前回ストーカー事件について触れた。そして頂いたコメントでその元ジュニアがかなりのハイレベルなジュニアだったことも分かった。どうやら彼は事務所の反対を押し切って自ら辞めたようだ。さぞかしファンは悲しかったことだろう。
今回は、実は今日まで疑問に思っていたことも含め、私がジュニアを辞めた時のことについて触れたいと思う。これまでの記事の中にも一部その当時のことを記述したことがあったが、今回はより詳細に当時のことを振り返ってみたいと思う。皆さんのほとんどは私自身に興味はないかもしれないが、出来ればお付き合い願いたい。
まず、先ほど触れた「疑問」についてだが、このブログも始めてそろそろ1ヶ月になる。その間大勢の方にご来訪頂き、一時は一日1000人を超えるアクセスがあった。また、現役当時の写真も掲載した。にもかかわらず、これまで当時の私を認識していただいたコメントが入ってこない。20年も前の事であるし、当時は今ほどジュニアに対する注目度も高くなかったように思うので、そのあたりを差し引いても、正直納得できない気持ちがある。ここで、改めて私が当時主に出演した仕事を並べて見たいと思う。
・TBS火曜9時ドラマ「年頃家族」宇津井健主演、役どころ宇津井健次男役レギュラー
・ヤンヤン歌うスタジオ内ドラマコーナー「マッチの青春スクランブルPARTⅡ」レギュラー、役どころマッチの同僚社員役。役名は実名のドラマだった。
・たのきんトリオ球場コンサート出演
・シブがき隊コンサート出演(1日)
・田原俊彦宝塚劇場コンサート出演(2日)
・近藤真彦武道館コンサート出演(1日)
・少年隊バックによるレッツゴーヤング出演3回
・芸能人寒中水泳大会出演3回、うち2回はテロップに個人名
・少年隊全国ツアー同行多数、後半はラストにジュニアの名前を一人一人紹介もされた。パンフレットにも名前と写真入で紹介。特に田原俊彦、少年隊のコンサートでは必ず「ジャクソンズメドレー」と言う看板曲があり、そのバックメンバーには選ばれた人間しか参加できなかった。私はそのメドレーに選ばれていた。
ざっと並べてこのくらいである。もちろんエキストラレベルの仕事や細かい仕事は面倒なので省いてある。当時ジュニアの中でこれだけのキャリアを持つものはいなかった。ダンス方面に長けたジュニアはダンスばかり、ドラマに出ているのはコンサートにはあまり出ない、これが当時の状況だった。特に、ドラマとコンサート両面で活躍できていたのは当時私一人だった。一緒にツアーに回った中でトップランクの柳沢や正木たちでさえもドラマには出ていなかったし、いわゆる江端兄弟のどちらかが出演した「毎度お騒がせします」はその後のことだから、状況的に私自身ステップアップに対して確実に手ごたえを感じていた。「自分のランクはイーグルスレベルまで追いついた」そう信じていた。
後にも繋がるが、今にして思えばそう思っていることこそがまさに慢心なのである。まさに若さから来る慢心で、ジャニーさんともたまに文句をいわれることはあったにせよ、例えばヤンヤンのレギュラー半年間の仕事は合宿所でジャニーさんに「テレビの仕事が欲しい」といったらその場で出演が決まったほどだったからジャニーさんとの仲も決して険悪ではなかった。この状況で、若い私に慢心するな、と言うのは無理な話だった。また、ありうるとすれば私に忠告してくれたであろう父とは両親の離婚後当然別居状態だったので、私は「自分の力でここまで来たんだ、ジャニーさん以外の誰にも口を挟ませるものじゃない」と自信満々だった。
学校もすでに転校を繰り返していた。有名私立中学から都立高校へ、都立高校から夜間高校へと仕事中心にしやすい環境を求めていった。学歴なんかもはや不必要だとさえ思っていた。今でこそジャニーズの連中も大学に通ったりもしているが、当時はそんな風潮はなかった。ジャニーさん自体が学校なんかどうでもいい、と言うスタンスでさえあったからだ。それが証拠に、SMAP以前の現在までのスター達の中で大学を出ている人間が何人いるだろうか。ほとんどいないはずである。もちろんジュニアであってもそうだった。私は夜間高校でさえ出席日数が危なかったのだから。
だが、運命はたったの一言の言葉でまっさかさまに落ちていった。私はヤンヤンのドラマの撮影が終わり、その後も続けて今度は少年隊主演のドラマコーナーに出演することが決まっていた。それと同時期に、少年隊のバックのメンバーをグループ化する案がジャニーさんから出てきた。初めは「ついに来た!」と思ったが、コンセプトなどを聞いているうちに私の目指していた方向性とかなりの開きを感じた。私のイメージはSMAPと少年隊の中間くらいのイメージのグループだったが、当時ジャニーさんは和風ロックの方向性に未来を託していたようだった。忍者、光GENJI、平家派などはまさにその路線だろう。私は強い違和感を覚えた。「自分のやりたいのはそんなんじゃない」
そして、ついにそのときは来た。私はジャニーさんに直接「コンサートを降りてドラマ系に絞ってピンでやって行きたい」正直賛成してくれると信じて疑っていなかった。今で言えば滝沢君のような方向性でやっていこうと思っていた。
ところが…
ジャニーさんは烈火のごとく怒り出した。「何を馬鹿なことを言ってるんだ!」ほとんど一方的に電話を切られた。完全に予想外だった。だが、その時点ではそれほど深刻に捕らえていなかった。
それが真実味を帯びたのは、すでに決まって台本さえ出来ていたヤンヤンのドラマの仕事を突然下ろされてからだった。プロデューサーにかけあっても「ジャニーさんに考えがあるみたいだから」と取り合ってもらえなかった。
ようやく、背筋に寒気が走った。「まさか…?」ヤンヤンを落とされたのは確かに痛手だが、まだコンサートが残っている。よもやそれまで今になって取り上げるなんてことは想像できなかった。
しかし、それ以来何の仕事もパッタリと来なくなった。ジャニーさんからの電話もまったく来ない。ようやく自分のしたことに重大さを覚えたその時、事務所の自分担当デスクから連絡が入った。
「ジャニーさん怒らせたでしょう?早く謝ったほうがいいよ、今ならきっと許してくれるから」
しかし、私はすでに逆に恐怖におびえていた。ジャニーさんはジュニアに対しては気に入ればどんどん用いるが気に入らなくなったら容赦なく切り捨てることを良く知っていたからである。
「とんでもないことをしてしまった」
もはや今更何を言い訳しても、たとえ平謝りしても状況が元に戻るとは到底思えなかった。これまで積み上げてきたものが一瞬にして足元から崩れ去っていくのを覚えた。
事務所はとにかく一刻も早く謝るように助言してくれた。だが私は電話できなかった。確かに怖かったのも事実である。しかし、さらに足かせになったのは、高校のことである。先も述べたように、夜間高校すらまともに出席できていない状態だった。それが1年生や2年生だったら考えた末学校よりも仕事に重きを置いて謝っていたかもしれない。だが私はすでに3年生だった。夜間高校は4年制である。今からだったら、猛勉強すれば大学にいけるかもしれない、しかも、運良く大学付属の高校だったので推薦と言う方法も残っている。しかし、私はそこでも若さが出ていた。私は推薦と言う方法が嫌いだった。しかも当時の私の成績は35人中32番。たとえ推薦を貰ったとしても昼間部には行けない。夜間大学だけだった。私は仕事をするために夜間に来たのであって、仕事をやめるのであれば夜間には通いたくなかった。普通の大学生になりたかった。その上、自分の道は自力でこじ開ける、それが信条だった。だから、これまでまったく勉強から離れていたが、今からなら勉強すれば普通の人生に戻れる、そのイメージが心に大きくのしかかった。
どれほど悩み、あらゆるケースを考え抜いたことだろうか。最終的に私が選んだのは、「学校」だった。タイミング的にも、今ここで学校を取らなければ元の生活に戻れない(本来はエスカレータ式で大学にいける学校に通っていたのだから)と判断したからだ。
私は謝れば事務所には残れていたかもしれない。しかし、スター街道からは大きく後退してしまったと感じていた。優秀な後輩はいくらでも入ってくる。そもそもジャニーさんの機嫌を直す自信がなかった。私はスターになるためにジャニーズに入ったのであって、スターになれないのであればジャニーズは私にとっても存在価値がないのである。ジャニーズであっても窓際族になるのはプライドが許さなかった。
ものすごく悔しかったし、芸能界の冷酷さを心底感じた。しかし、これも今になって思えば私がやはり自滅したのである。ジャニーさんが悪いわけではこれっぽっちもない。むしろ、今からでも天狗になっていた自分の発言を謝れるものなら本当にお詫びしたい。完全に自分の未熟さから来た没落なのである。私は浅はかだった。だから私には、どんなに割り切っても芸能界への憧れが立ち消えることがない。入った時だって可能性なんてないといってよかったのが入れたのだ。今の私に二度とチャンスが来ないと言い切れることはない。しかし、現実は維持しなければならない。生きていくために、働かなければならない。
結局その後私は運良くストレートで大学に入れたが、1年で退学し1年間アメリカに留学する。そして2年ほどあれこれバイトなどしていたが、英語の教師を目指し再び24歳で大学に入り、教員免許を取得した。残念ながら教師にはなれなかったが、やはり大学を出たのは大きかった。その後今に至るまで、いくつかの転職はしたものの社会人としてやっていける地盤は手に入れられた。そして今は、MCPとCCNAというコンピューター系の資格を取るために、OAスクールに通いながら仕事をしている。
長い恥話になったが、やはり今に至っても情けないが未練がどうしても残る。辞めた判断自体に後悔はないが、そのきっかけそのものには今でも悔やんでも悔やみきれない。
今も、自問自答の日々は続いている。
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今回は、実は今日まで疑問に思っていたことも含め、私がジュニアを辞めた時のことについて触れたいと思う。これまでの記事の中にも一部その当時のことを記述したことがあったが、今回はより詳細に当時のことを振り返ってみたいと思う。皆さんのほとんどは私自身に興味はないかもしれないが、出来ればお付き合い願いたい。
まず、先ほど触れた「疑問」についてだが、このブログも始めてそろそろ1ヶ月になる。その間大勢の方にご来訪頂き、一時は一日1000人を超えるアクセスがあった。また、現役当時の写真も掲載した。にもかかわらず、これまで当時の私を認識していただいたコメントが入ってこない。20年も前の事であるし、当時は今ほどジュニアに対する注目度も高くなかったように思うので、そのあたりを差し引いても、正直納得できない気持ちがある。ここで、改めて私が当時主に出演した仕事を並べて見たいと思う。
・TBS火曜9時ドラマ「年頃家族」宇津井健主演、役どころ宇津井健次男役レギュラー
・ヤンヤン歌うスタジオ内ドラマコーナー「マッチの青春スクランブルPARTⅡ」レギュラー、役どころマッチの同僚社員役。役名は実名のドラマだった。
・たのきんトリオ球場コンサート出演
・シブがき隊コンサート出演(1日)
・田原俊彦宝塚劇場コンサート出演(2日)
・近藤真彦武道館コンサート出演(1日)
・少年隊バックによるレッツゴーヤング出演3回
・芸能人寒中水泳大会出演3回、うち2回はテロップに個人名
・少年隊全国ツアー同行多数、後半はラストにジュニアの名前を一人一人紹介もされた。パンフレットにも名前と写真入で紹介。特に田原俊彦、少年隊のコンサートでは必ず「ジャクソンズメドレー」と言う看板曲があり、そのバックメンバーには選ばれた人間しか参加できなかった。私はそのメドレーに選ばれていた。
ざっと並べてこのくらいである。もちろんエキストラレベルの仕事や細かい仕事は面倒なので省いてある。当時ジュニアの中でこれだけのキャリアを持つものはいなかった。ダンス方面に長けたジュニアはダンスばかり、ドラマに出ているのはコンサートにはあまり出ない、これが当時の状況だった。特に、ドラマとコンサート両面で活躍できていたのは当時私一人だった。一緒にツアーに回った中でトップランクの柳沢や正木たちでさえもドラマには出ていなかったし、いわゆる江端兄弟のどちらかが出演した「毎度お騒がせします」はその後のことだから、状況的に私自身ステップアップに対して確実に手ごたえを感じていた。「自分のランクはイーグルスレベルまで追いついた」そう信じていた。
後にも繋がるが、今にして思えばそう思っていることこそがまさに慢心なのである。まさに若さから来る慢心で、ジャニーさんともたまに文句をいわれることはあったにせよ、例えばヤンヤンのレギュラー半年間の仕事は合宿所でジャニーさんに「テレビの仕事が欲しい」といったらその場で出演が決まったほどだったからジャニーさんとの仲も決して険悪ではなかった。この状況で、若い私に慢心するな、と言うのは無理な話だった。また、ありうるとすれば私に忠告してくれたであろう父とは両親の離婚後当然別居状態だったので、私は「自分の力でここまで来たんだ、ジャニーさん以外の誰にも口を挟ませるものじゃない」と自信満々だった。
学校もすでに転校を繰り返していた。有名私立中学から都立高校へ、都立高校から夜間高校へと仕事中心にしやすい環境を求めていった。学歴なんかもはや不必要だとさえ思っていた。今でこそジャニーズの連中も大学に通ったりもしているが、当時はそんな風潮はなかった。ジャニーさん自体が学校なんかどうでもいい、と言うスタンスでさえあったからだ。それが証拠に、SMAP以前の現在までのスター達の中で大学を出ている人間が何人いるだろうか。ほとんどいないはずである。もちろんジュニアであってもそうだった。私は夜間高校でさえ出席日数が危なかったのだから。
だが、運命はたったの一言の言葉でまっさかさまに落ちていった。私はヤンヤンのドラマの撮影が終わり、その後も続けて今度は少年隊主演のドラマコーナーに出演することが決まっていた。それと同時期に、少年隊のバックのメンバーをグループ化する案がジャニーさんから出てきた。初めは「ついに来た!」と思ったが、コンセプトなどを聞いているうちに私の目指していた方向性とかなりの開きを感じた。私のイメージはSMAPと少年隊の中間くらいのイメージのグループだったが、当時ジャニーさんは和風ロックの方向性に未来を託していたようだった。忍者、光GENJI、平家派などはまさにその路線だろう。私は強い違和感を覚えた。「自分のやりたいのはそんなんじゃない」
そして、ついにそのときは来た。私はジャニーさんに直接「コンサートを降りてドラマ系に絞ってピンでやって行きたい」正直賛成してくれると信じて疑っていなかった。今で言えば滝沢君のような方向性でやっていこうと思っていた。
ところが…
ジャニーさんは烈火のごとく怒り出した。「何を馬鹿なことを言ってるんだ!」ほとんど一方的に電話を切られた。完全に予想外だった。だが、その時点ではそれほど深刻に捕らえていなかった。
それが真実味を帯びたのは、すでに決まって台本さえ出来ていたヤンヤンのドラマの仕事を突然下ろされてからだった。プロデューサーにかけあっても「ジャニーさんに考えがあるみたいだから」と取り合ってもらえなかった。
ようやく、背筋に寒気が走った。「まさか…?」ヤンヤンを落とされたのは確かに痛手だが、まだコンサートが残っている。よもやそれまで今になって取り上げるなんてことは想像できなかった。
しかし、それ以来何の仕事もパッタリと来なくなった。ジャニーさんからの電話もまったく来ない。ようやく自分のしたことに重大さを覚えたその時、事務所の自分担当デスクから連絡が入った。
「ジャニーさん怒らせたでしょう?早く謝ったほうがいいよ、今ならきっと許してくれるから」
しかし、私はすでに逆に恐怖におびえていた。ジャニーさんはジュニアに対しては気に入ればどんどん用いるが気に入らなくなったら容赦なく切り捨てることを良く知っていたからである。
「とんでもないことをしてしまった」
もはや今更何を言い訳しても、たとえ平謝りしても状況が元に戻るとは到底思えなかった。これまで積み上げてきたものが一瞬にして足元から崩れ去っていくのを覚えた。
事務所はとにかく一刻も早く謝るように助言してくれた。だが私は電話できなかった。確かに怖かったのも事実である。しかし、さらに足かせになったのは、高校のことである。先も述べたように、夜間高校すらまともに出席できていない状態だった。それが1年生や2年生だったら考えた末学校よりも仕事に重きを置いて謝っていたかもしれない。だが私はすでに3年生だった。夜間高校は4年制である。今からだったら、猛勉強すれば大学にいけるかもしれない、しかも、運良く大学付属の高校だったので推薦と言う方法も残っている。しかし、私はそこでも若さが出ていた。私は推薦と言う方法が嫌いだった。しかも当時の私の成績は35人中32番。たとえ推薦を貰ったとしても昼間部には行けない。夜間大学だけだった。私は仕事をするために夜間に来たのであって、仕事をやめるのであれば夜間には通いたくなかった。普通の大学生になりたかった。その上、自分の道は自力でこじ開ける、それが信条だった。だから、これまでまったく勉強から離れていたが、今からなら勉強すれば普通の人生に戻れる、そのイメージが心に大きくのしかかった。
どれほど悩み、あらゆるケースを考え抜いたことだろうか。最終的に私が選んだのは、「学校」だった。タイミング的にも、今ここで学校を取らなければ元の生活に戻れない(本来はエスカレータ式で大学にいける学校に通っていたのだから)と判断したからだ。
私は謝れば事務所には残れていたかもしれない。しかし、スター街道からは大きく後退してしまったと感じていた。優秀な後輩はいくらでも入ってくる。そもそもジャニーさんの機嫌を直す自信がなかった。私はスターになるためにジャニーズに入ったのであって、スターになれないのであればジャニーズは私にとっても存在価値がないのである。ジャニーズであっても窓際族になるのはプライドが許さなかった。
ものすごく悔しかったし、芸能界の冷酷さを心底感じた。しかし、これも今になって思えば私がやはり自滅したのである。ジャニーさんが悪いわけではこれっぽっちもない。むしろ、今からでも天狗になっていた自分の発言を謝れるものなら本当にお詫びしたい。完全に自分の未熟さから来た没落なのである。私は浅はかだった。だから私には、どんなに割り切っても芸能界への憧れが立ち消えることがない。入った時だって可能性なんてないといってよかったのが入れたのだ。今の私に二度とチャンスが来ないと言い切れることはない。しかし、現実は維持しなければならない。生きていくために、働かなければならない。
結局その後私は運良くストレートで大学に入れたが、1年で退学し1年間アメリカに留学する。そして2年ほどあれこれバイトなどしていたが、英語の教師を目指し再び24歳で大学に入り、教員免許を取得した。残念ながら教師にはなれなかったが、やはり大学を出たのは大きかった。その後今に至るまで、いくつかの転職はしたものの社会人としてやっていける地盤は手に入れられた。そして今は、MCPとCCNAというコンピューター系の資格を取るために、OAスクールに通いながら仕事をしている。
長い恥話になったが、やはり今に至っても情けないが未練がどうしても残る。辞めた判断自体に後悔はないが、そのきっかけそのものには今でも悔やんでも悔やみきれない。
今も、自問自答の日々は続いている。
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