ゴヲスト・パレヱド

夢咲ラヰカ

プロローグ

「先生」


 大学の研究室で民俗学教授の樋川了ひかわりょうに声をかけたのは、民俗学部の優秀な生徒である香川孝之かがわたかゆきだった。


「香川君。聞いたぞ、婚約者ができたんだって?」

浮奈うきなですか? ええ。結婚後は婿養子に入ります。香川と呼ばれるのも時間の問題ですね」

漆宮しのみや君、なんてな。ハハ、気が早いか。それでどうした?」

「おかしな質問であることは承知の上ですし、すごく個人的なことなのですが……よろしいでしょうか?

「ああ、構わないが……」

「先生、人間が妖怪になることは……可能でしょうか?」


 孝之は真顔でそう尋ねた。

 妖怪と人間の和を重んじる彼は、人妖融和の思想に前向きである。だからこそ、その突飛な発言に樋川は疑問を抱いた。


「なぜ、そんなことを」

「いえ……浮奈がそんなことばかり気にしているんです。なんでも漆宮の祖先は妖怪、中でも神に数えられるものだったとかで。ですんで生まれてくる子供のことが心配じゃないかって僕は思うんです。すみません、こんな個人的なことで呼び止めてしまって」

「いや、いいさ。誰かの恩師になれるのならば人生相談くらいお安いご用。私も伊達に五十数年生きてきたわけじゃない」


 白髪混じりの黒髪をいじりながら、樋川は答える。


「そうだね……たとえば吸血鬼。彼らは己の血を他者に与えることで、その力を譲渡できる。プレーンな素体――つまり、人間であれば拒絶反応さえ克服できれば吸血鬼になれる」


 大学構内を歩きながら、樋川はそう述べた。

 民俗学に携わる彼は、同時に妖怪の生態や生物学的構造、性質にも明るい。大学の妖怪生物学教授とは飲み仲間であるというのは有名である。


「香川君と漆宮君の子供は、おそらく受精した段階でそのが起こるだろう。生物学上人間として生まれるか、妖怪として生まれるかというね。ただ……」

「妖怪の方が生物種としては圧倒的に上ですから、十中八九妖怪になる、ですか?」

「そうだ。人間として生まれる確率は数万分の一だろうな。まあ、妖怪と言ってもベースは人間だ。ちょっと力が強かったりするかもしれんが、接し方は変わらんよ。子育てのコツは根気だ。奥さんは腹を抱え、旦那は頭を抱え……子育てなんぞは、古今東西どこもそんなものさ。私も娘にはひどく手を焼いた」


 大学の敷地を出ると、そこは日本であることを疑う街並みが広がっていた。

 まるでイギリスのコッツウォルズのような街並みが広がっており、隘路を徒歩で、荷馬車で移動している。

 東北地方の東にある裡辺地方は、様々な妖怪が集う領域である。西洋の妖怪も多く移住し、法形態こそ日本のそれだが、街並みは地域によっては純粋な洋風であったりしている。

 この燦月市さんげつし明白町みょうはくちょうは、その白眉である。


「時に香川君。子供の名前は決まっているかね?」

「はい。男の子でも女の子でも、同じ名前ですが」

「ほう? なんというんだね」

燈真とうま。己が信じる真実ただしい道を照らす燈火ともしびという意味です」


×


 妖怪の村、その夜は賑やかだ。不眠ねむらず妖都ようとと呼ばれるのも、無理からぬことである。

 電気提灯が紐でぶら下がり、仄かな輝きを振り撒く目抜き通り。中を舞う天火と提灯お化け。喋る鳥が、口喧しく囀っている。

 塀の上では尾の裂けた化け猫が毛繕いをして眠りこけ、傘売りの唐傘お化けの少女が可愛らしい笑みで営業トークをかましていた。


 そんな、地方都市ばりに発展した街並みの妖怪だらけのそこに、一人の少年が夜風を切って歩いていた。

 風に踊る灰髪と、青色の目。藍色の羽織に灰黒色の着物と、下は襠高袴まちだかばかま。彼なりのなんらかの正装だろうか。顔立ちは穏やかでありつつも、鬼気迫るものを滲ませている。

 歳は十五、六ほど。大人びた面立ちの中、目元にはまだ子供らしさがあり、少年と大人の間を揺蕩う青春の真っ只中を感じさせた。


 妖怪だらけの村の中、彼は人間である。無論この村に人間が全くいないわけではないが、彼の珍しいところは一ヶ月前に来たばかりの新入りであるということだった。

 この村には観光に来る人間は度々いても、そのまま移住してくるケースは稀だ。まして彼は、観光で来たこともなければ、事前知識があったわけでもない。最近になってこの村について知り、避けられない理由があってここへきた。

 そう、ここへ来たのには、深いわけがある。


 少年の名は漆宮燈真しのみやとうま。前科がつく寸前で釈放されたが、逮捕歴はある。

 そんな彼がなぜここにいるのか、一体何をしたのか。それは――。


「ここか」


 燈真は目の前にあるアパートを見上げた。パトカーが二台停まっており、キープアウトのテープが貼られて警官が通せんぼうしている。

 燈真はまばらに集まっている野次馬を押し退けた。妖怪特有の獣の尻尾が鼻先を擦ったりしてこそばゆい。警官の前までなんとか辿り着いて、無言で退魔師ライセンスを見せた。

 犬妖怪の警官は一つ頷いて、燈真を通す。未成年を事件現場に通すなんて、人間社会では決してあり得ない光景だが――無論それには、いくつか抜け道があった。

 それが退魔師ライセンスである。

 五等級以上の、正式に退魔師として認められるだけのライセンスであれば、呪術師犯罪及び魍魎事件・怪異事件に対する捜査権・逮捕権が許される。


 敷地内に入ると、燈真は深呼吸した。

 滞った妖気特有の澱んだ空気が漂っている。陰の気とも、邪気ともいうもので、これが変質すると瘴気へ形質を変える。

 怪異が起こる前に間に合って良かったと思い、燈真は目的の一〇四号室へ向かった。

 部屋のドアの前には、寸銅体型のブラウンのスーツを着た男がいた。頭部に、カットした鹿の角。目つきが鋭く、口には火をつけていないタバコ。


「五等級退魔師、漆宮です」

「やっと来たか。退魔師ってのはどいつも重役出勤だな」


 嫌味かよ、と思ったが黙っておいた。

 刑事は聞こえよがしにため息をついて、「大川だ」と名乗り、顎でドアをしゃくった。


「この先に魍魎もうりょうを追い込んでいる。俺らのノウハウじゃ、いつ脱走されたっておかしくねえ。本職なんだろ、期待してるぜ」

「わかりました。手早く祓うんで、継続して結界の方をお願いします。市街地に飛び出されたら困りますので」

「ふん。四等級魍魎程度じゃ、退魔局から結界師が派遣されんってのもな」


 いちいち愚痴ばかり言うな、とイラついたが、深呼吸して落ち着ける。

 燈真は拳を二、三回開閉し、ドアを開けた。

 じゅるっ――と、舐め上げてくるような異質な気……瘴気が皮膚を舐った。

 すぐにドアを閉め、燈真は軽く肩を回し、妖力を練る。全身に巡った妖力が、体を軽くする。


 燈真の等級は先述の通り五等級。つい数日前このライセンスを貰えたペーペーである。

 リビングに向かうと、一匹の小鬼が妖怪を食っていた。

 ここの住民だろう。狐の尾が一本力なく垂れ、血の海に沈んでいる。体つきからして男性。置かれているローテーブルには、食べかけのコンビニ弁当とスポーツドリンクのペットボトル。

 燈真は目を細め、口を引き締めた。


祓葬開始ばっそうかいし

「おトゥさン『カぁさン』にィチャん――ギィッ!」


 小鬼が飛びかかってきた。上背は一五〇センチほど。やけに細く、簡単に折れそうな手足だがクロスアームで弾き返そうとした腕に、強烈な衝撃が駆け抜けた。

 勢いを後ろに逃し、小鬼を壁に払い除ける。石膏ボードが陥没し、断熱材が剥き出しになった。

 燈真は拳に妖力を集中し、姿勢を崩した小鬼へ向かって右拳を繰り出した。

 ドゴッ、とくぐもった音がして、小鬼の腹が陥没。衝撃波が駆け抜け、コンクリートブロックにヒビが入った。

 手応え。――判断は一瞬。左の拳を打ち出し、すぐさま右。激しい左右のラッシュが叩き込まれ、とうとうコンクリートブロックを粉砕。隣室への大穴を穿つ。

 一五〇ミリのコンクリートは高速ライフル弾が垂直で直撃しても貫通しないほど頑丈だ。それを人力で、拳で砕くなど尋常ではない。

 退魔師が一般的な戦争に動員されない理由がこれだ。彼らは、等級と同時に加速度的に強くなる。最高等級の特等級ともなれば、単独で国力を左右してしまうのだ。戦車なんかならば、容易く破壊できてしまうのである。


「『がガ』かァさん――ぱパ。にィちゃン……」

「家族が待ってる場所に帰れ。ここはお前の居場所じゃない」


 ズタズタに叩きのめされた小鬼にそう言って、燈真は拳を振り上げた。

 迷いを捨て、一瞬で打ち下ろす。頭部へ食い込んだ一撃で、小鬼の魍魎は粉々に霧散し、消滅した。


 瘴気化していた空気が晴れていく。燈真は窓を開け放ち、外気を取り入れた。

 玄関から出ると、警官が敬礼で出迎える。顔には、なんでこんなガキがという表情がありありと浮かんでいる。


「終わりました。詳細の問い合わせは退魔局にお願いします」

「どうせ派手にやったんだろ。音でわかる。ったくお前ら退魔師は仕事が雑なんだよ」


 大川は呆れたようにそう言って、室内に踏み込んだ。そして、「んだこりゃあ」と呆れ果てた感想を漏らすのだった。

 燈真は着物の襟を正し、帰路に着く。

 眠らない魅雲村の喧騒は、どこか懐かしくもあるような、そんな感じがした。

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