2016年 01月 03日
ある日、押し入れをゴソゴソやっていたら、長年行方不明だった80年代初頭の小樽を撮影したネガが出て来たので、80年代の小樽と横浜を温故知新的に比較してみるのも面白いかも、ということで今回は新年特別企画として横浜を遠く離れて小樽の色内地区の写真をお送りしたいと思います。 蛇足ながら、小樽の色内("いろない"と読みます)地区というのは、横浜で例えると海岸通1丁目の開港広場交差点あたりと言った感じでしょうか。 ということで一説によれば上野駅をモデルにして建てられたとされていますが、その昔。東口にあった三代目横浜駅駅舎を知っている横浜市民は異口同音に「昔の横浜駅を小さくした感じだ」と口にする(……だろうと思います、たぶん)小樽駅(ちなみに横浜駅三代目駅舎がが1928年昭和3年、上野駅駅舎が1932年昭和7年、小樽駅駅舎は1934年昭和9年に建てられました)から海の方へ下る坂道が通称"駅前通り"こと"中央通り"で、この通りの坂道を下って手宮線の踏切を渡った先にあったのが↓ 駅前通り拡張に伴い取り壊される 1907年(明治40年)に建てられた木造の岡島薬局。 蛇足ですが、↑の写真の建物の前の道路が石畳なので「この頃の中央通りは石畳だったのだろうか?」と思って航空写真その他で調べてみると、なぜかこの建物の前の部分だけに往時の石畳が残っていたんだそうな。 ということで、↑の岡島薬局があるブロックの中央通りと色内大通りが交差するカドにあったのが↓ 道路拡幅(駅前通り)に伴い斜め後方に曳家移設される(現存) 1930年(昭和5年)に建てられた旧安田銀行小樽支店こと、当時は北海経済新聞社ビル。 「なんか見覚えがあるなぁ?」と思うのも道理で、なにやら安田銀行は支店を建設するときにその土地土地の敷地の広さに応じて寸法を変えただけの同じ設計図を使い回していたんだそうな。 「どうりで馬車道あたりで見た記憶があるんだな」ということで旧安田銀行小樽支店と交差点を挟んで斜め向かいに建っていたのが↓ 1992年に中央通り拡幅工事に伴い取り壊される 1897年(明治31年)に建てられた旧小樽銅鉄船具合資会社こと井淵ビル。 実は写真の建物はあくまでも最終形態で建てられた当時の第一形態は↓ その後、3階部分と塔屋を建て増しした第二形態に変化して↓ 最終的に一階部分のアーチと屋上の塔屋などが無くなり、レンガ壁をモルタルで塗り固めたり、その他諸々の改修がなされて最終形態になったそうです……というのは、今になっての後付け知識で、撮影当時は「おっ、なんかいい雰囲気!」と言う感じ。 そして↑の写真の左側に写っている通りをさらに1ブロック進むと、小樽運河に架かる中央橋にたどり着きます。 ここは今や小樽の一大観光名所となっていて、「小樽運河」で検索すると↑の写真と似たような写真がゴッソリと出て来ますが、撮影当時は人っ子一人居ないという状態でした(そもそも当時は冬に呑気に観光している酔狂な人なんかいなかった)。 ちなみに写真手前から、築年不明の北日本倉庫港運倉庫、切り妻部分が運河を向いている建物と奥の二階建てのレンガ倉庫が1925年(大正14年)築の旧篠田倉庫こと当時は大同倉庫、その隣りが一棟に見えますが実は真ん中で仕切られている1924年(大正13年)築の小樽倉庫一号、二号倉庫となります。 ということで今度は運河沿いに建ち並ぶ石造りの倉庫を左に見ながら↓ (扉には「◯に高い」倉庫№1と書かれています) 1ブロック北上すると道は竜宮通りとぶつかり、そのカド手前にあったのが↓ 1891年(明治24年)に建てられた大家倉庫。 ちなみにこれらの石造りの倉庫は、正確に言うと「木骨石造建築」と呼ばる木造の骨組みの壁部分に、防火目的に厚さ15センチのパネル状の軟石を張り付けた物で、撮影当時には小樽運河沿いにズラ~ッと建ち並んでいました。 ということで↓の写真の倉庫もそのひとつで 色内2丁目交差点付近にあった鎧戸に花菱のレリーフがあしらわれた二葉倉庫。 と言っても撮影当時、小樽にはそこかしこに二葉倉庫があったようですし、現在、写真の倉庫に該当する倉庫が見当たらないことから、運河を半分埋め立てて道道を建設した時に取り壊された倉庫のひとつだろうと思われます。 ということで今度は色内2丁目交差点を左におれて小樽駅に戻る途中の竜宮通りにあったのが↓ 1920年(大正9年)に建てられた木造三階建ての旧戸羽商会こと撮影当時の中一商会。 ということで撮影当時の小樽は、1965年(昭和41年)にその計画が明らかになった道道臨港線建設に伴う小樽運河埋立の是非を巡り計画を推し進める行政と経済界と、「運河は小樽の文化遺産だ」として反対する市民との間で「小樽運河戦争」と言われるくらい激しい議論が10年の長きに渡って繰り広げられたものの、1982年(昭和57年)に、「建設する道路の車線を減らして幅40mの運河のうち山側を半分埋め立てる」という妥協案が半ば強引に決められ埋立工事が開始されます。 しかし小樽市は、市民からの反対を無視したということに後ろめたさを感じたのか、はたまた何か思うところがあったのか、翌年の1983年(昭和58年)に歴史的建造物と歴史的な街並みの保存を目的とした「小樽市歴史的建造物及び景観地区保全条例」を策定し、小樽市内に現存する歴史的建造物と古い建物が織りなす歴史的景観の保存に乗り出します(横浜市が「認定歴史的建造物」を策定したのは1988年(昭和63年)、歴史的な景観の保存に乗り出したのは2015年)。 そして1992年に、歴史的建造物と歴史的な街並みの保存と共に、総合的な都市景観の保全を目的とした現行の「小樽の歴史と自然を生かしたまちづくり景観条例」に改訂し、同時に小樽市内に現存している歴史的建造物2,357棟を調査し、これから主要な物を508棟を選び現地調査を実施し、この中から保全すべきものを「小樽市登録歴史的建造物」として登録し所有者にその旨を通知し、所有者の同意を得られた2015年現在75軒を「小樽市指定歴史的建造物」に指定した、ということがこちらに書かれていますが、「小樽市指定歴史的建造物」に指定された75軒以外にも、所有者によって自主的に、はたまた結果的に現存及び保存されている建物が相当数存在しています。 *写真はすべて1982年撮影。
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