

 喜多ちゃんから離れて、私は自分の足だけでステージに向かっていく。

 体中がじんわりと温かくなってきた。リハ中は上着を脱いでやっても大丈夫そう。足取りは弱くても、地面を確かに踏んでいる。行ける。

 

 §

 

 けれど、それは多分勘違いだったんだと思う。

 

 §

 



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序章-5

 ステージに着いた。照明が暑い。上着を脱いで椅子の背もたれに掛ける。

 ステージ向こうのPAさんが手を振り、

 

『それじゃあリハ始めましょう。よろしくお願いします』

 

 返しのスピーカーから声が聞こえた。全員でマイクに向かって、

 

「よろしくお願いします!」

「よろしくお願いします」

「よろしくお願いします!」

「よ、よろしくお願いします……」

 

 お辞儀をして私は椅子に座る。

 

『……後藤さん、マイク入ってます?』

「は、入ってます……声が小さいだけです」

『あ、すみません。じゃあレベル上げましょうか』

「あっその私MCもコーラスも出来ないのでむしろミュートしてもらって大丈夫です……」

 

 ……返しからこらえた笑い声が聞こえる。皆も笑ってる……。

 

『わ、分かりました……レベルこのままで行きましょう』

「あっはい……もうそれでお願いします……」

 

 マイクを通してみんなの声も聞こえた。

『いや、昔やってたじゃん……』

『そうですよね……未確認ライオットの時に。懐かしいですね』

『まぁ予選抜けられなかったけど……』

 

 また笑い声。ホール中に響く。

 

 そうして程よく空気が解けたところで、リハが始まる。

 

 PAさんから、

 

『音量の差が一番大きいところから調整掛けていきますか。じゃあ早速ですけど、最後の曲から─────』

 

 私の独奏から始まる曲。一応アンコール含めなければ最後。イントロは10年以上の間に随分改造されて、今では喜多ちゃんがフィードバックを豪快に鳴らす見せ場。

 

「はい!じゃあひとりちゃんからスタートね」

「あっはい」

『好きなタイミングで始めちゃってくださいー、どうぞ』

 

 §

 

 こうしてリハもスムーズに進行して、曲ごとのバランス調整プランまで固まった。

 返しの聞こえ方についても詰めていったけれど、結局私の椅子の位置は仮に決めた位置のまま確定した。

 返しとの距離が近くて、椅子に座ってもペダルを踏めるようになっている。右手側にスタンドが2脚立っていて、その片方にはサブのギターが吊られている。

 持ち替えはスタッフさんが補助、というか私のところまで持ってきてくれて、どうするのが一番やりやすいかも決まった。

 

 曲中に持ち替えるなんてことはしないから慌ただしくはない。

 全曲を短く、かつ軽くさらい、ギターソロも何曲か弾いて、大体1時間半くらいでリハは終了した。

 

『……よし!PAさーん、音量調整大丈夫ですかー?』

 

『えーっと、はい。一応全曲把握しましたしね。皆さんの返しのバランスも問題ないですか?』

『みんな、大丈夫?』

『問題なし』

『私もOKです!』

「あっ大丈夫です……」

『それじゃあ皆さん、お疲れ様でしたー!本番よろしくお願いしますー!』

『ありがとうございましたー!」

『ありがとうございました』

『ありがとうございました!』

「あっありがとうございました……」

 ……お辞儀をすると、脳が揺れる感覚がした。

 疲れているのかもしれない。

 立ち上がる前に、担いでいたギターをスタンドに戻そうとする。

 

「後藤さん後藤さん、ギター僕が持ちますんで」

「あっ……すみません……」

 

 スタッフさんにギターを預ける。丁寧に受け取って、スタンドに吊ってくれた。

 足を少し伸ばせば踏めるようにセッティングされたボード、長いシールドが床を這っている。

 短くしてもよかったけれど、長さは変えずにここまでやってきてしまった。そういう自分のいい加減さにため息をつく。

 立ち上がる。

 ふらつく。

 たたらを踏む。

 爪先が踏んだシールドが転がる。

 

「ひとりちゃん!?」

「あ」

 

 そのまま前に転んで、

 

「─────」

 

 みぞおちを、返しのスピーカーの角が、突いた。

 

「─────か、ふ」

「ぼっちちゃん!?」

「ぼっち!」

「ひとりちゃん!ひとりちゃん大丈夫!?」

「後藤さん!大丈夫ですか!?」

 

 痛い。息ができない。喉から熱さがせり上がる。

 こぼれ落ちないように手で口を抑えようとして、

 

「うぇっ」

 

 間に合わなくて、胃の中身が、口から漏れ出た。

 スピーカーに貫かれたままの姿勢で、ステージの下に吐き出したものが滴る。

 喜多ちゃんが一生懸命作ってくれたお弁当が。もしかすると虹夏ちゃんが用意してくれた朝ごはんも。

 

「ご、め、かはっ」

「後藤さん!起こしますよ!」

「ひとりちゃん!」

 

 返しから体が浮いていく。そしてそのまま椅子に座らせられた。

 

「ぼっちちゃん!大丈夫!?」

「あ、は、い」

「あ……私が、そばにいたのに……」

「郁代は悪くない。ぼっちも悪くない。事故」

「でも!」

「それより……ぼっち、楽屋で休もう」

「は……い」

 また、抱き上げられた。

 私、汚いのに。臭いのに。

 

「リョウ、さん……私、汚れてます……服、だめにしちゃう……」

「どうせ着替える。気にしなくていい」

「ごめんなさい……」

 

 意識がぼんやりしている。

 

 照明の熱さから逃れた。そして冷えた空気の舞台袖と通路を通り抜けて、楽屋に戻ってきた。

 

「ぼっちちゃん、ベッドで寝かせよう」

「いや虹夏。さっき吐いてたから一旦座らせよう。ぼっち、下ろすよ」

「あ、はい……」

 

 椅子に座らせられる。

 

「ひとりちゃん、口濯いでから着替えましょう?」

「あ……」

 

 喜多ちゃんの声で、涙が出てきてしまう。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

「喜多、ちゃん……せっかくお弁当作って、くれたのに……」

「ひとりちゃん……いいの、また今度作ってあげるから。みんなで一緒に食べましょう?」

「ごめんなさい……」

「大丈夫だから……伊地知先輩、リョウ先輩、私お水汲んできます!」

「あっ……」

 

 行ってしまった。

 

「ぼっちちゃん、吐き気はない?」

「虹夏ちゃん……もう、多分大丈夫、です……」

「そっか……リョウ?」

「まだ。私も医者でも看護師でもないけれど、もう少し様子を見ないと。本当なら即医者に見せたほうが」

「だめ、です」

「ぼっち」

「それじゃ、ライブ、できません……」

「ぼっちちゃん……」

「やれます……やります」

「……それより、ぼっち。どこを打ったの?腹?胸?」

「……みぞおち、です」

「……」

 

 リョウさんが考え込む。

 

「ぼっち。何が起きるかわからないから、痛み止めとかは飲ませられない」

「えっ……」

「何もなければそれでいいけど、痛み始めたらちゃんと言って」

 

 私が何か返す前に、リョウさんは私のそばを離れて、カバンからノートPC、オーディオIO、ヘッドホンを取り出して、

 

「それじゃ私は仕事するから」

「えっ」

「ちょっと待ったリョウ、仕事ってまさか」

「……一応まだ納期まで余裕ある」

「じゃあなんで今やるの?」

 

 虹夏ちゃんが青筋を浮かせて詰め寄る。

 

「昨日ボツ連絡あったからまたモックアップ作って送らないと……」

「ツアー中もやる羽目になってどーすんの!仕事もうちょっと計画的に受けなさい!」

「受けるか受けないかもインスピレーション次第……」

「なんでリョウが作曲家として成功しつつあるのか分かんなくなってきた……」

「私は天才」

「じゃあ天才なら一発OK……とはいかないよね。どんな人でも何パターンも作って通すんだよね……」

「ちなみにまだ1パターンしか送ってない」

「……なんでそれだけしか送ってないの?」

「天才だから通ると思った……」

「あのさぁ……」

 

 そのうち、少し慌ただしい足音を立てて喜多ちゃんが戻ってきた。

 

「ひとりちゃん、お水ペットボトルに汲んできたわ……って、リョウ先輩。パソコン出してどうしたんですか?」

「暇になるから仕事を……」

「作曲のやつですよね!?私どんな風に仕事してるのか見てみたかったんです!後から見てもいいですか!?」

「それよりぼっちのお世話してあげて」

「わかってます!……ひとりちゃん、お水口に入れて濯いで。後でトイレで顔も洗いましょ?それともう着替えも……」

「あっ大丈夫です……一人で着替えられるから……」

「……本当に無理しちゃ駄目よ?」

「だ、大丈夫……大丈夫です……」

 

 相変わらず、顔の筋肉が強張ってしまう。笑ってみせようとするといつも。

 ふらりと立ち上がって、鏡台に置いた机から着替えを取り出す。今日のステージ衣装……とは言っても、いつものバンドTとジーンズ。ダメージジーンズが良かったんだけど、喜多ちゃんに止められて妥協案としてこの褪せた色合いのものを買った。嫌いではないけどステージでしか穿かない。

 

 喜多ちゃんが今日の服として選んでくれた、というか買うときも喜多ちゃんに選んでもらったハイネックセーターを脱ぐ。あまり首に違和感のある服は着たくなかったけれど、これはかなり緩めで絞められる感じがない。これも別に好きではないけれど、暖かいし、痩せても太っても着れるから便利だと思った。

 鏡に映った体を見て、一瞬息が止まった。

 鏡越しに後ろを見る。

 誰も見ていない。

 すぐにTシャツを着てしまう。

 そのままロングスカートも脱いだ。厚手ですこしモコモコしているけど、肌触りが良い。これも喜多ちゃんセレクト。どうして喜多ちゃんは私に飾り気のない服ばかり選ぶんだろう。

 この2つはさっき私が吐き出したもので汚れている。鞄に詰め直すにしても、何か袋に入れてからにしたかった。

 汚れが鏡台に付かないように丸めながら一旦鞄の口の上に乗せる。

 ジーンズを穿いて一応着替えを終わらせないと。

 ベルトを締めると、

「……っ」

 何故かお腹が痛んだ。

 さっきは鳩尾を打ったのに、お腹が痛くなるから理由が分からなかった。気分が重かったり、緊張のせいだろうと思った。

 

「あっ喜多ちゃん……服、汚しちゃったから何か袋……」

「あっ……そうよね。スタッフさんに何かビニール袋ないか聞いてみるわ」

「ご、ごめんなさい」

「いいのいいの、待ってて!」

「あっ私、トイレ行ってきますね」

「一人じゃ大変だと思うから、伊地知先輩お願いしていいですか?」

「あい。任されたよー。ぼっちちゃん、今度は私が肩を貸すから」

「あっ虹夏ちゃん……」

「今日、私だけぼっちちゃんを支えてあげられてないし、ね?」

「いいいい、いえ、そんな朝ご飯とか」

「別にあれはもとからあった私の作り置きを温めたりしただけだし。リョウなんてお姫様抱っこまでしちゃってさ。……私にも出来るかな?」

「いや、あの、やめたほうが」

「うん。今遊びでやるもんじゃないしね。さ、行こ」

「はい……」

 

 虹夏ちゃんの肩を借りながら、廊下を行く。

 トイレまでは短い。

 リョウさんはソフト、というかプロジェクトファイルが読み込めたみたいで仕事を開始していた。

 

 トイレの洗面台の前に立つと、虹夏ちゃんが小脇に抱えていた水のペットボトルから、蓋に被せるように持ってきた紙コップに注いでいく。

 

「口濯いだら顔も洗おっか。いやー、すっぴんだったのは運が良かったのかもね」

「そう、ですね」

 

 運が良かった。

 胸の痣がすごかったのを、見られなくて良かった。

 

 口を濯いで、サングラスを外して顔を洗うと、少し安心できた。

 でも鏡の中のやつれた自分の顔は、昔よりも肌が青かった。あまり鏡を見ずに生活しているから、こう思ってしまう。

 

「ほら、ハンカチ。顔拭いて」

「あっありがとう……」

 虹夏ちゃんに肩を貸されながら楽屋に戻ると、リョウさんも着替え終わっていた。

 喜多ちゃんは戻ってきていて、私の服を袋で包んで鞄に入れるところだった。

 リョウさんはPCに向き合って真剣な目をしている。

 

「ひとりちゃん、服は片付けておいたわよ」

「あっありがとう……」

 

 服、だめになったんだろうな。

 そう思うと、選んでくれた喜多ちゃんに申し訳なかった。だから、

 

「服、クリーニングに出せませんよね……」

「え?出せると思うわよ?」

「あっそう、なんだ……」

 

 あっさり罪悪感をかき消してもらってしまった。

 

「それじゃ、ひとりちゃん。寝る?」

「あっ……リョウさん」

「……うん。吐き気とかないなら。本番30分前には起こす」

「ん。そうしよっか。あー、あとぼっちゃん。寝る前にお茶でも飲んどく?」

「あっはい、そうします……」

 

 楽屋に置いてあった緑茶の2Lペットボトル。紙コップもある。さっき私が口を濯ぐのに使ったものはここの備え付けだった。

 

「はい、どうぞ」

「ん……」

 

 胃液でちょっと焼けた喉に沁みる。

 あまり冷たくないお茶だけど、体を壊してからはコーラでも調子を崩すようになっていたからちょうど良かった。

 

「それじゃ、おやすみ。ぼっちちゃん」

「おやすみなさい」

「ぼっち、おやすみ。……郁代、仕事見る?」

「見ます!」

 

 簡易ベッドに横になると、すぐに意識が薄れていく。ある意味便利な体になった……。

 

「これでも一応守秘義務あるから固有名詞とか口に出すの控えて。こういう感じ」

「あっ……はい……そう、ですか……へぇー……」

 

 けれど、痛い。

 声が出ないよう、息で痛みをいなす。

 お腹から胸まで、まんべんなく痛い。

 多分、落ち着いたから痛みがやってきただけ。

 酷い痣でここまで痛みがさほどじゃなかったのはそういうことに違いない。

 

 こんなことで、ライブを止めるわけにはいかない。

 

 痛みが続いて、結局寝られたのは眠気がやってきてすぐの数分だけだった。

 後の時間は、ひたすら寝ているふりをしていた。

 だんだん寒くなってきたから体を少し丸めると、誰かが私に布を掛けてくれた。ひざ掛けか、ステージに置き去りにしていた私の上着かどちらか。

 

 顔を見せたくなくて、背もたれが目の前に来るように寝返りを打った。慎重に、ゆっくり。顔を見せたくない。

 誰にも表情を見られないと思うと、少し安心できた。痛みは止まらないけれど。心臓の動きに合わせて、焼けるような感覚がお腹の上の方に走る。

 

「……ふぅ」

 

 そうだ。病院だって、明日行けばいい。今日で一区切りしてみんなで充電期間。私も健康に気をつけながらのんびりする。それでいい。

 眠れないけれど、意識はぼんやりしてくれた。眠気がそのまま勝ってくれたらありがたかったのに。

 

 §

 

 私は、昔みたいに分かれ道を間違えてしまったんだと思う。

 

 §

 



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序章-6

「ひとりちゃん?起きれる?」

「あっ……あ……はい……」

 

 喜多ちゃんの声が降ってきた。それに向き合うように、仰向けになった。痛みを顔に出さないように表情を固める。

 

「……大丈夫?」

 

 喜多ちゃんが覆いかぶさるような体勢で私の表情を伺う。

 それに、いつも通りの下手くそな笑みで、

 

「だ、大丈夫です……」

「本当に?」

「本当に大丈夫……」

 

 そういうことにするために、転げ落ちないように気をつけながら身を起こして簡易ベッド、もとい椅子に腰掛ける。

 急に世界が回る。頭が揺れる。重い。投げ飛ばされているみたいな感覚。椅子に爪を立てて踏ん張ろうとするけれど、昨日切ったばかりで指が滑る。だから右腕に体重を預けて、体を傾けさせて持ちこたえる。

 

「はぁー……」

 

 そのうち、大波のような目眩は収まった。

 

「ひとりちゃん……」

「大丈夫です」

「ぼっち」

 

 顔を上げると、また脳が揺れた気がした。

 リョウさんの声。目はピントが合うまで少しかかった。

 ヘッドホンを首にかけて、私を見ている。

 どこか、私を観察しているようだったから、大丈夫なふりをした。

 

「あっおはようございます……」

 

 へらへらと、卑屈に笑う。

 

「おはよう。寝れた?」

 

 いぶかる視線が心臓を刺す。私には後ろめたいことなんかない。お腹が痛いのを我慢しているくらいで、それも別に、結構気になるけれどのたうち回るほどじゃないから。

 

「け、結構ぐっすりでしたかね?」

「いや、ちょっとうなされてるっぽかった」

「え」

 

 そんなはず。ない。

 

「冗談。寝返りまで打って寝てたし」

「あっ……」

 

 頭が混乱する。なんでそんな冗談を言ったんだろう。リョウさんのことだから、突飛なジョークはいつも通りだけれど、背筋が凍った。

 リョウさんの考えが知りたくて、

 

「あ、あの、私の顔色、悪いですか……?」

「良くない」

 

 このままだと、病院送りにされちゃう。

 そうしたらライブはなくなる。もうすぐお客さんが来る。裏切りたくない。

 やめられない。やめるわけにはいかない。こんなことで。

 

「でも……ぼっちの顔色が悪いのは10年前からそうだったし、最近もっと悪くなったから誤差といえば誤差」

 

 そう言うと、リョウさんはPCの画面に視線を落として、

 

「……そろそろ本番の準備しよう」

 

 PCを閉じた。

 

「じゃあメイクしないとですね。ひとりちゃんのは私が担当します」

「うん。よろしく」

「えっあの私、自分で出来る……」

「体力温存!」

「ん」

「あっ……はい……」

 

 押し切られてしまった……。

 鏡台の前の椅子に腰掛ける。

 そして、顔色を見る。顔に光を集めるようになっているからか、皮膚が光で透けて見えた。つまり、血の気がないのがバレバレだった。でも、誤差らしい。多分、みんなそう思うだろうから気にしないことにした。

 

「それじゃ、ひとりちゃん。今回薄めの化粧にしましょ」

「え」

「えっ、えっとあの顔色悪いとただでさえ見栄え悪いのに気持ち悪くなってそのキモいので白塗りでいややっぱりダンボール被ります……」

「すっぴんじゃなくて薄めって言ってるじゃない……それにダンボールも禁止!もう、そういうところまでずっと変わらないままじゃなくていいのに……」

「あっずっと子供のままのティーン精神引きずったままの女ですみません……大人になれなくてすみません……」

 

 足音とビニール袋のシャリシャリした音が近づいてきて、ドアが開いた。

 虹夏ちゃんだった。

 

「あ、ぼっちちゃん起こそうと思ってたところだった……ってメイク始めるとこ?」

「伊地知先輩!ひとりちゃんの顔崩壊しないようにちょっと押さえてもらえますか!?」

 

 ……どこかへ行っていた虹夏ちゃんと喜多ちゃんの二人がかりで、私はなんだかんだとメイクされてしまった。そしてぼうっとしながら他の3人が自分の顔を仕上げるのを待っている。

 

 喜多ちゃんはここ数年、イソスタ用とステージ用で顔を変えるようにしていた。

 普通はステージの方はカッコよくするんだろうけどそうしない。

 私達にはわかる。10年くらい前、私達が始まった時の喜多ちゃんの顔。舞台の上では、私達はいつもあの頃の喜多ちゃんと一緒にいる。

 

 虹夏ちゃんは段々あの頃の店長さんに似てきたけれど、笑顔だけは変わらない。

 

 ……リョウさんは、ライブごとに違う。その時々持ってる服に合わせているようにも、ただ単にいつも同じだけど服の違いで顔まで変わって見えるのかもしれない。

 

「あっあの……リョウさんのメイクって」

「……どうしたの?」

「その、いつもその時々で違うなって……今更ですけど」

「うん。大体いつも何かしら切らしてて代用したり、そのせいで別の化粧品の減りが早くなって……ピストン式に次々切らすから」

「えっ」

「今ちょうどアイシャドー切らしたから左目は口紅」

「あっあの目に入ったら危なくないですか」

「てかリョウ、青とピンクで色バラバラじゃん……」

「ウケると思って……」

「それにさ、今までまじまじと見てこなかった私が悪いのかもしれないんだけどさ、今の話初耳なわけよ」

「リョウ先輩……私もですけど……」

「まぁまぁお二方は自分の顔面を」

「顔面って言われるとなんか生々しいからやだな!」

「あの、私のアイシャドー使います?」

「いや、郁代はイエベ系だけど私はモロにブルベだから多分合わない」

「あのね、そういう問題じゃないでしょ……」

「あっあの、あ、私、多分顔色悪いのでぶ、ブルベで合うと思いますから使ってください……」

「そういえばそうですね」

「その言葉を待ってた」

「化粧品までぼっちちゃんから集るんかい」

 

 昔から変わらない、話題がいつまでも尽きないやり取りの中でも、やっぱり痛みが続いていた。

 額を触ると、少し汗が滲んでいた。秋に入って、もう暑くもないのに。寒いくらいなのに。実際、触っても熱くはなかった。

 深呼吸で痛みや緊張を解そうとする。痛みは消えないけれど。

 

「あっ……とぼっちちゃん、ちょっとだけど改めて栄養補給したほうがいいかなって買ってきたんだった、これ」

「あっ……ありがとうございます……」

 

 小さなマイバッグから虹夏ちゃんがゼリー飲料を取り出して渡してくれた。それを受け取って、

 

「いただきます……」

 

 すぐに飲む。

 吸いきるためにお腹を踏ん張ると、痛みが増した。でも仕方ないと思った。冷たくて脂っぽい汗が噴き出す感覚がする。

 

「……ごちそうさまでした」

「うん、お粗末様」

 

 メイクを進めながら、虹夏ちゃんがそう返してくれる。

 

「終わった」

「終わりました!」

「よーし、全員終わったね!じゃあMC台本だけ確認しよっか!」

「じゃあ私とぼっちはやることない」

「毎度毎度言ってるけど一応見といてくんない……?」

「あ、あはは……」

 

 笑いながら、私は左手を右手で揉み解していた。

 手の感覚が、怪しい。

 血の巡りがどうしてここで悪くなったんだろうとも思ったけれど、汗で滑る手を必死で、でもこっそりといじくり回している。

 動く。動くけれど。どうにも感覚が鈍い。手応えが、一枚布を挟んだような。

 

「ぼっち」

「あっ……は、はい」

 

 リョウさんに声を掛けられて、頭が真っ白になる。

 

「手、どうかした?」

「あ、いや、その、えっと、緊張でちょっと手汗、気になるというか」

「……うん。今までで一番大きなハコだから仕方ない」

「あっはい、そうですね……」

「でも、押し入れなんでしょ?ぼっちには」

 

 そう言って、リョウさんは拳を握って、

 

「いつも通りやろう」

「あっ……」

 

 私の左手も握りこぶしにさせて、軽く当てた。

 いつも通りの表情が、少しこわばっていた。

 

「でも実は超ビビってる」

「あっ……えへへ……」

『結束バンドさん、そろそろお願いします!』

 

 楽屋の外から声。スタッフさんの。

 

「よーし、じゃあ円陣はステージで。GOGOGO!」

「行きましょう、ひとりちゃん!リョウ先輩!」

「うむ。じゃあぼっち」

「あっあのやっぱり」

「やっぱり抱える」

「あぁ……」

 

 なんだか締まりきらない始まり。リョウさんに抱えられながらステージへと向かう。

 ステージに着くと、幕が下がっていた。それを通り抜けて聞こえてくる、フロアのざわめき。

 

「いやー入ってるみたいだねー……」

「ま、まぁチケットは全部ハケたって知ってるわけですし、当然ですけど……」

「うおめっちゃ緊張する」

「あっあのゆれ、ゆれるの怖い……」

「リョウ、腕やられてないよね?」

「たかが上腕二頭筋がやられただけだから」

「リョウ先輩、さっきお姫様抱っこに腕力あんまり関係ないって言ってましたよね……?」

「へへ、聞こえんな」

「あっあの私降りますから降ります」

「じゃあ椅子に降ろすから」

「あっはい……」

 

 リョウさんが私を椅子に座らせると、

「よし円陣!」

 虹夏ちゃんの音頭で、いびつな円陣を組む。私が椅子演奏なせいで、エフェクターボードが邪魔になっている。

 みんなで左手を出す。虹夏ちゃん、喜多ちゃん、リョウさん、そして最後に私。

 

「いつも通り、楽しくやろう!」

 

 応、と皆で声を出す。

 円陣を解いて全員が持ち場へ。

 眼の前が一瞬、すっと暗くなり、

 

「後藤さん、ギターお持ちしました!」

「あっ……」

 

 明るくなる。と言っても、開演前の薄明かり。

 スタッフさんがギターを持ってきて、私にストラップを掛けようとする。座ったまま一礼して、

 

「お……お願いします」

「はい!」

 

 黒い塗装。金のパーツ。いつものギター。重いから、少し背筋を伸ばすとお腹を圧迫する。痛みが走ったから、逃れようとして猫背になる。結局いつも通り。うめきそうになった声を堪えて、

 

「あ゛……りがとうございます」

「いいライブを!」

 

 スタッフさんが下手側に引っ込んでいく。

 それを横目に見ながらチューニングを始める。足元のチューナーに視線を落とし、ペグを回す。

 

「……よし」

 

 準備出来た。

 喜多ちゃんがこちらに歩み寄ってきて、

 

「大丈夫?」

「だ、大丈夫」

「本当に?」

 

 顔を近づけてきた。

 

「ちゅ、チューニング終わってますから……」

「……」

 

 私の顔を、まるで睨むように見ると、喜多ちゃんはいつも通り、それもあの頃のままの顔で、あの頃と変わらない笑みを浮かべて、

 

「ううん、それならいいの。がんばりましょ」

 

 自分の持ち場に戻っていった。

 

 §

 

 もう、このときには手遅れだった。

 

 §

 



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序章-7(完) 「ざ・ろっく」

 フロアの照明が落ちた。幕の向こうはもう暗闇。

 ステージの青白く薄暗い照明もすっと消える。

 幕が上がり、虹夏ちゃんがスティックを打ち鳴らしてカウント。

 私も準備は出来ている。

 

「鳴───」

 ストローク。

 

「──り 止まなくて なにが悪い 青───」

 

 ストローク。

 

「───春で 何が 悪い」

 

 ちゃんとコードは押さえられる。

 指は相変わらず妙な感覚だけれど。

 ソロもなんとか弾けた。力加減が狂ってるせいか強く押弦してしまって、音程が少しシャープしてしまうところもあったけれど、概ね問題ない範囲。モタることも走ることもなく、多分及第点。

 

 続けて2曲目が始まる。また虹夏ちゃんが4カウント。

 バスドラに合わせて私がイントロリフ。

 

「……」

 

 目が霞む。手は動く。多分そのうち治る。止める訳にはいかない。元々押入れやダンボールの暗闇で弾いていたんだから、目のかすみ程度問題ない。でも、やっぱり明日は病院に行こう……。

 猫背が過ぎて観客席すら見ていなかったことに気付いたから、落ちた視力で観客席に視線をやる。

 頭上が眩しいのにあっちはそこまで明るくなくて、あまりよく見えない。一人ひとりの顔なんてわからない。けれど、

 

「……!」

 

 あまり見えない目でも、分かった。

 ふたりがいる。最前列。

 どんな顔をしているかも分からないけれど、分かった。

 

 そっか、もう一人で見に来れるくらい大きくなったんだ。

 私、まだ27歳だけれど。

 歳を取ったことを実感した。

 まぁ今の私の体力、そこらのおばあちゃん以下だろうし、余計にそう思ってしまうんだろう。

 

 §

 

 中盤を過ぎた。目のかすみは何曲か演っている間に収まって、はっきり見えるようになった。代わりに、寒気がして息が上がる。汗が止まらない。

 そして何より、なぜかお腹にベルトが食い込んで痛い。

 深呼吸も出来ない。ゆっくり息をしていたら、そのまま窒息してしまいそうで。

 手も冷たい。

 

 でも、まだ動く。腕も、指も。

 やれる。顔を上げると、今度はふたりの顔がはっきり見えた。手を振りたかったけれど、ライブ中にやる勇気はなかった。

 

 §

 

 もうすぐ。

 終わる。

 終わったら、ゆっくり休もう。

 最後の曲だから。

 

 そう思った瞬間、心臓が空打った。

 そして、弱く、速く、鼓動が走る。

 目眩はしなかった。ただ力が入らなくて、座っていることすら出来なくなって、私は椅子から右に倒れた。

 

 ステージの上に崩れ落ちても、もうあまり痛くなかった。けれど、ギターのストラップピンが壊れて体から外れた。パシフィカは……もうこのステージでは使えない。でも最後の曲はまた持ち替える予定だったから、不幸中の幸いだった。スタッフさんが多分持ってくる。でも、一向にギターが手元に来ない。

 

「ひとりちゃん!ひとりちゃん!?しっかりして!」

 

 喜多ちゃんの声がする。少し遠いのに、耳に響く。

 いつの間にか落ちていたまぶたを開くと、すぐそこに顔があった。

 

「大丈夫です……」

 

 声が小さいからか、よく聞こえなかったみたいで喜多ちゃんがまだ叫んでいる。

 

「やっぱり……こんな……ひどい顔色……もう終わりにしないと……」

「まだやれます……」

「ひとりちゃん、ごめんなさい、運ぶから……」

 

 そう言うと、喜多ちゃんは私を抱き上げようとして、

 

「……っ!?」

 

 顔をしかめた。とても辛そうな顔。

 

 ああ。私、死ぬんだ。そっか。

 抱えられながら、ふたりの顔を見る。

 何か叫んでいる必死の形相。でも、1300人の声の波に掻き消されて何も聞こえない。

 泣いていた。

 

 こんなはずじゃなかったんだけどなぁ。

 もう仕方ないのかもしれない。

 だから、

 

「喜多ちゃん、下ろして」

「え?」

「ギター」

「ちょ、ちょっと待って、ひとりちゃん……」

 

 立つ。

 死ぬと分かったら何故か立てた。しっかりと、前を見て。

 ギターを持ってきていたスタッフさんの目を見て、

 

「ありがとうございます」

 

 強引に、ネックをつかんで奪い取った。

 床に亡骸のように転がるパシフィカからシールドを引っこ抜く。

 轟音のハムノイズ。

 すぐに後ろのアンプからの音だけになる。PAさんがミュートしてくれたんだと思う。

 痛みはもう何も気にならなかった。気になるのはこの、死に急ぐ鼓動だけ。あとどれだけ刻めるのか。

 

 ただ、それだけ。この一曲持てばいい。

 深呼吸。そして、ジャックイン。

 

 フロアを一瞬眺める。

 心配と熱狂が綯い交ぜになった観客の顔。

 私を射抜く視線の集中砲火。

 もう怖くなかった。

 だから、

 

「─────」

 

 ふたりに軽く手を振って、笑いかけた。

 

 約束、守れなくてごめん。

 ギターはもう教えてあげられない。だから。

 見て、聞いて、覚えて。

 そして忘れないでほしい。

 私に出来るのはそれだけ。

 

 マイクスタンドからピックを一枚取って、軽くピックスクラッチ、そしてコードストローク。

 フロア向こうのPAさんに向けて、フロアに向けて、

 

「”あのバンド”」

 

 観客が沸く。

 10年以上前、即興で入れたソロがあった。

 それとは別のソロを、10年以上練り上げてお決まりとして使い続けた。

 でも、一番最初に吐き出したものが、指から迸った。

 

 ソロが終わるとフロアが燃える。

 なのに、カウントが聞こえない。

 虹夏ちゃんを見る。ドラムスローンから立ち上がろうとしていた。

 喜多ちゃんもギターをまだ構えていない。

 リョウさんは、舞台袖に引っ込んでスタッフさんと話をしている。

 

 困ったなぁ。

 もう私、死ぬのに。曲名コールまでしちゃったのに。

 そう思いながら、虹夏ちゃんを見た。

 立ち上がって、私を見て、それからリョウさんを見ていた。

 リョウさんが戻ってきていて、虹夏ちゃんを指差す。

 まだ喜多ちゃんは構えていない。

 喜多ちゃんもリョウさんを見た。

 リョウさんは、うなずいてベースを構える。

 

「喜多ちゃん、演ろう」

 

 虹夏ちゃんがマイクを通さずに呼びかける。

 

「伊地知先輩……!待っ─────」

 

 4カウント。

 凶暴なベースライン、重く速いドラミング、それにギターを重ねる。

 足りない。これじゃ足りない。

 アンプの前まで歩く。

 シールドの長さがいつも通り長くて良かった。

 激しくピッキングしてフィードバックノイズを起こさせる。これでいい。

 隣のアンプにも喜多ちゃんが寄ってくる。

 もう顔色を伺うつもりはなかったから、見ないつもりだった。でも、突然喜多ちゃんがギターを持ち上げて、頭の後ろに持っていった。

 背ギター。

 そういえば一発ネタとして伝授したことがあったっけ。

 私みたいな人間には考えることすら口幅ったいけれど、師匠としては不思議な気持ちになる。

 本当は私まで鳴らすはずがなかったフィードバックの分、小節が増えてしまったけれど、リョウさんと虹夏ちゃんは対応してくれてる。目線を送ってエフェクターボードの前に戻る。喜多ちゃんもセンターへ戻り始めた。

 

 刻む。ひたすら刻む。指板のハイポジションへ移動しながら、右手はひたすら速く。

 全ての音が途切れて、私の鳴らすリフだけ。

 観客の声。

 

『はァい!』

「あ の バンド の歌 がわ たし には 甲高く響 く 笑い 声 に 聞 こ え る」

 

 ライブ最終盤だからだけじゃない、外してはいないけれど荒れた歌声。

 

「あ の バ ンドの 歌 がわ たし に は つんざく 踏切の 音みたい」

 

 でもそれでいいから。

 歌声が背中を押す。

 

「背中を 押すなよ もうそこに 列車 が 来る」

 

 心臓を叩く。もっと動けと。まだ動けと。もう少しだけ動けと。

 

「目を閉じる 暗闇に差す後光」

 

 目を閉じても音が眩しい。

 

「耳塞ぐ 確かに刻む鼓動」

 

 ここに刻んで逝く。

 

「胸の奥 身を揺らす心臓」

 

 生きていた。

 

「ほかに何も聴きたくない 私が放つ 音以外」

 

 リフ。ピックが指から滑り落ちる。もう手にも力が入らない。続けられない。

 悔しい。膝にも力が入らない。

 最後の力で、マイクスタンドからもう一枚ピックを引き抜いた。

 みんなには悪いし、つなぎも不自然でメチャクチャだけど、ギターソロへ直行。

 フルボリュームでコードストローク一発。

 皆が察してブレイク、虹夏ちゃんが再度4カウント。合わせてピックスクラッチ。

 ソロを始める。

 

 心臓が動いてる。やめない理由はそれ以外いらない。

 心臓が動いてる。やめる理由は何もない。

 生きてるこの最期のときに、私を認めさせてやる。

 私を見ろ。聞け。叫べ。

 称えろ。

 

 今のフロアは、突き上げた腕と声が大波に見える。

 手元なんか見なくてもいい。突き刺さる視線を全て受け止める。

 ああ、でも。ふたり。ふたりには、ちゃんと見ていてほしい。

 見る。まばたき一つしていなかった。

 嬉しかった。

 歌が入る。

 

「背中を」

 

 ストローク。もうピックは落とせない。

 

「押すなよ」

 

 曲を勝手に縮めたんだから。

 

「たやすく心 触るな」

 

 トレモロ気味の刻み。

 自分が死ぬのはもうどうでもいい。

 

「出発の ベルが鳴る」

 

 申し訳ないのは、

 

「乗客は私一人だけ」

 

 みんなを置いていくことくらい。

 

 膝がカクン、と落ちて座り込む。

 またまぶたが落ちる。

 喜多ちゃんの歌とリズムギター、遠鳴りのような手拍子が聞こえる。

 少し、休む。ピックはまだ持ってるはず。弦に当てると硬い反発が返ってくるから。

 

「─────足跡残すまで!」

 

 本当に、あと少し。

 

「目を開ける」

 

 最後の一歩を踏むんだ。

 

「孤独の称号 受け止める」

 

 ぼっち・ざ・ろっく。

 

「孤高の衝動 今胸の奥」

 

 虹夏ちゃんが名付けてくれたロックが鳴る。

 

「確かめる心音」

 

 確かに鳴っている。

 

「ほかに何も聴きたくない 私が放つ 音以外」

 

 今ここにぼっち・ざ・ろっくが鳴っていた。

 

 指の感覚が完全になくなった。目も霞んでよく見えない。

 動いている事実と耳だけが頼り。

 リフが何音か欠けた。ピックはもう落としているみたい。

 後は爪。最後まで弾き切る。

 

 永遠のように長い数秒。果てしなく遠い8小節。

 

 終わった。

 ……まだ、生きてる。

 体の感覚はなかったけれど、すくりと立ち上がって、ギターをスタンドに立て掛ける。

 

 そのまま、また世界が横倒しになった。

 

 まぶたが落ちる。

 万雷のような手拍子。

 

 まだ生きてるから。

 だから、行かないと。

 

「アン、コール……」

 

 §

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 §

 

 私には人生が2つある。

 幼稚園でこの指とまれを見て、食らいつくように必死で走るこの私。

 それと、あの指にとまっていいのか分からなくて一人になる私。

 

 私じゃない私が3人いる。

 

 友達に囲まれる私。けれど寄る辺なきストリーマー。

 ひとりぼっちの私。つまり寄る辺なきコントリビューター。

 

 元カノに追い回される私。酷いタナトフィリア。

 誰にも見られていない私。酷いタナトフォビア。

 

 彼氏のできた私。ひとときのロマンスヒロイン。

 嘘をついた私。いつでも独り身。

 

 陽キャもどきの私。

 陰キャの私。

 

 精神分裂病?私は、最低の四重人格者だ。

 

 §

 

 

BOCCHI THE QUADROPHENIA!

 四重人格者ならロックをやれ!

 



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本編「ざ・くあどろふぇにあ」
本編-1「The Real Me」


よわくてニューゲーム


 物心ついたのはいつだっただろう。

 でも、最初に自分自身でものをはっきりと考えている、と認識できた時には、“27歳で死にたくない”ということで頭が一杯だった。幼稚園に入る前だったはず。

 

 そして、いつかの「この指とまれ」を見た時、私はあの指に止まれないと、孤独になるんだと理解した。

 同時に、私には27歳で死んだ、もう一つの私の人生があることを思い出した。

 

 幼稚園児の脳は多分まだ発達途上で、27年分の人生が突然降ってくるなんてことには耐えられなかったんだと思う。

 記憶の中身には目もくれず、あの指に止まれたのに安心して、私はそのまま数日寝込んだ。

 

 もう一つ人生があった、とは言っても、別にその続きに私の人生があるという感じではなかった。ただ、もしもの私があるというか、このままだとこうなる、というか……。

 

 だからギターで自分を変えようとするんじゃなくて、普通に踏み留まるために普通を頑張ろうと決めた。

 普通に生きて長生きしたい。

 

 それに、私はすぐに全てを間違える。

 私が正しいと思うことは間違いで、周りの言う事のほうが絶対に正しいんだ。

 普通に生きるんだから、普通の人がやることをただ真似る。

 寝込んでいる数日、段々具合が良くなってくると急に頭が冴えてきて、どう生きればいいかをひたすら考えていた。

 

 私の着たい服はダサい。間違ってる。

 私の描くデザインはダサい。間違ってる。

 私の振る舞いは気持ち悪い。間違ってる。

 私の死は早すぎた。間違ってる。

 私の人生は間違ってた。

 だからこの私は間違えずに生きるんだ。

 

 私の嫌いな服はかわいい。正しい。

 皆の描く絵は素晴らしい。正しい。

 皆がするようなふるまいが真っ当だ。正しい。

 皆病室か布団の中で死ぬのが普通だ。正しい。

 普通に生きるために、私は私を否定する。

 

 §

 

 それから、この指とまれには必死で走って一番か二番くらいにとまるようになった。

 幼稚園の先生から元気な子だって褒められるようになった。

 

 友達もできた。おままごととか、花を摘んで編んだりした。うまくできなかったけれど、練習した。

 

 休みの日、公園に連れて行ってもらってひたすら花を編む。

 お母さんのお手本を見ながら、公園から野花が消えるまで必死に練習した。だからか、お母さんは、

 

「ひとりちゃんはお花が好きなの?」

 

 と聞いてきた。”出来なきゃいけないから”とは言えなくて、

 

「うん」

 

 と答えた。女の子は花が好きなのが普通だから、これでいい。

 

 §

 

 日曜の朝は早起きしてアニメを見た。みんな見ていたから。面白いはずだと思ったけれど、面白いと感じられなかった。でも、1シーンも見逃すわけにはいかないと思ってテレビに齧り付いた。30分が長くて疲れて、終わるとまたすぐに寝た。

 

 ある日の土曜日、寝坊してしまった。慌ててリビングでテレビを付けると、仮面ライダーが流れていた。私は癇癪を起こして泣いた。私はあくまで幼稚園児で、27年分の記憶があるだけの幼児だったから。

 

 お母さんもお父さんもそれを見かねて慰めてくれた。

 週明けの幼稚園で話が出来ないのが怖かった。

 

 どうしよう。何も話すことがない。輪に入れない。お花もうまく編めない。おままごともよくわからない。

 失敗した。

 

 流れたままの仮面ライダーの方が、アニメより面白かったのが、逆に恨めしかった。

 

 §

 

 週明け、この世の終わりみたいな気分で幼稚園に行った。行かなきゃいけないから。それが普通の子供だから。幼稚園児だったはずなのに、何が”多分普通”なのかは知っていて、それに従わなければならないと思っていた。

 

 案の定、アニメの話にはついていけなかった。

 

 お友達とお話をする方法がわからなかったから、それからもあの指に一目散に走る日々を続けた。そうすればお友達ではいられる。私は一人じゃない。

 でも、居心地が悪い。すごく場違いな、恥知らずな感じがして。

 ここにいてはいけないような気がする。

 

 §

 

 幼稚園で私は突然泣き出すようになってしまった。

 なんでもない、ふとした瞬間に涙が出てきて叫びだしてしまう。

 

 先生はいじめがあるんじゃないかと疑い始めた。

 私はそうじゃないと訴えた。なのに疑うことをやめてくれない。

 誰かが悪者になるのかと思うと耐えられなかった。

 

 §

 

 何日か経って、私は幼稚園を休むことになった。

 消えたい。

 

 そう思いながら、布団の中でずっと泣いていた。

 

「ひとりちゃん、嫌ならもう幼稚園、行かなくてもいいのよ……?」

 

 お母さんの優しい言葉が辛い。すがろうとするこの手を刺したい。

 

 死んでしまいたい。

 この人生も失敗だった。

 27年分の人生が幼稚園児の自意識を完全に汚染していた。私はもう4歳でも27歳……いや、31歳でもなかった。

 自分の心がめちゃくちゃになってしまっていた。

 

 後藤ひとりが大嫌いだ。

 あの後藤ひとりが。

 27歳で死んだ後藤ひとりが。

 

 §

 

 お母さんとお父さんに連れられて病院に行った。

 うつ病だって言われた。

 

 私はまだ4歳なのに、あの後藤ひとりよりもずっと早くしくじってしまった。

 私は何を言われているかわからないふりをした。

 と言っても、何を言われても関係なかっただけ。

 

 お母さんは泣いていて、お父さんは俯いていた。

 

 お医者さんがお母さんとお父さんを詰めている。

 

 適切な養育を行っていたか。

 異変に気付かなかったのか。

 その他諸々。

 

 柔らかい口調で、けれど目の色は幼稚園の先生と同じだった。

 

「おかあさんも、おとうさんもやさしいです。だから、わたしがおかしいだけです」

 

 そう言った。

 私は別室に連れて行かれて、両親と引き離された。

 

 §

 

 別室には、優しそうな女の看護師さん、多分カウンセラーの先生が待っていた。

 

 私はまた癇癪を起こした。

 とにかく手でつかめるもの全て、投げつけた。

 お父さんもお母さんも幼稚園の皆も誰も悪くない、私だけが悪い。それを信じてもらえなくて。

 

 §

 

 入院させられて、両親と本格的に引き離された。

 

 周りには変な声を上げる子供、暴れる子供、色々。

 私もその中の1人。

 

 絶望した。

 これじゃあ、完全にあの後藤ひとり以下だと思って。

 まるで27歳で死ぬのが後藤ひとりにとって、最も自然で、最も上等な人生であるかのようで。

 認めたくなかった。

 

 カルマという言葉を知っている。

 あの後藤ひとりから押し付けられた知識。

 逃れられない、人が一人で抱えなければならない、生まれつき持った性質、あるいは宿命や運命。

 人生が良いものか悪いものかをすら決めてしまうもの。

 

 私は、それから逃れようとしたから罰を受けているんだろうか。

 認めたくない。認める訳にはいかない。

 

 私は度々病室を抜け出して、家まで走って帰ろうとした。裸足のままで。

 アスファルトの熱さが小さい足を焼く。

 幼い体にとって、家路は果てしなく長く。

 結局、見つかって病室に連れ戻される。

 

 どれだけ暴れても。どれだけ帰りたいと訴えても。

 病院での生活は続いて、両親はお見舞いに来てくれなかった。

 なんでだろう、と思ったけれど、私を見放したんじゃないかと考えた。

 その方がいい。こんなおかしい子供、いなかったことにしたほうがいいに決まってる。

 忘れてほしかった。

 

 忘れてほしくなかった。早く助けに来て欲しかった。

 でも、もしかしたら。

 病院が私と両親を引き離して会わせないようにしているんだったら。

 

 逃げ出さなきゃ。

 今すぐここから逃げ出さなきゃ。

 

 §

 

 眠れない夜、私は病室を抜け出した。

 忍び足でナースステーションをやり過ごし、巡回している看護師さんから隠れて、階段にたどり着く。

 

 ひたすら下る。そして玄関にたどり着くと、ガラスの自動ドアが立ち塞がっていた。

 動くわけもない。

 

 だから、何か硬くて、重いものを探した。

 公衆電話を見つけた。そして、そこには電話帳があった。

 電話帳を抱えてヨタヨタと歩きながら、自動ドアの前に立ち、角を向けて何度もガラスに叩きつけた。

 

 何度も。

 何度も。

 何度も。

 逃げ出すためなら何度でも。

 

 私は子供だった。弱くて小さい存在だった。

 けれども。ガラスに亀裂が走った。

 

 この病院に来て初めて笑えた。

 ガラスの破片が雫のように床に溢れていく。後少し。

 そして、小さな穴が空いた。続けて穴を広げるためにガラスを崩していく。

 通れる。逃げられる。

 

 警報が鳴り響く。

 けたたましい音を背に、私は地獄を脱出した。

 割れたガラスが足の裏に刺さる。

 気にならない。むしろ嬉しい。痛みが。

 走った。生け垣の中に小さい体をねじ込む。

 枝葉が肌を切る。痛いけど嬉しい。

 ここに私がいる気がして嬉しい。

 

 茂みの中から顔を出すと、排水路があった。

 そういえば、敷地は水路で囲まれていたんだった。

 まだ諦めない。

 生け垣の枝を掴みながら、橋になっている出入り口を目指す。足を踏み外して落ちないように。

 ざらついたコンクリートの表面が皮膚を削り、足の裏に刺さったガラスの破片が引っかかって痛む。

 

「あはは」

 

 痛いほどいい。頭の中でじんわり何かが溶ける感覚。

 道路に車がやってくる。ライトと人目から逃れるように、生け垣にまた入り込む。

 どんどん車がやってきて、多分3台で打ち止めになった。

 病院はいつの間にかどの部屋も電気がついていて、まるで夜景から切り取られたビルだった。

 

 ついに排水路を渡る橋にたどり着き、私は敷地から抜けた。

 あとは家に帰るだけ。

 深夜だったからアスファルトは冷たくて気持ちいい。たまに踏む礫も、足を取る道路の凹みも、転んで擦りむいた膝も、すべてが楽しい。

 

 はるか遠い家までの道を、休まず走り、歩いた。

 そして、朝が来た。一睡もしていなかったけれど、眠くなかった。

 実のところ、私は家の場所をよく分かっていなかったから、早く見つけなくちゃいけなかった。

 

 家に帰れなきゃ、失敗なんだ。

 それに、もしかすると病院が私を追いかけてきているかもしれない。

 また連れ戻されるなんて絶対に嫌だ。

 家に帰りたい。

 でも、大体このエリアということは分かっていたからいろんな筋を歩いてはやり直して、次の筋へと、それを繰り返した。

 

 そして、私は、

 

「……ここ」

 

 奇跡的に、見覚えのある筋にたどりつく。

 そして、

 

「あった……」

 

 家に帰ってきた。

 朝日が眩しく照らす中、私は精一杯背伸びをして、玄関の呼び鈴を鳴らした。何度も。何度も。

 

「おかあさん、おとうさん、あけて、あけて……」

 

 疲れて大きな声が出せない。

 背伸びも出来なくなって、呼び鈴を押すのをやめた。

 そしてドアを叩く。何度も。何度も。

 声が聞こえた。

 

「ひとりちゃん……?ひとりちゃんなの……!?」

「おかあさん、あけて……!」

 

 お母さんに、必死で呼びかける。

 ドアを叩く。あまり大きな音にはならなかったから、思い切って頭を叩きつけた。

 

「待って、待って……!鍵開けるからね……!?」

 

 私は一歩下がって、地面にへたり込んだ。

 ドアが開いた。お母さんが顔を出す。

 

「ただいま……」

「ひとりちゃん……!?どうしたの、そんな怪我……!それになんでここに……」

 

 お母さんは私を抱えて家の中に入れると、そのまま玄関の地面に膝をついて私を抱きしめた。

 

「おうちに、かえりたかったから……」

「そう……ごめんね……ごめんね……」

 

 お母さんの顔をよく見ると、やつれていた。

 私のせいだってことはすぐに分かった。

 

「おかあさん、ごめんなさい……でも、おうちにかえりたい、もうびょういんはいやだから……」

「うん……」

 

 私はそれだけ言うと眠くなってきて、あっさりと意識を手放した。

 



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本編-2「The Stairway to H.E.A.V.E.N/About to Crash」

 私、後藤ひとりは死んだ。

 27歳で死んだ。

 

 今、私は宙に浮いている。

 春の風に煽られることもなく、何ものにも触れられることもなく。

 

 見知った顔が、やつれた姿でそこにあるのを見る。

 店長さんだった。

 墓石の前に膝をついてしゃがんでいる。

 私は幽霊というものになっているようで、宙を泳ぐようにして近づき、そばに降りる。

 店長さんは、泣いていた。

 死んだ目をして。

 

「ぼっちちゃん……」

 

 枯れた声。多分、喉が酒で焼けているんだと思う。

 声が届くのなら、お酒はほどほどに、とでも伝えられただろうけれど。喉から音が出てこない。

 

「来るの遅くなって……ごめんなぁ……」

 

 力のない声。

 

「虹夏のこと、目を離せなくて……お父さんが定年で家に戻ってきたから、やっと虹夏を任せられるようになってさ……」

 

 右手には、仏花が握られていた。

 

「まだ、あの子、立ち直れなくて……通夜と葬式の後、ずっと塞ぎ込んで……」

 

 ……皆には、申し訳ないとは思ってる。

 置き去りにして死んだことを。

 

「放っといたら、あの子まで死んじゃいそうでさ……私、最近までろくに寝れなくて……まぁ……今も寝れないんだけど……」

 

 めっきり老け込んで、白髪も目立っていた。

 疲れに疲れて、すり減っているのがわかった。

 

「山田、毎日家に来てくれて、あいつ野草しか料理できなかったくせに……わざわざ普通の料理覚えて家で色々作ってくれるんだよ……材料費とか、一銭も取らないし……金あんのかな、あの馬鹿……」

 

 リョウさんがそういうことをしていることは、意外だとは思わなかった。

 ただ、リョウさんがそこまでするほど、虹夏ちゃんが追い詰められている、私がそこに追いやったんだということを実感させられた。

 

「……ぼっちちゃん、ごめん……私がぼっちちゃんを死なせたようなもんだよな……」

 

 どうして?

 

「虹夏が塞ぎ込んでるのは、ただ大事な仲間を亡くしたからってだけじゃない……」

 

 店長さんは、しゃがみ込んで、そのまま膝を地面につけた。

 

「私だって虹夏の夢は知ってる……話半分っていうか、そもそもあいつが話したわけじゃないから、なんとなく察してたけど、本気にもしてなかったんだけど……STARRYのためで、私のためで……私達の母親のために、有名になりたかったんだよな……」

 

 虹夏ちゃんの本当の夢。私がいれば叶えられると言った、あの夢。

 

「虹夏の夢、ぼ、ぼっちちゃん……知ってたん、だろ……?だからさ、だから……あの日、ぼっちちゃん……痛かったろ……?辛かったんだろ……?なのに、なのにさ、無理して、ライブして、それで……」

 

 店長は、崩折れて地面に額を擦り付けながら、

 

「ごめんなぁ……!ごめんよぉ……ぼっちちゃん……!」

 

 こんなの見たくない。見たくなんてなかった。でも目をそらしちゃいけないものだった。

 

「でも……虹夏に、言えなくて……私のせいだなんて、言えなくて……誰にも言えなくて……ごめん……」

 

 慰めの言葉なんて思いつかなかったし、あったとしても届けられなかった。

 私のほうが、死んでごめんなさい、だった。

 

 多分だけど、これから私は幽霊として、色んな人の苦しむさまを見せられるんだろう。

 死後の世界には、天国と地獄、そしてもう一つあるらしい。キリスト教の本も読んだことがあるから、それによると、だけれど。

 

 その最後の一つが煉獄。

 そこで受ける責め苦を以て、清められた後に天国へ行くそうで。

 

 もし私が煉獄にいるのなら、つまりいずれ天国に行く。

 それは私に許されちゃいけないと思った。

 私は天国なんかには行かない。

 償えない罪で、地獄に落とされたい。

 

 だって、私が天国にいるなんて、その方が地獄だ。

 

 ●

 

 目が覚めた。

 

 足の裏がじくじくと痛む。

 腕も頬もひりひりする。

 

 目のピントが合う。見覚えのある天井、家の天井だった。

 病院じゃないことに安心して、気が緩んで、私は泣き出した。

 

「ひとりちゃん……!痛いの!?大丈夫!?」

 

 お母さんがバタバタと足音を立てて近づいてきて、私を覗き込む。

 

「いたいけど、おうち、うれしい……」

「そう……」

 

 疲れた顔のお母さんは、ホッとした顔で微笑んだ。

 それで、

 

「もう、びょういん、いかなくていい?」

「……」

 

 聞くと、お母さんはまた顔を曇らせた。

 何を言ったらいいか、迷っている表情。

 

「……入院は、もうやめましょう。お家から通うだけに……」

 

 嫌だ。

 でも、ただ駄々をこねるだけじゃ駄目だと思ったから、

 

「がんばってふつうになるから、もうびょういんいきたくない……」

 

 そう言った。

 お母さんは、悲しい目をした。

 

 また、間違えた?

 でも、

 

「そうね、でもお願い、別の病院を探すから……そこに一緒に行ってくれる?」

「……うん」

 

 別の病院。

 私だけがおかしいって信じてくれる病院があるかもしれない。

 それならいいから。だから頷いた。

 

「……あぁ、そうそう。お腹空いてるでしょう?ご飯作ってくるから、ちょっと待っててね」

「うん」

 

 そう言うと、お母さんはキッチンへ向かった。

 一人になった私は、夢のことを思い出す。

 

 あの人、あの後藤ひとりのせいで不幸になってしまったんだ。

 あの人の妹も、その友達も、父親も。

 後藤ひとりのせいで。

 後藤ひとりが死んだせいで。

 

 やっぱり、27歳で死ぬのは間違ってる。後藤ひとりが良くても、他の人にしてみれば大迷惑だ。

 だから、普通に生きるのが一番いいんだ。

 

 私は、普通に生きたい。

 普通に生きて、何がしたいわけでもないけれど。

 普通に生きなきゃいけないんだ。

 普通に生きるためならなんでもやる。怖くても、辛くても、痛くても。

 だって、それが普通なんだから。

 

 お母さんが作ってくれたのはお粥だった。食べさせてもらう。美味しくて、慣れ親しんだお母さんの味で、幸せでまた泣いた。

 お母さんはもう心配はしてなくて、嬉しそうに私の口元にスプーンを添えて食べさせてくれた。

 

 突然呼び鈴が鳴った。

 

『警察です。後藤さんのお宅ですね?』

 

 声がした。

 

『後藤ひとりちゃんの件でお話を伺いたく参りました』

「……お母さん、ちょっと行ってくるから」

 

 顔を強張らせて、お母さんは玄関へ行ってしまった。

 

 警察?……警察。

 ああ、そうか。当然だった。

 私は、罪を犯して病院を抜け出したんだった。

 自動ドアをぶち破って。

 だから、私が行かなきゃいけないと思った。

 布団を捲りあげて、立ち上がろうとする。

 足の裏が畳に沈み込んで、返ってくる弾力のせいで強く痛む。

 

「うぁ……!」

 

 堪えきれずに、声と涙が漏れてきた。

 でもそのうち慣れることは昨日の帰り道で分かっていたから、歩いた。

 玄関に行くと、警察官が2人と、お母さん、それにお父さんがいた。

 何か話していたみたいだけれど、

 

「ひとりちゃん……!?」

「ひとり……!?」

 

 お父さんとお母さんが私を見て驚く。

 それを気にしないで、

 

「わたしがひとりでびょういんをぬけだしました。ガラスをわって、ごめんなさい」

 

 警察の人は驚いていた。

 何に驚いたのかは分からないけれど。

 

「ど、どうして、病院を抜け出したのかな?」

「おうちにかえりたかったんです」

「……その。どうやってガラスを割ったのかな……」

「でんわちょうをなんどもぶつけました」

「お家まで遠かったでしょ?どうやって帰ってきたのかな?」

「はしって、あるいてかえりました」

「うーん……」

 

 代わる代わる投げられる質問に、私はノータイムで答えていった。

 幼稚園で人見知りを直しておいてよかったと思った。

 でも、やっぱり初対面の人と接するのは怖い。特に、この人達は警察だから。

 

「……誰か、大人のひとに手伝ってもらったのかな?」

「ぜんぶひとりでやりました」

「……信じられない」

「しんじてください」

「……うーん」

 

 警察の人が困っている。でも、事実としてそうだからもう言うことがない。

 

「分かりました。後藤ひとりちゃんは無事で、家に帰っているということで上にあげておきます。病院さんにもそのように報告します」

 

 お父さんが頭を下げて、

 

「はい……ご迷惑をおかけします。ですが、病院からはひとりが居なくなった、抜け出したという話は全く聞いていなくて……ですから、今朝帰ってきて初めて心配になったくらいでして」

「え?そんなことが……?」

 

 あの病院。

 

「あんなびょういん、なくなっちゃえ」

「わたしのてき、おかあさんにもおとうさんにもあえなくした、あいたかったのに、ずっとあいたかったのに」

 

 心の奥のドロドロしたものに火が着いた。

 

「わたし、なんどもぬけだした。でもおとうさんもおかあさんもきてくれなかった。だからおとうさんもおかあさんもわたしのこと、わすれたのかなって」

「……我々も初めて知ったんですが、お嬢さんが病院を度々脱走していたというのは……」

「いえ、知りませんでした……病院の先生からは、面会禁止と……」

「しらなかったんだ」

 

 燃えているのは、憎しみだ。

 

「やっぱり、あんなびょういん、なくなっちゃえばいい」

 

 警察の人を見る。

 

「そうですよね」

 

 睨む。

 警察の人が、一歩下がった。

 怯えた目をしている。

 

「やめなさい、ひとり……」

 

 お父さんが私の肩を掴んで、振り返らせる。

 お父さんもやっぱりお母さんと同じようにやつれた顔をしていた。

 

「……うん」

 

 これ以上、お母さんにもお父さんにも心配をかけたくなかったから、もう一度警察の人に向き直って、

 

「ごめんなさい」

 

 頭を下げて謝った。

 

 警察の人は、また来るらしい。けれど一旦帰った。私が病院を抜け出すために割ったガラスの件は、やっぱり犯罪なんだろう。

 

 §

 

 それから私は、病院にも幼稚園にも行かず、数日寝て過ごした。

 私は怪我をしていたし、警察の人が帰った後に急に調子がおかしくなってしまったから。

 

 あの後藤ひとりも似た病気だった。

 体が動かなくなったり、突然泣き出したりしていた。

 

 私は癇癪が止まらない一方で、ごめんなさいと言いながらお母さんとお父さんをポカポカ殴ってしまって、子供らしく、でも多分普通じゃない情緒不安定になっていた。そのくせ寝ると起きれず、変な時間に起きる。

 

 そうして起きると、今度は眠れない。真夜中に起きてしまうと、お母さんもお父さんも寝ているから身動きが取れなかった。

 私のせいで起こして疲れさせたくなかった。

 

 私が帰ってきたのは、間違いだったんだろうか。

 あのまま病院に閉じ込められていた方が2人にとってよかったんだろうか。

 私はもう失敗した。あの後藤ひとりより、早く、そして沢山間違えてしまった。

 こんなにも普通でいたいと思うのに、どうしても普通でいられなくて、苦しい。

 

 §

 

 そんな日が続いてある日、東京の病院に行くことになった。

 電車に乗って遠くまで。

 お母さんに抱えられながら。

 そんなところに入院させられたら、今度は帰れない。

 そんなことを考えてしまって、自己嫌悪した。

 でも、疑いを払えなくて、

 

「おかあさん」

「なぁに?」

「にゅういんしなくてもいいんだよね?」

「もちろんよ」

 

 お母さんの顔をじっと見る。

 嘘をつかれていないかと。

 お母さんは私の目の意味を理解してしまって、苦しそうな顔で、

 

「ずっとお家にいてね……でも、もしかしたら……色んな病院に行くかもしれないから……」

「うん……ごめんなさい」

 

 電車、お母さんの膝の上。

 抱きしめられているのに、私の心が冷たすぎて。

 私は、腐った子供だな、と思っていた。

 

 §

 

 東京の病院の先生は、私の言うことを信じてくれた。

 言葉だけならなんとでも言えるけれど、目が違った。

 私を信じようとする色、それに混じった好奇心。

 でも、私がおかしいと分かってくれるならなんでもよかった。

 だから、

 

「わたし、ここにかよう」

 

 そう言うと、病院の先生も、お母さんも笑ってくれた。

 

 それから医者の先生と会う時は、いつもカウンセラーの先生も一緒だった。最初に私の具合を聞いて、それからカウンセリング室へ。医者の先生とはここでさよなら。

 

 カウンセリング室では、色々な検査を受けた。

 積み木を使ったり、計算をしたり、絵を描いたり。

 カウンセラーの先生は、私の質問のほとんどに答えてくれた。

 そして、私が受けたいろいろな検査が、実は一つの検査……”知能検査”だってことを教えてくれた。

 私は確かに馬鹿で、あの後藤ひとりも救いようもない馬鹿だったけれど、私がおかしいことと関係があるのか疑問だった。

 

 §

 

 結果が出た。

 私は、ちょっとおかしかったそうだ。

 得意なことの偏りがひどくて、早めのケアが必要だとか。

 得意も何も、私が得意なことなんて何もないと思っていた。だから、多分オブラートに包んで言った言葉なんだと思う。

 

 私は出来損ないなんだろう。

 数字で示された厳然たる事実に、私は安心した。

 おかしいことの証明に、居場所を見つけてしまった。

 それで……私は、

 

「どうしたら、ふつうになれますか?」

 

 そう聞いた。”おかしい子”が私の立ち位置だと認めたくなくて。

 

「どうしたら」

 

 どうしたら。

 どうしたら。

 私はまた癇癪を起こして、泣いた。

 

「どうして……普通になりたいの?」

 

 カウンセラーの先生の声がする。

 お母さんの手に抱かれている。

 私は、答えられなかった。

 誰にも言えない。

 このままじゃ、私は死ぬしかない、だなんて。

 誰も信じてくれない。誰にも信じてほしくない。

 誰にも知られるわけにはいかない。

 そんな話は。

 

 §

 

 ずっと幼稚園に行けなかった。

 行きたくないけど、行かなきゃいけないと思った。

 だから、

 

「おかあさん、ようちえん……」

「行かなくていいのよ……ずっとお家にいればいいから」

「でも、いかなきゃ」

「いいの……」

 

 私が、本当は幼稚園に行きたくないのを、お母さんはとっくに理解してしまっていた。

 

 毎週、病院に通った。

 カウンセリングも、私が黙り込むせいで何も進まなかった。私はいつも消えたいと、死にたいと思っていたし、体もろくに動かなかった。ご飯もあまり食べられなくて、ずっと寝てばかりだった。

 寝ても、覚えていない怖い夢ばかり。

 

 私なんて、死んでしまえばいい。

 

 §

 

 カウンセリングの方法が変わった。私は話さなくてよくて、”こうすれば普通なのか?”という問い掛けに首を動かしてYESとNOで答えるだけになった。たくさんの質問をかけられたけれど、それにほとんど反射で、しかも惰性で答えればいいから楽だった。

 カウンセリングの終わりにはいつも総まとめみたいな感じで、

 

「じゃあ、こういうことがひとりさんの普通なんですね」

 

 と真面目に、でもにこやかに締めてくれた。

 だから、そのうち質問のYES/NOに自分の意見も付け加えるようになった。

 先生はいつもメモにまとめていた。紙束の厚さはすごかった。

 その紙は何かと聞いたら、今までの全てのメモだと答えてくれた。カウンセリングをする時はいつも全部持ってくると言っていた。

 

 鬱はつらかったし、いつも死にたかったけれど、カウンセラーの先生に会うことだけが生きている意味だった。

 それに、私がお母さんを気にしていると、いつも先生はお母さんに、

 

「すみません、ひとりさんと二人きりでお話させていただけますか?」

 

 と言ってくれた。お母さんも先生を信用していたと思う。

 

 §

 

 ある日、カウンセリングのやり方がもっと変わった。

 

「今日は不思議なおまじないをします」

「まずは、深呼吸しましょう」

「……はい」

 

 深呼吸をする。

 

「なんかい、すればいいですか」

「そうですね、とりあえずずっとですね」

 

 言われたとおりに続ける。

 

「じゃあ、目も閉じましょうか」

「はい」

 

 目を閉じて、息をする。

 先生の足音、それからパチリ、という音がして、カウンセリング室の電気が少し暗くなった。

 まぶた越しの光が弱くなる。

 

「それじゃあ、おまじないを始めます。その前に……これは、危ないことはなにもないですし、怪しくもないです。いいですか?」

「はい」

 

 先生の言う事なら信じられた。

 おまじないが何のことかは分からないけれど。

 

「左手に触っていいですか?」

「はい……」

 

 左手に触れられる。そして、握らせられた。

 

「今、左手はぎゅってなっていますね。ごめんなさい、今からこの手はぱーって出来なくなります」

 

 ゆったりした口調。ぼんやりした意識。先生の言葉。

 

「はい、左手、ぱーって出来ないですね?」

 

 左手を開こうとする。動かない。

 

「……どうして?」

「ひとりさんは、催眠術って知ってますか?」

「……しってます」

 

 催眠術。人を操ったりする……テレビでやるような。

 

「テレビでやってます」

「うん。でも、私達は医学……ああ、病気の人を治すやり方に催眠術を掛けたりすることもあるんです。ひとりさんの左手がぱーってならないのは、催眠のせいです」

 

 ……そうなんだ。なんだか、不思議。

 

「それじゃあ、左手を自由にしましょうか。目は閉じたまま……落ち着いて深呼吸しましょうね。それじゃ、私が一回手をパチン、としたら、ひとりさんの左手は元に戻ります。はい」

 

 手拍子が聞こえた。

 ……左手を動かす。握ったり開いたり出来る。元に戻っていた。

 

「ふしぎ……」

「でしょう?それじゃあ、今度は質問してもいいですか?」

「はい……」

 

 カウンセリング室には、先生と私の二人だけ。

 時計のコツコツという音が響いている。

 椅子に座っているのに、寝転んでいるような、水に浮いているような不思議な感覚。

 

「ひとりさんは”普通になりたい”って言っていましたよね。じゃあ、誰かに”普通になりなさい”って、言われたんですか?」

「ちがいます」

「それじゃあ、”普通になりたい”って思ったのは、いつ?」

 

 頭で考えていないのに、言葉が勝手に口から出ていく。

 

「そうおもったのは……」

 

 だから、

 

「26歳の時」

 

「もしかしたら12歳の時、それより前かもしれなくて、何をやってもうまくいかなかったんです……友達なんて一人もいなかったし、気にかけてくれるのは、家族と、幼稚園の先生、あとテストで悪い点を取った後の学校の先生くらい……頑張ったのに、何一つ人並みになれなくて……」

 

 先生の声が聞こえない。

 

「先生?そこに、いますか?」

「……はい。います。聞いています」

 

「……それで、ロックなら、音楽なら私のような暗い人間でも、違う、暗い人間こそがまともなんじゃないかって思えて、ギターを12歳のときに始めたんです。小学校を卒業して、中学になると運動も勉強も人付き合いもいっそう駄目で」

 

「一日……六時間くらいギターを弾くようになってました。ギターだけは上手くなったんです。ギターしか、うまくいかなかったんです……それで、いつかバンドやるんだって、思ってて、そのまま中学で誰にも話しかけることも出来ずに、卒業して……色々痛々しいこともしちゃったから、高校は県外に……」

 

「その頃には、演奏した動画をネットに何本も公開して、ネットに居場所が出来た気がして……もう現実に私の居場所なんてなくたっていいかなって、思ってたんです……」

「……その、バンドは、もう組みたいと思わなかったんですか?」

「人と喋るの苦手で、目も合わせられなくて……」

 

「学校に、ギターを持っていったんです。誰か話しかけてくれないかって、そう思って。でも話しかけてもらえなかったし、他力本願なことしてるから私は駄目なんだと思ってました。家から遠いんですけど、学校の帰りに公園でブランコに座ってて……私、ブランコもうまく漕げなかったんです……」

 

「もう学校にも行きたくないなって思ってて、そうしたら、ギタリストを探してるって人が話しかけてきて。私とは違う高校の人で、一年先輩だったんですけれど。”今日だけサポートギター弾いてくれないかな”って、誘われて……家族以外と話さないから声が出なくて、それで何も言えないでいたら強引に……」

 

「あの時、出会えなかったら……私はギターで生きていくことなんて出来なかったし……」

「だけど多分27歳で死ぬこともなかった」

 

「だから27歳で死なないためには」

「普通にならなきゃいけなくて」

「普通じゃなきゃ生きていけない」

「普通じゃない私は27歳で死んだから」

「死んじゃいけない」

「27歳で死んだ後藤ひとりなんてきらい」

「わたしは普通にならなきゃ」

「わたしはふつうになりたい」

 

 あ、?

 まぶしい。

 目を開いていた。

 

「あああ、ああ、あああああああああ」

「ひとりさん……!?」

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

「ひとりさん!ひとりさん!?……先生、先生を!」

 

 §

 

 そうか、

 後藤ひとりだから駄目なんだ。

 

 この体から、後藤ひとりがいなくなればいい。

 



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本編-3「It's A Long Road/Quadrophenia」

 私は、自分の墓の前にずっと座り込んでいた。

 眠らなくても朝は来て、日は暮れて夜が来る。

 それの繰り返し。気が遠くなるにも、とっくにここはこの世から遠い場所。もともとぼんやりした何かになっているから、なんてこともなく日々を過ごしている。

 

 私が死んでから何日経ったんだろう。

 お墓があるってことは、とっくに私は骨になってここに入っているということで、だから私がここに漂っているはずだから……葬式が終わったらすぐにお墓に入るんだろうか。法事のことはよくわからなかった。

 ああ、でも今は春だから、4ヶ月以上は経ってたのか。

 

 私のお墓の周りには、当然他の人達のお墓もある。ここはいわゆる墓地。私のお墓の前に来る人は、店長以来まだ誰も来ていない。

 不謹慎だけれど、家族連れでやってくるお墓が羨ましい。

 

 店長は去り際に掃除をしていってくれた。……泣きながらだった。

 だから今のところまだ綺麗になっている。

 

「……ひとりちゃん」

「ぼっち、来たよ……」

 

 あんまりぼんやりし過ぎていて、気付かなかった。

 喜多ちゃんと、リョウさん。

 やっぱり二人共やつれていた。

 喜多ちゃんは変わってしまった。ずっと変わらなかった、あの華のような笑顔が消えてしまっていた。

 リョウさんは幽霊みたいに立っている。

 

「私が……そばにいたのに……転んだ時も、倒れた時も……なにも出来なくて……」

「私が悪いんだ……ぼっちに何かあったらって、散々ビビっておいて、大丈夫だろうって楽観視して、逃げた……」

「……私が……私達が……ひとりちゃんを……」

「ぼっちが死んだのは……私達のせいだ……」

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 

 謝るのをやめてほしかった。

 お願いだからやめて、と伝えたかった。

 あの時死ぬと決めたのは私だった。

 こうなるって少し考えれば分かったのに。

 それを考えずに、意地張って、カッコつけて、死に急いだ私が一番悪いのに。

 どうすればいい?どうすればごめんなさいって言える?

 喜多ちゃんは、ずっと泣いて詫び続けていた。

 リョウさんは肩を抱いて慰め続けていた。

 

「私達全員で……背負うことだから……」

 

 血を吐くような声でそう言い続けた。

 

 どうすればこんな呪いを残さずに死ねたんだろう。

 どうすればもっと綺麗に死ねたんだろう。

 私が普通に生きていないから?

 膝を抱えて蹲って、何が正しかったのか堂々巡りに考えていると、

 

「……郁代、今から仕事があるのにごめん。人前に出る前に傷口抉るような……」

「いえ……いいんです……一人で来るのは、耐えられそうになくて」

「うん。分かった。……いってらっしゃい」

「先輩……それじゃ」

 

 喜多ちゃんは行ってしまった。

 リョウさんが一人残った。

 

「……座るよ」

 

 そう言って、墓に背中を預けて座った。

 

「タバコも吸うけど、いいよね」

 

 黒いシャツの胸ポケットからタバコとライターを取り出して、火をつけようとして、

 

「……あぁ、くそ」

 

 何度も何度もライターをいじる。

 

「……春は風が強い」

 

 タバコを咥えてライターに左手を被せて風を避けさせながら悪態をつく。

 ようやく火が着いて、リョウさんは一息吸うとため息と一緒に煙を吐き出した。

 左のズボンのポケットを探り、

 

「あ……ぼーっとしてた。灰皿忘れた」

 

 灰を落として、

 

「ごめん、汚す」

 

 私がどうこう言う筋合いはないから、別に構わなかった。

 しばらく、リョウさんは黙り込んでいて、

 

「……眠れないんだよね」

 

 そう話し始めた。

 

「あの日のことを何度も夢に見る。そのうち明晰夢になって、ぼっちを止めようとするんだよ。夢の中だけでも、助けたくて」

 

「何度も、何度も、何度も、ブチ切れたり、殴ったり、ふん縛ったり、色々やった、でも、でも」

 

 リョウさんの呼吸が早くなる。異常に。浅く。

 

「……け、ほっ、げふ、ぉ……!」

 

 短くなったタバコを勢いよく吸い込んで、そして、左腕に押し付けて揉み消した。

 

「……っ、あ、はぁ……」

 

 リョウさんの左腕を覗き込む。

 赤い火傷だらけになっていた。

 

「ぼっちが、止まってくれないんだよ……」

 

 泣いていた。

 

「夢の中でくらい……助けさせてよ……」

 

 タバコの吸殻を左手で握りしめながら、震えて。

 

「私が悪いんだ……本当は、あの時、転んだ時点でただ事じゃなかった」

 

 呼吸の速さはだんだん遅くなって、普通に戻っていく。

 

「ただ事じゃ済まないかもって、分かってたから……痛み止め禁止したけど……ただ我慢させただけになって……辛い思いさせて」

 

 一息、ひときわ大きい深呼吸。

 

「でも、ごめん、恨むよ。……なんで言ってくれなかったの」

 

 歯の削れる音がする。

 

「最後の曲、やる直前になって救急車呼んで……私が付き添ったんだよ。それで、私が……看取って……医者から”腹部の痛みを訴えていませんでしたか”とか……聞かれて、ぼっち……何も言わなかった……あんな、私でも持ち上げられる体で……あんな風に怪我して、無事なわけないのに……」

 

 リョウさんは右手で髪を掻き毟りながら、

 

「私は……!私達は……!たかが1300人に迷惑かけるのとぼっちの命で迷ったりしない!それが何万人になっても!私達の結束ってなんだったの……!」

 

 私は、一番近くの人を裏切っていた……。

 

「私達の12年、一体なんだった……?」

 

 リョウさんはタバコをもう一本取り出して、火をつける。

 風は止んでいた。

 

「……最後の曲をやるって決めたのは、私だから……止めなきゃいけなかったのに……なんで……私は……なんで……」

 

 涙を拭く度胸なんて生きているうちからなかったし、幽霊の私には物理的にも不可能だけれど、拭いてあげたかった。それで、私のほうがごめんなさいって、言いたかった。でも決して叶わない。

 風がまた吹いてくる。

 

「……ぼっちが、今ファンからどういう目で見られてるか、教えるけど」

 

 リョウさんが、画面の割れたスマホを右のポケットから取り出して、

 

「”悲劇の天才ギタリスト”、”天国にコンサートに行った女”、色々あるけど……私達には、これが一番堪えた……」

 

 “悲劇的・伝説的な死を遂げた『guitarhero』、後藤ひとりの生涯に迫る”

 “『guitarhero』後藤ひとりを悼んで”

 “guitarheroよ永遠に 後藤ひとりの活動全史”

 

「……”ギターヒーロー”」

 

 

 

「ぼっちは、結局”ギターヒーロー”だったんだよ……結束バンドのギタリストなんかじゃない、たった一人で最強で……私達は足枷でしかなかった……」

 

 そんなはずない。

 

「あそこまでエゴ剥き出しの演奏、初めてだった……ついていくのも精一杯で……でも、腸が煮えくり返るほど悔しいけど……最高だった」

 

 吐き捨てるような褒め言葉が棘のように痛い。

 

「バンドでも、もう”ギターヒーロー”なんだって思ってたんだよ……でも違う、”ギターヒーロー”は”結束バンドの後藤ひとり”より遥か彼方にいた……」

 

 私は、遠くにいるなんて思ったことないのに。

 

「結束バンドのファンが、ギターヒーローのファンが、違う……ギタリストだけじゃない、音楽やってる奴ら皆が……」

 

「”ギターヒーロー”最期の演奏を聴きたがってる」

 

 リョウさんは、声を上げて泣き始めた。

 こんなの、初めて見た。永遠に見たくなかった。

 

「音源になる予定なんかなかった、でも誰かがブートレグをネットに上げたんだ……もう誰も止められなかった」

 

 左手を地面に叩きつけて、叫んだ。

 

「ウジ虫みたいに群がるのを!私達は指をくわえて見てることしか出来なかった!あいつらは一体何なんだよ!?人の……人の死に際を、死んでいくのを、消費して!食い荒らすんだ!そのくせしてみんな忘れてく……!食い終わったら次の餌を探すだけで……そうだよ……それが普通の消費者の行動……」

 

 激情をむき出しにして、泣きながら怒り、そして絶望して、諦めに。

 

「もう、私は音楽が出来ない……あの日の演奏と、ぼっちの死が食い荒らされて、それに……もう何もかもが憎くて、ダメなんだ……」

 

 ……また、他人の人生を壊した。

 

 声を伝えたかった、再生数さえ取れれば気にしないとか。

 投稿者訴えて収益そっくり貰っちゃいましょうよ、とか。それでタワマン住みましょう、とか。色々あるのに。

 

 声を届けられない。届かない。

 もう二度と。

 

「ごめん、ぼっち。まだ歌詞残ってたね。次のアルバムの分……」

 

 ツアーの合間で書き進めていた、数曲分。フルアルバムを満たすにはまだまだの。

 

「勝手に家探ししてごめん。でも……もう、あれに曲をつけてあげることは出来ない……」

 

 ああ、そうかと。そう、だよねと。

 もはやそれだけだった。

 

 リョウさんは涙を右の袖で拭くと立ち上がり、タバコにまた火をつけた。咥えず、指に挟んだまま。

 

「吸ってみなよ」

 

 そう言って、線香立てに差し込んだ。

 墓に背を向けて、俯きながら去っていく。幽霊みたいに。

 

「聞いても分からないのは分かってるけど」

 

 また、振り返って墓を見る。

 目は腫れて、視線に力はなく。

 

「あの時、何を考えてたの?……死ぬって、分かってて弾いたの?」

 

 風がまた強く吹いて、木の枝をしならせる。

 うなずくみたいに。

 偶然だけれど、私の答えでもあった。

 

「そう……」

 

 リョウさんはため息をついて、私の心を示した木に答えた。

 

「じゃあね……かわいくて面白かった私のパートナー……あなたの書く詞が、大好きだった……」

 

 消えていきそうな背中を追いかけたかったけれど、墓地の外には出られなかった。

 これからどうするんですか、って聞きたかった。

 聞いて何になるわけでも、何をしてあげられるわけでもなかったけれど。

 

 何か出来たら、少しは償えるはずなのに。

 死んだら何も償えない。

 死んで何も残らないのは本人だけ。

 燃やし尽くした命から、人を狂わせる呪いが排気ガスみたいに湧いてくる。

 

 早く地獄に連れて行かれたかった。

 でも、こここそが地獄だっていうのなら、そういうことなんだろうとも思えた。

 

 §

 

 後藤千里という女の子。ドジで頭も良くないけれど、人当たりが良くて友達がたくさんいる女の子。

 

 後藤万理という女の子。いつもツンとして成績も良くないけれど、本が大好きで、たった1人の友達と話をする時は顔を綻ばせるマイペースな女の子。

 

 後藤なゆたという女の子。泣き虫だけれど、人の痛みに敏感で、泣いている人の手を握って痛みを分かち合う優しい女の子。

 

 3人の女の子になる夢を見る。

 

 万理はなゆたのことが嫌いではないけれど苦手で、頭に響く泣き声を聞きたくない。だから、千里がいつもなゆたを明るく慰めている。不器用な万理は、夜中に家を抜け出して自転車で街に出かける。夜風にでもあたれば少し気分が良くなるだろうと思って。

 

 3人とも少しおませな女の子で、誰が彼氏を作るのかってケンカする。みんなが彼氏を持つのは良くないことだから、一人だけが作る。それがまず決まった。みんなまだ好きな男の子もいないのに。

 

 次に、自分から告白するのは禁止、と決めた。それは抜け駆けになるから。

 でも、決めてから3人で気づいた。

 

「私達、そんなモテると思うかな?」

「知るか」

「……モテないと思うけど」

「だよねー?」

「そもそも告白待ちとか……なんか、ダサい気がする」

「でも、そうじゃないと不平等かも……」

「平等に独り身、ってことでもういっか!」

「いいよ、よく考えたら面倒ないし、ケンカするほどじゃない」

「ほしいな、彼氏……」

「なゆちゃん、意外とがっつく系だったっけ?」

「なゆたは男の手も平気で握るから。スケベ」

「な、なんで……」

 

 三人とも仲が良くて。

 それに、

 

「じゃあ会議おしまい!今日はなゆちゃんがギター弾いていいよ」

「明日は千里な」

「うん……ありがと」

 

 三人とも、ギターが大好き。

 そうして、後藤なゆただけがその場に残る。

 

 一人部屋の和室には、ギターが4本。立て掛け式のスタンドに収まっている。

 テレキャスター。ジャズマスター。ヤマハのエレアコ。

 そして、レスポール・カスタム。

 

 なゆたはその中からエレアコを手に取り、押し入れに入る。中の間接照明を灯す。

 サプレッサーはもうホールに嵌めてある。シールドとミニアンプを繋いで、ヘッドホンを付けると、切ないメロディを爪弾き始める。

 

「……落ち着くなぁ」

 

 なゆたは、アコギの空気感が好きだった。クラシックギターと迷うこともあったけれど、コードをかき鳴らすギタリストにも憧れてこれを選んだ。

 

『なゆちゃんも弾き語りすればいいのに』

「歌うの、ちょっと恥ずかしい……」

『別に下手じゃないだろ』

「そういうのじゃなくて……あと、近所迷惑だし」

『今歌えって言ってない』

「……うぅ」

『怒ってない』

「分かってるよ……静かにして……」

 

 なゆたはこれと言って好きなジャンルはなかった。

 ただ、アコースティックギターの音色、空気感が性に合っていて、少し埋もれながら煌めいている曲も好きだった。でも、

 

『お父さんがカントリー?とか聞かせてくれたじゃん。あれやらないの?』

「ちょっと……違うかも」

『あれはレスポールの音の方が合うから』

「そうじゃなくて……」

『私はカントリー結構好きだなー!ノリノリだし、アメリカンだし!』

『テレキャスターって本来それ用って感じする』

『でしょ?それだけでもないのがテレキャスのいいとこだけど!』

「勝手に盛り上がらないで……もう。ちょっと静かにしてて」

『……分かった』

『ごめんね、なゆちゃん』

 

 ゆったりと、コードを鳴らす。そして、どんどん速くなって、

 

「らー、ららーらーらーらー、らららーるらーら、らーるら、らら、るら、らら、らるーらるらるらるらー……」

『なゆた結局歌ってるじゃん』

「らら、らーらるらー、らららー……」

『その曲好きだよねー』

 

 ラテンの弾き方で、少し伸びた爪を叩きつけるようにコードを刻む。そして、ベースのようなフィンガーピッキングでメロディを奏でる。

 

『なゆちゃん、爪割らないでよねー』

『もうピック使えばいいのに』

「……ごめんなさい」

 

 なゆたが演奏を止める。

 爪を見ると、先がひび割れていた。それに、層の上と下が剥がれてガタついている。

 

「本当にごめん……結構危なかった……」

『良かったー。私達まで弾けなくなるところだったし』

『親指にはめるピック使ったらいいんじゃないか?持ち替えなくて済むし』

「うん……今度買いに行こうね。今日はピック借りていい?」

『私のと万理のどっちがいいかな?』

『どっちも使ってみればいいでしょ』

『それもそっか。じゃあ、好きに使って!』

「ありがと……」

 

 そう言って、なゆたは適当にピックを選ぶ。

 

「大きい音出すと、ふたりが起きちゃうかな……気をつけないと」

 

 ふたりって、誰だろう。

 

「……?ひとりちゃんが、起きてる?」

『かもね』

『多分起きてる』

「ふたりのこと、知りたいみたい」

『そっかぁ』

『知らなきゃダメだと思う』

「……ふたりはね、私達の妹。10歳のときに生まれた、まだ1歳の女の子。とても賢くて可愛い、自慢の妹」

『早く話したいね』

『……何話していいのやら』

「いつか……ちゃんと起きられるようになったら、ふたりのことをよろしくね」

 

 後藤……ふたり。

 私の、妹。

 



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本編-4「ワタシダケユウレイ/すばらしい日々」

 泣くことも出来ずに、空を見上げ続けていた。

 春の空もきれいだ。

 白い雲が船団のように青い空をゆく。

 夜には星々が煌めく。

 

 私はいつまでここにいればいいんだろう。

 大理石で出来た私の住処には屋根さえなくて、けれど雨さえも私を濡らすことはできない。

 

§

 

 雨の日の昼に、人影が近づいてきた。

 誰なのかはすぐに分かった。

 

 ……ふたり。

 

 黒い傘をさしたふたりは、私のお墓の前に立つと、一度手を合わせて頭を下げた。

 よしてほしかった。私みたいな出来の悪い姉にそんな態度。

 それが墓参りだからだとしても。

 

 顔を上げたふたりを見る。

 ……目元に、深い隈ができていた。

 ちゃんと寝なさい、って言いたかった。

 

「……お姉ちゃん、私、バンド組む」

 

 そうなんだ、と思う前に、

 

「お姉ちゃんの道を、追いかけるの」

 

 顔が笑っていても何かを睨んでいた。

 目が据わっていた。

 

「私も、ギターヒーローになりたい」

 

 ……やめてよ。

 

「ほら、髪も伸ばし始めたから……」

 

 私の知ってるふたりの髪は、肩上までの長さだった。

 いつもその長さに整えていたから。

 でも、今はそれより長くて肩にかかっている。

 

「もっと伸ばすんだ、お姉ちゃんみたいに……」

 

 まさか、ふたりがなろうとしているのは、

 

「お姉ちゃんになりたい」

 

 お願いだから、やめてほしい。

 賢くて可愛い妹が、のろまでぐずの私になるなんて。

 

「……お姉ちゃんくらいギターが弾ければよかったけど」

 

 私のお墓に向かって、左手の指を見せた。

 指先が水ぶくれや血豆だらけで、

 

「右手も……」

 

 傘を持ち替えて右手も見せてくる。

 小指まわりの皮膚がかさぶただらけ。

 

「お姉ちゃんみたいに才能ないから、一日十二時間練習してるの」

 

 昔の私の2倍。私でも毎日寝不足だったのに、そのままじゃ死んじゃう。

「時間が足りなかったからね、高校やめちゃった」

 

 せっかくいい高校に入ったのに。

 ……でも、学校をやめたなら、確かにその時間はひねり出せるかもしれないけれど、でも。

 

「最初は、6時間」

 

 そう、6時間。2時間かけて高校に通った私がそれくらいだった。

 

「でもね、それじゃお姉ちゃんにいつまで経っても追いつけないから……どんどん増やして」

 

 私なんか追いかけないで。

 

「もう友達なんていらないって思って、8時間」

 

 もうやめて。

 

「学校なんかどうでもいいって思った、10時間」

 

 お願いだから。

 

「まだ伸ばせると思って、12時間」

 

 ふたりには、ふたりの人生があって、だから私がそれを壊して、まただ、また、他人の人生を……。

 

「早く追いつくね」

 

 来ないで。来ちゃ駄目。

 

「私も、あんな風に死にたい」

 

 そう語ったふたりの目は、爛々と輝いていた。

 やめて。

 お父さんとお母さんを置いていっちゃ駄目でしょ。

 私はそんなつもりで弾いたんじゃない。

 人生を教えるためじゃない。

 あれはただの……最期のレッスンだったのに。

 分かってよ。

 私の気持ちを分かってよ。

 

 本当に、死人には口がない。

 

「それじゃ、お姉ちゃん。私、がんばるね」

 

 これが地獄なのかと。

 私じゃなくて、私の周りの人達が生き地獄にいるのを見ることが、私の地獄なのかと。

 そんな馬鹿な話があるものか。

 そんな救われない話があるものか。

 

『死ぬんじゃないぞって、言ったのに』

 

 空気を震わせない声が聞こえた。

 

『私も長生きするって約束、破っちゃったけどね』

 

 ……廣井さんが、なんでここに。

 

『自殺しちゃった。今は幽霊』

 

 …………自殺?

 

『ひとりちゃんが死んだのが、あんまりショックでさ……それで、気持ちが完全に”死にたい”に傾いてね。踏ん張ったけど駄目で……首、吊っちゃったんだ』

 

 どうして……。

 

『本当はね、誰かに支えてもらいたかった。でもみんなボロッボロでさ。先輩も、妹ちゃんも、リョウちゃんも、喜多ちゃんも……みんな精一杯。支え合ってて……そこにもう一人入れるのはキツそうかなって。それに……そもそも私は誰かを支える力なんかないわけで、その輪の中に無理に入り込むのは……甘えだと思ったんだよね』

 

 だからって、死んだら。

 店長さんが、みんなが、もっと傷つきます。

 

『そこは……その。実家に帰るって言ってあったし、あとは……遺書書いて実家に送ったんだよね。志摩とイライザへの言伝……っていうか。もしも実家に連絡取ってきたら内容伝えて欲しくて。"先輩達や大槻ちゃん達には何年か内緒にしておいて欲しい”って、そういうのを』

 

 そんなテキパキ死ぬ準備が出来る人が、なんで本当に死んじゃうんですか。

 

『ひとりちゃんにも分かるはずだよ。人間、死ぬと決めたら大体なんでも出来る。死ぬ気でやれば、とは違う。例えとしての死ぬ気でも、”つもり”でもなく。完全に”決めた”ら。ひとりちゃんもそうだよ』

 

 それは。それは……。

 

『実はね?ライブ行ってたんだよ。フツーにチケット取れちゃったからさ』

 

 気づきませんでした……。

 

『仕方ないよ。最後列にいたから。ひとりちゃんが死んじゃった、って後で聞いた時ね、"あの演奏は死ぬと決めたから出来ちゃったのか”って確信したんだ。当たってるでしょ?』

 

 間違い、ありません。

 

『うん。……事故なんだよね。だから不慮の死といえばそうだけどね。でも、死ぬって自分で分かって、本当に死んじゃったんだね……』

 

 はい……。

 

『馬鹿。……私も、馬鹿だ……』

 

 雨音が沈黙の空白に溜まっていく。

 

『ひとりちゃん……初めて会ったあの日……私が金沢八景に流れ着いていなきゃ……ひとりちゃんがあの時ギターを担いでいなきゃ……こんな、こんなことにはならなかったのかな……』

 

 私には……分かりません……。

 

『うん……でも、君はきっと自然と上がってきただろうから。そんなこと、関係無かったのかもしれない』

 

 それは、どうしてですか?

 

『私の勘は当たるんだよ』

 

 そうですか……。

 

『じゃあね、ひとりちゃん。私は行くよ』

 

 どこにですか?

 

『わかんない。でも、ひとりちゃんはまだ行けないみたいだね。……ごめん、置いていくよ』

 

 いいです。……置いてかれる気持ちが少し分かりました。

 

『そっか。それじゃ……』

 

 廣井さんの姿を目に焼き付ける。

 その姿はセーラー服で。

 髪を三つ編みのおさげにしていて。

 地味で暗い、けれど普通の女の子だった。

 

『さよなら』

 

 そんな少女の廣井さんは、寂しそうな顔で笑みの一つも浮かべず消えていった。

 ”私が死なせた”って、リョウさんも、店長さんも、喜多ちゃんも、虹夏ちゃんも思っているけれど。

 私も、その気持ちが分かってしまうなんて。

 

 廣井さんが自殺に追い込まれたのは、私のせいだ。

 責める言い方なんかされなかったけれど。

 間違いなく、私が死なせた。

 

 §

 

 3人の女の子の夢を見る。

 

 タンスを開くと服がいっぱい詰まっている。

 千里の好きなポップな服。万理の好きなボーイッシュな服。なゆたの好きなガーリーな服。

 その中から、迷わずにボーイッシュな服が選び取られる。手早く、でも雑に着ると姿見の前に立って、

 

「これでいいか」

 

 肩にかかるくらいに伸びた髪を、ヘアゴム一本で雑に結んで、うなじあたりでポニーテールにする。丁寧じゃないせいで、鏡で見ても髪の毛がはねていたり飛び出ていたり、あまり見栄えしない。

 

『あー……万理ちゃんまーたテキトーに髪やっちゃってる』

『傷んじゃうと思うからもうちょっと丁寧にして……』

「……丁寧にやるの、面倒。なゆたがやればいいじゃん」

『うん』

 

 そう言うと、後藤万理はため息と共に俯く。

 

 周りが暗くなって、和室から何もない闇になる。

 でもスポットライトのように、陽だまりのように光の当たる場所がある。そこから一歩外れて万理は闇に溶けていた。

 

「……なゆた?早く」

「あのね……万理ちゃん、ヘアブラシとか洗面所にあるからそっちで交代……」

「だからなゆたがこのまま交代して下降りればいいでしょ」

「この服着て歩きたくない……」

「あ?なんかこの服に文句あんのか?」

「ぁっ……あの、服が万理ちゃんで中身私だと分かりにくいから……」

「まぁそうだけど……」

 

 陽だまりのそばにもう一人近寄ってくる。

 後藤千里だった。闇の中に少し浮かび上がるように現れた。

 

「別に混乱しないと思うけどなー。ほら、皆からも言われるけど、万理ちゃんとなゆちゃん、全然違う人みたいって言われるし。そうでしょ?」

「まぁ、うん。でも分かってないヤツ来ると気まずいんだよな……」

 

 後藤なゆたは、まだ闇の中に溶けたままで、

 

「私も万理ちゃんのお友達来ても困る……ゲームの攻略本しか読まないし……」

「私は漫画しか読まないし、活字はー……目がチカチカするんよね」

「……なゆたも千里もそんなんだから私がいつも読書感想文書いてんだろーが!」

「うわ万理ちゃん怒った」

「それでなゆたが”源氏物語ってどんなお話?”とか言うから読んだけど、お前途中からキャーキャー言ってめっちゃうるさかったし……何で興味あったんだよ」

「源氏の鎧が出てくると思って……」

「平家物語にもそんなもんはない」

「しかもなゆちゃん、すんごい興奮してたし」

「やっぱりスケベじゃん」

万理はため息を一つ吐いて、なゆたをじろりと睨みつける。

 

「……うるせーから聞き流してたんだけど、何言ってたのこいつ?」

「わー!わー!わー!」

「あのねー、”この人ひ、人の奥さんを……!”とか”ぎ、義理のお母さんと!?”とか……あと”平安時代って進んでる……”とか?」

「色々言いたいことあるけど平安時代は1000年遅れてるんだぞ」

「しかも万理ちゃん、読書感想文書き損になったのほんと面白かったー。”源氏物語はまだあなたの歳では早いです”って」

「そのまま三者面談になったのも全部なゆたのせいだからな。私は仕方無く読んで書いただけだし」

 

陽だまりを囲みながら益体もない話をして戯れていると、

 

『千里ちゃーん?万理ちゃーん?なゆちゃーん?早く起きて朝ごはん食べてねー?』

 

声が上から降ってくる。お母さんの声。

 

 私の名前は呼ばれない。

 

「なゆたのせいで寝坊扱いされた」

「ひどい、万理ちゃんが雑に髪いじるから……」

「まぁまぁ茶々入れた私が一番悪いから私が行くね」

「あ、千里お前人の服で……」

 

 千里の意識が和室の一人部屋に戻ってくる。

 

「髪は、一旦ほどいてと。降りよ」

 

 私の名前。呼ばれなかった。

 

「……ひとりちゃん、ふたりに会えるね」

『……ちゃんと起きてないから、会うとは違うだろ』

『でも、見せてあげられるよ……』

「うん」

 

 ふたり。後藤ふたり。後藤ひとりの、賢い妹。

 

 §

 

 一階のリビングから漂う、バターと小麦の匂い。

 

「おはよ、お母さん、お父さん」

 

 キッチンのガスコンロで料理をするお父さん、小さな子を抱いてあやすお母さん、そしてその小さな子が、

 

「ふたりちゃんもおはよー、ほらー千里お姉ちゃんだよー、よちよちー」

「せんりちゃん、おあよ」

 

 お母さんに抱かれた妹─────ふたりの小さな手に触れて、千里はにこやかに朝の挨拶。

 

「千里ちゃん、おはよう。でも服は……万理ちゃんから借りたの?髪はこれから?」

 

 お母さんが千里に微笑む。

 

「ううん。今日はほんとは万理ちゃんの日。髪をやるの万理ちゃんが面倒くさがったりなゆちゃんが万理ちゃんの服で歩くの嫌がったりでちょっと。まぁなんだかんだで私が代わりに出てきてるの」

「あら……あんまりケンカしちゃだめよ?」

「大丈夫大丈夫、仲良しだもん。それにご飯食べたらなゆちゃんが髪やるし」

 

 千里がそう言うと、お母さんは少し斜めを見て考えて、

 

「あのね、万理ちゃんにまた髪やるの教えてあげたいから、それでもいいかしら?」

「んー……」

『誰か代わりになってよ、私のふりして』

『えっ……嫌』

『はぁ……』

「うん、ありがと。なんか万理ちゃん面倒くさがってるけど引っ張り出すから」

 

 お父さんが料理を運んできながら、

 

「昔はどうなることかと思ったけれど、今は娘がたくさんいるみたいで楽しいなぁ」

「お父さん、最近ずっとそればっか言ってるー」

「みんな、最初名前がなかったから頑張って付けたの思い出すなぁ……」

「でも、受け入れてみれば楽しかったわね……あとは……」

 

 お母さんがそこまで言って、口ごもる。

 それを引き継ぐように、

 

「千里……ひとりは、どうしてる?」

「たまに起きてくるけど、ほとんど意識ないね。でも、起きてる間は私達をぼーっと見てるのかも」

「そうか……」

「今はすこーし起きてて、やっとふたりに会わせられたから。ちょっと嬉しいなー」

「そっか……千里、万理、なゆた、ふたり。みんな僕らのかけがえの無い娘たちで……でも、ひとりもそうだから。だから、ここにひとりもいたならって、今以上の幸せが欲しいって考えちゃうんだ。……ごめん、少し難しい話だったかな?」

「ううん、いいよ。それに……多分、大体わかるよ?大丈夫」

 

 千里は少し考えて、

 

「うん。本当はひとりちゃんがここにいるはずなんだもんねー……」

 

 ふたりの頭に手を伸ばして、髪を撫でながら言う。

 

「あぁ、お父さんがごめんね千里ちゃん……」

「気にしてないよ?全然。それよりご飯食べていい?お腹ペコペコ」

「あはは……それじゃあ、いただきます!」

 

 3人の女の子は、普通に生きている。

 後藤ひとりという体の中で。

 それは少し変わっているけれど。

 本当に、正しいことだと思う。

 

 後藤ひとりのいない世界は、こんなにも正しい。

 

 だから、私のことを呼ばないで。

 放っておいて。このままにしておいて。

 千里の食事の手が止まる。少し斜め上を見ている。

 

「千里、どうしたんだい?卵の殻入っちゃってたかな……?」

「ああ、違うの。ひとりちゃん、また塞ぎ込んじゃったなー……」

「……そうか」

「気にしない気にしない、またそのうちちょっと起きてくると思うから!」

「そうね……」

 

 §

 

 ああ、素晴らしき日々。

 そこに後藤ひとりが存在しなくて、本当に良かった。

 

 後藤ひとりにとって無上の幸せとは。

 後藤ひとりがいないこと。

 

 §

 

 ご飯を食べ終えて、顔を洗う。洗い終わって顔を上げて鏡を見ると、後藤千里とは違う。目つきの鋭い顔が現れていた。

 後藤万理。

 後ろで待っていたお母さんに、

 

「お母さん、髪やって」

「はいはい」

 

 髪をヘアブラシが通り抜けて、解かされていく。

 万理はそれがくすぐったくて、目を細める。

 

「こんな綺麗にしてるんだから、雑に扱っちゃだめよ?」

「……私はどうでもいいんだけど。なゆたが勝手にやってるから」

「なゆたちゃんがせっかく頑張ってるんだから、大事にしなさい」

「分かったから。そんな丁寧にしなくても……」

「じゃあここからは万理ちゃんがやってみて?」

 

 ヘアブラシを手渡されて、覚束ない手付きで髪を解そうとする。けれど、

 

「あ、引っ掛かる……なんで」

「力入れちゃだめよ、切れちゃう」

「そう言われても……」

「いくらものぐさだからって、根っこの方から無理に梳かしちゃだめよ?」

「む」

「一気に解そうなんて思っても無理なんだから。まずは毛先」

 

 言われるように梳かしていくと、髪が解けて指通りがよくなっていく。

 

「……ひとりちゃんは、万理ちゃん達から見て、何歳くらいなのかしら」

「お母さんもちょっと唐突すぎ……」

「ごめんね、でも気になっちゃったの」

「私達は……ひとりの姿は見たことないよ。いるのは分かってるけど」

「万理ちゃん達は、お互いがどういう格好なのか分かるのね?」

「うん……まぁ。実際は私達11歳だし、ひとりから……分裂したのは4歳のときだったんだけど……あくまで頭の中でこう見えてるってだけで……千里は高校生くらいに見えるし、私自身となゆたは中学生くらいに見えてる」

「あら、随分大人ね……」

「私自身、別に自分が中学生くらいだって思ってるわけじゃないけど」

「でも、あなた達みんな、他の家の子達よりも大人びてるものねぇ」

「それは……そういうものなんじゃないかな?多重人格って、本人より大人の人格が出来ることが結構あるらしいし」

 

 万理は、少しだけ言葉を詰まらせていた。

 

「そうね、先生も言ってたもの……でも、ひとりちゃんも、どこか大人そのものみたいなところがあったなって……そう思っちゃう」

「そうかもね……」

 

 少し沈黙が流れて、それをごまかすように、

 

「はい、髪これくらいでいい?」

「万理ちゃんはどう思う?」

「まぁ……なゆたよりは雑だけどさ」

「うん、それなら十分ね。これから一人でもちゃんとやるのよ?」

「はいはい……」

 

 そう言うと万理は梳かし終わった髪をまとめて、ヘアゴムの中に通し、下付きのポニーテールに整えた。

 

「どう?」

「きれいに出来てるわよ、ほら」

 

 そう言うと、お母さんはもう一つ鏡を出して後頭部を映す。

 

「ん。ありがと」

 

 髪型の出来を確認して頷き、

 

「ピアス開けたいんだけど、まだこの歳じゃなぁ……」

「不りょ……こほん、いつになったら開けたいの?」

「高校入ったら絶っ対開けるから、それまでになんか耳隠せる髪型探す」

「本当に万理ちゃんはやんちゃさんねぇ……」

「あと、早く大きくなって古着屋で服買えるようになりたい」

「あらあら……将来が楽しみだわ~」

『私は中学入ったら渋谷行きたい~』

「……千里は渋谷行きたいって。私横浜で探すけど」

「なゆたちゃんは?」

『私は新品がいい……』

「新品がいいとか贅沢言ってる」

「もっと大きなタンスいるかしらね」

「そういうのは自分達で稼いで買いたいかな……」

「まだあなた達はそういうことを考えなくてもいいのよ。それにタンスの一つや二つ買ったところでうちはどうにかなったりしないわ」

「新聞配達とか出来ないかな」

「お母さんのお話聞いて……?」

「だって、お小遣いはギターの弦とかメンテ代で飛ぶし」

 

 お母さんは万理を抱きしめて、

 

「わっ、お母さん何してんの」

「ううん、意地っ張りでヤンチャで不良の可愛い万理ちゃん、本当は気遣い屋さんで親孝行のいい子だって、お父さんもお母さんも分かってるのよ……」

「あー!もうそういうのいいから!学校行く!」

 

 万理は顔をひくつかせながら洗面所を出た。

 

「お父さんおはよう!学校行くから!」

「あ、万理。そんなドタバタしてどうした?」

「なんでもないっての!」

 

 そう言うと、万理は自分の部屋に戻ってランドセルを引っ掴んで担ぐ。そして、そのまま玄関に直行して3つ並んだ小さな靴の真ん中、黒いスニーカーを突っかけて、

 

「行ってきます!」

「あー、待った待った万理、ほら」

「何?」

「ほら、ふたり。万理お姉ちゃんにいってらっしゃいって」

「まりおねえちゃ、いっちぇらっちゃ」

「はいはい、行ってきます!じゃ!」

 

 ドアを開けると、飛び出した。

 早足で、夏の青空の下を歩いて行く。

 そして思う。

 

『ひとり』

 

 万理は考える。

 

『お父さんもお母さんもお前に会いたがってる。それにそもそも、私達がいる場所は、本当はお前のものなんだから』

 

 万理は呼びかける。

 

『いつ戻ってきたって……私達はいついなくなったっていいんだ。その覚悟は最初から出来てるんだから』

 

 万理はつぶやく。

 

「どんな後藤ひとりだって……お父さんとお母さんは、受け入れてくれる。ふたりにはちょっと寂しくさせるけど、お前がいれば……本当はそれで十分だし」

 

 私に構わないで。

 私の幸せを壊さないで。

 私の夢を終わらせないで。

 

「……ひきこもり」

 



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本編-5「わたしはひとり」

(なんか墓の話を煉獄パートとか言われてて笑ったんですがそんなに挟む予定は)ないです


 学校に近付くにつれ、登校する子供が増えてくる。

 万理に話しかける子はいない。

 それは、万理が多重人格者だからというだけではなくて、今そこにいるのが万理だと理解しているから。

 

 万理は世間話や流行りの話が好きじゃない。だから友達なんか一人しかいなかった。

 遠巻きに眺める子にはガンを飛ばし、ひそひそ声には中指を立てる。暴力もたまに振るう。

 けれどもその意味を知る人がいるから、万理は一人にはならない。

 

 教室でランドセルから教科書、ノート、そして文庫本を取り出す。勉強道具は雑に机に突っ込んで、万理は文庫本を慈しむような手付きでめくる。

 表紙は紙、更にその上の革のブックカバーで隠れているけれど、それは本を大切に扱うためだけじゃない。小学6年生にはちょっと刺激が強いからだった。

 

 タイトルは『虎よ、虎よ!』。随分と古い、手垢のついたSF小説。

 万理がこれを読むのは二度三度じゃない。暫くカバーから外してすらいない。

 どことなく自分達に重なり合うところを感じるからでもあったし、遠回しな後藤ひとりへの励ましだった。

 

 手元の文庫本を開く。

 既に物語は終盤で、錯視の数々を通り過ぎたばかりのところだった。

 万理は、想像の世界を愛していた。なゆたもそうだけれど、あっちはゲームが好き。

 どちらかと言うと、想像力がもう目で見える形になっているもの。

 万理の方は活字を通して自分の中に生まれる世界を楽しむ方だった。

 特にSFが好きで、そこには壮大な、あるいは荒んだ世界。倫理の思考実験。日常や冒険が広がっている。

 

 だから、後藤ひとりもそういう奴のはずだ、と万理は思っていた。

 ただ、千里のことを考えるとどうなんだろう、と考えてしまうのも事実だったけれど。

 

「……今日、万理ちゃんだよね。おはよう」

「おはよ」

 

 遅く登校してきた女の子が万理に話しかける。万理は革の栞を本に挟んで閉じ、視線をその子に向けた。

 

「いつもの本?」

「うん」

「SFって面白いんだね」

「色々あるから全部面白いとは言ってあげられないけど。女向けはあんまり知らない」

「でも、万理ちゃん読んでるのは……」

「とても男向け」

「かっこいい……」

「別に」

 

 女の子は万理のたった1人の友達だった。

 彼女はランドセルを床に下ろして蓋を開けると、

 

「マリア様がみてる、って知ってる?」

 

 そう言って、凛々しい女と可愛らしい女の二人が表紙の文庫本を取り出した。

 

「知らないし、そういうの読まないな」

 

 万理が素っ気なく返すと、女の子は消沈した面持ちになる。

 

「そう、だよね……」

「うん。はい」

 

 万理は無造作に、机の上に置いていた文庫本、”虎よ、虎よ!”を差し出す。

 

「え……」

「交換」

 

 そのまま、”マリア様がみてる”をそっと取り上げた。

 

「読んでくれるの?」

「読むよ。紹介してくれたんだから」

「それに……いいの?大事な本」

「別に。いい本だから読んでほしいけどさ……合わなかったら別の本持ってくるから。栞も好きに使って」

「ありがとう、万理ちゃん」

「ああ、あと。表紙はちょっと怖いから」

「? だから、カバーしてるの?」

「まぁね」

「見ていい?」

「いいよ」

 

 万理はニヤリを笑みを浮かべて返した。

 女の子はカバーをそっと外し、表表紙を見て、

 

「ひゃ、ひゃああ……」

 

 怖がりつつも、目が釘付けになっていた。

 

「カッコいいだろ」

「う、うん……怖いけど、カッコいい……」

 

 万理は嬉しくなり、屈託なく笑う。

 女の子もそれを見て笑い合う。

 そして、万理は内心でこう思う。

 

『こいつ、本当に顔が超好み』

『万理ちゃん、顔が良ければ何でも許しそうじゃない?』

『面食い……』

『悪いかよ』

『もっと内面を見なきゃ』

『とは言えだよ、人間は顔が10割って言うらしいよね?』

『お前身も蓋もないこと言うな』

 

 万理は、同性愛者だった。

 

『卒業式にキスしてやる』

『お、女の子にキス……?それに、なんで卒業式なの……』

『万理ちゃんのことだし、”忘れられなくしてやる”とか考えてるんじゃない?』

『……』

 

 図星だった。

 

『ダメだよ……私達、いなくなるかもしれないのに』

『うん。ひとりちゃんが帰ってきて、私達がいなくなったらさぁ』

『……だよなぁ、分かってる』

 

「万理ちゃん?」

 

 外からの呼びかけに答えて、

 

「ん、ごめん。千里となゆたがよろしくってさ」

「あ、ごめんね……お邪魔だったかな……」

「お邪魔はあいつらだよ。急に黙ってごめん」

「ううん、いいの。それじゃ」

「ん、じゃあ」

 

 女の子は教室を出ていく。別のクラスの子だった。

 

『あの子との付き合いも長いよね』

『まぁな』

 

 低学年の時、その子はいじめられていた。

 本の虫で鈍臭く、控えめで意思も弱い。おまけに万理の言う通り確かに可愛らしいから、男女問わず彼女をいじめた。男は気を引こうと、女はやっかみとして。

 当時同じクラスだった万理はそれが気に食わず、男女問わず顔面に文庫本の背表紙を叩きつけて回った。

 駅前でキリスト教系カルトに押し付けられた教典だった。それを顔の右でも左でもなく、鼻面を狙い澄まして叩き込んだ。

 万理にしてみれば、女の子をいじめていた男も女も全員嫌いな顔だった。

 

 その教典は、なゆたが手に入れてしまった、というか押し付けられたもの。

 そして、それはよくないと親子で図書館に行って本物の聖書を読んだ。

 後藤家はクリスチャンではなかったけれど、全員で一応勉強することになった。

 その上で、万理が何度もカルトの方の教典を読んでようやく理解して、護身に持っておくかと結論していた。

 

 ともかく、万理の乱暴は当然クラスで問題になった。けれど、お母さんもお父さんも、

 

「何かわけがあるはずです」

 

 と弁護し、女の子も

 

「後藤さんは助けてくれたんです」

 

 そう言ったことにより”後藤ひとり”は転校を免れる運びとなり、その女の子は万理の友達になった。

 代わりに千里となゆたの友達は随分減ったが。

 

『でも、私とポケモンしてくれる人いなくなった……』

『友達選べ』

『私はまだ友達いるけどね』

『選ばなすぎ』

『よくない?みんな友達。そろそろ朝の会だし、私達静かにするね』

 

 万理は気怠げに教壇を見る。

 事なかれ主義の女教師。万理が”やらかした”次の年に当時の担任と入れ替わった。

 万理は当然、そして”後藤ひとり”自体がよく思われていない。普通の小学校教師ならば多重人格の児童を受け持ちたいとは思わない。それくらい三人共理解していた。

 

 万理には退屈で、千里にはもどかしく、なゆたには寂しい一日が始まった。

 一時間目が終わり、トイレに。

 

「最近、なんかパンツ気持ち悪い」

『だよねー……なんか汚いし』

『でもそれ、おりものってやつだから……もしかしたら、生理来るのかも』

『血ぃ出るやつだろ』

『うん……あと、痛いこともあるんだって』

「……痛いのは、まずいって」

 

 万理は思わず独り言として口に出してしまった。

 強い痛みは、

 

「……ひとりが起きる」

 

 無理やりひとりを起こしてしまうから。

 

『うん、今のひとりちゃん起こしたらどうなっちゃうんだろ……あと雑誌に書いてあったんだけど、ちゃんと月一くらいになるまでしばらくかかるみたいだから……』

『私も覚えてる。大体1年くらいは安定しないって……』

『なゆちゃんよく覚えてるねー……」

『こういうの攻略本っぽいし、あと、ああなんでもない』

『……でもまぁ”後藤ひとり”の場合洒落にならない』

『よくわかんないタイミングで私達がはじかれちゃうってことだしねー……』

『お前がすっ転ぶのも割と訳わからんタイミングだぞ』

『あははー、なんか転んじゃうんだよねー……』

『千里ちゃんが道路で転んじゃうと、絶対ひとりちゃん起こしちゃうでしょ……それに追加で生理』

『何にせよ、もうひとりがぐずらないことを祈るしかない』

 

 ひとり、正確には”後藤ひとりの主人格と思われる人格”は、これまでも度々目覚めてきた。

 その度、痛みがある程度治まるまで泣き狂い、他の三人は出て来れなくなっていた。

 ことが終わるたび、ひとりに制御を奪われる前の人格が周りにいた人に詫びを入れる。大抵の場合は千里だった。

 これで友達がまだまだ沢山いるのは、千里が本当に明るく、愛想も良いからだった。

 

『保健室登校……にしてもらうか?』

『いやいや、万理ちゃんちょっと早合点かな。一回ひとりちゃんに長い時間出てきてもらえるチャンスかもよ』

『でも、迷惑かける時間も長くなるし……』

 なゆたは少し不安そうに、

『それに、いきなり私達が消えちゃったら、お父さんもお母さんも、ふたりも……寂しがらせちゃう』

『それは……ね』

『仕方ないだろ』

 

 溜息を吐いて、ささやく。

 

「私達はひとりだから」

 

 トイレを出て、教室に戻った。

 

 



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本編-6「不連続存在」

──────────────────────────────

 

 痛い。

 お腹が、刺すように痛い。

 

 目が覚めた。

 

「え」

 

 目の前に、知らない女の人がいた。

 

「だ……だ、だ、誰、ですか……?」

「えっと……私は、この学校の保健の先生。あなたが……本当の後藤ひとりさん?」

「え、学校……」

 

 お腹が痛い。ベッドで寝ている。

 ここはどこ?

 怖くて、体を起こして後ずさる。背中が壁につく。

 寝起きが酷くて、頭が回らない。

 でもそれより、

 

「なんで私、学校にいるんですか……?」

「それは……どういうこと?」

「わ、私、幼稚園、でも幼稚園には病気で行けなくなって……病院で……」

「落ち着いて聞いてね。ここは、小学校なの。後藤ひとりさん。あなたは、あなたではないあなたとしてここに来ています」

「え……?」

「あなたは今、小学6年生なの」

「しょうがく……ろく、ねんせい……」

 

 どうして、私は、そうなっている?

 

「そう、小学6年生。やっと、ひとりさんと会えた……」

 

 女の人は、私の手をそっと握る。

 大きな手のはずが、さほどでもなくて。

 それは、私の手が……大きいからで。

 握られて手をほどいて、手をじっと見た。

 指に触れて、大きさと形を知る。

 

「左手……」

「左手がどうかしたの」

「指の先が、硬い……」

 

 ギター?

 

「な、なんで、この指、ギターの……」

「ひとりさん、落ち着いて」

「ギター、ギター……」

 

 ギターなんてやったら、後藤ひとりは、

 

「わ、私がギターなんてやったら、死んじゃう……」

「え?」

「なんで、私、ギターなんてやりたくない……!」

 

 痛みで頭を抱えて丸くなる。お腹がもっと痛くなる。

 

「落ち着いて……ひとりさん、落ち着いて……説明するから」

「死んじゃだめ、死んじゃだめなのに……なんで……」

「ひとりさん、ギターを弾いても死んだりしないの。落ち着いて」

 

 言ってもわかるわけない。

 言うわけにはいかない。

 言ってしまった。

 

「あ、あぁぁあああ、あああああ……」

「ひとりさん!?ひとりさん、大丈夫!?」

 

 いなくなりたい。消えてしまいたい。

 痛みが止まらない。痛みが消えない。

 

「痛い、痛いぃ、ぎぃっ、ああぁ、あああ……」

 

 私が、消えない。

 

「痛み止め……い、痛み、止め……」

「……ごめんなさい、別のあなたから、痛み止めは飲ませないでって……」

「なん、で……なんでぇ……」

「ひとりさん、今、あなたのお母さんがこちらに向かってます」

 

 お母さん。どうして。

 

「別のあなたが、やっとひとりさんが起きるから、って……」

 

 別のあなた?

 

「別、のあなたって……」

「後藤ひとりさん、もう一度言います。あなたの中には、別のあなたがいます。三人」

 

 私の中に、別の私?

 それってまるで、

 

「多重、人格……?」

「……分かるの?多重人格という言葉が」

「わ、分かり、ます……」

「どうして……?幼稚園から記憶が途切れてるとは思えない……」

 

 答えられなかった。答えられない。

 どうして、なんて私が聞きたいから。

 けれど、聞けない。

 27歳で死んだ私の記憶。それが私を4歳でも27歳以上でもなくしているのに、それがどこからどうしてやってきたのか見当もつかない。誰に聞けば分かるのかも。

 被せられていた布団を引き寄せて、頭から被った。

 

 何も聞きたくない。

 何も見たくない。

 何も言葉にしたくない。

 

「ひとりさん、大丈夫……?」

 

 何からも聞かれたくない。

 何からも見られたくない。

 何からも語りかけられたくない。

 

「構わないでください……」

 

 早く消えてしまいたい。

 けれど、この体は。”後藤ひとり”という体は、生きていなくちゃいけないから。

 死にたいけど、死ねない。死んじゃいけない。

 ”後藤ひとり”を生かさないと。

 

 怖くて、つらくて、苦しくて、涙が止まらない。泣くことを堪えられない。しゃっくりみたいに声が出て、その度にお腹が痛い。

 

「ひとりさん、まだ、あなたがそこにいますか?」

 

 聞きたくない。

 答えたくない。

 

「お母さんがいらっしゃいましたよ。……どうぞ」

「ひとりちゃん……ひとりちゃんなの……?」

 

 返事をしちゃだめだ。

 布団を強く握りしめて、閉じこもる。

 

「ひとりちゃんなのね……?」

 

 布団の上から、そっと力を感じる。

 抱きしめられている?

 

「ああ……ひとりちゃん……おかえりなさい……」

「お、かあ、さん……」

 

 返事をしてしまった。

 

「おかあさん……」

「ひとりちゃん、顔を見せて……ね……」

 

 布団を取り上げられる。握りしめていたはずなのに、力が抜けていて。

 

「やっぱり、ひとりちゃん……」

 

 私は、むき出しになっていた。

 今まで、私がいなくなっていて。

 ”おかえりなさい”と言われて。

 けれど、この体は別の誰かが動かしていたらしくて。

 つまり、私はいなくなっていた。消えていた。

 なのに、帰ってきてしまった。

 どうして。

 痛みは止まない。

 どうして痛みが止まらないんだろう。

 

「よかったですね……」

 

 向こうに立っている女の人、この学校の保健の先生がそう言った。

 

「はい……」

 

 それにお母さんが返事する。

 

 なにもいいことなんてない。

 ここは小学校だけど、どこの小学校かも知らない。

 周りにどんな人がいるのかも分からない。

 私の中の別人がどうしていたのかも知らない。

 勉強のことなんて知らない。

 どうしてこの体がギターを弾いていたのか知らない。

 知らないことしかない。

 いきなり放り出されて、どうすればいいか分からない。

 

「それと……ひとりさんのお母さん、ひとりさんは、その……初経が来たようでして。とても痛みがあるみたいです」

「あら……あらあらあら……」

「しょけい……」

 

 しょけい。処刑。違う。

 初経?

 それは、つまり……生理?

 

「ああ、ひとりちゃん?初経っていうのはね……」

「生理……?」

「あら、分かるの……?」

「うん……」

「お母さん、また少しよろしいですか?その、ひとりさんの中では幼稚園児の頃から今までの記憶がすっぽり抜けているそうでして……でも、多重人格という言葉と意味は分かっているそうなんです……」

「そんなこともあるんですねぇ……あの子達のおかげなのかしら……」

「私もひとりさんのことがあるので調べましたが……専門ではないのでなんとも……」

 

 私が生理のことを知っているのは、単に死んだ後藤ひとりの記憶があるからで、それ以外にない。

 でも、生理ってこんなに痛いんだ……。パンツの中も気持ち悪いことに初めて気がついた。

 

「いっ……」

 

 深呼吸したら、またお腹が痛んだ。

 

「ひとりちゃん、痛いのね……?先生、痛み止めは……」

「その。なゆたさんがここに来たんです。ひとりさんが出てくる直前に。それで、”痛み止めはひとりちゃんに飲ませちゃだめ”だと……」

「そうなんですか?なゆたちゃん、何か考えがあったのかしら……」

 

 なゆたちゃん?

 

「それ、誰……?」

「誰って……ああ、なゆたちゃんのこと?なゆたちゃんは……ひとりちゃんの中にいる子達の一人よ」

「わ、私の……別の、人格?」

「そう、別の人格。本当に分かるのね」

 

 私の知らない私。

 

「千里ちゃん、万理ちゃんになゆたちゃん。それがひとりちゃんの別人格」

「知らない……」

「そうなのね……でも、三人ともひとりちゃんのことは分かってたそうよ」

「知らない……」

 

 ずっと痛い。声を出すだけでお腹に響いて痛む。

 

「ひとりさんのお母さん、今日はもうひとりさんとお帰りになった方が……」

「そうですね……ひとりちゃんも具合が悪いことですし……」

「お家に、帰るの?」

「そう、お家。お父さんはお仕事だから、夜には帰ってくるわ。それにね、もう一人家族が待ってるのよ」

「もう、一人?」

「そう、ひとりちゃんには、妹がいるの」

「妹……」

 

 後藤、ふたり。

 知っている。それは、死んだ後藤ひとりの妹でもあるからだけじゃなくて、

 

「ふたり……」

「……分かるの?」

「なんで、なんでか、わからないけど私、ふたりのこと、知ってる……」

「私には不思議なことばかりです……まだまだ勉強不足と言いますか」

「いいえ、先生は大変よくしてくださってます……」

 

 何故か分からないけれど、知ってる。あの後藤ふたりのことじゃなくて、私の妹。

 

「ふたりのことをよろしくね、って……言われた気がする」

 

 誰かに言われた覚えがある。

 それが誰かなんて分からない。

 

「その口調は……きっとなゆたちゃんね」

 

 お母さんには分かっていた。

 

「千里ちゃんはふたりちゃん、って言うし、万理ちゃんはきっと”よろしくな”って言うから」

 

 お母さんは、私なんかよりもずっと”後藤ひとり”のことを分かっているみたいだった。

 

「ひとりちゃんがいなかった間のことも、みんな教えてあげるから……さ、帰りましょ?……先生、タクシーを呼んでも構いませんか?」

「ええ、大丈夫です」

「ありがとうございます。……ごめんね、ひとりちゃん。今ちょっと電話するから」

 

 お母さんは私から離れようとする。衝動的にお母さんの服を引っ張った。

 

「あ……ごめん、なさい」

 

 お母さんはそのままベッドにまた座って、

 

「ううん、いいのよ……先生、ここで電話しても大丈夫ですか?」

「いいですよ」

 

 お母さんは私を右手で抱き寄せながら、左手の携帯でタクシーを呼んだ。

 

 ここで私のことを知っているのはお母さんだけ。

 私が知っているのもお母さんだけ。

 ここを出たら、全く知らない場所。

 知らない誰かに見られたらと思うと、私じゃない私を知ってる人に見られたらと思うと、耐えられない。

 

「本当の後藤ひとりさんは……こんな子だったんですね……」

「昔は、もっと明るい子だったんですけど……その、別の病気で入院して以来……」

 

 私が嘘をついてみんなの輪に入ろうとした頃のこと。

 あの指にとまっていい人間だという嘘。

 不安と痛みを紛らしたくて、お母さんの体に抱きつく。

 いつもの匂い。

 安心していると、少し眠くなってきた。

 首がかくん、と一度お母さんの体に触れる。

 

「ひとりちゃん、疲れたのね……起きたら知らないところにいたんだものね……」

「そうですね……私のことさえ知らないんですから……」

 

 眠いのに、痛みのせいで眠れない。

 

「痛いよ……お母さん……」

「……どうして、なゆたちゃんは痛み止めが駄目だっていったのかしらね……」

「やっぱり、なゆたさんには分かる何かがあるのかもしれないですね。……まるで、痛くなければいけない、みたいな」

 女の人は少し大きな声で、

 

「そういえば、千里さんはよく転んだりして怪我をしていましたよね……それで、痛そうな擦り傷だったり打ち身だったりをしたとき、凄く泣くんです。でも、しばらくすると何事もなかったようになって……千里さんにも聞いたんですが、”ひとりちゃんが起きちゃった”みたいって……」

 

 お母さんも少し声を大きくして、

 

「ええ、うちでも覚えがあります……やっぱり千里ちゃんなんですけれど、怪我をして……先生の仰ったとおりのことを言ってましたから……」

「強い痛みを感じると……ひとりさんが起きる、ということですよね……」

「だからなゆたちゃんは……」

 

 話が分からない。

 私の中の私は、どうして私に意地悪をするんだろう。

 後藤ひとりが嫌いだから?

 

 だったら、私のほうが何万倍も嫌いだ。

 痛めつけるなんてせずに、そのまま閉じ込めて、消してしまえばいい。後藤ひとりなんていなかったんだって、みんな忘れてしまえばいいのに。

 忘れられたくないのに。忘れられたい。

 でも、やっぱり、消えてしまいたい。

 死ぬことが出来ないのなら、私を消してほしい。

 ここまでやってきた、別の私が”後藤ひとり”を生きていってほしい。

 

 そう願っているのに、私の中には誰もいない。

 多重人格だなんて、嘘だと思った。

 

「千里なんていない」

「ひとりちゃん……?」

「なゆたも、もう一人もいない、誰の声もしない、誰も代わってくれない……全部嘘なんでしょ?いたら、代わってくれるよね?」

 

 そうか、ここ、病院なんだ。

 

「ねぇ、ここ病院なんでしょ?やっぱり、私、病院にいなきゃいけなかったんだよね、だから私ずっと寝たままだったんでしょ」

 そうに違いない。

「ねえお母さん、起きちゃってごめんなさい……これからも大人しく寝てるから。もうお家に帰れなくてもいいから、私のことは、もう、忘れてね」

「ひとりちゃん……そんなこと言わないで、ね、お家に帰りましょう?夜ご飯はひとりちゃんの好きなものたくさん作るからね?」

「ううん、本当は帰れないんでしょ。でもいいの、痛くても我慢するし、今度は病院から抜け出したりしないから。いい子にするから。だから、お願い、私のことは忘れて。ありがとう、お母さん……」

「ひとりちゃん……あなたはずぅっとお母さんの子よ、忘れるだなんて寂しいこと言わないで……」

「だから、ふたり、妹がいるのも私の思い込みで、話合わせてくれてるんだよね。でも本当に……もし、本当に妹がいるなら、お母さんはその子を大事にして、元気でいてね」

「ひとりちゃん……もうタクシーが来るから、ひとりちゃん……行きましょう?おんぶしてあげるから、はい」

「いいよ、ごめんね」

「歩けるの?」

「ううん、病院にずっといるから。お母さん、ばいばい」

 

 最後に抱きしめて、離す。

 お母さんはつらそうに泣いていた。

 

「お願いだから……帰りましょう……ひとりちゃん……お願い……」

「お母さん?」

 

 お母さんは、嘘をついていない。

 

「お母さん……嘘、ついてないんだね」

 

 つぶやく。

 

「分かって、って言われても、無理よね……起きたばかりだものね……でも、嘘ついたりしてないのよ……だから、お家に帰りましょう?」

 

 どうしていいのかわからなかった。

 わからなさすぎて、声も出せない。

 泣いていたけれど。

 

 



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本編-7「All I Want」

 お母さんに背負われて、病室……保健室を出た。横目で見えた保健室の文字が、私にはまだ嘘っぽかった。

 女の人……保健の先生がついてくる。

 

「ああ、ひとりちゃんをおんぶするなんて何年ぶりかしら……」

 

 お母さんは嬉しそうにしていた。

 スリッパの音が廊下に響く。もう誰もいない。窓の外は夕暮れ。眼の前はオレンジの滲んだ薄黒。

 どこを見ても病院には見えなくて、死んだ後藤ひとりの記憶と照らし合わせても、確かに学校の形をしていた。

 同じではなかったけれど。

 

「痛い……」

 

 揺られて痛む。

 

「揺らしてごめんね、ひとりちゃん……」

「お母さん、ごめん……」

「なんで謝るの?ごめんね、お母さんが力持ちじゃないから……」

 

 今の私は、小学6年生らしくて。11歳くらい。

 私はきっと重いんだろう。体重なんて気にしたことない。目が覚めてから鏡を見ていない。自分がどんなことになっているのか分からない。

 分かるのは、お母さんが私を背負って歩くのが大変なことくらい。

 大きな棚の並んだところに来る。下駄箱。

 

「ええっと、確か……後藤、後藤……」

「ひとりさんのお母さん、私が靴の方出しますので。ひとりさん?靴は一人で履ける?」

 

 呼びかけられて、思わず背筋が寒くなった。

 

「あっ……はい」

「ひとりちゃん?降ろすわよ?大丈夫?」

「うん……」

 

 足が床につくと、少しふらついてたたらを踏んだ。その小さな衝撃がお腹に響いて、また痛みが走った。

 それに、立つとパンツの気持ち悪さが一層……。

 女の人は”後藤”の名札がついた下駄箱から靴を一つ出すと、私の前の床に置いた。

 見覚えのない靴。女の子らしいデザイン。恐る恐る足を入れると、合いそうだった。

「ひとりさん、靴べら使って」

 女の人に差し出されて、体がこわばる。固まった体を無理やり動かして、震える手で靴べらを受け取った。靴を履く。初めて履くのに、履き慣れていた。

 不気味だった。

 

「お母さん、職員玄関から入ってきちゃったから……靴、取ってくるわね」

「え……」

 

 そう言ってお母さんは来た道を戻ろうとする。

 腕を掴んで、

 

「お母さん……置いていかないで……」

「ごめんなさい……すぐ戻ってくるから……我慢して、ね?お願い」

 

 我慢。

 ……する。

 

「うん……」

「先生、すみませんが……」

「いえ、本当に私の気が利かず大変申し訳ありません……」

「すぐ戻りますので、ひとりちゃんをよろしくお願いします……」

 

 行ってしまった。足音が遠くなっていく。

 置いていかれた。

 大丈夫、そんな気分、慣れてる。

 こんな気持ちも慣れてる。

 

「ひとりさん……」

「ひっ……」

 

 声に体が震える。

 下駄箱が背に当たる。木の冷たさで背筋が凍る。逃げ場がない。

 どこにも安全な場所がない。

 せめて目に映る光景から逃げようと、ずり落ちるように座り込んで、腕で顔を隠す。

 

「大丈夫……!?ひとりさん……」

「あっ……や、来ないで……!」

「あ……ごめん、なさい……」

 

 顔の前に出した両腕に隙間を作る。

 女の人の、不安そうな顔。心配そうな顔。

 少し傷ついた顔。寂しそうな顔。

 

「あ……ごめんなさい……」

 

 ほとんど何も考えずに謝った。そうしなきゃと思った。

 女の人は微笑んで、

 

「ごめんなさい、つい……でも、ひとりさんにとっては、私は知らない人で、ここも知らない場所だったんだものね……」

 

 女の人は私から少し離れて、

 

「怖がらせちゃって、ごめんなさい」

 

 そのまま、少しの時間を耐えると、

 

「ひとりちゃん、お待たせ……ひとりちゃん?大丈夫?」

「あ……」

「すみません、私がひとりさんを怖がらせてしまって……」

「そうでしたか……ごめんね、ひとりちゃん。もう大丈夫よ」

「うん……」

 

 下駄箱に背中を押し付けるように体を持ち上げて、立ち上がる。足で踏ん張ったからお腹がまた強く痛んだ。

 

「ひとりちゃん、ほら、またおんぶするから」

 

 お母さんがしゃがみ込む。覆いかぶさるように、背中に身を預けた。

 一番安心する匂い。でも、もう大きな背中じゃなかった。

 

「よい、しょ……それでは先生。ありがとうございました……」

「お気をつけて……お呼び立てして申し訳ありませんでした……」

「いえ……ほら、ひとりちゃんもご挨拶」

「え……」

 

 さようなら?ありがとうございました?

 でも、どっちを言えばいいか分からない。この人……先生が何をしてくれたのかも分からない。

 分からなかったから、

 

「さ、さようなら……」

「はい、ひとりさん。さようなら」

 

 先生、らしい人は小さく手を振った。

 私はお母さんにしがみついていたから手を動かせなかった。

 お母さんが歩き出して、玄関をくぐる。

 オレンジ色の空。周りの木もオレンジ色で、風は冷たかった。

 秋、みたいだった。

 

「お母さん」

「なぁに?」

「今、何月なの?」

「今日から11月で、明日は土曜日だから学校はお休みよ」

「そうなんだ……」

 

 休み。でも土日が終わったら、

 

「私、月曜からどうすればいいの?」

「どうしましょう……」

 

 お母さんは困った声でつぶやいたきり、答えてくれなかった。

 タクシーに乗る。お母さんの背中から一旦降りる。お母さんが先に乗って奥に。

 

「さ、乗って。ひとりちゃん」

 

 乗った。タクシーに乗ったことあったっけ。

 生まれて初めてのような気がする。死んだ後藤ひとりは乗ったことがあるけれど。

 考えているうちに、運転手の人とお母さんが話を済ませていた。

 ドアが閉まって、車が動き出す。風景が流れていく。

 前を見ると、ミラーに運転手の人の顔が映っていて怖かった。でも、知らない人で当たり前。タクシーだから。二度と会うこともない。普通のこと。

 

「……お嬢さん、今日はどうかしたんですか?いつもニコニコしてらっしゃるでしょ?」

 

 え?と声も出なかった。体が強張って。思わず俯く。

 私を知ってる?いつもニコニコ?

 

「ええ、ちょっと今日は具合が悪いみたいで……それで私が迎えに」

「そうだったんですか。いつもあんまり元気いっぱいだったもんだから気になっちゃいましてね」

 

 意味の分からない会話。

 怖い。ミラー越しの視線。

 車の中から逃げ出したい。怖い。怖い。怖い。

 右手でお母さんの手を探して、握った。

 

「横になる?」

 

 私はすぐ頷いて、お母さんの膝を枕にして横になった。

 ミラーからは逃げることが出来た。

 離した右手は、冷たい汗で濡れていて気持ち悪かった。

 深呼吸は痛いから、浅く、肩で息をする。回数は多く、でも、だんだん頭が回らなくなって体中が痺れていく。

 

「あ……あ……」

 

 うめく。

 

「大丈夫?もうすぐお家だから……」

「こりゃあ……急いだ方がいいですかね?それとも大事を取って病院に」

「病院は嫌!」

 

 大きな声が出て、息がもっと苦しくなった。

 

「あぁ……あ……ごめんなさい……ごめんなさい……」

「いや……すみません、余計なお世話でしたね。なるだけ急ぎますんで」

「うちの子がすみません、本当にありがとうございます……」

 

 エンジンの音が少しうるさくなる。

 道路の凹みを踏んだ車が少し跳ねて、腰が軋む。

 呻くのをこらえた。もう話しかけられないように。

 

 体が前に押し出される。それをお母さんの両手が押さえてくれた。

 ドアが開く。

 

「ありがとうございます……」

「いえ、お嬢さん……お大事にね」

「……ほら、起きて?」

 お母さんの手に支えられながら、体を起こす。

 一瞬、またミラーが見えた。

 にこやかな笑顔。心配そうな目。

 

「……すみませんでした」

「いいですよー、今後ともご贔屓に」

「さ、降りて」

 

 よろよろと車を降りて、地面に立つ。

 着いたのは私の家だった。

 さっきまでカウンセリングの先生と話していたのに、家は少しくすんで見えた。

 ”さっき”というのは私にとってのことで、本当は数年経っていた。それなら当然のことだった。

 

「はい、これがお釣りで……毎度ありがとうございます」

「はい。……今日は本当にありがとうございました」

「いえいえ、お嬢さん、お大事にねー」

 

 ドアが閉まって、タクシーは去っていった。

 

「……ほら、ひとりちゃん。入りましょ」

「……うん」

 

 病院に行くときに出たドア。

 家と同じで、少しくすんでいて、砂埃が引っ掻いたのか白い筋がそこかしこに見える。

 

 お母さんがドアを開けると、2つの靴、そしてそれより小さい靴が並んでいた。

 玄関は、記憶とだいぶ違っていた。

 もちろん建物は同じだったけれど、傘立ての中の傘が別物になっていて。

 入ってすぐ左手の壁には何もなかったのに、今は壁飾りがあって。下駄箱の、物を置けるスペースにも見覚えのないものが乗っている。

 

 知っている建物だけれど、知らない家になっていた。

 

 靴を脱いで上がる。女の子らしい飾り付きの靴。それと同じサイズの、男の子っぽい靴とパステルカラーの靴がまた目に入った。玄関に入ったときに見えた2つの靴。

 私がじっとそれを見ていると、

 

「ああ……靴?それは……」

 

 お母さんが話し出して、言葉に詰まる。

 

「……全部、ひとりちゃんも履いていいのよ」

「……うん」

 

 どうして?と言わなかったけれど、絶対に私のものじゃなかった。

 私に、パステルカラーの靴なんて似合わない。

 男の子っぽい靴は私には素っ気なく見える。

 女の子らしい飾り付きの靴は好きじゃない。

 

 でも、きっとそれは正しかった。

 だから正しくない私が履いていいとは思えなかった。

 履けば正しくなれる気もしたけれど、それは嘘をついているようで、耐えられそうになくて。

 頭を振って、私は招かれるままにリビングに入った。

 

 §

 

「お母さん、わざわざ遊びに来てくれたのにふたりちゃんをお願いしてごめんね」

「いいのよ、ばぁばですもの……あら、えっと……」

 

 おばあちゃんがいた。

 私の知ってるおばあちゃんより、白髪としわが多い。

 なにやら私を見て考え込んで、何か気付いたように、

 

「もしかして、ひとりちゃんなのかい……?」

「うん……」

「あらあらあらあら……本当に久しぶりだねぇ……ばぁばがわかる?」

「うん……」

「そうかい……本当によかったねぇ……美智代」

「ええ……」

 

 おばあちゃんはほっとした顔をしていて、お母さんは少し暗い顔をしている。

 

「ふたりちゃんの様子はどう?」

「そろそろ起きるんじゃないかい……ああ、ほら」

 

 おばあちゃんの側には、小さな子供。私の知ってる私の姿よりも、もっと小さい女の子。もう顔立ちはお母さんによく似ている。

 ふたり。後藤ふたり。私の妹。そのはず。

 目が開く。眠たげな瞳。小さな腕で目を三度こすり、パチリと目が開く。

 

「ふたりちゃん、ただいま」

「起きたかい?お母さん帰ってきたよ……」

「おかえい」

「はい、ただいま……ほら、ひとりちゃん」

 

 お母さんに背中を押されて、ふたりの目の前に。

 どうしよう、何を言えばいいのか分からない。

 だって私はこの子のことを何も知らない。気がついたら産まれていた妹のことなんて。

 私が言う言葉に困って泡を食っていると、

 

「おえーちゃん、だれ?」

 

 その言葉で、頭が真っ白になった。

 

「ふたりちゃん、ひとりお姉ちゃんよ。あなたの……4人目のお姉ちゃん」

「せんりちゃ、まりおねーちゃ、なゆちゃ、いない?」

「今はちょっといないみたいなの、そうよね?」

「ふたりちゃんは賢いねぇ……みんなが誰なのか分かるんだものねぇ……」

「ひとりちゃん?千里ちゃんも万理ちゃんも、なゆたちゃんも、今は出て来ないのよね……?」

「え……」

「せんりちゃ、どこ?まりおねえちゃ、どこ?なゆちゃ、どこ?」

 

 無邪気で、寂しそうな声。

 私は、この子から3人の姉を奪っている。

 だって、千里も万理もなゆたもいない。ここにいるのは、幼稚園児のままの後藤ひとりで。

 

「ごめんなさい……」

「ひとりちゃん……」

「お姉ちゃんを取っちゃって……ごめんね……」

「ふぇ」

「私がお姉ちゃんで……ごめん……」

「どうしたんだい美智代……ひとりちゃんは……」

「ごめんなさい、後で話すから……ひとりちゃん、ごめんね、しばらく休みたいわよね。自分のお部屋で寝る?それともここにお布団出す?」

 

 自分の部屋?そう思ったけれど、私は11歳だった。

 一人部屋があってもおかしくはないんだろう。

 でも、

 

「ここで寝る……」

「そうね、そうしましょうか……じゃあお布団とお着替え持ってくるからちょっと待って」

「うん……」

 

 お母さんはリビングを出ていった。

 おばあちゃん、ふたり、そして私が残る。

 私を知らない妹と、おばあちゃん。何を話せばいいのか分からない。

 おばあちゃんも口を開こうとする度に何か考え込んでは俯いている。

 

 でも、ふたりは。

 

「せんりちゃんは?まりおねーちゃは?なゆちゃは?」

 

 ソファーから降りて、私の足元に寄ってきた。

 私の顔を見て、尋ね続けている。

 ほんの少し歩いたせいだと思う。熱っぽい。この頬の熱さも、視界が悪いのも。

 

「ごめんね……ごめん……私が帰ってきて……」

「ふたりちゃんや、お姉ちゃんを困らせちゃ駄目だよ……」

 

 おばあちゃんがふたりを抱え上げる。するとふたりは、

 

「おねえちゃ、どこ……!?」

 

 泣き始めてしまった。

 ふたりは正しい。とても賢い。

 

 私はこの子の姉なんかじゃない。私がこの子を知らないということ以上に、この子は私のことなんか知らないし、きっと本当は知る必要だってなかった。そうに違いない。

 千里ちゃんも、万理お姉ちゃんも、なゆちゃんも、きっといいお姉ちゃんだったんだと分かる。

 

 それに、死んだ後藤ひとりは、後藤ふたりを壊してしまった。

 後藤ひとりは後藤ふたりのいい姉にはなれない。

 だって後藤ひとりはまともじゃない。私はまともじゃない。

 

 ああ、私は多重人格だ。

 そうなんだ。

 本当にそうなんだ。

 

 それで、私の中の3人はとてもまともで、普通だったんだと思った。

 人格が千切れることなんてまともなことじゃないけれど、それでまともになるんだから、後藤ひとりは、私はつくづくまともじゃない。

 

 熱っぽくなると、ショックで忘れていた痛みにまた気付いた。もっと酷くなっていた。

 おばあちゃんは私の顔を覗き込む。

 

「ひとりちゃん、大丈夫かい……」

「うん……」

 

 右手で左腕を強く握りしめる。痛みで痛みを紛らすために。

 

「お布団持ってきたわよー……ひとりちゃん、どうしたの?」

「ああ、美智代。ふたりちゃんがねぇ、ぐすっちゃってねぇ……」

「そう……それより、今、お布団敷くからね……待っててね」

 

 お母さんが小上がりの畳の間に布団を置いて広げた。

 

「はい、今お着替えと……それに、換えの下着も持ってくるから。横になってた方が楽よね?」

「うん……」

 

 そう言って、私は布団の中に入る。まだ冷たくて、体を丸くして耐える。痛みが鋭くなった。

 

「そうだ……カイロも持ってくるからごめんね、ちょっと待ってて……」

 

 お母さんが今度は棚の方へ行って、また戻ってくる。カイロを2つ開けて私に手渡して、

 

「お腹と腰を暖めると少し楽になると思うから……痛み止めも……どう?やっぱり痛み止め飲みたい?」

 

 かじかんだ手でカイロを揉みながら、少し考えた。

 もし、痛みが止まれば。

 私はどうなるんだろう。

 何故かそんなことを考えてしまった。けれど、

 

「うん、欲しい……」

「分かったわ。じゃあ、ちょっとお薬も持ってくるから……」

 

 お母さんがまた棚へ。そして、

 

「あら……えっと、これは駄目で……こっちも駄目だわ」

「どうしたんだい、美智代」

「ああ、お母さん。ひとりちゃんの歳だと飲めないのよ……」

「それは……困ったねぇ。でも、ひとりちゃんはどこが痛いんだい?頭痛?」

「その、あの子生理が来たのよ。それで辛いみたいで……」

「そうかい……我慢してもらうしかないかねぇ……」

 

 お母さんが私のところに戻ってきて、

 

「ごめんねひとりちゃん。お家にあるお薬、ひとりちゃんは飲んじゃだめなの……」

 ちょっとしたショックだった。

「……我慢、する」

「ごめんね……ああ、でもひとりちゃんでも飲めるお薬、今から買ってくる?」

 

 お母さんがまたいなくなるほうが嫌だった。だから、

 

「いい、我慢するから……」

「分かったわ。じゃあ、お着替え用意するからね……」

「うん……」

 

 お母さんがリビングを出ていった。

 カイロが熱くなってきたから、私は仰向けになって、片方を腰に敷いてもう片方はお腹に乗せた。

 少しすると、痛みは鈍くなった。刺されるというより握りつぶされているような。多少はましな程度。

 

「ひとりちゃん、大丈夫かい……本当に辛いんだねぇ……」

 

 おばあちゃんが私の枕元に膝をついて、私の額を撫でている。

 冷たい手が心地良かったけれど、背筋にそれが伝わったのか、一瞬鋭く痛んだ。

 

「……ぅっ」

「ああ……ごめんねぇ……」

 

 おばあちゃんは申し訳無さそうな顔をして、私から離れた。

 

「いたいの?」

 

 今度はふたりが寄ってきて、私の額を撫でた。

 おばあちゃんの真似をして。小さな手が触れてくる。

 痛がっちゃいけないと思って、されるがままにしていた。

 

「いたいの、いたいの、とんでけ」

 

 見ず知らずの姉にそうしてくれる。この子は優しいな、と思った。

 そんな優しい子から、姉を3人奪った私は酷い姉だとも思った。

 私が”本当の後藤ひとり”だけれど、この子の本当の姉はきっとその3人の姉の方だから。返してあげられるなら返してあげたいと、そう思わずにはいられなかった。

 でも、私も曲がりなりにも姉で。

 よろしくね、と言われた気がしたから。

 体を起こして、ふたりの頭を撫でようと右手を伸ばした。

 

「あぅ」

「あっ……」

 

 一歩逃げられてしまって、手を降ろす。でも、ふたりは恐る恐るもう一度寄ってきて、私の手を取り、

 

「おねえちゃ、おなまえ」

「あ……うん。ひとり。ひとり、お姉ちゃん」

「ひちょいおねーちゃ」

「うん……」

 

 右手をもう一度、ふたりの頭へ。目を閉じられてしまったけれど、出来るだけ優しくしようと思いながら撫でる。

 

「……ん」

「いい子……いい子」

 

 ふたりがはにかむ。少しはお姉ちゃんとしてやれることをやったのかな、と思いながら布団に戻る。

 

「ありがとう……」

 

 そう言うと、ふたりは大きく頷いた。

 

「ひとりちゃん?起きれる?お着替え持ってきたから着替えましょうね?」

「うん……」

 

 布団から這い出す。カイロは布団の中に置いて。

 お母さんについていく。脱衣所へ。

 洗面台の鏡には私の姿が映るようになっていた。背が伸びてしまったから。

 私は死んだ後藤ひとりが嫌っていたような服を着ていた。

 フリルのついた白いシャツに、紺色のスカート。

 白いレースの靴下。

 なんて似合わないものを着ているんだろう、と思った。けれど、私ではない”後藤ひとり”にはきっと似合っているんだろうとも。

 

「ひとりちゃん、服脱いで……下着も換えましょうね?その前にちょっときれいにしないと……」

 

 服を脱ぎながら、

 

「お風呂入らなくていいの……?」

「そうね……お風呂に入ったほうが痛いのもきっと楽になるけれど……まだお湯を張れてないもの。シャワーじゃ体を冷やしてもっと辛くなっちゃうわよ?」

「うん……分かった」

 

 下着も脱ぐ。肩紐の細すぎるタンクトップみたいな肌着とブラジャー。

 下……パンツも脱ぐ。恐る恐る、覗き込むように。

 赤黒いシミ、いやそれだけじゃなくて、小さな塊がブツブツと着いていて気が遠くなった。

 

「ひとりちゃん、大丈夫……?あら、あらあらあら……初めてなのにこんなに……」

 

 お母さんは私の肩を支えながら、パンツの中身を覗き込んで言った。

 

「ウェットティッシュ、ウェットティッシュ……ああ、パンツ脱いだら洗面台の中に置いておいてね?」

「うん……」

 

 お母さんが洗面台の収納を漁りながら言う。私はそれに従って、パンツを脱ぎきって洗面台の中に置いた。血が見えないように、血が汚れていない部分に広がらないように裏返して。

 それから、お母さんに色々と拭いてもらって、換えの下着と寝間着を着た。

 パンツは新品で、

 

「そろそろかも、って聞いてたから用意しておいてよかったわ。ひとりちゃん、ナプキンもつけましょうね」

「うん……」

 

 履くとき、ナプキンも挟み込まれた。

 拭いてもらったのと着替えで体が冷えていた。

 寒さでまたお腹が刺すように痛む。うめきそうになって歯を食いしばる。

 

「……ごめんね、お薬がなくて。さ、お布団で温まってね」

 

 お母さんは洗面台でパンツを洗い始めた。

 一人でリビングに戻る。

 

 リビングではおばあちゃんとふたりがテレビを見ていた。教育番組らしい。

 私が頑張って観ていた番組は、もうやっていないみたいだった。

 時の流れなんか実感できないのに、証拠というか事実だけが突きつけられる。時間の冷たさに凍えながら、布団にまた潜り込んだ。

 

 私は何もかもについていけない。知っているものは全て時代遅れで、生きてきた時間はわずかで、まともさなんてこれっぽっちもない。

 ああ、でも私を知らないし、私が知らなかったふたり。妹とは今から仲良くしたい。

 いいお姉ちゃんにならないと。

 なのにやっぱり私が思うことは一つだった。

 

 私が目を覚まさなければ、全てがうまく行っていたのに。

 

 お腹と腰を温めた甲斐あってか、痛みが鈍るにつれて、私の意識は薄れていく。

 

 布団の中で丸くなって、眠った。

 

 



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本編-8「Epitaph」

 3人の女の子が目を覚ます。

 

 まぶたを開き、誰でもない顔で、目だけをギョロギョロと動かす。

 

『今、どうなってるの?』

『なゆたが保健室行ったところまでは覚えてるんだけど……』

『うん……ベッドで痛くて気を失っちゃったから……ひとりちゃんが出てきた?』

 

 スポットライトの周りの闇になって、3人の女の子が話し合う。

 

「とりあえず……ひとりちゃん、いないね」

 

後藤ひとりは見当たらない。気配すらもない。

 

「まだ結構痛いんだけどねー……あの後もっと酷くなってたのかな。ひとりちゃんが私達全員を引っ込めちゃうくらい」

「……読み通りというか、まぁ、なんというか。実際はどうなんだろうな……痛みで失神したから私達が引っ込められたと感じてるのか、それともひとりが本当に出てきたのか……」

「でもそこに皆いるし、聞いたほうが早くない?じゃあ私出るねー」

 

 後藤千里は、布団の中で痛みに身を捩る。

 

「あいたたたた……」

「あらまぁ、ひとりちゃん……」

「……せんりちゃ、せんりちゃ!」

「え?ふたりちゃん、分かるのねぇ……」

「そ、そーだよ……千里ちゃんだよー……よく分かるねー……」

『やっぱりひとりが出てきてたのか』

『うん……みたいだね……』

 

 千里は寄ってきたふたりの頭を撫でる。

 ふたりは安心したような表情になって、

 

「まりおねーちゃ、なゆちゃは?」

「いるよー、でも……ふたりちゃん、ひとりお姉ちゃんには会えた?」

「うん、ひちょいおねーちゃ」

「そっかー。よかったねー……あいててて……」

「千里ちゃんかい……ああ、さっきまでひとりちゃんがいたんだけどねぇ……」

「ごめんね、またどっか行っちゃったみたい……」

「そうかい……またふっと出てきてくれるのかねぇ……」

「ごめんね、おばあちゃん。私達は何があったかわかんなかったや。それで、ひとりちゃんはどんなだった?」

「そうだねぇ……あんなに暗い子だったかしら……ずっとうつむいてて、ふたりちゃんに”ごめんなさい”なんて……」

「おーけー、大体分かった……」

 

 おばあちゃんの言葉を聞いて、千里はそう言った。

 それだけ言ってそこまでよく分かっていなかった。

 なので、もう2人が考えるのを待っていた。

 

『ぐずりはしなかったのか……?』

『わかんない……そういえば、お母さんに学校に来てくれるように頼んだよね?だから、お母さんに聞けば多分、全部分かるのかな……』

「おばあちゃん、あ、いつつ……お母さんは……」

「今洗面所にいるみたいだけど……呼ぼうかい?」

「ううん、私が行くから……」

 

 千里は布団から起き出し、

 

「あ、いたぁ……」

「ああ、無理に起きなくてもいいんだよ……」

「ううん、平気平気。あー……」

 

 立ち上がると、部屋は少々肌寒い。

 そのまま歩いて廊下へ出る。冷たい空気が纏わりつく。

 

「い、っつぅ……!」

 

 お腹の痛みが急に鋭くなる。

 

『痛い、痛い……』

「だ、誰?」

『っ……これ、多分、ひとりだ……』

『痛い……』

『これ、だめ、私達が意識飛んじゃう……』

「やばぁ……なんか変なの見える……んぐっ」

 

 視界にピントの合わない小さな人影が1つ現れて、

 

 ───────────────

 

「痛……」

 

 お腹が痛い。

 寒い。

 目が覚めたら布団の外で、

 

「ど、どこ……?」

 

 周りを見回す。

 

「廊……下?」

 

 何故かわからなかった。私は寝ていたはずなのに、痛みと寒さで目を覚ましたら、廊下で座り込んでいた。

 

「千里ちゃん……!?大丈夫かい……!」

 

 おばあちゃんの声がして、リビングのドアが開いた。

 

「どうしたの、こんな寒いとこで座り込んで……体に毒だよ……」

「え?」

「千里ちゃんじゃなくて……あらまぁ、ひとりちゃんかい?」

「え……うん……」

「お母さん、千里ちゃんがどうしたの……ひとりちゃん!?」

 

 洗面所からお母さんが顔を出したと思ったら、駆け寄ってきた。

 

「どうして……私、寝てたのに……それに、千里ちゃんって……なんで……」

「さっき起きたときには千里ちゃんだったんだよ……それが、またひとりちゃんになって……」

「何、何なの……これ……どうして……」

 

 怖い。自分が自分でいられないことが、怖い。

 

「ひとりちゃん……早くお布団に戻りましょ?ね?」

 

 お母さんに手を引かれ、廊下より暖かいリビングに戻ってくる。そのまま布団に入った。まだお腹は刺すように痛い。布団の中でカイロを探すけれど見つからない。

 

「怖い……怖いよぉ……」

 

 痛い、寒い、怖い。どれも苦しい。

 

「ひちょいおねーちゃ?」

 

 ふたりの声。はっとして目を開ける。

 あどけない心配そうな目。

 ああ、お姉ちゃんなのに、こんな小さな子に心配までさせている。

 しっかりしないと。でも、私の意識すらはっきりしない。

 

「ごめんね……」

「せんりちゃんは?」

 

 何も返す言葉がない。

 私は寝返りを打って、ふたりに背を向けた。

 とたとたという足音。

 肩にかかる重さ。

 

「ひちょいおねーちゃ……せんりちゃ、まりおねーちゃ、なゆちゃ、どこ?」

「ごめん……」

 

 あなたのお姉ちゃんがいなくて、ごめんなさい。

 濡れた枕の寝心地が悪くて、でも涙の行き場はそこしかなくて。

 布団のどこかに行ったカイロを探す気力もないから、腹痛に耐えながら横になり続けた。

 

「お母さん、今日うちに泊まってく?」

「そうだねぇ……今から帰ると夜中になるから、今日はそうしようかしら……」

「それに……せっかくひとりちゃんが帰ってきたんだもの。またいつ会えなくなるか……分からないし」

「そうねぇ……その方がいいわねぇ」

 

 おばあちゃんは、私のせいで帰りそこねてしまった。

 なゆたという別の私がお母さんを学校に呼んでしまって、その間ふたりを一人ぼっちに出来なかった。

 おばあちゃんに留守番をしてもらうしかなかった。

 私のせいだ。

 

「ごめんね……おばあちゃん……」

「あら、ひとりちゃん。起きてたのかい……何も謝ることはないんだよ……」

「うん……」

 

 寝返りをもう一度、おばあちゃんの方へ向き直る。

 枕元でかがんでいて、私の髪を撫でてくれた。

 

 でも、今この一瞬の次に私が私でいられるかすら分からない。せっかくうちに泊まっていくのに。私に会えてよかったって言ってくれるのに。

 消えてなくなりたい。それは絶対に変わらない。

 けれど、私がいて喜んでくれる人の前で消えてなくなるのは、もっと嫌だ。

 私は、私でいなくちゃいけない。

 

 でも、その人が去っていったら……。

 永遠に私が消えるのを、なんとか許して欲しい。

 迷惑をかけたくないから。この体に、この体を産んでくれた人に、その周りの人達に。

 それまでは迷惑をかけないように、ここにいようと思った。

 

「……お父さん、まだ帰ってこない?」

 

 お父さんに会いたい。

 病院にはお母さんと行って、お父さんにはずっと寂しい思いをさせていたみたいだから。それに、私が起きてたこと知っただけで、結局会えずじまいというのはきっと辛いことだから。

 お父さんに会って、おばあちゃんが帰って、それからみんなとお別れをして……。

 

 それが出来なかったらどうしよう。

 その前に私が消えてしまったら。

 

 じっとしていられない。布団から起きる。

 

「ああ、あらあら……ひとりちゃん、大丈夫なのかい……?」

「お母さん、私の部屋ってどこ……?」

「え?ひとりちゃん……大丈夫なの?」

「うん……」

「じゃあ、案内するわね……。お母さん、ふたりちゃんをよろしくね」

 

 お母さんについていって、階段を登る。

 上がってから奥へ歩くとすぐ、3枚の襖。それをお母さんが開けて電気をつける。

 

「はい……ここが、ひとりちゃんのお部屋よ」

「ありがとう……」

 

 まず目に入ったのは、奥の2枚の襖。押し入れだった。

 その右に大きな姿見。隣にもっと大きなタンス。真新しくて、背の高い大きなもの。その隣も古ぼけた少し背の低いタンス。

 

 左を見ると窓。外はもう暗い。窓の下に机と座布団。その手前にギターラック。

 畳の間なのは変わらないけれど、記憶の中の……死んだ後藤ひとりの部屋とは少し違っていた。

 

「今からこっちで寝る……?でも、ひとりちゃん、一人だと寂しいわよね?」

「えっと……今まで、その」

 

 ”私”じゃない。”私じゃない私”も変な言葉。

 

「この体が、どういうふうに暮らしていたのかなって」

 

 そういう言葉しか思いつかなかった。お母さんは顔を曇らせて、何かを言いかけて止めた。

 

 だって、私はこの体に4年と半分くらいしかいなかった。私の知らない3人のほうこそがこの体の持ち主だ。私はこの体をもう手放したも同然だし、つまり私の自由にならないことなんて当然。

 

「お母さん、ご飯の準備しなきゃだよね」

「でもひとりちゃん、また倒れたら……」

「大丈夫だから」

 

 この体が痛んでいる限り、私は私でいられる気がするから。

 下手くそな笑顔を浮かべようとする。

 

「お母さんがいちゃ、邪魔?」

「邪魔じゃないけど……一人で見てみたいから」

「そう……どれくらいかかりそう?」

「わからないけど……」

「分かったわ……20分おきくらいには見に来るわね」

 

 お母さんがエアコンを付けてくれて、

 

「暖まるまで結構かかっちゃうと思うけど、一応ね……」

 

 そうして、部屋から出て行った。

 一人になって、部屋を見回す。

 

 何か、書くものを探す。ノートか何か、紙切れ一枚でもいい。何かを。

 私の遺書を残すためのものを。

 何か、ノートとペン。

 

 部屋を見回す。右手に本棚があった。沢山の文庫本とハードカバー。

 辞書も少し。漁る。

 教科書もある。けれど、ノートがない。

 タンスも探す。でも統一感のない服の数々が見つかるばかりで、当然ノートなんかなかった。他に収納がないか見回す。

 横倒しに立て掛けるギターラックの隙間にも、何もない。後は押入れ。

 押し入れを開けると、もう一枚座布団があった。

 その上に、一冊のノートも。

 お誂え向きにシャープペンシルがクリップで挟み込まれていて、私はそれを開いた。

 

「あ……あ……ぁあ……」

 

 そこには、この体の持ち主の遺書があった。

 

 ────────────────────────────────────────

 私たち3人みんなが思っていることだけど、

 これを読んでいるのがひとりちゃんでありますように。

 

 はじめまして。

 私は後藤千里です。

 ひとりちゃんがいなくなってから一番に出てきた人格です。

 自己紹介ってすごく変な気分だけど、させてください。

 私がどういう人格なのかって、自分で言うのはてれくさいけど、多分ばかです。でも楽しく毎日をすごしてます。

 もう2つの人格、万理ちゃんとなゆたちゃん(私はなゆちゃんって呼んでるよ!) と、お父さん、お母さん、友達の皆、学校の先生、色んな人にかこまれてしあわせです。

 きっとひとりちゃんにもやさしくしてくれると思います。みんなやさしいから、だいじょうぶです。

 

 私がいなくなったら、みんなをさびしくさせるかもしれないです。

 何かできないかなって考えたんですけど、何も思いつきませんでした。

 だから、おねがいします。

 みんなに ありがとう! って伝えて!

 それとふたりちゃんのこともよろしくね。

 とってもかしこくてかわいい私たちの妹です。

 

 がんばれ!ひとりお姉ちゃん!

 

 後藤千里

 ──────────────────────────────────────

 お母さんへ

 もしこれを見つけても、次のページからは頼むから読まないでください。

 一生のお願いです。

 万理

 

 ひとりへ

 次のページを読んで。

 後藤万理

 ──────────────────────────────

 これを読んでいるのは後藤ひとりだな?

 

 後藤ひとりが表に出ていて、更にこれを読んでいるならば、逆に私達3人がいなくなっているんだと思う。

 

 それで3人共最初から覚悟していたけれど、二度と現れないのなら、人格が消えてしまったんだろうと思う。

 ひとりの中に戻ったにしろ本当に消えたにしろ。

 それとも、まだ少しだけ残っているんだろうか?

 もう少しだけその体を借りているんだろうか。

 ひとりが目を覚ました時、私達がどうなるかはわからない。でも怪我とか痛い思いをした瞬間、私達の意識がなくなる。そんな時、ひとりがぐずってるんだろうなって思ってた。

 

 つまり、何が言いたいのかって言うと、ひとりが戻ってきたなら私達は現れることができなくなるし、意識もない。

 そこで私達は終わりってこと。

 それは別に構わないし、ひとりを責めるつもりなんかない。私達は元々ひとりなんだから。

 

 本当にいなくなったのなら、やっぱり寂しい思いをさせる人がいる。

 小学校に友達がいて、私、万理の親友はそいつだけ。

 朝の会が始まる少し前に、私がいるかをよそのクラスから見に来る。文庫本を読んで待っていてほしい。多分話しかけに来るから。それで、万理はもう出てこない、は少し悲しすぎるから、しばらく眠ってるとか言ってくれればいいと思う。

 本当に可愛い女の子で、キスしてやりたいくらい好きなんだけど、それはいいか。

 別に私のしたかったことをしなくてもいい。

 

 小学校は多分知らないことばかりだと思う。

 知らない人、知らない場所、分からない勉強、他にも色々。

 担任は仕事が適当だし、千里の友達はろくでもないやつが混じってる。

 千里は何も考えずにみんな良くしてくれるって書いたけど、そんな虫のいい話は多分ない。

 だから……もしかしたら学校に安心できる場所はないかもしれない。

 そんな時は保健室にいればいいと思う。保険の先生は私達のことをよく知ってるし。

 それも嫌なら図書室に逃げ込めばいい。

 私が私に説教垂れるのもおかしな話か。

 お父さんとお母さんによろしく。それとおばあちゃんにも。

 ふたりのことを、よろしく頼む。

 私は馬鹿だけど、ふたりはきっと凄い子になると思うから。

 

(何かを書いて塗りつぶしてから消しゴムで消した跡)

 

 それじゃ、がんばれ。

 後藤万理

 ──────────────────────────────────────────────

 後藤なゆたです。

 本当はお父さんがはりきって名前をつけたから、なゆたはややこしい漢字を書くんだけど、みんな面倒だからひらがなで覚えてます。私もどう書くかまだ覚えてません。でも万理ちゃんは知ってるかもしれません。

 万理ちゃんが長々とお説教してごめんなさい。

 でも、ひとりちゃんが学校に行けるようにこころがまえをって思ったからなので、あまり悪く思わないでください。お願いします。

 

 私は、3番目に出てきた人格です。私は昔、ひとりちゃんだと勘違いされてました。千里ちゃんもそうでした。

 2番目の万理ちゃんはあきらかにちがうって分かったみたいですけど。

 ひとりちゃんは多分、私と同じであんまり明るい子じゃなかったと思います。私たちはひとりちゃんのことをぼんやりとしか知りません。ひとりちゃんが知っていることも、あまりはっきりとは知りません。

 でも、お父さんやお母さんが私をひとりちゃんだと思ったことには、そうだろうなって思います。

 ひとりちゃんは引っ込み思案で、人とかかわるのが本当に苦手なんだと思います。私もあまりとくいじゃありません。千里ちゃんはガンガン人と関わってお友だちを作っていきましたけど。

 ひとりちゃんもがんばってて、だから千里ちゃんもひとりちゃんだってかんちがいされたんだと思います。

 だけど、そんなにがんばらなくてもいいと思います。

 千里ちゃんがいなくなったからって、そのかわりにみんなの友だちにならなくてもいいし、万理ちゃんの親友の女の子と無理して話を合わせなくていいです。私のことも、ゲームをする友だちが少しいますが、話についていくために無理してゲームで遊ばなくてもいいです。

 私たちはひとりちゃんの代わりじゃありません。

 だから、ひとりちゃんも私たちの代わりをしなくてもいいんです。

 無理して友だちを作る必要はなくて、でも、一人もいないのはさびしいと思うから、ひとりちゃんのことを分かってくれる、たった一人でもいいからそんな友だちを作ってください。

 友だちだからって全部打ち明けなくてもいいはずです。そのことも分かってくれる人がきっと現れると思います。

 むりしないで、生きてください。

 

 お父さん、お母さん、おばあちゃん、ふたりによろしくお願いします。

 みんなのことを寂しくさせてごめんなさい、って伝えてください。

 後藤なゆた

 ────────────────────────────────

 千里です。

 そういえばギターのことを書いてませんでした。

 

 ぜーんぶひとりちゃんが弾いてよし!

 ひとりちゃんのもの!

 

 私の好きなパンクとかJロックとかはテレキャスターがおすすめ!

 弾きたくなかったら別にいいです!

 でもハードロックとか、大きな会場をわかすようなロックはレスポールが一番合うと思う!

 

 大事にしてね!

 ────────────────────────────

 ジャズマスターはオルタナティブ・ロックとかが合うよ。

 あとJロックとかでもすごい人がいるから聞いてみてほしいかな。

 そこそこしたから大切にすること。あとお父さんにたまに弾きたいかどうか聞いて。

 どうしよっかなーって喜んで結局弾かないけど。

 それと、黒いギター、レスポールは元々お父さんのものだから。

 本当に大事に扱って。弾かないなら弾かないで返しておいてくれると助かる。

 

 私はレスポールで弾くならヘヴィメタルかな。

 ヘビメタじゃなくてメタル。

 ────────────────────────

 アコースティックギターは私のです。

 この中だと一番安いけど、一応大事にしてほしいです。

 特に好きな音楽はなくて、好きな曲はあるけど、その話はしません。

 でも作曲家だとイトケンとノビヨ、そけんさんが好きです。

 

 あとゲーム機のこと書きます。押入れの右側にテレビとハード色々入ってます。ソフトはタンスに詰めてあります。どの引き出しかは開けて確認してください。ここテレビ線は来てないのでテレビは見れません。ゲーム用です。

 みんなのCDとかはリビングに置いてあります。好きなだけ聞いてください。

 

 大事にしてね。

 

 ───────────────────────────

 

 冷たい畳の上に座り込んで、3人の遺書を読んだ。

 

「あぁ……」

 

 みんな、私に消されてしまうことを覚悟していた。

 みんな、私より素晴らしい子だった。

 みんな、私にはじき出されてしまった。

 

 こんなものを見てしまったら、ここに私の遺書なんか書けない。3人とも私宛にこのノートを残したのに。

 

 みんな、いないの?

 問いかけても返事はない。頭の中は自分の言葉だけ。

 聞こえるのはエアコンの音、下から響くテレビの音、それと、階段を登ってくる音。

 

「あ、ぁあ……」

 

 これは誰にも見せられない。押し入れの中にノートを放り込む。挟まれたシャープペンシルのせいで少し大きな音がした。

 廊下を歩く音。襖が開いて、

 

「ひとりちゃん?大丈夫?……やっぱりまだ寒いわね」

「う、うん……」

 

 よろけながら立ち上がる。

 

「もう下降りる?一人で階段、大丈夫?」

「大丈夫……ちょっと足がしびれただけ……」

 

 本当はお腹が痛かったから。寒さが体に堪えた。でも、多分そのおかげで私のままでいられた。

 

 あの子達の部屋を出る。エアコンを切って、電気を消して、襖を閉じた。

 ここを自分の部屋だって思うことは出来なかったし、自分にそれを許せなかった。

 



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本編-9「わたしはもうたくさん」




 階段を静かに降りて、リビングに戻る。

 お母さんは先に戻っていて、ご飯の支度をしていた。

 手伝おうか、と言おうとして、何も出来ないからやめた。

 

「ひとりちゃん、ほら、布団にお入り。カイロもほら」

「おばあちゃん……ありがとう」

 

 おばあちゃんが布団を少し捲り上げて、枕のそばのカイロを指さした。私が起きた後、布団を整え直してくれていたみたいだった。

 

「美智代、電気毛布はないのかい?」

「あぁ……うちにはないわねぇ……」

「電気行火も湯たんぽもかい?」

「えぇ……それも……」

「それじゃあせめて布団は羽毛にしてあげないと……私が買ってあげるから」

「そんな、お母さん。うちで買うから心配しないで……」

「可愛い孫のためだもの、私が……」

 

 布団に入って寝ていると、私の話で少し揉め始めてしまった。

 でも、そういう暖かい布団があると3人は喜ぶだろうな。

 カイロを握りしめて、でもお腹と腰には当てずに……痛みが少しでも長く続くようにしながら考えていた。

 

 そのうち、揚げ物の匂いがしてきた。それとお米の匂い。それに混じって少し甘い香りも。

 玄関のドアが開く音。

 

「あ、お父さん帰ってきたわ……!」

 

 お母さんはキッチンから飛び出して玄関へ。

 

「こら、美智代。火は止めたのかい……?」

「止めたわ!……おかえりなさい!」

「ただいま。でも出迎えなんてどうしたんだい?」

「あのね、ひとりちゃんが帰ってきたの……!」

 

 大きな足音。

 ドアを勢いよく開けて、お父さんがリビングに入ってきた。

 

「あ、ああ、お義母さん。お久しぶりです……」

「あら、直樹さん。ひとりちゃん、こっちで寝てるよ……」

「あ、ああ……ひとり、なのかい……?」

 

 お父さん。上着を着たまま、小上がりの下で屈んで私を見る。

 

「うん……」

「本当に……本当に、ひとり、なん、だな……」

「お父さん……その……ただいま……」

「ひとり……!」

 

 私の記憶よりちょっと老けたお父さんは、小上がりに上がって、私を強く抱きしめた。

 コートの表面の冷たさと、その内側のスーツの温さで少し体がびっくりした。

 

「ああ……あ、ああ……」

 

 お父さんは泣いていた。

 

「ああ、直樹さん……ひとりちゃんはね、今具合が悪くって……」

「そうよ、気持ちは分かるけど少し抑えて」

「あ、ああ……ああ、ごめんなぁ、ひとり……つい」

「ううん、いいよ。お父さんに会えてよかった……」

「ありがとう……帰ってきてくれて……ありがとう……」

「あなた、そろそろご飯も出来るから……」

「ああ、うん……うん……」

 

 お父さんは私を離すと、上着をお母さんに渡して着替えに行った。リビングのドアが閉まってからも、大きな泣き声が響いてきた。

 

「ああ、やだもう、私までもらい泣きしちゃった……」

「仕方ないねぇ……」

「ぱーぱ、ないてゆ?」

「そうよ。うれしくってね……本当に」

「へー」

 

 お父さんにもなんとか会えた。いなくなる前に。

 みんなに会えてよかった。

 

 でも、私が……3人を押しのけてまで帰ってきてよかったのかって。

 そればかり考えてしまう。

 だって、3人にギターを買ってあげていたし、大事なギターも貸してあげていた。

 だから、私が3人の場所を奪ってここにいるって知ったら……きっと悲しい思いをさせてしまう。

 

 一目会えただけでよかった。私の姿を最後に見せられてよかった。

 だから、もう私は消えてもいい。

 消えた方がいい。

 

 布団の中で、カイロを腹と腰に当てるよう、仰向けになる。

 おろしたての下着は、なぜかポケットがついていた。深く穿けるパンツで、ちょうどお腹のあたりに。なんだかカンガルーみたいだと思ったけれど、そこにカイロを入れてみた。

 ずれることを気にしなくていいから楽で、そういう下着があるんだな、と思った。腰にもついていればもっとよかったけれど。

 

 仰向けに寝転がりながら考える。

 どうすれば3人に体を返せるんだろう。あの部屋の持ち主をここに戻せるんだろう。

 でも、そういえばさっき私はこの体からいなくなっていた。それは、カイロでお腹と腰を温めて、体が楽になったからで。

 

 そういえば、3人の遺書に気になることが書いてあった。

 この体が痛い目に遭うと、ぐずった私が出てきてしまうということだったはず。

 今がまさにそれで、生理だから……それがこれからずっと、定期的に。

 じゃあ、痛み止めを飲めば私は消えることが出来るんだろうか。

 やっぱりお薬をお母さんに買ってきてもらった方が良かった。

 

 ああでも、今日だけ。

 お別れとごめんなさいを言えなかったみんなのためにここにいたい。

 それが終わったら、3人をここに戻したい。

 お父さんとお母さんの娘を、おばあちゃんの孫を、ふたりのお姉ちゃんを、ここに戻してあげたい。

 それで……今度こそ、本当に、私のことを忘れてほしい……。

 

 ドア越しの足音が響いてきて、ドアが開いた。

 着替えたお父さんが早足でこちらに近付いてくる。

 

「ひとり……具合悪いのか?」

「うん……お腹痛い……」

「えっと……起きて何がなんだか分からないよなぁ……」

「あなた、ちょっとこっち来て」

「え、ああ」

 

 お父さんがキッチンの方へ。

 

「これ、見てくれれば多分分かるから」

「あ、ああー……なるほど。うん、分かった」

「そういうことだから、ね」

「うん……そうだ、何か手伝おうか?」

「今日はいいわよ。それよりひとりちゃんのそばにいてあげて」

「うん、ありがとう」

 

 お父さんが戻ってくる。

 

「ひとり、今日はひとりの好きな唐揚げだよ」

「うん……」

「ニンニク生姜味と塩麹味の二種類あってね、そうだ、麹が流行ったころは……ひとりはいなかったっけ」

「こうじって、何?」

「うん、麹っていうのは……」

 

 私の好きなものを覚えていてくれて嬉しい。

 これが後ろ髪を引かれる思い。

 消えようとしていることも、ここに居座ろうとすることも、どちらも同じくらい罪深いように思えて、どうすることもできない。でも、私と3人のどちらかを選んでと聞くこともできない。なのに、なすがままに私と3人のどちらかが有耶無耶で消えていくことにも耐えられない。

 

「それで、お肉が柔らかくなったり旨味が引き出されたりして……ああ、ひとりが帰ってきたのは幼稚園のときぶりだもんな……ちょっと話が難しかったかい?」

「ううん、分かるよ」

「そうか……あの子達のおかげかもしれないな……」

 

 あの子達。この体にいるもう3人の女の子。

 

「あ、あのね……お父さん」

「ん?どうしたんだい?」

「あの……こ、この体の……3人のことなんだけど……」

 

 ”この体の”。そう言った瞬間、お父さんも複雑な顔をした。見たくなかったから、俯いて目をそらしてしまった。

 

「うん……」

「わた、私がいると……出てこれない、みたい……」

 

 お父さんは黙ってしまった。

 キッチンの包丁の音も止まった。

 言わなきゃよかった。言っちゃ駄目だと思ったのに、思わず言ってしまった。私は馬鹿だ。

 

「……あ」

 

 抱きしめられた。

 

「そのことは、今は、いいんだよ……」

「でも、お父さん、寂しいよね、みんながいなくて」

「ひとりがいなくなるのも、寂しいよ。……ひとりがいない間も、病院には定期的に通ってるんだよ。だから、先生……カウンセラーの先生に相談しよう」

「うん……」

「そうだ、何か聞きたいことはあるかな?ひとりがいない間に何があったかとか……」

 

 私がまだ知らなくて、知りたいこと。

 

「……なんで、3人はギターをやってるの?」

「あ、部屋見たのか。そうだなぁ……ひとりがいなくなって、みんなに名前がついた頃、父さんのギター見てなぁ、”ギターやりたい”って突然」

「うん……」

「何がきっかけだったのか見当もつかなかったから、”どうして?”って聞いたんだけど……」

 

 お父さんは不思議そうな顔をして、

 

「”ギターのあくまがいた”……って。小さな子供にありがちで何かが見えてたり……後はその、ひとりは多重人格なわけだから。もしかしたら”更にもう1人”いるのかな?とかも思ったんだけど……うん。それで教え始めたんだ」

「ギターの……悪魔?」

「うん。ちょっと怖いね」

「悪魔……だから?」

「それだけなら子供の言うことだし、別にどうとも思わないけどね。ただ、ギタリストなら結構知ってる人は多いと思うんだけど……”ギター”と”悪魔”、それもみんなが言うには”ギターの悪魔”だから、少し身震いしちゃうよ。何せ─────」

 

 腕を組んでお父さんが更に続ける。

 

「悪魔と契約して最高のギターの腕を手に入れたって伝説があるからね。大昔のアメリカにそういう人がいたんだ。代わりに、そのギタリストは27歳で死んじゃったんだけど」

「え……27、歳」

 

 背筋が凍った。

 

「それと関係ある話で、27クラブっていうのもある。これもいい話じゃないけど、まぁ、不思議な共通点というか……とんでもない才能を発揮したミュージシャンが、なぜか27歳で死んでしまっていて。さっき話したギタリストも、やっぱり27歳で死んじゃってるんだよ」

 

 27クラブ。才能。音楽。

 

「お父さんも好きで、あと……万理。ひとりの中の人格のお気に入りのギタリスト、ジミ・ヘンドリックスとカート・コバーンも27歳で死んじゃってるんだ」

 

 27歳で死ぬ。ミュージシャン。

 

「でも、あの3人に限っては心配してないんだ」

「え、あ……どうして?」

「うん。昔バンドやってた父さんとしては複雑なんだけど……あの子達、バンドには全然興味がなくってね」

「あ……」

 

 バンドに興味がない。つまり、

 

「プロになりたい、とかは……」

「全然、だって。なおさらギターをやりたがる理由が分からなくなっちゃったんだけど……練習熱心なんだなぁ」

 

 安心した。ギターをやっていても、この体は死なない。死なないかもしれない。少なくとも、27歳なんて早さでは……。

 

「でも万理だけ左利きだから少しゾワッとしたんだよ。ギターは右利きで弾くんだけどね」

「それは、なんで?」

「ジミもカートも左利きってだけで、別に大したことじゃないよ」

 

 良かった……。ただの偶然。それに、27歳で死ぬミュージシャンだってただの偶然だ。たまたま27歳で死んだミュージシャンが有名だっただけで。

 

「ギターが好きで練習も頑張ったからだと思うんだけど、3人とも怖いくらい上手いよ。そのうち昔の父さんも追い越しちゃうだろうなぁ……」

「お父さんは……」

「うん、何かな?」

「私にも……ギター弾いて欲しい?」

「うーん……それはひとりが決めることだよ。3人も僕が教えたから弾いたわけじゃないしね」

「わかった……」

 

 私はギターなんて弾きたくない。死んだ後藤ひとりのように私もプロになれるとか思ってないけれど。

 でも、お父さんが私にもギターをやってほしいと思っていたら、私は弾かなきゃいけないと思った。そうじゃなくて安心してしまった。

 

「ほーら、ご飯できたわよー」

「お、ご飯できたみたいだ。……起きれる?」

「うん……」

 

 起き上がろうとして、やっぱりまだお腹が痛んだ。すると、

 

「よっこいしょ……」

「あ……」

「うん。まだまだ軽い軽い」

 

 私を抱きかかえるように、立ち上がらせてくれた。

 ダイニングテーブルへ向かっていく。あんなに背の高かったテーブルもこんなに低い。

 

「ひとりちゃん、椅子にタオルケットかけておいたからねぇ」

「おばあちゃん……ありがとう」

 

 座面がタオルで覆われた席に座る。

 テーブルにはご馳走。

 唐揚げ、キャベツとトマトと水菜のサラダ、中華スープ、それと……お赤飯?

 

「普通のご飯は……?」

「ひとりちゃんのお祝いだから、今日はお赤飯なの」

「うん。そういうことだからね」

「それにしても美智代、準備が良かったねぇ」

「あの子達から”もうすぐかも”って言われてたの」

 

 私の、何のお祝いなんだろう。

 

「何のお祝いなの?」

「えーっと、父さんが言うのはちょっとデリカシーがないから……」

「初潮が来た女の子はお赤飯でお祝いをするものなの」

「少し大人になったお祝いねぇ」

 

 私は、大人になんかなってないのに。

 ああ、暗い顔をしちゃだめだ。せめて照れくさいフリを。

 

「かああえ、かああえ」

「はいはい、まずはひとりお姉ちゃんが取ってからね。ほら、ひとりちゃんからどうぞ」

「白っぽいのが塩麹味で、色が濃いのがにんにく醤油。味はしっかりついてるからマヨネーズとかはなしでね」

「うん、いただきます……」

 

 唐揚げを2つ取って、口に頬張る。昔よりも美味しい。

 昔と言っても、私にとってはさっきのことだから、いきなり変わってしまって戸惑ってしまった。

 

「おいしい……」

「そう……よかった!じゃあふたりちゃんもどうぞ」

「あーい」

「ささ、お義母さんも」

「ありがとう、じゃあいただこうかしらねぇ」

 

 賑やかな食事。

 おばあちゃんがいる分を差し引いても、きっと……私のいない食卓は楽しいものだったんだろう。

 

「美智代……その、今日ビールいいかな?金曜日だし……それに……」

「だめよ、素面で楽しみましょう?」

「んー……分かった。別にいいかぁ」

「美智代は直樹さんに厳しくないかい……?」

 

 お赤飯は甘い香りがして、美味しかった。

 

 少し遠い視点で皆の顔を見る。

 楽しそうで、幸せそうな日々。

 私のいない間に続いてきた幸福。

 私の中の3人とみんなが形作ってきたもの。

 

 ぼんやりと目の前に陽だまりが見える。

 気が遠くなるほど、透明の人影に色がついてくる。

 体の感覚がなくなっていく。お箸が手からこぼれていく。

 色の付いた人影は、人になって、それは私の顔をしていない私で、

 

「─────っあ……ぁ……!」

 

 左手でお腹を殴った。

 

「え、どうしたのひとりちゃん……!?」

「……は、ぁ……お腹、叩いたから……痛、くて……」

「どうしてそんなことするの!?」

 

 お母さんが席を立って私のそばで膝をついた。

 

「ひとりちゃん……ねえ、どうしてお腹を叩くなんて……痛いでしょ……?どうしてなの……?」

「また、私が私じゃなくなっちゃう……から……」

「それは……千里ちゃん達が出てきそうなの?」

「わかん、ない……けど、でも、今日だけはみんなと……」

「ひとりちゃん……」

 

 当たり前かもしれないけど、やっぱり。

 痛くないと、私は私じゃいられないみたいだった。

 つまり、痛い時に私がここにいてしまうんだったら、生理が月ごとに来るんだったら、私はその度にここに戻ってきてしまうってことだった。

 

 痛くなければ。とても痛くなければ。辛くなければ。

 私はここにいられない。

 突然自分のお腹を殴ったことに、お母さん以外はあっけに取られていた。

 

「ひとりちゃん、お腹は大事にしなきゃだめだよ……女の子なんだから……」

 

 おばあちゃんが私の肩をつかんでそっと揺する。

 でも、

 

「痛くないと、だめみたい」

「ひとり、それは……どういうことだい」

 

 お父さんは机を挟んで左斜めから私に問いかける。

 

「痛くないと、私が、私でいられないみたいだから」

「……ああ、そういう、ことか。そうか……」

 

 お父さんは私の言葉に納得したみたいだけれど、頭を抱えてしまった。

 

「直樹さん、どういうことなんだい……」

 

 おばあちゃんがお父さんに聞く。けど、

 

「お母さん。ひとりちゃんのような……多重人格の人はね。自分を傷つけてしまう人が多いそうなの。色々な理由があるそうだけれど……ひとりちゃんの場合は、ひとりちゃんが、ひとりちゃんだってことを守るためで……」

「じゃあ、どうすればいいんだい……!?」

 

 おばあちゃんが、お母さんを叱りつけはじめた。

 どうしよう。どうしよう。私が、私でいようって思ったから。そうしなくちゃいけないって、今日だけはそうじゃないといけないって思ったから。

 

「あぁ、ふあぁああ……!」

「ああ、ふたり……ごめん、ごめんなぁ……」

 

 ふたりを泣かせてしまった。

 私がせっかくのお祝いを壊してしまった。賑やかな食卓を潰してしまった。幸せな一日を台無しにしてしまった。

 もう嫌だ。もうこれ以上迷惑をかけたくない。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……もう、私、出て来ないから……もうこの体に悪さ、しませんから……」

「待って、ひとりちゃん……」

 

 お箸を置き直して、私は椅子から立った。

 そのまま敷きっぱなしの布団へ歩く。

 

「待って……お願い、ひとりちゃん、待って……」

 

 背中からお母さんが抱きしめてくる。

 

「ごめんなさい、でも今日はみんなにちゃんとさよならって言えるから、だから、ごめんなさい、さよなら」

 

 お父さんに正面から抱きしめられた。

 

「ひとり……無理にここにいようとしたり、いなくなろうとしたりしなくていいんだよ。いつでも、ひとりが帰って来れるときに帰ってくればいいから……だから、さよならなんて寂しいこと、言わないでくれ……」

 

 でも、

 

「でも、私もう、この体と……みんなに迷惑かけたくないのに……!」

「この体、この体って……そうじゃなくて、ひとりの体だろう!?」

「違う……! もうとっくにこの体は3人のもので……私は勝手に取っちゃっただけ!今さら帰ってきて……3人にも迷惑かけて……だから、さよなら……」

 

 おばあちゃんも近付いてきて、

 

「ひとりちゃん……ばぁばが何も分かってなかったのが悪いんだよ……だからほら、ご飯お食べ……」

「もういいよ……私がおかしいだけだから……おばあちゃんは悪くないよ……」

「ひとりちゃんが頑張ってくれたのが分からないばぁばの方が悪いんだよ……お願いだから戻っておくれ……」

 

 左手の指を何かに掴まれた。

 

「えっく……っく……ひちょいおえーちゃ……」

「ふたり……ひとりは、ふたりのお姉ちゃんじゃないの」

「ひとり……!?」

「ひとりちゃん……!なんてことを……!」

「だから、ばいばい、さよなら」

「頼むからひとり、意固地にならないでくれよ……」

「嫌でしょ……?」

「何がだい……?」

「こんな、いきなり自分のお腹殴ったり、この体を傷つけたりするような子は、嫌でしょ……」

「また病院に行くんだから、その時どうすればいいか考えましょ?ね?」

「お願いだから……もう、私のことは、忘れてよ……忘れられたい……」

 

 お母さんとお父さんを振りほどいて、布団に入る。

 

「さよならが言えて……よかった」

 

 痛みが鈍っていく。体の感覚がまた消えていく。目を閉じると頭の中で何かが噛み合った感覚。

 

「あ……」

 

 見えるのは、黒い毛並みに金色の縞模様をした虎。

 

 虎の姿をした悪魔。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ギターの悪魔。

 

 ───────────────

 

 また私は、3人の女の子の夢を見る。

 



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本編-10「孤独と蒼い惑星/Eye Of The Tiger」

 廣井さんが行ってしまってから、季節が変わった。

 お父さんとお母さんがお墓の手入れに来て、ふたりの近況を教えてくれたりしたけれど、ふたりは狂ったままだった。

 すがりついて謝ろうとしたけれど、相変わらず触れなかったし、声も音にならなかった。

 相変わらず、死人はひたすら無力だった。

 

 §

 

 夏の暑い日、4人の女の人が墓地に入ってきた。

 

 みんな黒い服を着ていて、暑そうにしていたけれど……見覚えのある顔だった。

 違う。

 結構よく知っている顔だった。

 

 大槻さん、長谷川さん、本城さん、内田さん。

 SIDEROS。

 大槻さんは左脇に松葉杖をついていて、本城さんに支えられている。

 

 4人が私のお墓の前に、私の前に立ち止まる。

 無言の時が流れる。

 

 大槻さんは、俯いて震えていた。

 

「……とっとと出てきなさいよ、後藤ひとり」

 

 涙を滲ませて、私の墓石を睨んでいた。

 

「そんなところがあなたの押し入れなの?防虫剤じゃなくて、雑草と、お香と、石と、カビの臭いの混ざったそんな狭いところが……今度はそこがあなたの押し入れなの?」

「ヨヨコ先輩、落ち着いて……体に障るっすから……」

「これが落ち着けるわけないでしょ……!なんで!なんで、な……んで……死んで……」

 

 大槻さんはその場でふらついて、膝立ちになる。松葉杖がするりと脇から、指先から抜け落ちて。

 そうして崩れ落ちたところを周りのメンバーに支えられた。

 本城さんが肩を貸しながら、

 

「死ななかっただけマシで、自律神経まだグチャグチャなんですから……めまいも大丈夫ですか?」

「大……丈夫よ……!」

 

 本城さんと長谷川さんの腕を振りほどく。

 しかも左腕はらしくないほど雑に振り回して。

 それで自分の足で立とうとするけれど、今度は後ろに倒れ込んで、

 

「危ない危ないですね~……」

 

 内田さんがしっかり受け止めて、そして、私を見た。

 

 

 

 

 

 目が合っていた。

 

「ごめんなさい~、ヨヨコ先輩が素直になれなくて~」

 

 寂しそうな笑顔で、ウインクされた。

 どういう顔をすればいいのか分からなかった。

 

「……ごめん、みんな。1人に、して」

「でも……危ないじゃないすか。もし転んだら骨ポッキンなんすよ」

「じゃあそこに座らせてくれればいいから……早くして!」

 

 大槻さんがそう言うと、長谷川さんと本城さんは私のお墓に背を預ける形で大槻さんを座らせた。

 

「……じゃあ自分ら、少し外します」

「心配だからあんまり放っときませんけど、それは分かってください」

「……ありがとう」

 

 ……内田さんはまた私を見て、深々と頭を下げた。

 

 大槻さんが一人になると、

 

「……このザマよ。自律神経失調症、骨粗鬆症と……脳出血。自律神経と骨はそのうち治るだろうけど……脳は……そのせいで、今も左足と……左手が、うまく動かないの」

 

 大きなため息をついて、

 

「……ギタリスト、大槻ヨヨコは、死んだわ」

 

 ギタリストの生命、手が動かない。

 それは確かに、死だった。

 

「……リハビリはしてるから、ひょっこり生き返る日も来るかもしれないけれど、ね」

 

 ままならない動きの左手を、ゆっくり握っては離してを繰り返す。

 それを見つめながら、大槻さんは笑っていた。

 歯を食いしばりながら。

 

「いい思い出は出来たわ。ワールドツアー……貧乏ツアーだったけど」

 

 結束バンドがゆっくりとした全国ツアーをやっている途中あたり、SIDEROSはワールドツアーに出掛けていた。

 日本での評価が頭打ちになった、それにテコを入れるためだって話だったと思う。

 

「……いろんなステージを渡り歩いたわ。まぁ……大体がオープニングアクトよ」

 

 そう言うと、動く右手で携帯を取り出して……動画を流し始めた。

 

 §

 

 野外のステージ。まだ明るいから昼間。

 観客が大きなステージの前にひしめく、まさに大舞台。

 

 長谷川さん、内田さん、本城さんがステージの下手から出てきて一礼。

 そして最後に大槻さん。深々と、そして数秒と長く礼をした。

 

 歓声が上がる。

 野太い声の群れ。

 

 それからポジションについてそれぞれが楽器を持ち、中でも最も手早く済ませた大槻さんがマイクの前に立つ。

 

Please gimme 3 minutes……for greeting.(3分、挨拶に時間をください) OK?』

『BOOOOOOOOOO!』

『あ……えっ……と』

 

 いきなりのブーイング。それに本城さんが、

 

『ヨヨコ先輩!2分で!』

『あ、うん……2 minutes!OK!?(2分!いい!?)

『Yeaaaaaaaaah!!!』

Th.Thank you so much(あ、ありがとう)…… But,why are you so mean?(でもなんでそんな意地悪……?)

『HAHAHAHAHAHAHA!』

Well,okay,okay……(ま、まぁいいわ……)

 

 マイクを通さないように咳払いを一つ。

 

Hey Guys!(野郎共!)

『BOOOOOOOO!』

『えっなんで……?』

『ヨヨコ先輩~アメリカだともうそういうのちょっと厳しいらしくて~、エブリワンならいいんじゃないですか~』

『あ、じゃあ……Hey,Everyone(みんな)!』

『YAAAAAAH!』

『あ、いいのね……これで……』

 

 大槻さんは深呼吸して目を閉じ、開いて、

 

Everyone!We Are SIDEROS,from Japan!(みんな!私達はSIDEROS!日本から来たわ!)

『YEAAAAAAAAAAAAH!』

Thank you for the welcome!(歓迎ありがとう!).Our band name,(……私達のバンド名、)SIDEROS is a Greek word, (SIDEROSはギリシャ語、)and means iron. (意味は鉄)

 In other words,(つまりは)───────METAL!』

 長谷川さんがスネア、シンバルとバスドラを3発鳴らして煽る。

『YAAAAAAAAAH!』

Let’s you hear our “SIDEROS”!!!(私達の“メタル”を聞かせてやるわ!!!)

 本城さん、内田さんも加わって更に3発鳴らして煽る。

『YEAAAAAAH!』

Are you ready for “SIDEROS”!?(“メタル”する準備はいい!?)

『WHOAAAAAAAAAAAAAAAAH!』

 更に3発。

 

 そして長谷川さんがオープンハイハットでカウントして曲が始まった。

 英語の意味はほとんど分からなかったけれど、バンドの売り込みがすごいと思った。

 

 §

 

 何本か短い動画を続けて見せてくれた。

 でも、本数が進むたび、1本目のような雰囲気はなくなっていった。

 それは慣れたからじゃなかったと思う。

 大槻さんの雰囲気がおかしかった。

 最後の動画では、もうMCの一つもなかった。

 

 §

 

「自分じゃ分からなかったけれど、だんだんおかしくなってたらしいの」

 

 大槻さんが、俯きながら呟いた。

 

「もうそろそろ無理も効かないのに本番前は3徹……そもそも眠れなかったし、あと海外のエナドリでカフェインうっかり摂りすぎたり……色々失敗して、イライラして、情緒不安定になって……みんなに当たり散らしたり……でも私が“おかしい”って、もう気付かれてたから、“そのせいなんだから”って、許してくれて……」

 

 泣いていた。

 鉄のような人が、涙を流していた。

 

「─────日本に帰る直前で、倒れたの」

 

 膝を抱えて、顔を隠した。

 

「……か、海外の医療費、馬鹿になんないわよ。保険入ってたから良かったけど、なかったら……借金で火だるまになるところで……それに……私が退院するまでみんな居残って……そっちは自腹だし……」

 

 大槻さんが生きていて、よかったと思った。

 それだけで、よかった。

 

「目を覚ました私に、みんながなんて言ったと思う?」

 

 それは、多分、私にも分かった。

 

「『死ななくてよかった』って……泣いて」

 

 肩を震わせて、

 

「私も、『ごめん』って……大泣きして……それから、それから……」

 

 しゃくりあげるように泣いて、

 

「とっくに……あなたが……死んでたこと、を……知らされて」

 

「おか、しくなってた、私に……言ったら、どうなるか、わから、なかった、からって……」

 

「今すぐ……飛び出し……て……行き、たかった。居ても、立っ、ても居られなかった……でも、左、足、左手……動かなかった……ぁ」

 

「みんなで、泣い、た……」

 

「なんで、あなた、死んだの……」

 

「私、だって、まだ……生きてるのよ……?」

 

「何も違わないのに……」

 

「何かの、間違いのはず、なのに……」

 

「生きて……いてよ……」

 

「寂しいよ……」

 

「さみしいよぉ……!」

 

 顔を上げて、天を仰ぐように、蒼い空を睨むように。

 無力になった左手を、私の墓石に、背中越しに叩きつけた。

 

「……すなおになれ、なくて、ごめん……なさい……!」

 

 鉄が、溶け落ちるのを見た。

 

 3人の仲間が駆け寄ってくる。

 

 欠けた蒼い惑星の傍で、3つの衛星が周っている。

 藍の宇宙で寂しくないように。

 

 §

 

 3人の女の子が目を覚ます。

 陽だまりの真ん中には、眠る幼い女の子。

 そしてそれを見下ろす黒毛金縞の虎。……の着ぐるみを着た何者か。

 

「……あ、もしかして……ひとりちゃん?」

「あー……結局私たちに制御戻ってきたのか。で、それが……」

「こんなに小さい、女の子のままなんて……」

 

 虎の着ぐるみが挙動不審気味に手を振って3人に挨拶をする。

 

「あ、”ギターの悪魔”じゃん。ここ数年いなかったのに」

「”悪魔”さんは……ひとりちゃんとお話、した……?」

 

 着ぐるみは頭を振り、否定した。

 

「”ギターの悪魔”さん、なんで声出さないの?」

 

 千里が聞くと、

 

「……声出すのひさしぶりすぎて……」

 

 虎の着ぐるみは、背が高かった。人格のイメージとしての姿が高校生くらいの千里よりも、着ぐるみの分を差し引いても少しだけ。

 

「ここ別に本当に声出してるわけじゃないんだからぁ。なんで喉の調子気にするの?」

「あっ、あの……やっぱりお話するのって、リハビリとか必要というか」

「いやいやいや……でも、まぁいいや。”ギターの悪魔”さん。出てきたってことは、みんなに”もう1人”いるって打ち明けるの?」

「えっ……いや、それはしないけど……この子が引きこもりたがってたから、閉じこもる手助けをしに……」

「なんで後ろ向きなヘルプしちゃうのかなー……」

 

 万理もなゆたも呆れ顔で虎を見ている。千里はそれを横目に見て、

 

「そういう時は普通、ひとりちゃんが頑張れるように手助けするもんじゃないのさ?……私よりも大人の人格でしょ?昔からその格好だったし……」

「えっその大人だからってなんでも出来るわけじゃなくって……」

「ダセえ……」

 

 万理の言葉に胸を押さえ、虎はうずくまり丸くなった。

 

「うう……」

「”ギターの悪魔”。本当にギター以外何も出来ねえのな」

「うぐぁ!」

「”悪魔”さん、もうちょっと人間に手を貸すとか出来ないと仲間にしてもらえないけど……」

「イマジナリーじゃない人格がいてもぼっちなのか私は……!」

「"今後のご活躍をお祈りしています"って言っちゃうよ?怖い言葉なんだよね……」

「や、やめて……!それだけは……!」

「じゃあ、もうちょっとひとりちゃんの社会復帰に協力して?それができるなら、”コンゴトモヨロシク”って言って?」

「こ、こんごともよろしく……」

「……で、今後ともシクヨロしてもらったわけだけどさぁ。実際、ひとりちゃんにちゃんとしてもらうにはどうすればいいのかなぁー……」

 

 陽だまりの中で横たわる少女を囲みながら、4人は検討する。

 

「やっぱり”強い痛み”がひとりを引っ張り出すわけで……逆にそれがないと出て来れないってのは問題だな」

「あっそのタンスに小指をぶつける……」

「やっぱお前本当に悪魔か」

「この体は私たちのものだけど、本来はひとりちゃん1人のものなんだから……それに、ひとりちゃんを無闇に痛がらせないようにしないと……やっぱり”悪魔”さん役立たず……」

「ご、ごめんなさい……」

 

 虎はどこからともなく段ボール箱を取り出すと、それを被って座り込んだ。

 

「……なんで段ボールなんてここにあるんだ?」

「うーん、想像の世界だしねぇ、ここ。なんでもありなんじゃない?」

「こういう時は……こうすればいいんじゃないかな」

 

 なゆたの手にはいつの間にか金属バットが2本握られていた。

 そして片方を万理に渡し、

 

「そういうことで……」

「なるほど」

 

 万理は受け取ると段ボール箱を蹴りつけ、

 

「おらっ出てこい”ギターの悪魔”!」

「出て来い……っ!出て来い……っ!」

 

 なゆたも金属バットで叩いた。

 

「ひぃ!?た、たたた、助けてぇ……!」

「”ギターの悪魔”さんさぁ、もうちょっと真面目に考えてくれないかなぁ……」

「ま、真面目に考えたんですけどぉ……!止めて!叩くの止めて!」

「万理ちゃん、なんでバット使わないの?」

「いやガチでブン回したら危ないし」

「高校球児を不良みたいに言うのはやめて?」

「お前のその発想もダメだろ」

「……あ、あの……助けて……」

「しょーがないなー。万理ちゃん、なゆちゃん。そこまで!」

「ちっ」

「うん……」

「た、助かった……」

 

 ずたぼろの段ボール箱を脱ぎ捨てて、虎の着ぐるみが這い出る。

 

「まとめると……まとめると?まとめるとどうなるんだっけ、万理ちゃん」

「ややこしくないからお前でもまとめられるだろうが」

「いやまぁ、なんかテキトーになりそうだからその辺万理ちゃんがね、テキニンかなーと」

「もういい面倒だから。まとめると、強い痛みしかひとりを引っ張り出せない。逆に私たちは引っ込められて意識もなくなる。手詰まりだな。……以上。いいか?」

「あっはい……端的……」

「なんで大人の人格のお前が感心してん、だ!」

 

 万理は着ぐるみを蹴った。

 

「いたい!」

「”悪魔”さん、本当にギター以外教えてくれない、ね!」

 

 なゆたがボディを殴った。

 

「はがぁ!……はい、入っ……入った……はが……はが……」

「おいお前ボディはやめろ、着ぐるみだから当たりどころ分からんだろ」

「え?着ぐるみは殴るのが一般常識でしょ?」

「北海道の伝統を全国の常識にするな」

「あーあー、好きにやっちゃってー。おーい、”ギターの悪魔”さーん、大丈夫?」

「あぅ……だ、大丈夫じゃないです……なんで子供にいじめられてるの……いじめられたことだけはないのに……」

「お前可愛くないからだよ」

「へ……へへへ……子供に可愛くないって言われても大人はくじけないもん……」

「ギター弾いてるときだけ手の部分外すじゃん、手は好みだけど」

「あっえっ……えへへへ……」

「万理ちゃん……ついに自分の人格まで口説いてる……」

「なるしすとって言うんじゃないのこれ?」

「違う。って言うのもさ……」

 

 万理は一息目を閉じると、鋭い視線で虎を見据え、

 

「お前、結局何者なの?」

「えっと……それは、この子の別人格、です……」

「違う。……オカルトなんて信じたくないけどな、お前はひとりから生まれる別人格だとも思えない。それこそ本当に”悪魔”とか、なにか取り憑いてる存在なんじゃないか?」

 

 虎はひとりの傍にしゃがみ、髪を撫でた。

 

「その……取り憑いてる、のは間違いないかな。うん……あなたたちが生まれる前から私はこの子に入り込んでた」

「……じゃあ、”悪魔”さんは何者なの?悪魔?」

「悪魔よりも質の悪い、悪霊……?」

「ぞっとしないねぇ……」

「で、悪霊がギター弾けるのはなんでだよ?」

「それは……私が27歳で死んだギタリストだから……かな」

「”ギターの悪魔”さん、実は有名人だったりするの?」

 

 虎は一頻り黙り込み、

 

「ううん。全然」

 

 そう言うと本当の、着ぐるみじゃない虎の姿になって、闇の方へと歩き出した。

 

「また引っ込むのか?」

「病院に行くんでしょ、そのうち。そのときに出るから」

「”ギターの悪魔”さん!あなたの本当のお名前は何なの!」

 

 遠ざかる虎に千里が問う。

 

「言えない。それに、検索しても出てこないし……」

 

 虎は再び立ち上がり、また着ぐるみになって振り返る。

 金のパーツを備えた黒のギターを構えて、1人、佇んでいた。

 

「でも、ギターヒーローだったよ」

 

 瞬く間もなく姿は消えた。

 

 万理は虎の消えた場所に向かって、

 

「……検索にも出てこないレベルで無名なのに自称ギターヒーローは痛すぎね?」

 

 虚空にうめき声が響いた。

 

「そーそー、そういうのは実績や人気があって初めてなるもんだよ。アンガス・ヤングとかドニントン?どこだっけ?まぁいいや、丸々沸かしたじゃん」

 

 あっあんまり洋楽詳しくないです……とまた虚空に響く。

 

「やっぱりあいつ”後藤ひとり”じゃないぞ。AC/DCは私もなゆたも知ってるからな」

「うん……お父さんと一緒にサンダーサンダーうるさかったし……あと、やっぱり”ギターの悪魔”さん、『お祈り』しちゃうよ……?いい……?」

 

 GIYAAAAAHHHHという叫びが轟く。

 

「”ギターの悪魔”さん、出て来ないだけで割とずっといるの?」

「どーだか。いそうな気がするけど」

「……ひとりちゃんが表に出てる時も、見てるだけなのかな……。だって、ひとりちゃんを引っ込めたのは”悪魔”さんなんでしょ……。だったらひどいよ、『引きこもりたがってたから閉じこもる手助け』……なんて……」

「おー、なゆちゃんよく気付いたねー。そうなると……どうなる?」

「いやお前こっち見るな。……まぁ、私たちとひとり、その橋渡しが出来るかもってことなんだよな」

「だって”悪魔”さん、私たちからも体取っちゃえるし……今ここにひとりちゃんが引っ込んでるのも、”悪魔”さんが体を取ったからなのかな……」

「……あいつ自分のこと悪霊って言ってたよな。それが体乗っ取るってホラーすぎないか?」

 

 3人で黙り込む。

 虚空にまた声が響く。

 れ、霊媒師は勘弁してください……という泣き言だった。

 

「お母さんに相談しよっか?」

「うん……これこそ本当の”お祈り”だね……」

 

 お願いですから盛り塩とかお札くらいで許して……という懇願が闇から溶け出すように聞こえてきた。

 

「はぁ……そろそろいじめるの飽きたし……誰が出る?」

 

 千里は、陽だまりの中で眠るひとりの小さな体を抱き上げながら、

 

「万理ちゃんよろしくー」

 

 なゆたもひとりの頭を撫でて、

 

「ひとりちゃん見てるね」

「分かったよ……じゃ」

 

 陽だまりの中に万理が立つ。

 中学生くらいの後藤ひとりの姿をした、鋭い目の少女。

 

 万理が目を覚ます。

 

「……あれ?家じゃない……?」

 

 知らない天井だった。

 



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本編-11「Take Me To The Hospital」

 知らない天井、つまり知らない空間。

 周りを見回す。少し広い部屋。ベッドに寝ていることが分かった。ただ、ホテルというわけでもなさそうだった。

 そして何より、

 

「もしかしなくても……病院か……」

 

 左手に刺さった管。液体のパウチを吊るしたスタンド。間違いなかった。

 

「なんでだ……?」

 

 何が起きたのか、と考えるが、万理はすぐに”分からない”と気がつく。

 

「ひとりが意外と踏ん張ってた……んだったら、病院騒ぎにはならないし……」

『……何があったんだろ」

『でもこういうときのための……アレ、なんて言ったっけ』

「ナースコール……だろっ、っと……どこだ……」

 

 点滴が邪魔で動きにくい。けれど、

 

「ん?……あー、そうか、これか」

 

 壁から太い線が伸びていて、その先端にはボタンがついていた。

 

「ポチッとな……」

『こういうボタンは長押しが基本……』

「いやまぁ押し損ねとかないようにそうしたつもりなんだけどな?」

 

 少し待つと、ドアが開く音がした。

 

「後藤さん、目を覚まされましたかー?」

 

 女性の看護師が入ってきて、すぐにベッドの脇に立った。

 

「あー、げほっ……」

「大丈夫ですかー?」

「みず……」

「あ、はい。今持ってきますからねー」

 

 看護師は病室内の洗面所から水の入ったコップを持ってきて、万理に手渡す。

 少しずつ、万理は口の中と喉を潤していく。

 

「はぁ……」

「飲めましたかー?」

「はい……えっと、それで、その。私に何があったんですか?」

「あー、”そういう子”でしたねー」

 

 ”そういう子”。それに少し引っ掛かるところがあり、思わず眉を顰めてしまう。

 

「あ、多重人格のことですー。なので記憶がないこともあるというふうに聞いてましてー」

「ああ、そうですけど……」

「じゃあ説明しますねー。まず、後藤さんのもう一つの人格が出てきて、その時に眠ったそうですー」

「あー、主人格の方ですね、それ……」

「あ、逆にあなたがもう一つの人格なんですね?」

「私とあと2人、3人と主人格が入れ替わると記憶が切れるんです」

「はぁ、そうなんですねー。あ、話戻しますねー」

 

 好奇心を向けない看護師に、万理は好感を持った。それに万理の基準で顔がそこそこ良かった。あの同級生と、万理の一番好きな人には及ばないけれども。

 

「それで、主人格の人が寝ちゃってから丸一日起きなかったそうでして、起こしても起きなかったんですね」

「はぁ……なるほど」

「それで後藤さんのお宅に別の医院の先生が往診に行って下さったんですが、やっぱり起きなかったので……その先生の紹介って形で、当院で後藤さんをお預かりすることになったんですねー」

「あー、分かりました……それで、何日寝てました?というか、何曜日ですか?一週間以上はないと思ってますけど……」

「今日は水曜日ですねー。あ、生理も終わってますよ。私も聞いてますけど、相当痛かったらしいですねー」

「いや……一番痛い時は主人格が出てたんで分からないですね……痛かったは痛かったんですけど」

「そうですかー。でも健康に暮らしてれば結構軽くなると思いますからー」

「気をつけます……」

「それじゃ、これからお家に連絡入れますねー?あと診察の予定も入れますー」

「分かりました……で、退院はいつになりそうなんですか?」

「診察の予定と結果によりますねー。あ、なにかご家族に持ってきてもらいたいものとかありますー?」

「あー……じゃあ、何かメモとかもらえません?」

「当然持ってきますよー。それじゃ、すぐ戻りますからお待ちくださーい」

 

 看護師は足早に病室を去り、また静かになる。

 

「……すぐに退院、じゃないんだな」

『ねー。でも……何日も寝てたって信じられないなぁ』

『……ひとりちゃんは、こんなのよりもっとひどい目にあってるんだよ』

「私達が遭わせてるって面も、まぁなくはないか……」

『そこはぁ……もてずもたれず、だっけ?」

「持ちつ持たれつだアホ」

『うん。ひとりちゃんがひとりちゃん自身のために私達を作ったはずだけど……でも、そのせいでいつのまにか小学6年生になっちゃって、すごく怖かったと思うから……」

「私達が作られてからずっと意識なかったわけだからな……」

『だから、”悪魔”さんが出てきたんだと思うの。ひとりちゃんを守るために』

 独り言と頭に浮かぶ声の両方が止む。

「カウンセラーの先生と相談だな」

 

 すぐに看護師はメモ、ペン、下敷きを持って戻ってきた。

 ベッドの電動リクライニングで起こされると、背中と腰が少し軋んで、足が攣りそうになった。

 

「あっ……いつつ」

「あー……数日とはいえ寝たきり状態でしたからねー。後で立って歩く練習しましょうかー」

「はい……」

 

 すぐにベッドテーブルが手元に寄せられて、そこに筆記用具が置かれた。

 

「じゃあ待ちますねー」

 

 万理は左手にペンを持つと、少し考え込む。

 

「んー……」

『迷ってるなら私の先に書いてよぉ、rockin' onとジャパンどっちも読みたいからそれかなぁ』

『3DS……ここ無線LANないかな……対戦しないと……対戦しないと……』

「……友だちに借りた本、と」

『ロキノンは!?ロキノン!』

『厳選……対戦……厳選……対戦……』

「これでいいので、お願いします」

「はいー。じゃあお家に連絡取ってきますねー」

 

 メモを受け取ると、看護師はすぐに病室を出ていった。

 

『ろーきーのーんー!』

『ポーケーモーンー!』

『うるっさいよお前ら!』

「そういや生理痛、結局全部ひとりに押し付けたわけなんだよな……」

 

 万理は自由な右手を額に当て、溜息をついた。

 

「あいつの苦しみを知りたい」

 

 目を閉じて、陽だまりの中に立つ。

 そこから一歩踏み外し、薄闇の中の千里が抱きかかえる少女を見る。

 

「……なんで、辛い気持ちを私達にくれないんだ?」

 

 頭を力加減のない左手で撫で付ける。ひとりはそれにも何の反応も示さない。

 

「やっと姿を見れたのにな」

 

 なゆたが近付いてきて、

 

「万理ちゃん、ちょっと乱暴……」

「……ふたりの扱いもよくわからないんだよ、実際」

「想像力だよ……これくらいか弱い子が、どれくらいの力で圧されると痛いのかなって、考えるの」

 

 なゆたは万理の左腕を右手でつかみ、左手を添えて、

 

「このくらいの力加減だよ……」

「はいはい……」

「なゆちゃんのなでなで、ふたりちゃんのお気に入りだもんねー……一番私が遊んであげてるのに」

「千里ちゃんも万理ちゃんも雑だから……」

 

 千里は赤ん坊をあやすように体を揺らす。

 

「よーしよしー、でもぴくりともしないのは凹むー」

 

 やっぱり、ひとりは昏昏と眠ったままだった。

 

「もうそっとしといてやろう……」

「うん……」

「えー、せっかくこうしてはっきり見えてるんだから構いたいじゃん」

「リアクションしないからお前自分で無限に凹み続けるぞ」

「あーいわかりましたー……」

 

 ひとりを下ろし、陽だまりの外で戯れていると、

 

『後藤さーん、お母様がいらっしゃいましたよー』

「あ、私出るからな」

「うん、よろしく……」

「ほっぺつついたろー」

「お前無理に起こそうとするんじゃないぞ……」

 

 万理が光の当たるところに戻る。

 

「あの、娘の様子は……」

「とても元気そうですよー。ただ、”交代して出てくるほう”だそうですけどー」

「そうですか……」

 

 病室のドアが開いて入ってきたのは2人。看護師と、

 

「あ、お母さん……」

「万理ちゃん……なのね?」

「うん。……ごめん」

 

 お母さんが近付いてきて、万理を抱きしめた。

 万理はそれに右腕だけで抱きしめ返す。

 

「万理ちゃんも……みんなも、ひとりちゃんも悪くないのよ……謝らないで……」

「分かった……」

「ええ……じゃあ、お友達に借りた本よね?ランドセルに入ってた……」

 

 お母さんは布のブックカバーを掛けられた文庫本を万理に差し出す。

 

「うん。これ。ありがとう」

 

 万理が受け取りテーブルにそれを置くと、

 

「あと、千里ちゃんとなゆたちゃんに……はい」

 

 rockin' on とロッキング・オン・ジャパンと3DSもテーブルに置かれた。

 

「お母さん大好きー!」

 

 千里が突然現れ、両腕でお母さんを抱きしめる。当然点滴台が引っ張られ、ベッドのフレームに当たって大きな音が鳴った。点滴のチューブも長さが足りずに張り詰めている。

 

「あーあー、後藤さんちょっと待ってください危ない危ないー」

「あ!ああー、そういえばなんかついてた……ごめんなさい」

 

 千里はすぐに左腕を元の位置に戻すと、看護師とお母さんにはにかんで見せた。

 

「もう……千里ちゃんはそそっかしいんだから……」

「えへへ、ごめんなさい」

「へー、”そういう感じ”なんですねー。私もお名前覚えた方がいいですかねー」

「あ、いいですいいです、”後藤”の方がややこしくないから」

「そうですかー、じゃあそうしますねー。それと左腕見ますよー」

 

 看護師はそう言ってベッドを挟んで反対側に回り込み、千里の左腕を確認した。

 

「あー、一応大丈夫そうですねー」

「この子が慌てん坊で申し訳ありません……」

「あーいえいえ、元気が一番ですよー。でもケガしたら大変ですからねー」

 

 看護師が笑いかけ、それに千里も無邪気な笑みを返す。

 けれど、

 

「……あ、お母さん……充電器は持ってきてる?」

「あら、なゆたちゃん。……充電器?」

「うん、3DSの充電器、ある……?」

「あぁ……うっかりしてたわね……ごめんなさい。明日また来るから、その時でいい?」

「ううん、こっちこそごめん……万理ちゃんが自分の分しか書かなかったから……逆に何も言ってないのに持ってきてくれて本当に嬉しい……」

「そう……良かったわ。あ、何かお菓子買ってこようか?」

「え……?」

「病院の中にコンビニもあるのよ」

「そうなんだ……」

「でもそこまで品揃え良くないですよー」

 

 なゆたは少し考え込んだ。お母さんを困らせたくはなかった。無理なものを頼んで”ごめんね”と言わせたくはなかったから。そうなると、看護師の言う品揃えの良くないコンビニにでも売っていそうなものだけに限られる。

「じゃあ、なんでもいいからチョコレート……」

「なんでもいいの?」

「うん……」

「分かったわ。じゃあ、ちょっと行ってくるわね」

「ありがとう……」

 

 お母さんが病室を出た。そして看護師は、

 

「じゃあー、ちょっと立って歩く練習しましょうかー。おトイレ自分で行きたいですよねー」

「はい……」

 なゆたが少し身を捩ると、かさり、という音が聞こえた。

「?……ああ」

 

 その音と、自分がひたすら眠り続けていたということを結びつけ、

 

「今、私オムツ履いてるんだ……」

「そうですねー。ちゃんと歩けるようになるまではオムツですー」

「じゃあ、早くちゃんと歩けるようにがんばります……」

 

 特に今のところ不快感はなかった。

 

「あの、看護師さんが私のオムツを換えてくれてるんですか?」

「はいー、介護士さんと一緒にやってますねー。あ、後藤さんは女の子ですから、もちろん女の人ですよー」

「あ、はい……そういうお仕事があるんですね……」

「興味ありますー?」

「はい……とても」

 

 なゆたは普段から漠然と”人のためになることをしたい”と思っていた。とは言え、千里と万理も別のことを考えていたし、何より自分はいずれ消えるかもしれなかった。結局最優先は”ひとりちゃんはどうしたいか”だった。

 

「けど……なりたくても、私の体じゃありませんから……」

「……そうですかー」

 

 看護師は少し口を噤んだものの、結局そう返した。

 なゆたはそれをありがたく思った。

 千里も、万理も、自分のいつかの消滅をほとんど受け入れている。けれどなゆただけは、諦めつつも恐れていた。なのに同情されても困るとも感じていた。その身勝手さも自覚していた。

 

 だから態度を変えない、無責任に慰めないこの人は強いと思った。

 寄り添うことだけが、手を握ることだけが優しさなのではないのだと学んだ。

 がむしゃらに手を伸ばす方が楽に決まってる。安易だから。けれど、

 

『この人は、私の気持ちなんて分からないよね……』

 

 言葉だけなら突き放すようだけれど、逆だった。

 尊敬だった。いつだって”人の気持ちをわかりたい”と思っていたなゆたにとっては、”結局人の気持ちなんて分からない”という当たり前を改めて教えられた、ささやかだけれど意義深い体験だったから。

 諦めているのに、憧れはなおさら深まった。

 看護や介護をやれなくても、この経験はなくしたくなかった。

 だからこそ、

 

「……はい、仕方ないです」

 

 なゆたは笑った。少し悲しいけれども、仕方ないから。

 でもそれでお話を終わらせたくはないから、

 

「話変わるんですけど……ここってWi-fi飛んでます……?」

「あー、ここはそういうの導入してないですねー。患者さんが持ち込むしかないですねー」

「そうですか……」

「すみませんー。でも今ってゲームもネットつなぐのが当たり前なんですねー」

「対戦したかったです……」

「へぇー、私の世代だとみんなケーブルつないでましたねー。ジェネレーションギャップってやつですかー」

 

 看護師はベッドの左側に回り、点滴スタンドをそっと動かす。

 

「努力値も個体値も分かってない適当なフルアタ構成しかぶつけてこないキッズじゃなくて、昼間から対戦してる廃人の人と対戦して、積み技から一撃当てる舐めプしたかったです……」

「意外と性格悪いですねー。はい、足下ろして座れますかー?」

「ん……しょ……」

 

 寝返りを打つように体を横にし、足をベッドの外に出す。そして背もたれのようになったマットレスに肩を預け、座った。両手をマットレスについて支えにしている。

 

「はい、座れましたねー。じゃあ、両腕を前に出してくださいー」

 

 言われたとおりに両腕を出すと、その間に看護師が入って脇から背中に腕を回した。

 

「もうちょっとお尻動かしてしっかり床に足つけましょうかー」

「はい……」

 

 体を捻りながらベッドの縁へ。両足が確かに床を踏んだことを確認すると看護師は、

 

「じゃあ持ち上げますよー、1、2、3ー」

「は、はい……」

 

 数に合わせて立ち上がる。体のふらつきは看護師の支えで押し留められた。しかし、

 

「あ、わわわ、足、力、入ってないです……」

「私が支えてるので安心してくださいー。ゆっくり慣らしていきましょうねー」

 

 看護師の言葉に従って、少しずつ足に感覚を巡らせていく。

 一方で、

 

「あ……う……」

「めまいですかー?」

「あの、頭がくらくらして……頭の中が揺れてるみたいで……」

「めまいですねー。大丈夫ですよー、ちゃんと支えてますからねー。深呼吸できますかー?」

「はいぃ……」

 

 なゆたは大きく息を吸って、少し咳き込んだ。

 

「一回座りますかー?」

「は、い……けほっ」

 

 看護師がゆっくりとなゆたをベッドに座らせる。

 

「はぁ……はぁ……」

「痰が絡んだ感じはしませんかー?」

「はぁ……ちょっと……あるかも……」

 

 看護師は手早くティッシュを十数枚抜き取ると、

 

「じゃあ後藤さんー、息をゆっくり吸ってー、勢いよく吐きましょうかー。はい、吸ってー」

「すぅ……」

 

 なゆたは息を深く吸い込み、指示を待つ。

 

「はい勢いよくリズムよく吐いて、はっ、はっ」

「はっ、はっ……」

「はいー上手ですー。それで、胸のつかえが上に上がってきた感じしますかー?」

「ちょっとだけ……」

 

 なゆたは胸に手を当てる。

 気付かなかった胸の違和感が、痰の移動でやっとわかった。

 

「いいですねー。じゃあ、2、3回咳をしてそのまま吐き出せるかやってみましょうかー。あんまり咳き込むと体に悪いですからねー」

「はい……けほっ、けほっ、あぇ……」

 

 言われた通りになゆたは2回咳をした。

 すると、口の中にどろっとしたものがせり上がってきた。

 

「あ、痰出ましたかー。はいティッシュの中に出してくださいー」

 

 看護師がティッシュをスッと口元に当てる。

 

「あ、おえっ……」

 

 なゆたが吐き出すと、看護師は痰をまじまじと観察し始めた。

 なゆたはそれが恥ずかしいのと、どういう意味があるのか疑問に思って、

 

「あ、あの……」

 

 看護師は視線をティッシュからなゆたの方へやると微笑み、

 

「あー、どういう痰が出たかを見るのも大事なことなんですよー。後藤さんのは問題なさそうですねー。息苦しさはどうですかー?」

 

 胸に手を当てて、なゆたは深呼吸をする。

 

「ら、楽になりました……すうっと息が胸まで通る感じで……」

「それが普段の後藤さんの呼吸ですねー。しばらく意識がなかったので、体が段々慣れちゃってたのかもしれませんー」

 

 看護師はティッシュを丸めてベッド脇のゴミ箱に捨て、

 

「じゃあ、もう一度立つ練習しましょうかー。さっきと同じ感じでいきますよー」

「は、はい……」

 

 持ち上がられるように起立して直立。

 慣れたらサポートを抜く。

 立つことに慣れてきたら、再び支えを入れられながらその場で足踏み。

 

「じゃあ歩きましょうかー。とりあえず自分でトイレまで行ってみましょうねー」

「はい……」

 

 看護師に両腕をしっかりと掴まれながら、掴まり立ちのような要領で歩く。点滴スタンドは看護師が脇に挟んで転がしてくれた。

 

「はい、1、2、1、2、いいですねー」

「1、2、1、2……」

 

 トイレにはすぐ着いた。

 

「後藤さん、今おトイレは大丈夫ですかー?」

「あ……多分、大丈夫です……」

「そうですかー。じゃあこのまま一人でベッドとトイレを往復できるかやってみましょう。それが出来たら、お母様が下着も持ってきてらっしゃるはずなので、オムツは外してそれに着替えていただくことになりますねー」

「が、頑張ります……!」

「はいー。じゃあ、一回ベッドに戻りますよー」

「はい……!」

 

 そのままベッドに介助ありで戻り、また座った。

 

「OKですねー。じゃあ、私のサポート無しで立ちましょうー。コツは、足を内側に引くことと、おじぎするように立つことですねー。楽になると思いますよー」

 

 言われたとおりになゆたは膝から先を手前側に引き、上半身を前に倒しながらお尻を浮かせる。体が前に出て、膝が曲がって体重を支える。重みが足の裏、指の付け根に掛かっていく。

 

「はい、ゆっくり腰を上げていきましょうー」

「はい……」

 

 曲がった膝をまっすぐに。立ち上がる。

 

「す、すごく楽に立てました……」

「そうでしょうねー。そもそも人間って立ち上がる時にこういう動きをするものなのでー。自然な動きをするのが一番なんですー。背筋伸びたまんまで立つのは自然ではないんですねー。学校なら何か式とか、あと社会人だとお行儀悪いって言われちゃうんですけどねー」

「え、えっと……なんというか行儀が悪いっていうより……おばあちゃんみたいな立ち方みたいで……」

「はい、そうですよー。お年寄りの方とか、体に障害があったりだとか、それか後藤さんよりもっと長く寝たきりだった人向けに研究されてましたからー」

「そうなんですね……」

 

 なゆたは勉強が好きじゃなかった。だからそういうことは万理に任せきりだったし、それで”たまにはお前がやれ”と言われるくらいだった。千里もそう言われているけれど。

 なのに、今教えられていることは絶対に忘れたくないと思っていた。もっと色々なことを知りたいと思った。

 

 苦しい人が楽に生きられる手段を。再び歩き出す人の支えになる術を。小さな子供を圧し潰さずに手懐けるコツを。そして、人を安らかに旅立たせる方法を。誰かの助けになりたいから。

 

 この看護師は色々なことを教えてくれて、納得させてくれる。

 なゆたはもっと色々聞きたいと思ったけれど、自分から質問することはやめた。

 この人は色々な人を助けている。そのためには必要以上に引き止められないと思ったからだった。

 

『千里ちゃん、万理ちゃん……』

 

 頭の中に声を響かせる。

 

『ごめんなさい、私、夢ができちゃった……』

 

 千里は静かに、

 

『つらいね』

 

 そう語りかけた。

 

『うん……』

 

 万理は何も言わなかった。

 なゆたは泣きそうになりながら、

 

『私の体がほしいな……』

 

 陽だまりに立ち、闇の中で眠る小さな女の子を恨めしげに見て、けれど力なく笑った。

 みんなの願いの、多分ひとつだけしか叶わないだろうから。

 



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本編-12「1/2」

 それから立ち座りを繰り返し、それからもう一度一人でトイレまで歩いて往復。途中でお母さんはコンビニから戻ってきていて、なゆたを嬉しそうに見ていた。

 

「良かったわー、これならオムツ外せそうですよね?」

「ええ、普通の下着で問題ないと思いますー」

 

 なゆたは勿論、千里も万理もよかった、と思っていた。思いは様々ではあったけれど。

 

「それじゃ、今打ってる点滴が終わったら針も外しますねー。お着替えはその後にしましょうかー」

 

 点滴の残りは1/3ほどだった。今すぐとはいかないのが少し待ち遠しい。

 

「夜からは普通のお食事用意しますからねー。でもー」

「でも……?」

 

 病院の食事。それでなゆたより先に万理が思い当たった。

 

『……マズいって良く言うけど』

『そうなの?』

『私が聞いたことはお前も聞いてるんだぞ』

『個性だよ個性』

「えっと……どんなご飯ですか?」

 

 頭の中の声に怖気づき、聞いた。

 看護師は少し困った笑みで、

 

「後藤さんしばらくご飯召し上がってなかったのでー、うーん……はい、ごまかしません。あんまり美味しくはありませんねー。というか、非常ーに薄味ですー」

「えっと、それは……」

「後藤さん、数日全くご飯を食べてないので、普通のご飯をいきなり食べると危ないんですー」

 

 なゆたに代わって万理が出て、

 

「あー……鳥取城の渇え殺し……って、いきなりモノ食べてバッタバッタと人が死んだ話があったような……」

「よく知ってますねー。胃が痙攣して死んじゃったって言われてるお話だったと思いますー。でも実は胃が受け付けなかったんじゃなくて体そのものの問題なんですー」

「万理ちゃん……結構ショッキングなことも知ってるのねぇ……」

「うん、まぁ。色々本読んでると……」

 

 万理は失敗した、と思って少し俯いて答えた。

 

「はい、それで昔のお侍さんが死んじゃったのは栄養が足りないままの状態に慣れていたところに沢山栄養が入ってきて体がおかしくなったからなんですねー」

 

 看護師は続けて、

 

「でも後藤さんは点滴でちゃんと栄養を摂っていたのでそこは問題ないんですよー。ただお腹を慣らしていかなくちゃならないのは本当ですー。胃腸の機能が働いてなかったので、慣らさないと下痢とかで逆に体調を崩しちゃうと思いますー」

「なるほど……」

『勉強になるなぁ……』

 

 今は万理が出ているけれど、またなゆたに代わってやったほうがいいかと思い、

 

『なゆた、出ていいぞ』

『うん』

 

 看護師は、

 

「あ、またさっきの後藤さんに代わったんですねー」

「わ、分かりますか……」

「やっぱりですねー。ちょっとですけど分かってきましたー」

 

 看護師は嬉しそうに笑った。

 

「で、チョコレートなんですが……」

「あ……」

「今日はちょっと我慢して様子を見ましょうねー。お砂糖が多いものはどうしてもちょっと胃に負担がかかりますのでー。多分明日からはデザートかおやつに食べられると思いますー」

「よかった……」

「スナック菓子だったら完全NGでしたねー」

 

 ゲームをしながらパクパクとチョコレートをつまめないのはなゆたにとって残念だった。けれど、すぐに食べられるようになると思えばどうということもなかった。

 

「今大体3時位なのでおやつを食べたい時間だと思いますけど……我慢してくださいねー」

「はい……!」

 

 この人の言うことは信用できるし、信頼できる。

 憧れの人だから。なゆたは熱い眼差しで看護師の目を見た。

 落ち着いた表情で笑いかけてくれた。

 

「……さて、点滴が終わるくらいになったらまた来ますのでー。お母様はまだいらっしゃいますよねー?」

「はい。しばらくは……」

「わかりましたー。では何かありましたら、そこのナースコール押していただければ看護師参りますのでよろしくお願いしますー」

 

 そう言うと、看護師は病室を出ようとする。

 

「あ、あの」

 

 なゆたが思わず引き止める。

 

「? どうされましたー?」

「あ、ありがとうございました……!」

「はいー。ではまた後でー」

 

 看護師は一礼、ドアを開けて病室を出た。

 

 病室にお母さんと二人きりになる。

 

「よっし……」

 

 千里はベッドの左の縁から立ち上がる。

 

「おーっとっと……」

 

 なゆたが習ったとおりに立ってみたけれど、勢いをつけすぎた。

 お母さんが丸椅子から立って傍に駆け寄ろうとする。

 

「あぁ、危ないわよ千里ちゃん……」

「だ、大丈夫大丈夫ー」

 

 千里は足踏みをしつつ持ち直し、

 

「セーフ!」

 

 一応点滴スタンドを左手で掴みつつ、右手でピースしながら笑った。

 

「よかったわ……千里ちゃんったらいつもうっかりさんだもの……」

「うー……それはね……違わないなー……」

「一人で歩ける?」

「うん。でもベッドの反対側に座るだけだしー」

「あら?なんで?」

「寝てるよりも座ったほうがいいかなーって。お母さんがそっち側だし」

「動いた方がいいのはそうかもしれないけど……私がそっち側に椅子を持っていけばいいじゃない?」

「あ」

『なんでお前そんなにアホなんだ』

「今万理ちゃんにアホって言われたぁー」

「万理ちゃんは容赦ないわねぇ……」

「うー、でもせっかく立ったからそっち側行くー」

「分かったわ。転ばないようにね」

 千里はスタスタと歩こうとして、足が上がらずに、

「あわ」

「あぁ危ない……ゆっくり歩かなきゃだめでしょう?」

「ごめんごめんー……」

 つんのめって前に倒れ込むところだったのをお母さんに受け止められて、そしてそのまま真っすぐ立つ姿勢に戻された。

 

「んー、なゆちゃんに代わってもらお」

『えっ?……うん』

 

 お母さんに寄りかかった姿勢のまま、なゆたは千里と入れ替わり、姿勢を正す。

 点滴スタンドを寄る辺にしながら、膝もまだ少し震えていたけれど。

 

「私が習ったから、私が歩くね……」

 

「なゆたちゃんが練習してたのね。じゃあ、大丈夫そうね」

『信用のなさー……』

 

 なゆたは少しふらついているとは言え、さほど危なげはない足取りでベッドの右側へ歩き、座り直した。

 すぐにまた千里が現れ、

 

「えーっと……お母さん。ごめん!」

「え……?千里ちゃん、なんで謝るの……?」

「その、結局ひとりちゃん上手く起こせなかったからぁ……なんか、ねー」

 

 お母さんは寂しそうな顔で、

 

「謝ることなんてないの。誰も悪くないの……ただ、うまくいかないことだってあるわよね……」

 

 そう言って椅子を千里の方へ寄せながら、抱きしめた。

 千里もお母さんを右腕で抱きしめて、背中を撫でた。

 ひとしきり触れ合うと離れて、千里がまた口を開く。

 

「そうだそうだ、ひとりちゃんの姿が見えるようになったんだよ」

「そうなの……?確か、万理ちゃんに聞いたら全然分からないって言ってたわねぇ」

「うんうん。私達みんな頭の中にイメージがあるんだけど、ひとりちゃんだけなくって。それがやっとできたってこと」

 

 千里は大ニュースといった調子でひとりのことを話したけれど、実際に彼女が感じたひとりの姿を思い出し、途端に顔を曇らせた。

 

「それで……今ひとりちゃんは、どんな子なの?」

 

 千里はうーんと唸り、

 

「うん、どう思うか分からないけどー……小さい女の子。そうだねー、幼稚園?うん、それくらいかな」

 

 千里は自分が”普通の”表情をしていることを祈った。僅かに顔を強張らせて、気取られはしないように。

 

 千里の友達は多い。その分、絶交と和解も何度となく経験してきた。だからそのうち”ふさわしい”表情や態度ができるようになった。

 人格が発生してからのものだけれど、天性の勇気が人一倍の対人経験を生み出した。

 失敗を繰り返して反省を覚えた。

 反省に慣れたころ、失敗しない方法が分かってきた。

 そして千里の中で結論が出始めた。大体は”自分の印象”がどうかを考えればいい。だから順番が逆だけれど、人は見た目が何割、という言葉の意味はそれから分かってきた。

 それが千里という人格。

 

 千里は頭が良くなかった。言葉でうまく考えることが苦手だった。

 けれど、印象には敏感だった。

 ひとりが幼児のままだということは、”なんかいいことじゃないかもしれない”。そう感じて一瞬表情が重くなってしまった。

 それをすぐ反省したから、普通の表情を取り繕っている。

 

 話したことでお母さんを暗くさせてしまったら、それは仕方がない。千里はお母さんに嘘をつきたくなかった。けれど、自分が暗いせいでお母さんまで暗くさせるのはよくないと思っていた。

 お母さんの目を見て、表情を窺った。

 

「そう、なのねぇ……そうよねぇ」

 

 複雑な、”なんだか不思議”という表情。

 

「本当に……ずっと……あの頃のままなのね」

 

 千里はお母さんから印象を掴み取ろうとする。

 次はどういう言葉がいいだろうかと考える。

 でも結局、まだお母さんの言葉を待つことにした。

 お母さんはまだ、千里の言葉を飲み込んでいる最中だから。

 

「ねぇ、千里ちゃん」

「あ、なに?お母さん」

 

 急にお母さんに問いかけられて少し慌てた。続きを促すと、

 

「ひとりちゃんがまた戻ってきたら……学校は行ってもらったほうがいいと思う?」

「うーん……お母さんが悩むそのわけは?」

「ひとりちゃんはね、昔うつ病で何も出来なくなっちゃっても幼稚園に行こうとしてたの……本当はもう行きたくなかったはずなのに。”いかなきゃ”って……。だから、このまま戻ってきたら……無理に小学校にも行こうとして、つらい思いをするかもしれないから……」

「うーん……」

 

 慎重に言葉を選ぶべきかもと思った。でも千里にはそういう針の穴を通すような話術までは身についていなかった。そこで考え込むふりをして、

 

『どう思うかな?』

『保健室登校』

『同じ……』

『……無理に私のお友達に合わせてもらっても、ひとりちゃんもみんなも困っちゃうかなぁ』

『そらそうだろ』

 

 千里からすると、万理となゆたの答えは、少し違うと思った。

 

『でも、そういうことじゃないと思うんだよね』

『ふぅん……』

『?』

 

 だから、

 

「お家でみんなと一緒にいるのが一番なんじゃないかなって。だから私は”家にいよう”って言って欲しいなぁ」

 

 千里が考えたのは、ひとりが幼女のままだということだった。だから、単純にまだ家にいていいと思ったのだ。それから気付いたことが、

 

「あと……よくわかんないうちに11歳になっちゃったんだし、何があったかとか教えてあげたりとか……とにかく、ひとりちゃんにもっと構ってあげて」

 

 お母さんは少し不安そうな顔をして、

 

「でも……ひとりちゃん、お母さんにも”構って”って素振りをあんまりしないから……」

「それならお母さんがひとりちゃんに構ってもらえばいいんじゃない?べったりひっついてぎゅってして……それでいい気がするんだよねー」

 

 お母さんにとって、それは名案に聞こえたみたいだった。

 きっとそうだと千里が確信したのは、お母さんの顔が輝いて見えたからで、

 

「そうねぇ……ああ、本当にそうだわ」

 

 そう言って千里をまた抱きしめた。

 

「うん。こうしてあげて」

「ええ、分かったわ」

 

 お母さんの首筋と服から香る、いつもの匂い。それでふと不安がよぎって、

 

「あの、私臭くないかな?」

「看護師さんと介護士さんが体は拭いてくれてるそうだけど……髪はちょっと脂っぽくなってきたかも?臭いは別にしないけれど」

「ああーやっぱり……お風呂入りたいなぁ……」

「そうね、女の子だものねぇ。看護師さんに聞いてみたらどう?」

「うん、そうする」

「あ、そうだ……みんなはどうしてる?おばあちゃんも家に来てたよね?」

「うん……まずお父さんだけど……ちょっとショックだったみたい。ひとりちゃんが出てきて嬉しかったのに、すぐに物別れみたいになって……おばあちゃんもね……ふたりちゃんはひとりちゃんが眠っちゃってから、随分ぐずっちゃって……」

「ものわかれ……って、何だっけ?」

「えっとね……喧嘩別れみたいなものよ」

「えぇー、何それ……ちょっと私達いない間にすごいことになってたんだ……」

「ひとりちゃんがね……もう少し表に出ていようって頑張ってたんだけど、そのために自分でお腹を叩いたの」

「え」

「生理だから余計痛かったのにね……」

『ひとりも分かってはいるんだな、”痛み”で自分が出てくるってこと』

 

 万理の溜息のような声が響く。続いてなゆたが悲しげに、

 

『でもそれしかなかったんだよ……きっと』

「うん……多分ひとりちゃんの”今一番痛い”ことがそれだったのかな。私が酷い転び方して痛い思いした時も……ひとりちゃんが出るし」

「みんなもそう思うのね?」

「うん。ひとりちゃんが出てきた後も、一回私達がまた出てきたでしょ?あれ、ちょっと痛みが落ち着いたからだと思うんだよね。それで調子に乗って廊下に出たら寒くってぶり返して……それでひとりちゃんが出たんじゃないかなぁ」

「そうなのね……」

「これは私達みんなのケツロンってやつ」

「わかったわ、ありがとう……でも困ったわね……今度病院に行くでしょ?その時にひとりちゃんも先生に会ってほしかったんだけど……」

「でも、痛い思いしないとひとりちゃん出て来ないからなー……」

 

 お母さんは大きなため息を吐いて、悲しい顔をする。

 そして頭を抱えた。

 

「みんなにも……ひとりちゃんにも……痛い思いなんてさせたくないのにね……」

「……うん」

「会いたいって気持ちが、痛い目に遭ってほしいってことになんて、なってほしくないのに……」

「そうだよね」

 

 親心というより、それは人として普通のことだった。

 千里にも、万理にも、なゆたにも気の利いた言葉は思いつかなかった。

 ただ、もどかしさだけが胸のうちに溜まっていく。

 

「もう、ひとりちゃんに会えないほうがいいのかしら?」

「……」

 

 千里もなゆたも言葉を失った。けれど万理は、

 

「それは言っちゃだめだ、お母さん」

 

 お母さんが顔を上げる。目が潤んでいた。

 

「万理ちゃん……」

「私達は……少なくとも私は、ひとりから体を預かってると思ってる。いつか返すものだって。……ピアスはしてみたかったけど、一応塞がるし……とにかく、ひとりは帰ってこなきゃいけないんだよ。お母さんが一番それを信じてくれなきゃだめなんだ」

「でも……ひとりちゃんが、言うの……忘れてって……さよならって……」

「それでも……いやむしろだよ。もしひとりがまた帰ってきて、お母さんが、お父さんが、ふたりが、おばあちゃんが、みんなが……ちゃんと”おかえり”って言えなくなってたら、本当にひとりは……どうしようもなくなる」

 

 万理は息継ぎをしてからお母さんの手を握る。

 目を見て、

 

「何より……私が、お母さんにそんなこと言わせたくない。そんな悲しい顔、させたくない……だから……あれ、何言えばいいんだっけ……まとまんないな……」

 

 万理の視界が滲んでいく。

 少し冷たい感触が目を拭う。

 お母さんの細い指。

 

「ごめんね、万理ちゃん……お母さん失格だわ……こんなの……」

「ごめん……わがままでごめん……」

 

 万理がひとりの意思よりも優先すること。

 一番好きな顔が、一番好きな表情であること。

 一番好きな人が笑っていること。

 万理の一番好きな人はお母さん。

 お父さんの手前、絶対言えない。

 

 



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本編-13「きれいな旋律」

 二人共泣き止んでから、

 

「……まずは退院して、それで今度の通院で色々決めようよ。それまでは、今まで通り。あまり何も考えないようにしよう」

「そうね。……ああ、万理ちゃんは本当にしっかりしてて、どっちがお母さんなのかしら……」

「メソメソしないで。お母さんはお母さんのままでいいんだから」

「うん。……それじゃ、そろそろお母さん帰ろうかしら」

「わかった。……見送りは、まだ足元が怪しいからここで」

「そうね。じゃあ、ちゃんとベッドに入るまで見てるからね」

 

 お母さんが立ち上がるのに合わせて、万理も立ち上がる。千里と違って危なげなく。なゆたの陰で学んだ通りに。

 点滴スタンドを転がしながら、ベッドの左側へ。

 そのまま座り、両手をマットレスについて体を支えながら足をベッドの上に上げようとする。

 

 でも、

 

「あ、足上がんない……お腹攣る……」

「あぁ……大丈夫?楽にして、お母さんが持ち上げるから……」

「あ、いや大丈夫……もう少し深く座れば……」

 

 勝手に足が上がってくるまでベッドに深く座り、上面に上がってきた足を寝姿勢になるようずらしていく。

 

「ふぅ……これで大丈夫」

「本当に大丈夫?その……一人でおトイレ行ける?」

「そっちはまぁ。起き方は分かってるから……」

「ならいいけど……それじゃ、お母さんお家に帰るわね」

「うん。それじゃ」

 

 お母さんは家から持ってきた着替え類の入った鞄を置いて、帰っていった。

 一人きりの病室で、万理は点滴を眺める。

 まだ時間がかかりそうだった。

 

「……本、読むか」

『その前にロキノンだけばーっと読ませてよー」

『今すぐ厳選、厳選、厳選、厳選』

「わかったロキノンは読むから……」

『厳選……厳選……』

「そっちは消灯後でいいだろ……」

『わかった……』

 

 万理はまず音楽雑誌を開いて、パラパラと斜め読みしていく。洋楽アーティストのニュースが載っている。

 

「そういえばマッカートニーが来たんだな……お、NIRVANA。それに……トム・ヨークだ。Pearl JamとThe Killers……あ、Suedeも」

『キラーズいいよねぇ……キラキラしててさー』

「私はちょっとキラキラしすぎてて……てかARCADE FIREもあるし……最近のアメリカ系オルタナってなーんか垢抜けてて……」

『ひねてるなぁ……ニルヴァーナだって大概ポップでしょ?』

「あ?3枚目は文句なしにグランジだっただろ」

『左利きだからってカートの肩持ち過ぎなんじゃない?』

「関係ないだろ。……まぁ、3枚目も少しだけポップ要素残ってるけど。こればっかりはカートの才能がそっちに向かってたんだろ」

『評論家みたーい』

「うっせえ」

『……ニルヴァーナはなんか、メタルのなりそこないみたいな歪みで好きじゃない……』

 

 万理が陽だまりを出て闇の中のなゆたを探す。

 

「おい、なゆた出て来いこの野郎」

「……だって、音が重い割にズブいし……メタルファンが飽きて乗り換えたってことはちょっとした味変みたいなものなんじゃないかなって……」

「違う。全然違う。同じ耳で聞いてんのにお前だけ腐ってんのか」

 

 なゆたが万理の目の前に近付いて、けれど目線は上げずに、

 

「でもグランジ、ニルヴァーナが終わったら一緒に終わったでしょ……?」

「チッ……まだパール・ジャムとかいるんだぞ」

「でも似たようなジャンルが代わりに出てきてグランジは廃れてる……パール・ジャム以外ロクに残ってない……」

「クソが……そんなに否定できない……」

 

 千里が闇の中から少し顔をのぞかせ、

 

「万理ちゃんは暗い暗い、音質もちょっと汚いオルタナが好きなんだもんねー。あとメタル」

「ジャズマスターでメタルなんてやったらそれこそなり損ない……」

「メタル弾きたい時はレスポール使ってるだろうが……」

 

 万理はまた闇を見渡し、小さな影を探す。

 

「……あ、いた。……ひとりはどんな音楽が好きになるんだろうな」

 

 小さな女の子。まだ昏昏と眠り続けるひとりを見下ろして、万理はつぶやく。

 

「私達がお話できないから、教えてあげることもできないんだよねぇー」

「そこはちょっと残念……」

「仕方ないだろ。……はぁ、読み直すか」

 

 洋楽雑誌に一通り目を通して、次は邦楽雑誌。同じ雑誌名にジャパンがついたもの。

 とりあえず表紙を眺めて、次に目次を開き、

 

「……なんかピンと来ないな」

『あ、でもKEYTALK載ってるよ、下北のバンドなんだよね』

「あー、まぁお前は割と好きだよな、ああいうの」

『下北一回くらい行けば良かったな』

 

 目次を見つめる。

 

「……メジャーデビューかぁ」

『もう下北とかそういうバンドじゃなくなるんだろーね』

 

 下北。下北沢。

 なぜか、足が竦む土地。

 

「でも、行けなかったし、行かなかっただろ、下北」

『……」

 

 千里が押し黙る。なゆたも何も言い出さない。

 

「なんでだろうな、私達……下北には行けないのは」

『わかんないね、そこはねー……』

『うん……よくわからないけど怖い……』

 

 3人ともが思う、下北沢への恐れ。

 踏み入ってはいけないような気がする。理由もなく。

 

「まぁ……古着屋に行けなくてちょっとなーってくらいだし……」

 

 そういうことにして誤魔化した。

 

『うん、その、古着屋も東京なら渋谷と原宿でいいしねー、横浜にもあるしさー……』

『渋谷で十分……私は新品がいいけど……』

「……もうロッキンはいいだろ。私が読みたいもの読むからな」

『はーい……まぁピンと来ないのは私もだったし』

『私は退院したら電撃買うもん……』

 

 雑誌をテーブルの隅に退けて、文庫本を手に取る。

 中身は”マリア様がみてる”。その1巻だった。

 

「……すげー女社会だよな、これ」

『だよねー……』

『しかも結構古いよね……』

「らしい。去年完結したんだとさ」

 

 読み進めていく。

 

「……あいつ、こういうのが好きなのか」

 

 しみじみとつぶやく。

 

『万理ちゃんもダンスのお相手してみたいの……?』

「わりと」

『私達運動神経さっぱりだからねー……できるのかな?』

「別にブレイクダンス?とかそういうのじゃないんだからリズム感あれば……大丈夫だろ」

 

 挿絵を見つめて、

 

「等身高っ……祥子さまの方、10頭身くらいないかこれ」

『というかねー、これ白薔薇さまとか紅薔薇さまとか……本当にそういう世界あるの?っていうのがあるよね……』

『ゲームならよくあるけど……シドルファス・オルランドゥは”雷神”とか……ラムザのお父さんは”天騎士”とか……』

「確か……タクティクスだっけ……あれ見てて結構面白かったな……ストーリーのえげつなさが」

『でもあれ、ファンタジーじゃない?ファイナルファンタジーだし』

『タクティクスは他と比べてすごくえげつない……タクティクスオウガはまだやってないけど、多分オウガにFFの魔法とか出しただけだと思う……』

「……まぁ、この本もファンタジーだよな。多分……」

『お嬢様の世界だとありえるのかな……』

『……それよりも、それを万理ちゃんにあの子が勧めてくるってことを考えたほうがいいんじゃない?多分万理ちゃんとなら一緒にダンスしたいってくらい思ってるんだよ?』

『万理ちゃん、もう遊びじゃすまないよ……?』

「人聞き悪いな……別に弄んでるわけじゃあるまいし」

 

 千里は真剣な声色を頭の中に響かせ、

 

『万理ちゃん。なゆちゃんの言う通りだよ。あの子は万理ちゃんが好きだよ。万理ちゃんの”好き”より、ずっとずっと強いよ。万理ちゃんが言ったんだよ、恋人なんて面倒だって』

「あれは……彼氏の話だっただろ……」

『万理ちゃんは言わなくても、あの子は言うかもしれないよ。”好きだよ”って、”愛してる”って、そういう感じがするよ』

「……”感じ”だろ」

『そうだよ。私はそれしかわかんないし。でも、どうするの?』

 

 万理が言葉に詰まる。

 

『これからどうなるかわかんないけど、でも、もうね、私達が相談して誰かが引くとか、そういうの出来なくなるかもしれないんだよ。ひとりちゃんがはっきり起きちゃったんだから。それに、万理ちゃんはひとりちゃんに絶対に体を返すんでしょ。あの子がどうなるかわかる?』

「もうやめろよ……」

『”お互いが好きなのかも”って感じのこと、もうやめよう?ひとりちゃんがしっかり起きたら……私達と一緒で……ワイワイできると思ったからあんな決まり考えたけど……そうじゃなかったじゃん……もう私達、責任取れないんだよ……』

「……だから、だったらさ……思い出になるくらい……いいだろ」

 

 万理は頭を抱えながら、

 

「たぶん、あいつも……好きな男が出来て……彼氏作って……普通に生きてくんだろうなって、思ってるから……でも、なんか……やっぱり好きだから……たまにちょっと思い出してくれるような傷とか付けたいんだよ……踊ってやりたいし、キスもしたい。でも笑って別れたい……」

 

 なゆたが囁く。

 

『……そんなキレイに終わるわけない……』

「私達は子供だから、思い出になればキレイになるだろ……大人には難しくたって、きっと……それに、私はやっぱり女が好きだよ……男なんか好きになれない……もしも、もしも……私が一人の人間でも、でもやっぱり普通に彼氏作ったり結婚したりは……無理……」

 

 大きなため息をついて、

 

「普通じゃないなら、せめてキレイな思い出が……それで、あとはひとりに人生を返して、そこで私は終わりでいい……」

 

 万理は文庫本を閉じると机の上に置いて、リクライニングの起きたベッドに頭を預け、天井を仰いだ。

 

『なんだか、儚いね……万理ちゃん……』

「お前らもだよ」

『でも万理ちゃん。私が許してあげるから、あの子に好きって言って。はっきりさせてあげなきゃ許さないから』

 

 千里はやはり、厳しい態度を崩さない。

 

「……お前が一番大人なの、納得できるのそういうとこだよな」

『好きなんだよね?だったら万理ちゃんの思う通り、キレイなお別れに急いで突っ走って』

「は?……いや、うん、ちょっと……考える……」

『私もいいよ……別に……好きな人いないから……』

『じゃああの点滴が終わるまで考えさせてあげる。答えはイエスしか許さないからね』

「いや待った考える意味ないだろ」

『はーい、よーいスタート』

「っ……あぁー……もう」

 

 点滴を見つめる。落ちる雫を。

 

「って……もう終わりだろうがこれ!」

 

 点滴パックの中身はもうほぼ空だった。

 

『イエス一択なんだからいいでしょ?』

『いわゆる一本道シナリオ……』

「……分かった、分かったよ……もう」

 

 傍から見ると激しい独り芝居だったけれど、それも終わった。

 ドアが開いた。

 

「後藤さんー?点滴外してお着替えしましょうねー?」

「はい……」

 

 釈然としない気持ちのまま、点滴とおむつを外す。

 ただ、まだ流石に立って着替えるのは難しくて、足を持ってもらう介助付きでパンツに履き替えた。

 そして、聞きたかったことを聞く。

 

「あの……お風呂って入れませんか?」

「あー、気になりますかー。気持ち分かりますよー。でも今日は我慢して体動かすのに慣れてくださいー。病室の外をちょっと散歩するのがいいですかねー。テレビも置いてありますしー」

「うーん……わかりました」

「はいー。すみませんけど、そういうことでー。それと、もうすぐ晩ごはんですよー」

「ああ、はい……」

『おいしくないって言ってたけど……』

『どんなんだろーね』

「晩ごはん終わりましたらー、一度病室の外を見て回ってみて欲しいですねー。それじゃあまたすぐ後ですねー」

「はい……」

 

 病室から出た看護師はすぐに戻ってきて、食器の載ったお盆を持ってきた。

 ベッドテーブルの上にお盆を載せて、

 

「はいー、今日の晩ごはんですー」

「え?」

「まぁ、結構衝撃かもですねー」

 

 お粥ですらない、白い液体だった。

 

「えっと、これは……」

「重湯ですねー。少ないお米で作ったお粥の、その汁なんですー」

「はぁ……」

「胃腸がしばらく動いてなかったのでここからスタートなんですー。それとー……」

 

 お盆の左には重湯のお椀。右には蓋の付いたプラスチックのマグカップ。右の方の蓋を看護師が開けて、

 

「……味噌汁ですか?」

「これもごめんなさい、結構薄いんですー。さっきの話はそういうことでしてー」

「なるほど……」

 

 重湯、味噌を溶いたお湯。それと、

 

「……ミル、ミル?」

 

 降って湧いた甘いものらしき紙パックの飲み物。乳酸菌飲料と書いてあるから、ヤクルトに似たもの。”薄味”、”おいしくない”食事に降って湧いた甘いものに違和感を覚える。

 

「デザートとお腹の調子を整えるのを兼ねてますけど、甘みはそこまでですねー」

「はぁ……」

「ヨーグルトというか、牛乳っぽいというか、そんな感じですー。でも明日からは普通のデザート付くようになりますー。それじゃ、ゆっくり食べていきましょうかー」

 

 看護師から音頭のような指導を受けながら、ゆっくりと食事。

 重湯を小さいスプーンで掬って飲み、薄い味噌湯をマグカップから少しずつ啜り、それだけでもずいぶんかかった。デザート代わりのミルミルもストローを刺して飲みながらで。

 

「あ、なんか……お腹が重いというか……疲れてる感じが……」

「こういうお食事から慣らしていく理由ですねー。実感できましたー?」

「はい……いきなり米とかだったら吐くかも……」

「胃がびっくりするからそうなるかもですねー。それじゃ、お食事下げますねー。あ、次からは自分で下げてもらうことになりますから、明日の朝説明しますねー」

「はぁ、分かりました……」

「はいー。じゃあ、お腹の調子少し落ち着いたら好きに見て回ってくださいー」

 

 そう言うと看護師はお盆を持って、

 

「それではおやすみなさいー。消灯時間になったらあまり夜更かししないで寝てくださいねー」

「はい……ありがとうございます」

 

 病室を出て行った。

 万理はお腹に左手を添えて、

 

「……あー。胃がもたれる。あんなので……」

『早くお菓子食べたいねー……』

『でも、すごく勉強になった……』

「まぁ、なゆたには面白いかもしれないけどさ……さて」

 

 テーブルの隅に寄せてあった本、雑誌を手に取り、

 

「……活字は眠くなりそうだし、ロキノン読み直すか」

 

 雑誌を選び取り、他をテーブルに。

 けれど結局ろくに身が入らなくて、すぐに雑誌を閉じた。

 

「なゆた、代わっていいぞ」

 

 万理がそう呟いて目を閉じ、まもなくなゆたが目を開いた。そして3DSを手に取って電源を入れる。ホーム画面から迷わずポケモンを選んで起動し、OPを飛ばし、セーブデータをロード。

 

「……攻略本とかwiki見たいな……」

 

 なゆたの独り言に千里が口を挟み、

 

『いつも家のパソコンで見てるもんねー。でも覚えてないの?』

「覚えてるけど……発売から日が経ってないから。研究が進むと新しいやり口が発明されたりして、効率が上がるの……」

『私は楽しくできればそれでいいと思うけど、なゆちゃんにはそれが楽しいんだもんね』

「第一情報がないと対戦で勝てない……相手を煽れない……」

『お前本当に性格悪いな』

「万理ちゃんのクズ……」

『なんでいきなりディスった……?』

「女の子弄んで”キレイに別れよう”とか言ってるの、クズの思考回路だもん……」

『それより終わった話蒸し返すの謎なんだけどな……?』

 

 千里が少し不機嫌そうな声で、

 

『これからの話だから終わってないんだけど』

「そうそう……」

『……退院してからだろ』

 

 それで千里も万理も黙り込み、なゆたはプレイヤーキャラを操作し、ひたすら育て屋の回りをぐるぐる歩き回らせる。

 タマゴを孵化させつつ、次のタマゴを待っている。

 けれどそれも集中できないようで、タマゴを1つ孵化させて、また新しいタマゴを1つ受け取ったところで電源を切った。

 

「お腹ちょっと痛い……」

『でもいつまであの食事なんだ……』

『早く普通のごはん食べたい……』

 

 色気より食い気というわけじゃなくて、もっと切実な、日常に帰る道筋の話だった。

 

 



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本編-14「WILD CHALLENGER」

 落ち着かないなゆたはベッドテーブルに3DSを置いて足の方へと少し押して退かした。

 ベッドの右縁に腰掛け、教えられた通りの方法で立ち上がり、壁に寄せてあったスリッパを履く。足取りは少し怪しいものの、転ばずに病室のドアへとたどり着く。

 

「よい、しょ……」

 

 引き戸を開けて外へ。廊下は一面窓貼りで、空は藍色。廊下を見回して、とりあえず歩き出す。

 耳を澄ますと、テレビらしき音がする。その方向へと歩いて行く。壁の手すりにつかまりながら、けれどあまり頼りすぎないようにしながら進む。

 

 すると、大きなテレビと椅子の並ぶスペースがあった。

 いるのは大体お年寄りで、チャンネルはNHK。番組もニュースで面白みはない。

 けれど、ここ最近何があったのかまるで知らなかったから、とりあえずニュースを眺めることにした。

 

 なゆたが思ったことは、やっぱり繰り返しになるけれど、ひとりのことだった。浦島太郎気分どころじゃすまない、絶望的な断絶に悩んだことだろうと。

 本人と話が出来ないことがもどかしい。

 

 やっぱり面白くなかったニュースを見るのをやめて、その場を立ち去る。迷子にはならないよう気をつけながら、フロアを歩き回る。部屋の番号は覚えていなかったけれど、多分大丈夫とたかを括りながら。

 

 けれど、病院の探検はあっさりと終わった。

 最後は自販機を眺めながら、今の自分に飲めるものはない、と少しの無力感を感じながらとぼとぼ帰る。

 

 そして、歩いている途中、泣き声が聞こえてきた。

 すすり泣きではなくて、大騒ぎとしての泣き声。

 

「……小さい子が泣いてる」

 

 なゆたが呟いた言葉に、千里も万理も何も付け加えなかった。

 それのせいで、知らない何かを思い出すような気がして、耳を塞いだ。

 これ以上耳に入れないよう、少し早足で病室に戻る。

 

 足取りは最早危なげなくなっていた。

 病室に入るとドアに背中を預けてもたれかかり、声が聞こえなくなったことを確認する。

 

「……なんであんなに落ち着かなくなったんだろう……」

 

 子供のつんざく泣き声が気分のいいものじゃないというのは当然だけれど、それじゃこの胸の痛みや、動悸を説明できない。

 

『……ひとりがうなされてる』

「え?」

 

 なゆたは陽だまりの中にすぐに降りて、闇の中に眠るひとりを探す。

 千里が膝を枕に貸していて、万理はそれをしゃがんで見つめていた。

 落ち着かない気持ちはみんな同じで、3人とも同じ表情だった。

 訳の分からない緊張で気が張り詰めていて、逃げ出したい気分。

 

「起こす?」

「ダメだろ」

「起きるかも……」

「どうするの、じゃあさ」

「早く寝よう……それが一番いいはず」

「うん……」

 

 なゆたがまた目を覚まして、そのままベッドへ。

 遠鳴りの、子供の慟哭を、耳の奥に張り付けられながら布団に包まる。耳を塞ぐように。けれど、体を起こされたままだと眠れない。

 

 リクライニングを倒す方法はなんとなく分かっていた。コントローラーは探せばすぐに見つかったし、ボタンを押すとベッドが平らになっていく。

 それでも落ち着かない。

 

 身震いがして、なゆたは自分が催していることに気づくと慌ててトイレへと歩いた。転べば堪えきれないと思ったから。

 手を洗っても、水の音に耳を慣らしても、悲鳴が消えない。

 

 ひとりがうなされている。

 ずっと。

 いつまでも。

 

 ひとりのえづくようなうめきが止まらない。

 頭の中に響いて、なゆたの神経を掻き毟る。

 ベッドの中で耳を塞いでも、聞こえているのは想像の中。

 また陽だまりの中に降りて、自分の中を見回す。

 曇った表情の千里と万理。顔色も悪い。

 

 なゆたは思った。

 この子のせいだ。

 

「……」

 

 どす黒い感情に気がついて、右腕を左手で握りしめた。

 それも少ししっくり来なくて、逆に左腕を右手で強く掴んだ。

 

 この小さな子の首筋に、右手が伸びないように。

 万理が言う。

 

「多分、ひとりのトラウマかなんかなんだろうな……」

「トラウマ……」

「昔、ひとりも入院してたって……そのときの」

「……」

「仕方ないから、慣れるしかないだろ……」

「一番つらいのは、ひとりちゃんだったんだよね……」

 

 なゆたは、自分の抱いた何かが、”害意”や”悪意”だということに気付いて吐き気がした。けれども、ひとりの苦しみの存在に気付くと、剥がれるように嫌悪感が消えていった。

 それに代わって、脳天から体中へ落ちてくるような、纏わりつくような、絶望に似た感情。

 罪悪感。

 

「あ、ぁ……ごめん、ね……ごめんね……ひとりちゃん……」

 

 涙が止まらない。這いつくばって、這い寄って、ひとりの額を撫でながら詫び続ける。

 千里は呆けた顔で、万理は歯を食いしばろうとして出来なかったような半開きの口をして、泣いていた。

 病室に戻ってくる。体勢は横寝だった。

 まなじりのあたりに湿り気を感じる。

 枕が涙で濡れていた。

 体も重い。押しつぶされているようで苦しい。

 

「あ……う……」

 

 うめく。

 かけ布団が重いんだと思って、脱ぎ捨てようとする。

 体が思ったように動かなくて、2分くらいかかった。

 布団は床に落ちてしまって、拾う元気もない。

 肌寒いのに頭だけが熱くて締め付けられるように痛い。

 

「あぅー、あ……うぅー……」

 

 頭を抱える。左手が重くて、目を開けてみる。

 まるで自分の手じゃないように、それが自分の手にそれが被さっているように、本当の自分の手はもっと小さかったかのように、見えてしまった。

 指を動かしても、動きが鈍い。割り箸みたいに細い指で、手袋を動かしているみたいに、現実感がない。そんなはずないのに。

 右手も同じで、体の下敷きにしていたわけでもないのに奇妙に痺れていて、やっぱり自分の本当の手じゃないように見えた。指で引っ掻いても、皮を摘んでも、爪を押しても全てが鈍く感じる。

 

「ゲーム……」

 

 身体からの逃げ道に、それを求めた。けれどゲーム機はベッドテーブルの片隅で。

 手を伸ばすだけじゃ届かない。

 重い体を無理やり起こすと、めまいがした。

 

「あ……ぁ……く……は……」

 

 起こした身体がふらふら揺れる。上が分からない。真っ直ぐが分からない。そのまま、左側に倒れ込んだ。

 ベッドテーブルの端に耳の上あたりが叩きつけられた。

 

「あぁ……!?」

 

 ぺしゃん、という落ちる音。

 鈍すぎる痛みが頭の横から身体に染んでいく。ベッドテーブルが更に足側へと転がっていく。それを支えにしようとした手が空を切った。

 

「あ……あぁ……ああああぁあ……」

 

 声を上げて泣いてしまった。

 

『やめろ……泣くな……代われ……』

 

 万理の声がして、なゆたは陽だまりへ。

 蹲った無様な姿で。

 闇の中から万理が浮かび上がる。足取りは幽霊のように頼りない。なゆたを雑な力加減で陽だまりから退かすと、今度は万理が病室に現れる。

 

「……いっ……ひとりが、起きなくて、よかった」

 

 大きなため息をついて、のっそりとベッドを降りる。看護師に教えられた方法じゃなく、はしごを降りるみたいに。

 腹ばいになって、足をベッドからはみ出させて、床についたら上半身をずり落ちさせて。

 しゃがむような姿勢でベッドのフレームに掴まりながら、背を丸めてまた溜息。

 

「……つらい」

 

 一言こぼしながら、布団を丸めてベッドの上に放り上げ、しゃがみ歩きで落ちたゲーム機の元へ。

 一緒に雑誌、それと文庫まで落ちていたことに気付いて、

 

「あ……」

 

 また涙があふれた。

 すぐに拭って、雑誌と文庫をベッドテーブルに、ゲーム機はベッドの上に置く。

 ベッドを降りたところにしゃがんだまま戻って、ゲーム機を枕元側へ押しやる。

 最後に、ベッドによじ登って、寝姿勢に戻った。

 

 寒いと感じたから、身体が重く感じないよう、腹までだけ布団をかけた。

 万理は、この上なく疲れていた。気分の悪い疲れだった。息は切れて、ほんの少し汗も滲んだ気がして気持ちが悪かった。

 

「これで……ゲーム、できるだろ……」

 

 でも文庫本が遠いな、と思いながら、陽だまりの中になゆたを引き込んだ。

 代わりに万理自身はその外に出て、座り込んで動かなくなった。じっと息を整えている。

 なゆたがまた現れる。左手側、枕の横にあるゲーム機を手に取る。

 

「万理ちゃん……ありがとう……」

 

 流れるままだった涙を病院着の袖で拭いながら呟いた。

 ゲーム機も重くて、取り落としそうだったのが辛いと思った。

 寝返りを打って、横寝に。右腕が下。そしてゲームを始めた。

 今度は没頭できて、ささくれ立った神経が癒やされていく。身体の重さも忘れるどころかなくなって、仰向けに寝返りを打つことも苦ではなくなっていたし、布団も嘘のように軽くなっていた。

 

「後藤さーん、起きてらっしゃいますか?」

 

 知らない女性の声。

 

「は、はい……」

 

 返事をするとドアが開いて、初めて見る看護師が入ってきた。

 

「あ、あの……なんですか……」

「はい。今日意識取り戻されたということですので、病院のルール、取り急ぎ消灯時間についてお伝えしに来ました」

 

 最低限の愛想としての微笑みと、淡々とした口調。

 少し機械的な姿。

 

「消灯時間は9時です。以降は病室の外に出るのは控えてください。電話も基本NGです。何かあればナースコールお願いします。まとめというか極論ですが、消灯後は病室の中でじっとして静かにしててください、というわけです」

「は、はい……」

「乱暴すぎましたかね?でも……そこに、間接照明とかあります。使い方はこうです」

 

 ベッドの右側に寄って、なゆたの頭の上、そこに据えてあったベッドライトとそのコントローラを引き出して、実際に点け消しして見せた。

 

「これが読書とか、あとトイレに立つ時の明かりになります」

 

 なゆたに覆いかぶさる格好でコントローラを左側の枕元に静かに置くと、すっと姿勢と帽子を直し、

 

「なるだけシンプルに説明しましたが、大丈夫でしょうか?」

「あ……はい……その、ゲームとかも大丈夫ですか……?」

「大丈夫です。特にここは個室ですので、音量小さければ音も出していいと思います」

「その、それは大丈夫です……控えます……」

「分かりました。ありがとうございます。それと……文庫本と雑誌がありますから、読書もされるんですね?」

「はい……でも、あの……」

「申し送り受けてます。”別の後藤さん”ですね?」

「はい……あ、私の裏で……2人とも聞いてるので、聞きます……」

「助かります。それで読書も当然問題ないんですが……具体例として出しますが、私はギャグ漫画やギャグ小説が好きでして。大声出して笑うくらい好きです」

「はい……?」

「ボーボボとか」

「ボーボボ……」

「鼻毛真拳とか知りませんか?」

「あの……分からないです……」

『この人なんか凄いこと言うねぇ……』

 

 看護師の表情が露骨に曇り、肩を落とした。

 

『あっこの人凹んでる!わかりやすい!』

『すごく分かりやすいな……』

「あ、あの、ごめんなさい……」

「……ぐすっ」

『えぇ───!?泣いてる───!?』

『泣く要素あったか今!?』

「……その、大笑いするような本でしたら、えぐっ、読むのは控えて……」

「ああ、あの、そういう本じゃないので……大丈夫だと思います……」

「じゃあ大丈夫です……消灯後に読むのは笑うの我慢出来る本にしてくださいね……ボーボボ読んで笑い堪えられるとか人間じゃないので……後藤さんは人間ですよね?……たまに人間じゃない人が入院してくるんです……この病院……怖い……」

『情緒不安定すぎてそっちがよっぽど怖ぇ!?』

『病院で人間じゃない人って縁起でもないよねぇ……なんまいだなんまいだ』

「あ、あ、えっと、例えばどういうギャグなんですか……」

『おい聞くなやめろやめとけ』

「すぅ───では亀ラップ歌わせていただきます」

『なんか始めようとしてるー!?』

「あっ……さっき彼氏と別れたので半分再現できないんでした……うぅ……」

『さっき!?』

「ここの小児科の先生で……後藤さんの担当医です……」

『き、気まずい……!』

「彼、”ボーボボはガンに効く”って信じてたんです……私も信じて、それで学生の頃から付き合ってたんです……」

「話長くなります……?」

 

 それからその看護師は、時系列は無茶苦茶、現実非現実すら曖昧で、破天荒か嘘八百かという回想の一人劇場を繰り広げ、

 

「……それで、彼の研究は終わりました……”死を目前に苦しむ子供たちの心は救えても、命を救うまでの力はない”って結論で……私、認められなくて……」

「まだ続きます……?」

「彼は……楽しい思い出を持って行ってくれれば、せめてそれだけでもって……でも、小さい子供は……もっと、なにか、人生にもっと何かなくちゃ……続かなくちゃいけないって……十分に生きられず亡くなるなんて、割り切らなくちゃいけない仕事なんですけど、それでもやりきれなくて……」

 

 なゆたの中に、この体の、脳の中に2つの思考が走り出す。

 この看護師の生き方は、途方もないほどの強さがないとやっていけないだろうな、と。夕方までいた看護師と違って、どこまでも人に、子供に尽くしてしまうんだろう。

 ─────十分に生きられずに死ぬ。若くして死ぬ。例えば、それは何歳。

 でも、自己満足と思いやりのラインを割っていないのは、きっとそれが「元気に生きること」という多分絶対に正しい価値に従っているからなんだろう。

 ─────何歳で死ねば十分なんだろう。例えばそれは、27歳はきっと、不十分。

 

「あ……あ?」

「……後藤さん?」

『なゆちゃん、何も考えちゃだめ』

『……なんで?』

 

 看護師が目の前にいるのも無視して、頭の中に呼びかける。

 冷たい汗が額に滲む。呼吸するたびに体の芯が冷える。

 

『ひとりがぐずりそう、っていうか、起きかけてる』

 

「後藤さん?後藤さん、大丈夫ですか?」

 

 肩を掴んで揺らされて、なゆたの冷や汗は止まった。

 

「あ……」

『ひとりちゃん、またすぅすぅしてる。もううなされてないよー』

「だ、大丈夫です……」

 

 悪夢から覚めたような安心感と、疲労感から来るほのかな頭痛。

 

「すみません。こちらの話し過ぎで……起きたばかりなのに疲れましたよね」

「それは……少し、疲れました……」

 

 本音だった。

 

「すみません、朝の流れについてです。6時に起床で、7時半に朝食になります。患者さんによっては起床と朝食の間に血を取ったり体温を測ったりする場合もありますが、後藤さんはそういうのはありませんので、朝ということを踏まえて自由に過ごされてください」

「……早起きなんですね……」

「はい。これも極論、建前ではありますが9時消灯、つまり就寝時間ですので。寝過ぎも体によくありません。元々の生活とはおそらくだいぶ違うとは思いますが」

「はい……」

「以上となります。それでは……あと1時間半ほどしましたら消灯、自動で電気が消えます。それまではご自由に過ごされてください」

 

 そう締めて一礼すると、情緒不安定のようでも鉄のようでもある看護師は去っていった。

 

『……あの人には憧れるか?』

「流石にちょっと怖い……」

『でもジョーネツのある人だよねー。ものすごい変なひとだけど』

『千里がツッコミ入れたくなるのって相当だし』

「頭の中うるさかった……」

『でも、どーしてひとりちゃん、急にまたぐずりかけたんだろ?』

「……あのね、あの看護師さんのこと考えてるとき、もう一つ勝手に頭の中で別のことも思い浮かんで……」

 

 一息ついて、

 

「27歳で死んじゃうのは……全然早すぎる……とか……だと思う……」

『ロックスターか?』

「あっ……ギターの」

『悪魔さん!』

 

 自称・27歳で死んだギターヒーロー。

 呼びかけると、この子が起きそうになっちゃったのは、間接的にだけど、私のせいだから……ごめんね、とぼんやり響いてきた。

 

『お前、ひとりに何をしたんだ……』

 

 疑問には、ごめんね、言えなくて、とそれだけでまた気配も消えてしまった。

 なゆたは溜息をつくと、

 

「……疲れたから、もう、寝よう……?」

 

 頭の中の誰も、それに異論は挟まなかった。

 まだ電気がついたままの病室で、なゆたは一番楽な姿勢を取る。ゲームをしていた時の、右を向く横寝。そして目を閉じた。

 

「おやすみ……」

 

 眠気はすぐにやってきて、眠りにも一瞬で落ちていった。

 

 



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本編-15「バカサバイバー」

 少しの肌寒さでまぶたがゆっくり開く。

 

「んぅ」

 

 寒気から逃れようと、体を丸めて布団を寄せる。

 ふと感じた寂しさで、なぜか目のピントが合い始める。

 

「……おはよー」

 

 目覚めたのは千里だった。

 全員、体で感じるものは同じだから、当然万理もなゆたも眠い。

 けれど、感じるものにどう思うかはそれぞれ違っていたから、

 

『……寝ようや』

『眠い……』

「外出たいー……」

 

 朝の眠気を二度寝の誘惑と捉えるか、当然振り払うものとするかも違う。

 けれども、

 

『起床時間になったら起こしに来るんじゃないのか……?その前の時間は起きてない時間なんだから外出たらダメだろ……』

『私もそう思うな……』

「つーまーんーなーいー……」

 

 起きてはいけない、とまでは行かないものの、静かにしていなければいけないならば、とても暇ということだった。

 

 お母さんには申し訳ないものの、千里にとって今月分の雑誌の内容は興味をあまり引かれなかった。普段は流行りを知るというより、好きなバンドがどうしているか、あるいは好みにハマりそうなバンドはいないか、ということを気にして読んでいたからだった。

 

 その2点で、千里も万理も雑誌への興味を保つことは難しかった。加えて千里にはそれ以外に長時間の暇を潰すためのものがない。

 

「なゆちゃん……私にも出来るゲームないのー……」

『ポケモンは絶対だめ……今度データ飛ばしたら許さない……』

「やらないよって……みんなで出来るゲーム買ってよー……」

『だめに決まってるでしょ……だってマリオパーティみたいなのは……体が1つだからできないし、順番に動かすやつだと……桃鉄とドカポン、千里ちゃんあっという間に飽きるし万理ちゃんすぐキレるし……買ってもらうのが申し訳ないでしょ……』

『あれはお前がカスみたいなことしてきたからだよ……!』

「あー、もう今何時なんだろー……待ちきれないよー」

『……3DSの電源入れて。時計機能あるから……』

「うん……えーっと、電源ボタンは……ここっと」

 なゆたに促されて、千里はゲーム機を立ち上げた。

 

 ホームメニュー画面が立ち上がる。時計の表示を見ると、5時57分。

 

「あ、もうすぐだ……」

『結構ぐっすり寝てたのか……』

『お家だと夜更かし気味だったもんね……』

「じゃあ起きてないとダメだから起きよーねー」

 

 千里はぎこちなく右手を動かしてベッドのリモコンを探す。

 リクライニングを起こすと、ベッドの右端から足を下ろして、

 

「よーいーしょっ……」

 

 なゆたが習った通りの立ち上がり方で落ち着いて立ち上がった。そのままトイレに行って用を足し、またベッドに戻って腰掛ける。

 

「お散歩したいなー……」

 体が後ろに倒れないよう、右手で背もたれのようになったマットレスに掴まり、足をぷらぷらと浮かせる。

 

『走り回りたいの言い間違いか?』

『転んで怪我して入院延長……』

「やだなー、走っちゃだめなところは走らないって」

『お前が走っちゃダメなやつなんだよ』

 

 部屋に静かに独り言が滲みて消える。

 病室のドアがノックされ、人が入ってくる。昨晩のあの看護師だった。

 

「後藤さん、おはようございます。よく眠れましたか?」

「はい、眠れましたー」

「良かったです。眠れなくなったら言ってください。手助けが色々出来ますので。それと、起床時刻になりましたので出歩いていただいて構いません」

 

 千里は食い気味に、

 

「あの、どこかお散歩行けたりしませんか?暇なんです!」

「そうですね……建物内でしたら。この病院、庭とかがあるわけではないので外に出るとそのまま無許可外出になってしまいます」

「えー……」

「……あと1時間するとおはスタ見れますね」

「見てないですー……」

 

 看護師は挫ける様子もなく、むしろ目を爛々とさせて、

 

「では……朝のボーボボセラピー!!!」

「うわでた……」

 

 ナース服の大きいポケットから漫画本を取り出した。

 

「1巻です。続きが気になるようでしたら日勤の……これから来る看護師に伝えてください。病院に置いてある貸出用のを持ってきてくれます」

「えーっと、病院の本なんですか……?」

「いいえ。私の私物で、全巻セット2つをふきょ……貸出用に病院に置いているんです。それはそうと院内学級にも全巻セットを寄付したので置いてありますが」

「えぇ……なんでそこまでするんです?」

 

 千里は引きながら質問する。看護師は表情を緩ませて答えた。

 

「病院は楽しいところではありません。苦しい、痛い、不安ばかり書かれたノートみたいなところです。これはそこに楽しいことを書き足して上塗りするためのものです。そうですね……言い方は悪くなりますが……退院したらもう来て欲しくないです。けれど、また来たいと思うくらい、楽しく過ごして欲しいと思いますから」

 

 そう言って、看護師は漫画本を千里にそっと手渡した。受け取った千里は、笑って頷いた。

 

「出歩く場合は、ちゃんと7時半までには病室に戻っていてくださいね。それでは失礼します」

 

 看護師が出ていくと、

 

『あー……あー、好み』

『万里ちゃん惚れっぽすぎ……』

『仕方ないだろ、好みは好みなんだから……』

 

 千里は万理の”好み”という言い回しの意味を測りかねていた。”好き”ではなくて”好み”。まるで本当は好きとまではいかないみたいな。

 

「万理ちゃん、どうして好き、じゃないの?」

『─────』

「いつもそうだよね、好み、好みで好き、好きじゃないんだもん」

『どうでもいいだろ』

 

 千里はその態度に追及しようとして、やめた。体を同じくして、気心知れたどころかほぼ知り尽くしても、伝えてこないことは知りえない。そこを根掘り葉掘り聞くことはよくないということも、現実の対人経験でも知っていた。ただ、同じ後藤ひとりなのに隠し事があるのは不思議だと感じた。

 

 千里は明け透けだし、なゆたも2人には包み隠すことをあまりしない。万里もはっきりものを言う性格だったけれど、こればかりは決して話すつもりはないようだった。

 "好き"なのはお母さんだけだということ、実の母親に恋して愛していること。だから、お父さんに後ろめたさを感じていることも。

 

 千里は問い詰めることをやめ、

 

「……せっかく借りたし、読もっか」

『そーしろ。……興味ゼロじゃないし』

『どんなのかな……』

 

 そして、

 ボーボボセラピーを体感した。

 

 §

 

「あ、っは、はははははははは!はぁ、はぐっ、えぁはははははは!?なん、ぐぇはははははははひひひひいぃ」

 

 §

 

 それから。

 重湯はいつの間にか三分粥、五分粥、七分粥、全粥に変わっていった。

 味噌湯も味噌と出汁が段々濃くなって普通になっていった。

 メニュー表のところてんの文字だけで吹き出した。

 チョコレートも加速度的に減るようになった。

 ミルミルは変わらず毎食1パックだった。

 ただ問題は、

 

「あ、いたたたたっはあはははあはははははいったぁ……」

 

 腹筋がよく攣るということ。

 最初はナースコールで、

 

「あー、やっちゃいましたかー。あの人が受け持つとたまにそういう子出ますねー。なので寝てばかりも良くないんですけど、それ読むときはベッド倒したほうがいいですねー」

 

 そう言って、日勤の看護師は腹筋のストレッチのやり方を3人に教えてくれた。ベッドをフラットにして、横寝の体勢で体を後ろに反らす。仰向けになって脇腹を伸ばすように腕を上げて腰を横に曲げる。そうすると幾分楽になった。

 

「でもまぁ、腹筋は少しだけ鍛えたほうがいいですねー」

 

 しばらく寝たきりだったことを差し引いても、3人の体は腹筋が強いとは言えなかった。

 診察の終わり際、担当医に相談してみると、

 

「……あまりキツいのだと、それはそれでまた腹筋がハジケてしまいますからね……彼女に頼んでみますから、食後で申し訳ないですがその時指導を受けてください。お大事に」

 

 夜勤の看護師は、

 

「私も最初はボーボボを体が受け止められませんでした。ですから……まずは、膝を立ててください。そう、大体90度くらい曲がる感じで。その状態で首を上げておへそを見る感じです。ここから始めましょう」

 

 それから入院中は毎日続けた。弱い筋肉痛がずっと続いた。

 なるだけ歩くように、病院を歩き回った。階段を登ったほうがいい気がして、できるだけそうした。

 看護師も主治医も褒めてくれた。

 そうして、意識不明の原因はまるでわからないまま、経過が順調だったこともあって退院に至った。

 

 結局更に一週間が経っていた。

 病院には学校からのプリントやらが届いていたから、笑い疲れた合間に万理がこなして、なんとかすべてを消化することが出来ていた。

 退院にあたって盛大な見送りなどはなく、最後に担当医からの”健康体”とのお墨付き、それに加えて意識がなくなった理由の不明についての詫びがあっただけだった。

 

 ただ、退院にあたって。

 夜勤の看護師は当日の朝、起床時間の見回りのとき、

 

「楽しかったですか?」

「はい、楽しかったです!」

 

 結局、数十冊は借りて漫画を読んでいたから素直にそう言えた。

 

「良かったです。もう来ちゃだめですよ」

 

 そのやり取りに深く満足した様子で、そっと抱きしめてくれた。

 日勤の看護師は、にこやかだけれど淡々とした、つまり初めて言葉を交わしたときから変わりない態度で、

 

「はい、退院おめでとうございますー。お大事になさってくださいねー」

 

 その時、3人は”どうお大事にすれば入院せずに済むのか分からない”と気がついて、少し乾いた笑いになってしまった。

 

 迎えには、お母さんがふたりを連れて来ていた。平日な上に、もうすぐ仕事が立て込み始めるらしくて会社を休むことは出来ないそうだった。

 総合受付で手続きを済ませて、外に出ると、

 

「千里ちゃん、万理ちゃん、なゆたちゃん、退院おめでとう!」

「おねーちゃ、たいーんおめれと!」

「お母さん、ふたりちゃんありがとー!ふたりちゃんだっこしたげよっかー?」

 

 千里が手を広げて膝を曲げ、ふたりが飛び込んでくるのを待っていると、ふたりは首を横に振り、

 

「んーん、おえーちゃ、あみあやり、だっこいい」

「……んー?あみあやり、あみあやり……?」

 千里がその5文字の言葉が何なのかを考え込んでいると、

 

「ああ、”病み上がり”ね。テレビか何かで見たんだと思うんだけど……まるで意味が分かってるみたいね」

「……ふたりちゃん、もしかしてもう私より頭いい!?」

『ふたりは特別賢いしお前は特別バカだ』

「ん!」

『千里ちゃんもうナメられてる……』

 きゃっきゃと笑う妹に苦笑いしつつも、その目の前で膝をついて抱きしめた。

「んー、いい子いい子ー。ふたりちゃんはとっても賢いいい子だねー」

「せんりちゃ、あいやと!」

「あー可愛い可愛いー!」

「千里ちゃん、そろそろ行きましょ?ここ人が通るからね?」

「あ、ごめんごめん」

 

 千里がふたりを離して立ち上がると、お母さんはタクシーを呼び止めた。

 

「さ、帰りましょ」

「ん!」

「はーい!」

 

 運転手がトランクの錠を外して降りてくる。

 

「どうも、奥さん」

「あら、こんにちは。いつもありがとうございます」

「いえいえ、それでお嬢さん……入院してたんですね?」

「あ、いつものタクシーの」

「ああ、こないだもどうも。大丈夫だった?」

「へ?」

「ああ、この子あの時ちょっと夢うつつだったみたいで……」

「はぁ……でもまぁ、元気になったんなら良かったですねぇ。荷物、これだけ?」

「はい、それをお願いします」

 

 運転手が入院の荷物をトランクへ入れる。

 

「よいっしょと。じゃあ今ドア開けますんで」

 

 トランクを閉めて運転手は席に戻り、ドアを開ける。

 

「はい、どうぞー」

 

 開いたドアからの声に招かれ、お母さんがふたりを抱き抱えて乗り込む。続いて千里が。

 

「じゃあご自宅ですね?」

「はい、よろしくお願いします」

「はいー」

 

 タクシーが動き出す。

 千里は窓から流れていく景色を横目でチラチラと眺めていた。見慣れない風景。正面を見ても見たこともない青標識。

 

「あのね」

「なぁに?」

「……ここ、どこだったの?」

「お家からは結構遠いわねぇ……」

「え、なんでそんな?」

 

 千里は訝ってお母さんに問いかけたけれど、

 

「お家で話すわね……」

 

 お母さんは少し困った顔をして、千里の頭を撫でた。

 ぽんぽん、と撫でられて、千里は思わず片目を閉じた。

 

「んー……」

 

 そのまま正面を見ていると、嫌でも目に入るものがある。

 タクシーのメーター。

 千里は見たこともない金額まで上がっていくのをヒヤヒヤして見ていた。

 右手でお母さんの服を摘んで引くと、

 

「どうしたの?」

「あの……メーター、すごくない……?」

「ああ、大したことないから気にしなくていいのよ」

「そっかー……」

「いつもタクシーで駅前くらいしか行かないからびっくりしたのね」

「うん……」

 

 千里は、お父さんに精一杯ありがとうを言おうと決意した。

 だんだん見知った雰囲気の風景が見えてくると、なんとなく安心する。

 

「あー、帰ってきたー……」

「もう少しよ」

「もうこし!」

 

 ふたりが両手を振り上げて声を上げた。千里が両手でハイタッチして、

 

「帰ったら何して遊ぼっかー?」

「んー?ギターして!」

「いいよいいよー!」

 

 ふたりとじゃれていると、少し体が後ろに引っ張られた。車のスピードが落ち始めている。見慣れた風景。見慣れすぎた風景。左を見ると、

 

「あ、着いた」

「はい到着ー、です」

 ドアが開く。

「千里ちゃんは降りててね」

「えっと、奥さん料金のほうが……」

 

 お母さんに促されて1人先に降りる。

 両腕を軽く広げて胸を開き、深呼吸。

 住宅街の静けさが肺に染み込んで、薬の匂いと人が息を潜めている気配から解き放たれた気分になった。

 

 あそこは楽しかった。けれど、看護師の気配りによって添えられたものだった。それがなければ、あそこは白っぽい箱だった。

 

「すぅー……はぁー!」

 

 這うようにして降りてきたふたりが軽い足取りで寄ってきて、千里を真似て深呼吸。

 

「ふたりちゃん、遠くまでお出かけ頑張ったねー!」

 

 千里はまた跪いて頭をわしわしと撫でる。くすぐったそうにふたりが笑う。

 

「はい、それじゃありがとうございまし、たー。お嬢ちゃん、お大事にねー!」

 

 開いたままのドアから運転手の声が聞こえる。お母さんはもう降りてきていた。

 

「はい、ありがとうございましたー!」

 

 大きな声でお礼を言って頭を下げる。

 

「はーい、じゃあまたよろしくお願いしますー」

 

 ドアが閉まって、エンジンの音が大きくなる。タクシーが動き出し、その場を去っていった。

 お母さんはタクシーが角を曲がって見えなくなるまで軽く頭を下げ続けていた。

 

「じゃあ、千里ちゃん、万理ちゃん、なゆたちゃん。おかえりなさい」

「おかえい!」

 

 お母さんに肩を抱かれながら、千里は浮かれながら、万理は少し恥じらいながら、なゆたは気を抜きながら玄関に向かう。

 そしてお母さんがドアに手をかけると、

 

「……あら?」

 

 一瞬にして顔が曇った。

 

「どーしたの?」

「鍵、掛けたはずなんだけれど……」

「え?」

「ちょっと、後ろに下がっててね……」

 

 そう言ってお母さんがふたりと千里を押し退けるように玄関から2,3歩下がらせた。そして、お母さんはドアを静かに開けて、

 

「……え?」

「お母さん?」

 

 破裂音が鳴った。

 お母さんはそのままドアに寄り掛かるように軽く崩折れた。

 

 



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本編-16「Wanderwall」

 

「え、え?え!?何!?」

 万理が出てきて飛び込むようにお母さんに近寄ると、

 

「お母さん!?お母さん!」

「あの、大丈夫……」

「え……」

 

 お母さんが玄関の中を指差すと、

 

「あ……あー……」

「あの……三人とも退院おめでとう……」

 

 部屋着、変なサングラスを付けたお父さんがクラッカーを持って立っていた。

 もう一度破裂音が鳴った。

 万理は大きなため息をついて、

 

「……ふたり、入っていいよ」

「あい!」

 

 無邪気な笑顔を浮かべながらふたりが玄関に入ってきて、

 

「あ、おとーさん!おしおとおさぼり!」

「ち、違うよ?大人には有給ってものがあって、お休みができるんだよ?」

「お父さん、ふたりには分かんないよそれは……」

 

 最後にお母さんが入ってきて玄関の戸を閉じると、

 

「あなた……なんで急に有給なんて取ったの?」

「いやー、サプライズで退院祝いをしようと思って……」

「心臓に悪いでしょ?……泥棒か何か入ったかと思って……あぁ、もう……」

「あ、あぁー、ごめんごめん……」

 

 お父さんは段を降りてお母さんを抱きしめた。

 万理はちょっとした自己嫌悪から逃げるように、

 

『なゆた……代わって』

『え?……うん。言いたいことあるし』

「あの……お父さん……」

「お?なゆた、どうしたんだい?」

「お説教……」

「えぇ……」

 

 お父さんを土間に正座させて、ふたり、お母さん、なゆたで囲んだ。

 

「あのね、お父さん……普通出かける時は鍵をかけるよね……それが帰ってきたら開いてたらただ事じゃないよ……?」

「はい……」

「それにお父さん、いつも合鍵持っていかないよね?帰りが遅くてもお母さんが待ってるからいらないし……」

「おっしゃるとおりです……」

「おっしゃーとーり!」

「で、でもだからって鍵閉めてても怖いんじゃないか……?」

「うん。怖いと思う……でもね、そもそもなんだけど……サプライズして貰って嬉しいのって私たちだけだよね……?お母さんは嬉しくもなんともないよね……?」

「そうね……無駄に怖い思いしたもの……」

「ぐっ!」

「お母さんとケンカしたいの……?夫婦のコミュニケーション不足だよ……?」

「もう正論で殴るのやめにしてくれないかな……?」

 

 お父さんが俯いて落ち込んだところにお母さんが、

 

「……さ、それじゃあ入りましょうか。あなた、立って」

「う、うん。……本当にゴメン」

「……こういうのは私には言ってね」

 

 お説教を終わらせて、家に上がる。

 なゆたはまた引っ込んで、千里が表に出てきた。

 

「あ、お風呂入っていい?」

「いいわよ。でもお湯張るからちょっと待っててね?」

「ありがとー。病院だと髪ゆっくり洗えなかったから」

「あら、そういうものなの?」

「うん。いっぱい人がいるからみたい」

 

 千里はふたりの手をそっと引いて、

 

「お姉ちゃんお風呂入るけど、それまでギターしよっか!」

「ギター!」

 

 階段を登ろうとする千里にお母さんは、

 

「階段、1人で登れる?大丈夫?」

「大丈夫大丈夫!階段でリハビリしたもん!」

「いはびい!」

「行こっか!」

「ん!」

 

 千里は階段の手すりに右手でしっかり掴まりながら、左手はふたりと繋いでゆっくり階段を登っていく。足取りは軽く、ふたりに微笑みかけながら。

 2階に上がり、ふすまを開けるといつもどおりの光景。変わったところは特にない。

 

『……ひとり、この部屋には入ったのかな』

『私達の遺書……読んだかな……』

「ふたりちゃん、ふたりちゃん。ひとりお姉ちゃんはここに来た?」

「んー……たうん!」

「そっかー、覚えてて偉いねー!」

 

 千里はふたりが可愛くて、事あるごとに頭を撫でる。それを嬉しく思ってはくれるようだけれど、一番お気に召すのはなゆたからのスキンシップだった。

 

「ちょっと準備するから待っててねー」

「ん!」

 

 千里は座布団をふたりの前、それと部屋の奥側にもう一枚敷くと、アンプとシールドケーブルを取り出すために押し入れを開けた。

 そして、そこにあったはずのノートがなかった。

 

「……」

 

 視線を動かす。右側に、放り出すようにノートが落ちていた。

 

 

 四つん這いになってアンプとシールドケーブルを押入れの外に出しつつ、ノートを手に取り、座って開いた。

 流し読みで、何か書いていないかを確かめていく。

 

「……」

『何もないな』

『多分、読んだには読んだのかな……』

「だね」

 

 結局遺書は遺書にならなくて、ただの伝言で終わっていたみたいだった。

 

「まあー?」

 

 ふたりの急かす声に千里は振り返って、

 

「ごめんねー、もう準備できるからー」

 

 ノートを押入れに置いて閉じ、立ち上がった。

 そしてアンプを据えて、コンセントをつなぎ、ギターをラックから一本取り出した。

 千里が使うのはテレキャスター。

 

 ギターにシールドを繋いで、ヘッドに挟んであったチューナーの電源を入れる。

 チューニングをしているとふたりが、

 

「ぶぉー、ぷぁー、ぷぇー!」

 

 弦の音程が上がっていくのに声を合わせる。千里は微笑みながら、

 

「もうちょっとだよー……はい!」

 

 明るくて歯切れのいいAコード。

 

「わー!」

「じゃあ何弾こっか?」

「んー、あーぱーまー!」

「アンパンマンかぁー、いいよいいよー!」

 

 しょっちゅうねだられる曲なので、千里は曲を概ね把握していた。弾いてみるけれど、

 

「……んー」

「せんりちゃ、へたっぴなった?」

「うん……入院しててギターしてなかったからかなぁ」

 

 コードチェンジで指が上手く動かない。少しこわばるような感覚。うまく弦を押さえられない。当然しっかりとした音が出なくて、ヘロヘロとした感じになってしまった。

 

「ごめんねー、またギター練習しなおすからー」

「んー、ゆっくいでいいよ」

「そうだねー、ゆっくりやろっかぁ」

 

 テンポを落とす。

 

 ふたりが歌うのに合わせてギターを鳴らす。

 千里も歌う。

 

「ふたりちゃん、上手に歌えたねー」

「ん!せんりちゃ、ちょっとじょーず!」

「ありがとー!」

 

 右の手のひらを出して、ふたりの左手と軽いハイタッチ。

 それからもう少し別の曲を弾いて、ふたりに歌わせていると、

 

「お風呂湧いたわよー!」

「あ、お風呂入らなきゃ。ギターは休憩ね」

「ん!きゅーけ!」

「一緒に入ろっか?」

「んー……じゃあなゆちゃといっしょ」

『なゆちゃん、ふたりちゃんとお風呂入ってくれる?』

『いいよ……?』

 

 千里からなゆたに入れ替わって、

 

「じゃあ、ちょっとお片付けするね……」

「ん!」

 

 なゆたはギターからシールドケーブルを抜き、アンプの電源も落とし、ギターをラックに戻した。

 そしてふたりの前に立って両手を伸べて、立ち上がらせる。

 

「じゃあお風呂行こうね……」

「ん!」

 

 ゆっくり歩くなゆたを追い越す勢いでふたりがすり寄る。

 

『あーあ、ふたりちゃんはなゆちゃんが一番大好きなんだなぁー……むくわれないお姉ちゃんだぁ~』

『私なんか未だにおっかなびっくりだぞ……私もなんか距離感迷ってるのが悪いから自業自得だけど、まぁ傷つく……』

 

 頭の中の2人の嘆きは聞き流して、なゆたは階段を一弾降りると慎重に後ろを向く。

 

「階段、そーっと降りるよー……」

「ん!……ん、ちょ」

 

 なゆたが一段降りて、ふたりの両手をつかむ。ふたりが体をよじるように階段を降りるのを補助する。

 そうして階段を降りきると、

 

「階段、降りれたねー……」

 

 なゆたが片膝をついてしゃがみ、ふたりの頭を撫でる。

 

「んー!」

 

 千里が撫でたときよりも気持ちよさそうに、嬉しそうに飛び跳ねる。なゆたは微笑みながら、まだ頭を撫で続ける。

 

『何が違うのかなーなゆちゃんと私』

『愛?』

『え゛』

『なんでお前性格悪い返しするんだよ』

『万理ちゃん万理ちゃんなゆちゃんが私をうわっつらだけのうすっぺらい女扱いするよぉ~』

『そこまで言われてないのになんで自分をそこまで悪く言えんの』

『だって……私お友達にちやほやされたりかまってもらえないと生きていけない弱い生き物だから……』

『メンヘラってやつかよ』

『千里ちゃん、自己分析?っていうの得意だよね……』

『ほめるふりしてトドメ刺すの止めろ』

 

 なゆたはふたりをそっと抱き上げると、お風呂場に向かっていく。

 

「なゆちゃ、らいじょぅ?」

「うん、大丈夫……」

 

 身の心配というより気遣いとしてふたりはなゆたに問いかけて、なゆたは微笑んで返した。

 

 なゆたはふたりの髪と体を洗ってあげると、それから自分の髪を丁寧に洗った。

 

 ふたりが湯船で溺れたりしないか、のぼせたりしないかを常に目を光らせながら、ふたりに合わせて歌ったりして退屈させないように。

 ふたりを背中から抱きしめる形で湯船に入ると、じわりと溶けるように気分が良くなった。

 

「ふぁ……あー……」

「ふぁー!」

「ふたり、熱くない……?」

「ん!」

 

 お湯を蹴るように足、そして身を伸ばすと体中にエネルギーが巡っていく気がした。足先から頭まで痺れのような快感が伝わって、目が覚めていく感覚。

「んぅ……」

 タオルでまとめた髪がほどけそうになって、右手でタオルを押さえた。湯船から上がるために立ち上がると同時に髪をなだれるままにした。

 

 髪が湯に浸からずに済み、タオルをもう一度巻き直して、また湯船に浸かった。

 ふたりを抱え直し、

 

「あと20数えたら上がろうね……」

「ん!」

 

 数えてから湯船を上がり、風呂を出た。

 それからなゆたはふたりの体と髪を拭いて髪を乾かしてリビングに送り出し、自分の髪を乾かした。

 

 リビングに戻るとお父さんが食事の用意をしていて、ふたりはソファーでテレビを見ていた。公共放送の教育番組が流れている。

 

「あれ、お母さんは……?」

「あ、なゆたか。お母さんはお魚を買いに行ったよ。ほら、3人ともお刺身が好きだろ?だからスーパーで盛り合わせをね」

 

 なゆたも千里も万理も嬉しい気持ちになった。千里は山葵なしのマグロ、万理はたっぷり山葵を付けたブリ、なゆたは少し山葵を付けたサーモンが好きだった。そういう好みは最近どんどん増えてきた100円寿司で見つかってきた。

 

「あ、でもふたりは……」

「うん。ふたりには特別でネギトロかな」

 

 当然の対応ではあったけれど、よかった、と思った。

 お父さんは野菜を切る手を止めて、腕を組んで、

 

「ひとりはお魚をまともに食べるようになる前にいなくなっちゃったからなぁ……ハンバーグや唐揚げは好きなんだけど……」

「うん……」

「あの日も唐揚げで……ちょっと、じゃないか。だいぶ辛くなっちゃったなぁ……」

「あの日?」

「うん。なゆた達3人と入れ替わりでひとりが帰ってきた日。入院する前の日。みんなには悪いとも思ったんだけど、お祝いのごちそうのつもりで……」

「ううん、気にしないから……」

「ありがとう。……そうだ、お父さんから退院祝いのプレゼントしたいんだけど、何かほしいものあるかい?」

 

 無理に話題を変えた、とは思ったけれど、なゆた達も変えたかったからそのまま乗った。とはいえ、

 

「うーん……」

「何か思いついたらでいいよ。……ああ、ギターのちょっと大変なメンテはお父さんがやってあげるし、お父さんでも手に負えなかったらお店に持っていくから、それ以外かな」

 

 別に今すぐに思いつく必要はなかったけれど、なゆたは、

 

『何がいいかな……?』

『ギターはもう要らないしエフェクターだってお父さんから借りてるだろ。……何かないかな』

『あ!わかった!』

 

 千里が思いつくと同時になゆたと入れ替わって、

 

「スマホ!……高いから、中学の入学祝いと合わせて!」

「千里、スマホは別にプレゼントじゃなくても買ってあげるつもりだったんだけどなぁ……」

「えっ、買ってくれるの?」

「うん。入院中、お母さんと連絡取るのちょっと大変だったみたいだし、スマホはもうあったほうがいいかなって。週末に買いに行こうか」

「お父さん大好きー!」

 

 キッチンの中に駆け込んでお父さんに抱きつく。

 

「あーこらこら、包丁が落っこちたら危ないだろ?」

「あ、うっかりしてた。ごめんなさい!」

「うん。……それで、退院祝いを今我慢して中学の入学祝いと合わせてもいいなら……3人とも、自分のパソコンを持ってみるのもいいと思うんだ」

「パソコン?」

「そう。3人とも家族のパソコンは触ってるけど、自分のを持って色々いじってみたほうがいいんじゃないかな。大きくなってからよりも……今慣れておいたほうが将来戸惑わないと思うしね」

「将来……かぁ」

 

 将来。それを考える権利が自分たちにあるんだろうか。

 3人ともがそれを思った。

 

「ああ、そ、それにね?macならソフト買い足さなくても最初から打ち込みが出来るんだ」

「打ち込み?」

「うん。お父さんもmacだけどその辺詳しくなくて、ちょっと調べただけなんだけど……まぁ簡単に言えば、パソコンで音楽が作れる。なゆたは確かそういう曲も好きだろ?」

『なゆた、どうなんだ?』

『うん、ゲームってそういうの多いから……興味あるかな……』

「なゆちゃん、興味あるって」

「そうかぁ。うん、それじゃあ分かった。退院祝い、クリスマスプレゼント、誕生日プレゼント、中学の入学祝いを全部合わせてパソコン……っていうのはどうかなぁ」

 

 それは、3人全員にとって素晴らしく魅力的だった。けれどもこうも思った。

 

「あのね、入院でお金結構かかったと思うから、やっぱりいいかなーって思うんだけど……」

「そんなことは気にしなくていいんだ。もっと甘えればいいんだから」

「いいのかなぁー……」

 

 お父さんは千里を抱きしめて、

 

「みんな、僕らの可愛い娘なんだから、お父さんやお母さんに遠慮なんてしなくていいんだよ」

「……うん」

 

 千里も、万理も、なゆたも大きな腕に心を任せた。

 

「それじゃ、お父さん。……パソコンは、クリスマスプレゼントの時がいいな」

「よしきた」

「せんりちゃ、ギター!」

 

 番組を見終わったふたりがキッチンに歩いてくる。

 

「あ、ふたりと遊んでくるね」

「うん、ご飯出来たら呼びに行くからゆっくりしてていいよ」

「ありがとー!」

 

 千里はお父さんから離れると、ふたりを勢いよく抱き上げて部屋に戻った。

 部屋に入ると、

 

「何弾いてほしい?」

「んー……まりおえーちゃのギター!」

「え゛」

『なんで”え”なんだよ』

『私飽きられちゃったのかなぁー……』

『メンタル豆腐かよ』

『凹んだから引っ込むね……』

 

 千里が陽だまりから闇の中に入って、膝を抱えて座り込んだ。万理が代わって光に入る。

 

「……ふたり、千里となゆたじゃなくて私がいいのか?」

「ん!」

「……うん」

 

 照れくさくて、思わず左手で頬を掻く。

 こんなに懐かれていた覚えはなくて、でも嬉しくて。

 ギターラックのジャズマスターにチューナーを付け替えてから手に取って、座布団にあぐらをかいて座り、チューニングしていく。

 ふたりはギターラックに這い寄って、なゆたのエレアコを指差した。

 

「……どうした?」

「まりおえーちゃ、こえ、ひーて!」

「それ、なゆたのだぞ?」

「ん!」

 

 チューニングの手を止めて、逆に弦を少しまた緩める。

 

『……弾いていいか?』

『うん。あの……なんだっけ、パラダイス?みたいなバンド』

『多分オアシスだそれは』

『あ、それ……そのバンドの曲練習してたことあったよね……』

『ふたりの前で弾いてたわけじゃないけどなぁ』

『でも、弾いてあげて……』

『あー……分かったよ』

 

 立ち上がってジャズマスターをラックに戻して代わりにエレアコを手に取る。チューナーも付け替えて。

 チューニングを進める万理を、ふたりが爛々とした目で見つめる。

 万理は、

 

「……最近弾いてなかったから、間違えたらごめんな」

「ん!」

 

 万理は、心の中にも響かせないよう、言葉にならないようにしながらこう思った。

 可愛い妹だな、と。

 チューニングが終わって、少し途方に暮れた。

 何を弾けばいいのか、弾いてほしいのか分からない。

 

「どんな曲……って聞いても分からないか……」

 

 なので、

 

「なんでもいい?」

「ん!おうた、うたって!」

 

 何曲か思い当たったから、ひとまず弾き始めた。

 OasisのWanderwall。

 少し変わったコードの押さえ方。不思議な雰囲気の曲。

 オリジナルはカポを使うけれど、万理にはカポを使わず1オクターブ上げて歌うのがちょうど良かった。

 ふたりが微笑みながら体を左右に揺らす。

 うろ覚えのせいでコードを間違えると、揺れる動きがぴたりと止まる。少しわたわたとしながらコードを探して、正しいコードを鳴らすとまた体が揺れる。

 1コーラス歌い終えると、ふたりは体を揺らすのをやめて、こてん、と寝こけてしまった。

 

「……はぁ」

 

 寝られてしまったことについて、万理は少し満足していた。幸せそうな寝顔を見ていると、そう思わないわけにはいかない。この小さくて可愛い妹の子守唄になったのなら、姉冥利に尽きると思っていた。

 静かに立ち上がると、エレアコをラックに戻す。そして、ふたりに寄り添うように寝転んだ。

 

「かわいいなぁ……ふたりは」

 

 そう呟きながら、ふたりを通してお母さんの顔を見ていた。

 川の字で寝ていた頃のこと。休みの日に早起きした時に見れる、お母さんの寝顔を思い出している。

 

「ふたりのほうがお母さんに似てるもんな……私は、目つきも悪いし……跳ねっ返り気味だし……」

 

 自嘲の言葉を吐きながら、ふたりの頬を右手の人差し指でそっと触れる。

 

「んぃひひ……」

 

 くすぐったさだろうか、眠りながらふたりが笑う。

 

『……万理ちゃんもちゃーんとおねーちゃんしてるじゃん』

 

 万理は陽だまりの中から、影の中で膝を抱えたままの千里に、

 

「いつまで拗ねてんだお前」

「いいもんいいもん、1歳ちょっとの妹にもバカにされたり飽きられたり、お風呂もなゆちゃんがいいーって言われたり、ギターも万理ちゃんがいいって言われたり……気にしないもーん」

「めっちゃ根に持つじゃん」

 

 指先が掴まれた感覚で、万理は陽だまりに引き戻される。

 

「んぃひひ……」

 

 ふたりが小さな両手で指を掴んで、にっこりと夢うつつで笑っていた。

 愛しいな、と思って、万理はふたりをそっと抱きしめて目を閉じた。

 ふたりも幼い腕を万理の体に絡ませる。

 

 §

 

 気がつくと、体にブランケットが掛かっていた。

 腕の中には変わらずふたりがいて、それに加えて、抱きしめられている感覚。

 万理がそっと首を背中側へ回すと、お母さんが眠っていた。

 

「あ……」

 

 万理の心臓が跳ねる。

 1人で寝て起きるようになって見なくなったお母さんの寝顔。

 ずっと好きでいるお母さんの顔。

 見つめていたい顔。

 キスしたい。

 言葉は浮かばなくて、身動ぎしようとする意志がそう示していた。

 けれど動けない。包み込むように腕を回されていて、そうしようものならきっと目覚めさせてしまう。

 それに寝顔は穏やかじゃなかった。

 疲れの深く滲んだ顔。

 万理は、自分達がそうさせたことを深く悔やんだ。

 結局、お父さんが呼びに来るまで身じろぎせず、お母さんが少しでも疲れを癒せるように待っていた。

 

 お父さんが2階に上がってくると、一旦足音が遠ざかった。そして近づいてきて、そっとふすまを開けて、

 

「……美智代?」

「寝てるよ」

「あ、万理は起きてるのか……どうしようかな」

「このままずっと寝てたら余計寝れなくなるじゃん」

「それもそうか」

 

 お父さんは部屋に入ってお母さんのそばにしゃがみ込んで、肩を揺らす。

 

「お母さん、晩御飯の準備出来たよ。ふたりも起きて」

「……んぁ……、あ、あら、すっかり寝ちゃってたわ……ごめんなさい」

 

 お母さんはブランケットを退けながら、

 

「2人とも起きて……」

「私は起きてるよ。……ほら、ふたり」

 

 万理は体を起こして座り直し、ふたりを抱き上げて揺すった。

 腕の中でふたりが目を覚ます。

 

「んー……?」

「ほら、ふたり。お父さんがご飯作ってくれたから。下降りよう」

「んー……」

 

 眠い目をこすったと思うと、すぐに花のような笑顔で腕から抜け出る。

 

「ごはん!ごはん!」

「あはは、今日はごちそう作ったからなー」

 

 お父さんが足元に寄ってきたふたりを抱え上げる。

 

「じゃあ行こうか」

「んー!」

 

 肩車にしてお父さんは階段を降りていった。

 

「……じゃあ、降りましょっか。万理ちゃん」

「うん」

 

 お母さんと2人、万理はすっかり暗くなった部屋を出て、階段を降りていった。

 

 食卓は華やかで、千里、万理、なゆたの好物が揃っていて、まさしくお祝いの夕食になった。

 楽しく和やかな時間が過ぎていった。

 お父さんは食器を片付け終えると、千里の隣に座った。

 

「……そうだ、もうすぐ病院の日だなぁ」

「そうねぇ、退院が間に合ってよかったわ」

「あ、もうそんな経ってたっけ。うん、それで?」

「まぁ、今回入院になった原因は不明なんだけど……ひとりが関係しているのは間違いないだろうから……」

「脳波とかも色々診てもらったんだけど……結局何もわからなかったみたいなの」

「うん……お父さんも先生から話を聞いたんだけど、脳波で見る限りは夢を見ている状態と深く眠った状態を繰り返していたみたいでね。何か夢で覚えていることとかはあるかい?」

「んー……」

 

 千里達に夢の記憶はなかった。

 申し訳無さそうに、

 

「ごめん、なんにも覚えてない」

「そうか。じゃあ仕方ないね」

 

 それは後藤ひとりの記憶で、

 後藤千里、後藤万理、後藤なゆたの記憶であってはならないから。

 

 



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