第2話 龍燈が告げる災禍

 累計でまだ二日目の高校は、真新しい空気感の香りがした。校舎自体も比較的新しく、この高校ができてまだ二十年。数年前改築が行われており、そういう意味でもまだ、なおさら新しい匂いがする。


 西暦二〇三四年に北欧の島国ワグノール共和国で起きたある事件以来、科学技術は原則平成末期ほどのそれに制限されている。高校の外観や内装も、平成当時の人々が想像した西暦二〇七五年の空気感ではないことだろう。

 しかし西暦二〇七五年芽黎二十七年現在、これが普通だ。戦後の混乱期以降、それまでひっそり共存していた妖怪が表舞台にも進出してきた影響から、彼らの物理的な重量に耐えるため建材などの技術はまだ制限されていないが……それはまた別の話である。


 燈真は黒いリュックサックを机に置いて、教科書の類を机の中に突っ込んだ。中学の頃までは教科書類をいちいち持ち帰れというルールがあったが(面倒だったので燈真は守らなかったが)、高校からはそんな面倒なことはない。無論、予習復習を自主的に行わせる上で、その辺りを自由に判断させているのだろう。

 義務教育ではない以上生徒が落伍していっても学校としてはどうでもいいし、いい大学に入れなくて困ろうが知ったことではないのだ。将来困りたくなければ己の力でどうにかしろ、というのが、大人という生き物で、そして社会の掟である。その第一歩を学ぶのが、高等学校だ——柊は昨日、酒に酔った頭でそんなことを語っていた。

 基本的に自分で稼ぐようになれば、自分のことで手一杯である。他人のことなどは対岸の火事だし、自分のことは自分でせねばならない。助け合いはもちろん大切だが、それは他ならない一人前がすることだ。

 燈真にも、言わんとすることはわかっていた。

 冷たくとも、現実は現実。割り切って考えねば。


 なんとなく数学Aの教科書を開いて、ぺらぺらページを読み飛ばしていく。

 斜め読みだけで方程式や意味を理解できる、超能力めいた天才がかつて地上にはいたらしいが……どういう脳みそをしているのだろうか。インドの天才数学者たちは、神が方程式を教えてくれた、なんてことを言うらしい。

 同じバスに乗ってやってきた椿姫は真面目に机に座って予習しており、光希は男子グループに入って持ってきた携帯ゲーム機でローカル通信をしている。

 燈真は何もしないのも時間の無駄だと思い、ホームルームが始まるまでの十分間を読書に割り当てることにした。


「おはようさん、今日も一日学業日和だな」


 ホームルームのチャイムが鳴って一分ほど、担任の御薬袋信九郎みないしんくろうが教室に入ってきた。化学という名前負けしない担当科目を持ち、一見するとやる気がない顔をしているだらしない白衣姿の彼だが、その不健康さと生徒思いな立ち振る舞いのギャップ、そして喫煙所でタバコを吸うダンディな姿から、村でも屈指のイケオジとしてオジ専女子にウケがいい。


「えー、二週前か? 出校日に新しい友だちがやってきたな。漆宮は妖怪の社会に不慣れだから、色々教えてやってくれ」

「はーい」


 そのように話す信九郎も、頭部はカットした鹿の角が生えている。彼自身も鹿が化けた妖怪であった。先祖はリヘンジカという、裡辺地方の原産種である鹿である。


「夏休み明け一発目、休み気分が抜けないのはわかるが少しずつエンジンに火を入れていくように。じゃあ、日直、挨拶」

「はい。起立、礼——」

「今日も一日、頑張りましょう」


 信九郎はポリポリとくすんだ茶髪を掻いて、バインダーに目を落としながら教室を出ていった。

 クラスメイトたちは一限の全校集会のため、体育館シューズを手に取り銘々教室を出た。


「行こうぜ」


 燈真も光希に声をかけられ、「ちょっと待って」と自分のシューズを掴んで、教室を出て行った。学級委員長が最後に施錠し、全員が体育館に揃うのだった。

 ステージの手前にある教壇に生徒会長が立ち、挨拶を始めた。


×


 昼休み、燈真たちは学食に向かっていた。屋敷にいるみんなのお母さんと自他共に認める化け狸——山囃子伊予やまばやしいよの朝の手間を減らすため、学生組は各々で昼食を調達することになっていた。

 竜胆も十年後には高校受験を控えているので(何度も言うが人間と妖怪とでは時間の感覚がまるで違うので、十年後の高校受験という表現は妖怪家庭ではポピュラーである)、家で勉強に励んでいるし、菘の面倒も見なくてはならないので家に残っている成妖組も決して楽ではない。


 学食の席を取った。燈真たちはエレフォンを置いて食券を買い、提出する。

 席について、燈真は口火を切った。


「さっき休み時間にアプリを確認したんだけどさ。これ」


 退魔局が配布しているアプリ——『あやかし堂』を開く。エレフォンのカメラが網膜認証を行った。一昔前ではこれらの生体認証は、ごく一部の政府組織が用いる最先端技術だったらしい。

 それはさておき、メーラーを開く。それは退魔師側にとっては依頼の斡旋あっせんだった。


龍燈りゅうとうの調査?」


 椿姫が疑問符を頭上に浮かべた。光希は手を振って、


「新人の仕事にはピッタリじゃん。俺はパス」

「あんただって三等級でしょうが」

「なんだよ、椿姫こそ一個上なだけだろ」


 燈真は咳払いした。二人が申し訳ない、という顔をして、


「まあ俺が新人なのはそうだし、これを受けてみるつもりだ。ただ、場所が魅雲湖だからなあ……あそこ、とんでもない大妖怪が住んでるらしいじゃん」

「龍神様ね。湖をつくって、棲家にしてる方。顔を出すことなんて滅多にないけど……」

「龍燈が出たってことは、龍神様が目を覚ましたかもしれないだろ。でも、依頼内容を読むと少し前からここで騒ぐ悪ガキの目撃例もあるんだ。術とか花火をこれと見間違えただけかもしれないってな」


 燈真が画面をスクロールし、その文面を見せた。数名の若い妖怪・人間がここで騒いでいると地域の人妖が証言している、とある。

 椿姫は顎を撫で、


「でも、一応四等級案件なんだね。わかった、全員で行こっか」

「えっ」


 光希を無視し、


「運が良ければ龍神様に会えるかもしれないしね。それに悪ガキ連中がなんかの表紙で妖術を悪用したら、退魔師の職務怠慢って叩かれるわよ」

「くっそー、今日はモンバスモンスターバスターをオンラインでやる予定だったのに……」


 がっくりと肩を落とす光希の背中を椿姫がぽすっとはたいて、燈真はふふっと笑った。手元のブザーが鳴って、三人はカウンターまで料理を取りに行くのだった。


×


 放課後、燈真たちは一旦家で着替えた後事情を家族に伝え、バスで魅雲湖に向かった。直線距離で六キロ。余裕で歩けるが、時間がかかる。体力を温存する意味でも、三人はバスを選んだ。

 龍燈が出るのは八時頃から。近くの定食屋に入って、夕食を取ることにした。

 仕事なのに酒を飲もうとする光希を止め、時間が来るまで駄弁っていると、十分前になった。


「そろそろ行こうか」


 椿姫が割り勘で集めたお金で支払い、一行は店を出た。

 外は暗いが、その闇を切り払うように電気提灯や街灯が灯っている。妖怪にとっては夜からが本領である。生物種としての特性を持ちつつも、同時に彼らは神秘の存在だ。加えて狐もハクビシンも夜行性であるから、椿姫や光希は夜の方が過ごしやすいだろう。

 人間である燈真も、先祖が妖怪だったこともあってか夜には強い。というか、短時間の睡眠でフルコンディションを維持できるのだ。実に妖怪的である。


「退魔師じゃなきゃ、ナイフ持って歩いてたら捕まってるよな」

「私だって太刀持って歩いてるもんね」

「俺は手ぶらだから気楽だよ。ってか光希、なんだその瓶」

「さっきの店、酒屋も兼ねてて、便所ついでに買ってきた」


 燈真は呆れた。

 さて、光希の腰にはナイフホルダーを入れた大きなポーチが、椿姫は背中に竹刀袋を背負っている。

 燈真は呪具に関しては式符を使うくらいなので、ポーチで事足りる。式符——守護に重きを置いた護符は世間一般にも流通し、神社やお寺でも帰るほか、退魔局が運営しているあやかし堂ストアでも売っているのだ。

 なので式符自体は、素で持ち歩いても問題ない。無論、使い手が退魔師でなければ攻撃系式符の所持は認められないが。


「あれ見て、二人とも」


 椿姫が側の防波堤に寄って、足を止めた。

 湖は時々荒れる。豪雨の時などは氾濫しそうになるし、龍神様が湖底で寝返りを打つと波が立つのだ。だから、周りには防波堤があり、人工浜としてその向こうには砂利を敷いている。近くにはクルー船を出している事務所があり、観光地としても有名だった。

 ゆっくり防波堤から顔を出すと、その砂利浜に光が見えた。


「なんだ花火か。普通じゃん」


 光希が呆れたように鼻を鳴らした。

 燈真は注意深く観察する。だんだん闇に目が慣れ、夜目が利いてきた。


「ゴミ袋が見えねえぞ。あいつらポイ捨てしてく気か」

「龍神様に食われるでしょ、そんなことしたら——」


 その時である。湖の向こうから紅蓮の火が浮かび上がった。若者たちが何か言い合い、慌てたように浜を出て行こうとする。だが、火——龍燈は速い。すぐに湖面から砂利浜に上がった。


「行くわよ!」


 椿姫に言われ、彼女と光希は防波堤から飛び降りた。燈真は妖力で肉体を強化し、それに続く。

 強化術込みで四点着地して衝撃を分散した燈真だが、椿姫は平然と二本足で着地(尻尾で上手く空気を掴んだりしていたが)し、光希に至っては骨折確実のヒーローが大好きな三点着地で降りている。さすが妖怪だ。


「うわっ、なんだよあれ!」「怪火だって!」「来てるって、来てる!」「龍神なんて創作だろ!?」「助けてっ、助けて!」


 若者はパニック状態である。燈真は龍燈と彼らの間に立ち、構えた——が、炎に打撃なんぞ効くのだろうか。

 いや、相手が龍神ほどの大妖怪であれば、暴力的な解決など悪手だろう。それこそノアの大洪水のようなことが起きかねない。


「りゅ、龍神様」


 燈真は構えを解き、龍燈に語りかける。


「退魔局から来ました、漆宮燈真です。龍燈が見られるという依頼を受けたのですが……彼らのことでお怒りなのですか?」


 三つの龍燈は、まるで相談し合うように身を寄せ合い、それから三つの龍燈は一つに合体した。ぐるぐると渦巻いた火は空中で青く変色し、そして蛇の下半身をもつ美女に化ける。

 頭部には枝分かれした角。目は、赤い。


「いや、良い。妾が火を遣わしたのは、あの程度の餓鬼のためではない。無論、住処を汚され腹を立てていたのは事実だが……目的はお主らだ」


 龍神様は燈真、椿姫、光希をそれぞれ見た。怯えている若者は一睨みされると、汚された——という話を聞いて、慌ててゴミを拾って平身低頭謝り出す。


「良い、次からは片付けて帰れ。して……燈真に、柊の子、それから尾張の子よ」


 ぬう、と顔を燈真に突きつけた。美貌がドアップになるが、そんなことよりも膨大な妖気と神々しさに、単純に生命を脅かされた生き物としてドキドキしてしまう。

 それぞれに顔を近づけた龍神様は、ふっと微笑んだ。


「いやなに……妾とて柊と喧嘩をするのは嫌だからな。お主たちに悪さはせんよ。本題に入ろうか」

「は……はい」


 とぐろを巻く蛇の下半身の上で寝そべった龍神様は、すっと指で己の顎を撫で、


「近いうち、この地に災禍が来たる。妾はそのような気を、水の流れから感じた。嫌な予感だ……だが同時に、新たな水の気配もあった。それが、悪い流れを押し留め、跳ね返す……そんな予感がしたんだ」


 椿姫がおずおずと、


「村に移住してくる者はわずかゆえ、新しい水となると限られますね。それが、燈真でしょうか」

「いかにも。ひと月前か……感じた新しい気配はそれだった。そして、その水をより清廉に鍛え上げるのは周りに集う連中だった。お前たちが、姉弟子と兄弟子だろう?」


 光希が不遜な顔で言う。


「そうだよ。俺と椿姫が燈真の兄姉弟子さ。で、悪い気配って何?」

「恐れ知らずな子よ。悪くない……さて、悪い水というのは……おぞましいものだった。言葉にできぬ」

「そんなもん、それこそ龍神様がぶっ飛ばせば?」

「老いた身で何ができると言うのか。それにな、いつまでも老いた連中が表舞台に立つのはよくないのだ。若者を育てねば、世は悪くなるばかりよ。人間連中には、耳の痛い話やもしれんな」


 燈真はその通りです、と言って頷いた。


「しかし、火に対し拳を打つことなく言葉を選んだのは慧眼だった。勝つかどうかではない。敵かどうかを見抜く力は、大切だ」


 やはり、殴らなかったのは正解だった。椿姫はその場に平伏し、燈真も続いた。


「ありがとうございます、龍神様。そのお言葉、深く受け止めます」

「良い、服が汚れるぞ。……して雷獣の子よ、手にしておるのは酒か?」

「えっ、ああ……」

「恵んでくれぬか。久しぶりに、酒を飲みたい。よかろう?」

「……わかったよ。さすがに龍神様の頼みだもんな」


 光希が酒瓶を渡すと、龍神様はそれを受け取って、光希を抱きしめた。豊かな胸に顔が埋まる。


「うおでっか! 柔らかっ! 水羊羹みずようかんみてえ! ハーブの匂いする!」

「くっくっく、世の男はこれが好きだものなあ。燈真も、景気付けにするか? ぱふぱふとか言うのだろう」

「えっ、あっ……俺は、いいです」


 だって椿姫が太ももをすごい力でつねってくるんで、とは言わない。


「よしよし、伝えるべきことは伝えた。妾以上に現役に任せる柊は語らぬだろうが、聞いてやらんでくれ。あやつなりに、考えがあるのだ」


 龍神様はそう言って、酒と共に火になり、湖に消えた。

 それから燈真たちは震える若者に事情を説明し、帰ってもらった。


「ちなみに光希……胸、どんなだった?」

「極上の乳って感じだったぜ……」

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